2005/08/29 - 2005/09/11
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fkさん
2005年8月29日から9月11日まで
労働厚生省のシュムシュ島(シュムシュ島)慰霊巡拝・遺骨受領・調査
の団体に参加させていただいた。
ロシア船の二週間の旅は厳かな雰囲気で過ごした。
元軍人,遺族の方々の気持ちを思うとき涙が流れるのだった。
海原で戦死された方々の遺骨は,帰国されることはなく
海上慰霊で御霊をお慰めすることしかできない。
占守島での元軍人の方々と遺族の方々は,その現場に到着するや
戦死された方の近くに皆様走り出し散らばった。
お父さん,お兄さん,弟よ,と心の中で叫びながら思わず
走り出した方々。
60年という歳月が経てはじめて御仏の地に赴いた人も多かった。
写真は巡拝のルート
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アイヌの写真:
ロシアの客船には一冊の本があった。
樺太の古い都市マオカの市政135年を記念する一冊だった。
アイヌの写真が二枚載っているので英文を読んでみた。
アイヌの記事はなかったが
戦争のことを説明してる:
「1945年8月中旬 (日本をファシズムから)解放するためにソ連軍は日本軍に戦闘を開始した」
中旬という単語...
日本をファシズムから解放する?
解放しておいて,生き残り兵全員をシベリアに送り込んで
ひどい目に遭わせた...
スターリン時代のソ連は北海道東部の占領を意図していた:
http://www.denkaisui.com/tubuyaki2/index598.html -
カモメ:
占守島に何者が現れて攻撃を仕掛けてくるのか
分からなかったそうだ。
ソ連が攻撃してくるのはほとんどあるまいと考えて
いたとのこと。
降参して戦争終結。
兵器弾薬の処理と帰国準備を進めていた日本軍は
本部に打電,終戦になっているの攻撃を受けている,と。
米国にその旨伝えたが,ソ連軍の激しい攻撃は続く。
それで,自衛戦闘として反撃を開始。
水際にソ連兵を追いやった。
そこで膠着状態に入る。 -
洋上慰霊:
北方の気候は厳しく,近くまで来ていても
後方の島の裏にまわれない。
仕方なく島を背景に洋上巡拝が行われた。
「兄は戦闘機にのっていた。敵艦を一隻沈めたが戦闘機も被弾してしまった。(いま思うと無駄な死に方をしたが)そして敵艦に突っ込んでいった」
「天気に恵まれれば戦死した場所まで行けるのに,
でもあの島の裏側で父は戦死した。せめてここで御霊に
祈る...」 -
占守島の慰霊巡拝・調査は10年前にも行われた。
その詳しい内容は分厚い一冊として出版されている。
「北千島 占守島の五十年」池田誠氏編集
父君が連隊長として戦車に乗り込み真っ先に
敵の攻撃に向かい,集中砲火を浴びて戦死された。
HPには,元兵士の方が寄稿されている:
http://www.geocities.jp/sato1922jp/hoppo.htm
写真は占守島
天気は不順で予定通りの行動は期待できないが,
3日の上陸計画は実行できる幸運に恵まれた。
バスの行く道に崩れた橋があったり,
ヘリコプターが雲と風のために飛べなかったり,
艀の到着が遅れたりして活動時間は予定の半分ぐらい
だった。 -
あかね雲:
母の兄は戦前 スマートなアメリカ航路アメリカ丸に乗り込む船員技術者だった。
それが国からの死亡通知では中千島で戦死という事だったから何故かという疑問がいつまでも遺族のあいだにあった。
5年前に神戸海員会館で戦時中の徴用船について公開されて
そこで真実を知ったのだった。
中千島の沖合で「降亜丸」が二発の魚雷を受けて撃沈,
軍人も船員も全員戦死した。
宇品(うじな)に本部のあった陸軍運輸部とその暁部隊について:http://kappa.dip.jp/tsune/honbun03.html
大阪汽船だけでも1000何百隻の船が軍に徴用され沈んだ。
満州での悲劇は良く知られている。
占守島の激戦も最近は知られるようになった。
だが,徴用船で北方で戦死した方々の事はまったく知られていない。
遺族の方で詳しい状況を知らない方がたくさんいるはずだと思うと,やりきれない。
母はたまたま海員会館での資料公開を知って,足を運び
資料を頂いたのだった。
その資料の中に,今回の団体の中 二人の遺族が求めていた
情報があった。「天領丸」の撃沈の情報だった。
尚,このサハリン(占守島)慰霊巡拝の実行を厚生労働省に働きかけたのは「北千島慰霊の会」だと聞きました。
http://homepage2.nifty.com/60hp/tisima.htm -
洋上での慰霊はロシア船イーガリ・ファルフトジーノフ号のデッキで行われた。
4カ所だった。 -
シュムシュ島(占守島)の南にパラムシル等がある。
パラムシル島に虹が架かった。
年中霧が深く美しい虹は頻繁にでていた。
http://d.hatena.ne.jp/fksa/20060827
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この旅行記へのコメント (2)
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- shinesuniさん 2005/10/25 09:01:00
- シュムシュ島と千島列島
- アンカレッジ経由でアラスカに行くとこの辺りの上空をあっさりと通過してしまいますが実際に行くとなるととても大変ですよね。
距離よりも大きな壁が立ちはだかっているような...。
重い旅でしたね...家族がなくなった場所に行のは特に。
戦死したご家族のご冥福を謹んで申し上げます。
コシツェの書き込み有難うございました。
あの鐘はスロヴァキアでも有数の大きさです。
それにしてもコシツェの人にはひどい目に遭いましたね。
渡すに渡せなかったのではなく、友人の身分、状態を知って足元を見たと思いますよ。要は政府にとって重要な人物ではないから送る必要はないということでしょう。
泊めてもらっておいて恩を仇で返すとはまさにこのことですね。
旧共産党員幹部やその息子はいまどのような身分についているのでしょうか?
FKさんはオモロウツ市長とも仲がよろしいですが、ビロード革命以前彼はどのような地位だったんですか?難しい問題なのでお話していただける範囲内で教えていただければ幸いです。
- fkさん からの返信 2005/10/25 21:35:40
- RE: シュムシュ島と千島列島
- shinesuniさん,
慰霊巡拝は本当に特別な旅でした。いつまでも心の底に残るような気がしています。
釣鐘については,チェコでは二次大戦のとき日本と同じく,武器弾薬のために殆どが提供されてしまったと思います。こちらではドイツ軍のためにです。
コシツェの人たちとは,まあ一緒に遊んだという想い出のために,悪くは思っていません。
それよりも,チェコスロバキア大使館で,チェコ人の親友を日本に呼びたいので方法を教えて欲しいと再三申し込みましたが,まったく返事がなくて,おかしな国だと感じたものです。
当時のこちらでは,政治は大げさに説明すると,無作為に人を選んで政治の場に祭り上げたようです。だから素人が政治を動かした場合が多々あったという話を聞いています。
現在のオロモウツの市長は,選挙で勝っまでは,一介の木っ端役人という立場でした。風采が上がらなかったというと本人には悪いのですが,役職が人を作るというのでしょうか,いまでは人気のある市長です。恰幅も堂々として政治を楽しんでいる風です。やはり毎週プラハに出かけますが,週末はいつもコペチェックの兄弟の家に行ってのんびりしています。
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