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<2000年5月7日(日)><br /><br /> 今日は、今回の旅行の最後の難関、ウロクドン(友鹿洞)への旅行です。そのあとで、最後の宿泊地であり、最初の到着地でした、釜山へ向かう計画です。<br /> このウロクドンは、予め旅行記で読んでいたものの、詳しい道順などは載っていませんでした。テグーの近郊であり、かなりの田舎にあると言う事ぐらいが分かっていました。<br />      <br /><ウロクドン(友鹿洞)へのバス><br /> 宿は朝一番でチェックアウトし、荷物はテグー駅の地下鉄構内のコインロッカーに預けることにしました。昨日のバス検索システムを頼りに半月堂の地下鉄を降りたところで、バスを待つ事にしました。目指すバスはすぐにやってきました。ここまでは何の問題もありませんでした。問題は、この後にやってきました。<br /> 1時間ほど走って終点に着きましたが、ウロクドンらしきところは見当たりませんでした。Muさんが付近の人や、運転手さんに聞いてみても、『分かりません。この付近にはありません』と言った返事のようでした。バスの運転手さんだけは、山の向こうを指さして『あっちの方』と言った教え方をしてくれました。<br /> それで、仕方無しに、乗ってきたそのバスに、また乗りました。『バスで途中まで戻って、出直そう。今度は、タクシーでウロクドンを案内してもらおう』といった作戦を考えての事でした。<br /> しかし、その作戦は不要になりました。暫く走ったところで、運転手さんが『ここで降りなさい』と促してくれたからです。しかし、降りてもその後が見当付きませんでした。ここでまた、Muさんが地元のご年配の男性にウロクドンの方角を尋ねましたら、『ここでバスに乗ればいい』と教えてくれました。なんと同じ路線番号のバスです。<br /> 同じ番号のバスでも、行き先が違うのには参りました。しかも最初のバスにもフロントのところに『ノクトン(鹿堂)』の標識が付いていました。後で思い起こしますと、『そういえば最初のバスは赤字、今度は黒字で書いてありました』と言ったことくらいです。これはいまだもって、事情がよく飲み込めません。<br /> そのご年配の方は、日本語も話せる方で、目的のバスが前を通り過ぎようとすると、大声を出して走り出し、身振りを交えてバスを止めてくれました。こちらも走りながら、その親切なおじさんにお礼を言ってバスに飛び乗りました。<br /> このバスの運転手さんは女性でした。まだ30代と言ったところです。白い帽子に濃いサングラスをかけていました。その運転の凄まじいのには、思わず『女兵士を退役したばかりでは?』と言った推測をしました。<br /> 彼女は、狭い道を凄いスピードでハンドルを切っていきました。確かに運転はうまいですが、乗っていて緊張しました。しかし、地元の人は顔見知りも多いらしく、みんな挨拶を交わしながらバスを降りていきました。<br /> そんな事があって、やっとたどり着いたウロクドンです。<br /><br /><ノクトンショウォン(鹿堂書院)><br /> バスは終点まで乗りましたが、終点近くでノクトンショウォンの建物が確認できました。ひと安心です。道路には横断幕があって、日本の高校からの団体客も来たようでした。横断幕には『サヤカ研究会』の日本語の文字がありました。<br /> 書院への観光客はまばらでした。案内板を見ると、『予め連絡すれば、無償で堂を開け、案内もします』との趣旨が記されていました。<br /> それで、半ばお堂のお参りは諦めていました。しかし、記念館の隣からネクタイを締めたご年配の方が姿を現し、お堂を開けていただけることになりました。<br /><br /> 「お線香と蝋燭、それとお酒の分のお賽銭だけ上げて下さい」<br /><br /> と、言った説明がありました。堂の奥の椅子の上に飾られたサヤカの位牌にお参りする時、<br /><br /> 「私の仕草に続いてお参りしてください」<br /><br /> と教えて頂きました。その作法は、手を目線まで水平に上げて、少し重ねて頭を垂れ、そのまま跪き、頭を床まで付けて深く礼をすると言う所作でした。これを2回繰り返しました。<br /><br /> 「ここまで来た甲斐がありました」<br /><br /> と、心でお礼を言って、お参りしました。その後は、何とも言えない厳粛な気分に浸りました。