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「白鷺城」とも称され優美を極める姫路城は日本一の名城とも言われ、築城以来400年の歴史を持ちます。大天守や白壁と合わさった景色が「日本さくらの名所100選」のひとつに数えられる城内には、ソメイヨシノやヤマザクラ、シダレザクラなど約1000本の桜が乱れ咲き、白亜の大天守に映えます。<br />後編は、「姫路城十景」にも選ばれている男山配水池公園からの眺望、三の丸広場の桜並木を基軸にレポいたします。<br />因みに、城内における花見スポットは、三の丸広場以外にも、西の丸庭園のシダレザクラを中心とした桜林、三国濠、菱の門周辺などが挙げられます。また、4月上旬には通常17時以降入ることのできない西の丸庭園を無料開放し、桜のライトアップ「姫路城夜桜会」が開催されます。<br /><br />お世話になったガイドマップです。<br />http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0080/7370/2016210193738.pdf<br />https://www.himeji-kanko.jp/files/pdf/pamphlet/p12.pdf

芳葩爛漫 播磨紀行 ②姫路城(後編)

852いいね!

2016/04/06 - 2016/04/06

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

「白鷺城」とも称され優美を極める姫路城は日本一の名城とも言われ、築城以来400年の歴史を持ちます。大天守や白壁と合わさった景色が「日本さくらの名所100選」のひとつに数えられる城内には、ソメイヨシノやヤマザクラ、シダレザクラなど約1000本の桜が乱れ咲き、白亜の大天守に映えます。
後編は、「姫路城十景」にも選ばれている男山配水池公園からの眺望、三の丸広場の桜並木を基軸にレポいたします。
因みに、城内における花見スポットは、三の丸広場以外にも、西の丸庭園のシダレザクラを中心とした桜林、三国濠、菱の門周辺などが挙げられます。また、4月上旬には通常17時以降入ることのできない西の丸庭園を無料開放し、桜のライトアップ「姫路城夜桜会」が開催されます。

お世話になったガイドマップです。
http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0080/7370/2016210193738.pdf
https://www.himeji-kanko.jp/files/pdf/pamphlet/p12.pdf

旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 千姫の小径<br />入口には、本多忠刻と千姫が2人で詠んだ連歌の碑が立てられています。<br />「初秋の風を簾にまきとりて」(忠刻)、「軒はにおふ竹の葉の露』」(千姫)。<br />これは、1619(元和5)年、安宅船(あたかぶね)に乗り、本多家がうち揃って「月見の宴」を催した時に詠まれたものだそうです。<br />碑の基盤には本多家の家紋「立ち葵」が嵌められています。「立ち葵」のルーツは、賀茂神社の神草である「双葉葵」からと言われています。本多家の先祖 中務光秀が、賀茂神社の社職であったことから、本多家の家紋にしたと伝わっています。

    千姫の小径
    入口には、本多忠刻と千姫が2人で詠んだ連歌の碑が立てられています。
    「初秋の風を簾にまきとりて」(忠刻)、「軒はにおふ竹の葉の露』」(千姫)。
    これは、1619(元和5)年、安宅船(あたかぶね)に乗り、本多家がうち揃って「月見の宴」を催した時に詠まれたものだそうです。
    碑の基盤には本多家の家紋「立ち葵」が嵌められています。「立ち葵」のルーツは、賀茂神社の神草である「双葉葵」からと言われています。本多家の先祖 中務光秀が、賀茂神社の社職であったことから、本多家の家紋にしたと伝わっています。

  • 千姫の小径<br />本多忠政の正室は、家康の長男 信康と織田信長の娘 徳姫との間に生まれた熊姫です。また、嫡子 忠刻のもとには、大坂城落城後に救出された千姫(徳川秀忠の長女)が再嫁しました。つまり、父子共に家康の孫娘をもらっています。姫路城に入った忠政は、西の守りを固めるために姫山の西の鷺山に西の丸を造り、三の丸高台には、自分が住む館や忠刻と千姫夫婦が住む「武蔵野御殿」と呼ばれる館を建てました。その北には向御屋敷を建て、内堀の外には東御屋敷や西御屋敷(現 好古園)を建てています。残念ながら、千姫のために建てた化粧櫓や長局以外は残っていません。その他、忠政は、城の西側の石垣の嵩上げや門や堀を整備するなどし、今の姫路城の姿をほぼ完成させました。

    千姫の小径
    本多忠政の正室は、家康の長男 信康と織田信長の娘 徳姫との間に生まれた熊姫です。また、嫡子 忠刻のもとには、大坂城落城後に救出された千姫(徳川秀忠の長女)が再嫁しました。つまり、父子共に家康の孫娘をもらっています。姫路城に入った忠政は、西の守りを固めるために姫山の西の鷺山に西の丸を造り、三の丸高台には、自分が住む館や忠刻と千姫夫婦が住む「武蔵野御殿」と呼ばれる館を建てました。その北には向御屋敷を建て、内堀の外には東御屋敷や西御屋敷(現 好古園)を建てています。残念ながら、千姫のために建てた化粧櫓や長局以外は残っていません。その他、忠政は、城の西側の石垣の嵩上げや門や堀を整備するなどし、今の姫路城の姿をほぼ完成させました。

  • 男山<br />千姫の小径をスルーして更に西へ進みます。すると水尾神社(みおじんじゃ)の手前右側には、屹立するかのような「天国への階段」が見えてきます。<br />これを見て標高58mの「男山配水池公園」へ登るのを断念される方も多いようですが、この198段ある石段は最短ルートであり、他にも楽ちんなルートがありますので心配無用です。心臓の悪い当方には、このような坂は登れません。<br />この石段は、近所の高校生たちの部活のトレーニング場として重宝されているようです。<br />

    男山
    千姫の小径をスルーして更に西へ進みます。すると水尾神社(みおじんじゃ)の手前右側には、屹立するかのような「天国への階段」が見えてきます。
    これを見て標高58mの「男山配水池公園」へ登るのを断念される方も多いようですが、この198段ある石段は最短ルートであり、他にも楽ちんなルートがありますので心配無用です。心臓の悪い当方には、このような坂は登れません。
    この石段は、近所の高校生たちの部活のトレーニング場として重宝されているようです。

  • 水尾神社 <br />男山に鎮座する三社の下社に当たります。<br />古くは伊和大神を祀り、565(欽明天皇26)年から大巳貴命(おおなむちのみこと=大国主命)をご祭神として祀り、国造り・創業・家内安全・医療・医薬等の神様です。この神社は、元々は伊和大明神を祀っていましたが、後にこれを播磨国総社に移したため、総社の元宮とも言われています。<br />1619年に本多忠政が姫路城築城の折、神守岡より岡大歳社を遷座し、社殿を造営したとされています。

