2014/06/23 - 2014/06/23
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経堂薫さん
御城と野球場…一見、何も関係なさそうな両者を結びつける旅。
大阪城に続く第五弾は、あべのハルカスから二つの球場跡へ。
まずは、近鉄バファローズの本拠地だった藤井寺球場跡。
そして、南海ホークスが本拠地を置いていた大阪球場の跡に立つなんばパークスを訪ねます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩 ジェットスター
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大阪環状線天王寺駅を下車すると、向かい側に超巨大な構造物が聳立しています。
平成26(2014)年3月7日に全面開業したばかりの新たなる大阪のランドマーク「あべのハルカス」。
地上60階建てで高さ300メートルと日本で最も高い超高層ビルです。
東京スカイツリーの634メートル、東京タワーの333メートルに次ぐ高さ。
ですが、どちらもビルではないので「あべのハルカス」が日本一のノッポビルということに。
でも用事があったのは展望台ではなく、地下なので立ち寄ることなく素通りです。あべのハルカス 名所・史跡
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近鉄の南のターミナル大阪阿部野橋駅は、あべのハルカスの地下にあります。
あべのハルカスが出来る前は、ここに近鉄百貨店阿倍野本店がありました。
現在の「あべのハルカス近鉄本店」は売場面積10万平方メートル、単独百貨店として日本一の広さ。
さて、大阪阿部野橋駅からは近鉄東大阪線に乗車します。あべのハルカス 名所・史跡
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準急に揺られること10分余、近鉄藤井寺駅に到着。
郊外にある普通の小さな私鉄駅です。藤井寺駅 駅
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駅を出て進行方向とは反対側へ戻るような形で線路沿いを歩きます。
藤井寺の駅前は地方の小都市というより、典型的なベッドタウンのような印象。藤井寺駅 駅
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5分ほど歩くと、真新しくモダンな巨大建造物がデンと聳え立ってます。
「四天王寺学園小学校」。
この場所に、かつて近鉄バファローズの本拠地である藤井寺球場が立っていました。
この地に近鉄が藤井寺球場を開場したのは昭和3(1928)年。
なぜこんな大阪市中心部から離れたところに球場を建てたのかっていうと、阪神が甲子園で開催していた中等野球大会(今の高校野球大会ですな)が大人気だったので、ならうちも…ってことだったそうです。
当時の藤井寺球場はフィールドの広さで甲子園を凌ぎ、収容観客人員数も7万人を誇る日本一の大スタジアムだったとか。
しかし、太平洋戦争の金属供出令で建物の規模はショボンと縮小。
敵国の運動ということで野球もできなくなり、単なる練兵場になってしまいました。藤井寺球場跡 名所・史跡
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校舎の前、歩道沿いに一基のモニュメントが立っています。
この「白球の夢」というモニュメントだけが、ここに藤井寺球場が存在した唯一の証です。
藤井寺球場が復活したのは戦後、日本にプロ野球が復活し、近鉄もチーム「パールス」を構えたことがきっかけ。
パールスとは近鉄の金城湯池、鳥羽の真珠にあやかったものです。
昭和33(1958)年に巨人の大人気選手だった千葉茂を監督に招聘。
千葉の愛称「猛牛」にあやかり、チーム名も「バファロー」に改めます。
昭和37(1962)年にチーム名を「バファローズ」に再改称。
この名称は紆余曲折を経て、現在のオリックス・バファローズにまで引き継がれています。藤井寺球場跡 名所・史跡
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「白球の夢」は大阪出身の彫刻家、玉野勢三氏の作品。
台座前面のホームベース型銘板には「近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005」と刻まれています。
近鉄バファローズは結成当初から藤井寺に本拠地を置いていたわけですが、実は大きな問題がありました。
甲子園球場と違って周囲に民家が立て込んでおり、反対運動のため長らくナイター設備を設置できなかったのです。
このため近鉄が大阪市内の日生球場で試合を主催していたことは「キャッスル&ボールパーク④大阪編・前」でも触れた通りです。
http://4travel.jp/travelogue/10907368
ようやくナイター設備が完成したのは昭和59(1984)年のことでした。
平成9(1997)年、大阪ドームが完成すると近鉄は本拠地を移転。
藤井寺球場は平成17(2005)年に閉鎖、翌年解体されました。
跡地は北(ホームベース)側が四天王寺学園に売却され学校用地に。
南(外野)側には現在、大規模なマンションが立っています。藤井寺球場跡 名所・史跡
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モニュメント以外の痕跡を探して周囲をウロウロしましたが、すぐに時間のムダだと分かりました。
何もないとか何かあるとか、そういう問題ではなく。
訪れたのが夕方で、ちょうど小学生たちの下校時間。
カメラを抱えたオッサンがウロウロするには、あまり相応しいシチュエーションではなく。
学校の警備員に怪しまれる前に、あえてこちらから「こんにちわ〜」と挨拶して不信感を払拭し、そそくさと学校を後にしました。
もし周辺をウロウロしたいのなら、学校が休みの日祝日にすべきかも。
ただし最近では日祝日でも部活なんかで学校を開けている場合もあるので、変な行動は慎むべきではありますが。藤井寺球場跡 名所・史跡
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藤井寺駅に戻ると、跨線橋にオリックス・バファローズのポスターが掲示してありました。
本拠地の京セラドーム大阪には前身だった阪急ブレーブス、近鉄バファローズ、オリックス・ブルーウェーブの各チーム歴史を展示したエリア「Bs SQUAR」があるにはあるのですが。
阪急西宮ギャラリーみたいに、近鉄バファローズの歴史だけを記した施設は、あべのハルカスにも藤井寺にもありません。
まぁ“バファローズ”というチーム名は現存しているので、今だ現役と言えなくもないのですが。
それでも、あべのハルカスの余ったスペースでいいんで、やはり近鉄にバファローズの歴史だけを展示したギャラリーを作って欲しいところです。藤井寺駅 駅
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藤井寺駅から大阪阿部野橋駅に戻り、天王寺駅から地下鉄御堂筋線に乗り換え、なんば駅へ。
ミナミの象徴、高島屋正面から右手へ回り込み、阪神高速の下、通称“パークス通り”を南側へ向かいます。 -
道の向こう側に“豚まん”でおなじみの551蓬莱を発見!
