2014/06/23 - 2014/06/23
932位(同エリア1908件中)
経堂薫さん
御城と野球場…一見、何も関係なさそうな両者を結びつける旅。
西宮に続く第四弾は、いよいよ大阪に攻め入ります。
まずは、近鉄バファローズが仮の住処を置いていた日生球場跡。
そして日生球場跡と高速道路を挟んで隣接している大阪城公園。
“太閤なにわの夢”大阪城を中心に巡る大阪編の前編です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
-
大阪駅から環状線に揺られること約12分、森ノ宮駅で下車します。
目の前を通る阪神高速の下を西へ向かって歩くこと数分。
白いフェンスが延々と続く一角が現れます。森ノ宮駅 駅
-
歩道橋に登るとフェンスの中の様子を見ることができます。
クレーンが立ち並び、重機が忙しそうに動きまわっています。
1997年まで、ここには野球場がありました。
日本生命野球場、略して“日生球場”。
近鉄バファローズが長きに亘り本拠地を置いていたスタジアムです。
ここは日本生命が自社の野球部のため、戦後間もなく建造した球場。
このため戦後暫くはアマチュア野球専用として使われていました。森ノ宮駅 駅
-
しかし地理的に絶好の場所にあるこの球場を、プロが見逃すはずはありません。
郊外の藤井寺市に本拠地を置いていた近鉄球団が日本生命に対し、ナイター設備の設置を条件に球場の使用を提案。
これを日本生命も了承し、近鉄は本拠地を藤井寺球場に置いたまま昭和34(1959)年から日生球場を実質的な本拠地球場として試合を主催していきます。
それから四半世紀が過ぎた昭和59(1984)年。
藤井寺球場のナイター設備が完成し、近鉄は日生球場から実質的に撤退します。森ノ宮駅 駅
-
プロ野球の興業という最大の収入源を失ったことに加え、戦後すぐに建てられた施設の老朽化と相まって、日生球場は平成9(1997)に閉鎖、解体されました。
その後、跡地は暫く放置されていたのですが、ようやく平成25(2013)年に用途が決まりました。
スーパー、家電量販店、スポーツジムなどができるそうです。森ノ宮駅 駅
-
球場が解体された理由のひとつとして、一帯に森ノ宮遺跡が存在することもありました。
球場跡地の東側に立つ森ノ宮ピロティホールの地下には、森ノ宮遺跡からの出土品を展示した遺跡展示室があります。
ただし、一般に公開されるのは年に数日間のみ。森ノ宮駅 駅
-
日生球場の跡地には現在、ここに球場が存在したことを示すものが何もありません。
ただ、野球場がデザインされてる歩道のタイルだけが、昔ここに野球場に存在したことを主張しているかのようです。森ノ宮駅 駅
-
阪神高速の下をくぐって反対側へ渡ると、そこは大阪城公園の入り口。
好天にも恵まれ、噴水の周囲には家族連れやカップルが思い思いに寛いでいます。大阪城公園 公園・植物園
-
大阪城音楽堂を通りぬけ、東外堀と南外堀の間にある玉造口へ。
堀を挟んだ向かい側には一番櫓が見えます。大阪城 名所・史跡
-
玉造口から中に入ると城壁の上には鉄砲狭間が連なっています。
外国人の観光客が面白がって銃眼を覗いていましたが。
これが「loophole」だと分かっているのか、どうか?大阪城 名所・史跡
-
玉造口から内堀へ直進した突き当りの右側に巨大な石碑があります。
「蓮如上人碑」。
かつてこの地に石山本願寺が存在したことを記したものです。
天文元(1532)年に京都の山科から移ってきた本願寺は、大坂の地を一大宗教都市と仕立てあげました。
しかし織田信長との間に対立が深まり、元亀元(1570)年から11年間に亘って「石山合戦」を繰り広げました。
天正8(1580)年、両者は勅により和議に至ります。
しかし本願寺は大坂からの退去を余儀なくされ、天正19(1591)年に京都へ移転。
その本願寺と寺内町の跡地に天正11(1583)年、豊臣秀吉は大阪城を築きました。
石山本願寺の遺構は地下に埋まったままで、未だ確認されていません。
