1979/06 - 1982/12
27位(同エリア73件中)
アリヤンさん
産油国、イラク・クウェート侵攻、湾岸戦争、多国籍軍の集結地・休息地、などの代名詞がつくクウェート首長国。
1979年-1982年の3年半、1985年-1988年の3年の計6年半、日本の企業戦士として、クウェート駐在をしていた。
ニクソンショックで円高が急激に進む中、ある商社の営業マンとして、アラブ商人やインド商人を相手に「Made in Japan製品」を販売していました。
クウェート赴任を契機に、アラブ諸国との付き合いは、以来20数年となってしまった。
当時のワタクシのビジネス守備範囲は、クウェートを拠点にサウジアラビア、ドバイ、オーマン、イエメン と エジプト。
特に、サウジアラビアとドバイへは、毎月クウェートから出張していた。
オーマンとイエメンは数か月に1回。
エジプトは2度目の駐在では毎月訪問していた。
このころは、オイルマネーがうなっていて、近所の産油国はどことも成金国家の様相で、水は油より高く(海水を日本製の淡水化プラントで水を作る)、金スーク(市場)では金がうなっていた。
よって日系企業の多くがここクウェートに駐在拠点を持っていた。
ちょうど今どき流行の「ドバイ」っと言った状況だった。
当時は、
「大手商社員 or 大手企業員ならば、3年くらい駐在すれば、家が建つ!」
と、言われたほど、アラビアでの駐在員の待遇は良かった、らしい。
(2流商社員の当方には、あまり関係なかったけど)
今回の「ノスタルジック中近東」では、仕事とは無関係なプライベート中心のクウェート首長国スナップを中心に、ご紹介しています。
- 同行者
- 家族旅行
- 航空会社
- クウェート航空
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イチオシ
湾岸道路からクウェート・タワーを臨む。
今現在もこのタワーはあるが、海岸はどうなっているだろうか?
第一次湾岸戦争(パパ・ブッシュがイラクをクウェートから追い出した戦争)直後に訪れた時、海岸線は全て封鎖され、「地雷、機雷で危険!」だった。
湾岸道路沿いに有った王宮も、ヒルトンホテルもシェラトンホテルも、破壊されて無残な姿だった。 -
イスラム安息日の毎金曜日の朝、漁師が海岸に即席の魚市を開き、獲って来たばかりの魚介類を商う。
日本人に人気なのは、大きな車エビ。
ひとマス(20匹くらい)単位で、非常に安かった。食卓にはよくエビ料理が出たので、我が家の子供たちは当時タラ腹食べたので、今でもあまりエビは食べません。
クウェート時代に、エビを満喫したと思われる。 -
クウェートの砂漠。
郊外に出ると、すぐに砂漠となります。
ここの砂漠は砂砂漠は少なく「土漠(どばく)」が主で、堅い地面の上にキメの細かいカラカラの砂が薄く積もっている状態です。
当時でも、砂漠にテントを張ったベドウィン(遊牧民)によく出くわした。
産油国のベドウィンはおおむね金持ちで、テントの外には大きなアメリカ車や日本車の4WDやピックアップ・トラックがそなえられていた。
ここらのラクダは殆どがヒトコブ・ラクダでした。 -
1960年にイギリスから独立したクウェートは、当時インフラ(道路、建物などの社会基盤)建設で忙しく、海辺のビーチなどは、このようにアジもソッケもないものでした。
砂漠(土漠)が海まで達して、突然、海、となる。
海の底も砂漠の延長なので、あまり魚もいないように思える。 -
外人住宅街のサルミヤ地区の浜辺は、人々のいこいの場。
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息子です。
(現在は成人して、もうオッサンの域にはいる3児のパパ) -
欧米と日本人の子供たちには、イギリス人経営の幼稚園が近くにあった。
(日本人学校付属の幼稚園は、5才以上で入園可能だったが、わが息子はまだ2~3才くらいだった)
当時、息子は結構、イギリス英語をしゃべったり、歌をうたったりしていた。
(今はさっぱりだが、) -
この幼稚園の庭。
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当時の在クウェート日本人は、約2000人も居て、「クウェート日本人小学校」があった。
近所の家族と運動会に参加。
拡大するとわかると思うが、遠くには砂のトルネードがみえる。
なんとも殺伐とした運動会。
