2026/09/20 - 2026/09/20
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montsaintmichelさん
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前回の津城址のレポは藤堂高虎をキーパーソンと捉えて展開してまいりました。エピローグも高虎で締めたいと思います。
高山(こうざん)神社が鎮座するのは津城の南西方向に当たる内堀の埋立地です。津市発展の基盤を築いた初代津藩主 藤堂高虎を祭神として祀る神社です。社名は、天海僧正が名付けた高虎の法号「寒松院殿前伊州羽林道賢高山権大僧都」に由来します。地元では「高山(こうざん)さん」の名で親しまれており、相殿神には木花佐久夜毘売命や大物主命、建速須佐之男命、大山祇命(山神)の錚々たる4柱を祀るハイパー・パワースポットです。
元々は藤堂家で高虎の神霊やゆかりの兜を津城内で祀っていたのが神社のルーツです。1877(明治10)年に一般人も参拝できる様に現在の津駅西口にある偕楽公園内にあった両社八幡神社の境内に社殿が建立されました。その後、いくつかの遷座を繰り返し、1969(昭和44)年の津城址公園整備に伴い、現在地に社殿が遷座されました。
津市の商工業の守護神、市民の氏神として、現在も広く信仰を集めています。
尚、「城郭めぐり」や「続日本100名城」のスタンプはこちらの社務所で押印できます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 私鉄
-
高山神社 境内マップ
古来「厄除け」と「開運」の霊験あらたかな神社として知られています。
津城趾の中央に鎮座する神社であり、藩祖 藤堂高虎を祀ります。高虎は、法号が「寒松院殿道賢高山権大僧都」で「高山公」と通称され、神社名もそれに由来します。津の繁栄の基盤を築いた高虎は藩士や領民にとって神に等しい存在であったことは想像に難くなく、1863(文久3)年に正式に神として祀られるようになったことも頷けます。
高虎ゆかりの兜は当初は藤堂家内に祀られていましたが、1877(明治10)年に政府の許しを得て神社創建。安濃郡下部田村広明(現津市)にあった両社八幡神社の境内に社殿を建てて高山神社として合祀しました。その後、1903(明治36)年に津城址の本丸跡(現在の高虎騎馬像がある辺り)へ遷座されました。(『津市史』第5巻)
1945(昭和20)年の津大空襲で本社殿が全焼し、その後復興しましたが、1969(昭和44)年に公園整備のため本丸跡から南西方向の内堀埋立地(現在地)へ遷座されました。 -
神明鳥居と社号標
鳥居を潜ると空気が変わった感じがし、背筋が自然に伸びます。
社伝によると、高虎が着用した大兜「黒漆塗唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」が社法宝として奉納され、ご神体だったそうですが、津大空襲で焼失したそうです。
高虎の没後、藤堂家では高虎が数々の戦場で着用した大兜(御霊代)を津城内に安置し、彼の神霊として代々の藩士が祀り続けていました。1877(明治10)年に市民や旧藩士が資金を出し合って神社を創建した際、大兜を神社へ奉鎮したことが記録に残されています。
因みに唐冠形とは、安土桃山時代~江戸時代初期にかけて武将たちの間で大流行した変わり兜の一種です。神社に奉納された経緯や詳細な形状の差異については、長年藤堂家の秘蔵の神宝とされてきたため、今なお多くの謎に包まれています。 -
手水舎
戦後に神社が遷座された際に建立された手水舎です。
シンプルながらも本瓦葺、切妻造、4本柱といった伝統的な意匠を引き継いだ木造建築です。奇を衒うような派手な彫刻や極彩色のアプローチは敢えて避け、木肌の風合いを活かした落ち着いた佇まいです。
高虎が高山神社の主祭神として津の市民から深く慕われ、神さまとして祀られている最大の理由は、彼が単なる戦国武将ではなく、津の町の基盤をゼロからつくり上げ、人々の暮らしを劇的に豊かにした名経営者だったからです。
往時の津は、高虎が入封する直前の大地震や津波、安濃津城の戦いにより、壊滅状態にありました。そこで高虎が採った復興・経済対策は次のようなものでした。
1.壊滅状態の津の町を復興
