2017/05/02 - 2017/05/02
583位(同エリア902件中)
むしころさん
2日目
今日は四国霊場 1番から3番まで行ってみた。
- 旅行の満足度
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
9:46
JRで徳島から坂東へ 20分くらい ¥260 -
駅から徒歩で10分ほどで
四国霊場1番札所 霊山寺(りょうぜんじ)に到着
右側に駐車場と納経所、お遍路商品が売ってる建物があります。第1番札所霊山寺 寺・神社・教会
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近隣の案内マップ
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山門で一礼
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竺和山 (じくわさん)って書いてある
でも竹冠の下、二じゃなくて一になってる。
昔の漢字なのかなあ??? -
4番まで行くと駅が近くにない
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早速 お遍路用の朱印帳を買った(何種類かあって普通のより大きい。B5くらい。値段は2000円から3800円くらいだった。)
そして本堂をお参り
朱印帳買ったときにお遍路のお参りの仕方って言う冊子ももらえて、それによると
一礼してから何種類かお経を唱えます(冊子にお経も載ってた)
本堂の跡 大師堂もお参りしてこちらもお経を唱えます。
・・・これはお参りにも時間がかかるな。 -
歩いて20分くらいで次のお寺、極楽寺に到着。
山門。第2番札所極楽寺 寺・神社・教会
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立派な木だ!!
弘法大師が御自ら植えたといわれているそうです。
・・・そうなると樹齢1000年以上だ。
木には紅白の縄がかけてあった
長生きしたい人はこれを握ってください。 -
本堂
御本尊は阿弥陀如来さま
御真言は おん あみりた ていぜい からうん です -
徒歩40分
第三番札所 金泉寺
こちら仁王門です。金泉寺 寺・神社・教会
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車で来ている人が多いようだった。
聖武天皇の勅願で天平年間(729~749)に建立され、最初は金光明寺と呼ばれていたのですが、後に弘法大師がこの地を訪れた際に地元の人が水不足で困っていたため井戸を掘ったところ、水がどんどん湧き出て来て、大師は「すばらしい」とお堂を建てて、お寺の名前を金泉寺と改称したそうです。
今も境内にそのいわれのある井戸があります。顔がはっきり映ると長寿だそうだ。
覗いてみたら・・・・何にも見えなかった 笑
帰りに納経所でご朱印いただいて、
歩き遍路のガイドブックもくださいました。これは便利そうだ。 -
11時30分くらいに駅に着いた。次の電車が特急で11:47だった。
駅でお昼ご飯のパン食べて時間つぶし・・・。
JR板野駅から高松駅へ。1時間5分で料金は¥2790
ホテルにお荷物置いて高松城跡へ!!
駅のすぐそばにある玉藻公園が城跡です。
立派な石垣に囲まれております。
西入り口から入りました。入園料200円です。史跡高松城跡(玉藻公園) 公園・植物園
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入り口からすぐのところは二の丸跡です。
まつぼっくりを集めているらしい。落ちてたので早速入れておいた。
ちなみに高松城は秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正(いこまちかまさ)が天正16年(1588)に築城を開始しました。
縄張りをしたのは諸説あって藤堂高虎・黒田孝高・細川忠興などが考えられているようです。(自分は高虎だと思う!←個人的な希望)
生駒氏は4代54年続いたのですが、お家騒動により秋田に飛ばされてしまい(徳川の陰謀か?!)寛永19年(1642)に松平頼重(水戸光圀の兄)が入りました。以後明治2年まで松平氏の居城でした。 -
二の丸から蛸橋を渡ると本丸と天守閣跡へ行けます。面白いつくりだな。
この橋を落とすことで本丸に行けなくなります。
この橋は築城当時からあったようで、「らんかん橋」と書かれていて屋根はありませんでした。
文政6年(1823)の絵図から屋根付になっていて江戸時代に改修されたと考えられます。
現在の橋は明治17年に架け替えられたもので、大正期に橋脚が木製から石製に替えられていることが判明しているそうです。 -
橋の修理記があった
松平時代には20年毎に橋の架け替えをしていたらしい。 -
天守台
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本丸のところにある石垣だ
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天守台