でも子供たちにとっては、楽しいものだったろう。 -
クウェートシティから20キロくらい南に、石油積み出し港のアハマディがある。
「アハマディ」はひとの名前で、アハマディさんは石油王で、近くに緑豊かな公園を作ってくれていた。
サバクしかないところで、このような緑を維持するには、莫大なカネがかかっているのです。 -
クウェートの石油積出港、当時のアハマディ港。
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砂漠に囲まれた生活は味気なく、週末には緑のあるアハマディ公園にはよく行ったものです。
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ゴミ箱にゴミを捨てるワガ息子。
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当時のクウェートの人口は約80万人。
うち、クウェーティ(クウェート国民)は約30~40万人。
他は長期滞在の外国人労働者。
インド、パキスタン、レバノン、シリヤ(当時の駐在日本人の間では彼らのことを略称「イン・パキ・レバ・シリ」と言っていた)、イラン、イラク、エジプト、パレスチナ人でほとんどを占める。
なお、クウェート建国には優秀なパレスチナ人によるところが大きかった。
印僑には、ターバンをまいたシーク教徒が多く、ほとんどの企業のマネージャークラスを占めており、経済の推進力だった。
当時、国民のクウェーティには最低生活保障として、毎月20万円くらいの国からの給付があり、多くのクウェーティたちは政府役人や、中小の企業のスポンサーとなっていて、「外人に働いてもらって、そのアガリを頂く」という結構な生活をしていた。
税金はもちろん、無税。 -
休みの金曜日は毎週、「どう過ごすか?」かが問題だった。
小さな国なので、一ヶ月も住めば、行くところが無くなる。
湾岸道路を北へ、南へ走るだけで一日が過ぎてしまったことが多い。
当時は、まだ遊園地や大きなショッピングモールは無かった。
あまり誰も行かなかった、ペルシャ湾に浮かぶ、小さな島、ファイラカ島に行ってみた。 -
イチオシ
クウェート港。
ここからフェリーで約30分。
なにがあるか?がちょっとした楽しみ。 -
当時としては最新のフェリー船が就航していた。
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はるか向こうに見えるのはクウェートシティの一部。
まったいら、であることがよく分かる。 -
アッバイヤ(黒子)をかぶった、クウェートの女性たち。
そばで子守りをしているのは、たいていがインド人のメイド。
クウェーティ家庭では、インド人やフィリピンの住み込みメイドやらハウスキーパーを雇っていた。
よって、女性の家事仕事は、あまり無い。 -
ファイラカ島の船着場。
「なにも無い!」
現在は確か、アメリカ軍の基地になっているハズ。
よって、一般人はもう、この島には行けないのでは? -
ひなびたアラブの町に、ミナレット。
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古民家のゲート。
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ここに来て初めて知った。
紀元前のローマ時代の遺跡があった。
古代よりアラビア人が、ペルシャ湾を航海して、ペルシアやインドへ進出していた。
ローマ帝国は、ファイラカ島を戦略拠点と見て、かような遺跡を残した。
遺跡のそばに小さな考古博物館があり、そこで多くのローマ時代の印章や金貨を見た。
更に、最近わかったこと。
ローマ帝国よりずっと古い、紀元前2000年ころには、メソポタミア文明とインダス文明の交易の交差点であった。
バーレーン島も同様な拠点であった。
インド・グハラート州にあるロータル遺跡で、4000年前に作られたボタン型印章が、ここファイラカ島でも発掘されている。
博物館でみた土の印章がそれであった。
一番古い印章はインダス文明の都市、モヘンジョダロやハラッパの古代遺跡から良く出土している。
もうひとつ、インダス文明はオーマンと現在のアラブ首長国連邦(U.A.E)の東部をもその範疇にいれていたのです。
かような事柄の知識が当時あれば、ペルシャ湾での駐在も、もっとオモシロイものだっただろうに!
アー、モッタイナイ!