高虎が津へ入封してきた1608年、城下町は荒廃していました。高虎は城の大改修と共に、城下町を拡張する都市計画を実行しました。町全体の規模をそれまでの約3倍へ拡大し、現在の津市の中心市街地に碁盤の目の街路網を完成させました。
2.伊勢街道を城下町に引き込み、経済を爆発させた
高虎の天才的な都市計画が伊勢街道のルート変更でした。元々は城下町の外側を通っていた街道を城下町の中心部を通るようにクランク状に引き込みました。これにより、年間数百万人規模で伊勢神宮へ向かう旅人たちが城下町でお金を落とすようになり、津は伊勢路で最も賑わう宿場町へと大躍進を遂げました。
3.商人を優遇し、税金を免除(楽市楽座の継承)
城下町の起爆剤として高虎は商人や職人を全国から招致しました。また、津の住民に対して地子(土地にかかる税金)を全面的に免除するという破格の優遇処置を採りました。これにより、他国からも多くの人々が津に移り住み、町は急速に発展していきました。
4.領民を思いやる数々の逸話
高虎は、家臣や領民に対して常に誠実で温かい目を向けていたと伝わります。
「不満があれば、いつでも目安箱に入れよ」と、身分を問わず意見を聞く姿勢を貫きました。また、高虎の死に際、後継者に対し「津の領民は先の戦争や災害を乗り越えて一生懸命に町を作ってくれた。決して無理な重税を課して苦しめてはならない」と遺言したと伝えます。 -
手水舎 手水鉢
手水鉢は珍しく鋳物製であり、金属製のシンクを彷彿とさせます。
津藩11代藩主 藤堂高猷(たかゆき)が安政3~4年(1856~57年)頃、自身の山荘「偕楽園」の鎮守として両社八幡宮を奉斎し、その際に鋳造されたのがこの手水鉢です。両社八幡神社は高山神社が創建された当時の最初の鎮座地でした。
神社に安置されている手水鉢の9割以上は石をくり抜いたものですが、金属製の手水鉢は珍しく、往時は大変な贅沢品でした。津藩の桑名や津などは日本屈指の鋳物の町として栄えていた経緯があり、藩主が地元の最高峰の職人技をアピールするため、また自身の山荘「偕楽園」を飾る特別なシンボルとするために、敢えて石ではなく、美しい細工が施せる鋳物で制作させたと推測されています。 -
手水舎 手水鉢
格狭間の中央とその右側には藤堂家の主紋「藤堂蔦」が躍っています。左側に配された5枚の花弁紋様は藤堂家の裏紋(副紋)のひとつである梅鉢系の紋、あるいは唐花様式の意匠と思われます。
また、格狭間の周囲などには細かい丸や波のような装飾用の浮き彫りラインが施されています。これは宝珠文や魚々子(ななこ)文に近い伝統的な鋳物の装飾技法であり、武骨な鉄の塊に繊細で立体的な表情を付加しています。
更には、鉢を支える脚部のデザインにも注目です。ハート型に似た伝統的な魔除けの意匠である猪目をさりげなく組み込んでいたり、力強い獅子の足を彷彿とさせる形の脚が重い鉢を支えていたりと、細部まで江戸時代末期の高度な鋳造技術が凝らし尽くされています。 -
手水舎 手水鉢
裏面には、まず「津藩」と記され、次に鋳物師「阿保市太夫顕信 阿保正太夫義信 馬場兵蔵正信」の名を連ね、末尾に制作年「万延元歳 庚申九月(1860年9月)」とあります。江戸時代末期の万延元年に伊賀の高名な鋳物師 阿保(あぼ)氏が手がけた名品のようです。
余談ですが、金属と言えば条件反射のように戦時中の「金属類回収令」が気になる所です。神社仏閣からは、お鐘や仏像、金属製の手水鉢、更には鳥居に至るまで、金属類は鉄砲や弾丸の材料として国に強制的に供出されられました。高山神社の社殿は津大空襲で灰燼に帰しましたが、この鋳物製手水鉢は何故か金属回収ならびに戦火を免れ現代に遺りました。藩主ゆかりの高貴な工芸品として免除規定で守られたのか、あるいは別の理由で供出リストから外されたのか、明確な理由は定かではないようです。
こうした歴史を持つ手水鉢で清めれば霊験あらたかであること疑いなしです。 -
拝殿
かつて高山神社には藤堂家にまつわる壮絶な歴史を持つ遺品が奉納されていました。それは、1615(慶長20)年の大坂夏の陣(八尾・若江の戦い)で豊臣方の猛将 木村重成らと激突し、壮絶な戦死を遂げた高虎の従兄弟 藤堂仁右衛門高刑(たかづみ)や同じく重臣 桑名弥次兵衛一孝が着用していた血染めの鎧です。
激戦の記憶を伝える貴重な宝物として社殿に奉納されていましたが、津大空襲により、社殿と共に灰燼に帰したそうです。 -
