2013/04/25 - 2013/04/25
124位(同エリア479件中)
ムッシュさん
千住新大橋を渡ると足立区に。ここから草加宿を目指す。
千住宿は、寛永2年の五街道整備により、日光・奥州両街道の初宿に指定された。
千住宿は、天保14年(1834年)頃、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒、家数2370軒、人口9456人であった。江戸4宿で最大。市場が作られたり、宿場の外れには、小塚原刑場が設置された。南千住~荒川土手まで2.4km。
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【梅島の国土安穏寺(あんのん)】
徳川家ゆかりの寺。将軍が日常的に立ち寄る御膳所なり、将軍専用の御成門には菊のご紋が光る。瓦一枚も葵の紋所が彫られてる。
日蓮宗天下長久山国土安穏寺は、応永17年(年)の創建で、当初、長久山妙覚寺と称した。当寺の八世日芸上人が宇都宮城釣天井事件を予言したところから徳川家祈願寺となり葵の紋の使用が許され、寺号の国土安穏寺を賜りました。
境内には徳川三代将軍家光の御手植之松があります。
【国土安穏寺】
「御朱印高5石、安穏寺、右寺御鷹野之節、度々御膳所に相成」(日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)
日蓮宗、天下長久山国土安穏寺と称す。
創建は、応永十七年(1410)、開山は日通聖人、開基は、千葉太郎満胤である。
当初は、長久山妙覚寺と称した。本尊ならびに中山三祖日裕聖人自作の祖師像がある。
江戸時代に、将軍秀忠および家光が、当所巡遊の折の御膳所となり、八世日芸聖人の代宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)、現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となる。したがって、当寺は、葵紋の使用を許された。
寺宝として、日蓮聖人の断簡(だんかん)、将軍家使用の膳わん一式、徳川家光・慶喜、加藤清正等の書軸などがある。
なお、現在の諸堂宇は、鐘楼を除き、昭和以降の造営である。
平成二年十月 東京都足立区教育委員会
次に、北上し、「炎天寺」に向かいます。 -
「炎天寺」
幡勝山成就院炎天寺は天嘉4年(1056)炎天続きの旧暦6月、奥州の安倍一族の反乱を鎮定に従く源頼義、八幡太郎義家父子の率いる軍勢が野武士と激しく戦いきわめて苦戦となったが、京の岩清水の八幡宮に祈念し、ようやく勝利を得ることができた。
そこで寺の隣りに八幡宮を建立、地名を六月村と改め、寺名を源氏の白旗(幡)が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、気候が炎天続きだったので炎天寺と改めたと伝えられる源氏ゆかりの寺である。 -
炎天寺は【幡勝山成就院炎天寺】
平安中期の武人・八幡太郎義家や江戸時代後期の俳人・小林一茶ゆかりの寺です。 俳句寺という愛称で呼ばれたり、 蛙の置物が多いことから蛙のお寺ともいわれています。
蓮の葉の上で蛙が相撲をしている像と、小林一茶の文化13年(1816)の作【やせ蛙まけるな一茶是にあり】の句碑がある。 -
「武蔵国竹の塚といふに蛙たたかひありけるに見にまかる。4月20日なりけり」、翌年には「蝉なくや六月村の炎天寺」がある。
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【炎天寺にたつ小林一茶像】
小林一茶が足繁く通った寺。
一茶は信濃の人で、漂浪行脚の生活の中から多くの名句を残した江戸後期の俳聖です。作品には暗い陰影は残さず、信仰、安心の明るさによる。 -
【炎天寺は幡勝山成就院炎天寺】
といい、 平安中期の武人・八幡太郎義家は戦勝記念に寺の隣に八幡神社を建立。季節ガラ6月なので村のの名を六月、寺の名前を幡勝山、祈願が叶ったので成就院、炎天の最中だったので炎天寺とした。
江戸時代後期の俳人・小林一茶ゆかりの寺です。江戸に住んでいたが、頻繁に通っていた。
俳句寺という愛称で呼ばれたり、 蛙の置物が多いことから蛙のお寺ともいわれています。
*六月(むつき)の地名
伝説には源義家が当地の土豪と苦戦の末に辛勝したのが酷暑の六月であったからという(旧暦の六月は炎暑の候である)。 「梅田・嶋根・六月村・保木間村・此辺多く秋葵を田圃に裁(うえ)置けり、長(た)けし甚短し。 -
お堂脇の石塔は街道書では、弘化5年(1848年)建立の馬頭観音とある。
