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姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」の佇まいは江戸時代そのもののですが、実はこの庭園や建物が造営されたのは1992年のことです。1618年に播磨姫路藩初代藩主 本多忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷等の古地図『姫路侍屋敷図』から発見された遺構の地割りを基に、市制100周年を記念して造園された池泉回遊式の日本庭園です。京都大学 中村一名誉教授が金沢の兼六園や京都の桂離宮などを参考に設計し、当時の雰囲気を少しでも再現できるように材料選びにまで拘り、完成までに3年の歳月を費やした力作です。<br />姫路城の南西に位置し、城を借景に造られた庭園の面積は3.5ha、滝や池のある「御屋敷の庭」や数奇屋建築の茶室「双樹庵」のある「茶の庭」など9つの趣の異なるエリアで構成されています。江戸時代を偲ばせる築地塀や屋敷門、長屋門、渡り廊下で結ばれた活水軒と潮音斎の風情や佇まいが特別史跡地に相応しい歴史的景観を創り出し、時代劇や大河ドラマのロケ地として重宝されているのも頷けます。「大岡越前」、「水戸黄門」、「るろうに剣心」、「暴れん坊将軍」などの撮影が行われています。<br />世界遺産「姫路城」の存在が大きすぎてあまり目立ちませんが、一見の価値のある庭園です。尚、好古園の入場料は大人300円ですが、姫路城(大人1000円)とのセット券なら1040円になり超お得です。<br /><br />園内マップはこちらを参照ください。<br />http://himeji-machishin.jp/ryokka/kokoen/highlight/index.html

芳葩爛漫 播磨紀行 ③好古園(エピローグ)

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2016/04/06 - 2016/04/06

7位(同エリア2152件中)

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」の佇まいは江戸時代そのもののですが、実はこの庭園や建物が造営されたのは1992年のことです。1618年に播磨姫路藩初代藩主 本多忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷等の古地図『姫路侍屋敷図』から発見された遺構の地割りを基に、市制100周年を記念して造園された池泉回遊式の日本庭園です。京都大学 中村一名誉教授が金沢の兼六園や京都の桂離宮などを参考に設計し、当時の雰囲気を少しでも再現できるように材料選びにまで拘り、完成までに3年の歳月を費やした力作です。
姫路城の南西に位置し、城を借景に造られた庭園の面積は3.5ha、滝や池のある「御屋敷の庭」や数奇屋建築の茶室「双樹庵」のある「茶の庭」など9つの趣の異なるエリアで構成されています。江戸時代を偲ばせる築地塀や屋敷門、長屋門、渡り廊下で結ばれた活水軒と潮音斎の風情や佇まいが特別史跡地に相応しい歴史的景観を創り出し、時代劇や大河ドラマのロケ地として重宝されているのも頷けます。「大岡越前」、「水戸黄門」、「るろうに剣心」、「暴れん坊将軍」などの撮影が行われています。
世界遺産「姫路城」の存在が大きすぎてあまり目立ちませんが、一見の価値のある庭園です。尚、好古園の入場料は大人300円ですが、姫路城(大人1000円)とのセット券なら1040円になり超お得です。

園内マップはこちらを参照ください。
http://himeji-machishin.jp/ryokka/kokoen/highlight/index.html

旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 入園口<br />「好古園」の愛称は、藩校「好古堂」に因んで命名されました。<br />江戸時代最後の姫路藩主となった酒井家は、前任地上野国厩橋(群馬県前橋市)において1692(元禄5)年に藩校「好古堂」を開校しました。そして1749(寛延2)年に酒井忠恭が姫路藩へ移封された際、その藩校も姫路城内の大名町東南総社門内の元藩会所跡に移設されました。<br />その後、好古堂は桜町大手門前南側を経て、1842(天保13)年に酒井忠学が現在の好古園入ロ付近に移転拡張しました。この時、寄宿舎を私学校「仁寿山饗」から移築し、演武場などを新築し、藩校の規模を拡充して文武の基礎を固め、文武両道の振興を図りました。<br />入ロに掲げられた扁額は、酒井藩校「好古堂」の督学 松平惇典が後に開いた家塾の塾頭となった結城義聞の子息で元東京大学教授 結城令聞氏の揮毫です。

    入園口
    「好古園」の愛称は、藩校「好古堂」に因んで命名されました。
    江戸時代最後の姫路藩主となった酒井家は、前任地上野国厩橋(群馬県前橋市)において1692(元禄5)年に藩校「好古堂」を開校しました。そして1749(寛延2)年に酒井忠恭が姫路藩へ移封された際、その藩校も姫路城内の大名町東南総社門内の元藩会所跡に移設されました。
    その後、好古堂は桜町大手門前南側を経て、1842(天保13)年に酒井忠学が現在の好古園入ロ付近に移転拡張しました。この時、寄宿舎を私学校「仁寿山饗」から移築し、演武場などを新築し、藩校の規模を拡充して文武の基礎を固め、文武両道の振興を図りました。
    入ロに掲げられた扁額は、酒井藩校「好古堂」の督学 松平惇典が後に開いた家塾の塾頭となった結城義聞の子息で元東京大学教授 結城令聞氏の揮毫です。

  • 屋敷門へのアプローチ<br />冒頭の入口を入ると、稲妻形に曲折した長いアプローチに導かれ、その先にあるのが屋敷門です。<br />花見の季節だけあり、結構混み合っています。

    屋敷門へのアプローチ
    冒頭の入口を入ると、稲妻形に曲折した長いアプローチに導かれ、その先にあるのが屋敷門です。
    花見の季節だけあり、結構混み合っています。

  • 屋敷門<br />庭園内には、築地塀や屋敷門、長屋門、渡り廊下で結んだ「活水軒」「潮音斎」をはじめ、裏千家第15代家元 千宗室氏の設計・監修による本格的な数寄屋建築の茶室「双樹庵」を配しています。<br />この庭園は池や水の流れで結ばれた池泉回遊式庭園ですが、最大の特徴は世界遺産・国宝 姫路城を借景としていることです。姫路城西の丸一帯の豊かな原始林と櫓の姿が相俟って、歴史と自然が調和した優美な景観を創り上げています。<br />整備に先立つ7次に亘る発掘調査で、1618(元和4)年に本多忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷、通路跡等の遺構が確認され、これは酒井家時代の古地図『姫路侍屋敷図』に記されたものとほぼ合致することが判っています。

    屋敷門
    庭園内には、築地塀や屋敷門、長屋門、渡り廊下で結んだ「活水軒」「潮音斎」をはじめ、裏千家第15代家元 千宗室氏の設計・監修による本格的な数寄屋建築の茶室「双樹庵」を配しています。
    この庭園は池や水の流れで結ばれた池泉回遊式庭園ですが、最大の特徴は世界遺産・国宝 姫路城を借景としていることです。姫路城西の丸一帯の豊かな原始林と櫓の姿が相俟って、歴史と自然が調和した優美な景観を創り上げています。
    整備に先立つ7次に亘る発掘調査で、1618(元和4)年に本多忠政が造営した西御屋敷や武家屋敷、通路跡等の遺構が確認され、これは酒井家時代の古地図『姫路侍屋敷図』に記されたものとほぼ合致することが判っています。

  • 屋敷門<br />軒丸瓦には、榊原家の家紋「八本骨源氏車」が使われています。<br />源氏車紋は平安時代の御所車の車輪を図案化したものだそうです。輻とよばれる車輪のスポークの数により、六本骨、八本骨、十二本骨などに分けられます。姫路藩は、城の立派さに反して藩主家は安定せず、歴代藩主の述べ人数では全国一を誇ると言われています。この榊原氏も藩主のひとりです。姫路城の瓦紋が多彩なのは、こうした背景があります。

    屋敷門
    軒丸瓦には、榊原家の家紋「八本骨源氏車」が使われています。
    源氏車紋は平安時代の御所車の車輪を図案化したものだそうです。輻とよばれる車輪のスポークの数により、六本骨、八本骨、十二本骨などに分けられます。姫路藩は、城の立派さに反して藩主家は安定せず、歴代藩主の述べ人数では全国一を誇ると言われています。この榊原氏も藩主のひとりです。姫路城の瓦紋が多彩なのは、こうした背景があります。

  • 御屋敷の庭 活水軒<br />順路に従い最初に入るのは、御屋敷を模した建物の中に姫路名産の焼穴子をメインにしたレストラン「活水軒」が入っている建物です。<br />「活水軒」で珍しいのは、食後に頂けるお茶です。これは「メグスリノキ」から作られた「目薬の木茶」です。効能は目の老化を予防、肝機能の回復だそうですので、漢方薬のような香りと味がする独特の飲み物です。チャノキはツバキ目ツバキ科ツバキ属ですが、メグスリノキはムクロジ目カエデ科カエデ属と全く異なり、お茶の味を想像して飲むと意表を突かれますが、さっぱりとした喉越しのようです。

    御屋敷の庭 活水軒
    順路に従い最初に入るのは、御屋敷を模した建物の中に姫路名産の焼穴子をメインにしたレストラン「活水軒」が入っている建物です。
    「活水軒」で珍しいのは、食後に頂けるお茶です。これは「メグスリノキ」から作られた「目薬の木茶」です。効能は目の老化を予防、肝機能の回復だそうですので、漢方薬のような香りと味がする独特の飲み物です。チャノキはツバキ目ツバキ科ツバキ属ですが、メグスリノキはムクロジ目カエデ科カエデ属と全く異なり、お茶の味を想像して飲むと意表を突かれますが、さっぱりとした喉越しのようです。

