2011/09/30 - 2011/09/30
32位(同エリア95件中)
ムッシュさん
今回は、上野原町の甲州街道を主に、国道20号、30号線に沿った山中を上ってゆく。
歩いた宿場は、上野原町の鶴川宿→野田尻宿→犬目宿→鳥澤宿→猿橋宿までです。
犬目宿までは延々と上り調子のルートで結構疲れました。
今回、昼食は談合坂SAに、弁当を配達して戴き、広場の橋で食べた。これが美味で活力源になった。
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 団体旅行
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上野原町までチャーターバスで。
途中で見た富士さん。 きれいに傘雲が頂上を覆ってます。天気は下り阪。
本日雨など降らないように祈るばかりです。
お願い!雨は夜に降ってね。 -
国道20号線。中央、遠くに望むは、鶴川宿の街。
一旦、坂を下り、延々と上ります。えらい、こっちゃ! -
鶴川橋を渡ると、鶴川宿入口に到着。
川を含めてのどかな風景が見えます。
手前に見える川は、鶴川です。
鶴川は、小仏峠、笹子峠に並ぶ甲州街道の難所で、かつてこの川は、甲州街道唯一の「増水時徒渡し(かちわたし)」の場所だった。
川の流れは激しく、旅人が渡るには川越人足の助けが必要だった。
賃銭は、川の水深によって、天保年間の相場で16文から48文まで4区分されていた。川の流れ同様、川越人足の気質も荒々しかったようで、歌舞伎役者の市川海老蔵が甲府へ芝居に赴いた際に、100両をゆすられたという逸話が残っている。
以来、特に芸人たちは、この鶴川があるがゆえに、甲州街道を避け、大菩薩峠を越える青梅街道を使ったという。
【鶴川】
甲州街道上には橋のない川が3つありました。そのうち多摩川と笛吹川は渡し船がありましたが、鶴川だけは「川越人足/川越人足とは、人を背負うなどして川を渡すことを仕事とする人」を置いていました。
人足は時には法外な賃銭を要求することもあり、甲州街道を行く旅人にとって鶴川の川越人足
は、諏訪番所の役人よりも手ごわい存在だったようです。歌舞伎役者の5代目市川海老蔵も、甲府へ興行に行く際、百両要求されたと「甲州道中記」に書き残しています。 -
鶴川宿の入り口、石碑。
鶴川宿は小宿でしたが鶴川が一旦、川留になると大いに賑わいました、鶴川の鮎が名物。
天保14年(1843年)の頃、鶴川宿の宿内家数は57軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠8軒で、宿内人口は約300人。
『この鶴川は、甲州街道の中でも最も雰囲気がある宿場のひとつなんです。』 -
【鶴川神社】入口の鳥居。
この先に、細くて、人がすれ違えないほど狭くて急な100段以上の石段が待ってます。急な石段を上ると牛頭天王社がある。寛文元年(1661)の創建で、旧鶴川村の鎮守。 -
【鶴川神社本殿】
本殿は寛文元年十一月十八日創立、元禄十二年十二月修覆、享和二年水無月二十八日改築せらる。当時の棟梁久保村和智伝五右ヱ門、副棟梁臼井源五右ヱ門、大工志村治右ヱ門とある。明治六年村社に列し、大正八年は拝殿を改築、昭和四十九年本殿雨屋屋根、拝殿の屋根、天井を改修する。本殿一間社流造り、鉄製両部鳥居あり。
なんだか最近の造りに、本当?てな気分に。 -
あっと、いう間に鶴川宿(500m?)を抜けると、野田尻宿に向いますが、その途中、中央高速道路をよぎります。
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【大椚の一里塚跡の碑】
両塚共大椚(おおくぬぎ)村地内で、江戸日本橋より数えて19里目。 -
大椚(おおくぬぎ)の一里塚跡の碑説明板。
この宿も、中央高速道路により南北に分断され遺構も見る影もないようです。でも説明をじっくり見ると、なるほどね!! -
【大椚宿発祥の地】
防火水そうの所に大椚宿発祥の地標柱があり、大椚は間の宿でした。傍らに安永六年(1777)建立の秋葉山常夜燈や文政二年(1819)建立の念仏供養塔がある。 -
甲州街道史跡案内図
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これは23夜塔。この辺り、中央高速道路工事の関係で、やたら集められた石仏が多数あります。
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【大椚の観音堂】
大椚観音堂には大日如来坐像と千手観音菩薩坐像が安置。 -
境内の奥、更に石段を上ると、【吾妻(あずま)神社】があります
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大椚の大木!!