拝殿
高山神社には、主祭神 藤堂高虎の他に相殿神として大山祇命(山神)や木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)、建速須佐之男命、大物主命の4柱が合祀されています。 これらの偉大な神さまたちがひとつの社殿に集い、互いのご神徳を高め合っています。つまり、「高虎の築城・出世」×「須佐之男命の厄除け」×「大物主命の商売繁盛」x…と重なることで、津の街や参拝に訪れる人々を全方位で守護するハイパー・パワースポットとなっています。
4柱が相殿神となった契機は明治30年代後半~40年代にかけて国が推し進めた神社合祀(一村一社政策)にあります。津城周辺に鎮座していた山神社(大山祇命)や浅間社(木花佐久夜毘売命)、金刀比羅社(大物主命)、天王社・祇園社(建速須佐之男命)といった、古くから地域の人々に篤く信仰されてきた複数の神社や地主神が高山神社へ合祀されたのです。 -
拝殿 扁額
拝殿に掲げられた金枠・金文字の豪華な扁額の揮毫は、藤堂家の第12代(最後)の藩主 藤堂高潔(たかきよ)、もしくは津大空襲後の再建時の一族の当主によるものと考えられています。
藤堂高虎を祀る神社なのに、何故「藤堂神社」や「高虎神社」ではなく「高山神社」なのかという疑問点については逸話があります。
高虎は生前、徳川家康の側近の高僧 天海僧正と深い親交がありました。高虎が亡くなった際、天海は「寒松院殿前伊州羽林道賢高山権大僧都」という法号を捧げました。高虎は通称「高山公(こうざんこう)」と呼ばれて親しまれたため、明治時代に建てられた神社の名もこの天海が捧げた文字に因み「高山神社」と名付けられました。 -
拝殿
法号「寒松院殿前伊州羽林道賢高山権大僧都」の意味を読み解いていきましょう。
・「寒松院殿」は院殿号であり、徳川家康の側近 天海僧正が「寒風に毅然と立ち向かう松の木」のような高虎の生き様を讃えて授けました。また、最高級の格式を示す「殿」が付けられていることにも注目です。
・「前伊州」は生前の官職(領地)であった「前の伊賀守(いがのかみ)」を意味します。高虎が伊賀・伊勢を治める領主であったことを示しています。
・「羽林」は「近衛少将の唐名」です。高虎の官位「左近衛権少将」を指し、朝廷から授かった高い武官のステータスを示しています。
・「道賢」は法名であり、「仏の道において賢い者、あるいは徳の高い人物」であることを意味します。
・「高山」は道号(個人の人柄や風流を表す名)であり、「高く聳える山のような堂々とした風格」を象徴するものです。
・「権大僧都」は「僧侶としての最高峰の位階」を指します。高虎は、徳川家康が亡くなる間際に「来世も同じ浄土で会おう」と涙したことに感激し、家康と同じ天台宗へ改宗し出家したため、この高い僧位が授けられました。 -
拝殿
神紋は藤堂高虎の家紋「藤堂蔦」です。
高山神社に相殿神として祀られている木花佐久夜毘売命は日本神話において「最も美しい」と称される女神であり、相殿神の大山祇命とは親子関係になります。名の由来は「木の花(桜)が美しく咲き栄えるような美女」という意味を持ち、桜の美しさを体現する神とされます。
その一方、強靭な母性を持つ女神でもあります。天照大御神の孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妻となりますが、一夜で身ごもったために貞操を疑われます。身の潔白を証明するため、彼女は壁のない産屋に自ら火を放ち、激しく燃え盛る炎の中で無事に3人の神さまを出産しました。この神話から、古来富士山の噴火を鎮める神(浅間大神)としても崇められています。また、炎の中でも動じず無事に出産を遂げたことから、安産の守護神としても信仰されています。更には、火をコントロールして出産した伝承に由来し、家屋や地域を火災から守る火除けの神としての信仰もあります。
絶世の美女であり、一途に夫への愛と潔白を証明した姿から、女性の幸せや縁結び・美容・家内安全のご利益に霊験あらたかとされます。 -
拝殿
拝殿脇に並ぶ奉納酒樽「高虎」の由来は、津市の伝統ある蔵元が主祭神である高虎の功績を称え、その名前を冠して誕生させた地酒に因みなす。この酒樽の銘柄「高虎」は、津市にある江戸時代中期創業の老舗蔵元「寒紅梅酒造」などが製造しています。