  • 御屋敷の庭 渡り廊下<br />活水軒を抜けると、その先に潮音齋とを結ぶ古風な渡り廊下があります。<br />廊下の中央にある曲線部分は「唐傘割工法」で造られ、この庭園のシンボルとも言える見所のひとつです。極めて緩やかに湾曲した曲線ですが、緩い太鼓橋のようになっており、優美な佇まいを見せています。屋根も廊下のプロフィールに沿って起りを設けています。<br />因みに、「大岡越前」のロケで使われた、渡り廊下です。

    御屋敷の庭 渡り廊下
    活水軒を抜けると、その先に潮音齋とを結ぶ古風な渡り廊下があります。
    廊下の中央にある曲線部分は「唐傘割工法」で造られ、この庭園のシンボルとも言える見所のひとつです。極めて緩やかに湾曲した曲線ですが、緩い太鼓橋のようになっており、優美な佇まいを見せています。屋根も廊下のプロフィールに沿って起りを設けています。
    因みに、「大岡越前」のロケで使われた、渡り廊下です。

  • 御屋敷の庭 渡り廊下<br />この廊下を歩く際、少し大げさに歩くと太鼓に似た音の余韻が愉しめます。また、両脇に広がる目が覚めるような眺めは、四季折々の表情を魅せ、絶好の撮影スポットです。視覚、聴覚、触覚の合せ技で迫ってくる素敵な回廊です。

    御屋敷の庭 渡り廊下
    この廊下を歩く際、少し大げさに歩くと太鼓に似た音の余韻が愉しめます。また、両脇に広がる目が覚めるような眺めは、四季折々の表情を魅せ、絶好の撮影スポットです。視覚、聴覚、触覚の合せ技で迫ってくる素敵な回廊です。

  • 御屋敷の庭 渡り廊下<br />渡り廊下をしずしずと進み行くと、そこには渓流が注ぐ別世界が広がり、幽玄の世界に迷い込んだような気分に浸れます。<br />左に涼やかな音を響かせる多段の流れ滝、右に力強く轟く雄滝と大池を垣間見ながら原生林の中を渡っていくのは野趣溢れるおもてなしです。<br />廊下の中央付近で立ち止まり、写真を撮られる方が結構居られます。

    御屋敷の庭 渡り廊下
    渡り廊下をしずしずと進み行くと、そこには渓流が注ぐ別世界が広がり、幽玄の世界に迷い込んだような気分に浸れます。
    左に涼やかな音を響かせる多段の流れ滝、右に力強く轟く雄滝と大池を垣間見ながら原生林の中を渡っていくのは野趣溢れるおもてなしです。
    廊下の中央付近で立ち止まり、写真を撮られる方が結構居られます。

  • 御屋敷の庭 渡り廊下<br />最大幅8mにもおよぶ「階段状水平段落ち流れ滝」には、地元の生野の山中から産した生野石が潤沢に使われています。生野石は、節理に従って層状に割れる板状のものと六方石に近い形状をしたものがありますが、板状のものを厳選し、播州の山中に分け入ったような自然味溢れる滝がイメージされており、圧巻です。<br /><br />好古園は基本的には三脚の使用が認められているのですが、今回は混雑していることもあり、空気を読んで手持ちによるスローシャッターに挑戦です。<br />これでシャッタースピード:1/2.5秒です。しっかり構えないとブレますので、レンズを欄干で保持することをお勧めします。タイマーを使えば、よりベターになると思います。三脚がないからとスローシャッターを諦めないでくださいネ!

    御屋敷の庭 渡り廊下
    最大幅8mにもおよぶ「階段状水平段落ち流れ滝」には、地元の生野の山中から産した生野石が潤沢に使われています。生野石は、節理に従って層状に割れる板状のものと六方石に近い形状をしたものがありますが、板状のものを厳選し、播州の山中に分け入ったような自然味溢れる滝がイメージされており、圧巻です。

    好古園は基本的には三脚の使用が認められているのですが、今回は混雑していることもあり、空気を読んで手持ちによるスローシャッターに挑戦です。
    これでシャッタースピード:1/2.5秒です。しっかり構えないとブレますので、レンズを欄干で保持することをお勧めします。タイマーを使えば、よりベターになると思います。三脚がないからとスローシャッターを諦めないでくださいネ!

  • 御屋敷の庭 渡り廊下<br />廊下の右側に広がる大池の景色です。<br />大池は、ダイナミックに大振りの護岸石組に縁取られています。<br />造園されたのは比較的新しいのですが、最高の庭師によって設計され、日本人でも心和む素敵な空間を演出しています。傍には国宝 姫路城が聳え立ち、江戸時代にタイムスリップした気分になれます。

    御屋敷の庭 渡り廊下
    廊下の右側に広がる大池の景色です。
    大池は、ダイナミックに大振りの護岸石組に縁取られています。
    造園されたのは比較的新しいのですが、最高の庭師によって設計され、日本人でも心和む素敵な空間を演出しています。傍には国宝 姫路城が聳え立ち、江戸時代にタイムスリップした気分になれます。

  • 御屋敷の庭 潮音斎<br />姫路藩主の下屋敷「西御屋敷」跡に造園されたこの庭は、姫山原始林を借景とした池泉回遊式の日本庭園で本園最大の庭です。因みに、西御屋敷は、榊原政岑(まさみね)が吉原から名妓 高尾太夫を身請けして住まわせたことで有名です。<br />外廊下は瀬戸内海をイメージしたという大池に迫り出し、恰幅のいい錦鯉が池に彩りを添え、悠々と泳いでいる姿を欄干越に見ることができます。群れをなす錦鯉は、今まで見た中でも最大級で、誰もが吃驚ポンの大きさです。250匹もの巨鯉は、好古園の贅を凝らしたシンボリックな存在でもあります。<br />因みに、寒い時期、鯉は集団で固まって寒さを凌ぐそうです。どこかのお猿さんたちと同じですね!<br />

    御屋敷の庭 潮音斎
    姫路藩主の下屋敷「西御屋敷」跡に造園されたこの庭は、姫山原始林を借景とした池泉回遊式の日本庭園で本園最大の庭です。因みに、西御屋敷は、榊原政岑(まさみね)が吉原から名妓 高尾太夫を身請けして住まわせたことで有名です。
    外廊下は瀬戸内海をイメージしたという大池に迫り出し、恰幅のいい錦鯉が池に彩りを添え、悠々と泳いでいる姿を欄干越に見ることができます。群れをなす錦鯉は、今まで見た中でも最大級で、誰もが吃驚ポンの大きさです。250匹もの巨鯉は、好古園の贅を凝らしたシンボリックな存在でもあります。
    因みに、寒い時期、鯉は集団で固まって寒さを凌ぐそうです。どこかのお猿さんたちと同じですね!

  • 御屋敷の庭 潮音斎<br />ここには広い観庭台と呼ばれる空間があり、目の前が大池という癒しのロケーションです。<br />潮音斎は、中秋の名月を愛でるのに最良の方向に向けて建ててあり、池の水面に月が映える姿を想像することができます。この点は桂離宮の観月コンセプトを参考に造園されていることが窺えます。そして木々の背後には、姫路城西の丸の櫓も見え隠れしています。<br />左端は州浜を彷彿とさせる瀟洒な雰囲気を漂わせ、日本庭園の落ち着いた趣を湛えています。

    御屋敷の庭 潮音斎
    ここには広い観庭台と呼ばれる空間があり、目の前が大池という癒しのロケーションです。
    潮音斎は、中秋の名月を愛でるのに最良の方向に向けて建ててあり、池の水面に月が映える姿を想像することができます。この点は桂離宮の観月コンセプトを参考に造園されていることが窺えます。そして木々の背後には、姫路城西の丸の櫓も見え隠れしています。
    左端は州浜を彷彿とさせる瀟洒な雰囲気を漂わせ、日本庭園の落ち着いた趣を湛えています。

  • 御屋敷の庭 潮音斎<br />池に迫り出した観庭台からは、姫山原始林を借景に、植栽に覆われた築山から流れ落ちる落差2.5m程の雄滝が眺められます。心地よい音を轟かせた雄滝は、岩に砕けて白い飛沫を立て、深谷幽山の趣に溢れた風情で迫ってきます。<br />実は「潮音斎」という名前は、この雄滝の音を聞いて欲しいという思いで名付けられたそうです。そう言われてみると、雄滝の音が園内の至る所で聞こえていたような気がします。力強さのある独特の響きです。<br />シャッタースピードは、1/13秒です。完全な手持ちでは、ブレない限界に近いと思います。

    御屋敷の庭 潮音斎
    池に迫り出した観庭台からは、姫山原始林を借景に、植栽に覆われた築山から流れ落ちる落差2.5m程の雄滝が眺められます。心地よい音を轟かせた雄滝は、岩に砕けて白い飛沫を立て、深谷幽山の趣に溢れた風情で迫ってきます。
    実は「潮音斎」という名前は、この雄滝の音を聞いて欲しいという思いで名付けられたそうです。そう言われてみると、雄滝の音が園内の至る所で聞こえていたような気がします。力強さのある独特の響きです。
    シャッタースピードは、1/13秒です。完全な手持ちでは、ブレない限界に近いと思います。

