2015/11/15 - 2015/11/15
2位(同エリア241件中)
montsaintmichelさん
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京都府のほぼ中央、「北山」と呼ばれる丹波山地にある南丹市美山町は、周りに屏風を立てた様な800~900m級の山々に囲まれた谷あいにひっそりと佇ずむ集落です。芦生原生林やそこを源流に日本海に注ぐ清流 由良川など、府内有数の自然の宝庫としても知られています。その知井地区北村には、豊かな北山杉を抱えた山を借景に、昔話の世界に迷い込んだような茅葺屋根ののどかな田園風景が広がり、日本の原風景を今に遺す心の古里そのものです。通称「美山 かやぶきの里」と呼ばれ、現在38棟の茅葺古民家が山裾に寄り添うように肩を寄せ合い、しかも現役バリバリの住居して活躍しています。
都会暮らしの経験しかない方でも、無性に懐かしさが込み上げてくる風景ではないでしょうか?茅葺屋根の古民家には、そんな不思議な魔法をかけられてしまいます。春は萌える新緑と山菜、夏は蛍の乱舞と綺羅星、秋は全山紅葉、冬は墨絵の雪景色と雪灯廊等々…。都会の喧騒を逃れ、心身共に癒されるスポットです。こうした誰もが思い描く原風景を求め、ここを訪れる人が日本のみならず世界中からも絶えず、年間70万人もの観光客が訪れるホットスポットになっています。
「かやぶきの里」観光マップです。
http://www.miyamanavi.net/wp/wp-content/uploads/KAYABUKIMAP2015.pdf
http://www.rakuten.ne.jp/gold/nisijin-ya/image/saijiki/miyama_map1.jpg
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
PR
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かやぶきの里
バスを降りると、昔話に登場するような素朴な山里風景が目の前に広がります。苔生した茅葺屋根、風に揺れるススキの穂、赤く色付いた柿の実、そしてゆっくりと流れる時間…。すべてが優しく、心穏やかにしてくれる山里がすぐ目の前に迫ってきます。
ひとつの集落にある茅葺家屋の棟数は岐阜県白川郷荻町、福島県下郷町大内宿に次いで第3位に甘んじますが、旧美山町全域には約180棟の茅葺家屋が遺され、その規模では全国一を誇ります。この茅葺家屋と豊かな自然の景観とが相俟って、美山を象徴する景観を創りあげています。また、伝統技法による建築物群を含めた歴史的景観の保存が高く評価され、1993年には周囲の水田と山林を含む集落全体が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。この保存申請には住民全員が賛成したそうで、これは全国でも前例のない素晴らしいことだったようです。 -
かやぶきの里
美山町は、2006年に園部、八木、日吉の旧3町と合併して誕生した総面積の96%が森林という南丹市にあり、旧町名はそのまま住所表示として残されています。地図を見ると判るのですが、珍しいのは市境が「4つの府県(大阪府、兵庫、滋賀、福井県)に隣接」していることです。4つの府県に接している市は、ここ以外では岐阜県高山市と埼玉県秩父市のみだそうです。 -
かやぶきの里
北村は由良川の最上流にある「西の鯖街」沿いに開けた集落で、雛壇を彷彿とさせる緩い斜面に茅葺古民家が折り重なるように密集する景観がほのぼのとさせます。北山型入母屋造と呼ばれる、美しさだけでなく包容力を兼ね備えた茅葺古民家の多くは、その文化的価値を国内外から高く評価されています。
日本各地で茅葺民家が失われつつある現在、貴重な歴史的景観を守る役割を担う存在ともなっています。集落では、お店を開くことは自粛し、昔の雰囲気を残すように努められています。ただし現状は、どの農村集落も同じですが、過疎化のあおりで高齢化が進み、小学生は数名しかいないそうです。 -
かやぶきの里
美山の茅葺古民家群は、白川郷ほどスケールの大きなものではありませんが、こじんまりと寄り添うように建てられています。ですから、観光色が白川郷ほど濃くないのも魅力のひとつです。ほのぼのとした素朴さがあり、洗練されていない分、かえって心穏やかになれます。
白川郷は男性的な合掌造、美山の北山型の茅葺古民家は入母屋造の鳥居組で女性的な感じを醸していると紹介されていますが、そう言われてみると確かに里山全体が穏やかな雰囲気を湛え、旅人を優しく迎え入れてくれます。 -
かやぶきの里
田園風景と茅葺屋根の集落の風景が、まるで映画の1シーンを切り取った一幅の絵画のようです。実際、この村は何度か映画などのロケ地になっているそうで、TVドラマシリーズ『水戸黄門』の最終回のロケ地はここだったそうです。 -
かやぶきの里
入母屋造の特徴ある建築様式は「北山型」と呼ばれ、北村にある50戸の家屋の内、38棟(内4棟が板金覆い)が茅葺民家として現存します。北村地区にある最古の茅葺民家は1796年(寛政8年)建築のものですが、19世紀中頃迄の建物が18戸と江戸時代に建てられたものが多く遺され、北山型の特徴をよく伝えています。
「かやぶきの里保存会」を組織し、歴史的景観の保全と地区住民の生活との両立を目指し、村が出資して「有限会社かやぶきの里」「お食事処きたむら」「北村きび工房」「民宿またべ」「お土産処かやの里」「かやぶき交流館」を一体的に運営しています。また、「民俗資料館」を管理・運営し、訪れた人々に連綿と受け継がれてきたこの地域の生活の様子を紹介しています。
ゆっくりした時間の流れと日本の原風景を心行くまで味わっていただきたいものです。 -
かやぶきの里
手前にある郵便ポストは、美山かやぶきの里のランドマーク的存在です。丸いレトロなポストが田舎の風景によく映えます。
