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加茂花菖蒲園に午前中、行ってきました。<br /><br />そして、掛川城を攻めました。木造で復元された天守や、現存する御殿など見所がいっぱいです。<br /><br />加茂花菖蒲園の様子はこちらです。<br />http://4travel.jp/traveler/oosaka_hiro3/album/10784595/

掛川城に初登城!

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2013/06/09 - 2013/06/09

32位(同エリア532件中)

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hiro3

hiro3さん

加茂花菖蒲園に午前中、行ってきました。

そして、掛川城を攻めました。木造で復元された天守や、現存する御殿など見所がいっぱいです。

加茂花菖蒲園の様子はこちらです。
http://4travel.jp/traveler/oosaka_hiro3/album/10784595/

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • まずは、大手門を訪問します。<br /><br />道路整備により、50mほど北に平成7年に復元されたようです。<br />

    まずは、大手門を訪問します。

    道路整備により、50mほど北に平成7年に復元されたようです。

  • 掛川城大手門は、二層式の櫓門です。<br />大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事には工夫が凝らされていました。<br />これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。<br />直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4〜5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。<br />

    掛川城大手門は、二層式の櫓門です。
    大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事には工夫が凝らされていました。
    これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。
    直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4〜5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。

  • 歴代の城主です。

    歴代の城主です。

  • 大手門番所<br /><br />番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。<br />嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。<br />大手門の番所が残っているのも珍しい。<br />明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。<br />大手門の復元に伴って、こちらに移築されました。

    大手門番所

    番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。
    嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。
    大手門の番所が残っているのも珍しい。
    明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。
    大手門の復元に伴って、こちらに移築されました。

  • 三光稲荷<br /><br />三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山之内一豊(かつとよ)公が城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わったご縁で大手郭(くるわ)と大手厩(うまや)の守護として伏見稲荷を勧請されました。

    三光稲荷

    三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山之内一豊(かつとよ)公が城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わったご縁で大手郭(くるわ)と大手厩(うまや)の守護として伏見稲荷を勧請されました。

  • 逆川沿いに歩いてやってきました。<br /><br />太鼓櫓と天守

    逆川沿いに歩いてやってきました。

    太鼓櫓と天守

  • 観光案内所があるところです。

    観光案内所があるところです。

  • 三日月堀と天守<br /><br />本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8メートルありました。調査では、堀の南側から石垣が見つかり、その下からは柱穴が並んで見つかりました。<br /><br />

    三日月堀と天守

    本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8メートルありました。調査では、堀の南側から石垣が見つかり、その下からは柱穴が並んで見つかりました。

  • 四足門

    四足門

  • 掛川城

    掛川城

  • 掛川城

    掛川城

  • 本丸御殿跡は、本丸広場として、花が植えられ、ベンチもあり休憩できるようになっています。<br /><br />これは、カシワバアジサイ。

    本丸御殿跡は、本丸広場として、花が植えられ、ベンチもあり休憩できるようになっています。

    これは、カシワバアジサイ。

  • 印象的な景色<br /><br />右手側通路から御殿にいけます。<br /><br />登城路は、狭くて、急で攻め難くしてあります。

    印象的な景色

    右手側通路から御殿にいけます。

    登城路は、狭くて、急で攻め難くしてあります。

  • 入口に付櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。<br /><br />小ぶりの天守です。

    入口に付櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。

    小ぶりの天守です。

  • 太鼓櫓<br /><br />

    太鼓櫓

  • 掛川城<br /><br />山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる高知城の天守を参考にして、それに近い構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。<br /><br />その現存する高知城は、江戸末期の再建。それを参考に復元されたのが、掛川城。<br />武者返しも似ているわけです。<br />

    掛川城

    山内一豊が掛川城の天守と同様の姿に建てさせたとされる高知城の天守を参考にして、それに近い構造とし、壁は白漆喰で塗り固められている。

    その現存する高知城は、江戸末期の再建。それを参考に復元されたのが、掛川城。
    武者返しも似ているわけです。

  • 武者返し<br /><br />石垣を登られないように鋭い武者返しが設けられています

    武者返し

    石垣を登られないように鋭い武者返しが設けられています

  • 霧吹き井戸<br /><br />永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真(うじざね)の立てこもる掛川城を攻めました。<br />この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。