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【草加富士浅間神社本殿】 市指定有形文化財(建築物)昭和51年11月15日指定
富士浅間神社は、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭る。神社創建年次は明らかでないが、「新編武蔵風土記稿」によると「浅間社 村の産神とす。善福寺持」とある。別当の善福寺は、寺伝によると「寛永四年(1627)の開基にして、この浅間神社は、他の場所に祭られていたのを、明暦年間(1655~1657)に、現在地に移築した」と伝えられている。
現本殿は、天保十三年(1846)に再建されたことが本殿内にある擬宝珠銘からわかる。
富士山は古くから霊山として山岳信仰の対象となり、中世になると、富士行人と呼ばれる本山派修験の人たちが中心となり、一般民衆を引率して富士登山を行った。江戸時代になると、富士講の開祖と崇められた、角行東覚が出るに及んで、各地域に講が組織され、先達を中心として講中が一団となって登山するようになっていった。
本殿の建物は、間口2.32m、奥行3.60mの流造の一間社で、前面に軒唐破風、千鳥破風を配し、随所に彫刻を配し、贅を尽くしたものである。これは当時この地方に繁栄した、和晒(わざらし)・形付・紺屋等のゆかた染関連の業者と地元が協力し、この地の富士講が面目にかけて造営したものと思われる。
この本殿が造営された天保(1830~1843)ごろは、構造材に波紋などを彫刻するだけでなく、その間に花鳥風月や日本の神話、中国の故事等を題材とした写実的な彫刻物で装飾することが盛んに行われた。内部は簡素であるが、外観を中心にした、いわゆる見せる社殿としての傾向が強くなった。この建物もその例外ではない。
現在では、このような豊富な彫刻を配した神社建造物は少なく、特にこの地域での社寺建築の装飾を研究する上からも重要なものである。
平成二十二年三月 草加市教育委員会
江戸時代に盛んになった霊山富士山に対する信仰の方便として、各地に造られたという富士塚が築かれている。一般に地域における富士山信仰の集まりは「冨士講」と呼ばれるが、この辺りの瀬崎村では「冨士行」といい、この富士塚は大正5年(1916年)竣工と新しいものである。 -
これを左に進むと日光街道旧道、右は49号線。地点は、草加市吉町2丁目交差点。
かつての日光道中2番目の宿場だ本陣1、脇本陣1、そして旅籠は67軒もあった
草加は宿場としても、また市場町としても栄えたところで街道沿いは今でも商店街となっている
松尾芭蕉が、奥の細道の旅で最初に宿泊した場所として知られている -
東武鉄道谷塚駅付近、草加市役所敷地内
草加市吉町(よしちょう)五丁目交差点手前の右手に、
【ひあぶり地蔵尊】
奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主人に暇を願い出たが許されませんでした、
そこで主の家が火事になれば仕事が休みになり家に帰れると思い込み放火してしまい、火あぶりの刑に処せられました、村人が憐れみ供養のために安政5年(1858)造立の地蔵尊を祀りました。
草加市役所の敷地は、幕末から明治にかけての豪商大和屋跡地です。 -
【粂森稲荷神社】
奥に見える神社
倉稲魂命を祀る。創建年代不詳 -
市内住吉町
【大川本陣跡標石】があります、スグ先の右手には清水本陣跡標石があります。
草加宿の開祖大川家が宝暦4年(1754年)まで勤め、次いで清水家が大川家より本陣職を譲り受け、明治初期まで勤めました。
本陣には会津藩松平容頌(かたのぶ)、仙台藩伊達綱村、盛岡藩南部利視(としみ)、米沢藩上杉治憲(はるのり、鷹山)等が宿泊した記録を残している。
千住宿 -越ヶ谷宿間には宿場が無かったが、宿篠葉村の大川図書が中心となり新道開削が行われ、茅原を開き沼を埋め立てて、千住から越ヶ谷間をほぼ直線で結ぶ草加新道を築いた。これが草加宿の基となったとされる。
このルートが完成すると街道沿いに茶店や旅籠屋など旅人相手の商いを目指す人々が集るようになり、寛永7年(1630年)に草加は千住宿に次ぐ2番目の宿、千住宿と越ヶ谷宿の「間(あい)の宿」として取り立てられることになった。
【草加宿とは】
近世初頭、江戸と奥州各地とをつなぐ街道は、千住から越ヶ谷まで河川に沿って大きく迂回をしていましたが、交通量の増加によって幕府は千住・越ヶ谷間を最短で結ぶ新道を整備し、その中間に近隣の村々からなる新しい宿の設置を命じたのが草加宿のはじまりです。また、このとき整備された街道が日光道中です。