美山の風景が日本郵政の2013年の年賀状のCMのラストシーンで流された時、映しだされたポストです。色彩的によいアクセントになっています。
ところで、今年11月4日に日本郵政グループが株式を同時上場し、紙上では「巨鯨」上場との文字が躍っていました。かつての郵便局のイメージから、「かんぽ生命」の知名度は「日本郵政」や「ゆうちょ銀行」に負けてしまうような気がしますが、実際の稼ぎ頭は「かんぽ生命」だそうです。一方、過去の契約が徐々に満了を迎え、保有契約件数は減少傾向にあるようです。
新規上場株の場合、市場に上場する前に公募価格を決定しますが、通常は応募者多数のため抽選になります。公開時に儲かる可能性が高い銘柄ほど、当選倍率が上がり宝くじのようになってしまうそうです。2015年の新規上場株は66社あり、そのうち56社の初値が公募価格を上回ったそうです。勝率84.8%!我が家には無縁な株ですが…。 -
かやぶきの里
西の鯖街道沿いに祀られている地蔵尊とシロガネヨシ、茅葺古民家のコラボレーションです。
シロガネヨシは、イネ科ソロガネヨシ属の多年草で、南米が原産地です。英名「パンパスグラス」、別名「おばけススキ」とも呼ばれます。
背丈が高く、羽毛のようにやわらかい白銀色の花穂を付けます。 -
かやぶきの里 辻の地蔵堂
集落の入口に祀られている地蔵尊です。
この山里で生活を営む村人を優しく見守ってくれています。
地蔵尊の視線の先が気になるのですが、どうやら赤いポストを見ているような??? -
かやぶきの里
集落の所々に設けられた入母屋造の黒い小屋の中には、放水銃が格納されています。茅葺民家の大敵は火事だからです。2000年に発生した民俗資料館の不審火をきっかけに、火に弱い茅葺民家を延焼から守るため、2002年に集落内の各戸に放水銃(計62基)が設置されました。普段はこの収納箱の中に収納されていますが、使用時は自動で小屋の屋根が開き、放水銃が迫り出す仕組みになっています。
毎年5月と12月には、地域住民の火災予防講習と放水銃の点検の為に一斉放水が行われます。TVニュースで見られた方も多いのではないでしょうか?かやぶきの里全体に水が放たれる姿は実に壮大なスケールで絵になる光景です。美山の一大風物詩ともなっており、これを目当てに訪れる観光客も多く、皮肉にも火災予防訓練の際に水が描く放物線と茅葺屋根の対比も観光資源のひとつになっています。集落内では、花火や歩きたばこ、焚火は、厳禁です。日本が世界に誇れる貴重な文化財を守るため、観光客の我々も火災には気を付けたいものです。 -
かやぶきの里 吉之丞 (きちのじょう)
食レポのようで恐縮ですが、観光客がお得意さんのため、売り切れ仕舞いのために真っ先に向ったのがこのショップです。
北村地区の東端、位置的には知井八幡宮下にあり、2008年にオープンした米粉パンの製造・販売店です。開店は10時ですが、こんな山里でも行列ができるほど有名なショップです。
このようにグリーンの幟が立っていれば、営業中だそうです。これなら遠くからでも判ります。
このショップの本業は農家です。パン作りを始められたきっかけは、「お米の食パンを食べて感動し、自分の子どもにも食べさせたかった」からだそうです。添加物を入れれば日持ちしますが、それは自分の子供には食べさせたくなかったそうです。故にここのパンは、実に優しい、素朴な味わいがします。素材な味を愉しんで欲しいとの思いが詰め込まれたパンです。 -
かやぶきの里 吉之丞
店名「吉之丞」はご先祖様の名前で、看板の文字は亡きお父様の直筆だそうです。ショップは、納屋を改装したもので、茅葺屋根ではありませんが、雰囲気のある地元杉無垢材で造られた建物外観は山里の景観に溶け込んでいます。 -
かやぶきの里 吉之丞
種類も豊富で、季節により玄米、チーズ、くるみ、枝豆、餡、玉葱、ポテサラパンなどがあります。勿論、美山の無農薬米や地元産の食材に拘ったパンで、6次産業化への取組みのお手本とも言えます。
ラッキーなことに沢山残っていましたが、一番人気のポテサラパンは早々に「SOLD OUT」でした。それでもいろんな種類がゲットできました。
米粉85%ですので生地はお餅のような食感ですが、想像以上のもちもち感に吃驚でした。また、普通の米粉パンよりもしっかりしたご飯の味がするのが特徴で、噛めば噛むほどお米の味がして美味しかったです。 -
かやぶきの里 恩谷川
集落を散策する前に、この地を鎮守する八幡宮にお参りしておきます。
恩谷川に架けられた石橋を渡ると石段があり、その先の鳥居が境内へと誘ってくれます。 -
かやぶきの里 知井八幡宮
参道の傍らには真紅に染まった紅葉が映えます。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 鳥居
日本の原風景とも言える農村は、鎮守の神と縁が深いものです。この狭いかやぶきの里にも知井(ちい)八幡神社や北稲荷神社、鎌倉荷神社、津本社があります。古来より交通の要衝だったこの地の神社に、人々は暮らしと旅の安全を祈願したことでしょう。
知井八幡宮は集落の東端に佇んでいます。南前方に由良川を望む斜面に鎮座し、知井9ヶ村の総社として祀られています。創祀は1071(延久3)年とされ、祭神として応神天皇、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、建御名方神(たけみなかたのかみ)の3柱を祀っています。また、本殿の左脇に知井一ノ宮明神、右脇に諏訪明神があります。
案内板によると、本殿には阿弥陀如来像が安置されていようですが、恐らく八幡大菩薩なる本地仏が神仏分離をうまくやり過ごし、現在も祀られているのでしょう。
現在の本殿は、1767(明和4)年に再建されたものですが、建物や装飾彫刻は江戸時代中期以降の丹波の寺社建築を代表する社殿と称されるほど立派な物です。美しい彫刻が惜しみなく施された社殿であることから、この集落の古の繁栄ぶりが偲ばれます。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 狛犬
