2011/02/13 - 2011/02/13
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井上@打浦橋@上海さん
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春節が来て、しばらく春が来たかなと思わせる天気が続きましたが、その後は、またまた寒さがぶり返して来ました。
さて、そんな寒さの戻った2月13日、上海歴史散歩がありました。その日のテーマは「創世記の豊田と上海を学ぼう!」でした。
訪れた場所は・・・・中山公園近くの愚園路×安西路の南東角にある豊田紡織職員宿舎、そこから北にチョイ行ったところ、長寧路手前右にある豊田従業員宿舎、中山公園の前を通り、そこを超え、軌道交通3・4号線の下の道を北へ行き、蘇州河沿いを西へ行き、昔、豊田紡織の工場があった地域に、今でも記念館として残る事務所棟などでした。そして、最後は、その記念館で、上海での豊田紡織の成り立ちや発展振りなどの講演を伺ったのです。
上海の紡織業は、当初は、イギリスが盛んでしたが、その後、日本がドンドン手を広げ、上海では一番になったようです。日本は当初は虹口より東方向の黄浦江沿いに工場を構えたわけですが、後発の豊田は蘇州河沿いの、どちらかといと西端に工場を構えました。当時上海一番の内外綿も蘇州川沿いでして、豊田の東隣に工場がありました。豊田は内外綿より遅れて上海に進出しましたので、更に西に工場を構えたと言うことなんでしょう。内外綿は「4.12軍事クーデター」(1925年)にまで発展したストライキ「5.30事件」が起こったところです。
豊田佐吉が上海に進出をし始めたのは、抗日運動があった1919年の「五・四運動」があったあとの1921年でした。上海での豊田の業績は上がり、日本の名古屋などにあった紡織業の規模を大きく上回っていたようです。つまり、当時の豊田の屋台骨をになっていたということなんでしょう。
佐吉が豊田自動車工業を設立(1937年)することに関しては、豊田グループからは、大きな反対があったそうですね。莫大な資金が要りますし、賭けのようなところありましたから。しかし、そういった反対が大勢だった中にあって、たった一人、やるべきだとバックアップしたのが、上海での紡織業の実質的な経営者であった、常務の西川秋次の力だったそうです。金の面でも、上海での儲けを、そこに注ぎ込ませたそうです。
今の自動車工業としてのトヨタの発展は、上海での紡織業があってこそなんだ、ということなんでしょう。いや、そういうことを、記念館の館長が講演の中で言っていまして、それを聞いて、私も納得したと言うことです。
愚園路×安西路の南東角にある豊田紡織職員宿舎は立派なもんで、当時、西川秋次や豊田佐吉が住んでいたお屋敷も残っていまして、今でも風格が感じられます。また従業員宿舎も、今でも現役でして、綺麗に使われて残っています。記念館は、ボロ屋になっていたのを、日本の竹中工務店が手を加え、綺麗に復活されています。
こういったことに興味ある方は、いつか、この私のブログを参考にして訪れてみてください。
そして、もう少し詳しく知りたいと言うなら、「創世記の豊田と上海・・・その知られざる歴史」と言う本をお読みください。歴史散歩の時の講演には、その作者の東和男さんも出席されました。東さんはトヨタの上海首席代表だった方です。
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これは上海中心部を示した地図と、この日に訪れた地域の地図です。
上海の中心はどこか・・・それは、まあ、人民広場って、ことなんでしょうね。
そして、中心部地域はと言いますと、内環状線の内側がそれに当ると言うことでしょう。
東京で言えば山手線の内側に相当するのかもしれません。
この日訪れた地区は、その中心部の北東部tごいうことですね。
区で言いますと長寧区です。
地元に住んでる人にとっては中山公園エリアと言った方が、ピンと来るでしょう。
集合場所は愚園路と安西路の北東角に建つ長寧区工人文化宮の前の広場です。 -
集合場所までは、私が住む打浦橋からでしたら、地下鉄でも行けるんです。打浦橋駅から9号線に乗り、肇嘉浜路駅で7号線に乗り換え、更に静安寺駅で2号線の乗り換え、江蘇路駅で降りれば、歩いて12・3分で行けるという事です。でも、乗換えが2回あって面倒ですし、地下鉄は外が見えないので面白くないと言うこともあり、バスで行きました。バスは96路という中山公園が終点のバスです。日曜日の朝でしたので、渋滞も無くスイスイ行きましたので、地下鉄より早かったかもしれません。乗ったバス停は打浦路斜土路で、降りたバス停は武夷路定西路でした。
