2016/05/02 - 2016/05/02
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montsaintmichelさん
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美観地区から一筋北にある本町通りは、格子造りの古町屋が建ち並ぶ一画です。美観地区が観光地化されて土産屋や飲食店に蹂躙されてしまったのに比べ、ここは市民の胃袋を満たす食料品や日用品を扱う昔ながらの商店が軒を連ね、板塀や海鼠壁に「ひやさい」と呼ばれる石畳の路地が続く、生活感溢れる空間です。元々はこちらがメインストリートでした。
ここに建ち並ぶ町屋のひとつの大橋家住宅は、往時の新禄層の屋敷構えをよく伝える倉敷町屋の典型とも言え、現存する建物は1796~99(寛政7~10)年に建設されたものです。白壁に貼り瓦、倉敷格子、倉敷窓など倉敷独特の建築様式を残し、大原美術館を設立した大原家と並ぶ大地主の邸宅は、倉敷の発展を支えた品格をも感じさせ、その美しさは圧巻です。
1978(昭和53)年に、主屋、長屋門、米蔵、内蔵の4棟が重要文化財に指定され、その4年後に敷地も追加指定されています。
住宅内に入り、座敷に上がって見学ができる、倉敷唯一の重要文化財です。
大橋家住宅のオフィシャルHPです。
http://www.ohashi-ke.com/nyukan/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線
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-
長屋門
住宅の屋敷構えは大原家とは大きく異なります。街道に面して長屋を建て、主屋が通りに直接面することなく、前庭を隔てて奥側に主屋を配置したのが特徴です。主要な出入口がその長屋を貫くように造られているため「長屋門」と呼ばれています。江戸時代後期の1796〜98年頃に建造されたものです。
通常の町屋に使用できる門ではなく、倉敷代官所の許可がなければ造ることが許されない門です。大橋家の格の高さと繁栄振ぶりを物語る門と言っても過言ではありません。
入口には、大橋家の家紋「五七桐」入りの暖簾がさりげなく掲げられています。 -
長屋門
まず、門を入った所に椅子が並べられており、そこで大橋家住宅を説明するビデオを視聴します。
振り返ると天井には龍吐水(りゅうとすい)と水籠が掛けられています。現代の消防ポンプに相当する江戸時代後期のものです。 -
主屋
前庭から見る主屋は品格に満ち、何とも趣があります。
主屋は入母屋造、本瓦葺、屋根裏に部屋と厨子を設けた重層の建物が主体となり、東には平屋建ての座敷があります。用材の多くは地方産の松を使い、化粧材は欅や杉を用いて鉋仕上げにし、簡素ですが丁寧に仕上げられた建物です。
2階に見られるのが「倉敷窓」です。採光と換気のため、5ヶ所設けている角柄(つのがら)窓に5本の木地の竪子(たてご)を入れ、内側に引き戸を設けています。また主屋に見られる塗屋造は、外壁を内・外側の両面とし、軒裏や2階正面などを漆喰仕上げとし、耐火性に富む実用的な構造です。
入口の上には、「商売繁盛」や「家内安全」などの年季の入ったお札が置かれています。