狛犬は中肉中背の均整の取れた形をしていますが、味わいのある豊かな表情をしています。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 狛犬
阿形の狛犬は笑っているのか泣いているのか微妙な表情を投げかけ、こちらも思わず頬が弛んでしまいます。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 境内
山門、拝殿(神楽殿)、本殿と一直線に連なる立派な境内です。
由緒書には興味深い伝説が記されています。
「伝承によると、713(和銅6)年に妖怪が出没、人々を恐怖におとしいれた。天皇の命を受けた占師は、丹波の奥山に棲む8つ頭の大鹿の仕業と判じた。天皇は直ちに甲賀三郎兼家に命じて大鹿退治に当たらせた。首尾よく退治に成功した兼家は神恩に感謝して、その地に建てた社が知井八幡神社の起源とされている」とあります。因みに、諸神の加護を祈って矢を作り弓を削った地が現在の京北弓削だと言われています。
スサノオが退治した8つの頭の蛇「ヤマタノオロチ」なら古事記にも登場しますが、鹿というのは想像すらできません。頭が8つもあれば、お互いの角が絡まってしまうのでは…。恐らく、古代には大鹿に例えられた8人に及ぶ皇室への反逆勢力がこの里に住んでいたのでしょう。
その後、1071(延久3)年に八幡神が勧請され、当初は南村の上宮山に鎮座していましたが、1567(永禄10)年に山津波により社殿が大破し、1570(元亀元)年に一ノ宮明神が祀られていた現在地に遷座再建されたとしています。
しかし、甲賀三郎兼家は伝説上の人物とされ、神社の創建を和銅年間とするのは疑わしいようです。そのため、創祀は1071年とされています。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
棟札には、かつて1666(寛文6)年に京都の村岡清右衛門、鈴木権兵衛が棟梁となって建て替えたと記されていたそうです。また、現在の本殿と拝殿(神楽殿)は、兵庫県三木の大工 室田利兵衛と小浜の桧皮葺職人ならびに京都の彫物師によって建立されています。
本殿は、三軒社流造で、屋根は銅板葺、軒には唐破風や千鳥破風、向拝などを組合わせ、向拝部の蟇股や木鼻、懸魚などには繊細な彫刻が施されています。本殿は、こうした彫刻と共に江戸時代中期以降の丹波地方の大型神社本殿建築の遺構として貴重なことから、府の文化財に指定されています。また、境内全域が京都府文化財環境保全地区に、本殿の右側に聳えるご神木「北八幡宮のスギ」(杉:樹高45m、幹周5m)が美山町の天然記念物に指定されています。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
写真を撮っている時はさほど気になりませんでしたが、こうしてみると結構ザーザー振りの雨だったようです。
唐破風の兎の毛通し(懸魚)には菊の彫刻。向拝の蟇股では、何と邪気が顔をしかめながら支えています。寺院の塔ではよく目にする邪気ですが、神社の本殿、それも真正面に配されたものには初めてお目にかかりました。
通常、向拝の龍の彫物が配される場所には、中央には松に鳥、左右には二十四孝「孟宗」と「楊香」の親孝行物語を彫り込んでいます。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
八幡神社や八幡宮の神使は鳩のため、本殿の彫刻にも虹梁の左右に持ち送り状の鳩が配されています。枝に留まった自然体をしていますので、意識していないと見過ごしてしまうかもしれません。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿 二十四孝 孟宗
三国時代、孟宗という名の男がおりました。幼い頃に父親を亡くし、年老いた病気がちの母親と暮らしていました。母親の病気が悪化し、もう長くはない状態でした。丁度、真冬の頃、母親は急に筍が食べたいとせがみました。親孝行の孟宗は、雪まじりのおぼろ月夜の下、一人で竹林にでかけました。冬に筍があるはずもないが、母親に筍を食べさせてあげたい一心で涙ながらに天に祈りながら雪を掘り続けました。これには天もさすがに心を動かされたのか、目の前の雪があっと言う間に融け、地面がパックリと割れ、そこに真新しい筍がいくつも生えてきたのです。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母親に与えました。すると、たちまち病が奇跡的に癒え、その後天寿を全うしたそうです。これも深い孝行の思いが天に通じたためでしょう。この話が、「孟宗竹」の語源と言われているそうです。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿 二十四孝 楊香
普朝の時代、楊香という14歳の若者がいました。ある時、父親と一緒に畑を耕しに山に入ったところ、突然、山の中から一頭の白い額の虎が現れて2人を食べようとしました。楊香は虎が去る様に願いましたがそれが叶わないと悟ると、父親が食べられないように「天の神よ、どうか私だけを食べ、父親は助けて下さいませ」と懸命に願いました。すると今まで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子は虎に食われることなく、無事に家に帰ることができたたというお話です。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿 手挟み
手挟みに配された鳳凰の彫刻は見応えがあります。
それも表裏異なる意匠で計4体を配しています。
もうひとつの見所は、虹梁の下場に彫り刻まれた錫杖紋です。お見逃しなく!
