2011/11/24 - 2011/11/24
152位(同エリア240件中)
ムッシュさん
いよいよ甲州街道の最大の難所と言われる笹子峠越えに向います。JR笹子駅から甲斐大和駅の間に聳える海抜1090mの峠です。峠の麓は、東に黒野田、西に駒橋、鶴瀬とそれぞれに宿場として賑わったらしい。
駒橋宿
鶴瀬宿
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往路バスから見た富士山の東面。昨夜の雪がかなり麓まで積っています。
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さらにアップで。
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往路バスは進み、この角度はちょうど山中湖付近から。富士山の北面。
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この写真は、ほぼ同じ方向からの、前日11月23日朝の様子です。朝方快晴も、夕方には雨が降り出し、夜には雪に変わる。前の写真は24日の朝です。
一晩で、富士山もすっかり雪化粧に変わりました。 -
【黒埜宿笠懸地蔵】
黒野田にある地蔵さん
安政2年(1855)の建立、天明天保の大飢饉による窮乏をこの地蔵に心願したものです。
往古より此の街道の路傍に分厚い笠様の物を頭に立ちつくす、小作りの珍形石造地蔵がある。之を黒埜宿、笠懸地蔵と呼ぶ、しかし其の由来に就いては今も詳ならず。
創建は安政二年卯五月、十三代将軍徳川家定の天領政治時代と刻字が有る。
此の地蔵創建の根源を考証するとき、遠くは天明、百姓一揆を、農史にとどめた。天保の大飢饉、徳川天領時代の七公三民の重税、領民の生活は農作物等の不作に依る餓死、心中、乞食、其の他の窮乏は後絶たず、領民は襲ってくる苦汁に満ちた諸行を善しかれと地蔵に心願して来たものである。
今は只、笠懸地蔵として伝へる術しか有り得ない。
平成四年 黒埜宿領民説之 -
【晋明院】
旧黒野田橋を渡ると右手に臨済宗黒埜山妙心寺派普明院がある。天正11年(1583)遠江国乾城主の子天野宮内左衛門内尉景信(黒野田宿天野本陣の祖)が開基し、阿弥陀海道宿の阿弥陀堂にあった行基作の阿弥陀像をここに移して本尊としました。
又、この寺の毘沙門天像は高さ3mの見事な造りで日本三大毘沙門天、又は関東三大毘沙門天の一つといわれ、その体内仏は行基作と伝わっています。
境内に芭蕉句碑「行くたびに いどころ変わる かたつむり」があります。
門脇には江戸日本橋ヨリ二十五里碑があります、黒野田の一里塚跡です、両塚共黒野田宿地内で塚木は松
【黒野田宿】
天保14年(1843)の頃、黒野田宿の宿内家数は79軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠14軒で、宿内人口は334人でした。
白野宿と阿弥陀海道宿の三宿で一宿とし、問屋業務は月のうち朔日から十五日までを黒野田宿が勤めました。 -
門脇には【江戸日本橋ヨリ25里碑】があります、黒野田の一里塚跡です、両塚共黒野田宿地内で塚木は松
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【芭蕉句碑】
旧黒野田橋を渡ると右手に臨済宗黒埜山妙心寺派普明院があります。
境内に
芭蕉句碑「行くたびに いどころ変わる かたつむり」があります。 -
本日の笹子峠への登りが始まります。笹子川付近。
ここで20号線から分かれる左の道へ。 -
この家を過ぎて、電柱のところを右折すると、山に向います。
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山の中に入って来ます。落ち葉を踏みながら登ります。笹子峠への山道です
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所々で林道を横断します。秋の終りで落ち葉が沢山。旧道峠越えの車は殆ど通らない。現在は、麓に立派な笹子トンネルがあるからです。林道をしばらく進むと次の標識が見えます。
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ここは、甲州自然遊歩道の登り入口。左斜面を登ります。
峠への道です。 -
いわゆる、登山道です。道幅狭く峠に続く。
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先ず目指すは矢立の杉です。
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明治天皇御一行も、ここで休憩し野立ちの一服を味わったといわれる場所です。
三軒茶屋跡です。 三軒茶屋は笹子茶屋又は中ノ茶屋とも呼ばれました、草団子の峠の力餅が名物でした。
茶屋跡には【明治天皇御野立所跡碑】があります。
明治13年(1880)6月19日山梨県巡行に際し、天野治兵衛家で野立を行いました。 -
【矢立の杉】です。
根廻り14.8m、樹高26.5m、幹は地上約21.5Mで折れ、樹幹中は空洞になっています(山梨県指定天然記念物)。
出陣の武者がこの杉に矢を射立て武運長久を祈りました。
二代目歌川広重は安政六年(1859)に諸国名所百景の中で甲州矢立杉を描いています。
【笹子峠の矢立のスギ】 山梨県指定天然記念物(昭和35年11月7日指定)
このスギは昔から有名なもので、昔の武士が出陣にあたって、矢をこのスギにうちたてて、武運を祈ったことから「矢立のスギ」と呼ばれてきたものである。
そのような名木であるうえに巨樹であるために、県指定天然記念物にされているものである。
その規模は次のようである。
根廻り幹囲 14.80m
目通り幹囲 9.00m
樹 高 約26.50m
幹は地上約21.50mで折れ樹幹中は空洞になっている。
昭和50年10月 山梨県教育委員会 -
【甲州街道 二代広重画 矢立杉】
諸国名所百景は、二代目歌川(安藤)広重の90枚揃いの大作で、安政6年(1859)から元治元年(1864)にかけて刊行された。初代の「六十余州名所図絵」に倣っているが、色彩は絵具の質的低下などで芸術的価値は劣っており、百枚は刊行されたとは疑わしく、現在81枚が知られている。この絵は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「甲州三島越」と構図がよく似ており、甲州道中笹子峠を行く旅人ののどかな風情が一服の絵になっている。(webより) -