その96路の経路図がコレです。
地下鉄での行き方も、併せて表示しました。
この図の中の「周さんの出身校・清華中学校」の周さんというのは、この日の歴史散歩の世話役と言いますか主催者の片山先生の補佐をされました上海人女性です。日本人学校の事務職をされている方です。 -
96路バスに乗ったのは7時28分で、降りたのは7時50分。
22分で行きましたので、地下鉄より早かったかもしれません。
ココに並べた画像は96路バスの窓からの風景です。
96路バスの全走行経路の半分は旧フランス租界地区内と言っても良いでしょう。
まずは、瑞金二路、復興中路、復興西路です。
フランス租界時代の呼び名は、それぞれ、Route Pere Robert、Rue Lafayette、Route Boissezonでして、漢字表記は金神父路、辣斐徳路、白賽仲路です。
ということで、プラタナスの街路樹と、1920年代30年代に建てられた洋館が並ぶ道でして、窓からの風景を楽しめます。
瑞金二路では瑞金賓館も左に見渡せ、復興中路に入りますと、黒石公寓や、克来門公寓などの、昔の高級アパートなども眺められます。
復興西路は、中路よりも更にハイクラスという様相があります。 -
復興西路からは華山路に入りますが、そこはほんの僅かで、スグ江蘇路に入り北に向かいます。もう、この辺りは、旧フランス租界地区の外となりますが、準租界地区と言える地域です。
ということで、華山路も江蘇路も、それぞれ、Haig Avenue、Edingburgh Road と言う名が付いていたようです。
江蘇路からは延安西路に出て、それをチョイ行き、武夷路に入ります。武夷路もプラタナス街路樹のあるフランス租界っぽい道です。 -
降りたバス停は「武夷路定西路」という名のバス停でしたが、目指す安西路がすぐ近くにありました。バス停の名としては「武夷路安西路」のほうが、ピッタシだと思いましたね。
安西路を北へ行きます。
安西路は狭い道です。
甕入りの酒を売る店です。
左が黄酒でして、右が白酒ですね。
つまり、左が紹興酒などの醸造酒でして、色は飴色で、度数は15度から18度程度の酒です。
右が、高粱酒などの蒸留酒でして、透明で、度数は40度以上の酒です。 -
安西路の道幅が広くなりました。
広くなった道沿いに建つマンションです。
鴻凱湾緑苑というようです。
まず、3万元/?くらいするのかもしれません。
調べましたら・・・
http://sh.esf.sina.com.cn/detail/36918033/
ななな、なんと、44000元/?だそうです。
130?の3LDKが575万元だそうです。
その鴻凱湾緑苑の裏に公衆便所がありました。
「大」のほうをココでしましたが、洋式の綺麗なトイレでした。
勿論無料。ただし、トイレットペーパーは配備されています。
安西路を更に行きますと、宣化路にぶつかります。
道路標識をよく見ますと、道の名が2つ・・・
向うの表示が宣化路で、手前の表示が西諸安浜路となっています。
どうなっとるんじゃい!!
調べてみました。
この地図は1997年に出版された上海歴史ガイドマップの地図です。
当時は、シッカリ、2つの道があったんですね。
再開発で1本になったんでしょう。
でもって、北側の住居表示としては宣化路○○号が残り、南側の住居表示としては西諸安浜路○○号が残ったので、道の名を2つにせざるを得なかったのかもしれません。 -
宣化路を超えて、安西路を更に北に行きます。
また、道は狭くなっています。
もうスグ、愚園路です。
この辺りの右側の敷地に、このあと訪れる豊田紡織廠の幹部社宅がるのです。
愚園路に出ました。
右向うに集合場所の長寧区工人文化宮があります。
長寧区文化センターといったところでしょうか。
集合時間は9時ですが、8時9分に着いてしまいました。
もう先客が2人います。
一人は歴史散歩の世話役の周さんです。日本人学校の事務職をしている上海女性です。
彼女に、96路バスで来たんだ、と言いましたら、私も、中学校の頃、96路バスで通っていた、なんて言ってきました。どこの中学と聞きましたら、清華中学だとか・・・
それが、96路バス経路図に示しました中学なのです。 -
時間はまだ早いので、付近を散策。
長寧区工人文化宮の裏にあるのが、海信花苑というマンション。実は、97年に、コレを買うつもりで、契約一歩手前まで行ったんですが、義姉の旦那から、どうも問題あり、とアドバイスを受けて、取りやめてしまった物件なんです。果たして、その後、2年くらい工事がストップになり完成が大幅に遅れてしまったのです。