錫杖は、僧や修行者が持つ金属性の頭部を持つ杖です。元々はインドで旅行者が猛獣や毒蛇などを追い払うのに用いたものだそうです。厄払いの意があるのかもしれません。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿 手挟み
祭神に応神天皇と建御名方神を並べているのは興味深いところです。
関裕二著『卑弥呼はふたりいた』には、応仁天皇と建御名方神は同一人物で、神功皇后(ヤマトの卑弥呼=職名)が三韓征伐からの帰還後に生んだ皇子が応神天皇だと唱えています。皇后母子はヤマトに戻ろうとしましたが、異母皇子とその取り巻きたちが世継ぎを邪魔しようと暗躍しており、皇子の命を狙われたために信州へと逃れました。そこで我が身を犠牲にして皇子を諏訪湖へ落ち延びさせたと記されています。
「記紀」には同じ人物を時代を超え、また別名で語る巧妙なトリックが駆使されていることは周知の事実ですので、考えようによってはあり得ることかもしれません。ジグゾーパズルの小さなピースをひとつずつ嵌め込んでいくのが古代史の謎解きの愉しみ方です。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿 手挟み
八幡神は全国区ですのでその由緒ははっきりしていると思っていましたが、意外にも「記紀」の世界に負けず劣らず謎を孕んでいることに吃驚です。どうやらパンドラの箱を開けてしまった感じです。「八幡神とは何者か」からはじめると一冊の本になってしまうため、ダイジェストで紹介します。実際、八幡神社に関する書籍を読んでも、「謎な部分が多い」といったニュアンスだけが伝わってくるばかりで、逆に謎が深まってしまいます。
簡潔に言えば、元々は渡来神であったものが、宇佐神宮を総本社として分霊し、石清水八幡宮、さらに鶴岡八幡宮から各地に分霊勧請されたものです。一般的には「三座一体」と言い、応神天皇と比売神(宗像三女神)、神功皇后を一緒に祀ることが多いようです。歴史好きの方なら清和源氏や桓武平氏の守護神(軍神)というイメージが強いはずです。稲荷神に次いで神社数が多く、北は蝦夷地の箱館八幡宮から南は琉球の安里八幡宮まで、身分職業を問わず全国的に信仰され、この普遍性が八幡神の最大の特徴とも言えます。
伝承では八幡神の祭神は応神天皇とされ、『古事記』を読み解くと応神天皇には僅かながら新羅王家の血が混ざっていると明かされており、その応神天皇の御霊が半島から海を渡って来た八幡神と合体したとの解釈もあります。しかし、不思議なことに八幡神は『古事記』や『日本書紀』には登場しません。また、一説には、八幡神の「幡」は「秦」であり、渡来帰化人の秦一族が開祖に当たり、祭神は神武天皇との説もあります。
さらに、一般論として言えるのは、八幡神が朝鮮半島経由で伝来した仏教と早い時期に融合したということです。仏教が伝来した時、八幡神はこの「異教」を最初に甘受し、また自らの中に同化したとされています。その後全国へ仏教が浸透するに伴い、八幡神も一緒に浸透し、これによって八幡神はあらゆるパワーを授かりました。武神や水神としての力、あるいは田畑の神、工芸の神としての力等々…。このように全知全能の神として崇められている万能神は、八百万の神の中にも見られない特異な存在でもあります。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿 手挟み
八幡神の神使は「鳩」と言われています。春日大社の神使は鹿、稲荷神社は狐、熊野神社は八咫烏、天満宮は牛と言ったように神話や神社の縁起に基づいて固定化しています。
しかし歴史家は、「鳩が八幡宮の神使として用いられるようになった起源は不明」と説いています。一方、狛鳩で有名な三宅八幡宮のHPには、出典不明ながら「宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡様を勧請した際、白い鳩が道案内をしたことが由来」とあります。また、高田十郎編『大和の傳説』には、「神功皇后の三韓征伐の折、後の応神天皇が誕生され、大安寺近くのコモ川の堤に子を置いて出征され、それを鳩が養育した」とあり、八幡宮を安産の神とする根拠にもなっています。(『古事記』では、生まれたのは征伐から還る途上になっています。)この他にも諸説ありますが、真偽の程は不明です。
その中で有力な説は、総本山 宇佐八幡宮に伝わる『宇佐神宮託宣集』の記録です。「欽明天皇の御世に突如、金色の鳩が現れ、池の周りに茂った竹の葉に留まると3歳の童子と化し、自らを『誉田天皇広幡八幡麻呂(ほむだすめらみことひろはたやはたまろ=応神天皇&八幡神)』であると称した」との記述があります。
実際、江戸時代までは「八幡鳩」という鳩が見られたそうです。全身柿白色に覆われ、頂の下に蒼黒い輪があって数珠を懸けているように見えたそうです。金の鳩とは、「八幡鳩」のことだったかもしれません。我々が鳩と聞いてイメージする平和の象徴やイエスの聖霊の白鳩とは種類が違うようです。
さらに時代が下ると、『平家物語』は「鳩は八幡大菩薩の第一の使者なり」と記しています。つまり、この時代には勝利を呼ぶ瑞鳥として武運を祈る鳥として崇められ、特に「向い鳩」は八幡の八を表す縁起物とされたようです。
因みに、宇佐八幡宮では、今でも「鳩換神事」という催しが続けられています。神事の前日に町で番号の付いた換鳩が売られ、買った人は当日神宮に集まって鳩を交換し、当選番号の付いた鳩を持っていた人には金鳩・銀鳩が授与されるそうです。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