一説には慶長11年(1606年)、宿篠葉村(しゅくしのはむら)の大川図書という
人物が刈り束ねた草を土につき固めて街道を造ったのが、日光道中や草加宿の始まりともいわれてもいます。
寛永7年(1630年)、幕府の公認を受け正式に伝馬宿(てんましゅく)と認められた草加宿は、その後参勤交代(さんきんこうたい)や日光社参、さらには一般旅人の往来もあって大きな賑わいをみせるようになりました。
元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で草加宿に歩みを残したのをはじめ、伊能忠敬・渡辺崋山など多くの文人らの通行によって、「街道文化」ともいえる独特な文化を創り出していきました。
また、綾瀬川・中川などの河川は、周辺の村々で生産された農産物を江戸に運ぶことにも活用され、荷積み・荷揚げに用いられた河岸(かし)もにぎわうようになっていきました。その後宿場北端の街道沿いには松が植樹され、それはやがて街道を行き交う旅人に草加松原として知られるようになりました。
(草加市HPより)
説明板によると、
大川本陣は宝暦年間(1751-63)まで本陣を務め、清水本陣がその後本陣職を譲り受け、明治初期まで本陣を務めた。
清水本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩の伊達綱村、盛岡藩の南部利視、
米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期には
まだ塀の一部が残っていたと伝えられています。
当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。
(「今様・草加宿」市民推進会議の説明板より) -
草加宿に到着です!
当初、この地一帯は沼地が多く街道は大きく迂回していました。大川図所(ずしょ)は幕府に願い出て千住~草加間をほぼ一直線に結ぶ新道を開削し、慶長12年(1607年)草加宿を創設した。
宿並は天明4年(1784年)と明治3年(1870年)の大火で灰燼に帰した。
当初、家康の通行に際して沼沢地に柳の木や茅を束ね、埋め込んで新道を造りました、家康は「草も役に立つものだ」と褒め、この地を草加と名付けました。
【草加宿】
日本橋から数えて2番目の宿場である。慶長6年(1601)に徳川家康によって整備された。当時、この一帯の街道筋は沼地が多かったため、これを迂回し花俣(現在の東京都足立区花畑)から八条(八潮市)に出て古利根川と元荒川の自然堤防に沿って越ケ谷に至る経路を取っていた。
「草加の西乃かたにうぬまとて広さ23里の池ありしに今はたとなりしよし 池のかたち少し残れり」(日光道中行程記安見絵図)
慶長11年(1606)になって、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直
線に結ぶ新往還道を築き上げた。この新道の工事の完成に当時の将軍徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。これが「草加」という地名の由来と言われる。 -
日光道標
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吉田家と標柱
石柱の側面に『御即位記 念 』 大 正 四 年(1915)十一月十日」と刻まれていす明治42年(1909)に旧町村の神社合祀が行われ氷川神社が草加神社と改称しました。その趣旨のもとに建立した。吉田家は取り壊されマンションとなった。
【藤城家住宅】
草加宿のほぼ中央にあり、店舗は高さがあり、屋根の軒先は出桁(だしげた)を持ち出す出桁造(だしげたつくり)。開口部は立格子で装飾されており、風格ある趣の昭和初期の商家です。その後方には、重厚な造りの内蔵と外蔵が建ち、旧草加宿の典型的な屋敷景観をよく残しています。 このように、藤城家住宅は江戸時代の宿場町の面影を今に伝える歴史的景観上、貴重な建物であり、登録有形文化財に登録されされました。 -
【東福寺】
真言宗智山派松寿山不動院東福寺、慶長11年(1606年)大川図書の菩提寺です。
山門の四脚門は元治2年(1865年)、鐘楼は文久2年(1862年)の建立で、共に草加市指定有形文化財です。
墓地に草加宿の開祖大川図書の墓がある。図書は小田原の北条氏に仕えましたが、小田原城の落城により浪人となりました。
東福寺の山門は豪華な四脚門で、境内にある鐘楼も龍の彫り物のある立派なもので、共に市の指定文化財となっている