<br /><br /><ウロクドンでの昼食><br /> 昼食はバス停近くの桟敷で食べることにしました。昼頃のバスでテグーに戻るつもりでいましたが、歩いてバス停に戻るうちに、時間前にそのバスは発車してしまいました。これも、日本ではなかなかお目にかからないことですが、ケンチャナヨの世界では、そうもいきません。郷に入ったら、郷に従えです。<br /> 昼食を取った場所は、バス停、サヤカの碑から近い所でした。川べりに設えられた、吹き抜けの桟敷でした。風に運ばれて、盛んに柳絮(りゅうじょ、柳の綿)が飛んできました。残念ながら、花粉症気味の私には、少し厳しい環境でした。<br /> 散々待たされて出てきた料理は、3人前で、洗面器一杯はあろうかと言う、鳥鍋です。あまりのボリュームに一瞬たじろぎました。しかし、なかなかの味でしたから、その杞憂は吹っ飛びました。地鶏を半羽以上は使ったようです。人参、芋等の野菜もたっぷり使ってありました。別に山菜サラダも付いていました。<br /> 会計を少し危ぶみましたが、締めて23000ウォン、一人当たり800円弱とお値打ちでした。帰りのバスは、中堅の男性運転手さんでした。往きのことがあって、少し心配しましたが、全くの杞憂でした。余り飛ばさずに、確実な安全運転でした。テグー駅まで行くバスでしたので、そこで降ろしてもらいました。 <br /><br /><再び釜山へ><br /> ついに最後の難関もクリアーして、韓国内最後の地、釜山に向かいました。バスと電車のどちらにするか迷いましたが、電車のダイヤが少なかったので、市外高速バスにしました。かなりの数のバス会社が集まっていましたが、なかなか釜山行きのバスが見つかりませんでした。さほど離れていない大きな都市間の交通なので、一寸不思議な感がしました。<br /> 以前、高速道路でプサンに向かった時、大変な交通渋滞で閉口したことがありました。岡崎のTaさんとMuさんとの3人旅の時でした。今回も危ぶみましたが、幸いその時ほどの混み様ではありませんでした。<br /> 到着した釜山の町は、花祭りのパレードの最中でした。釜山の北に位置する市外高速バスターミナルから、釜山駅へ向かうタクシーは、ずっとこのパレードと一緒でした。距離にすれば、優に5kmは超えていたようです。<br /> この間、日本風に表現すれば、町内会、会社、学校等様々なグループが、意匠を凝らしてパレードに参加していました。まさに、釜山市民全員参加のお祭りです。<br /> パレードの途中、韓国に到着の5月1日に駅前に飾ってありました竜の縫いぐるみらしきものを見かけました。予想通り、駅前の縫いぐるみは無くなっていました。先ほどのパレードに参加していたに違いありません。一際大きかったので、目に付きました。<br /><br /><釜山の宿><br /> 釜山では、釜山観光ホテルなどもお値打ちに泊まれますが、下町の安宿が気に入っていますので、こちらにしました。日本風に表記すれば『ソウル荘ホテル』となります。今回が3回目です。<br /> そのホテル、と言うより観光ビジネスホテル、あるいは観光旅館は、釜山タワーが目印の、その岡の南側に位置しています。大韓航空の事務所を目当てにしても、方角の見当が付きます。<br /> 北側に面した入り口からフロントのある二階に上がりましたら、すぐに日本語が流暢な、年配の女将さんが対応してくれました。若女将がすぐに呼んだようでした。料金は一人当たり25000ウォンとお値打ちです。ただし、最初に泊まったときは、17000ウォンだった記憶があります。随分昔の話になりました。<br /> この宿が好きになった理由は、チャガルチシジャン(市場)、ククチェシジャン(国際市場)が、歩いていける距離にあること等です。目印に、北側の山に釜山タワーの明かりが、夜通し点いているのも便利です。いつも宿を探す時に気をつけるのは、メイン道路に面していない事です。夜遅く、朝早く、車の騒音でうるさくされては敵いません。この宿も本通りからは1本入った道に面していますので、車の音が気になりません。<br /><br /><br />  テグーの街角で<br /> 春落葉ヒマラヤ杉の大通り<br /><br /> 歩道石大樹持ち上げ若葉萌ゆ<br /><br /> 燕の独り囀る線の上<br /><br />  友鹿洞を訪ねて<br /> 先達に倣いて詣る寺若葉<br /><br /> 柳絮飛ぶ川辺の桟敷遅き昼<br /><br /> 藤咲いてひとり遊びの子犬哉