    霧吹き井戸

    永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真(うじざね)の立てこもる掛川城を攻めました。
    この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。

  • 二の丸の「掛川御殿」<br /><br />本丸御殿は、なくなりましたが、本丸御殿にかわって作られた二の丸御殿が、現存しています。<br /><br />廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され聚学校として使われました。その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けました。そして、現存する数少ない御殿として、公開されています。

    二の丸の「掛川御殿」

    本丸御殿は、なくなりましたが、本丸御殿にかわって作られた二の丸御殿が、現存しています。

    廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され聚学校として使われました。その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けました。そして、現存する数少ない御殿として、公開されています。

  • 太鼓櫓、四足門、左上に大手門、中央右手が、観光案内所などの施設があるところ。<br /><br />街の風景は、城下町らしい色使いや建て方で、統一されています。

    太鼓櫓、四足門、左上に大手門、中央右手が、観光案内所などの施設があるところ。

    街の風景は、城下町らしい色使いや建て方で、統一されています。

  • 一階は展示室になっています。<br /><br />城の階段は、急です。

    一階は展示室になっています。

    城の階段は、急です。

  • 掛川城

    掛川城

  • 掛川城

    掛川城

  • ここをぬけて御殿へ向かいます。

    ここをぬけて御殿へ向かいます。

  • 十露盤堀(そろばんぼり)

    十露盤堀(そろばんぼり)

  • 御殿から見上げる天守<br /><br />御殿が現存するのは、二条城、川越城、高知城と掛川城くらいだそうです。<br /><br />熊本城や名古屋城も御殿を復元させています。御殿も静かなブームです。

    御殿から見上げる天守

    御殿が現存するのは、二条城、川越城、高知城と掛川城くらいだそうです。

    熊本城や名古屋城も御殿を復元させています。御殿も静かなブームです。

  • 御殿内部<br /><br />御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせもった施設です。<br />掛川城御殿は、二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数ヵ所しかない貴重な建築物です。<br />書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室しつが連なり、各室は襖ふすまによって仕切られています。

    御殿内部

    御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせもった施設です。
    掛川城御殿は、二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数ヵ所しかない貴重な建築物です。
    書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室しつが連なり、各室は襖ふすまによって仕切られています。

  • 御書院上の間<br /><br />城主が藩の政治をつかさどった公的な部屋です。<br /><br />御殿は、7棟からなる書院造で、様々な用途に応じた20ほどの部屋に分かれています。

    御書院上の間

    城主が藩の政治をつかさどった公的な部屋です。

    御殿は、7棟からなる書院造で、様々な用途に応じた20ほどの部屋に分かれています。

  • 長囲炉裏の間<br /><br />太田家の正紋の桔梗と替紋の違いかぶら矢が、天井板にありました。

    長囲炉裏の間

    太田家の正紋の桔梗と替紋の違いかぶら矢が、天井板にありました。

  • ベストスポット

    イチオシ

    ベストスポット

  • 四足門と天守<br /><br />

    四足門と天守

  • 赤い橋が印象的な池。<br /><br />中央図書館の向かい側です。

    赤い橋が印象的な池。

    中央図書館の向かい側です。

  • カモさんがのんびりしています。

    カモさんがのんびりしています。

  • 龍華院大猷院霊屋<br /><br />掛川古城は、16世紀初頭、東遠江経営のために今川氏親(うじちか)の重臣朝比奈泰熈(あさひなやすひろ)によって築かれました。現在の掛川城から北東350メートルほどのところにある子角山(ねずみやま)に位置し、本曲輪(ほんくるわ)、二の曲輪、三の曲輪、北曲輪などいくつかの曲輪を持つ城でした。