薦樽の正面には「高虎」の力強い文字が躍り、手水鉢や神紋でもお馴染みの家紋「藤堂蔦」が誇らしげに描かれ、ひと目で藩主ゆかりの神社であることが判る仕掛けになっています。 -
本殿
日本古来の最も格式高い建築様式のひとつである「神明造り」です。
ご神体(神宝)は、高虎が大坂の陣で実際に着用したと伝わる、中国の官員の帽子を模した「黒漆塗唐冠形兜」でしたが、津大空襲で焼けています。
尚、同型の「黒漆塗唐冠形兜」の現物は、藤堂家から寄贈されたものが伊賀上野城(大天守閣1階)に重要文化財として展示されています。 -
山神様
津城址の本丸から高山神社へアクセスする場合、最初に遭遇する神さまです。
小さな鳥居の奥には「山神」と刻んだ3つの石碑が祀られています。山神とは日本神話に登場する山の総支配神 大山祇命(おおやまずみのみこと)を指し、この石碑は、地域の氏族や職人(石工や大工など)、津の商工業者たちにより、商売繁盛や安全祈願のために篤く信仰され、大切に守られ続けられたものとされます。 -
山神様
何故、このような形で「山神」が3柱も祀られているのでしょうか?
その謎解きにチャレンジしてみましょう。
1.大山祇命を祀る石
この3つの石の全てが、山の最高神であり、山林・鉱山・土木などを司る大山祇命を祀るご神体、もしくはその記念碑だそうです。高山神社の主祭神は高虎ですが、この大山祇命も相殿神として名を連ねています。それを認知させるためのビジュアル的な象徴物として「山神」の石碑が境内に安置されていると思われます。
2.3つの石が並んでいる理由
古来、土木工事や建築、山へ立ち入る際には、その土地の平穏を祈願して「山神」の文字を彫った石を建てる風習があります。境内に安置されている3つの石は、元々は津城下町周辺や城の周辺など別々の場所に単独で建てられていた石碑と考えられているようです。明治時代以降の都市計画や神社の遷座などの歴史の中で、散在していた山神信仰の石たちがこの場所に集約され、3体並ぶ形に整理されたと言われています。
3.「築城」と「石垣」を支えた山神への感謝の気持ち
津城を大改修した高虎は、膨大な量の石を県内の山々(伊賀や松阪、津の山間部など)から切り出させて運び込ませました。往時の人々にとり、山から石を切り出して運ぶ作業は命がけの大仕事でした。無事に成し遂げさせてくれた山神への感謝と城や石垣が未来永劫に崩れないことへの祈りを込め、城のお膝元であるこの地に「山神」として祀ったのかもしれません。
因みに、『三重県神社誌』(大正8~15年)によると、高山神社の境内社である村社八幡神社には山神社が4社合祀されています。その内の1社は無格社、他の3社は無格社八幡神社(両社八幡社)、村社浅間神社、無格社住吉神社の境内社です。もしかすると、これら3社の境内社の山神社だった可能性も否めません。 -
針塚
この針塚は、折れたり古くなったりした「針」に感謝を込めて奉納し、供養するための塚です。
高山神社に安置されている理由は、高山神社の摂社 稲荷神社が衣服や和裁、産業に関わる人々から篤い信仰を集めてきた歴史があり、稲荷神社の左奥(お城公園へ抜ける通路の近く:山神様の裏手)に建てられています。
津の城下町は、高虎による伊勢街道の引き込みや楽市楽座政策により、多くの職人や商人が集まる商業都市として繁栄しました。衣服の仕立てや布製品を扱う職人たちにとり、針は自らの生活と食い扶持を支える上で最も重要な道具でした。そのため、道具を単なる消耗品として廃棄するのではなく、神聖な神社の境内に塚を建てて大切に祀ったのです。 -
末社 城山稲荷神社
元々は津城内に祀られていたものではなく、度会郡宇治山田町(現 伊勢市浦口)に鎮座していた二八稲荷神社から社殿ごと引っ越してきたという、全国的にも稀な由緒を持つ神社です。ご利益には、商売繁盛・開運隆盛・不況打開・厄祓・安全祈願などがあります。
二八稲荷神社は、毎年2月と8月の毎日、それ以外の月の2と8の日には、大変な賑わいを見せたそうです。不思議なことに地元の伊勢の人々よりも、遥々津市からやってきた商工業者や一般市民の参拝者が長蛇の列をなすほどに、津の人々から篤い信仰を集めていたと伝えます。 -
末社 城山稲荷神社 扁額
では、津の人々がそこまで二八稲荷神社に熱狂し、行列を作って参詣した理由は何なんでしょうか?