2000春、韓国紀行7(8):5月7日:テグー・友鹿洞、鹿堂書院、サヤカ位牌

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2000/05/01 - 2000/05/08

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<2000年5月7日(日)>

 今日は、今回の旅行の最後の難関、ウロクドン(友鹿洞)への旅行です。そのあとで、最後の宿泊地であり、最初の到着地でした、釜山へ向かう計画です。
 このウロクドンは、予め旅行記で読んでいたものの、詳しい道順などは載っていませんでした。テグーの近郊であり、かなりの田舎にあると言う事ぐらいが分かっていました。
      
<ウロクドン(友鹿洞)へのバス>
 宿は朝一番でチェックアウトし、荷物はテグー駅の地下鉄構内のコインロッカーに預けることにしました。昨日のバス検索システムを頼りに半月堂の地下鉄を降りたところで、バスを待つ事にしました。目指すバスはすぐにやってきました。ここまでは何の問題もありませんでした。問題は、この後にやってきました。
 1時間ほど走って終点に着きましたが、ウロクドンらしきところは見当たりませんでした。Muさんが付近の人や、運転手さんに聞いてみても、『分かりません。この付近にはありません』と言った返事のようでした。バスの運転手さんだけは、山の向こうを指さして『あっちの方』と言った教え方をしてくれました。
 それで、仕方無しに、乗ってきたそのバスに、また乗りました。『バスで途中まで戻って、出直そう。今度は、タクシーでウロクドンを案内してもらおう』といった作戦を考えての事でした。
 しかし、その作戦は不要になりました。暫く走ったところで、運転手さんが『ここで降りなさい』と促してくれたからです。しかし、降りてもその後が見当付きませんでした。ここでまた、Muさんが地元のご年配の男性にウロクドンの方角を尋ねましたら、『ここでバスに乗ればいい』と教えてくれました。なんと同じ路線番号のバスです。
 同じ番号のバスでも、行き先が違うのには参りました。しかも最初のバスにもフロントのところに『ノクトン(鹿堂)』の標識が付いていました。後で思い起こしますと、『そういえば最初のバスは赤字、今度は黒字で書いてありました』と言ったことくらいです。これはいまだもって、事情がよく飲み込めません。
 そのご年配の方は、日本語も話せる方で、目的のバスが前を通り過ぎようとすると、大声を出して走り出し、身振りを交えてバスを止めてくれました。こちらも走りながら、その親切なおじさんにお礼を言ってバスに飛び乗りました。
 このバスの運転手さんは女性でした。まだ30代と言ったところです。白い帽子に濃いサングラスをかけていました。その運転の凄まじいのには、思わず『女兵士を退役したばかりでは?』と言った推測をしました。
 彼女は、狭い道を凄いスピードでハンドルを切っていきました。確かに運転はうまいですが、乗っていて緊張しました。しかし、地元の人は顔見知りも多いらしく、みんな挨拶を交わしながらバスを降りていきました。
 そんな事があって、やっとたどり着いたウロクドンです。

<ノクトンショウォン(鹿堂書院)>
 バスは終点まで乗りましたが、終点近くでノクトンショウォンの建物が確認できました。ひと安心です。道路には横断幕があって、日本の高校からの団体客も来たようでした。横断幕には『サヤカ研究会』の日本語の文字がありました。
 書院への観光客はまばらでした。案内板を見ると、『予め連絡すれば、無償で堂を開け、案内もします』との趣旨が記されていました。
 それで、半ばお堂のお参りは諦めていました。しかし、記念館の隣からネクタイを締めたご年配の方が姿を現し、お堂を開けていただけることになりました。

 「お線香と蝋燭、それとお酒の分のお賽銭だけ上げて下さい」

 と、言った説明がありました。堂の奥の椅子の上に飾られたサヤカの位牌にお参りする時、

 「私の仕草に続いてお参りしてください」

 と教えて頂きました。その作法は、手を目線まで水平に上げて、少し重ねて頭を垂れ、そのまま跪き、頭を床まで付けて深く礼をすると言う所作でした。これを2回繰り返しました。