  • 御屋敷の庭 潮音斎<br />この庭園を語る時に外せないのが、榊原政岑が高尾太夫を身請けした「榊原騒動」です。<br />姫路藩主 榊原政岑は、信仰心に篤く、城内にあった長壁神社に庶民もゆかた姿で参拝ができる「ゆかた祭」を始めたことでも知られる心豊かな城主でした。しかし、政岑の正室は産後の肥立ちが悪く、突然亡くなってしまいました。能楽や狂言などの賑やかな芸事が好きだっただけに、その落ち込みようは周囲も心配するほどで、何とか気を晴らしてさしあげようと、お抱えの能楽者が政岑を吉原に誘ったのです。しかし、これが運の尽き・・・。『色婦録』にも艶名を謳われた三浦屋の名妓 高尾太夫に一目惚れし、やがて落籍し、姫路に連れ帰って御西屋敷に住まわせました。身請け代は2500両、それまでの遊行費は3000両にも及び、その合計額は家老5人の年収に相当する巨額だったそうです。 <br />しかし、これらの行状が「享保の改革」として倹約を推し進めていた将軍 吉宗の逆鱗に触れ、政岑は糾弾され、やがて29歳の若さで蟄居を命じられました。幸い改易は避けられ、家督は嫡男 正純が継ぐも、雪深い越後高田藩へと転封となりました。<br />転封された政岑は改悛し、歴代藩主の借財に苦しめられるも率先して倹約に励み、新田開墾や灌漑工事を行ない、貧窮した農民を助けるために竹細工の講習会を開いて副業を奨励するなど、政務に励みました。そして、転封の2年後に亡くなっています。政岑に従って共に越後へ下った高尾は、夫の死後に出家し、静かに余生を送ったと言います。

    御屋敷の庭 潮音斎
    この庭園を語る時に外せないのが、榊原政岑が高尾太夫を身請けした「榊原騒動」です。
    姫路藩主 榊原政岑は、信仰心に篤く、城内にあった長壁神社に庶民もゆかた姿で参拝ができる「ゆかた祭」を始めたことでも知られる心豊かな城主でした。しかし、政岑の正室は産後の肥立ちが悪く、突然亡くなってしまいました。能楽や狂言などの賑やかな芸事が好きだっただけに、その落ち込みようは周囲も心配するほどで、何とか気を晴らしてさしあげようと、お抱えの能楽者が政岑を吉原に誘ったのです。しかし、これが運の尽き・・・。『色婦録』にも艶名を謳われた三浦屋の名妓 高尾太夫に一目惚れし、やがて落籍し、姫路に連れ帰って御西屋敷に住まわせました。身請け代は2500両、それまでの遊行費は3000両にも及び、その合計額は家老5人の年収に相当する巨額だったそうです。 
    しかし、これらの行状が「享保の改革」として倹約を推し進めていた将軍 吉宗の逆鱗に触れ、政岑は糾弾され、やがて29歳の若さで蟄居を命じられました。幸い改易は避けられ、家督は嫡男 正純が継ぐも、雪深い越後高田藩へと転封となりました。
    転封された政岑は改悛し、歴代藩主の借財に苦しめられるも率先して倹約に励み、新田開墾や灌漑工事を行ない、貧窮した農民を助けるために竹細工の講習会を開いて副業を奨励するなど、政務に励みました。そして、転封の2年後に亡くなっています。政岑に従って共に越後へ下った高尾は、夫の死後に出家し、静かに余生を送ったと言います。

  • 御屋敷の庭 <br />渡り飛び石の前に置かれたひとつの巨石と岬燈篭がアクセントになっています。<br />このエリアは絶えず雄滝の音が聞こえてくるため、とても癒される空間です。<br />

    御屋敷の庭
    渡り飛び石の前に置かれたひとつの巨石と岬燈篭がアクセントになっています。
    このエリアは絶えず雄滝の音が聞こえてくるため、とても癒される空間です。

  • 御屋敷の庭<br />中島には盆栽を彷彿とさせる松を植えるなど、贅を凝らした造りです。<br />左端には落差の低い雌滝も見られます。

    御屋敷の庭
    中島には盆栽を彷彿とさせる松を植えるなど、贅を凝らした造りです。
    左端には落差の低い雌滝も見られます。

  • 御屋敷の庭<br />池の北辺を回って行くと、「苗の庭」への入口の手前に勧修寺形燈篭が配されています。<br />勧修寺形というのは、京都市山科区にある「勧修寺」の庭にある燈篭を指し、水戸光圀が寄進したと伝わる雪見燈篭です。<br />特徴は、大きくて背の低い火袋と矩形の火口、竿の単調さを防ぐために四角い穴が開けてあります。

    御屋敷の庭
    池の北辺を回って行くと、「苗の庭」への入口の手前に勧修寺形燈篭が配されています。
    勧修寺形というのは、京都市山科区にある「勧修寺」の庭にある燈篭を指し、水戸光圀が寄進したと伝わる雪見燈篭です。
    特徴は、大きくて背の低い火袋と矩形の火口、竿の単調さを防ぐために四角い穴が開けてあります。

  • 苗の庭<br />庭の一部に作業舎があり、園内に移植するまでの苗などを育てている場所と思われます。<br />

    苗の庭
    庭の一部に作業舎があり、園内に移植するまでの苗などを育てている場所と思われます。

  • 苗の庭<br />薄紫色のトキワイカリソウです。清楚な感じの花で、妖精と言われる雰囲気があります。<br />メギ科イカリソウ属の多年草です。本州の日本海側の多雪地帯の林縁など半日陰の場所に生育します。<br />名の由来は、花の形が船の錨に似ていることから命名されました。また、トキワ(常盤)は、葉が冬でも枯れないことが由来です。<br />毎度のことながら、花の形は神のなせる技だと感心いたします。

    苗の庭
    薄紫色のトキワイカリソウです。清楚な感じの花で、妖精と言われる雰囲気があります。
    メギ科イカリソウ属の多年草です。本州の日本海側の多雪地帯の林縁など半日陰の場所に生育します。
    名の由来は、花の形が船の錨に似ていることから命名されました。また、トキワ(常盤)は、葉が冬でも枯れないことが由来です。
    毎度のことながら、花の形は神のなせる技だと感心いたします。

  • 苗の庭<br />白いトキワイカリソウです。<br />メギ科植物は、北半球の温帯に14属約650種が分布しています。日本には7属14種が分布しています。黄色い花を咲かせるメギ(目木、別名コトリトマラズ)、ナンテン、ヒイラギナンテンなどが有名です。

    苗の庭
    白いトキワイカリソウです。
    メギ科植物は、北半球の温帯に14属約650種が分布しています。日本には7属14種が分布しています。黄色い花を咲かせるメギ(目木、別名コトリトマラズ)、ナンテン、ヒイラギナンテンなどが有名です。

  • 苗の庭<br />ゲンペイイカリソウと名札が付けられています。<br />ゲンペイ(源平)を冠するのは、ガク片が赤く、距(きょ)と呼ばれる部分が白っぽいことから、源氏と平家の白と赤の旗色に因む命名と思われます。<br />別名「サンシクヨウソウ(三枝九葉草)」とも言い、これは枝が3本(三枝)あり、それぞれに3枚ずつ葉が付き、全部で9枚(葉)あるところからきてます。

    苗の庭
    ゲンペイイカリソウと名札が付けられています。
    ゲンペイ(源平)を冠するのは、ガク片が赤く、距(きょ)と呼ばれる部分が白っぽいことから、源氏と平家の白と赤の旗色に因む命名と思われます。
    別名「サンシクヨウソウ(三枝九葉草)」とも言い、これは枝が3本(三枝)あり、それぞれに3枚ずつ葉が付き、全部で9枚(葉)あるところからきてます。

  • 苗の庭<br />ヒマラヤユキノシタは、ユキノシタ科ヒマラヤユキノシタ属の多年草植物で、ヒマラヤ山脈周辺(アフガニスタン、パキスタン〜ネパール〜チベット)が原産です。<br />楚々としたユキノシタをイメージすると面を食らいますが、早春のまだ寒さが残る時期にやさしいピンクの花を咲かせるため重宝されます。<br />花言葉は、「深い愛情」「切実な愛(愛情)」「好感」「順応する」など。

    苗の庭
    ヒマラヤユキノシタは、ユキノシタ科ヒマラヤユキノシタ属の多年草植物で、ヒマラヤ山脈周辺(アフガニスタン、パキスタン〜ネパール〜チベット)が原産です。
    楚々としたユキノシタをイメージすると面を食らいますが、早春のまだ寒さが残る時期にやさしいピンクの花を咲かせるため重宝されます。
    花言葉は、「深い愛情」「切実な愛(愛情)」「好感」「順応する」など。

  • 苗の庭<br />出口付近に設けられた竹垣です。<br />作庭古書のひとつに『石組園生八重垣伝』なるものがあり、そこには日本庭園の本質は石組と植栽、垣根だと記されています。実際、日本庭園には多彩な垣根が登場します。特に「庭垣」、「竹垣」、「生垣」のバラエティーには目を瞠るほどです。<br />好古園も各エリア毎に垣根の趣向を変化させており、見所のひとつです。

    苗の庭
    出口付近に設けられた竹垣です。
    作庭古書のひとつに『石組園生八重垣伝』なるものがあり、そこには日本庭園の本質は石組と植栽、垣根だと記されています。実際、日本庭園には多彩な垣根が登場します。特に「庭垣」、「竹垣」、「生垣」のバラエティーには目を瞠るほどです。
    好古園も各エリア毎に垣根の趣向を変化させており、見所のひとつです。

  • 武者だまり<br />苗の庭の門から出た所は、塀に囲まれた広いスペース「武者だまり」になっています。かつては登城する武者が控えていた場所で、好古園から大手門にかけて、0.5haの広さがあったそうです。<br />改めて見てみると武家屋敷の風情そのもので、時代劇のセットに迷い込んだような景色です。