    水尾神社
    男山に鎮座する三社の下社に当たります。
    古くは伊和大神を祀り、565(欽明天皇26)年から大巳貴命(おおなむちのみこと=大国主命)をご祭神として祀り、国造り・創業・家内安全・医療・医薬等の神様です。この神社は、元々は伊和大明神を祀っていましたが、後にこれを播磨国総社に移したため、総社の元宮とも言われています。
    1619年に本多忠政が姫路城築城の折、神守岡より岡大歳社を遷座し、社殿を造営したとされています。

  • 水尾神社 <br />境内には「日露戦捷紀念樹」の石碑と砲弾の碑が立っています。戦没者の顕彰や慰霊を目的としたものと思われます。砲弾のサイズは、直径120mm×長さ370mmで、明治40年頃のものだそうです。<br /><br />強引な安全保障関連法成立により、時の内閣総理大臣の胸三寸でIS(イスラム国)と戦う国の後方支援戦争も辞さないことになるのでしょうか…。そうなれば、元々警備の貧弱な日本が真っ先に国際テロの標的にされるのは、火を見るより明らかです。最後の砦は、憲法第9条の改正になるのでしょうが、何故、我々日本人は過去の太平洋戦争の教訓を活かせないのでしょうか!

    水尾神社
    境内には「日露戦捷紀念樹」の石碑と砲弾の碑が立っています。戦没者の顕彰や慰霊を目的としたものと思われます。砲弾のサイズは、直径120mm×長さ370mmで、明治40年頃のものだそうです。

    強引な安全保障関連法成立により、時の内閣総理大臣の胸三寸でIS(イスラム国)と戦う国の後方支援戦争も辞さないことになるのでしょうか…。そうなれば、元々警備の貧弱な日本が真っ先に国際テロの標的にされるのは、火を見るより明らかです。最後の砦は、憲法第9条の改正になるのでしょうが、何故、我々日本人は過去の太平洋戦争の教訓を活かせないのでしょうか!

  • 水尾神社 <br />千姫が滞在した神社とも伝わっています。<br />千姫天満宮、男山八幡宮を経由して男山配水池公園へ登る参道は、この水尾神社境内の左端にあります。

    水尾神社
    千姫が滞在した神社とも伝わっています。
    千姫天満宮、男山八幡宮を経由して男山配水池公園へ登る参道は、この水尾神社境内の左端にあります。

  • 水尾神社 <br />拝殿には「男山遠望播磨灘絵図」が掲げられています。<br />また、珍しく拝殿で随神が守っておられます。<br />

    水尾神社
    拝殿には「男山遠望播磨灘絵図」が掲げられています。
    また、珍しく拝殿で随神が守っておられます。

  • 男山<br />水尾神社の左端に鳥居が立てられています。この先が、千姫天満宮、男山八幡宮への参道の始まりとなります。<br />この鳥居は、1678(延宝7)年に姫路城主だった松平直矩(なおもり)が寄進したものです。この男山には八幡社が祀られており、歴代の姫路城主は武運長久を祈って社を保護しました。直矩もそのひとりですが、寄進された鳥居がこのように300年以上も残されているのは奇跡的です。

    男山
    水尾神社の左端に鳥居が立てられています。この先が、千姫天満宮、男山八幡宮への参道の始まりとなります。
    この鳥居は、1678(延宝7)年に姫路城主だった松平直矩(なおもり)が寄進したものです。この男山には八幡社が祀られており、歴代の姫路城主は武運長久を祈って社を保護しました。直矩もそのひとりですが、寄進された鳥居がこのように300年以上も残されているのは奇跡的です。

  • 男山<br />こちらが、楽ちんな参道です。この石段の先に見える平坦部に千姫天満宮があります。<br />「男山」の由来には次のような伝説があります。<br />男山は、奈良時代の『播磨国風土記』によれば、大巳貴命の舟が転覆し、筥(はこ=箱)の落ちた所が筥丘とされ、それが現在の「男山」だそうです。姫路には14の小丘がありますが、それぞれに神様の時代に名が付けられたようです。<br />この辺りがまだ瀬戸内海の一部だった時代のこと。大巳貴命の息子 火明命(ほあかりのみこと)は、強情で乱暴者のため父神は火明命を捨てることを決意しました。ある日、火明命を舟に乗せ、海へと漕ぎ出しました。舟が因達神山に差し掛かった時、「あの島で水を汲んできておくれ」と言いつけ、火明命が戻らないうちに舟を出したのです。父神に騙されたと知って火明命は怒り、それまで穏やかだった海が荒れ狂いました。やがて父神の舟は波と風に呑み込まれ、転覆していまいました。そんな訳で、舟が沈んだ所を船丘(現  福寺山)、波丘(現 名古山)と名付け、そして舟に積んでいた荷物が落ちた所にもそれぞれ名が付けられました。<br />物語はこう続いています。<br />海から逃げ帰った大巳貴命は、妻の弩都比売(のつびめ)に疲れ切った顔で語りました。「性の悪い子から逃げようとしたら、かえって嵐に遭って苦しい目にあわされたよ」。<br />因みに、「姫路」の由来は、蚕子(かいこ)が落ちた日女道丘(ひめじおか=現 姫山)だそうです。

    男山
    こちらが、楽ちんな参道です。この石段の先に見える平坦部に千姫天満宮があります。
    「男山」の由来には次のような伝説があります。
    男山は、奈良時代の『播磨国風土記』によれば、大巳貴命の舟が転覆し、筥(はこ=箱)の落ちた所が筥丘とされ、それが現在の「男山」だそうです。姫路には14の小丘がありますが、それぞれに神様の時代に名が付けられたようです。
    この辺りがまだ瀬戸内海の一部だった時代のこと。大巳貴命の息子 火明命(ほあかりのみこと)は、強情で乱暴者のため父神は火明命を捨てることを決意しました。ある日、火明命を舟に乗せ、海へと漕ぎ出しました。舟が因達神山に差し掛かった時、「あの島で水を汲んできておくれ」と言いつけ、火明命が戻らないうちに舟を出したのです。父神に騙されたと知って火明命は怒り、それまで穏やかだった海が荒れ狂いました。やがて父神の舟は波と風に呑み込まれ、転覆していまいました。そんな訳で、舟が沈んだ所を船丘(現 福寺山)、波丘(現 名古山)と名付け、そして舟に積んでいた荷物が落ちた所にもそれぞれ名が付けられました。
    物語はこう続いています。
    海から逃げ帰った大巳貴命は、妻の弩都比売(のつびめ)に疲れ切った顔で語りました。「性の悪い子から逃げようとしたら、かえって嵐に遭って苦しい目にあわされたよ」。
    因みに、「姫路」の由来は、蚕子(かいこ)が落ちた日女道丘(ひめじおか=現 姫山)だそうです。