97年上海に家を買おうと思って上海の街を巡り歩いたんですが、一番のお気に入りは、勿論、衡山路辺り。しかし、そこは高くてね・・。次に気に入ったのが、中山公園周辺でした。公園があるし、愚園路も素敵な道ですし、当時珍しいピザ・ハットが公園脇にあった(当時、もしかすると、ココにしかなかったような・・)からなんです。今や、中山公園は人気の住宅地。地下鉄は2・3・4号線が集まり、大型ショッピングセンターもありますので。でも、まあ、今住んでる打浦橋も気に入っていますので、失敗したなとは思っていません。
長寧区工人文化宮の安西路を挟んだ対面にも公衆便所があります。
中を覗きましたが、ココも綺麗でしたね。
長寧区工人文化宮の脇にある書報亭です。
「書」が本や雑誌、「報」が新聞のことですね。 -
大方の人が集まり、長寧区工人文化宮の中で、まずは事前説明です。
主催者のK山先生が作られた資料を元に、この日に周る場所、当時の時代的背景などの説明や注意事項などが知らされます。
工人文化宮を出て最初に向かったのが、豊田紡織廠幹部社宅です。
愚園路を渡り、小道を行った奥にあります。 -
幹部社宅の前で、まずはK山先生からの説明があります。
この幹部社宅には、当時の豊田紡織廠の実質的な経営者である西川秋次などの幹部が住んでたようです。豊田佐吉も住むことあったそうです。
今は、一般住宅になってるようです。 -
また安西路に出て、北に向かいます。
豊田紡織廠の日本人社宅が見えて来ました。 -
これが、豊田紡織廠の日本人社宅です。
今は、地元の方々が住んでいますが、今でも立派なもんです。
綺麗に使われてるようです。
今後も、暫くは、このまま残るものと見ています。 -
その社宅を後にして、次に向かいます。
住人の方が、なんだろうこの集団はという感じで、見送っています。
外に出て、社宅周りを行き、次に向かいます。
その社宅の脇に、大きなカタツムリの像が・・・・
なんなんでしょうか、コレは・・・・
社宅の西側はチョッとした公園になっています。
この公園と一緒に社宅を眺めますと、やはり、ここ10年、20年くらいは、このまま残るのかなと、思えてきます。 -
安西路から長寧路に出て、西へ向かいます。
対面にはトロリーバスが、何台も並んでいます。
コレは外灘と中山公園を行き来する20路ばすです。
10年位前ですと、どこでもトロリーバスは走ってましたが、今や、珍しいですね。
この20路バスと、あとは・・・1つか2つでしょうね。
道端で中国風クレープを作り売りしています。朝飯には、人気があります。
ここのは、正宗山東となっていますね。そして呼び名は雑粮煎餅となっています。
私に認識では、コレは天津が発祥なのかと・・・天津では天津煎餅とか煎餅?子と呼ばれています。
84年代天津に居る頃はよく食いました。
上海に現れたのは、まだ、10年経ってないでしょう。
天津モノと山東モノの違いは、生地が前者がトロトロ状態、後者がネバネバ状態のモノを使うところなのかと。
CoCo壱番屋です。
ご存知日本のカレーライス屋ですが、上海でも結構人気ありますね。
上海に進出して、5・6年経つでしょう。 -
中山公園に着きました。
昔はジェスフィールド公園と呼ばれていたそうです。
漢字表記は極司非爾公園です。
当初は外国人専用で、一般中国人は入れなかったそうですね。
中山公園を後にして、また長寧路を東に行きます。
向うには、反り返ったような高層ビルが見えます。
ルネッサンス上海・中山公園ホテルと言うらしいです。
そのホテルの向うに龍之夢購物中心という大型ショッピングセンターがあります。 -
龍之夢購物中心を超え、凱旋路を超え、地鉄3・4号線の高架を抜けました。
ここでも、天津煎餅を作り売りしていましたね。
地鉄高架脇の狭い道を北に行きます。
地鉄効果の真下の道になりました。
凱旋路なのかもしれません。
振り返って東方向を見ますと龍之夢購物中心が見えます。
カルフール(家楽福)もこの中にあります。 -
蘇州河沿いの道に出ました。
万航渡路と言う道で、昔の名はジェスフィールド路(極司非爾路)です。
向うに内環状線の高架が見えます。
この道の左側一帯に、昔は豊田紡織廠の一部があったそうです。
今は、高層マンションが建っています。
大家源新城というらしいです。
http://shanghai.anjuke.com/v2/prop/view/59095571
を見ますと、110?の2LDKが389万元のようですね。