唯一この「蓮如上人袈裟懸の松」と伝わる木の根っ子だけが、その証と言えるのかも知れません。大阪城 名所・史跡
-
内堀を左側へ回りこむように先へ進むと、左側に豊国(ほうこく)神社が鎮座しています。
ちなみに京都阿弥院峯墓前の豊国神社は「とよくにじんじゃ」と読みます。
こちらの京都が本社で大阪は別院として明治12(1879)年、最初は中之島に建立されました。
その後、別院から独立した神社となり、昭和36(1961)年に現在地へ遷座しましたものです。
もちろん主祭神は秀吉公ですが、秀頼公と秀長卿も合わせて祀られています。
秀吉像は中之島時代からありましたが、昭和18(1943)年に金属供出令により消失。
現在の像は彫刻家の中村晋也氏の手によるもので、平成19(2007)年に完成しました。豊國神社 寺・神社・教会
-
豊国神社から桜門へ。
左右の内堀は空堀です。
内堀のうち空堀なのは、この箇所のみ。
豊臣時代から空堀で、大阪の陣で徳川方が埋めたわけでもないとのこと。
寛永元(1624)年に徳川幕府が大阪城を再築した際も空堀にしました。
空堀にした理由は分かりません。
先例に倣ったんですかね?大阪城 名所・史跡
-
本丸の正門に当たる桜門、重要文化財です。
寛永3(1626)年、徳川幕府によって創建されました。
慶応4(1868)年に明治維新の大火で焼失しましたが、明治20(1887)年に陸軍が再建して現在に至ります。大阪城 名所・史跡
-
桜門を入ると、内側には「枡形」。
本丸の正面入口を護るために設けられた、石垣で四角く囲んだ一角です。
上には「多聞楼」がありましたが、やはり慶応4(1868)年の大火で焼失しています。
真ん中の石は「蛸石」と呼ばれる城内第一位の巨石。
左側は「振袖石」という巨石で、こちらは城内第三位です。大阪城 名所・史跡
-
枡形を過ぎると目の前は旧大阪市立博物館が聳立しています。
昭和6(1931)年、旧陸軍第四師団の司令部庁舎として落成しました。
幸い戦災にも遭わず、戦後は連合軍接収後、大阪府警本部庁舎に。
昭和33(1958)年に府警が移転すると建物は大阪市の管轄となります。
内部の改装などを経て2年後の昭和35(1960)年に開館。
大阪の地域文化に特化した博物館として大きな役割を果たしてきました。
平成13(2001)年、大阪歴史博物館の開館に伴い閉館。
その後は取り壊されるわけでもなく、ある意味“放ったらかし”。
時々イベントに使われる程度で、特に決まった活用法があるでもなし。
軍事施設で頑丈に作られているため、普通のビルより取り壊しに経費が必要だから放置されているんでしょうかね?
そもそも頑丈ならば耐震強度は問題ないはず。
東京駅丸の内側駅舎のようにホテルとして再生すればいいのに。
でも、それはそれで泊まったら何か出そうで怖いですが。大阪城 名所・史跡
-
現在立ってる大阪城天守閣は三代目。
初代は天正13(1585)年、豊臣秀吉が建立。
慶長20(1615)年に大坂夏の陣で焼失しました。
二代目は寛永3(1626)年に徳川幕府が建立。
寛文5(1665)年に落雷を受けて焼失します。
その後、長きに亘り天守閣不在の城でした。
三代目が建立されたのは昭和6(1921)年。
鉄筋鉄骨コンクリート造りによる日本初の復興天守閣です。
開城当初から内部は博物館として利用されていました。
これは日本中に戦後ポコポコ建てられた復興・復元天守閣のモデルになっています。
幸いにも戦災に遭わず終戦を迎え、平成9(1997)年には国の登録有形文化財に指定されました。大阪城 名所・史跡
-
大阪城本丸御殿跡広場の所々に放置されている巨石「残念石」。
元和6(1620)年の大阪城改修で、用材石として天領の小豆島から運ばれてきたものです。
ところが、改修に使われなかった巨石がそのまま放置され、今でもそこら辺にゴロゴロ。
天守閣前にある二つの石、右は筑前福岡藩黒田長政の、左は豊前小倉藩細川忠興の、それぞれの石切場で発見されたものだそうです。大阪城 名所・史跡