  • 男山<br />「男山」の名の由来は、1762(宝暦12)年に出版された播磨の案内書『播磨鑑』に伝説が載っています。それによると、廣峯山麓にあった平野村の長者屋敷に小鷹という乱暴者が住んでおり、旅人を泊めては石の枕をさせ、旅人が寝入ると重しをかけて殺し、その血で衣を染めていました。ある時、若い武士が泊まった時、小鷹の娘がこの武士に恋心を抱き、「旅の人、石の枕はせぬものじゃ」と幼子を抱きすかしながら歌ったことで難を逃れました。そして、武士と娘は長者屋敷から一目散に逃げ出し、男の逃げた山を「男山」、娘の逃げた山を「姫山」と呼ぶようになったと言います。という訳で、男山の対は現在姫路城のある姫山になります。

    男山
    「男山」の名の由来は、1762(宝暦12)年に出版された播磨の案内書『播磨鑑』に伝説が載っています。それによると、廣峯山麓にあった平野村の長者屋敷に小鷹という乱暴者が住んでおり、旅人を泊めては石の枕をさせ、旅人が寝入ると重しをかけて殺し、その血で衣を染めていました。ある時、若い武士が泊まった時、小鷹の娘がこの武士に恋心を抱き、「旅の人、石の枕はせぬものじゃ」と幼子を抱きすかしながら歌ったことで難を逃れました。そして、武士と娘は長者屋敷から一目散に逃げ出し、男の逃げた山を「男山」、娘の逃げた山を「姫山」と呼ぶようになったと言います。という訳で、男山の対は現在姫路城のある姫山になります。

  • 男山千姫天満宮<br />男山千姫天満宮は、姫路城の北西に位置し、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社です。<br />その名前の通り、徳川家康の孫 の千姫が3歳の嫡男を失った後、比叡山の阿闍梨(あじゃり)が彫った天神(菅原道真)の木像を祀るために1623年に創建した天満宮です。

    男山千姫天満宮
    男山千姫天満宮は、姫路城の北西に位置し、姫路城を一望する男山の中腹にある小さな社です。
    その名前の通り、徳川家康の孫 の千姫が3歳の嫡男を失った後、比叡山の阿闍梨(あじゃり)が彫った天神(菅原道真)の木像を祀るために1623年に創建した天満宮です。

  • 男山千姫天満宮<br />千姫天満宮には、徳川義宣(今上天皇の同級生)の参拝記念碑等があります。<br />義宣は、尾張徳川家第21代当主でした。美術史家、財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館長を歴任されました。婿養子ゆえに徳川家の血は流れていませんが、多数の著作や講演によるアピールで他の御三家以上に露出度を高めた方です。家康の遺訓とされていた「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし」は、家康のものではなく、徳川光圀のものと確認するなど血筋が通っていない方ならではの大車輪の活躍をされました。

    男山千姫天満宮
    千姫天満宮には、徳川義宣(今上天皇の同級生)の参拝記念碑等があります。
    義宣は、尾張徳川家第21代当主でした。美術史家、財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館長を歴任されました。婿養子ゆえに徳川家の血は流れていませんが、多数の著作や講演によるアピールで他の御三家以上に露出度を高めた方です。家康の遺訓とされていた「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし」は、家康のものではなく、徳川光圀のものと確認するなど血筋が通っていない方ならではの大車輪の活躍をされました。

  • 男山千姫天満宮<br />2002年に新築された、男山の名とは対照的な唐破風造の流麗優美な社殿です。<br />御神酒「名城」は、姫路城所縁のお酒です。名城酒造は、1864(元治元)年創業の今井酒造を中心に、姫路市内の6つの蔵元が1966(昭和41)年に合併して誕生しました。以来140年以上に亘ってその味を守り続け、播州一の生産量を誇っています。

    男山千姫天満宮
    2002年に新築された、男山の名とは対照的な唐破風造の流麗優美な社殿です。
    御神酒「名城」は、姫路城所縁のお酒です。名城酒造は、1864(元治元)年創業の今井酒造を中心に、姫路市内の6つの蔵元が1966(昭和41)年に合併して誕生しました。以来140年以上に亘ってその味を守り続け、播州一の生産量を誇っています。

  • 男山千姫天満宮<br />首里城にある「龍樋」を彷彿とさせる手水があります。<br /><br />首里城の龍樋はこちらを参照してください。<br />http://4travel.jp/travelogue/10991785

    男山千姫天満宮
    首里城にある「龍樋」を彷彿とさせる手水があります。

    首里城の龍樋はこちらを参照してください。
    http://4travel.jp/travelogue/10991785

  • 男山千姫天満宮<br />『撫で牛』と言い、これを撫でると思いがけない幸運や子孫繁栄に恵まれるそうです。台座には千姫の実家の徳川家の「三つ葉葵の紋」、牛には天神様の「梅鉢紋」がきらりと光ります。<br />

    男山千姫天満宮
    『撫で牛』と言い、これを撫でると思いがけない幸運や子孫繁栄に恵まれるそうです。台座には千姫の実家の徳川家の「三つ葉葵の紋」、牛には天神様の「梅鉢紋」がきらりと光ります。

  • 男山千姫天満宮<br />大坂夏の陣で夫 秀頼が自害した後、大坂城から助け出された千姫は本多忠刻と再婚し、姫路城に新居を構えました。千姫が生活する姫路城西の丸から朝夕遙拝できるように東向きに造営され、千姫は実際に西の丸からこの天満宮を拝んで本多家の安寧と男子の出産を祈願したそうです。建立時、千姫は、金泥法華経(こんでいほけきょう)や唐鏡、身の回りの品、秀頼との思い出深い遺品の6枚の羽子板を奉納しました。その羽子板に因み、羽子板の形をした絵馬が有名です。<br />学業成就の他、忠刻と千姫の夫婦仲の良さに因んで恋愛成就のご利益もあります。政略結婚が当たり前だった戦国時代にあって、恋愛結婚を成し遂げた千姫にあやかろうということのようです。

    男山千姫天満宮
    大坂夏の陣で夫 秀頼が自害した後、大坂城から助け出された千姫は本多忠刻と再婚し、姫路城に新居を構えました。千姫が生活する姫路城西の丸から朝夕遙拝できるように東向きに造営され、千姫は実際に西の丸からこの天満宮を拝んで本多家の安寧と男子の出産を祈願したそうです。建立時、千姫は、金泥法華経(こんでいほけきょう)や唐鏡、身の回りの品、秀頼との思い出深い遺品の6枚の羽子板を奉納しました。その羽子板に因み、羽子板の形をした絵馬が有名です。
    学業成就の他、忠刻と千姫の夫婦仲の良さに因んで恋愛成就のご利益もあります。政略結婚が当たり前だった戦国時代にあって、恋愛結婚を成し遂げた千姫にあやかろうということのようです。

