2012/10/20 - 2012/10/20
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元カニ族さん
横浜市港北区の慶應義塾大学日吉キャンパスの地下に、帝国海軍の大地下壕があります。太平洋戦争末期、学徒出陣や勤労奉仕で学生がいなくなった日吉キャンパスに、帝国海軍が本土決戦に向けて掘った大地下壕です。
帝国海軍には、連合艦隊司令長官は主力艦隊の先頭(旗艦)に立つという伝統がありました。しかし1944年6月のマリアナ沖海戦の大敗で多くの艦艇が沈みました。艦艇に余裕がなくなり、海上にあれば撃沈される危険も考慮し、軍令部は連合艦隊司令部を地上に移す決意をして、次の理由で日吉を選びました。
①海軍省のある東京と、横須賀軍港の中間にあって交通の便が良い。
②学徒出陣と勤労動員で学生が激減した慶應義塾の堅固な校舎をそのまま使える。
③キャンパスが広く地下壕が掘りやすい。
④海抜40メートルの高台にあり、無線の受信状態が良い。
かくして1944年9月連合艦隊司令部が海上の旗艦から地上の日吉に移って来ました。
1944年10月連合艦隊はフィリッピンのレイテ沖海戦に敗れて事実上壊滅し制空権・制海権を失い、アメリカ軍の日本本土空襲が始まりました。
大本営は1945年1月20日「帝国陸海軍作戦計画要領」を策定し、本土決戦の本格的な準備を始めました。大本営海軍部も4月25日本土決戦のため、連合艦隊、海上護衛総司令部、鎮守府などを一手に指揮する海軍総隊を設置し、日吉にその司令部を置きました。
日吉は本土決戦に向け、帝国海軍の全作戦部隊を統一指揮する最重要拠点になりました。
現在地元の有志が大学の支援を得て「日吉台地下壕保存の会」を結成し、月に一度一般公開を行っています。写真は一般公開の時の地下壕の内部写真です。
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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日吉に最初に移ってきた帝国海軍の部局は、軍令部第三部(国際情報)でした。学徒出陣で学生を戦地に送り出した3か月後の1944年3月に第一校舎(写真 現慶應義塾高校)に入りました。さらに同年末に海軍省の人事局や経理局も東京霞が関から移って来ました。
軍令部第三部は1944年7月7日にサイパンが陥落すると、B29による日本本土の空襲を恐れ、堅固な退避壕の建設を開始しました。 -
図は日吉台地下壕の配置図です。現在公開されているのは
①A連合艦隊司令部(海軍総隊司令部)地下壕
のみです。他に
①B軍令部第三部(情報部)・東京通信隊・航空本部地下壕、
②軍令部第三部(情報部)退避壕、
③人事局地下壕
があり、日吉キャンパスの外には
④艦政本部地下壕
がありますが、これらは公開されていません。日吉台地下壕 名所・史跡
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地下壕に入る前に、「日吉台地下壕保存の会」の人々から、説明を受けました。
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図は、公開されている「A連合艦隊司令部地下壕」の詳細図です。
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写真は「第一校舎」前で、日吉に最初に移ってきた帝国海軍の「②軍令部第三部(国際情報)が作った退避壕」の入口がここにありました。
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地下壕の入口がある第一校舎と高校グランドの間の「マムシ谷」に向かいました。
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地下壕の入口です。
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入口を入ると、階段ではなく急な坂になっていました。これは荷財の車両による運搬のためです。
また内部が整備され綺麗なのに驚きました。案内の人によると、最初入った時は泥の海だったとのことでした。 -
壁面のコンクリートブロックの一部を抜き取った跡がありました。
この跡からコンクリートの厚さが40センチあることがわかります。また側壁をよく見ると、板で型取りしたコンクリート部分と、別の場所でつくったコンクリートブロックを積み上げた部分があることがわかります。 -
写真は地下壕の天井です。
天井のコンクリート部分は、まず掘削したトンネルの表面にそってアーチ状の型枠をつくり、その型枠と天井部分の土との隙間に地上から直径10〜15センチの孔を空け、コンクリートを流し込んでいたようです。 -
通路の両側には側溝があり、写真のように通路の水たまりがありました。
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通路を進むと、右側に下写真のようなくぼんだ所がありました。これは竪穴空気坑の跡です。非常脱出坑としても考えられていたようです。
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竪穴空気坑の地上部分は、キノコのような形をした分厚いコンクリートの耐弾式竪穴坑(写真)になっています。深さは30メートルあります。
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この隣には、弥生時代の住居跡がありました。
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通路のところどころに写真のような鉄板が敷かれていました(当時は木の板)。鉄板の下には地下水の集排水マンホールがあり、通路の下には直径20センチの土管が壕全体に張りめぐらされていたとのことです。
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通路の分岐点です。
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左に進むと、金網でブロックされています。この先は「Bブロック 軍令部第三部(情報部)・東京通信隊・航空本部地下壕」ですが、公開されていません。
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分岐点を右に進みました。
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通路の中央に、溝がありました。
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写真は機械室(発電室)(C)で、ディーゼルエンジンと発電機を設置していたであろうと推測できる土台が残っています。隣には竪穴空気坑跡があります。機械を冷却するための井戸もあったと考えられています。
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機械の土台です。
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さらに進みました。
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通路の右に「E 連合艦隊司令長官室」との表示がありました。
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連合艦隊司令長官の執務室(E)で、他の部屋より綺麗なつくりで、入口のドアの跡や照明用と思われるい電気のコンセントの跡がありました。日常、司令長官や幕僚たちの執務の場は地上の作戦室でしたが、空襲などの緊急時には寄宿舎から地下壕の安全な場所に移動したようです。
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地上の作戦室(慶應の寄宿舎)と地下壕を結ぶ階段(F)のあった場所です。
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地上作戦室に通じる階段(F)で、現在は閉じられています
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慶應の寄宿舎は、コンクリート3階建てが3棟建っており、いずれも南向きで日当たりがよく、最新式の床暖房を採用し、40の個室がありました。
学徒動員で学生がいなくなった寄宿舎に連合艦隊司令部が移って来たのでした。
現在も、学生寮として使用されていますが、写真撮影は禁止で、資料の写真を使用しました。 -
バッテリー充電室(G)です。
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遮蔽戸がありました。ここから先は、慶応義塾の敷地の外になり、入ることが出来ません。
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食糧倉庫(H)です。
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写真は作戦室(L)です。幅4メートル、奥行き20メートルで、この地下壕で最も大きな部屋です。当時、民間では使われていなかった明るい蛍光灯が取り付けられていたようです
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作戦室(L)です。
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写真は通信室(J)です。約40台の短波受信機が置かれていました。戦艦大和が沈められていく様子や、海上地上部隊の戦況、特攻機が艦船に体当たりする時の通信も受信していました。
連合艦隊司令部は、深い地下施設のなかで、日本軍の切望的な戦況を正確につかんでいたようです。 -
通信室の天井です。
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地下壕の見学を終えて、出口に向かいました。
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地下壕の見学を終えて、大学構内の施設を見学しました。
写真は1937年、慶応義塾基督教青年会創立40周年を記念して卒業生が慶応義塾に寄贈したものです。ところが、1944年になると、このチャペルも海軍に貸与され、軍令部の情報活動を支える軍事施設になりました。
今年は、戦後70年です。悲惨な戦争の記憶を伝える「ヒト」がすくなくなり、伝える手段が「モノ」に変わってきています。戦争の歴史の生きた証人としてこの遺跡が大切に保存されていくことを願って、見学を終えました。
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