八幡宮の神使は本来「鷹」であり、現在「鳩」としているのは、鷹の古名である爽鳩(そうきゅう)を鳩と誤認したものと一蹴する説もあります。この説は、八幡宮の創始者 秦一族の象徴が「鷹」だったことを絡めて説いています。実は、先程の『宇佐神宮託宣集』には、「金色の鷹が鳩に身を変え、さらに金色の鳩が鳩に身を変えた」とも記されています。この話に登場する池は薦八幡宮の「三角池」とされ、その中には三柱鳥居が立っていたそうです。これは水に関する秦一族の象徴を示すもので、天の太気の力を上面から集め、それを蓄えて地の三本の柱の間から放出することで全てが糺されるとしています。すなわち「糺す」と呼ばれる鳥居です。この三柱鳥居は、秦氏発祥の太秦 蚕の社にあることから、秦氏起源説に繋がるのです。
一方、神武東征では、道案内した八咫烏以外に国譲りの要所で金色の鳶(とび)(=金鵄(きんし))が登場します。神武軍が先住民族の覇者に押し返され戦況が芳しくない中、神武が意を決して最期の突撃にかかろうと空を見上げた時、遙か天空から金色の鵄が飛来し、神武の構えた弓に留まり、雷光の如く照り輝きだしました。光を浴びた長髄彦軍は、目が眩んで戦意を喪失して敗走しました。反撃の軍議を開いた長髄彦の前に歩み寄ったのは、彼の片腕となっていた饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)でした。饒速日尊が八握剣(やつかのつるぎ)を一閃すると、長髄彦の首が地に落ちました。饒速日尊は神武天皇の陣へと赴き、ヤマトの支配権を献上し、これで国譲りが晴れて成立します。
これは、元を糺すならば鳩も金鵄(きんし)も鷹の誤認であり、さらには「応神天皇」ではなく「神武天皇」を意味するとする説です。しかしこれも吃驚することではありません。一説には、初代天皇=神武天皇=応神天皇とも言われているのです。こうした謎解きを愉しむことができることを、古代史を複雑怪奇にしてしまった張本人の藤原不比等に感謝せねばなりません! -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
木鼻の獅子の表情が生き生きとしており、それぞれとてもユニークです。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿 右側妻入
木鼻には獅子や獏だけでなく、一番奥は麒麟が彫られています。柱の面取りには几帳面取が施され、享保年間の大工さんの意気込みとユーモアと腕の確かさがよく伝わる名建築と言えます。
かやぶきの里の集落が街並みの国宝「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されていますが、この知井八幡宮の本殿も、美山の誇る文化遺産と言っても過言ではありません。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
木鼻の獏の彫刻です。
獏も素晴らしい作品ですが、彫物師が意図したのかどうかは不明ながら木目の美しさに魅せられる一品です。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿 左側妻入
左右で阿吽のパターンになっています。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
側面にある板扉の彫刻は、左側が「牡丹に獅子(唐獅子牡丹)」です。
縁起の良い組合せとして使われる「獅子に牡丹」という言葉は、「獅子身中の虫」の諺が由来との説があります。
「獅子身中の虫」とは、獅子の体内に寄生しておきながら、獅子を死に至らせる害虫の意味です。元々は仏教用語で、仏教徒でありながら仏教に害をもたらす者を例えた表現だそうです。
その「寄生虫」から我が身を守るには、何か薬になるものを飲まなくてはなりません。その薬となるのが、牡丹の花に溜まる朝露です。そのため、獅子は牡丹の花から離れることができない運命ということになっています。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
右側が大胆な構図で勢いがある「登竜門(鯉の滝登り)」です。
左右で異なったモチーフが彫られています。
竜門とは、中国黄河の上流にある竜門山を切り開いてできた峡谷の名です。一名を河津とも言い、非常に急湍で、流れを遡る大魚も容易にはここを登り切れません。ここを遡ることができた鯉は竜になるという『後漢書』李膺伝(りようでん)の故事から、立身出世の関門を言います。鯉の滝登りとも言われ、鯉幟という風習の元になっています。
その故事とは、実力者 李膺に才能を認められれば出生が約束されたも同然で、認められた人は竜門に遡った鯉に喩えられたと言うものです。
因みに、「登竜門」の反意語は「点額」です。額はおでこであり、点は傷つけるの意です。竜門を登ろうとして急流に挑んだ魚たちが、水勢に打ち負け、辺りの岩角に額を打ち付け、ダメージを受けてさらに下流に転落すること、つまり出世競争の敗北者を指します。 -
かやぶきの里 知井八幡宮
本殿の左に佇むのが知井一ノ宮明神です。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
妻入りには鶴、その下には松と梅が彫られています。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
背面の木鼻は獏で統一されています。
獏は交互に阿吽の形となっています。 -
かやぶきの里 知井八幡宮
本殿の右脇にちょこんと佇むのが諏訪明神です。 -
かやぶきの里 知井八幡宮 本殿
鶴の下には牡丹と楓でしょうか? -
かやぶきの里
恩谷川の護岸にある「やすらぎの谷」散策路から見る茅葺古民家です。
集落内の茅葺民家は山麓の緩やかな傾斜地を整地して建ち、正面には石垣を築いています。昔話に出てくる古民家を思わせる北山型入母屋造には、次のような特徴があります。一般的な葺き方の寄棟造(屋根が4面)と、切妻造(屋根が2面)の両方の特色を兼ね備えています。
1. 家の中が田の字型の4間の間取りになっている。
2. 壁や戸が木でできている(板壁板戸)。
3. 土間は戸外より一段(30cm程)高くしてあり、「上げ庭」と呼ばれる。