  • 男山千姫天満宮<br />この絵馬には、本多忠刻と千姫が2人で詠んだ連歌が記されています。<br />「初秋の風を簾にまきとりて」(忠刻)、「軒はにおふ竹の葉の露』」(千姫)。これは、1619(元和5)年、安宅船(あたかぶね)に乗り、本多家がうち揃って「月見の宴」が催された時に詠まれたもののようです。<br />燃え上がる大阪城から助け出されて江戸へ戻る道中、警護に当たっていた本多忠刻の颯爽とした若武者ぶりに恋心を抱き、そのことを知った家康が今度こそ幸せにしてやりたいと、千姫の思いを聞き届けて2人の結婚が決まったそうです。千姫は忠刻と暮らした姫路城での生活が生涯で一番幸せだったのではないでしょうか…。

    男山千姫天満宮
    この絵馬には、本多忠刻と千姫が2人で詠んだ連歌が記されています。
    「初秋の風を簾にまきとりて」(忠刻)、「軒はにおふ竹の葉の露』」(千姫)。これは、1619(元和5)年、安宅船(あたかぶね)に乗り、本多家がうち揃って「月見の宴」が催された時に詠まれたもののようです。
    燃え上がる大阪城から助け出されて江戸へ戻る道中、警護に当たっていた本多忠刻の颯爽とした若武者ぶりに恋心を抱き、そのことを知った家康が今度こそ幸せにしてやりたいと、千姫の思いを聞き届けて2人の結婚が決まったそうです。千姫は忠刻と暮らした姫路城での生活が生涯で一番幸せだったのではないでしょうか…。

  • 男山千姫天満宮<br />ガラス戸から覗き見た本殿です。<br />奉納された羽子板のうち2枚は表に葵紋、裏に桐紋が、他の4枚は表に桐紋、裏に巴紋を配しています。いずれも木地に胡粉を盛り上げ箔押しして極彩色したもので、裏には宮中の新春の儀式「左義長」(正月15日、御所清涼殿の庭に青竹などを組み、藁で覆って火を放ち、陰陽師たちが囃しながら、帝の吉書・短冊・扇面などを焼く厄払いの行事)を、表にはそれを見物する貴人たちを描いています。<br />

    男山千姫天満宮
    ガラス戸から覗き見た本殿です。
    奉納された羽子板のうち2枚は表に葵紋、裏に桐紋が、他の4枚は表に桐紋、裏に巴紋を配しています。いずれも木地に胡粉を盛り上げ箔押しして極彩色したもので、裏には宮中の新春の儀式「左義長」(正月15日、御所清涼殿の庭に青竹などを組み、藁で覆って火を放ち、陰陽師たちが囃しながら、帝の吉書・短冊・扇面などを焼く厄払いの行事)を、表にはそれを見物する貴人たちを描いています。

  • 男山千姫天満宮<br />屋根の先端を二重にし、徳川家の「三つ葉葵」紋と菅原氏の「梅鉢紋」を並べています。千姫は徳川家康の孫に当たり、徳川秀忠の娘ですので、この紋で格式を持たせています。千姫は西の丸からこの葵の紋を拝んでいたことでしょう。<br />

    男山千姫天満宮
    屋根の先端を二重にし、徳川家の「三つ葉葵」紋と菅原氏の「梅鉢紋」を並べています。千姫は徳川家康の孫に当たり、徳川秀忠の娘ですので、この紋で格式を持たせています。千姫は西の丸からこの葵の紋を拝んでいたことでしょう。

  • 男山千姫天満宮<br />天満宮のすぐ横には、時代を感じさせる煉瓦造の遺構があります。 <br />調べてみると、男山にはかつて東山焼という焼物の陶器所があり、その施設の遺構のようです。 <br />東山焼は、江戸末期に隆盛を見た姫路特産のお庭焼きをいいます。1822年、姫路藩は姫路市内東山山麓の藩窯で東山焼の製造を始めましたが、1831年頃、男山窯を築いて「東山焼御用陶器所」を開設し、京焼風の藩用品として上質の品が製造されました。姫路藩主酒井忠学と将軍 家斉の女喜代子姫との婚儀の際の調度品や諸侯への増進品を製造したことで名を馳せました。<br />しかし、明治維新によって陶器所は廃止され、1876(明治9)に民営の陶器会社永世舎が再興を図ったものの、6年で廃止になり東山焼の歴史に終止符が打たれています。東山焼の陶工であった池田弥七は藩窯終焉後、独立して弥七焜炉を製作し、西日本を中心に好評を博しました。

    男山千姫天満宮
    天満宮のすぐ横には、時代を感じさせる煉瓦造の遺構があります。
    調べてみると、男山にはかつて東山焼という焼物の陶器所があり、その施設の遺構のようです。
    東山焼は、江戸末期に隆盛を見た姫路特産のお庭焼きをいいます。1822年、姫路藩は姫路市内東山山麓の藩窯で東山焼の製造を始めましたが、1831年頃、男山窯を築いて「東山焼御用陶器所」を開設し、京焼風の藩用品として上質の品が製造されました。姫路藩主酒井忠学と将軍 家斉の女喜代子姫との婚儀の際の調度品や諸侯への増進品を製造したことで名を馳せました。
    しかし、明治維新によって陶器所は廃止され、1876(明治9)に民営の陶器会社永世舎が再興を図ったものの、6年で廃止になり東山焼の歴史に終止符が打たれています。東山焼の陶工であった池田弥七は藩窯終焉後、独立して弥七焜炉を製作し、西日本を中心に好評を博しました。

  • 男山千姫天満宮<br />天満宮の裏にもこのような立派な石碑が立てられていますが、達筆すぎて何と書かれているのかさっぱり判かりません!<br />煉瓦の遺構は、山頂付近までこのように伸びています。

    男山千姫天満宮
    天満宮の裏にもこのような立派な石碑が立てられていますが、達筆すぎて何と書かれているのかさっぱり判かりません!
    煉瓦の遺構は、山頂付近までこのように伸びています。

  • 男山八幡宮 参道<br />「戯れる戎、大黒」像です。<br />鯛の上に乗っているのが戎さん、袋の上で転がっているのは大黒さん。見ようによっては、親父の荷物を取り上げようとコブシを振りかざす息子の家庭内暴力とも!? <br /><br />

    男山八幡宮 参道
    「戯れる戎、大黒」像です。
    鯛の上に乗っているのが戎さん、袋の上で転がっているのは大黒さん。見ようによっては、親父の荷物を取り上げようとコブシを振りかざす息子の家庭内暴力とも!? 