朝にホテルで食事して以来、何も食べていないという事実を前に暫し思案。
ただ、この場は取り敢えず先を急ぎます。551蓬莱 難波中店 グルメ・レストラン
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難波中交差点から眺める「なんばパークス」。
かつて、この場所に「大阪球場」こと大阪スタヂアムがありました。
1950年、南海電鉄がホークスの本拠地球場として、専売局の工場跡地に建設したものです。
1989年、南海ホークスはダイエーに売却され福岡へ移転し、大阪球場は“空き家”に。
1994年の関西国際空港開港に伴う難波地区再開発計画に伴い、大阪球場は1990年を以って閉鎖されます。
ところが折からのバブル崩壊で再開発計画は“塩漬け”となり、大阪球場は解体されず住宅展示場などに利用されて延命。
建物が解体されたのはホークスが去ってから10年近くたった1998年のことでした。パークスガーデン 公園・植物園
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南海なんば駅から、なんばパークスへと続く階段を登ります。
なんばパークスは2003年に第1期、2007年に第2期がオープン。
ショッピング&レストラン街とオフィスタワーに分かれます。パークスガーデン 公園・植物園
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ショッピング&レストラン街は地上10階、地下3階建て。
建物を上から眺めると、そのユニークな形状に興味を惹かれます。
地上部分は地上9階まで段丘状に建てられて、植栽された多種多様の植物に鳥類や昆虫が集います。パークスガーデン 公園・植物園
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館内エスカレーターを乗り継ぎながら最上階の9階へ。
そこに「南海ホークス メモリアルギャラリー」があります。
プロ野球チーム「南海ホークス」の結成は昭和13(1938)年。
それから50年後の昭和63(1988)年の球団譲渡まで、半世紀に及ぶ歴史が展示されています。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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中へ入ると正面左側にペナントやトロフィーが陳列されています。
ペナントは昭和34(1959)年の日本シリーズを制して日本一に輝いた時のもの。
このシーズン、38勝4敗という驚異的な成績を残したエース杉浦忠が、
日本シリーズでも4連投4連勝という快挙とともに巨人を4タテにしました。
今も昔も4連投4連勝を達成した投手は他におらず、まさに空前絶後の大記録です。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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奥へ進むと左側の壁面に南海ホークスの歴史が記されています。
左に投手、中央下部に打者、右に野手が紹介されています。
投手のところにはエース杉浦のほか皆川睦雄、宅和本司、スタンカらが並びます。
また、日本初のメジャーリーガー村上雅則や、一迅の風のように東映から来て阪神へ去って行った江本孟紀も。
一方、江本と交換で南海に来た江夏豊の姿がないのは少々寂しいですね。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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打者のところには鶴岡一人親分をはじめ飯田徳治、岡本伊三美、広瀬叔功、杉山光平ら往年のスラッガーたち。
新しいところだと藤原満、門田博光、香川伸行、カズ山本らの名も。
“世界のイチロー”を生んだ名コーチ、新井宏昌も名を連ねています。
だがしかし、よく見ると違和感を感じます。
そう、南海ホークスといえばこの人、野村克也の名前がありません。
その事情に関しては巷間いろいろ言われているので、ここでは何も語りますまい。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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中央上部には映像モニターが設置され、過去の名選手や名場面が上映されています。
画像の人物は戦中戦後にかけてエースの看板を背負った別所毅彦投手。
後に巨人との間で引き抜き騒動が起こり、モヤモヤのうち巨人へ移籍します。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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その横には大阪スタヂアムの歴史一覧が掲示されています。
繁華街なんばに隣接していることから、野球以外にも様々なイベントが行われていたことが分かります。
例えば昭和49(1974)年から西城秀樹が10年連続でスタジアムコンサートやったり。
野球場でのコンサートって、これが先鞭だったのではないでしょうかね?