また、前庭にはカエルの置物がいくつかあります。恐らく、備前焼の置物なのでしょうね。 -
長屋門
主屋玄関から長屋門を振り返った様子です。 -
主屋玄関 敷居
敷居は、簡単に取り外しができるようになっています。
大八車の出入りができるよう、バリアフリーにできるそうです。 -
土間
主屋1階正面の大きな窓にある格子が「倉敷格子」です。
上下に通る親竪子の間に細い短い桟が3本入っています。上部は採光と換気に優れ、下部は外から見え難く中からは見え易いという特徴があります。格子から洩れる光が風情を湛えています。
通りに面した町家では、祭礼の時には格子を外し、毛氈を敷いて屏風を立てて富を誇示していたようです。
主屋の土間には、昭和の始め頃まで、下段17俵の米俵がピラミッド型に5段に詰まれた列が4列あり、合計300俵の米俵が積まれていたそうです。 -
店の間
倉敷格子窓から室内に届く光にはグラデーションが生じ、優しく繊細な趣が感じられます。
屋号 中嶋屋 大橋家の先祖は、豊臣氏に仕えた近江の佐々木氏という武士の家柄です。ですから家紋も「五七桐紋」を使っています。1615(慶長20)年の大坂夏の陣以後、京都五条大橋の近所に住んでいたことから、大橋と名乗るようになったそうです。
大橋家は、江戸時代後期に塩田や新田の開発で財をなし、綿仲買商人として発展して大地主となりました。また、大原家と共に「新禄」と呼ばれる新興勢力を形成し、倉敷の発展にも貢献しました。
大橋家は、副業として金融業も営んでいたそうです。天保の飢饉の際には金千両を献上し、商家でありながら名字が許され、讃岐の塩田開発の功績で帯刀も許され、1861(文久元)年には倉敷村の庄屋を務め、倉敷発展の中心的役割を担うほどでした。
店の間の机には、それとなくそろばんが置かれ、金融業をしていたことを臭わせています。 -
居間
欧風のダイニングテーブルと椅子、絨毯がしっくり馴染んでいます。 -
台所
竈が5つ並び、従業員が多かったことが窺えます。
一角には土公神(おどくうさん)が祀られています。
奥の土間は、気抜けと採光用に高い天窓が開けられています。 -
台所 流し台
豊島石(砂岩)をくり貫いて加工したシンクが使われています。 -
大座敷
襖や波をあしらった欄間の彫刻、掛け軸などにも注目です。
凝った意匠はありませんが、端正な造りの床や違い棚を施した書院造りの座敷となっています。
店の間の奥には10畳づつの大座敷が続き、北側に細長い庭が面します。この庭は露地庭にもなっており、代官等の正客は土間へは入らず、木戸から直接この庭へ入って座敷で迎えられたそうです。元々下手の座敷しかなかったようですが、幕末には庄屋も務めていたことから、その頃に上手の整った座敷が必要になったようです。 -
坪庭
どの部屋からも庭が眺められるよう、考えられた間取りになっています。
この大橋家の一番の魅力は、2ヶ所に設えてある坪庭です。採光と通風を良くするためにこうした坪庭が設けられています。
また、緑を置く事による癒し効果もあります。 -
書斎
縁伝いに奥へ進むと8畳の書斎が連なります。
丸窓が印象的な数寄屋風の佇まいで、炉はありませんが茶室としても使えそうな趣です。入口と書斎内部の2ヶ所が丸窓です。
こんな素敵な書斎ならずっと居てもいいですね!