下部に小さく写っている人が非常に小さく見えます。大木の高さは歴史を感じさせてくれます。 -
芭蕉の句碑
「古池や蛙とひこむ 水の音」。この句、超有名じゃん!! -
【長峰の砦】の説明板。
戦国時代の出城。
長峰砦跡碑があります、武田信玄は甲斐國の東口を北条の侵略から防衛する為、この地に長峰砦を築きました。 -
発掘された【長峰の砦】の説明板。
この辺り中央高速道路建設時に、大半の遺跡が崩された。高速道路沿いに内容が説明板に残されてる。
【長峰の史跡】
「長峰」とは鳶ヶ崎(鶴川部落の上)から矢坪に至るまでの峰を指す呼び名ですが、戦国時代に上野原の加藤丹後守が、その出城というべき砦をここに築いたことから、いつかこの付近だけを長峰と呼ぶようになりました。
丹後守は武田信玄の家臣で、甲斐国の東口を北条の侵略から守るため、この砦で監視しました。
ここは、当時の交通の要所であり、要害な地であるばかりでなく、水にも恵まれていました。砦の北側は仲間川に面して崖となり、南面には陣門と呼ぶ木の柵を立てて守りを固め、常に番兵が見張りに当たっていました。
柵の東側に「濁り池」、その西北部に「殿の井戸」と呼ぶ泉がありました。
「濁り池」は、いつもどんより濁っていたので、こう呼ばれていましたが、一般には「長峰の池」で通っていました。約100㎡の小池で、どんな干ばつにも枯れたことがありませんでした。池の中にヒシという水草が群生していたことも有名でした。
「殿の井戸」は、きれいな水がこんこんとわき、日照りのときでも絶えなかったといわれていました。おそらく、領主が出かけた折、好んでこの水を飲んだことから、こう呼ばれたことでしょう。
側にある石碑は、この地域の獅子門俳諧の門下、日野の花岳寺十六世八峰が、芭蕉と芭蕉門十哲の一人獅子庵支考(蓮二房)の句をそれぞれ刻んで建立したものです。
現在、この史跡の真ん中を中央高速道路が通っています。
(上野原教育委員会) -
【長峰の砦】
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ここを右に行き高速道路を越えると野田尻宿へ至る。
実際の野田尻宿は、高速道路により南北に分断されている。 -
古くからの構造です。
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【野田尻宿碑】
天保14年(1843年)の頃、野田尻宿の宿内家数は118軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠9軒で、宿内人口は約600人。
野田尻宿は、正徳3年(1713)集落起立の形態で宿を構成した。天保14年(1842)には本陣1、脇本陣1、旅篭は大2、中3、小4計9の小さな宿場であった。蔦屋・紺屋・中田屋・酒屋・鶴屋・万屋など現在も昔の屋号が残っている。もちろん職業は違っている。
お玉ヶ池にまつわる伝説は、その昔、旅篭「恵比寿屋」で働く美しい女中「お玉」にまつわる恋物語で、念願の恋が実ったお礼にと、水不足に悩む野田尻宿の一角に澄んだ水をこんこんと湧き出させたと言う。何とお玉の正体は「竜」で、長峰の池の主「竜神」と結ばれたと言われている。 -
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【犬嶋神社】野田尻宿の鎮守です。
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その境内にある舞台。昔は舞いでも行われたのかな??