登りの中間にある、矢立ちの杉。大木で杉の中心は空洞になってる。
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いつ倒れるかわかりません。
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逆光です。
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更に細い道を登ります。道は徐々に急な尾根になり、両サイドに切れている。目的の県道も下に見えます。
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最後、県道直前で、急な下り尾根道となり、県道に合流し、広い道に降ります。次、しばらく県道を歩きます。
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峠越えの笹子トンネル。この上が峠の頂上。頂上へはみぎの斜面を更に登ります。これが意外に急坂ですが、10分ほど喘ぐと峠の頂上に到着。
日中戦争の最中、1938(昭和13)年に完成した「笹子隧道」だ。まったく照明のない全長239メートルのトンネルを、出口の光だけを頼りに歩いていく。
【笹子隧道】 登録有形文化財(第19-0022号)
四方を山々に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠です。
この難所に開削された笹子隧道は、昭和十一年から十三年まで国庫補助を入れて二十八万六千七百円の工費を投入し昭和十三年三月に完成しました。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的であります。
昭和三十三年、新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨、遠くは長野辺りから東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えてきました。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離十数キロメートル、幅員が狭くつづら折りカーブも大変多いためまさしく難所で、遥か東の東京はまだまだ遠い都だったことでしょう。
昭和前期の大役を終え静寂の中にあるこの隧道は、平成十一年、登録有形文化財に指定されました。
大月市土木事務所 -
トンネル真上の鞍部が峠。トンネル右の標識の所を正面に登って行きます。
この笹子隧道は昭和33年(1958)国道20号線新笹子トンネルの開通により役目を終えました(登録有形文化財)。
笹子峠は、大月市と甲府市の間にあり、標高は1096m。甲州街道の江戸と下諏訪間のほぼ中間に位置し、甲州街道中最大の難所と云われた。 -
峠の頂上を標示。ここまで休憩を含めて2時間登った。
下りは甲斐大和まで2時間半です。 -
頂上直下の下りはじめに、旅の安全祈願の小さな祠があった。江戸時代の旅人もみんな拝んだ事でしょう。
小さな赤鳥居があり、奥に享保14年(1729)建立の常夜燈と石祠(現在の祠は昭和五十六年の建立)があります、笹子峠を往来する人馬の無事を見守ってきました。 -
下り道の途中に甘酒茶屋碑が立つ。
甘酒茶屋跡標柱があります、ここに甘酒を商う茶屋がありました、県道脇をすり抜けます。
江戸時代、笹子峠を往来する人々の憩いの場所として休憩所を設け、甘酒等を売っていた所。 -
一旦林道を横断して、山中を下ります。
甲州街道峠道の標示 -
この丸木橋、落ちると沢面まで3m近い高さ。下を見ると、要注意!!
【笹子峠】
徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)を開通させました。
笹子峠はほぼその中間で江戸から約二十七里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱千九十六米、上下三里の難所でした。
峠には諏訪神社分社と天神社が祀られて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていました。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等がありました。また、この峠を往来した当時の旅人を偲んで昭和六十一年二月十二日、次のような唄が作られ発表されました。
甲州峠唄
作詞 金田一 春彦
作曲 西 岡 文郎
あれに白いは コブシの花か
峠三里は 春がすみ
うしろ見返りゃ 今来た道は
林の中を 見え隠れ
高くさえずる 妻恋雲雀
おれも歌おうか あの歌を
ここは何処だと 馬子衆に問えば
ここは甲州 笹子道
この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり昭和六十二年五月、清水橋から峠まで地域推進の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしました。
佐藤 達明 文 -
下山道の途中にある【桃の木茶屋跡碑】
甲州街道の往来が盛んなころ、憩いの場所としての茶屋があった所です。
平成十四年三月三十一日 建立 大和村教育委員会 -
山道から車の通れる林道に出ると、かなり遠く下に集落が見えてます。これが駒橋宿のようです。
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天狗橋を過ぎると、右に芭蕉句碑が見えてます。
「秣負ふ 人を栞の 夏野哉 芭蕉」(馬草負う 人を枝折の 夏野哉) -
駒飼宿集落まで下りて来ると、【本陣跡や脇本陣跡】の標識が立つ。
この地は江戸時代に大名、公家、幕吏など貴人が宿泊する本陣が設けられた所です。 -
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本陣跡は、今、広場です。
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本陣・脇本陣が各1軒、旅籠も6軒という山間(やまあい)の小さな宿場であった。
笹子沢川を天狗橋で渡ると駒飼宿に到着です!