  • 男山八幡宮 参道<br />これくらい思いきり笑い転げられたら、めっちゃ楽しいでしょうね!<br />頬を緩ませてくれる石像です。

    男山八幡宮 参道
    これくらい思いきり笑い転げられたら、めっちゃ楽しいでしょうね!
    頬を緩ませてくれる石像です。

  • 男山八幡宮<br />この石鳥居は、1716(正徳6)年に榊原政邦(播磨姫路藩初代藩主)が、社殿を改修した際に寄進したものです。政邦は、この12年前、越後村上から姫路へ移って来ました。文学にも優れ、「男山八景」の和歌も詠んでおり、鳥居の左の柱には武運の長久と家門の繁栄を願った長い文章が刻まれています。

    男山八幡宮
    この石鳥居は、1716(正徳6)年に榊原政邦(播磨姫路藩初代藩主)が、社殿を改修した際に寄進したものです。政邦は、この12年前、越後村上から姫路へ移って来ました。文学にも優れ、「男山八景」の和歌も詠んでおり、鳥居の左の柱には武運の長久と家門の繁栄を願った長い文章が刻まれています。

  • 男山八幡宮<br />神社には、神馬像がよく祀られていますが、石鳥居の横には珍しい一対の「飛躍神馬」が安置されています。こちらは吽号。阿吽を象っており、筋肉の造形美に目が点になります。

    男山八幡宮
    神社には、神馬像がよく祀られていますが、石鳥居の横には珍しい一対の「飛躍神馬」が安置されています。こちらは吽号。阿吽を象っており、筋肉の造形美に目が点になります。

  • 男山八幡宮<br />男山八幡宮は、1346(天正元)年に姫山に姫路城を築いたとされる赤松貞範が、城の鎮守社として京都の岩清水八幡宮より分霊して男山の山頂に建立したことに始まります.ご祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと=応神天皇)、比呼大神(ひめおおかみ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)を祀り、歴代城主の信仰も厚かったと言われています。1469年に大改築されたとの記録もありますが、1711年に姫路城主 榊原政邦が姫路城の守護神として新社殿を建立しています。しかし、不審火で1987年に本殿・幣殿・拝殿が焼失し、1990年に再建されています。代々の城主が信仰した戦の神々が祀られているそうです。

    男山八幡宮
    男山八幡宮は、1346(天正元)年に姫山に姫路城を築いたとされる赤松貞範が、城の鎮守社として京都の岩清水八幡宮より分霊して男山の山頂に建立したことに始まります.ご祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと=応神天皇)、比呼大神(ひめおおかみ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)を祀り、歴代城主の信仰も厚かったと言われています。1469年に大改築されたとの記録もありますが、1711年に姫路城主 榊原政邦が姫路城の守護神として新社殿を建立しています。しかし、不審火で1987年に本殿・幣殿・拝殿が焼失し、1990年に再建されています。代々の城主が信仰した戦の神々が祀られているそうです。

  • 男山八幡宮<br />最後の急登の先にあるのが男山配水池公園です。<br />

    男山八幡宮
    最後の急登の先にあるのが男山配水池公園です。

  • 男山配水池公園<br />男山は標高57.5mの山です。頂上にある公園からは、姫路城、仁寿山(じんじゅざん)、好古園、手柄山が見渡せ、「姫路城十景」に選定されています。長局の端にある「化粧櫓」や十景の中で唯一、姫路城の大天守と3つの小天守を見ることができる好立地ですが、住宅地にあるために訪れる観光客が少ない隠れた絶景スポットです。<br />頂上にある配水池は、町裏水源地から送水された水道水を一時的に蓄え、市街地へ配水している姫路市で最古の配水池です。1931(昭和6)年に完成し、鉄筋コンクリート造、長さ22.7m 、幅22.4mのもの2室からなり、有効水深30mで3000トンの水を貯えることができ、近代化産業遺産に指定されています。 中世〜近世の史跡と近代の史跡が同居しているのはなかなか興味深いです。

    男山配水池公園
    男山は標高57.5mの山です。頂上にある公園からは、姫路城、仁寿山(じんじゅざん)、好古園、手柄山が見渡せ、「姫路城十景」に選定されています。長局の端にある「化粧櫓」や十景の中で唯一、姫路城の大天守と3つの小天守を見ることができる好立地ですが、住宅地にあるために訪れる観光客が少ない隠れた絶景スポットです。
    頂上にある配水池は、町裏水源地から送水された水道水を一時的に蓄え、市街地へ配水している姫路市で最古の配水池です。1931(昭和6)年に完成し、鉄筋コンクリート造、長さ22.7m 、幅22.4mのもの2室からなり、有効水深30mで3000トンの水を貯えることができ、近代化産業遺産に指定されています。 中世〜近世の史跡と近代の史跡が同居しているのはなかなか興味深いです。

  • 男山配水池公園<br />男山は、「おほなむちすくな御神のつくられし 妹背の山を見るぞ嬉しき」と柿本人麻呂が詠んでいます。「おおなむち」とは大国主命のことで男山に鎮座し、「すくな」とは少彦名命のことで姫路城のある姫山に鎮座し、この2柱の神様が2つの山の妹背山を作られたことが述べられています。その後、7代孝霊天皇の御代(371年)、若建彦命(孝霊天皇の皇子で後の若建吉備津彦)が姫山に住み、その皇子長彦を男山の方に住まわせたそうです。この皇子は10代崇神天皇の姫宮 国方姫(くにかたひめ)を娶いまいした。その縁により、国方姫を白国に、長彦を男山に祀ったため、長彦山と呼んでいたこともあるそうです。

    男山配水池公園
    男山は、「おほなむちすくな御神のつくられし 妹背の山を見るぞ嬉しき」と柿本人麻呂が詠んでいます。「おおなむち」とは大国主命のことで男山に鎮座し、「すくな」とは少彦名命のことで姫路城のある姫山に鎮座し、この2柱の神様が2つの山の妹背山を作られたことが述べられています。その後、7代孝霊天皇の御代(371年)、若建彦命(孝霊天皇の皇子で後の若建吉備津彦)が姫山に住み、その皇子長彦を男山の方に住まわせたそうです。この皇子は10代崇神天皇の姫宮 国方姫(くにかたひめ)を娶いまいした。その縁により、国方姫を白国に、長彦を男山に祀ったため、長彦山と呼んでいたこともあるそうです。

  • 男山配水池公園<br />中央右側に連なる駱駝のこぶのような形をした山が仁寿山です。<br />姫路南では高い部類(標高175m)になる有名な山のひとつです。仁寿山は、広峰山と人気を二分する姫路の夜景スポットのようです。<br />仁寿山は、男山と同様に白亜紀の火山噴火後にできたカルデラ湖に火山灰や砂、泥などが堆積したものです。激しい火山活動が落ち着いた後、火山灰や砂、泥等が堆積してできた地層が固結し、やがて隆起してできた山です。

    男山配水池公園
    中央右側に連なる駱駝のこぶのような形をした山が仁寿山です。
    姫路南では高い部類(標高175m)になる有名な山のひとつです。仁寿山は、広峰山と人気を二分する姫路の夜景スポットのようです。
    仁寿山は、男山と同様に白亜紀の火山噴火後にできたカルデラ湖に火山灰や砂、泥などが堆積したものです。激しい火山活動が落ち着いた後、火山灰や砂、泥等が堆積してできた地層が固結し、やがて隆起してできた山です。