草加宿を最初に開いた大川図書が創建した寺で大川家代々の墓があるところだ -
【東福寺の鐘楼】 市指定有形文化財(昭和55年3月22日指定)
この鐘楼は、石積みの基壇上に建ち、柱の間2.72mの方形である。
絵様彫刻は立川流と基本とし、彫刻は江戸に近い関係で、当時優秀な技法が見られる。基壇に「文久二年七月再造立」(1862)の刻銘があり、時代が判明する。この建物は、当時の優秀な工匠によって造営されたと推定され、数少ない本市の文化財として貴重な寺院建築物といえる。
平成十九年三月 草加市教育委員会 -
【本堂内外陣境彫刻欄間】 市指定有形文化財(昭和57年2月22日指定)
東福寺本堂の内外陣境には江戸の名工・島村円哲作の三枚からなる見事な彫刻欄間がある。
中央は104cmに173cmもある大きな彫刻で仏教の守護神である竜の構図である。技法はすぐれ、波頭を蹴る竜は迫力がある。
左右はやや小さく、中国の二十四孝の一部である。象と耕作しているのは大舜(たいしゅん)である。大舜の親に尽す孝養に、象きたりて耕作をたすけ、鳥まで草をとりて耕作の助けをしている構図である。
一方ひざまずいて天女を見あげるのは薫永(とうえい)である。薫永は家まずしくとも、親に孝養の限りをつくし、親の死におよび身を売って葬礼をいとなんだ。
その至誠が天に通じ、天女きたりて、薫永の借財をけしてもあまりある織物を作りあげ、昇天する構図である。
薫永・天女ともに別れを惜しむ姿が、いきいきと彫られている。
平成十九年三月 草加市教育委員会 -
【東福寺】
草加宿の祖とされる大川図書が創建したと伝えられ、本堂・山門・鐘楼とも江戸時代後期の建造物。山門、本堂外陣欄間、鐘楼は市指定文化財で、「草加八景」の1つでもある。
江戸における続物人情噺の祖石井宗叔と其月庵社中の歌碑、大川図書や塔身上に酒樽を乗せた金玉道士の墓碑、成田山への道標などがある。 -
【草加せんべい発祥の地碑】
神明町交差点手前の左手、伝右川沿いに、おせん公園があり、園内に草加せんべい発祥の地碑があります。形は煎餅に似ている
草加松原で茶店を営むおせんさんが通りがかりの旅人に「売れ残った団子はつぶして天日に干し、焼くといい」と教えられたのが草加せんべいの由来です。
おせんさんは、「草加せんべい」の伝説上の創始者で、文化・文政(1804~30)のころ、おせんばあさんが売れ残りの団子をつぶして、やきもちにして売ったのが
せんべいの始まりといわれています。明治8年(1875)発行の『武蔵野国郡村史』には載っていないので明治末期から盛んになったといわれます。草加駅東口ののアコス広場に平成4年(1992)に像が建てられました。
【草加せんべい発祥の地碑】
草加せんべいの本家本元を全国にPRしようと、草加煎餅協同組合と草加地区手焼煎餅協同組合の2つのせんべい組合が、市民から募金をつのって1992年(平成4)11月に建立されました。左にせんべいに見立てた円形の花崗岩(高さ3.3m)、右にせんべいを焼く箸に見立てた御影石(高さ5.7m)が置かれています。
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草加煎餅の製造工程説明図
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【草加 甚左衛門関】
明治二十七年から昭和五十八年までの約九十年間使用された二連アーチ型の煉瓦造水門。煉瓦は、横黒煉瓦(鼻黒・両面焼煉瓦ともいう。)を使用している。煉瓦の寸法は、約21cm×10cm×6cm。煉瓦の積み方は段ごとに長平面と小口面が交互に現れる積み方で、「オランダ積」あるいは「イギリス積」と呼ばれる技法を用いている。
煉瓦造水門『甚左衛門堰』は、古いタイプの横黒煉瓦を使用しており、建設年代から見てもこの種の煉瓦を使った最後期を代表する遺構である。また、煉瓦で出来た美しい水門は、周囲の景観に溶け込み、デザイン的にも優れたものであり、建設当初の姿を保ち、保存状態が極めて良く、農業土木技術史・窯業技術史上でも貴重な建造物である。
平成十四年三月 草加市教育委員会 -
【芭蕉、奥の細道碑】
「奥の細道」は草加から日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と東北・北陸の名所旧跡をめぐり、美濃大垣に至る600里(2400Km)、150日間の壮大なものでした。 -
【松尾芭蕉立像】札場河岸公園
奥の細道旅立ち300年を記念して建立。像は南方北千住の方を見返している。
深川から舟で千住に着いた芭蕉は、千住で見送りの人々に別れを告げ草加に至りました。