ほとんどが江戸時代中期〜後期に建てられたものですが、内側は現代風に改造されており、今でも上に記したような特徴を全て遺している民家はほとんどないそうです。
茅の葺き替えは、一部を葺き替える部分葺きだそうです。かつては屋内で煮炊きしたため燻煙効果で50年程持った屋根が、煮炊きをしない現在では南面は20年程、北面は15年で朽ちてしまうそうです。葺き替えには800〜1000万円の費用がかかり、国が9割を補助するとはいえ茅葺屋根を維持していくのは大変なことのようです。
村の人たちは、不便な生活を強いられながらも「売らない、壊さない」をモットーに景観の保存と再生に努めておられます。これってすごいことですよね! -
かやぶきの里
茅葺屋根とたわわに実った柿は、まさに田舎の風景のイメージそのものです。何気ない風景ですが、ふと足を止めたくなります。
この辺りは地理的には丹波国に属し、荘園時代の昔から暮らし向きは山稼ぎで、家屋は周りの山や自然の恵みを資材にして建てられています。若狭と京都のほぼ中間点に位置し、集落の中を貫く街道は、かつて若狭の小浜から京へ塩や鯖を運ぶ「西の鯖街道」でした。多くの旅人が往来したという歴史から、この集落の建築や生活様式は様々な地方の影響を色濃く残しています。日本海側特有の豪雪に耐える造りながら、京の都の影響を受けた繊細な美しさも垣間見られ、一味違います。 -
かやぶきの里
緩い傾斜地に茅葺民家が密集し、集落を細い道路が縦横に走る様は、日本の原風景を偲ばせます。民家の4割は、江戸時代に建てられたものだそうです。その伝統様式は、丈の高い茅葺屋根と入母屋造、周囲に下屋を巡らし、棟をほぼ東西方向に揃え、神殿を彷彿とさせる棟飾りの千木や破風の意匠などの構造美に見られます。
重い栗の木を組み合わせて棟を覆う構造の千木は、地元では「馬乗り」と呼ばれ、積もる雪を滑り易くするものです。置千木とも言い、木を組合わせて棟を覆う構造で、木材の豊富な地域特有のものです。千木の上に架けられた丸太は雪割で、「烏どまり」とも呼ばれます。千木と合せて茅を押さえる錘の役割を果たし、屋根を安定させる効果があります。 -
かやぶきの里
「棟は家の顔」とも称され、屋根の天辺に君臨する千木の縦板(馬乗り)は建物を守る重要なもので、住人の拘りのひとつだそうです。
古来より、人々は自然の恵みへの感謝の気持ちを屋根に込め、長い間自分達を支えてくれた代表的な材料を用いて屋根を飾ったそうです。この山里のシンボルは栗の木でした。栗の木を使って棟を守ることは、自分達の暮らしを守ることに繋がります。ですから、千木のある茅葺屋根は、自然を敬い、自然と寄り添って暮らしてきた日本人が創ったひとつの美の形とも言えます。そしてそれは、風景に溶け込み、自然の一部に同化する屋根にほかなりません。 -
かやぶきの里 ちいさな藍美術館
千木の数はほとんど5本ですが、2軒だけ7本ある家があり、それが「ちいさな藍美術館」とお食事処「きたむら」です。築200年の古民家を改装した「ちいさな藍美術館」は、美山の清流と風景に惹かれて京都市内から移り住んだ藍染作家 新道弘之氏の自宅兼工房です。屋根裏は氏のコレクションを展示するギャラリースペースにもなっています。
「ちいさな藍美術館」は、1796(寛政8)年に旧中野八郎右衛門家として建てられた茅葺古民家を改装したものです。若狭国小浜の大工 河嶋忠兵衛が普請した建物であることが屋根裏から発見された棟札により判明したそうです。北村でも一番大きく古い茅葺民家で、千木の数から往時の庄屋の家屋だったことが窺えます。
因みに、日本で1番千木の数の多い建物は、11本ある伊勢神宮だそうです。 -
かやぶきの里 お宿 とみ家
苔生した茅葺屋根に白塗りの板壁と木壁、石積みのコントラストと配色が情緒をくすぐります。
板壁に並べられているのは、左から手押し式草刈機、足踏式脱穀機、籾摺機です。
築140年以上経った茅葺古民家を改装した宿です。重要伝統的建造物保存地区のほぼ中央に位置し、名物の手作りの野菜を使った田舎料理が愉しめます。秋から冬にかけては、囲炉裏端で鍋料理でもてなしていただけます。
客室はわずか4部屋定員12名のこじんまりとした民宿ですが、家屋の中心にある囲炉裏が魅力です。火災防止のため、全部屋禁煙です。美山のおいしい空気をいっぱい吸って下さいと言うことになっています。 -
かやぶきの里
すっかり葉を落とした柿の木にはポツン、ポツンと取り残された実が熟し、苔生した茅葺屋根に映えています。
北面は陽が当たらない分、苔の量が半端ではありません。 -
かやぶきの里 お宿 久や
築130年ほどの古民家を改装し、2007年からり農林漁業体験民宿業の施設として営業されています。お風呂は、自然文化村にある河鹿壮で入れるようです。
料理は他の民宿と同等です。和室3室で収容人員13名です。 -
かやぶきの里
なかなかイメージ通りの写真が撮れません。写真でしか見たことがないのですが、白川郷の茅葺古民家の残像がちらついたせいかもしれません。ファインダーを覗きながら、何か異質なものが映り込んでしまう感じが強いのです。
暫く散策した後、美山には「生活感が同居」しているせいだと気付かされました。茅葺の棟に連なるようにスレート屋根が繋げられ、温水器や乗用車など文明の利器が雑居しています。茅葺の伝統を守りながら、一方では生活の利便性を追求する建物や設備が同居しています。白川郷のような観光地化された茅葺民家をイメージしてしまうとなかなかシャッターが押せません。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館
築200年ほど経つ中階層の農家の形を残した「伊助」と言う屋号の古民家でしたが、2000年に放火され、母屋、納屋とも消失してしまったようです。その後、2002年に行政や関係者の努力により北山型民家の特色のひとつの「上げ庭」を土間に復活させるなど、マイナーチェンジも加えて再建されています。
母屋を中心に納屋、倉の三棟で構成され、母屋では生活の様子、納屋では農業や山仕事の道具など、倉では行事の物や古文書や生活の什器類などが展示されています。母屋の屋根裏にも上がれますので、茅葺屋根の内側を間近で見ることができます。