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賑かに地蔵さんにむかえられました。【禅寺西光寺】入口階段の横に祀られている。
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【禅寺西光寺】
臨済宗熊埜山西光寺があります、天長元年(824)真言宗として創建され、後に臨済宗に改宗し、この辺りの総本山となりました、境内には御膳水碑があります。
【熊埜山 西光寺】
臨済宗建長寺派1等地
山梨県上野原市野田尻849
【歴史・縁起】
旧甲州街道、宿場町として栄えた野田尻宿の高台にある西光寺の創建は天長元年(824)。元は真言宗の寺として、山梨県・郡内地域でも最古の寺と言われております。鎌倉五山・第一位臨済宗建長寺の開山蘭渓道隆禅師が信州巡錫の際、当時の住職桑田道海和尚(後に建長寺第九世智覚道海禅師)が参見して弟子となり、臨済宗に転宗(1309)したと言われる大変歴史のある寺であります。
当時は建長寺派の小本山として、この土地を生かした修験道も含めて、9カ寺の末寺があったとされておりますが、 現在に残っている寺は、桑久保の東光寺、東大野の能満寺、四方津の福昌寺のみであります。また、西光寺観音堂に祀られております行基作と言われる、聖観世音菩薩は廃寺となった西光寺末、長福寺のご本尊であり、甲斐の国三十三霊場の一つとして、特に春秋にはご朱印に訪れる方々も増えています。
◎甲斐国八十八カ所霊場 七番札所
◎甲斐の三十三観音霊場 三十一番札所 -
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【萩野の一里塚跡碑】 江戸日本橋より数えて20里目です。
この一里塚は、五街道の一つである甲州街道に築かれた塚の一つです。日本橋から二十里(78.5Km)・十九番目のものです。
五街道とは、徳川家康によって制定された東海道・中仙道・奥州街道・日光街道・甲州街道のことです。
二代将軍秀忠は一里塚の制を定め、永井白元・本白光重の二人を一里塚の奉行に任命して、全国の果てから果てまで一里塚を築かせました。
一里塚は街道の両側に五間四方(82.5m2)の大きさで築かれた塚です。その上にエノキ・ケヤキ・松・モミなどの木を植え目印としました。植えられた木はエノキが多かったが、この塚に植えられていた木は松だったようです。
一里塚は、明治三十四年、中央線が開通して交通機関が汽車に代わるまで、旅人が江戸からの距離を知って、もう一里、もう一里と塚を楽しみに旅をしたり、人夫や馬を借りるときの駄賃をきめる基準にしました。また、暑いときはひと休みする木陰に利用したり、にわか雨には雨宿りの場ともなりました。
上野原市教育委員会 -
文化?年(1813年)建立の大乗妙典日本廻国供養塔。六部と呼ばれる行者が全国六十六ケ國を巡礼し、一國一ケ所の霊場に法華経を一部ずつ納めた達成記念碑です
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【矢坪坂の古戦場跡碑】
享禄三年(1530)相模國の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻め込み矢坪坂に進出、一方、武田家の家臣小山田越中守の手勢が坂の上で待ち構え、両者は坂を挟んで対峙し、やがて激戦が展開されたが、小山田勢は敗れ、富士吉田方面に敗走した。 -
【武甕槌(たけみかづち)神社】の鳥居があります、社殿は段上に鎮座している、軍神を祀るところから軍勢神社とも呼ばれます。
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大きな犬に出迎えられました。
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県道30号大月上野原線に沿った擁壁の中腹に残された旧道を進みます、南東方向の眺望が開けます。中央高速道路の北側沿いに歩いてます。
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青面金剛像庚申塔です
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矢坪金毘羅神社参道標石。
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座頭市も転げ落ちたといわれる狭い急斜面な山道を歩いています。
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遠くに見えるのは、先ほど昼食をとった、談合坂SAです。
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旧甲州街道新田宿尾張の殿様の定宿家の表札を掲げた豪壮な旧家があります、当家は代々米山伊左衛門を名乗り、尾張藩主の定宿を勤め庄屋を兼ねていた。