    武者だまり
    苗の庭の門から出た所は、塀に囲まれた広いスペース「武者だまり」になっています。かつては登城する武者が控えていた場所で、好古園から大手門にかけて、0.5haの広さがあったそうです。
    改めて見てみると武家屋敷の風情そのもので、時代劇のセットに迷い込んだような景色です。

  • 路地<br />築地塀がそれぞれに趣の異なる庭を囲む路地は、裃を着けた武士が行き交ってもなんの違和感も無い空間になっています。この辺りは藩主の下屋敷や武家屋敷があった所で、再現されたこの路地は、まるで往時と現在を時空を越えて繋がっているかのようです。<br />

    路地
    築地塀がそれぞれに趣の異なる庭を囲む路地は、裃を着けた武士が行き交ってもなんの違和感も無い空間になっています。この辺りは藩主の下屋敷や武家屋敷があった所で、再現されたこの路地は、まるで往時と現在を時空を越えて繋がっているかのようです。

  • 双樹庵<br />門の直ぐ先に茶室「双樹庵」の玄関があります。<br />茶席料 一席500円(生菓子付き)でお庭を眺めることができます。 <br />(時間10:00〜16:00)

    双樹庵
    門の直ぐ先に茶室「双樹庵」の玄関があります。
    茶席料 一席500円(生菓子付き)でお庭を眺めることができます。
    (時間10:00〜16:00)

  • 双樹庵<br />門の先にある趣き深い延べ段や控え目に植栽された木々が、さりげなく茶室へと誘ってくれます。<br />

    双樹庵
    門の先にある趣き深い延べ段や控え目に植栽された木々が、さりげなく茶室へと誘ってくれます。

  • 双樹庵<br />右側の延べ段の先にある砂利小路は、「茶の庭」へと誘います。<br />

    双樹庵
    右側の延べ段の先にある砂利小路は、「茶の庭」へと誘います。

  • 双樹庵<br />障子と雨戸だけで、硝子戸を設けないという潔い造りです。<br />屋根は瓦葺、銅板一文字の腰葺の入母屋造です。<br /><br />

    双樹庵
    障子と雨戸だけで、硝子戸を設けないという潔い造りです。
    屋根は瓦葺、銅板一文字の腰葺の入母屋造です。

  • 双樹庵<br />裏千家第15代家元 千宗室氏の設計・監修により江戸時代の武家屋敷の茶室を想定し、簡素な日本古来の伝統文化「茶の湯」の中の建築美をコンセプトに設計され、京都の数寄屋大工が技術の粋を傾けた本格的な茶室です。かすかに起りのある屋根がアクセントになっています。<br />天守に礼を尽くすという心の表れから、建物全体だけでなく、各茶室が姫路城天守閣に向けて建てられています。

    双樹庵
    裏千家第15代家元 千宗室氏の設計・監修により江戸時代の武家屋敷の茶室を想定し、簡素な日本古来の伝統文化「茶の湯」の中の建築美をコンセプトに設計され、京都の数寄屋大工が技術の粋を傾けた本格的な茶室です。かすかに起りのある屋根がアクセントになっています。
    天守に礼を尽くすという心の表れから、建物全体だけでなく、各茶室が姫路城天守閣に向けて建てられています。

  • 茶の庭<br />本格的数寄屋建築の茶室「双樹庵」を中心に、玄関前の庭や広間の庭、小間の庭、飛び石、中門、蹲踞、燈篭、腰掛け待合など配し、丹精込めて造られた茶庭となっています。<br /><br />

    茶の庭
    本格的数寄屋建築の茶室「双樹庵」を中心に、玄関前の庭や広間の庭、小間の庭、飛び石、中門、蹲踞、燈篭、腰掛け待合など配し、丹精込めて造られた茶庭となっています。

  • 流れの平庭<br />門の正面には、書院玄関の衝立に代わるかのような「建仁寺垣」が設えられ、アイストップの役割を果たしています。その竹垣を回り込むようにして庭園に足を踏み入れます。<br />緩やかな水の流れのある明るく伸びやかな庭園で、ゆったりとした気分になれ癒されます。流れの岸辺に四阿(あづまや)「流翠亭」が建てられ、春はシダレザクラ、初夏は杜若や花菖蒲、新緑・紅葉と四季を通じて風情が愉しめます。

    流れの平庭
    門の正面には、書院玄関の衝立に代わるかのような「建仁寺垣」が設えられ、アイストップの役割を果たしています。その竹垣を回り込むようにして庭園に足を踏み入れます。
    緩やかな水の流れのある明るく伸びやかな庭園で、ゆったりとした気分になれ癒されます。流れの岸辺に四阿(あづまや)「流翠亭」が建てられ、春はシダレザクラ、初夏は杜若や花菖蒲、新緑・紅葉と四季を通じて風情が愉しめます。

  • 流れの平庭<br />最初に目に止まったのがこの燈篭です。<br />池の中、岸辺寄りに小さな岬燈篭が石の上にさりげなく置かれています。

    流れの平庭
    最初に目に止まったのがこの燈篭です。
    池の中、岸辺寄りに小さな岬燈篭が石の上にさりげなく置かれています。

  • 流れの平庭<br />興味深いのは、護岸石組に縁取られた浅い曲水がこの先にある「夏木の庭」「松の庭」を貫き、蛇行する曲水と小池を軸にして各庭が構成されていることです。<br />3つの庭はそれぞれ趣の異なる垣根で判然と区画分けされています。これは桂離宮の随所に配されたアイストップと同様に、意図的に全体を見渡せないように景色を駒送りにする造園技術のひとつです。

    流れの平庭
    興味深いのは、護岸石組に縁取られた浅い曲水がこの先にある「夏木の庭」「松の庭」を貫き、蛇行する曲水と小池を軸にして各庭が構成されていることです。
    3つの庭はそれぞれ趣の異なる垣根で判然と区画分けされています。これは桂離宮の随所に配されたアイストップと同様に、意図的に全体を見渡せないように景色を駒送りにする造園技術のひとつです。

  • 流れの平庭<br />曲水には、飛び石の渡りが設けられ、軽やかで広がりを遮らないデザインとしています。<br />また、曲水の辺りには、初夏にはホタルの乱舞も見られるそうです。好古園は地下水を利用している関係上、水温が比較的高いこともあり、ホタルの時期が早いそうです。外部で捕獲してきて放流していると思われている方も多いようですが、1993年に放流してからそのまま棲み着き、毎年5月頃から舞い始め、今や季節の風物詩になりつつあるそうです。<br />

    流れの平庭
    曲水には、飛び石の渡りが設けられ、軽やかで広がりを遮らないデザインとしています。
    また、曲水の辺りには、初夏にはホタルの乱舞も見られるそうです。好古園は地下水を利用している関係上、水温が比較的高いこともあり、ホタルの時期が早いそうです。外部で捕獲してきて放流していると思われている方も多いようですが、1993年に放流してからそのまま棲み着き、毎年5月頃から舞い始め、今や季節の風物詩になりつつあるそうです。

  • 夏木の庭<br />夏木(落葉樹)を配し、新緑から紅葉まで季節感溢れる庭園で、四阿「鷺望亭(ろぼうてい)」から姫路城天守閣が望めます。<br />レンギョウとボケの競演です。

    夏木の庭
    夏木(落葉樹)を配し、新緑から紅葉まで季節感溢れる庭園で、四阿「鷺望亭(ろぼうてい)」から姫路城天守閣が望めます。
    レンギョウとボケの競演です。

  • 夏木の庭<br />木陰では碧濃く生した苔や飛び石、垣根が和の情緒を醸します。

    夏木の庭
    木陰では碧濃く生した苔や飛び石、垣根が和の情緒を醸します。

  • 松の庭<br />瀬戸内海地方を代表的するアカマツ林をイメージして造園された庭です。<br />松だけではなく、せせらぎの一画には姫路市の市花であるサギソウが植えられていますので、初夏には目を愉しませてくれることでしょう。<br />

    松の庭
    瀬戸内海地方を代表的するアカマツ林をイメージして造園された庭です。
    松だけではなく、せせらぎの一画には姫路市の市花であるサギソウが植えられていますので、初夏には目を愉しませてくれることでしょう。

  • 松の庭<br />豪快な石組のせいか、瀬戸内海のアカマツ林というよりも荒磯をイメージさせる趣です。<br /><br /><br />

    松の庭
    豪快な石組のせいか、瀬戸内海のアカマツ林というよりも荒磯をイメージさせる趣です。


  • 松の庭<br />重厚な長屋門が松の庭の出入口になります。<br />門の両脇に門番が詰められる典型的な構造になっており、庭園の品格を高めています。

    松の庭
    重厚な長屋門が松の庭の出入口になります。
    門の両脇に門番が詰められる典型的な構造になっており、庭園の品格を高めています。

  • 築山池泉の庭<br />門を潜ると広がる景色と姫路城の眺めが素晴らしく、モミジやクロマツなどが映える典型的な日本庭園です。<br />瓢箪形をした池の中央の細くなった箇所には、大きな石を配した渡り飛び石が設けられています。

    築山池泉の庭
    門を潜ると広がる景色と姫路城の眺めが素晴らしく、モミジやクロマツなどが映える典型的な日本庭園です。
    瓢箪形をした池の中央の細くなった箇所には、大きな石を配した渡り飛び石が設けられています。

  • 築山池泉の庭<br />池の北側に「亀」、南側には「鶴」をイメージした岩島を配するなど、古来からの縁起を表しています。また、池の上に迫り出した茅葺の四阿「臨泉亭(りんせんてい)」が風情を醸し出しています。<br />写真に写っているのが「亀島」と思いますが、「鶴島」の姿は判らずじまいです。