いにしえ駒飼には甲斐源氏の牧(牧場)がありました、駒飼宿は甲州道中最大の難所笹子峠を控え、大いに賑わいました。
甲州道中宿村大概帳によると駒飼宿の宿内家数は64軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠6軒で、宿内人口は274人でした。 -
集落のある家。猫も行儀がよい。
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こんなカフェもありました。
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古道は、まだまだ国道20号線まで急坂を下ります。
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立派な松の庭も多い。古道沿いの賑わった旧家のようです。
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国道20号に合流後、一旦甲斐大和駅に向かう。
その途中に【甲斐諏訪神社】がる。この本殿は素晴らしい彫刻が見られる。
江戸時代初期の建立だと言うことだが、竹林の七賢人をはじめ、上り竜下り竜など見事な彫刻が全周に施されている。
鶴瀬、宮本、水野田、丸林区の土産(うぶすま)の神であって、境内には本殿、拝殿、随身門と神木の朴の木、甲州街道の三本杉の一つに数えられていた巨木の切り株がある。
本殿は、延享元年(1744)九月吉日、南巨摩郡下山村の棟梁、土橋文蔵により再築されたものである。本殿の周囲に刻まれた竹林の七賢人、上り龍、下り龍等の彫刻は甚だ巧妙であり、その華麗さは類を見ない。
なお、本殿は県指定文化財となっている。
本殿の裏にある神木の朴の木は、二千数百年を経たといわれており、幹は幾度か枯れては根元から発芽し、現在に至っている。
この朴の木は、日本武尊がこの地に憩った折り、杖にしたものが発芽したものと伝承されている。古来からこの神木を疎かにすると、不祥の事件が起こると信じられているので、神意にさからわないようししている。
平成元年三月建立 大和村教育委員会 -
諏訪神社近くの常夜灯。
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日本画の先駆者、巨勢金岡の画像碑。
古跡金岡自画地蔵尊碑があります、金岡なる大和絵の巨匠がここにあった岩に地蔵尊を描きました -
【鶴瀬宿碑】
鶴瀬の地名は都留(つる)郡の背(瀬)に当たるところに由来しています。
鶴瀬宿に入ります。
天保14年(1848)の頃、鶴瀬宿の宿内家数は58軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠4軒で、宿内人口は242人でした。 -
国道20号線の洞門。もちろん昔に洞門など有るわけなし。
甲州古道は、この洞門越えのルートです。トンネル手前右側に階段道があります。 -
最初の階段を登ると、芭蕉句の標柱が立つ。
「観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲 芭蕉」
この句の甍は、観音堂の甍でもいいかな。 -
更に狭い石段を登ると聖観音堂が建つ。
本尊は聖観世音菩薩で京都清水より移したものといわれており養蚕の守護神として信仰あり。
平成十四年三月 大和村教育委員会 -
【聖観音堂】の全景。
横吹観音堂があります、本尊は聖観世音菩薩で京都清水より移したもので、養蚕の守護神として篤く信仰されました。
観音堂脇には納藁堂(のうこうどう)があります、柵の中には夥しい数の藁沓(わらぐつ)が山積みになっています。
*忽然と朽ちかけたようなお堂に出くわした。もちろん無人で屋根だけは直したのか、新しそうながら、建物本体は壁も落ち、扉もなく荒廃そのもの。 -
観音堂の参道広場から勝沼方向を見下ろす。広い景色が遠望される。
なかなかの絶景です。 -
参道の灯篭。
ところで、この場所から、下の国道20号レベルまでの下りは、足場の良くない、柵もない急な綴れ織りの坂道です。山などの経験のない方は、結構怖い思いをしますよ。
観音堂からはトンネルの反対側に下りる道が見えないが、広場の先端迄行くと断崖に造られた足がすくむほどの急なつづら折の細い道が現れる。今井金吾著[今昔三道中独案内(日光・奥州・甲州)]によると
『この山道は「よこぶきのくわん音」への道で、今はトンネルを通った方が安全だ。』と書かれていた。その通りだった。
道が濡れている時や高所恐怖所の人は 絶対に行かないこと。ちょっとでも滑ったら遥か下の道に転落すること間違いない危険な崖道である。途中で身のすくむ思いをした箇所があった。但し、中央高速道と遠くピンク 色の桃畑が見える勝沼の町並みは絶景である。
山道から舗装道路に下りたら、左折して国道の下を潜る旧道を行く。 -
観音堂から下りて来ると、武田不動尊があり。
この地は、勝頼一行憩いし折り、武田の守り本尊として奉持していた不動尊を祀り、不運の長久を祈り里人にこれを託した所と言われています。
大和村教育委員会 -
勝沼宿と鶴瀬宿の中間にある横吹き地区は、鄙びた感じを残しています。
という甲州古道の標識。
旧甲州街道標柱があります、標柱には「甲州道中鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶ、この横吹の古道は往時の面影を今に伝えています」と記されています。
いよいよ、ぶどうで大変有名な勝沼も間近です。
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