奥の細道の文中に草加を記述
「もし生きて帰らば、定め無き頼みの末をかけ、その日ようよう草加という宿に着きにけり」
街道に面して松尾芭蕉のブロンズ像
元禄2年(1689年)46歳の芭蕉は門人の曾良を伴い奥州に向けて江戸・深川を船で発ち、千住より歩いて最初の宿が草加宿であった
奥の細道に
「奥羽長途の行脚只かりそめに思い立ちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへ供耳にふれていまだめに見ぬさかい、もし生きて帰らばやと定め無き頼みの末をかけ、
その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着けにけり」と書かれている
江戸を振り返った像という像の製作者は彫刻家の麦倉忠彦氏である
【松尾芭蕉像】
札場河岸公園入口に建っており、顔は望楼の方角(江戸)を向いている。
1689年(元禄2)3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。深川から千住宿まで舟で行き、そこから見送りの人々に別れを告げて歩み始めたのでした。
この旅は、草加から、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2,400Km)、150日間の壮大なものでした。この旅を叙したものが、日本三大古典に数えられる『おくのほそ道』です。
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす・・・・
あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘われて漂泊の思いやまず・・・」と続き、旅は日光道中大の宿駅の叙述に進みます。
もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり暑きにけり
芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8町(8.Km)を歩き、草加にたどり着きました。前途多難なこの旅の思いを吐露したのげ「草加の条」です。『おくのほそ道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになります。
この松尾芭蕉像は、『おくのほそ道』旅立ち300年を記念して製作されたブロンズ像です。像の製作者は、彫刻家・麦倉忠彦氏。像は友人や門弟たちの残る江戸への名残りを惜しむかのように、見返りの旅姿をしています。台座側面には、芭蕉研究者の第一人者・尾形仂氏による芭蕉と『おくのほそ道』に関する一文が刻まれています。 -
【高浜虚子句碑】
「順礼や 草加あたりを 帰る雁」、虚子は正岡子規に師事しました。
正岡子規は、高弟高浜虚子を伴って、梅を見るため、千住、草加を歩いている。
子規句「梅を見て野を見て行きぬ草加まで」
【子規と草加】
俳人、正岡子規が草加を訪れたのは、明治二十七年の三月、高浜虚子とともに郊外に梅花を探る吟行の途次である。
このときの紀行文である「発句を拾ふの記」によれば、上野の根岸から草加まで歩き、茶屋に休息を求め、昼食をとり、再び去った。そのわずかな有縁を証す詠句は、文芸の街を傍称する草加にとって貴重な作品である。
ここにその句を刻し、子規を顕彰するものである。
平成五年三月二十一日 正岡子規句碑建立委員会建之 -
日本の道百選の碑
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綾瀬川に沿った遊歩道は江戸の昔は「千本松原」とも呼ばれ、
日光街道の名所だった -
優雅にカーブを描く歩道橋「矢立橋」と【草加松並木】
遊歩道を横切る車道を跨ぐ草加松原遊歩道歩道橋(太鼓橋)の矢立橋を渡ります、奥の細道の一節「矢立の初めとして」にちなむ橋名です。
綾瀬川沿いの草加松並木は天和3年(1683年)関東郡代伊那半右衛門が綾瀬川を改修した際に植栽したもので千本松原とも呼ばれ名所でした。
現在634本ある松の中には、江戸時代から残る古木が60本程度存在している。
日光街道の名所だったそうで、 昭和40年代に200本まで減少したものを
市民の力で再生し、現在は綾瀬川沿いの約1.5Kmに600本の松が植えられ、遊歩道として整備されている。 -
ゆったりとした松並木。【草加松原遊歩道】と呼ばれる。
千本松原は,元和3年(1682年)に関東郡代伊奈半右エ門が綾瀬川改修の時に植えたのが始まり。約1.5kmに渡り松を植えたものである