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安達野分岐。右端の細い道が、国道に合流します。
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【犬目宿碑】
天保14年(1843年)の頃、犬目宿の宿内家数は56軒、うち本陣2、問屋1、旅籠15軒で、宿内人口は255人。
昭和45年の大火で宿並の六割が焼失しました。
甲州街道、甲斐国4番目の宿場。郡内地方で最も標高が高いところにあります。本来は、現在の位置より700m南に集落があったといわれていますが、
1713(正徳3)年に人気のない地域に新たに設置されました。宿場通りの西に位置する犬嶋神社と宝勝寺が、西からの侵略を守っており、江戸防御のための戦略的な構えとなっています。
1836(天保7)年に起きた甲州一揆(郡内騒動)を率いた犬目村の兵助の古里であり、宿場の東側の高台に墓が残っています。この墓からは、富士山と郡内の山々が一望できます。 -
【犬目の兵助】の生家説明板
1797ー1867 江戸時代後期の甲州一揆指導者。
寛政9年生まれ。甲州街道犬目宿(山梨県上野原町)の農民。天保7年(1836)におきた甲州一揆を下和田村次左衛門とともに指導する。事件後出奔し各地を流浪のすえ,上総木更津にかくれ,のち帰郷した。慶応3年2月23日死去。71歳。姓は水越。名は「ひょうすけ」ともよむ
生誕地とされる場所の案内板に書かれていた文章だ。
『天保7(1836)年、犬目宿で旅籠「水田屋」を営んでいた兵助は、下和田村(大月市)の武七とともに、天保の大飢饉と商人の米買い占めで苦しむ村人を救うため、百姓一揆を起こす。
兵助は一揆に先立ち、幕府の厳しい処分を覚悟して、妻「りん」と離縁し、生後間もない娘「たき」が水田屋を継げるように書き置きを残している。
一揆は、兵助らの意図に反して暴徒化し、甲斐一国を巻き込む激しい打ちこわしに発展した。世に名高い天保の甲州一揆(甲州騒動)だ。兵助は絶望し、一揆を離れて逃亡の旅に出る。その後の兵助の足取りは定かではない。』 -
犬目から見えた富士山の浮世絵。北斎の作品です。
著作権フリー作品「富嶽三十六景」からの画像
【富嶽三十六景 「甲州犬目峠」 葛飾北斎画】 -
現代の犬目から見える富士山。旅人には有名だったようで、葛飾北斎も「富嶽三十六景」の一つに、「甲州犬目峠」として描いている。
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(借用)
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曹洞宗 龍澤山宝勝寺(甲斐八十八ヶ所霊場の第六番礼所) の入口にこんな碑があります。
どんな意味か?? -
恋塚の一里塚
こんもりと小山の塚が残っています。ロマンチックな地名です。
南塚を残している、江戸日本橋より数えて21里目です。 -
馬宿跡
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国道20号線まで下ってきました。車が見えるところが、国道です。
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国道20号線沿いの鳥澤の街並み
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JR鳥澤駅
天保14年(1843)頃の上鳥沢宿の宿内家数は151軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠13軒で、宿内人口は650人。下鳥沢宿とは合宿。 -
広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにも見ることができる猿橋は、「岩国の錦帯橋」「木曽の棧(かけはし)」と並ぶ「甲斐の猿橋」は、日本三奇橋のひとつ。
”甲州猿橋 お山の猿が お手手つないで かけた橋”野口雨情
”猿橋や 月松にあり 水にあり” 芭蕉 -
芭蕉句碑「うき我を 淋しがらせよ かんこ鳥」があります。
猿橋の南詰にも芭蕉句碑
「枯れ枝に 鴉とまりけり 秋の暮」があります。
南詰の広場には明治天皇御召換所址碑や山王宮があります。 -
橋の高さ30mより川を眺める。
緑も美しいが、きっと、紅葉も美しいかろな。
甲陽鎮撫隊は敗走時、猿橋の焼き落としを計画したが、春日盛(佐藤彦五郎)は土地人が難渋すると猛反対し、難を逃れた。 -
猿橋の眼下には美しい桂川の渓谷が望めます、桂川は笹子川を吸収して相模國に入ると、相模川と名を変え、下流は馬入川となり相模灘に注いでいます。
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大黒屋
http://www.navi-city.com/daikokuya/info.html
名物『忠治そば』は、その昔大黒屋がまだ旅館だったころ、国定忠治が逗留したところから名づけられたと言われてる。 -
猿橋の桁をアップで。ようこんな造り方出来たなー。感心、感心!