高架を超えて振り返りました。
大家源新城の全様が見えます。
今は、こういった川沿いのマンションは人気あるんですよね。
手前の敷地にもいずれ、こういった高層マンションが建つんでしょう。
コレが豊田紡織廠跡地に残る記念館です。
当時の事務所棟らしいです。
手前には歴史散歩の顧問の先生である陳祖恩先生と陳先生のお嬢さんと世話役の周さんが写っています。 -
入場門では、、記念館の館長さんや職員さん達が出迎えてくれました。
それともう一人、「創成期の豊田と上海」と言う本を書かれた東和男さんも出迎えてくれました。
東さんは、トヨタ自動車を退職された方で、上海首席代表を勤められていた方です。
その東さんの左となりにいる方も東さんなのです。
こちらの東さんは、歴史散歩の第1回から参加してる方で、毎回の記念集合写真は彼が撮っていまして、それを現像しまして、皆さんに配布してると言う立派な方なんです。
2人の東さん、どちらも、上海とは深い関わりを持ってる方です。
昔の事務所棟である記念館に向かいます。
左の建物は、昔の食堂棟でして、今は多目的ホールとして開放してるそうです。
コレが食堂棟の内部です。
地元の人たちも利用してるそうです。 -
コレが上海豊田紡織廠記念館の全様です。
そして、コレは記念館と今でも残る食堂棟と防火用水設備の俯瞰図です。
記念館の内部に展示されていましたものをデジカメに収めたものです。
当時は広大な敷地に工場も数多くあった訳ですが、今でも残ってるのは、この図に残る建物群と、たった1つ残る工場と、動力源工場にあった煙突1本だけのようです。
しかし、ホンの10年前までは、豊田紡織廠が残していった工場は、上海第一紡織機械廠として、使われていたそうです。再開発のため工場群は郊外に移されてしまったということです。
いずれは、この敷地にも公園やらマンションが出来るんでしょう。
記念館内部への入場口には、「障子を開けてみよ、外は広いぞ」と言う豊田佐吉の言葉が掲示されています。
コレは佐吉が上海に本格的に進出する時に発した言葉だそうです。 -
記念館の松田館長から、スライドによる当時の紡織廠の成り立ちやら、実質的な経営者であった西川秋次さんのことなどの案内説明がありました。
「上海豊田紡織廠について」というスライド画像では・・・
1.豊田佐吉翁は、1918年1月に日本で豊田紡織株式会社を設立。早くから中国に関心を持っていた佐吉翁は、1918年10月単身中国にわたり、上海を中心に各地の紡織業を視察。
2.1919年、当時技師長であった西川秋次を伴い、半ば永住の覚悟で再び上海へ渡り、苦労して約2万坪の工場用地を確保。
3.1920年、約1万坪の大きな紡織工場を建て、佐吉翁の個人事業として操業を開始。
4.1921年11月、株式会社豊田紡織小を設立。
5.豊田紡織廠は創業以来業績も順調に推移し、多くの利益を生み出し蓄積していった。この資金は、後の豊田自動織機製作所やトヨタ自動車の設立に大きく貢献。
6.トヨタグループの源流とも言える存在であり、初めての海外子会社である。また、トヨタグループの企業張っての歴史上、非常に重要な意味を持つ会社であった。
●終戦後(1945年)当時の国民党政府に接収され、幾つかの社名を変え、国営「上海第一紡織機械有限公司」として現在に至る。
●トヨタグループ発展のルーツとして復元、保存に着手。
次は西川秋次の人物像・・・
1.1881年(明治14年)12月2日、愛知県渥美郡二川町(現在の豊橋市)生まれ。
2.1900年(明治33年) 豊田佐吉翁と出会う。秋次19歳。
3.1919年(大正8年)2月 豊田佐吉翁とともに上海へ、佐吉翁52歳、秋次38歳。
以降30年にわたり、上海豊田紡織廠の設立、実質経営者として事業拡大と日中親善ンい大きな功績を残した。
終戦(1945年)後も『これからが本当のワシの仕事じゃ』と中国紡織業の復興・紡織技術の伝承に尽くした。
4.1949年(昭和24年)3月 日本へ帰国。帰国後も、社旗に役立ちたいと自費を投じ奨学会を設立し、社会に貢献。
5.1963年(昭和38年)9月13日 83歳の生涯を終えた。
コレは当時の事務所棟と周辺の様子です。
左側に工場があり、遠くに動力源工場の煙突が2本見えます。
右側にはジェスフィールド路があり、蘇州河がある、ということですね。
そして、コレが当時の豊田佐吉邸です。
霞飛路・・・当時のフランス語名は Avenue Joffre、今の淮海中路・・・にあったと言われています。
しかし、それがどこにあったのかが、大きな謎なのです。 -
さて、その豊田佐吉邸の話です。