もう一度、この地域への旅をする意欲がわいて来た。 -
井戸の遺跡。
バーレーンの真ん中に湧き出る「甘い水井戸」が今でも新鮮な真水を噴き出しているように、こうしたアラビア海(ペルシャ湾)に浮かぶ島でも真水は出ていたのであろう。
この真水があったからこそ2大文明の交易路上の重要な一拠点となり得たのだろう、、、。
*「甘い井戸水」については;http://4travel.jp/travelogue/10347250
を参照ください。 -
考えてみれば、チグリス・ユーフラテス文明の海への出口に位置するクウェートは、古代から重要な戦略拠点でもあったに違いない。
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石積みの遺跡。
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海上に浮かぶ島のため、湿気が多く、その水分で植物が結構生えている。
「クウェートの夏は世界一暑い!」と言われていた。
実際、夏には毎日50度C近くになる。
5分と外を歩いてはいられない。
クーラーの効いた家の中と、車の中と、事務所の中をわたり歩く毎日だった。
冷房の効いた部屋の中の内気と50度C近い外気の温度差は想像を絶するほど大きく、それで体力が奪われるのです。
夕方には毎日グッタリとなってしまうのでした。
この時は冬であったので、比較的過ごしやすかった。 -
土漠に生える草。
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トゲトゲの植物。
いかにも砂漠に生える樹木。 -
当時すでに、このような古い街並は、クウェートシティでは見られなくなっていた。
ここ、ファイラカ島でこそ見られた。
これが、本来のクウェーティの町である。 -
近所の日本人の子どもを連れてファイラカ島を訪れたこともあった。
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ファイラカ島では一泊した。
行ってはじめて、知ったのだが、宿泊施設が全く無かった。
帰りのフェリーにも間に合わず、困っていたら現地の親切なクウェーティが、自宅の一角を提供してくれた。
親子3人、貴重な体験をさせてもらった。
金持ちでない、本当のクウェーティの招待だった。 -
お金持ちでないクウェーティ一家。
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企業の雇われ社長、マネージャーはこうしたインド人が多かった。
インド人でも、パンジャブ地方出身のシーク教徒で、海外で活躍する印僑の中でも、エゲツナイほどの商売根性を持ち合わせている。
ターバンのインド人と対等に渡り合えれば、国際的に通用する一人前の商売人、と言えるだろう。
彼らはどこの国でも、独自のコミュニティを持っており、相互扶助ネットワークが出来ている。
恐るべし、インド人!
正面の人は信用のならないシーク商人の中でも唯一信用のおけるイイ人だった。
この人とは家族付き合いもした。
娘さんが色の白い奇麗な女性でまるで白人の欧米人のようだったのをパートナーもよく覚えている。
このことから彼らもアーリア系の人種なのだ。 -
イチオシ
超お金持ちのクウェーティの居間にて。
普通女性は同席できないが、当時クウェートは多少なりとも西欧化していた。
アッバイヤをかぶらなくても、外人女性も過ごせた。
アラブの金持ちの家は、だいたいどこでも同じで、何十人も座れるダイニングルーム、壁の周りに何十人も座れるリビングルーム。
家具はイタリアバロック・ロココ調家具、床はイタリアからの大理石、そこに豪華なペルシャ絨毯。
お土産はロレックスの時計か、金製品。
車はロールスロイス、、、、
「他にカネの使い道はないのかなあ?」と思ってしまうほどアラビア半島の金持ち連中はみんな同様でした。
いずれにせよ、昨日までラクダを引っ張って、遊牧しか生きる手が無かった人たちである。
急におカネが、地面から湧き出てきたのです。
成金になるのは必定でしょう。
どこか、カワイソウでもあった。
この商売で成功したクウェーティもまだ石油が出始めた若いころにはリヤカーを引っ張って自動車の部品を集めて回っていた、という。
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この旅行記へのコメント (2)
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- sitejmさん 2006/11/04 21:16:42
- アラブの海
- アリヤンさま、こんばんは。はじめまして。
クウェート滞在中の写真を拝見しました。
コメントもとても興味深かったです。
しかも、お陰さまで一つの疑問が解けました。
以前、ドバイへ旅したとき、アラブの海はとてもきれいなのに、魚がほとんどいなかったのです。なぜかよく分からなかったのですが、
アリヤンさんの「海の底も砂漠の延長・・」というコメントを拝見して、なるほど!と思いました。森があって海があるところは魚も豊富ですが、確かにドバイには森も林も見つかりませんでした。
また遊びに来ます!
- アリヤンさん からの返信 2006/11/06 16:44:36
- RE: アラブの海
- sitejmさん
さすがの観察眼!砂漠の延長の海岸には魚が少ない、と気がつかれた。好奇心旺盛ですね。でもクウェートの海岸では海水浴の時、潮干狩りができたり、ウニやイカがとれたりしたこともありました。住めばミヤコでした。
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