支柱を立てない木造橋で、桁のつながりが、丁度、お猿さんが繋がってる形に似ていることから猿橋と命名されてる。
現在の猿橋は嘉永4年(1851)の図面を元に昭和五十九年に復元されたものです。 -
猿橋の桁をアップで。
広重は橋を眺めながら「猿橋の向ふ茶屋にて昼喰、やまめの焼きびたし菜びたしなり」と寛いでいます。
水面から30mの高さで桂川の断崖どうしをつなぐ、30mの長さの橋を渡る。
この橋はかつて、「周防の錦帯橋」、「木曽の桟」と並んで日本三大奇橋のひとつと呼ばれ、橋脚を使わず、両側から張り出した四層のはね木で橋を支えている。 -
猿橋の美しい姿(webより)
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歌川広重は猿橋周辺の景観に感動し、言葉を旅日記に残しています。
「鳥沢にて下り猿橋まで行く、道二十六町の間、甲斐の山々遠近連なり、山高くして谷深く、桂川の流れ清麗なり、十歩二十歩行く間にかわる絶景、言語に絶えたり、拙筆に写し難し」
猿橋宿は比較的大きな宿場で芝居小屋などもあったといいます。
天保14年(1843)の頃、猿橋宿の宿内家数は138軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠10軒で、宿内人口は542人でした。
宿長は三町三十四間(約385m)。猿橋警察官駐在所辺りが猿橋宿の西口でした。
「甲陽猿橋之図」は、歌川広重がスケッチと記憶をもとに構成して描いた。猿橋を見上げ、崖の向こうに遠山や家並み、満月を、縦長の画面を活かして、斬新な構図で描いた。広重の最高傑作ともいわれています。
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この旅行記へのコメント (2)
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- DANAさん 2011/10/25 20:58:44
- 初めまして!
- ムッシュ様
本日は、拙い旅行記にご訪問いただきありがとうございました。
旧街道をたどる旅、ちょっぴりドキドキしながら拝見しています。根気のいる素敵な旅行記、感動しています。私こと、訳あって1680年代に島原から大阪、大阪から仙台へ至る旧街道のことや、府中から岩槻に至る(資料にない)古い街道のことを調べ始めて2年になります。仕事をしながらの調査なので、なかなか進みませんが、PCの威力はすごいです。お陰でムッシュ様のような方がいらっしゃることを知ることができました。中山道、魅力的です。猿橋も、写真を拝見して行きたくなってしまいました。
まずはお礼まで。これからも素敵な旅をお続け下さいますように。
DANA
- ムッシュさん からの返信 2011/10/30 15:01:53
- RE: 初めまして!
- DANA様
書込み戴きながら返信遅くなりすみません。
この間に、甲州街道ウォーク(猿橋→黒野田宿)に行って来ました。それで一寸バタバタしてました。次回は最大の難所”笹子峠越え”になりますが、今回はその麓まで。
歩いてて田舎や、古い建物、石碑などに次々遭遇すると、往時の日本人の信仰、旅や、日常生活を少しだけでも想像できて、そんな歴史の流れの今にいるのかなって思える。ウォーキングマニアでもありませんので、仲間と共通な時間を過ごしてるだけですが、ぼちぼち継続してる次第です。
江戸時代の日本史のご造詣が深い方かもしれませんが、また立ち寄らせていただきます。
>。私こと、訳あって1680年代に島原から大阪、大阪から仙台へ至る旧街>道のことや、府中から岩槻に至る(資料にない)古い街道のことを調べ始めて2年になります。仕事をしながらの調査なので、なかなか進みませんが、PCの威力はすごいです。お陰でムッシュ様のような方がいらっしゃることを知ることができました。中山道、魅力的です。猿橋も、写真を拝見して行きたくなってしまいました。
> DANA
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