佐吉は、1918年(大正7年)、上海に到着すると直ちに、フランス租界の霞飛路にあったドイツ人が所有していた、庭付きの3階建ての白亜の邸宅を購入したとあるんです。
それが、どこにあったのか・・・
1つの説は、淮海中路1517号にある現・日本総領事館公邸です。
今でも立派に残る建物と大きな庭は、確かに佐吉が上海に北当時は、ドイツ人所有であったと言うことです。
もう1つの説は、現・日本総領事館公邸(1517号)と、米国総領事館(1469号)とに挟まれた土地に建つ住宅群・上海新村(1481号〜1491号)のある場所にかつて存在していたのではないかと言うものです。
一番上の図は「上海歴史ガイドマップ」の日本総領事館(1996年当時は領事館そのものだった)と米国総領事館周辺の地図です。ココでは豊田佐吉邸は米国総領事館にあったとされています。
次は、日本総領事館以前の盛宣懐邸と、現・日本総領事館公邸です。
次は佐吉邸が上海新村の敷地にあったと言う推定の地図です。1930年ごろの地図です。
最後が、1940年の佐吉邸周辺の牛乳配達地図です。
佐吉邸は壊され、上海新村に取って代わったしまったと言う地図です。
果たして佐吉邸は、どこにあったのか・・・
現・日本総領事館公邸の敷地にあったのか、米国総領事館だったのか、あるいは、その両者の中間にあったのか・・・・ -
スライドによる説明が終わり、記念館の中の展示物の見学になりました。
この会議室にある椅子と机は、この日のために上海日本人学校から運ばれたものだそうです。
コレが豊田佐吉の発明による、当時の最先端機のG型自動織機です。
記念館のしおりによりますと・・・
【1924年(大正13年)豊田佐吉53歳の時】
究極の目標として定め。当時世界で最高性能の完全なる自動織機として完成させた自動織機。この発明・完成は、日本における産業近代化の先駆けの一端を成すとともに、世界的にも認められた。・・・・となっています。
西川秋次さんです。
佐吉翁の片腕として上海を中心に活躍。佐吉沖なの理想”日中親善”の実現に障害をささぐ。
とあります。
中国語での説明もあります。
コレは当時の上海豊田紡織廠の様子を表す模型と言いますかジオラマですね。
事務所棟と、その南側に並ぶ工場群と、動力源工場の煙突2本が見えます。 -
事務所棟1階の南西奥にある部屋が社長室だったらしいです。
こじんまりとして質素な感じですね。
その社長室の真ん中には机があります。
コレは、勿論、当時のものではないんでしょうが、そこには小さな写真が入った額が置いてあります。
よく見ましたら、豊田章一郎夫妻のお写真のようです。
2007年の10月に、ココを訪れた時に、この社長室で撮ったもののようでした。 -
2階にあがってみました。
階段も年季が入っています。
階段の下にはG型自動織機が見えます。
広々とした部屋です。
昔は社員の机が並んでいたのかもしれません。
北側の窓の外を眺めました。
蘇州河の向うには高層マンションが並んでいます。
ここには、昔は、上海豊田紡織廠の中国人社宅があったらしいです。 -
外に出て周りを撮りました。
事務所棟の南東方向には、当時のままのノコギリ屋根の工場が見えます。
当時の工場で、残ってるのはコレだけのようです。
西方向には、2本あった煙突のうち1本だけが残っています。
最近、塗装しなおした様子でしたので、今でも使われてるのかもしれません。
黄色いバス手前の左側には、プールのようなものが・・・
当時の防火用水施設も、残してあると言うことです。
食堂棟の裏にある昔の塀です。
工場敷地と一般道路の境界にあった塀らしいです。
その一部が残っていて、それをココに移築したものらしいです。 -
上海豊田紡織廠跡地を離れて外に出ました。
万航渡路を西に向かいます。
向うには1本だけ残る煙突が見えます。
蘇州河に架かる橋、強家角橋まで来まして、橋に上がって周りを見渡しました。
コレは蘇州河北岸の西側の風景です。
やはり、蘇州河北岸は、バラックのような家や、くたびれたコンクリート集合住宅が多く見られます。 -
そして、コレが豊田紡織廠跡地です。
1本だけ残る煙突が印象的です。
遠くには、高層マンションが見えますが、いずれこの跡地にも、そういったものが建ち並ぶんでしょう。
最後に、記念館に展示されていました豊田紡織廠の模型をもう一度・・・。
西上空からの俯瞰風景となります。
強家角橋から見る風景に一致します。
コレで「第51回上海歴史散歩:創成期の豊田と上海」は終わりです。
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