    築山池泉の庭
    池の北側に「亀」、南側には「鶴」をイメージした岩島を配するなど、古来からの縁起を表しています。また、池の上に迫り出した茅葺の四阿「臨泉亭(りんせんてい)」が風情を醸し出しています。
    写真に写っているのが「亀島」と思いますが、「鶴島」の姿は判らずじまいです。

  • 築山池泉の庭<br />目にも鮮やかなミツバツツジの先には、大天守が少しだけ顔を覗かせています。

    築山池泉の庭
    目にも鮮やかなミツバツツジの先には、大天守が少しだけ顔を覗かせています。

  • 花の庭<br />もうシャクナゲが咲いています。<br />江戸時代から親しまれた山野草が植栽された庭園で、中央に四阿「花笠亭(かりゅうてい)」を配しています。その周囲には季節に応じて咲く花が変遷し、季節折々の見頃の花が愉しめる趣向です。<br />ロックガーデンの石は兵庫県北部に産する溶岩系の神鍋石を用いています。<br /><br />

    花の庭
    もうシャクナゲが咲いています。
    江戸時代から親しまれた山野草が植栽された庭園で、中央に四阿「花笠亭(かりゅうてい)」を配しています。その周囲には季節に応じて咲く花が変遷し、季節折々の見頃の花が愉しめる趣向です。
    ロックガーデンの石は兵庫県北部に産する溶岩系の神鍋石を用いています。

  • 花の庭<br />株立ちの「メグスリノキ」が5株あります。西日本などに広く群生しているカエデ科の落葉樹です。<br />司馬遼太郎著『播磨灘物語』には、姫路生まれの知将 黒田官兵衛の祖父 重隆は、メグスリノキから黒田家秘伝の目薬「玲珠膏」を作り、姫路の広峯神社の御師の助けで神社の御札と一緒に売ってもらって財を成し、黒田家再興のきっかけをつくり、やがて播磨の国人になったと記されています。重隆はこの財でもって初めは赤松氏に仕えたのですが、その後主を御着城主の小寺政職に替え、やがて官兵衛の父の職隆が重用され姫路城代になったそうです。<br />その目薬の原材料となったのがこの「メグスリノキ」です。葉ではなく、木の皮を使っていたそうですが、秘伝の目薬だけあって詳細な作り方は伝わっていないそうです。

    花の庭
    株立ちの「メグスリノキ」が5株あります。西日本などに広く群生しているカエデ科の落葉樹です。
    司馬遼太郎著『播磨灘物語』には、姫路生まれの知将 黒田官兵衛の祖父 重隆は、メグスリノキから黒田家秘伝の目薬「玲珠膏」を作り、姫路の広峯神社の御師の助けで神社の御札と一緒に売ってもらって財を成し、黒田家再興のきっかけをつくり、やがて播磨の国人になったと記されています。重隆はこの財でもって初めは赤松氏に仕えたのですが、その後主を御着城主の小寺政職に替え、やがて官兵衛の父の職隆が重用され姫路城代になったそうです。
    その目薬の原材料となったのがこの「メグスリノキ」です。葉ではなく、木の皮を使っていたそうですが、秘伝の目薬だけあって詳細な作り方は伝わっていないそうです。

  • 花の庭<br />庭園に建てられた休憩所は四阿風のものが多いのですが、ここは屋根が花笠の形になっており、「花笠亭」と呼ばれています。<br />

    花の庭
    庭園に建てられた休憩所は四阿風のものが多いのですが、ここは屋根が花笠の形になっており、「花笠亭」と呼ばれています。

  • 花の庭<br />立派なトキワマンサクです。<br />マンサク科の植物の一種で、本州中部以南から九州、台湾、中国南部、インド東北部に分布します。しかし、日本での自生は極めて限定的で、1931年に国内で初めて確認された伊勢神宮宮域林(神宮林)の他、熊本県荒尾市の小岱山、静岡県湖西市神座の3ヶ所でしか確認されていない希少な植物です。<br />花は、リボンのように細長くやや縮れた4枚の花弁で、淡い黄白色をしています。<br />園芸用によく見かけるベニバナトキワマンサクはピンク系の色彩で目立ちますが、トキワマンサクは清楚な感じがし、こうした和の庭に相応しい品格を漂わせています。<br />トキワマンサクの名前は、マンサク科の代表種であるマンサクが落葉樹であることに対し、冬にも葉を落とさない常緑樹であることから「常盤」の名前が付けられたとされています。<br />花言葉は「私から愛したい」「霊感」「おまじない」。こうしたスピリチュアルな花言葉は、アメリカ先住民がマンサクの枝を使って占いをしていたことや、東北地方ではマンサクの花の咲き具合から農作物の作況を占っていたことに因んでいます。

    花の庭
    立派なトキワマンサクです。
    マンサク科の植物の一種で、本州中部以南から九州、台湾、中国南部、インド東北部に分布します。しかし、日本での自生は極めて限定的で、1931年に国内で初めて確認された伊勢神宮宮域林(神宮林)の他、熊本県荒尾市の小岱山、静岡県湖西市神座の3ヶ所でしか確認されていない希少な植物です。
    花は、リボンのように細長くやや縮れた4枚の花弁で、淡い黄白色をしています。
    園芸用によく見かけるベニバナトキワマンサクはピンク系の色彩で目立ちますが、トキワマンサクは清楚な感じがし、こうした和の庭に相応しい品格を漂わせています。
    トキワマンサクの名前は、マンサク科の代表種であるマンサクが落葉樹であることに対し、冬にも葉を落とさない常緑樹であることから「常盤」の名前が付けられたとされています。
    花言葉は「私から愛したい」「霊感」「おまじない」。こうしたスピリチュアルな花言葉は、アメリカ先住民がマンサクの枝を使って占いをしていたことや、東北地方ではマンサクの花の咲き具合から農作物の作況を占っていたことに因んでいます。

  • 竹の庭<br />日本の代表的な植物である15種類の竹類を植栽した庭園で、竹の持つ通直性と庭園を囲む漆喰の築地塀との対比は山水画を彷彿とさせる風景を創り出しています。ここでは曲がりくねった趣のある小路を散策できます。<br />庭の中央には、八角形の和傘をイメージした四阿「聞竹亭(もんちくてい)」を配しています。竹林を渡る風に竹を聴きながら、物思いに耽るにはもってこいの四阿です。

    竹の庭
    日本の代表的な植物である15種類の竹類を植栽した庭園で、竹の持つ通直性と庭園を囲む漆喰の築地塀との対比は山水画を彷彿とさせる風景を創り出しています。ここでは曲がりくねった趣のある小路を散策できます。
    庭の中央には、八角形の和傘をイメージした四阿「聞竹亭(もんちくてい)」を配しています。竹林を渡る風に竹を聴きながら、物思いに耽るにはもってこいの四阿です。

  • 竹の庭<br />風のある日には、竹の葉が風で流され「サラサラ」といったやさしい風流な響きが行きかうことでしょう。<br />世の中でこれほどまで繊細に器用に竹林で情景を演出する技術を持つのは、日本人だけではないでしょうか。

    竹の庭
    風のある日には、竹の葉が風で流され「サラサラ」といったやさしい風流な響きが行きかうことでしょう。
    世の中でこれほどまで繊細に器用に竹林で情景を演出する技術を持つのは、日本人だけではないでしょうか。

  • 竹の庭<br />垣根を通り抜けると忽然と現れる古井戸も、よいアクセントになっています。<br />こうした竹林で憩うことで、改めて竹について考ることができました。<br />「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの 端にわが身はなりぬべらなり」と古今和歌集にも詠まれ、竹特有の丈夫さ、しなやかという特性から、古来より暮らしの道具や工芸品、建材、そして食料として人々の暮らしに寄り添ってきた植物です。<br />竹から連想するものと言えば、「かぐや姫」です。竹から生まれたかぐや姫はスクスクと成長し、僅か3ヶ月で美しい娘に成長したのですが、これは単なるお伽噺ではなく、実際の竹の成長スピードを表しているそうです。事実、竹の成長はとても早く、3ヶ月で20数mの高さがある親竹と同じ高さになり、3年もすれば資源として活用できるそうです。この成長の早さから、竹は資源を枯渇させることなく永続的に活用することができる唯一の天然資源として見直されています。

    竹の庭
    垣根を通り抜けると忽然と現れる古井戸も、よいアクセントになっています。
    こうした竹林で憩うことで、改めて竹について考ることができました。
    「木にもあらず草にもあらぬ竹のよの 端にわが身はなりぬべらなり」と古今和歌集にも詠まれ、竹特有の丈夫さ、しなやかという特性から、古来より暮らしの道具や工芸品、建材、そして食料として人々の暮らしに寄り添ってきた植物です。
    竹から連想するものと言えば、「かぐや姫」です。竹から生まれたかぐや姫はスクスクと成長し、僅か3ヶ月で美しい娘に成長したのですが、これは単なるお伽噺ではなく、実際の竹の成長スピードを表しているそうです。事実、竹の成長はとても早く、3ヶ月で20数mの高さがある親竹と同じ高さになり、3年もすれば資源として活用できるそうです。この成長の早さから、竹は資源を枯渇させることなく永続的に活用することができる唯一の天然資源として見直されています。