  • 男山配水池公園<br />男山の山頂から眺める天守群です。大天守の下、左から東小天守、乾小天守、東小天守と連なり、それらを結ぶ渡櫓や左下には腰曲輪の櫓群が望めます。3つの小天守が望めるのはここだけの特権です。<br />しかし、これだけ目立つ建物がよく太平洋戦争を生き残ったものだと感心します。<br />実は大天守にも姫路大空襲の際、焼夷弾が着弾したそうですが、幸運なことに不発弾で事なきを得たそうです。空襲の翌日、灰燼と帰した市街地の先に雄々しく聳える天守群を見て姫路市民は涙したと言われていますが、その気持ちが判るような気がします。名古屋城や岡山城、福山城などの貴重な天守が太平洋戦争で焼失した中、姫路城が残されたのは神がかりだったと言えます。

    男山配水池公園
    男山の山頂から眺める天守群です。大天守の下、左から東小天守、乾小天守、東小天守と連なり、それらを結ぶ渡櫓や左下には腰曲輪の櫓群が望めます。3つの小天守が望めるのはここだけの特権です。
    しかし、これだけ目立つ建物がよく太平洋戦争を生き残ったものだと感心します。
    実は大天守にも姫路大空襲の際、焼夷弾が着弾したそうですが、幸運なことに不発弾で事なきを得たそうです。空襲の翌日、灰燼と帰した市街地の先に雄々しく聳える天守群を見て姫路市民は涙したと言われていますが、その気持ちが判るような気がします。名古屋城や岡山城、福山城などの貴重な天守が太平洋戦争で焼失した中、姫路城が残されたのは神がかりだったと言えます。

  • 男山配水池公園<br />もう少し裾野まで構図に入れると、孤峰 姫山に聳え立つ姫路城の雄姿が実感できます。

    男山配水池公園
    もう少し裾野まで構図に入れると、孤峰 姫山に聳え立つ姫路城の雄姿が実感できます。

  • 男山配水池公園<br />西の丸の石垣に波のように覆い被さる桜の花です。<br />水尾神社の更に西側には姫路文学館があるのですが、現在は改修中で休館となっているため千姫の小径まで戻ります。

    男山配水池公園
    西の丸の石垣に波のように覆い被さる桜の花です。
    水尾神社の更に西側には姫路文学館があるのですが、現在は改修中で休館となっているため千姫の小径まで戻ります。

  • 男山配水池公園<br />足がすくむような階段ですが、9合目まではこの階段を降り、その先は男山八幡宮ルートに迂回することをお勧めします。

    男山配水池公園
    足がすくむような階段ですが、9合目まではこの階段を降り、その先は男山八幡宮ルートに迂回することをお勧めします。

  • 千姫の小径<br />船場川の左側にある桜並木のある細長い路が「千姫の小径」です。<br />船場川は姫路で一番水量の多い市川の支流ですが、調べてみると池田輝政の時代にはこちらが本流で今の市川が支流だったようです。それを本支入れ替えて船場川を支流にし、外堀兼運河としたそうです。当時としては大変な土木工事だったことでしょう。<br />

    千姫の小径
    船場川の左側にある桜並木のある細長い路が「千姫の小径」です。
    船場川は姫路で一番水量の多い市川の支流ですが、調べてみると池田輝政の時代にはこちらが本流で今の市川が支流だったようです。それを本支入れ替えて船場川を支流にし、外堀兼運河としたそうです。当時としては大変な土木工事だったことでしょう。

  • 千姫の小径<br />船場川で餌を獲っている白鷺です。

    千姫の小径
    船場川で餌を獲っている白鷺です。

  • 千姫の小径<br />千姫の小径は、姫路城の正面入口からなら内濠沿いに5分程の場所にある遊歩道です。内壕と船場川に挟まれた細い小路が南北に400m程伸び、路の両脇に分かれた水辺空間が心を和ませてくれる散策路で、花見シーズンには両側の土手から路に覆い被さるように桜が咲き誇ります。城内の喧騒を逃れ、静かにゆったりと桜を愛でることができる隠れスポットです。<br />この橋は、船場川に架かる妹背橋(いもせばし)です。池田輝政の時代には、この船場川は妹背川と呼ばれていたそうです。丁度この橋の左手に仰ぎ見られるのが西の丸「ルの櫓」です。

    千姫の小径
    千姫の小径は、姫路城の正面入口からなら内濠沿いに5分程の場所にある遊歩道です。内壕と船場川に挟まれた細い小路が南北に400m程伸び、路の両脇に分かれた水辺空間が心を和ませてくれる散策路で、花見シーズンには両側の土手から路に覆い被さるように桜が咲き誇ります。城内の喧騒を逃れ、静かにゆったりと桜を愛でることができる隠れスポットです。
    この橋は、船場川に架かる妹背橋(いもせばし)です。池田輝政の時代には、この船場川は妹背川と呼ばれていたそうです。丁度この橋の左手に仰ぎ見られるのが西の丸「ルの櫓」です。

  • 千姫の小径<br />内濠では、亀の親子がのんびりと甲羅干しの真っ最中です。

    千姫の小径
    内濠では、亀の親子がのんびりと甲羅干しの真っ最中です。

  • 西の丸<br />西の丸の石垣には、「横矢掛け」が見られます。石垣を真っ直ぐ平坦に積むのではなく、少し出っ張らせることで死角を封じ、その出っ張りから石垣に張り付いた敵兵を側面から射ることができる「合横矢(あいよこや)」と言う仕組みです。<br /><br />千姫の小径を過ぎた所で「好古園」を見学したのですが、そのレポは後程お届けいたします。

    西の丸
    西の丸の石垣には、「横矢掛け」が見られます。石垣を真っ直ぐ平坦に積むのではなく、少し出っ張らせることで死角を封じ、その出っ張りから石垣に張り付いた敵兵を側面から射ることができる「合横矢(あいよこや)」と言う仕組みです。

    千姫の小径を過ぎた所で「好古園」を見学したのですが、そのレポは後程お届けいたします。

  • 西の丸<br />江戸城の千鳥ヶ淵ほどのスケールではありませんが、桜と石垣のコントラストが美しいです。<br />西の丸「ワの隅櫓」は、百間廊下の入口に当たる櫓です。

    西の丸
    江戸城の千鳥ヶ淵ほどのスケールではありませんが、桜と石垣のコントラストが美しいです。
    西の丸「ワの隅櫓」は、百間廊下の入口に当たる櫓です。