また、古い農機具や生活道具など約200点以上が地区内で再調達され、美山のかつての暮らしぶりを垣間見ることができます。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館
この集落では現在進行形で日常生活が営まれているため、ここが内部を見学できる唯一の施設となります。復元ではなく再建ですが、丸太や台所のすのこ、天井の竹などに囲炉裏の煙で燻された黒光りする古材を使うなど、古民家の味わいを演出しています。
不審火は悲惨な出来事でしたが、これをきっかけに放水銃の整備や住民、観光客の防火意識が高まったことは、この里を守っていくためにも大切なことだと実感できました。
因みに、入館料は300円ですが、「美山ネイチャー号」のネームプレートを見せれば50円割引になります。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 土間
玄関を入った刹那、200年前にタイムスリップしたような気分に満たされます。
炊事場は玄関の脇に設けられ、土間には竈(かまど)が置かれています。土間は狭く、戸外よりも一段高くした「上げ庭」になっています。これは、空間スペースをできるだけ小さくして囲炉裏の熱で室内を暖まり易くする知恵だそうです。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 土間
蓑と笠は、藁などで作られた雨具です。通気性に富み、軽くて動き易かったそうです。
草鞋の奥には拍子木が吊り下げられています。拍子木は「火の用心」と言いながら、夜間、集落を見回りする時に使ったそうです。茅葺民家の必需品と言えます。
その右隣がヒエとホオズキを乾燥させた物、番傘と続きます。
ヒエは雑穀ですが、痩せ地や寒さに強く、戦前は穀物として植えられ、米や麦の代わりに食べられていたようです。戦後は手のひらを反したように雑草扱いされましたが、栄養価が高く、近年は健康食品として見直されているそうです。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋
天井の竹は煙に燻された様子を再現しています。小豆色に変色し、美しい光沢を帯びています。天井に使われる竹はスス竹と呼ばれ、竹駕籠などの工芸品の材料として重宝される種類だそうです。
中央の棟木の筋で部屋を分け、食い違いの4つの田の字型の間取りになっています。ここで7〜9人が生活していたそうです。
手前の居間は、囲炉裏の回りに男座、女座が決められています。また、囲炉裏の上には、火の粉止めに一段低い天井の火棚「小天(こあま)」が吊られています。 美山の囲炉裏では自在鈎は使わないようです。火棚スタイルは白川郷と同じで、大きな五徳に大鍋や茶釜を載せて使います。
居間の右は、手前の部屋が下の間と中の間に分けられ、その奥が座敷です。藩の決まりで、畳(ヘリなし)は2間しか敷けなかったそうです。中の間は、畳敷きの部屋で老夫婦の寝室になっています。
土壁がなく、すべて板張りなのも北山型の特徴だそうです。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 居間
囲炉裏の木枠は、通しのある留め接ぎ(両木口を45°に削って接いだもの)になっており、とても手の込んだ造りです。囲炉裏だからと言って手を抜かない職人さんの矜持が感じられます。
こうした木と草で造られた家屋の中に居るだけで、何とも言えない安らいだ心地がしてくるのは、日本人のDNAのなせる業でしょうか? -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 納戸
納戸は、居間の奥にあり、板張りで囲んであります。板の間の上に藁を敷き、若夫婦の寝室を兼ねていたそうです。裸電球が懐かしさを醸します。
茅葺屋根の家は、開放的で空気が循環できるために蒸し暑い夏を涼しく過ごせ、案外住み易いそうです。低く迫り出した屋根には夏の日差しを避ける役割もあり、屋根の断熱性は冬の寒さにも有効だそうです。隙間風は遮りようがないようですが、一部屋に集まって暖を取ることで凌げたそうです。
「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころわろき住居(すまひ)は、堪えがたきことなり」。鴨長明著『方丈記』にはこんな風に記されています。
現代文明をある意味犠牲にした生活を強いられているはずですが、このように古民家が数多く遺されていることから、集落の方々が先祖伝来の家に愛着を抱き、故郷を大切にしていることが伝わってきます。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 馬屋
「馬屋」は、玄関の横の最も日当たりの良い場所にあり、下の間のすぐ隣です。馬屋と呼ばれていますが、実際には農耕牛が飼われていたそうです。
牛は、荷車を牽引したり田圃で唐鋤を引いたり、今で言えば軽四トラックと農耕トラクタを兼ねたような存在でした。
因みに、馬屋は母屋にあるのに、トイレは納屋の片隅にあります。床に四角い穴が開けられているだけですが…。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋
茅葺の「茅」とは、ススキ、ワラ、ヨシ、チガヤなどイネ科を総称したもので、茅や板、瓦、トタンを使って屋根を覆うことを「葺く」と言います。実際には、ヨシ(底面)、ワラ(中間層)、ススキ(表面)の順に葺かれます。昔と今の生活様式の変化や環境の変化などにより、この50年で87%も茅場が消失したそうです。
今まで茅葺屋根は日本固有のものと信じて疑いませんでしたが、調べてみたところ、実は韓国をはじめアジアやヨーロッパでも取込まれている様式らしく、茅葺を学ぶ専門学校まで存在します。
では、どうしてこれほど急勾配な屋根なのでしょうか?
