『勝鬨橋』は、紀元前660年に「神武天皇」が初代天皇として即位してから数えて2600年の節目となる1940年(昭和15年)...
続きを読むにアジアで初めて開催される予定であった「第12回 オリンピック競技大会」(東京オリンピック)とともに同じくアジアで初めて開催される予定であった「紀元2600年記念 日本万国博覧会」(東京万博)のメイン会場となる当時の東京市月島4号埋立地(現:晴海エリア)へ通じるメインゲートとして現在の「晴海通り」(都道304号)の「築地六丁目」交差点(中央区築地6丁目)から「月島第二幼少前」交差点(中央区勝どき1丁目)の区間を流れる「隅田川」河口に建設された橋梁です。
ちなみに「第12回 オリンピック競技大会」および「紀元2600年記念 日本万国博覧会」は、「日中戦争(支那事変)」突入をきっかけに当時の軍部からの開催反対意見が強まり開催が中止となっています。
『勝鬨橋』の概要については、橋の両端部分を「タイドアーチ橋」(支間長:86メートル)と呼ばれる固定構造として、橋の中央部分が「隅田川」を航行する船舶が橋下を通航する際に橋桁が”ハの字型”となるように両側に跳ね上げる「双葉跳開橋」(可動支間長:51.6メートル、可動部跳開全開角度:70度)と呼ばれる可動構造で構成される全長が246メートル(幅員:22メートル)、橋梁総重量8,480トン、橋台・橋脚部分が鉄筋コンクリート造となっています。
また国家的イベントの開催に向けた主要関連施設であった『勝鬨橋』は、日本の技術力を誇示するための建設プロジェクトであり、欧米からの技術者が参画することなく計画が進められ日本人技術者による設計・施工のもと当時の最先端技術を駆使して1933年(昭和8年)の工事着工から「日中戦争」突入など時代が急変し労働力不足および資材調達が困難となる中で約7年間の歳月をかけて1940年(昭和15年)に完成しています。
『勝鬨橋』の完成当時は、国内最大規模の可動式橋梁として”東洋一の可動橋”と呼ばれており1日に5回の跳開が実施されていますが、船舶の通航量が減少するとともに道路交通量が著しく増大する時代の流れの中で跳開回数も減少し1970年(昭和45年)に跳開を停止しています。
2007年(平成19年)になると国内の橋梁技術史上価値の高い橋梁であると評価され道路橋としては初となる国の「重要文化財(建造物)」に「隅田川」に架かる「清洲橋」・「永代橋」とともに『勝鬨橋』が指定されています。
さらに2007年(平成19年)になると跳開部分の機械設備が歴史的景観を構成する設備として機械技術面で歴史的意義があるとして日本の工学関係最初の学会となる「日本機械学会」により『勝鬨橋』が「機械遺産」に認定されています。
今回は、平日の午後に「築地」エリアを訪れた際に少し時間に余裕があったので久しぶりに『勝鬨橋』を写真撮影をしながら徒歩でわたり、幅員22メートル・長さ25.8メートルの路盤を跳開していた当時の様子を想像しながら改めて技術力の高さを実感するとともに完成してから跳開を停止するまでの約30年間で跳開に関する事故が1度も発生していないことにも驚きを感じました。
そのほか築地側の橋のたもとにかつての変電所を改装して2005年(平成17年)にオープンした「かちどき橋の資料館」があることを初めて知りましたが、ちょうど閉館日で入館できなかったのが残念でした。
「かちどき橋の資料館」では、定期的に橋梁設備の橋脚内見学ツアーが実施されているとのことなので、機会があれば見学ツアーにも参加しながら資料館に入館してみたいと思います。
さらに1998年(平成10年)から実施されている『勝鬨橋』の夜間ライトアップの景観も写真撮影してみたいと思います。
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投稿日:2021/10/30