 「ここまで来た甲斐がありました」

 と、心でお礼を言って、お参りしました。その後は、何とも言えない厳粛な気分に浸りました。

<ウロクドンでの昼食>
 昼食はバス停近くの桟敷で食べることにしました。昼頃のバスでテグーに戻るつもりでいましたが、歩いてバス停に戻るうちに、時間前にそのバスは発車してしまいました。これも、日本ではなかなかお目にかからないことですが、ケンチャナヨの世界では、そうもいきません。郷に入ったら、郷に従えです。
 昼食を取った場所は、バス停、サヤカの碑から近い所でした。川べりに設えられた、吹き抜けの桟敷でした。風に運ばれて、盛んに柳絮(りゅうじょ、柳の綿)が飛んできました。残念ながら、花粉症気味の私には、少し厳しい環境でした。
 散々待たされて出てきた料理は、3人前で、洗面器一杯はあろうかと言う、鳥鍋です。あまりのボリュームに一瞬たじろぎました。しかし、なかなかの味でしたから、その杞憂は吹っ飛びました。地鶏を半羽以上は使ったようです。人参、芋等の野菜もたっぷり使ってありました。別に山菜サラダも付いていました。
 会計を少し危ぶみましたが、締めて23000ウォン、一人当たり800円弱とお値打ちでした。帰りのバスは、中堅の男性運転手さんでした。往きのことがあって、少し心配しましたが、全くの杞憂でした。余り飛ばさずに、確実な安全運転でした。テグー駅まで行くバスでしたので、そこで降ろしてもらいました。 

<再び釜山へ>
 ついに最後の難関もクリアーして、韓国内最後の地、釜山に向かいました。バスと電車のどちらにするか迷いましたが、電車のダイヤが少なかったので、市外高速バスにしました。かなりの数のバス会社が集まっていましたが、なかなか釜山行きのバスが見つかりませんでした。さほど離れていない大きな都市間の交通なので、一寸不思議な感がしました。
 以前、高速道路でプサンに向かった時、大変な交通渋滞で閉口したことがありました。岡崎のTaさんとMuさんとの3人旅の時でした。今回も危ぶみましたが、幸いその時ほどの混み様ではありませんでした。
 到着した釜山の町は、花祭りのパレードの最中でした。釜山の北に位置する市外高速バスターミナルから、釜山駅へ向かうタクシーは、ずっとこのパレードと一緒でした。距離にすれば、優に5kmは超えていたようです。
 この間、日本風に表現すれば、町内会、会社、学校等様々なグループが、意匠を凝らしてパレードに参加していました。まさに、釜山市民全員参加のお祭りです。
 パレードの途中、韓国に到着の5月1日に駅前に飾ってありました竜の縫いぐるみらしきものを見かけました。予想通り、駅前の縫いぐるみは無くなっていました。先ほどのパレードに参加していたに違いありません。一際大きかったので、目に付きました。

<釜山の宿>
 釜山では、釜山観光ホテルなどもお値打ちに泊まれますが、下町の安宿が気に入っていますので、こちらにしました。日本風に表記すれば『ソウル荘ホテル』となります。今回が3回目です。
 そのホテル、と言うより観光ビジネスホテル、あるいは観光旅館は、釜山タワーが目印の、その岡の南側に位置しています。大韓航空の事務所を目当てにしても、方角の見当が付きます。
 北側に面した入り口からフロントのある二階に上がりましたら、すぐに日本語が流暢な、年配の女将さんが対応してくれました。若女将がすぐに呼んだようでした。料金は一人当たり25000ウォンとお値打ちです。ただし、最初に泊まったときは、17000ウォンだった記憶があります。随分昔の話になりました。
 この宿が好きになった理由は、チャガルチシジャン(市場)、ククチェシジャン(国際市場)が、歩いていける距離にあること等です。目印に、北側の山に釜山タワーの明かりが、夜通し点いているのも便利です。いつも宿を探す時に気をつけるのは、メイン道路に面していない事です。夜遅く、朝早く、車の騒音でうるさくされては敵いません。この宿も本通りからは1本入った道に面していますので、車の音が気になりません。


  テグーの街角で
 春落葉ヒマラヤ杉の大通り

 歩道石大樹持ち上げ若葉萌ゆ

 燕の独り囀る線の上

  友鹿洞を訪ねて
 先達に倣いて詣る寺若葉

 柳絮飛ぶ川辺の桟敷遅き昼

 藤咲いてひとり遊びの子犬哉

同行者
友人
交通手段
鉄道 高速・路線バス タクシー
  • 昨晩、あちらこちら回って、結局は宿の近くの焼肉店に決めました。その焼肉を食べたお店です。翌日の早い時間ですから、まだ閉まっていました。