  • 竹の庭<br />黒竹(くろちく)と白い築地塀とのコントラストが見事です。<br />黒竹は、中国の黄河流域以南に分布しています。桿は始めは緑色をしていますが、夏を過ぎると徐々に黒くなり、2年程で真っ黒になるようです。<br />竹の種類は、世界に1300種類、日本国内でも600種を越えるそうですから、生育環境を満たして厳選された15種類の竹が植えられていることになります。<br />個々に花々や竹の種類を示す立て札が無いのが、雑念を払ったようで清々しく映ります。(入口付近に現在咲いている花の案内図があります。)

    竹の庭
    黒竹(くろちく)と白い築地塀とのコントラストが見事です。
    黒竹は、中国の黄河流域以南に分布しています。桿は始めは緑色をしていますが、夏を過ぎると徐々に黒くなり、2年程で真っ黒になるようです。
    竹の種類は、世界に1300種類、日本国内でも600種を越えるそうですから、生育環境を満たして厳選された15種類の竹が植えられていることになります。
    個々に花々や竹の種類を示す立て札が無いのが、雑念を払ったようで清々しく映ります。(入口付近に現在咲いている花の案内図があります。)

  • 竹の庭<br />シホウチク(四方竹)と言う珍しい種類の竹です。<br />茎断面が四角いのが特徴のイネ目イネ科タケ亜科シホウチク属、中国原産の常緑多年草です。節の周りに短いイボのような棘(気根)があるのも特徴です。<br />筍は秋に収穫されて食用となります。

    竹の庭
    シホウチク(四方竹)と言う珍しい種類の竹です。
    茎断面が四角いのが特徴のイネ目イネ科タケ亜科シホウチク属、中国原産の常緑多年草です。節の周りに短いイボのような棘(気根)があるのも特徴です。
    筍は秋に収穫されて食用となります。

  • 路地<br />奇跡的に一瞬だけ誰もいなくなりました。<br />白い築地塀に導かれて出口へと向かいます。

    路地
    奇跡的に一瞬だけ誰もいなくなりました。
    白い築地塀に導かれて出口へと向かいます。

  • 路地<br />途中、竹垣の隙間から西の丸の石垣を間近に見ることができます。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。<br /><br />「おまけ」もありますので、よろしければもう少しお付き合いください。

    路地
    途中、竹垣の隙間から西の丸の石垣を間近に見ることができます。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    「おまけ」もありますので、よろしければもう少しお付き合いください。

  • おまけ1<br />主人が4月5日に東京出張の帰途に増上寺を訪問しましたので、「おまけ」としてレポさせていただきます。<br /><br />増上寺の正式名称は「三縁山広度院 増上寺(さんえんざんこうどいん ぞうじょうじ)」と言い、浄土宗の7大本山のひとつに数えられます。<br />増上寺は1393(明徳4)年に浄土宗正統根本念仏道場として、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人により開山されました。<br />元々は江戸貝塚(現 千代田区平河町)にありましたが、1598(慶長3)年に現在の場所へ移りました。徳川家康が当時の住職 源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、1590(天正18)年に徳川家の菩提寺に選ばれています。

    おまけ1
    主人が4月5日に東京出張の帰途に増上寺を訪問しましたので、「おまけ」としてレポさせていただきます。

    増上寺の正式名称は「三縁山広度院 増上寺(さんえんざんこうどいん ぞうじょうじ)」と言い、浄土宗の7大本山のひとつに数えられます。
    増上寺は1393(明徳4)年に浄土宗正統根本念仏道場として、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人により開山されました。
    元々は江戸貝塚(現 千代田区平河町)にありましたが、1598(慶長3)年に現在の場所へ移りました。徳川家康が当時の住職 源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、1590(天正18)年に徳川家の菩提寺に選ばれています。

  • おまけ2<br />沢山の地蔵尊が並んでいます。<br />やがて桜の花弁に埋もれてしまうのでしょう。

    おまけ2
    沢山の地蔵尊が並んでいます。
    やがて桜の花弁に埋もれてしまうのでしょう。

  • おまけ3<br />徳川将軍家墓所の正面の門は、旧国宝であった文昭院殿霊廟奥院(6代将軍 家宣)の宝塔前の中門をここに移築したものです。厳粛かつ堅牢な青銅製の鋳抜門です。戦前は国宝でしたが場所を移動したためにその指定が解除され、現在は国重要文化財になっています。<br />表扉には三つ葉葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。その荘厳さは、日光東照宮と並び評された往時の徳川家霊廟の姿を今に伝える数少ない遺構のひとつとなっています。

    おまけ3
    徳川将軍家墓所の正面の門は、旧国宝であった文昭院殿霊廟奥院(6代将軍 家宣)の宝塔前の中門をここに移築したものです。厳粛かつ堅牢な青銅製の鋳抜門です。戦前は国宝でしたが場所を移動したためにその指定が解除され、現在は国重要文化財になっています。
    表扉には三つ葉葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。その荘厳さは、日光東照宮と並び評された往時の徳川家霊廟の姿を今に伝える数少ない遺構のひとつとなっています。

  • おまけ4<br />徳川将軍家墓所では「春の特別公開」が行なわれていましたので、拝観させていただきました。以前はいつも公開されていたそうですが、悪戯が増えたために通常は非公開となったそうです。残念なお話ですが、この時期限定でも一般公開していただけるのはありがたいことです。<br />霊廟前で拝観冥加料500円を支払うと徳川将軍家霊廟のパンフレットと焼失前の旧御霊屋の写真の絵はがき10枚セットがいただけました。

    おまけ4
    徳川将軍家墓所では「春の特別公開」が行なわれていましたので、拝観させていただきました。以前はいつも公開されていたそうですが、悪戯が増えたために通常は非公開となったそうです。残念なお話ですが、この時期限定でも一般公開していただけるのはありがたいことです。
    霊廟前で拝観冥加料500円を支払うと徳川将軍家霊廟のパンフレットと焼失前の旧御霊屋の写真の絵はがき10枚セットがいただけました。

  • おまけ5<br />鋳抜門の屋根には、一対の龍が配されています。

    おまけ5
    鋳抜門の屋根には、一対の龍が配されています。

  • おまけ6<br />鋳抜門の霊廟側には、三つ葉葵紋は配されていません。

    おまけ6
    鋳抜門の霊廟側には、三つ葉葵紋は配されていません。

  • おまけ7<br />大都会とは思えない立ち木に囲まれた清閑な地に、8基の宝塔がひっそりと肩を寄せ合って佇み、徳川家将軍6人(2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂)が埋葬されています。また、将軍の他、家茂夫人の皇女和宮(静寛院)の墓や秀忠夫人のお江(崇源院)、家宣夫人天英院、家斉夫人広大院、家定夫人天親院などの将軍家ゆかりの人たち計38人がこの地に眠っています。<br />徳川家霊廟とは、徳川将軍家歴代の墓所のことで、江戸の寛永寺と増上寺、および日光の輪王寺にあります。戦災で焼失した増上寺の旧徳川家霊廟は、現在の大殿の南北に建ち並ぶ壮麗なものであったそうです。永井荷風が随筆『霊廟』で「荘重美麗」と評した莫大な文化遺産が戦火で失われたことが悔やまれますが、静寂な一角に佇む宝塔群は遥か彼方に儚くも去った覇権の象徴とも言えます。発掘された土葬の遺体は、綿密な調査を行なって丁重に荼毘にふされた後、現墓所に改葬されています。

    おまけ7
    大都会とは思えない立ち木に囲まれた清閑な地に、8基の宝塔がひっそりと肩を寄せ合って佇み、徳川家将軍6人(2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂)が埋葬されています。また、将軍の他、家茂夫人の皇女和宮(静寛院)の墓や秀忠夫人のお江(崇源院)、家宣夫人天英院、家斉夫人広大院、家定夫人天親院などの将軍家ゆかりの人たち計38人がこの地に眠っています。
    徳川家霊廟とは、徳川将軍家歴代の墓所のことで、江戸の寛永寺と増上寺、および日光の輪王寺にあります。戦災で焼失した増上寺の旧徳川家霊廟は、現在の大殿の南北に建ち並ぶ壮麗なものであったそうです。永井荷風が随筆『霊廟』で「荘重美麗」と評した莫大な文化遺産が戦火で失われたことが悔やまれますが、静寂な一角に佇む宝塔群は遥か彼方に儚くも去った覇権の象徴とも言えます。発掘された土葬の遺体は、綿密な調査を行なって丁重に荼毘にふされた後、現墓所に改葬されています。

  • おまけ8<br />門を背にして右側には、正面奥から2代秀忠、7代家継、9代家重、12代家慶と宝塔が整然と並んでいます。<br />

    おまけ8
    門を背にして右側には、正面奥から2代秀忠、7代家継、9代家重、12代家慶と宝塔が整然と並んでいます。

  • おまけ9<br />左側には、正面奥から6代家宣、14代家茂、静寛院宮(皇女和宮)、合祀宝塔が並んでいます。<br />手前にある合祀宝塔には、家光第3子で家宣の実父である徳川綱重をはじめ、家光側室で5代綱吉の生母 桂昌院、11代家斉 正室 広大院、家宣 側室 月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や夭折児の多数が埋葬されています。<br />尚、合祀宝塔には、月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われています。

    おまけ9
    左側には、正面奥から6代家宣、14代家茂、静寛院宮(皇女和宮)、合祀宝塔が並んでいます。
    手前にある合祀宝塔には、家光第3子で家宣の実父である徳川綱重をはじめ、家光側室で5代綱吉の生母 桂昌院、11代家斉 正室 広大院、家宣 側室 月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や夭折児の多数が埋葬されています。
    尚、合祀宝塔には、月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われています。