その理由は、稲荷信仰特有の「講」という組織の存在と「二八(にはち)」という特定の日・時期に設定された爆発的な参拝ブームにあったようです。
往時、商売繁盛を願う商人たちは「講」と呼ぶ宗教的・相互扶助的なグループに入るのが一般的でした。津では二八稲荷を信仰する「二八稲荷講」という組織に入っていました。この講のメンバー(1200名超)が、2と8の付く日に集団で参拝に赴くという行動パターンをとり、爆発的な人数が境内に押し寄せ、結果として大行列が生まれたようです。 -
末社 城山稲荷神社 拝殿
「社殿ごと引っ越してきた」には、それなりの理由があります。
明治時代末期、政府の政策により、1つの町村に複数の神社がある場合、それらをひとつにまとめる神社合祀が推し進められました。伊勢 二八稲荷社も例外ではなく、合祀されて消滅する危機に瀕していました。
それを知った津の商工業者は「商売の守り神がなくなるのは困る!」と猛反発。1911(明治44)年に津市長が宇治山田町長に懇請し、津城内の高山神社境内に迎え入れ、城山稲荷神社と改称し、津市の商工業者と産業育成の守護神として崇敬されてきたという経緯があります。 -
末社 城山稲荷神社
拝殿前には、お約束の狛狐ではなく、如意宝珠が台座の上に祀られています。その理由には稲荷信仰における神仏習合の歴史との深い結び付きがあります。
1. 如意宝珠は稲荷大神の霊力そのものの象徴
一般的な稲荷神社にある狛狐は宇迦之御魂神にお仕えする神使(眷属)です。その狐が口に咥えたり、前足で踏んでいるのが如意宝珠です。如意宝珠は密教や神仏習合の思想において神さまの霊妙なご神徳や穀物の生命力(穀霊)を表します。そのため、お使いである狐の姿を省略し、神さまのパワーやご利益の結晶である如意宝珠そのものを直接信仰の対象として安置するパターンがこれです。
2. 「あらゆる願いを叶える」という商売繁盛への強い祈り
如意宝珠は、サンスクリット語「チンターマニ」に由来し、「意のままに様々な願いを叶え、お宝を湧き出させる不思議な玉」との意味を持ちます。この神社は、伊勢から津の商人や職人たちの熱烈なラブコールにより引越ししてきた、商売繁盛・不況打開・金運隆盛に特化した稲荷です。そのため、財を生み出し、願いを叶えてくれる功徳の象徴である如意宝珠が、信仰のビジュアル的な対象物として重視された結果とも考えられます。
3. 火伏せ(防火)信仰との繋がり
この如意宝珠は、上部が尖り、炎が燃え上がる形をした火炎宝珠を象っています。稲荷の狐は古くから狐火を司るとされ、同時に城下町を火災から守る火伏せの神としても篤く信仰されてきました。火炎宝珠を祀ることで、商売繁盛だけでなく、城下町を大火から守って欲しいとの願いも込められたものと思われます。
因みに宝珠は全ての海水と魚を飲みこんでしまうインドの伝説の怪魚マカラの体内や龍神の脳から出現したとも伝えます。それ故、宝珠を入手すれば、多くの財宝を得ることができるようになり、毒におかされず、火にも焼かれないと言います。 -
齋館(社務所)寿老神像
斎館の玄関先に祀られている寿老神像の参拝を許可願いました。
高山神社は津市内の中心部にある4つの社寺を巡る「伊勢の津・七福神めぐり」の第4番札所である寿老神(寿老人)の霊場でもあります。ご利益は延命長寿や安寧・繁栄とされます。
中国道教がルーツの寿老神は、天下泰平の時にしか見えず、見ると長寿になれるとされる南極老人星(カノープス)の化身 南極老人がモデルと伝えます。一般的には細長い頭をして傍らに鹿を伴う姿で表されますが、この像は鹿の背に乗り、その微笑みを湛えた表情と相まって愛らしい印象があります。
因みに鹿に乗っているのは、中国道教の教えや寿老神の由来に根ざした理由があります。大別して、次の3つの吉祥(おめでたい)理由から「鹿に乗る姿」で表現しています。