-
慶長20(1615)年に大坂夏の陣で大阪城は落城します。
徳川幕府は秀吉が築いた大阪城の上に新たな城郭を築きました。
それが現在の大阪城なのですが、どうにも大阪人には我慢ならない様子。
現在の城郭を掘り起こして豊臣時代の石垣を発掘。
豊臣家滅亡から400年を迎える2015年に公開するそうです。 -
天守閣をグルリを回りこむように西側へ。
ここには北からの敵を防ぐため石の壁が築かれていました。
しかも単純な一枚壁ではなく、二枚の壁を行き違いに配置。
壁を挟んだ南北間の往来は「仕切門」で管理していました。
その北側に広がる一角から天守閣を眺めた景色です。大阪城 名所・史跡
-
仕切門の北側から石段を降りて刻印石広場へ。
ここから内堀越しに見た大阪ビジネスパーク(OBP)方面の景色。大阪城 名所・史跡
-
刻印石広場から山里丸の跡を通り抜けたところ。
片隅にひっそりと「秀頼・淀姫ら自刃の地の碑」が立っています。
大坂夏の陣で天守閣が炎上し、山里丸へ逃れてきた淀君と秀頼の母子ですが、徳川軍に包囲され万事休す。
ここで秀頼は淀殿らと共に自害したと伝えられています。
秀頼は享年23(満21)歳でした。
とはいえ秀頼も淀君も亡骸が確認されたわけではなかったため、どこかに落ち延びたという“生存説”が幾つも生まれました。
それはそれで面白そうな話ではあります。大阪城 名所・史跡
-
山里丸から極楽橋を渡って内堀の外側へ。
大阪城 名所・史跡
-
内堀の石垣は寛永元(1624)年から始まった徳川幕府の大阪城再築第2期工事で、豊臣時代の本丸に盛り土を施して築造されました。
内堀に面した石垣の角を中心に三層の櫓が11棟、二層の櫓が2棟そびえていましたが、すべて明治維新時の火災により焼失しました。大阪城 名所・史跡
-
青屋門を外堀の外へ。
青屋門は改修工事中。
建立は徳川幕府の大阪城再築第1期工事が始まった元和6(1620)年ごろと推定されています。
桜門と同様、明治維新時の火災で焼失し、陸軍によって再建されました。
しかし青屋門は昭和20(1945)の空襲により再び焼失。
今度は大阪市が昭和44(1969)に残材を用いて再建し、今に至ります。 -
青屋門を出ると正面は大阪城ホール。
右に折れると「太陽の広場」が広がります。
そこには昔「大阪砲兵工廠」がありました。
明治3(1870)年に創設された官営の兵器製造工場です。
日清、日露、第一次世界大戦と戦争を経る毎に規模が拡大。
明治時代末期に敷地は玉造門のあたりまで大阪城東側全域に広がります。
従業員数も6万人強に膨れ上がり、アジアでも最大規模の軍需工場に。
太平洋戦争が始まり大阪市内も空襲を受けますが大阪砲兵工廠の被害は軽微でした。
しかし終戦前日の昭和20(1945)年8月14日、大阪砲兵工廠を狙い撃ちにした大規模な空襲を受け、設備の90%が破壊されました。
それでも幾つか建造物は残っていたのですが。
昭和56(1981)年に象徴的な建造物だった本館が突如解体。
現在残っている遺構も数えるほどになりました。
先ほどの大阪市立博物館もそうですが、こうした“戦争遺構”を大阪市は抹消していきたいように感じますね。大阪城公園 公園・植物園
-
大阪城ホールと太陽の広場の間を通り抜けると正面に水上バス乗り場。
ここ大阪城港から観光水上バス「アクアライナー」が発着します。
乗船はしませんが、取り敢えず冷やかします。
眼前を流れるのは第二寝屋川。
ここを出発した「アクアライナー」は天満橋、淀屋橋、OAPを周遊して大阪城港に戻ってきます。水上バス アクアライナー (大阪城港のりば) 乗り物
-
大阪城港の前にある噴水から一直線に伸びる広い道の奥には大阪城公園駅。
隣の森ノ宮駅から約1時間半かけて遠回りした、大阪城の彷徨でした。大阪城公園駅 駅
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
27