    龍華院大猷院霊屋

    掛川古城は、16世紀初頭、東遠江経営のために今川氏親(うじちか)の重臣朝比奈泰熈(あさひなやすひろ)によって築かれました。現在の掛川城から北東350メートルほどのところにある子角山(ねずみやま)に位置し、本曲輪(ほんくるわ)、二の曲輪、三の曲輪、北曲輪などいくつかの曲輪を持つ城でした。

  • 龍華院大猷院霊屋<br /><br />明暦2年(1656)、この古城跡に掛川城主北条氏重によって3代将軍徳川家光の霊廟が建立されました。現存する建物は文化年間の火災の後、文政5年(1822)に再建された180年以上も前のもの。きらびやかな極彩色の宝形造(ほうぎょうづくり)です。内部には霊牌を祀る春日厨子があり、建物とともに静岡県指定有形文化財として保存されています。

    龍華院大猷院霊屋

    明暦2年(1656)、この古城跡に掛川城主北条氏重によって3代将軍徳川家光の霊廟が建立されました。現存する建物は文化年間の火災の後、文政5年(1822)に再建された180年以上も前のもの。きらびやかな極彩色の宝形造(ほうぎょうづくり)です。内部には霊牌を祀る春日厨子があり、建物とともに静岡県指定有形文化財として保存されています。

  • 龍華院大猷院霊屋<br /><br />徳川家光の霊碑を祀るために建てられた御霊屋(おたやま)とこのこと。 今あるのは1822年に再建された物らしい。<br />残念ながら、跡継ぎに恵まれなかったので、取り入ろうとして建てたのですが、北条氏重の死後、北条家は取り潰されてしまいました。<br /><br />建物の様式が、日光東照宮などを思い浮かべます。

    龍華院大猷院霊屋

    徳川家光の霊碑を祀るために建てられた御霊屋(おたやま)とこのこと。 今あるのは1822年に再建された物らしい。
    残念ながら、跡継ぎに恵まれなかったので、取り入ろうとして建てたのですが、北条氏重の死後、北条家は取り潰されてしまいました。

    建物の様式が、日光東照宮などを思い浮かべます。

  • 龍華院大猷院霊屋<br /><br />紅葉の名所です。

    龍華院大猷院霊屋

    紅葉の名所です。

  • 大日本報徳社

    大日本報徳社

  • 大日本報徳社<br /><br />金次郎の像で知られる二宮尊徳が唱えた報徳の教え「道徳と経済の調和実行」を実践し、全国に広める報徳運動の本社です。<br /><br />二宮尊徳の弟子である岡田佐平治が設立した「遠江国報徳社」を起源としており、「報徳思想」の普及活動などを行っています。

    大日本報徳社

    金次郎の像で知られる二宮尊徳が唱えた報徳の教え「道徳と経済の調和実行」を実践し、全国に広める報徳運動の本社です。

    二宮尊徳の弟子である岡田佐平治が設立した「遠江国報徳社」を起源としており、「報徳思想」の普及活動などを行っています。

  • 淡山翁記念報徳図書館<br /><br />大日本報徳社の所有する県内最古の民間図書館です。<br /><br />昭和初期の鉄筋コンクリート建築です。

    淡山翁記念報徳図書館

    大日本報徳社の所有する県内最古の民間図書館です。

    昭和初期の鉄筋コンクリート建築です。

  • 大日本報徳社<br /><br />まきを背負って本を読む少年の像でおなじみの二宮金次郎の像です。

    大日本報徳社

    まきを背負って本を読む少年の像でおなじみの二宮金次郎の像です。

  • 大日本報徳社<br /><br />高いところの像が多いので、なかなか見れませんでした。<br /><br />一家仁 一国興仁 一家讓 一国興讓 一人貪戻 一国作亂 其機如此<br />(一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻なれば一国乱を作す。その機かくのごとし。)」どちらにしても、国を憂えるのであれば、自分自身がきちんと徳を積まなければならないと書いてあるそうです。<br />

    大日本報徳社

    高いところの像が多いので、なかなか見れませんでした。

    一家仁 一国興仁 一家讓 一国興讓 一人貪戻 一国作亂 其機如此
    (一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻なれば一国乱を作す。その機かくのごとし。)」どちらにしても、国を憂えるのであれば、自分自身がきちんと徳を積まなければならないと書いてあるそうです。