1.千歳とも千5百歳とも言われる寿老神は健康長寿を司る神さまですが、お供の鹿もまた数千年の寿命を持つ特別な霊獣(神の使い)とされます。中国の伝承では、「鹿は1500歳を過ぎると毛が黒くなり(玄鹿)、その肉を食べた者は2000年の寿命を得る」と伝わり、長寿の神さまである寿老神の乗り物やお供としては申し分ない相棒と言えます。
2.中国語では鹿(ルー / lù)という言葉は財産や身分の高さを表す禄(ルー / lù)と同じ発音になります。そのため、寿老神が鹿を伴ったり、鹿に乗った図は、長寿だけでなく幸運や財運(福禄)を運んでくるという2重の縁起担ぎを意味します。
3.中国道教の物語や絵画では、深い山奥で不老不死の霊薬や薬草を探す南極老人は、しばしば鹿を乗り物として移動する姿でも描かれます。その伝統的な姿がそのまま日本に伝わり、七福神の寿老神像の定番のポーズとなっています。 -
齋館(社務所)寿老神像
この寿老神像が手に持つ桃と巻物にも、それぞれ幸福や知恵に対する縁起の良い意味が込められています。
中国道教では、桃は単なる果物ではなく、強力な不老長寿の霊薬とされます。
西王母(さいおうぼ)という不老不死の女神の庭園には3000年に一度だけ実をつける桃(仙桃)があり、それを食べた者は永遠の命を得ると伝えられます。寿老神がこの桃を持っているのは、参拝者に無病息災・不老長寿という徳を授けるためです。
寿老神が持つ巻物は知恵と人間の運命の象徴です。
寿命の巻物には「この世のすべての人間の寿命(何歳まで生きられるか)」が記されているそうです。寿老神がこの巻物を管理しているからこそ、神に祈ることで延命長寿が成就すると信じられてきました。
つまり寿老神の持ち物や乗り物(鹿)は、「長寿」や「幸福」、「知恵」などの普遍的な願い事を判り易くビジュアル化したものと言えます。 -
齋館(社務所)白雲斎の甲冑(レプリカ)
齋館には、藤堂高虎の功績や津藩の歴史を伝える貴重な什宝が保管・展示されています。
こちらは高虎の尊父 藤堂虎高(白雲斎)が愛用した甲冑のレプリカです。虎高は家督を高虎に譲った後、故郷である近江の白雲山を偲んで「白雲斎」と号しました。
甲冑の胸の部位には不動明王があしらわれています。
因みに伊賀市にある松本院は、1608(慶長13)年に高虎が伊予今治から伊賀・伊勢へと国替えになった際、藤堂家の熱心な祈願所として高虎直々に同行させて伊賀へ遷座させた寺院です。松本院の境内には虎高(白雲斎)と継室の御霊屋が建てられており、その松本院の本尊が不動明王です。
虎高(白雲斎)は享年84と戦国時代としては驚異的な大長寿を全うした人物です。長寿の神さまである寿老神が、同じく長寿の象徴である鹿に乗る姿は、まさに大長寿を全うした白雲斎の生涯そのものを象徴・祝拝するデザインとしては、これ以上ないほどピッタリ重なります。 -
齋館(社務所)『高虎公肖像画』
奉納された肖像画に描かれている高虎は、朝廷の正式な礼服「衣冠束帯」を身に纏い、頭には黒い冠、右手には笏(しゃく)を持ち、左腰には太刀を帯びて威風堂々と端座しています。
また、若き日の武骨な武将の姿ではなく、晩年の白髪・白髭を蓄えた、威厳と気品のある老年の「高山公」然とした姿を描いています。 -
齋館(社務所)
高山神社は、「伊勢の津・七福神めぐり」の第4番札所(霊場)に指定されています。割り当てられている神様は、長寿延命や福徳智慧の神である寿老神です。
そのため、斎館や境内には七福神(特に寿老神)を描いた図や授与品がいくつか見られます。 -
齋館(社務所)
これは参拝者への授与品ではなく、崇敬者もしくは巡礼団が愛知県にある三河七福神の全7ヶ寺を巡り、満願(御朱印を全て集めること)を達成したことを示す色紙です。それを高山神社へ篤い信仰の証として奉納したため、額に入れて玄関口に掲げられています。