  • 西の丸<br />西の丸は江戸時代になって千姫が嫁いできた際に新たに造成されたことがよく判ります。内濠の石垣の上に別の石垣が築かれています。下の方は野面積みですが、上の方は落し積みになっています。少し内側に隅石が埋まっていることから、増設した跡がよく判ります。<br />手前の石垣は2段になっており、その間には犬走りが見られます。

    西の丸
    西の丸は江戸時代になって千姫が嫁いできた際に新たに造成されたことがよく判ります。内濠の石垣の上に別の石垣が築かれています。下の方は野面積みですが、上の方は落し積みになっています。少し内側に隅石が埋まっていることから、増設した跡がよく判ります。
    手前の石垣は2段になっており、その間には犬走りが見られます。

  • 桜門橋<br />三の丸エリアは、明治時代に陸軍の駐屯地とするためと雨による崩壊とで全ての建物が取り壊されました。この高麗門様式の大手門は、かつての桐ニ門を1938(昭和13)年に復元したもので、江戸時代にあった大手門(桜門)の形とは異なっています。また、内堀に架けられた桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の橋をイメージして2007年に復元され、一見木造のように見えますが工事車両等の通行を考慮して鉄骨製になっています。表面に木製パネルを貼ることで木造のように見せています。

    桜門橋
    三の丸エリアは、明治時代に陸軍の駐屯地とするためと雨による崩壊とで全ての建物が取り壊されました。この高麗門様式の大手門は、かつての桐ニ門を1938(昭和13)年に復元したもので、江戸時代にあった大手門(桜門)の形とは異なっています。また、内堀に架けられた桜門橋は、発掘調査で出土した遺構を活かしながら、江戸時代の橋をイメージして2007年に復元され、一見木造のように見えますが工事車両等の通行を考慮して鉄骨製になっています。表面に木製パネルを貼ることで木造のように見せています。

  • 大手門<br />桜門橋を渡り、控柱に小屋根が載る高麗門と呼ばれる格式の高い大手門から城内へ入ります。意外と高さがあるのは、軍用車を通すためだったそうです。<br />金色に燦然と輝くのは、木下家定の家紋「五七の桐」紋です。羽柴秀吉の正室ねねの兄で、1585(天正13)年から16年間三層の天守の時代に在城しました。また、大手門の屋根の飾り瓦にも五七桐が使われています。<br />ここで注意したいのは、城内への入場時間が16:00までと言うことです。また、17:00時には退城しなくてはなりません。

    大手門
    桜門橋を渡り、控柱に小屋根が載る高麗門と呼ばれる格式の高い大手門から城内へ入ります。意外と高さがあるのは、軍用車を通すためだったそうです。
    金色に燦然と輝くのは、木下家定の家紋「五七の桐」紋です。羽柴秀吉の正室ねねの兄で、1585(天正13)年から16年間三層の天守の時代に在城しました。また、大手門の屋根の飾り瓦にも五七桐が使われています。
    ここで注意したいのは、城内への入場時間が16:00までと言うことです。また、17:00時には退城しなくてはなりません。

  • 三の丸広場<br />入口には、「世界遺産 姫路城」と刻まれた花崗岩製の石碑がどしりと構えています。<br />三の丸広場までは無料で入ることができます。

    三の丸広場
    入口には、「世界遺産 姫路城」と刻まれた花崗岩製の石碑がどしりと構えています。
    三の丸広場までは無料で入ることができます。

  • 三の丸広場<br />三の丸は、江戸時代には御居城と呼ばれる御殿や屋敷、向屋敷、庭園などがあった政務の中心地でした。現在は、大天守を目の前に望める憩いの広場として無料開放されています。<br />広場の周囲にはソメイヨシノが植えられており、満開の時期は大勢の花見客で賑わいます。特に入城口に繋がる広場横の桜並木通りは絶好の鑑賞スポットです。

    三の丸広場
    三の丸は、江戸時代には御居城と呼ばれる御殿や屋敷、向屋敷、庭園などがあった政務の中心地でした。現在は、大天守を目の前に望める憩いの広場として無料開放されています。
    広場の周囲にはソメイヨシノが植えられており、満開の時期は大勢の花見客で賑わいます。特に入城口に繋がる広場横の桜並木通りは絶好の鑑賞スポットです。

  • 三の丸広場<br />このように手軽にソメイヨシノと白亜の大天守の競演が愛でられる姫路城ですが、近い将来、この絶景が見られなくなることが危惧されていることはあまり知られていません。<br />城内にある約1000本の桜の木の大半はソメイヨシノですが、その大半は一般的寿命の60年を優に超え、70年を過ぎているからです。また、内濠から内側は国が全国61ヶ所で指定する「特別史跡」になっており、新たな植樹は事実上不可能なのです。従って、今ある桜を守っていくしかないのだそうです。<br />更に追い打ちをかけるのは、姫路市が2011年に文化庁などの意見も踏まえてまとめた整備基本計画が、酒井家が藩主だった時代(1749〜1868年)を「往時の姿」として再現することを目指していることです。ソメイヨシノは明治時代初頭に普及した園芸種のため、その時代に存在したとは考え難く、現在の姿はそもそも「不適当」と考えているようです。<br />実際に樹勢の衰えが顕著になっているようで、根が傷まないようにロープが張られています。しかし、それを無視して立ち入る写真愛好家もおり、その神経が理解できません。恐らく姫路城のソメイヨシノが空前の灯火であることを知らないのでしょう。

    三の丸広場
    このように手軽にソメイヨシノと白亜の大天守の競演が愛でられる姫路城ですが、近い将来、この絶景が見られなくなることが危惧されていることはあまり知られていません。
    城内にある約1000本の桜の木の大半はソメイヨシノですが、その大半は一般的寿命の60年を優に超え、70年を過ぎているからです。また、内濠から内側は国が全国61ヶ所で指定する「特別史跡」になっており、新たな植樹は事実上不可能なのです。従って、今ある桜を守っていくしかないのだそうです。
    更に追い打ちをかけるのは、姫路市が2011年に文化庁などの意見も踏まえてまとめた整備基本計画が、酒井家が藩主だった時代(1749〜1868年)を「往時の姿」として再現することを目指していることです。ソメイヨシノは明治時代初頭に普及した園芸種のため、その時代に存在したとは考え難く、現在の姿はそもそも「不適当」と考えているようです。
    実際に樹勢の衰えが顕著になっているようで、根が傷まないようにロープが張られています。しかし、それを無視して立ち入る写真愛好家もおり、その神経が理解できません。恐らく姫路城のソメイヨシノが空前の灯火であることを知らないのでしょう。

  • 三の丸広場<br />桜の寿命問題は、姫路城だけでなく吉野山や全国の桜の名所で懸案となっているものです。しかし姫路城の状況は特殊なので、こうした桃源郷を彷彿とさせる情景もやがては見られなくなるのでしょうか?<br />我々にできることを考えて行動していきたいと思います。