主人の私室として明治中期に増築されたものです。 -
坪庭
ちょっとしたスペースに坪庭が設けられています。こうした所に贅と和の美が感じられます。
また、水を湛えた古備前の大甕や樹木の緑も心を和ませてくれます。
2つの坪庭はトイレを挟んで繋がっており、この坪庭によって接客空間と生活空間とに分断させる役目も持たせています。 -
新座敷
桐製の3段の刀箪笥です。
一見すると衣裳箪笥のようにも見えますが、衣裳箪笥と比べると抽斗が浅く、奥行が
なく、横幅が長いのが特徴です。
桐は湿気の侵入を防ぐ性質があり、刀剣や美術品などの保存に適しするそうです。 -
内蔵
新座敷奥にある内蔵です。ここへは当主しか出入りできなかったそうです。この蔵は、元々は類焼を防ぐために別棟として建てられたものですが、後に利便性と防犯を考えて接続されたようです。
内部の床下の中ほどには砂場のような場所があり、そこを掘ると石棺が収められており、その内部には備前焼の壷が安置されていたそうです。徹底的な耐火を意識した結果のようです。
蔵の外には、往時の金庫が展示されています。実際に内蔵で使用されていたもので詳しい年代などは不明だそうです。銀行も無く盗難が多かった時代に財産を守るため、複雑なカラクリを施した錠前などが付けられています。富を象徴するような頑丈な箪笥です。 -
階段
とても急な階段です。
その階段の下にも引き出しや納戸が備えられています。 -
居間 香時計
江戸時代には、時間を計るためにお香や線香が使われ、お香の燃え尽きた長さを見て時の経過を測っていたと言われています。
香時計は、古くは6世紀頃の中国で使われ、日本に伝来した当時のものが正倉院に残されています。また、正倉院の香時計には古代インドの文字が刻まれていることから、インドで作られたものが中国経由で日本に伝わったと考えられています。飛鳥〜平安時代には、朝廷で時間の計測を司っていた「陰陽寮」から発せられる鐘の音を基準に、都にある寺院が香時計に点火して時間を測り、それを基に寺院が鐘を鳴らして時間を庶民に伝えていたのではないかと考えられています。 -
居間 柱時計
仏間のすぐ横にあるレトロな古時計です。でもちょっと変わってます。数字が31まである・・・ということは、カレンダーも兼ねているということです。ゼンマイ仕掛けだそうで、秒針のような針が日付を差すそうです。実際に動いているところが見てみたいです。
当時の家主は珍しモノ好きだったそうです。 -
店の間
柱に吊り下げられているのは、皮製の財布だそうです。 -
米蔵 外壁
海鼠目地瓦張は、平目地瓦張に更に水の侵入を防ぐため、目地に漆喰を盛り上げたもので、その盛り上がり方が海鼠に似ているところからこのような名前が付けられています。 -
米蔵
内蔵と同じく重文の米蔵は、主屋玄関を抜けた左手にあります。
ここには大橋家ゆかりの品々が展示され、中には「紙腔琴(しこうきん=オルゴールの一種)」や犬養木堂(犬養毅)からの手紙の展示などもあります。 -
米蔵
内部は平目地瓦張となっており、土蔵などに耐火と耐久性を持たせるために壁の表面を平らな瓦でタイル張りにしたものです。目地を埋めている漆喰が、瓦面より盛り上がらないようになっています。 -
米蔵
7代目大橋平右衛門氏の時代の写真です。
「1914(大正3)年ごろ、大橋家で使用していた自家用車」とのキャプションがあります。大正時代初期には、すでにこうした自家用車を乗り回していたようです。 -
米蔵
こちらは、1916(大正5)年に購入された自家用車です。
新しいものに興味を抱かれていたそうです。
写真に写っているのが、青年時代の平右衛門氏です。 -
米蔵 江戸時代後期の内裏雛
端午の節句に近いのですが、雛人形が展示されています。
恐らく、通年の展示なのでしょう。 -
米蔵 明治時代中期の内裏雛
時代によって流行りが違ったと聞いたことがありますが、まさに様々です。 -
米蔵 金庫
銀行も無く盗難が多かった時代に、財産を守る為に複雑なからくりを施した鍵などが付けられた頑丈な箪笥で、現在で言えば金庫に当たります。 -
米蔵 金庫
金庫の横には、ガラス越しに「藩札」「銀札」「寛永通宝」が展示されています。
藩札(江戸時代、各藩が独自に領内に発行した紙幣)は兌換保証の紙幣で、藩札の交換対象となる物とその量が藩札に明示されています。一般的には、札使いは銀遣い経済地域である西日本において特に盛んであり、銀との兌換の銀札が最も多かったそうです。白色と青色の札は本物の「藩札」「銀札」です。 -
露地庭
偉い方はここから直接大座敷に上がったそうです。
各部屋からこの庭を望むと一幅の絵のように見えます。
これが贅の極みなのでしょう。
この続きは、青嵐薫風 吉備路逍遥⑪備中松山城(エピローグ)でお届けいたします。
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