見事な松並木が続いており、日本の道百選に選ばれている -
【百代橋】 東武鉄道松原団地駅近く。
綾瀬川沿いの旧道が遊歩道として整備されている
大きな橋は矢立橋と言い、綾瀬川では無く国道29号線の上を跨ぐ陸橋である
しかし、見事な橋で上からの眺望も素晴らしいところ。
草加松原にある、草加のシンボル橋で、昭和61年(1986)年11月1日に完成した和風の太鼓形歩道橋。松尾芭蕉の『おくのほそ道』冒頭の「月日は百代の過客にして…」にちなんで名付けられた。百代は永遠を意味している。
【草加松原遊歩道】
札場河岸公園に続き、望楼からは綾瀬川に沿って1.5Kmに及ぶ草加松原遊歩道となる。ここの松の多くは巨木で、川に真横に突きだしている松などがあり壮観で、ここが日本の道百選に選ばれたのが当然と思えるほどきもちがいい道である。
途中県道を横断する所には優雅な歩道橋が架けられており、手前から矢立橋、百代橋と名づけられている。百代橋を下りると芭蕉文学碑がある。
矢立橋、百代橋、百代橋上り口から振り返って見た松並木である。
【綾瀬川】
川筋が定まらずいくつもの瀬が乱流して綾のようであ現在のようにか直線になったのは寛永年間(1624~1644)頃といわれている。江戸に通じる重要な水路であっった。
「矢立橋」とかかれた太鼓橋がある。これは「奥の細道」の一説
「-行く春や鳥啼き魚の目は泪―是を矢立の初めとして、行く道なをすすまず」に
因んで命名された。
矢立(やたて)とは江戸時代の筆記用具で、筆と墨壺を組み合わせているので、
旅行中でも即座に筆が使える携帯筆記用具。 -
【芭蕉文学碑】
百代橋を渡ると左手に松尾芭蕉文学碑があります、奥の細道の一節「その日ようやく草加という宿にたどり着にけり」が刻まれています。
先に進むと左手に水原秋桜子句碑「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり」、秋桜子(しゅうおうし)は高浜虚子に師事しました。 -
【水原秋桜子句碑】
「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり 秋桜子」
*草加せんべいを句に入れています
「早稲掛けて蓮のみだれは隠れけり」
「田の中の草加の町に幟立ちぬ」
水原秋桜子(しゅうおうし)句碑である
草加の地名を読み込んだ作品4句の内、草加煎餅の句を選んで刻んだと説明。
なお、秋桜子は本名水原豊(明治25年生)で俳人であり医師であった人だ -
草加松原の遊歩道も終わり、高速道路のトンネルを抜けると3枚の壁画。
【芭蕉と曽良の壁画】
元禄2年(1689年)3月27日、松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅たちました。後に日本を代表する紀行文学「奥の細道」として結実するこの旅は、東北・北陸の名所旧跡をたどり美濃国大垣へ至る600里・2400km、150日間の壮大なものでした。
【松尾芭蕉と門下生の河合曾良】
草加松原遊歩道の北端、東京外環自動車道の下をくぐった左側の壁面に、草加と「おくのほそ道」の案内がある。俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくの二十七ほそ道」の中で、
元禄二年三月二十七日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)に早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
平成八年三月吉日。縦2.4m横4.0mの大きさで描かれた絵タイルがある。
「やっとの思いで草加宿にたどり着いた芭蕉と
曽良の旅姿」というタイル絵が描かれていた。 -
【草加と「おくのほそ道」】
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄二年三月二十七日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
平成八年三月吉日 -
芭蕉、河合曾良像壁画をクローズアップ 縦2、4mx横4m
【草加と「おくのほそ道」】
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄二年三月二十七日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
平成八年三月吉日
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