昭和57(1982)年にサイモン・ガーファンクルが外タレとして初めてコンサートを開催して以降、ここでマイケル・ジャクソンやマドンナもステージに立っています。
また、プロサッカー時代の到来を見越して球場を改築し、サッカー場との併用も狙っていたそうです。
例えば昭和52(1977)年には「サッカーフェスティバルさよならペレ」を開催しました。
Jリーグの誕生は1993年…少し時代が早すぎましたか。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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突き当りはエレベーターホール。
エスカレーターを乗り継がなくても、ここまでエレベーターで一気に来ることができます。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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エレベーターホールの前には別の出入口が設えてあります。
屋外との出入口は都合2ヶ所あるわけです。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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先ほど紹介した壁面の向かいは一面のガラス張り。
日差しが差し込み、スペースを明るく照らします。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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南海ホークスの代名詞的存在、鶴岡“親分”一人監督の愛用したスタジアムジャンパー。
鶴岡親分は戦争から帰還直後の昭和21(1946)年にプレイングマネジャーに就任。
昭和27(1952)年からは専任監督になり、同43(1968)年のオフに退任。
通算23年間に及ぶ監督生活で挙げた勝利数1773は史上最多。
プロ野球がセ・パ両リーグに分裂した同22(1947)年以降ではリーグ優勝9回、うち日本一2回。
監督勇退後は2000年に逝去するまで、NHKの解説者を務めておられました。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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その右隣には南海ホークス最後の監督杉浦忠のユニフォームと、スラッガー3人のサインバットが展示されています。
下には2枚の表彰状。
左は昭和41(1966)年、パ・リーグを優勝した時のもの。
右は昭和48(1973)年、当時行われていたプレイオフを制してパ・リーグを制覇した時のもの。
昭和48年優勝時の監督は野村克也プレイングマネジャー。
野村監督関係で展示されているのは、この賞状1枚だけみたいです。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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南海最後の監督、杉浦忠は昭和34(1959)年に38勝4敗で4連投4連勝したエース杉浦のことです。
立教大学で長嶋茂雄と同期生で、2人は在学中から大学の先輩で南海の選手だった大沢昌芳に南海への入団を口説かれます。
大沢昌芳…後に“喝!”でお馴染みになる大沢啓示親分のこと。
もちろん大沢子分は鶴岡親分の指示の元に動いていたわけです。
長嶋は入団直前に翻意して巨人に入団しますが、杉浦は“忠義”を守って南海へ。
昭和45(1970)年に現役を引退。
実働通算13年間で577試合に登板し、187勝106敗。
記録より記憶に残る投手でした。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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左は門田博光選手が昭和62(1987)年に2000本安打を打った記念のバット。
同年8月26日の西武ライオンズ戦で記録し、史上24人目の偉業でした。
中央はカズ山本選手の。右は定岡智昭選手のサインバット。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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メモリアルギャラリーを出ると、あぶさんの手形が。
水島新司の「あぶさん」は1973年から2014年まで連載されていた最長不倒の野球漫画。
主人公の景浦安武は昭和48(1973)年に南海ホークスへ入団。
平成21(2009)年オフに現役を引退するまで、ダイエーからソフトバンクへホークス一筋37年。
背番号「90」は現実のホークスでも永久欠番扱いで、誰も付けていません。 -
9階から屋外の階段を降りて8階へ。
すり鉢状に配置されたベンチシートは大阪球場のスタンドを彷彿とさせます。
そして、ステージに当たる部分にはホームベースのモニュメントが埋め込まれていました。南海ホークスメモリアルギャラリー 美術館・博物館
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屋外の階段をブラブラしながら降り、2階のキャニオンストリートへ。
ここには大阪球場でホームベースとマウンドプレートが存在した場所と、全く同じ位置にホームベースとマウンドプレートのモニュメントが埋め込まれています。
阪急西宮ガーデンズと同様、ここにも南海のホークスと大阪スタヂアムに対する愛が垣間見えます。パークスガーデン 公園・植物園
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というわけで新宿を立ち、福岡から広島を経て、西宮から大阪へと巡ってきた4泊4日の旅も、いよいよフィナーレ。
関西国際空港20時45分発、成田空港行ジェットスター・ジャパンGK210便に搭乗します。
と思いきや、ダイヤが乱れて20分のディレイ。
LCCだから、この程度のことは我慢の範囲内かな?
21時05分、エアバスA320は関空を離陸。
機窓に輝く大阪の夜景を眺めながら4日間の思い出を、ひとり噛み締めたのでした。関西空港駅 駅
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