  • おまけ10<br />12代家慶(慎徳院殿)<br />家斉の第2子として出生。天保の改革に着手するも改革は失敗に終わり、幕府は没落の一途を辿ることになります。黒船来航などあわただしい世情の中、61歳で逝去しました。<br />将軍となった年齢が45歳と晩年期に当たり、しかも父の家斉が大御所として発言力を持っていたため、家臣の意見には「そうせい」としか言えず、「そうせい様」と呼ばれて暗愚と蔑まれていたようですが、天保の改革など、失敗したもののそれなりの指導力を発揮していたようです。<br />長谷川章久著『東京の中の江戸』に将軍墳墓発掘の大改葬の様子が記されています。<br />銅棺に納められた木棺の中の死骸は、死の直後とほとんど変わらない様相だったようです。ミイラ化していた訳ではなく、当時非常に高価だった朱肉が腐敗防止のために詰められており、染まった朱を落としてみると、顔の肌の色は昨日息を引き取った様だったそうです。「おかげで瓜ざね顔で鼻の高い『大名顔』ともいうべき高貴な面貌や、華奢な骨格まで観察にことを欠かなかった」とあります。しかし、外気に触れて30分も経たないうちに皮膚が乾燥しだし、次第に裂け目を生じ、鉋屑のように剥がれ出したそうです。

    おまけ10
    12代家慶(慎徳院殿)
    家斉の第2子として出生。天保の改革に着手するも改革は失敗に終わり、幕府は没落の一途を辿ることになります。黒船来航などあわただしい世情の中、61歳で逝去しました。
    将軍となった年齢が45歳と晩年期に当たり、しかも父の家斉が大御所として発言力を持っていたため、家臣の意見には「そうせい」としか言えず、「そうせい様」と呼ばれて暗愚と蔑まれていたようですが、天保の改革など、失敗したもののそれなりの指導力を発揮していたようです。
    長谷川章久著『東京の中の江戸』に将軍墳墓発掘の大改葬の様子が記されています。
    銅棺に納められた木棺の中の死骸は、死の直後とほとんど変わらない様相だったようです。ミイラ化していた訳ではなく、当時非常に高価だった朱肉が腐敗防止のために詰められており、染まった朱を落としてみると、顔の肌の色は昨日息を引き取った様だったそうです。「おかげで瓜ざね顔で鼻の高い『大名顔』ともいうべき高貴な面貌や、華奢な骨格まで観察にことを欠かなかった」とあります。しかし、外気に触れて30分も経たないうちに皮膚が乾燥しだし、次第に裂け目を生じ、鉋屑のように剥がれ出したそうです。

  • おまけ11<br />9代家重(惇信院殿)<br />吉宗の長子として出生。生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、51歳で逝去しました。<br />調査によると、脳性麻痺の症状とされる歯軋りによる歯の磨耗跡があり、言語不明瞭だったのは脳性麻痺が原因と推測されています。しかし、復元された容姿は歴代将軍の中で最も美男子であり、遠くから拝謁する大名には気高く見えたそうです。尚、身長は156cmと推定されています。<br />「暴れん坊将軍」の吉宗を父に持つ家重は、まさにサラブレッドでした。しかし、虚弱体質の上、脳性麻痺により言語が不明瞭であったため、幼少時から大奥に籠りがちで酒色に耽って健康を害したそうです。無能な将軍と思われていたようですが、遺産と田沼意次などの人事才能により何とか無事に平穏を保った将軍と評価されています。

    おまけ11
    9代家重(惇信院殿)
    吉宗の長子として出生。生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、51歳で逝去しました。
    調査によると、脳性麻痺の症状とされる歯軋りによる歯の磨耗跡があり、言語不明瞭だったのは脳性麻痺が原因と推測されています。しかし、復元された容姿は歴代将軍の中で最も美男子であり、遠くから拝謁する大名には気高く見えたそうです。尚、身長は156cmと推定されています。
    「暴れん坊将軍」の吉宗を父に持つ家重は、まさにサラブレッドでした。しかし、虚弱体質の上、脳性麻痺により言語が不明瞭であったため、幼少時から大奥に籠りがちで酒色に耽って健康を害したそうです。無能な将軍と思われていたようですが、遺産と田沼意次などの人事才能により何とか無事に平穏を保った将軍と評価されています。

  • おまけ12<br />7代家継 (有章院殿)<br />家宣の第3子として出生。父の逝去、兄2人の早世で僅か3歳にして7代将軍職を継いだ史上最年少の征夷大将軍です。新井白石に師事し、間部詮房を父のように慕い、家宣の遺志を継いで正徳の改革を続行しました。しかし、如何せん病弱で、さらに白石も詮房も幕府内では立場が弱かったため、家継存命中に後継者を巡って家宣正妻の天英院V.S家継の母 月光院の間でお家騒動が勃発。天英院は尾張家の徳川継友を、月光院は紀州家の徳川吉宗を推し、結局は紀州藩の財政再建成功で名高い徳川吉宗が勝利し、8代将軍に就きました。<br />家継は、霊元天皇の皇女 八十宮吉子内親王と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま7歳で風邪を悪化させて逝去しています。<br />遺骨調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によると、棺を開けた時、長年の雨水が棺の中に入り込み、骨を分解し流し去ったためか遺骨は存在せず、ただ家継のものと思われる遺髪と爪、刀等の遺品があっただけだったようです。

    おまけ12
    7代家継 (有章院殿)
    家宣の第3子として出生。父の逝去、兄2人の早世で僅か3歳にして7代将軍職を継いだ史上最年少の征夷大将軍です。新井白石に師事し、間部詮房を父のように慕い、家宣の遺志を継いで正徳の改革を続行しました。しかし、如何せん病弱で、さらに白石も詮房も幕府内では立場が弱かったため、家継存命中に後継者を巡って家宣正妻の天英院V.S家継の母 月光院の間でお家騒動が勃発。天英院は尾張家の徳川継友を、月光院は紀州家の徳川吉宗を推し、結局は紀州藩の財政再建成功で名高い徳川吉宗が勝利し、8代将軍に就きました。
    家継は、霊元天皇の皇女 八十宮吉子内親王と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま7歳で風邪を悪化させて逝去しています。
    遺骨調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によると、棺を開けた時、長年の雨水が棺の中に入り込み、骨を分解し流し去ったためか遺骨は存在せず、ただ家継のものと思われる遺髪と爪、刀等の遺品があっただけだったようです。

  • おまけ13<br />2代秀忠(台徳院殿)<br />正面右側に2代秀忠とお江が合祀された墓所があります。<br />焼失前の秀忠の宝塔は霊廟室内に祀られ、大層立派なものだったそうですが、木造のため戦災で焼失しています。現在は、正室 崇源院(お江)の宝塔に共に合祀されています。<br />秀忠は家康の第3子として出生し、2代将軍に就任し、将軍職を18年務めて54歳で逝去しました。秀忠は、家康と3代家光の間に挟まれているために影が薄いのですが、実際には家康の路線を忠実に踏襲したのみならず、独自の施政も行っています。貿易統制もその施策のひとつで、歴代将軍の中でも偉大な政治家だったと評する向きもあります。<br />遺体調査によると、遺体は棺の蓋や地中の小石などの重みによって座ったままの姿勢で衣服と共に縦に圧縮され、畳んだ提灯のように潰れていたようです。身長158cmと推測されています。 <br /><br />お江のエピソードでよく知られているのは3度の結婚です。最初の結婚相手は、尾張の国衆 佐治一成。しかし、秀吉によって強制的に離縁されられ、秀吉の甥 豊臣秀勝に嫁ぎました。秀勝との間には娘の完子をもうけるも死別し、秀勝が文禄の役で病死すると次は秀忠の正室になりました。秀忠との間には2男5女をもうけ、長男 家光は3代将軍、5女 和子(まさこ)は後水尾天皇女御として入内し、明正天皇の母となっています。55歳で逝去しました。<br />御台所(正室)で将軍生母となったこと以外で評価されているのが、大奥を作ったことです。政治や策略などが絡み合い、自身もそうした動きに流されるままに不安定な人生を送ってきたことから、徳川家の血筋を守り抜くため、さらには当時弱い立場にあった女性たちを守るために理想郷として大奥作りに取り組みました。その実現のため、臆することなく家康に直談判もしています。流転の人生を送りながらもその場その場で自分の役割を見つけ、社会のため国のために尽くしたのがお江です。<br />調査報告によると、崇源院は将軍一門で唯一火葬されており、親姉妹が長身であったのとは反対に、小柄で華奢だったと推定されています。特に注目されるのは、上腕骨の肘の関節に肘頭孔という小孔が確認されたことです。この小孔は、普通の日本人にはなく、華奢な体型の人に現れる特徴だそうです。

    おまけ13
    2代秀忠(台徳院殿)
    正面右側に2代秀忠とお江が合祀された墓所があります。
    焼失前の秀忠の宝塔は霊廟室内に祀られ、大層立派なものだったそうですが、木造のため戦災で焼失しています。現在は、正室 崇源院(お江)の宝塔に共に合祀されています。
    秀忠は家康の第3子として出生し、2代将軍に就任し、将軍職を18年務めて54歳で逝去しました。秀忠は、家康と3代家光の間に挟まれているために影が薄いのですが、実際には家康の路線を忠実に踏襲したのみならず、独自の施政も行っています。貿易統制もその施策のひとつで、歴代将軍の中でも偉大な政治家だったと評する向きもあります。
    遺体調査によると、遺体は棺の蓋や地中の小石などの重みによって座ったままの姿勢で衣服と共に縦に圧縮され、畳んだ提灯のように潰れていたようです。身長158cmと推測されています。