高山神社に三河ゆかりの品が奉納されているのには主祭神 藤堂高虎の歴史が関係しています。
高虎は、三河国から天下を統一した徳川家康にその才能を見出され、最も信頼された外様大名でした。家康の終焉の地に立ち会い、来世の約束まで交わした「三河の主」にとって最大の理解者でした。
こうした歴史的背景から、三河地方の熱心な歴史ファンや徳川家・藤堂家を崇敬する巡礼団などが、三河での七福神巡りを終えた記念として、家康と最も絆が深かった高虎を祀るこの高山神社を訪れ、色紙を奉納するという文化が生まれたそうです。 -
齋館(社務所)絵馬(境内案内板より抜粋)
かつて高虎が合祀された両社八幡神社には、1863(文久3)年に伊州名張町在住の人形彫刻名人 安本亀八(光政)が制作した絵馬が奉納されていました。現代でいう「リアルフィギュア」の先駆者です。厚さ9cmの重厚な欅の板に、神功皇后と皇子(後の応神天皇)を抱く武内宿禰の伝説をモチーフにした木彫絵馬(寄せ木彫り)です。通常の板に絵を描いた絵馬とは異なり、立体的な彫刻が施されているのが特徴であり、満開の桜と共に生き生きとした姿が表現されています。
八幡神(応神天皇)の誕生という縁起の良い場面を描くことで、津藩主(藤堂家)の武運長久と健康長寿を願う内容となっています。津大空襲の際、高山神社の社殿はほぼ全焼しましたが、「絵馬殿」だけが奇跡的に焼け残りました。高山神社に奉納された形で市文化財に指定されています。 -
御朱印
藩祖 藤堂高虎に因んだ石垣の印影や達筆な墨書きが特徴です。
特にはじめの「奉拝」は達筆すぎて当方には読めません。
尚、参拝日の日付の間違いはご愛嬌でしょうか…。
初穂料は500円です。(拝授時間は9時~16時)
社務所の齋館前には「続日本100名城」の城郭スタンプも置かれています。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。 -
おまけ その1
乗車時間待ちの間に遭遇した近鉄特急を紹介いたします。
決して「近鉄の回し者」ではありませんのでご安心下さい。
近鉄観光特急「あをによし」
2022年4月29日にデビューした、大阪難波~近鉄奈良~京都の3都を乗り換えなしで結ぶプレミアム観光列車です。1300年前の「天平時代」や「古都・奈良」をコンセプトにしており、ゴージャスな空間で優雅な移動時間を愉しめます。近鉄では「しまかぜ」「青の交響曲(シンフォニー)」に続く3番目の観光特急です。
フロントマスクで燦然と輝く砲金製のエンブレムは吉祥文様である「花喰鳥(はなくいどり)」です。ササン朝ペルシア(古代イラン)が起源とされる意匠で、元々は「栄光の象徴である真珠の首飾りをくわえた鳥」などが描かれていました。これが奈良時代の日本へ伝わり、首飾りの代わりに「美しい花やめでたい草(瑞草)の小枝」をくわえる日本風の意匠へ変化しました。正倉院の宝物には花喰鳥の文様が数多く使われています。因みにデザインは「東京2020オリンピック」のメダルを手掛けた川西純市氏であり、重量は50kgもあるそうです。 -
おまけ その2
近鉄観光特急「あをによし」
名称「あをによし」は奈良にかかる枕詞から採られています。特に小野老(おの のおゆ)が詠んだ「青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂ふが如く 今さかりなり」という歌が有名です。
2号車はサロンシート仕様で、高級感のあるスペイン製ソファが採用されています。座席と通路はパーテーションで区切られており、半個室のようなプライベート空間を提供してくれます。また、通路には黄金色のアーチがあしらわれ、ゴージャスな雰囲気を演出しています。更には、近鉄では最大サイズのパノラマ・ウィンドウが採用されています。 -