これは日本の茅葺屋根の最大の特徴なのですが、日本の茅葺は茅だけで屋根を葺くため、茅の量が少ないと雨漏りするそうです。茅には油が含まれているため、水分をはじき、音を吸収するため家の中はとても静かです。降り注いだ雨は、束ねられた茅の茎同士の隙間に浸み込み、茅の性質を上手く使って自然にできた水路を伝って流れ落ちます。まさしく逆転の発想と言うか先人の智慧と言えます。つまり、茅葺屋根が急勾配なのは、水はけを良くするためということです。
因みに、茅の厚みは、目測で50cm以上ありそうです。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋
一時は過疎化が進み、集落を受け継ぐ若者達も減少し、茅葺職人の後継者が途絶えるといった危機にも見舞われたそうです。そんな時、住民の中から若い職人が誕生し、茅葺の家および歴史的景観の保護に努めたそうです。そして、地区でも「かやぶきの里保存会」を組織し、公民館・農事組合・かやぶき屋根保存組合などと連携し合い、歴史的景観の保全と地区住民の生活の維持を両立し、後継者が育つ方向を目指して様々な検討を重ねたそうです。その結果、村人が出資して「有限会社かやぶきの里」が設立されました。
一時は過疎化が進み、集落を受け継ぐ若者達も減少し、茅葺職人の後継者が途絶えるといった危機にも見舞われたそうです。そんな時、住民の中から若い職人が誕生し、茅葺の家および歴史的景観の保護に努めたそうです。そして、地区でも「かやぶきの里保存会」を組織し、公民館・農事組合・かやぶき屋根保存組合などと連携し合い、歴史的景観の保全と地区住民の生活の維持を両立し、後継者が育つ方向を目指して様々な検討を重ねたそうです。その結果、村人が出資して「有限会社かやぶきの里」が設立されました。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 風呂場
美山では茅葺古民家のような物的な保存だけでなく、それを保存するための職人や技術者を育てて日本の伝統文化を後世へ伝承していく取り組みも行われています。茅葺職人を養成して町内の民家の修復だけでなく、地域外への技術提供も行っているそうです。実際、こうした伝統技能の伝承は、行政を含めた地域全体でバックアップしていかないとやがて途絶えてしまい、再現することが困難になってしまいます。
どこかの行政では「後進の育成を頑張ってください」とエールを送りながら、ペロリと舌を出して2015年度から文楽協会への運営補助金を撤廃しました。交響楽団についても同様の仕打ちを繰り返しています。しかし、これは行政が行うまともな行為ではありません。弱者を支援しながら後世に伝承していくのが本来の行政のあるべき姿のはずです。姑息な手段でシンパへの人気取りパフォーマンスに終始したナンセンスな行政劇は、もう終焉にすべきでしょう。本日の大阪府知事、大阪市長選挙の結果が気になるところです。
しかし、この劇薬が効いたのか、在阪民放5局が文楽公演を主催するなど民間から手を差し伸べる動きが活発化したことが奏功し、文楽の観客動員数が増えているようです。しかし、実際には内部改革がカンフル剤になったと言われています。文楽には、かつての「河原乞食」としての矜持を忘れてはならないという精神が今も宿っていたのです。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 屋根裏
屋根裏では、垂木を縄で固定し、一切釘を使わずに屋根を支える小屋組やその構造、茅の葺き方などが間近で見られます。丹念な仕事の美しさには、頭が下がります。
因みに、美山の茅葺屋根は、全て職人さんが手入れされているため、他の地域と比べると圧倒的に美しいことで評判だそうです。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 屋根裏
独特の色と艶を放つ、重厚な木骨組みが見えます。屋根裏の木材は、長年煙で燻されることでこのように黒い艶を放ちます。縄は「いぼ結び」という特別な結び方になっています。話に拠れば、一度結ぶと自然に緩むことはなく、徐々に硬く締まっていくそうです。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋 屋根裏
左下にあるのは食物保存用の俵です。
中に穀類や木の実など入れて長期間保存し、不作の時に備えていたそうです。この俵には150年前の粟が蓄えられていたそうですが、今でも普通に食べられるそうです。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 母屋
茅葺屋根の維持は大変なことで、瓦葺やトタン葺に改装してしまった家屋も散見されます。それでも屋根の形状は茅葺屋根と同じに統一し、景観を保たれています。
形は北山型そのままで、入母屋造に千木と雪割りが載せられています。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 納屋
入母屋造の建物です。仕事場を中心に、農作業や山仕事の道具、生活用具などを展示しています。
左奥にある巨大な壷のようなものは、籾摺り臼だそうです。脱穀を終えて乾燥させた籾をこの臼で摺って籾殻を外す道具です。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 倉
火災の際に唯一焼け残った200年前の建物です。屋根は修復されています。
普段なら身近には感じることのない古民具の品々ですが、まるで今も使われているような雰囲気を帯びています。
往時の生活に直接触れられたような不思議な気持ちになれます。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 倉
1階では、生活用具のほか、文楽の浄瑠璃台や衣装なども展示しています。 -
かやぶきの里 美山民俗資料館 倉
屋根裏では、箪笥や北前船から陸揚げされた唐津、伊万里の焼き物、村の仕組みを語る文書類などを展示しています。
この続きは、美山紀行④かやぶきの里<後編>エピローグでお届けいたします。
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