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すぐそばに海
正面やや左側に海水を取り込む水門があります。 -
松平頼繁の「より」の字は本当は賴って書くみたいですが文字化けしそうだから頼にしておきます。
現在、外堀は埋め立てられてしまっていてお城の北側も埋め立てられて海がちょっと離れたようだ。
ちなみに高松城の別名、「玉藻城」の名前の由来は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因んでこの辺りの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるそうです。 -
礎石が田んぼの字で置いてあってそれぞれの真ん中に柱が一本でてる造り・・・
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今まで見たお城は割と満遍なく石が置いてあったと思う。
田んぼの字と柱四本って、珍しくないのかな??? -
二の丸に一旦戻って今度は東側にある披雲閣庭園へ。
水門の上を通る。
ここにある説明によると、高松城は日本三大水城の一つなんだそうです。
お堀に海水が入ってくるので黒鯛とか鱸が泳いでることもあるらしい! -
三の丸には御殿があったのですが、そこに大正時代になって庭園と建物をつくったらしい。
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北側に月見櫓と水手御門、渡櫓があります
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あれが水手御門
直接海に向かって開きます。
江戸時代の延宝年間に造られたと考えられていますが、調査研究で幕末に一度立て替えられたと考えられています。
藩主がここから小舟で海に出て、沖に停泊している御座船「飛龍丸」に乗り、遊覧を楽しんだり参勤交代に行ったりしたそうです。
全国でも唯一の現存例だそうです。 -
泳法だって・・
どんな泳ぎ方なんだろう、気になる~~~ -
ここの説明によると
渡櫓、月見櫓、水手御門は昭和32年に解体復元したものらしい。 -
櫓を見てから次、庭園へ。
高松だから松が有名?
本当に松の盆栽が有名らしい。 -
庭園のところに陳列館(無料)があってちょっとしたお城の資料がみられました。
歴代城主と墓地のあるお寺が分かりやすく書いてありました。
二代目の生駒一正は関ヶ原の戦いで東軍について活躍
三代目の生駒正俊は正室が藤堂高虎の養女、藤堂高吉の嫡男にの娘が嫁いだりして藤堂高虎と密接な関係をもっていました。 -
生駒家時代のお城の縄張りだ!!
海がすぐ横だ。 -
城の縄張りがよくわかる模型!
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高松松平家と井伊家の関係について記述がありました。
高松松平家と井伊家、さらに会津松平家の三家は将軍家の筆頭家臣として「溜詰」という殿中席を代々継承する格式高いお家だったそうです。
老中とはまた違った役割で、殿中の儀礼での「着座」、将軍家霊廟参詣の先立ち・予参、将軍の名代、老中からの政務の聴取などをしたそうです。 -
桜御門跡を通って桜の馬場
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門の跡
三の丸入り口の櫓門
昭和20年(1945)の空襲で焼失 -
桜の馬場
かつては今の2倍ほどの広さがあったらしい。 -
艮櫓(うしとらやぐら) *旧太鼓櫓跡
月見櫓と同時期に作られたもので、もともと東の丸の県民ホール敷地内にあったのですが昭和40年にここの太鼓櫓跡に移築されたそうです。
屋根に大きな千鳥破風があるのが特徴です。 -
右にあるのが旭門
ここから東側にぬけます
桝形になっています
やや左にあるのが埋門。非常時に脱出するためのものだそうです。
でもこの向こう側って堀になってるから落ちちゃうよ???どうするんだろ。 -
旭門から斜めに橋がかかっています。
後の時代の人がこういう風にしたのかと思っていたら、江戸時代のときからこのように斜めに架けてあったらしいです。
かつては城の南側の桜の馬場の南中ほどに大手門があったらしく、漢文11年(1671)に三の丸に旧披雲閣を建てたときにこれを廃止し、新たに東に橋をかけて旭門からお城に入るようにしたそうです。 -
斜めの橋は江戸時代は木製だったのですが、明治時代に石橋にされたそうです。
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東の丸は今の県民ホールと県立ミュージアムのところらしい。
県立ミュージアムも見学していきました。
弘法大師空海の資料とか高松松平家の資料などなどいろいろあって見ごたえありました。
15時くらいに入って1時間ちょっと見て夕方になったので今日は終了!
ホテルWAKABAに宿泊したのですが、マンガ本が沢山あって部屋で読めるので夜は部屋でごろごろ・・・
明日は平家物語で有名な屋島の戦いのゆかりの地へ行くぞ~~!!
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