  • 大日本報徳社<br /><br />日本で初めての公会堂だと言われています。<br />

    大日本報徳社

    日本で初めての公会堂だと言われています。

  • 大日本報徳社<br /><br />1907年(明治40年)4月5日に竣工した公会堂は現在大講堂として使用されています。<br /><br />

    大日本報徳社

    1907年(明治40年)4月5日に竣工した公会堂は現在大講堂として使用されています。

  • 竹の丸<br /><br />天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって掛川城主に任命された山内一豊は、それまでの掛川城に郭(くるわ)を付け加え、城を拡張しました。この時に竹の丸も造成されたと考えられます。<br /> 竹の丸は、天守閣や本丸など城の中心部に通じる道筋にあたり、防衛上重要な場所であったことから、家老など重臣の屋敷地に割り当てられていました。

    竹の丸

    天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって掛川城主に任命された山内一豊は、それまでの掛川城に郭(くるわ)を付け加え、城を拡張しました。この時に竹の丸も造成されたと考えられます。
     竹の丸は、天守閣や本丸など城の中心部に通じる道筋にあたり、防衛上重要な場所であったことから、家老など重臣の屋敷地に割り当てられていました。

  • 瓦橋から奥姫橋までの両岸約600メートルに、約33,000球40品種のユリが咲き誇ります。<br /><br />この時期は、逆川の堤防にゆりが咲き誇ります。<br /><br />ゆり園に行こうと思っていたのですが、充分に満足してしまいました。

    瓦橋から奥姫橋までの両岸約600メートルに、約33,000球40品種のユリが咲き誇ります。

    この時期は、逆川の堤防にゆりが咲き誇ります。

    ゆり園に行こうと思っていたのですが、充分に満足してしまいました。

  • 逆川の堤防

    逆川の堤防

  • 逆川の堤防

    逆川の堤防

  • 逆川の堤防

    逆川の堤防

  • 逆川の堤防<br /><br />ここからは、単色です。

    逆川の堤防

    ここからは、単色です。

  • 逆川の堤防

    逆川の堤防

  • 逆川の堤防<br /><br />

    逆川の堤防

  • 逆川と天然の堀として利用した平山城の掛川城<br /><br />観光資源として、復元された城をはじめ、城下町としての街づくりに取り組んだ掛川市。<br />なかなか見事でした。

    逆川と天然の堀として利用した平山城の掛川城

    観光資源として、復元された城をはじめ、城下町としての街づくりに取り組んだ掛川市。
    なかなか見事でした。

  • 掛川市のマンホール。<br /><br />掛川駅まで足をのばせば、カラーもあったようです。<br />新幹線が止まる唯一の木造駅舎。もう少し調べていけばよかった!残念。<br /><br />おつきあいありがとうございます。

    掛川市のマンホール。

    掛川駅まで足をのばせば、カラーもあったようです。
    新幹線が止まる唯一の木造駅舎。もう少し調べていけばよかった!残念。

    おつきあいありがとうございます。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • chikuouさん 2013/06/21 20:33:21
    いまどきの政治家
     よい画像をありがとうございました。この教えはいまどきの政治家に教えてやりたいですね。アベノミクスでは大会社だけが大もうけをし、さらに税金をまけ、庶民には所得税をはじめとして多くの物を押し付ける、また、あの橋下市長などはさらによく読んでもらいたいものですね。

    hiro3

    hiro3さん からの返信 2013/06/21 22:19:38
    RE: いまどきの政治家
    chikuouさん、ありがとうございます。

    自分は、今まで文面を見たことがなかったので、今回初めて知りました。
    子供の頃に、像を見かけた記憶はあるのですが、本当に本に刻まれているとは・・・。おバカですね!少し調べて内容を知りました。

    指導者も、一市民であることには違いないですものね。自戒の意をこめて紹介したつもりでしたが、初心不可忘!ぜひ、より良い方向に導いてください。

    変な爆走ドライブ旅行記ですが、これからもよろしくお願いします。

                   hiro3

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