    お江のエピソードでよく知られているのは3度の結婚です。最初の結婚相手は、尾張の国衆 佐治一成。しかし、秀吉によって強制的に離縁されられ、秀吉の甥 豊臣秀勝に嫁ぎました。秀勝との間には娘の完子をもうけるも死別し、秀勝が文禄の役で病死すると次は秀忠の正室になりました。秀忠との間には2男5女をもうけ、長男 家光は3代将軍、5女 和子(まさこ)は後水尾天皇女御として入内し、明正天皇の母となっています。55歳で逝去しました。
    御台所(正室)で将軍生母となったこと以外で評価されているのが、大奥を作ったことです。政治や策略などが絡み合い、自身もそうした動きに流されるままに不安定な人生を送ってきたことから、徳川家の血筋を守り抜くため、さらには当時弱い立場にあった女性たちを守るために理想郷として大奥作りに取り組みました。その実現のため、臆することなく家康に直談判もしています。流転の人生を送りながらもその場その場で自分の役割を見つけ、社会のため国のために尽くしたのがお江です。
    調査報告によると、崇源院は将軍一門で唯一火葬されており、親姉妹が長身であったのとは反対に、小柄で華奢だったと推定されています。特に注目されるのは、上腕骨の肘の関節に肘頭孔という小孔が確認されたことです。この小孔は、普通の日本人にはなく、華奢な体型の人に現れる特徴だそうです。

  • おまけ14<br />6代家宣(文昭院殿)<br />綱重の子として出生し、新井白石等を重用し政治の刷新を図り、「生類憐みの令」を廃止するなど、「正徳の治」を成し遂げましたが、将軍職僅か3年で病に倒れ、51歳の生涯を閉じています。<br />遺体調査によると、細面で鼻筋が通り、穏やかな顔立ちをした美男であったと推定され、父 綱重とは猫背であったこと以外に似ている箇所はなかったそうです。身長は160cmあり、当時の平均よりやや高かったようです。

    おまけ14
    6代家宣(文昭院殿)
    綱重の子として出生し、新井白石等を重用し政治の刷新を図り、「生類憐みの令」を廃止するなど、「正徳の治」を成し遂げましたが、将軍職僅か3年で病に倒れ、51歳の生涯を閉じています。
    遺体調査によると、細面で鼻筋が通り、穏やかな顔立ちをした美男であったと推定され、父 綱重とは猫背であったこと以外に似ている箇所はなかったそうです。身長は160cmあり、当時の平均よりやや高かったようです。

  • おまけ15<br />14代家茂(昭徳院殿)<br />失念して宝塔のアップを撮るのを忘れてしまいました。手前が家茂の宝塔です。<br />紀伊徳川家、斉順の第2子として出生。将軍家の養子となり14代将軍となりました。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まるも事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王を正室に迎えます。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化する中、第2次長州征伐の途上、大坂城で病のために逝去しました。享年21歳でした。<br />激動の時代に翻弄された将軍でしたが、13歳という若さゆえ、田安慶頼や一橋慶喜が将軍後見職に就いていたため、その権力は抑制されていたようです。しかし、英明な風格を持ち、勝海舟をはじめとした幕臣からの信望が厚く、長命であれば名君として名を残したかもしれないと海舟は言っていたようです。<br />特筆すべきは将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、義兄の孝明天皇に攘夷を誓ったことです。政略結婚だったとは言え、和宮との関係は良好だったそうで、徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったと言われています。<br />遺骨調査では、残存する31本の歯の内30本が虫歯を患っており、元々の体質と羊羹や氷砂糖、金平糖、カステラなどの甘い物好きの結果と考えられています。そしてこの虫歯が家茂の体力を弱め、短命の一因となったと推測されています。

    おまけ15
    14代家茂(昭徳院殿)
    失念して宝塔のアップを撮るのを忘れてしまいました。手前が家茂の宝塔です。
    紀伊徳川家、斉順の第2子として出生。将軍家の養子となり14代将軍となりました。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まるも事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王を正室に迎えます。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化する中、第2次長州征伐の途上、大坂城で病のために逝去しました。享年21歳でした。
    激動の時代に翻弄された将軍でしたが、13歳という若さゆえ、田安慶頼や一橋慶喜が将軍後見職に就いていたため、その権力は抑制されていたようです。しかし、英明な風格を持ち、勝海舟をはじめとした幕臣からの信望が厚く、長命であれば名君として名を残したかもしれないと海舟は言っていたようです。
    特筆すべきは将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、義兄の孝明天皇に攘夷を誓ったことです。政略結婚だったとは言え、和宮との関係は良好だったそうで、徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったと言われています。
    遺骨調査では、残存する31本の歯の内30本が虫歯を患っており、元々の体質と羊羹や氷砂糖、金平糖、カステラなどの甘い物好きの結果と考えられています。そしてこの虫歯が家茂の体力を弱め、短命の一因となったと推測されています。

  • おまけ16<br />静寛院和宮<br />静寛院宮の宝塔は当時のものです。家茂と並んで祀られ、宝塔は家茂の石塔に対して青銅製で形も異なります。明治時代に入ってから宮内省により建立されたこの墓は、荒削り、不揃いであることから、時代の変遷を感じることができます。特徴は、菊の御紋章が掘り出されていることです。<br /><br />皇女和宮といえば、幕末に翻弄された悲劇の女性として知らない方はいないでしょう。官軍に対し、徳川家の存続と徳川慶喜の生命の保障を求めたほどです。<br />14代将軍家茂の正室 静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として出生。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していましたが、15歳の時に公武合体によって徳川家に降嫁しました。家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈の変転厳しい時代の中、江戸城無血開城、徳川幕府延命の政略に尽力し、31歳の若さで逝去しました。<br />没後、遺体を京都へ戻すように沙汰がありましたが、本人の遺言に従い、家茂と同列に並んで増上寺に祀られています。<br /><br />天璋院が和宮と対面した際、上座にあって会釈も礼もせず、和宮の座には敷物も用意されていなかったそうで、対立も激しかったようです。しかし、維新後はそうした関係も氷解し、東京移住後は天璋院を始めとする徳川家の人々とも親しく交流したそうです。天璋院と共に勝海舟の屋敷を訪ねて昼食をとった際、お櫃のご飯をどちらがよそうかとなった時、勝がもう一つしゃもじを用意し、互いの茶碗にご飯をよそわせたと言われています。<br />また、家茂が長州征伐のために上洛の際、凱旋の土産は何がよいかと問われた和宮は西陣織を所望したのですが、家茂は征長の最中に大坂城にて病没したため、その西陣織は形見として和宮の元に届けられたそうです。そしてその西陣織は増上寺に奉納され、後に追善供養の際、袈裟として仕立てられ、「空蝉の袈裟」として現在まで伝わってます。<br />遺骨調査により、身長143cm、体重34kgで、反っ歯と内股が特徴の小柄な女性だと推定されています。また、不思議なことに左手の手首から先の骨が見つからず、増上寺の和宮像や日本女子会館の像もまた左手が不自然に隠されており、肖像画にも描かれている様子が無いことから、何らかの理由で生前左手首から先を欠損していたのではないかとも相即されているようです。

    おまけ16
    静寛院和宮
    静寛院宮の宝塔は当時のものです。家茂と並んで祀られ、宝塔は家茂の石塔に対して青銅製で形も異なります。明治時代に入ってから宮内省により建立されたこの墓は、荒削り、不揃いであることから、時代の変遷を感じることができます。特徴は、菊の御紋章が掘り出されていることです。

    皇女和宮といえば、幕末に翻弄された悲劇の女性として知らない方はいないでしょう。官軍に対し、徳川家の存続と徳川慶喜の生命の保障を求めたほどです。
    14代将軍家茂の正室 静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として出生。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していましたが、15歳の時に公武合体によって徳川家に降嫁しました。家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈の変転厳しい時代の中、江戸城無血開城、徳川幕府延命の政略に尽力し、31歳の若さで逝去しました。
    没後、遺体を京都へ戻すように沙汰がありましたが、本人の遺言に従い、家茂と同列に並んで増上寺に祀られています。

    天璋院が和宮と対面した際、上座にあって会釈も礼もせず、和宮の座には敷物も用意されていなかったそうで、対立も激しかったようです。しかし、維新後はそうした関係も氷解し、東京移住後は天璋院を始めとする徳川家の人々とも親しく交流したそうです。天璋院と共に勝海舟の屋敷を訪ねて昼食をとった際、お櫃のご飯をどちらがよそうかとなった時、勝がもう一つしゃもじを用意し、互いの茶碗にご飯をよそわせたと言われています。
    また、家茂が長州征伐のために上洛の際、凱旋の土産は何がよいかと問われた和宮は西陣織を所望したのですが、家茂は征長の最中に大坂城にて病没したため、その西陣織は形見として和宮の元に届けられたそうです。そしてその西陣織は増上寺に奉納され、後に追善供養の際、袈裟として仕立てられ、「空蝉の袈裟」として現在まで伝わってます。
    遺骨調査により、身長143cm、体重34kgで、反っ歯と内股が特徴の小柄な女性だと推定されています。また、不思議なことに左手の手首から先の骨が見つからず、増上寺の和宮像や日本女子会館の像もまた左手が不自然に隠されており、肖像画にも描かれている様子が無いことから、何らかの理由で生前左手首から先を欠損していたのではないかとも相即されているようです。

  • おまけ17<br />東京は生憎の肌寒い日でしたが、海外からの観光客が大勢おられました。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

    おまけ17
    東京は生憎の肌寒い日でしたが、海外からの観光客が大勢おられました。

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