    昨晩、あちらこちら回って、結局は宿の近くの焼肉店に決めました。その焼肉を食べたお店です。翌日の早い時間ですから、まだ閉まっていました。

  • 泊まった宿の全景です。看板には、緑と赤色の2色で、『ソダン・ヨガン』と記されています。旅館レベルの宿でした。

    泊まった宿の全景です。看板には、緑と赤色の2色で、『ソダン・ヨガン』と記されています。旅館レベルの宿でした。

  • 友鹿洞(ウロクドン)行きのバスの終点です。この少し手前に目指す書院がありました。同じ路線番号のバスとの違いが分からず、苦労をしました。

    友鹿洞(ウロクドン)行きのバスの終点です。この少し手前に目指す書院がありました。同じ路線番号のバスとの違いが分からず、苦労をしました。

  • 今年4月に来訪した日本の高校の『沙也可研究会』の名前が記載された横断幕がありました。新聞報道されて有名になりました。

    今年4月に来訪した日本の高校の『沙也可研究会』の名前が記載された横断幕がありました。新聞報道されて有名になりました。

  • やっとたどり着いた、鹿洞書院(ノクトンショウォン)の外観です。山懐の緑に包まれていました。少し盛りを過ぎた皐月が、彩りを添えていました。

    やっとたどり着いた、鹿洞書院(ノクトンショウォン)の外観です。山懐の緑に包まれていました。少し盛りを過ぎた皐月が、彩りを添えていました。

  • 石碑には、沙也可の顕彰文字が刻んでありました。秀吉軍に反旗を翻し、韓国の貴族、両班(ヤンバン)になった金忠善の名前もありました。

    石碑には、沙也可の顕彰文字が刻んでありました。秀吉軍に反旗を翻し、韓国の貴族、両班(ヤンバン)になった金忠善の名前もありました。

  • 塀で囲まれたお堂の中庭です。刈込がされていて、綺麗に手入れがしてありました。一番左の赤い花は、芍薬(シャクヤク)のようです。

    塀で囲まれたお堂の中庭です。刈込がされていて、綺麗に手入れがしてありました。一番左の赤い花は、芍薬(シャクヤク)のようです。

  • 『慕夏堂金公遺蹟碑』の大文字がありました。金公とは、沙也可のこの地における尊称です。金忠善の名前から来たものでしょう。

    『慕夏堂金公遺蹟碑』の大文字がありました。金公とは、沙也可のこの地における尊称です。金忠善の名前から来たものでしょう。

  • 新緑が目に染みました。はるばるバスでやって来た、都会の喧騒とはかけ離れた田舎町でした。

    新緑が目に染みました。はるばるバスでやって来た、都会の喧騒とはかけ離れた田舎町でした。

  • 最初は予約なしでしたから、参拝を諦めていましたが、この方の後ろに従って、お堂に入れさせて戴きました。

    最初は予約なしでしたから、参拝を諦めていましたが、この方の後ろに従って、お堂に入れさせて戴きました。

  • お参りした沙也可の位牌です。一番奥のお堂にお祀りしてありました。清掃が行き届いて、大切に扱われていることが窺われました。

    お参りした沙也可の位牌です。一番奥のお堂にお祀りしてありました。清掃が行き届いて、大切に扱われていることが窺われました。

  • こちらはカーテン越しに、覗き見をした展示館です。書画などの展示がされているようでした。サヤカに因む展示もあるかも知れません。

    こちらはカーテン越しに、覗き見をした展示館です。書画などの展示がされているようでした。サヤカに因む展示もあるかも知れません。

  • 大きな建物ではありませんが、落ち着いた品格を感じました。秀吉に反旗を翻したいきさつも、一冊の本になりそうな題材です。

    大きな建物ではありませんが、落ち着いた品格を感じました。秀吉に反旗を翻したいきさつも、一冊の本になりそうな題材です。

  • 昼食を摂った河畔の桟敷です。リュウジョ(柳の綿)がひっきりなしに飛んできました。韓国旅行の時は花粉症気味ですから、少し気になりました。

    昼食を摂った河畔の桟敷です。リュウジョ(柳の綿)がひっきりなしに飛んできました。韓国旅行の時は花粉症気味ですから、少し気になりました。

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2000春、韓国旅行記7

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