おまけ その3
近鉄観光特急「あをによし」
外装カラーは、天平時代に高貴な色とされ、「冠位十二階」でも最上位とされた紫色をベースにした、紫檀メタリックにゴールドのラインを施しています。
車両の内外には「奈良の和」の美しさや尊さを表現するため、正倉院の宝物をモチーフとした天平文様のデザインを配しています。車両の側面には正倉院の宝物「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」にあしらわれている花柄をラッピングしています。この花柄は「宝相華(ほうそうげ)」と呼ばれる架空の吉祥花です。 -
おまけ その4
近鉄観光特急「あをによし」
「あをによし」は4両編成ですが全84席しかなく、各席のスペースが潤沢に取られています。車両は、かつて近鉄特急ネットワークの拡大期に中心的役割を果たした12200系(新スナックカー)を改造した、19200系です。
因みにこの車両の1号車には、1975(昭和50)年5月にエリザベス2世・エディンバラ公夫妻が伊勢志摩を訪問される際に乗車されています。落成したての12200系から特別に仕立てられた6両編成がお召し列車(VIP編成)として運行されました。女王は12200系12356号車に乗車しましたが、この車両は「あをによし」1号車(19301号車)に当たります。
1号車に乗車できたらラッキー!
日本に居ながらにして英国ロイヤル・トレインの気分が味わえるかも!? -
おまけ その5
近鉄観光特急「あをによし」
1・3・4号車はツインシート仕様であり、シートを窓側に向けた配置と向かい合わせの配置の2パターンとしています。
座った人を優しく包み込むようなエレガントなシートは特別注文したオリジナルのデザインです。 -
おまけ その6
近鉄観光特急「あをによし」
2号車には校倉造をイメージした販売カウンターがあり、車内限定の「あをによしバターサンド」や奈良のクラフトビール、大仏プリン、限定のオリジナルグッズなどが販売されています。
また、4号車はライブラリースペースとなっており、沿線の歴史や文化に関する書籍が自由に読めるソファスペースが用意されています。 -
おまけ その7
近鉄特急「ミジュマルライナー」
2025年2月27日に運行開始した、伊勢志摩エリアと近鉄名古屋・大阪難波・京都を結ぶ特急電車です。
ミジュマルライナーとは、既存の近鉄特急「伊勢志摩ライナー」の内外装に、みえ応援ポケモン「ミジュマル」と伊勢志摩をはじめとする三重の自然溢れる景観や名産品などをモチーフにしたフル・ラッピング施した、特急列車の愛称です。このような特急車両外装へのフル・ラッピングは近鉄初の試みであり、この1編成しか存在しません。
ミジュマルライナー 運用予定 日程表です。
https://www.kintetsu.co.jp/zigyou/mijumaruliner/_assets/pdf/schedule.pdf -
おまけ その8
近鉄特急「ミジュマルライナー」
2021年12月、「三重」がミジュウとも読めて「ミジュマル」の名前に近いとのご縁から、ミジュマルが「みえ応援ポケモン」に任命されたそうです。そうした経緯で近鉄とミジュマルのコラボレーションが実現しました。
ミジュマルはお腹に貝のような見た目の「ホタチ」を持つキャラクターであり、真珠貝(アコヤガイ)や牡蠣など貝類をはじめとした海の幸にも恵まれている三重県をPR・応援するにはピッタリのポケモンと言えるのでは!?
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