    三の丸広場
    桜の寿命問題は、姫路城だけでなく吉野山や全国の桜の名所で懸案となっているものです。しかし姫路城の状況は特殊なので、こうした桃源郷を彷彿とさせる情景もやがては見られなくなるのでしょうか?
    我々にできることを考えて行動していきたいと思います。

  • 三の丸広場<br />「チの櫓」の先が修理中です。ここは南西からの見所ですのでとても残念です。<br />修理自体は必要なものですが、もう少し景観に配慮したシートを用いるべきではないかと思うのは、当方だけではないような気がします。世界各国の世界遺産で改修工事が行われていますが、それなりに景観に配慮して元の景観をプリントしたシートを使われているのをよくみかけます。日本の文化のバロメータとも言えますので、是非ご検討をお願いしたいと思います。

    三の丸広場
    「チの櫓」の先が修理中です。ここは南西からの見所ですのでとても残念です。
    修理自体は必要なものですが、もう少し景観に配慮したシートを用いるべきではないかと思うのは、当方だけではないような気がします。世界各国の世界遺産で改修工事が行われていますが、それなりに景観に配慮して元の景観をプリントしたシートを使われているのをよくみかけます。日本の文化のバロメータとも言えますので、是非ご検討をお願いしたいと思います。

  • 三の丸広場<br />ここまで来ると西面の大千鳥破風がはっきり見られます。

    三の丸広場
    ここまで来ると西面の大千鳥破風がはっきり見られます。

  • 三の丸広場 天守の庭<br />登閣口(入城券売り場)右脇には、大天守の礎石が再現されています。<br />その前では、四方八方に威勢よく枝を伸ばす立派な老桜が迎えてくれます。<br />大天守は、350年もの間に南東方面に44cmほど傾いてしまったようです。その対策として、地盤沈下を防ぐために「昭和の大修理」で基礎を一部コンクリート製に替え、不用となった礎石を配置をそのままにしてこの天守の庭に展示しています。

    三の丸広場 天守の庭
    登閣口(入城券売り場)右脇には、大天守の礎石が再現されています。
    その前では、四方八方に威勢よく枝を伸ばす立派な老桜が迎えてくれます。
    大天守は、350年もの間に南東方面に44cmほど傾いてしまったようです。その対策として、地盤沈下を防ぐために「昭和の大修理」で基礎を一部コンクリート製に替え、不用となった礎石を配置をそのままにしてこの天守の庭に展示しています。

  • 三の丸広場 上山里下段石垣<br />正面下部の石垣は、上山里下段石垣と呼ばれ、羽柴秀吉の姫路城改築により積まれたと推定される古式な石垣です。隅角部の算木積が未発達なのが特徴です。信長の安土城とほぼ同時期と推定され、ほとんど加工せずに凝灰岩やチャートなどの石材をありのままに使用した野面積です。<br />羽柴秀吉は、中国(毛利)攻めのために小寺(黒田)官兵衛の姫路城を拠点とし、往時には珍しい三重の天守閣を持つ新しい城郭を築きました。当時、秀吉が官兵衛に宛てた「黒田家文書」によると、秀吉は最も頼りとする重臣で地域の事情に精通している官兵衛にも築城を命じており、この石垣も官兵衛が関わった可能性があります。

    三の丸広場 上山里下段石垣
    正面下部の石垣は、上山里下段石垣と呼ばれ、羽柴秀吉の姫路城改築により積まれたと推定される古式な石垣です。隅角部の算木積が未発達なのが特徴です。信長の安土城とほぼ同時期と推定され、ほとんど加工せずに凝灰岩やチャートなどの石材をありのままに使用した野面積です。
    羽柴秀吉は、中国(毛利)攻めのために小寺(黒田)官兵衛の姫路城を拠点とし、往時には珍しい三重の天守閣を持つ新しい城郭を築きました。当時、秀吉が官兵衛に宛てた「黒田家文書」によると、秀吉は最も頼りとする重臣で地域の事情に精通している官兵衛にも築城を命じており、この石垣も官兵衛が関わった可能性があります。

  • 三の丸広場<br />高台から見下ろすとボタン園の辺りは桜の杜のようです。

    三の丸広場
    高台から見下ろすとボタン園の辺りは桜の杜のようです。

  • 三の丸広場<br />手毬のように球状になって咲いている桜もあります。

    三の丸広場
    手毬のように球状になって咲いている桜もあります。

  • 三の丸広場<br />16:00に閉門された後ですので、人の数も徐々に減ってきました。

    三の丸広場
    16:00に閉門された後ですので、人の数も徐々に減ってきました。

  • 三の丸広場<br />桜の雲海に浮かぶ天守の美しさが際立ちます。<br />「日本三大桜名所」をも凌駕する、別格級の桜の名所と言えます。<br />

    三の丸広場
    桜の雲海に浮かぶ天守の美しさが際立ちます。
    「日本三大桜名所」をも凌駕する、別格級の桜の名所と言えます。

  • みゆき通り<br />商店街のアーケードを通り抜けてJR姫路駅へと戻ります。<br />天上のデザインは、社寺や城郭建築などに多く取り入れられてきた唐破風をイメージしているように思います。また、柱の根元に御影石をあしらうなど、和風のデザインを多く取り入れた斬新なアーケードです。

    みゆき通り
    商店街のアーケードを通り抜けてJR姫路駅へと戻ります。
    天上のデザインは、社寺や城郭建築などに多く取り入れられてきた唐破風をイメージしているように思います。また、柱の根元に御影石をあしらうなど、和風のデザインを多く取り入れた斬新なアーケードです。

  • みゆき通り<br />見下ろせば、足元にはカラフルなマンホールの蓋があります。<br />ご当地マンホールには、姫路市の花「サギソウ」がデザインされています。<br />姫路市では1966(昭和41)年にサギソウを姫路市花として制定しています。<br />姫路城の別名「白鷺城」に相応しいサギソウは、現在も市内に自生しているそうです。<br />姫路市立手柄山温室植物園には、「さぎ草栽培温室」があります。サギソウは夏の開花ですが、この温室の中で周年開花を行っており、いつでも鑑賞できます。<br /><br />この続きは、芳葩爛漫 播磨紀行 ③好古園(エピローグ)でお届けいたします。

    みゆき通り
    見下ろせば、足元にはカラフルなマンホールの蓋があります。
    ご当地マンホールには、姫路市の花「サギソウ」がデザインされています。
    姫路市では1966(昭和41)年にサギソウを姫路市花として制定しています。
    姫路城の別名「白鷺城」に相応しいサギソウは、現在も市内に自生しているそうです。
    姫路市立手柄山温室植物園には、「さぎ草栽培温室」があります。サギソウは夏の開花ですが、この温室の中で周年開花を行っており、いつでも鑑賞できます。

    この続きは、芳葩爛漫 播磨紀行 ③好古園(エピローグ)でお届けいたします。

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