2026/09/20 - 2026/09/20
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montsaintmichelさん
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津城の起源は戦国時代の永禄年間に、細野藤敦(ふじあつ)が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を築いたことに始まります。その後、1608(慶長13)年に伊予今治藩からNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では佳久創さん演じる「藤堂高虎」が伊勢・伊賀22万石にて入封して城を大改修し、輪郭式城郭へと変貌させ、加えて城下町を整備しました。そして大坂の陣の戦功により加増を受け、32万4千石の大大名となり、明治時代まで津藩藤堂家の居城となりました。
高虎は江戸時代初期の名将かつ築城名人とされ、加藤清正と黒田如水を合わせて「戦国三大築城名人」と称されました。津城を語る上で外せないのが、高虎が得意とした輪郭式縄張りです。中枢となる本丸・東の丸・西の丸を内堀で囲み、それらを更に二の丸と外堀で囲んだ同心四角形のレイアウトをし、水を活かした防御が最大の特徴です。現在の内堀は大半が埋め立てられ、かつての3分の1ほどの幅となっているのが残念です。
本丸に遺る高石垣は見応えがあります。反りのない垂直に近い高石垣が高虎の真骨頂であり、打込接と算木積みを随所に駆使しています。また、今治城や丹波篠山城と同様に本丸の石垣裾部には犬走を設け、平城を築く際の高虎の芸風が見られます。
尚、1958(昭和33)年に戦後復興のシンボルとして層塔型復興三重櫓が建立されています。こちらは元の櫓の姿や立地とは無関係に設計された模擬櫓です。層塔型の破風などの飾りのない高虎好みのシンプルな櫓でないのが残念ですが、石垣を覗いて遺構の乏しい津城においては写真映えのするよいアクセントになっています。「続 日本100名城」のひとつでもあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 私鉄
-
自作の散策マップ
近鉄「津新町」駅から徒歩7分程で西側の内堀に到着です。
因みに津新町駅は、津駅から伊勢・松阪方面へ1駅です。津駅から三重交通バスを利用される場合は「三重会館」で下車すれば徒歩数分で東鉄門桝形虎口に着きます。
今回の散策コースは次の通りです。
二の丸から時計回りに内堀り巡り→東鉄門桝形虎口から本丸へ→復興三重櫓→
高虎遺訓石碑→高虎像→埋門→本丸南面石垣→天守台石垣→(高山神社:次の旅行記で紹介)→西の丸鉄門虎口→入徳門→二階門跡→土橋
津城の起源は戦国時代の永禄年間に、長野氏の一族 細野藤敦(長野工藤氏14代当主 長野稙藤の子)が安濃・岩田の両河川を天然の要害とした低湿地に小規模な安濃津城を築いたことに始まります。その後、伊勢国司 北畠家の一族 長野氏が治める城として代々続きました。
やがて1568(永禄11)年、織田信長の伊勢侵攻により安濃津城は籠城の末に和睦し、北畠家への押さえとして織田掃部頭(津田一安)が入城。翌年、織田信長の弟 信包(のぶかね)が入城し、本丸・二の丸・三の丸を整備し、1577(天正5)年に5層天守と5層小天守を築き、中伊勢を掌握しました。
因みに津藩の関係者が江戸時代にまとめた『累世記事』によると、1578(天正6)年に織田家の重臣 滝川一益が縄張りや築城工事を行なって完成させ、その2年後に信包が入城したと記されています。 -
藤堂高虎時代の縄張りと現在の城址を比較した図を添えておきます。
本能寺の変後の豊臣時代の1594(文禄3)年、信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移封され、その翌年に秀吉側近で奉行衆のひとり富田一白(いっぱく)が5万石を与えられ城主となりました。その子 信高は3重天守と2重小天守を再建しましたが、関ヶ原の戦いの際に東軍に与して安濃津城籠城戦となり、西軍の九鬼水軍に海上輸送を絶たれ、毛利秀元や長束正家、安国寺恵瓊ら3万の大軍に攻められ、奮戦するも城内の建造物の大半を焼失し、開城の憂き目を見ました。
因みに信高は、高田山専修寺で剃髪し出家するも、この奮戦を讃えた徳川家康から22万石の加増を受け、伊予宇和島城に移封となっています。 -
高虎時代の縄張りを3Dで表現したものです。
1608(慶長13)年、伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万3千石にて入封。高虎はまず伊賀上野城を本拠として戦時の拠点とした上で、津城を平時の居城と位置付けました。1611(慶長16)年、高虎は城の大改修に着手し輪郭式城郭に変貌させ、城下町を整備し、町外れを通る伊勢街道を城下町に引き入れました。これにより津は城下町としてだけでなく、伊勢神宮参詣の宿場町としても賑わい、「伊勢は津でもつ」と謳われるようになりました。その後、大坂の陣の戦功により10万石の加増を受け、藤堂家は32万3千石の大大名となりました。
寛永年間(1624~43年)に再建された3重天守と2重小天守は高虎の嫡男 高次(たかつぐ)が藩主の時、1662(寛文22)年の火災で焼失し、その後は幕府への配慮で天守は再建されていません。
その後、藤堂家12代の居城として存続しましたが、1871(明治4)年の廃藩置県により廃城となり、建物は売却・撤去され、城の機能は失われました。その後、西の丸跡に日本庭園が整備され、1958(昭和33)年にはコンクリート製復興隅櫓(三重櫓)が復元されました。 -
西の丸 玉櫓台と二階門跡
往時は本丸は四方を内堀で囲まれ、敵兵は西の丸か東の丸を通らざるを得ませんでした。両郭共に馬出の機能を有した強固な縄張りになっていました。
右端に見える二の丸 下馬冠木門から西の丸へ通じる土橋はかつては木橋でした。そこを渡った先には本丸へ直進できないようにするための防御拠点として二階門の内桝形が構え、実質的な内郭の大手門でした。
手前の南西角部には西の丸唯一の櫓であった2重の玉櫓が聳えていました。 -
西の丸 玉櫓台
玉櫓の名の由来は鉄砲の弾丸(玉)が格納されていたことに因みます。
石垣裾部には犬走りのようなもの(雑草が生えている所)が窺えますが、これは石垣の修理のためと石垣の崩落防止のために明治時代以降に付加されたものだそうです。本丸の石垣裾部に設けられているのが高虎時代の犬走りです。
津城のある津市の語源はかつて安濃津(あのつ)と呼ばれる津(港)があったことに由来します。平安時代から京への重要な港として利用され栄えた場所であり、伊勢国の政治経済の中心地でした。それ故に日本の主要港である三津七湊(さんしんしちそう)のひとつに数えられ、中国の歴史書においても福岡県の博多津、鹿児島県の坊津と並んで日本三津に数えられたほどです。鎌倉時代には、藤原南家の流れを汲む工藤氏を祖とする長野氏が支配していました。 -
西の丸 北側石垣
北面には内堀に面して長屋風の武器庫、その内側に武具方役所が建てられていました。
津城は築城の名手であった藤堂高虎が築城の粋を集めて築いた城です。石垣は多くは高虎時代のもので、算木積みや矢穴、刻印などが見られ、打込接や切込接、一部には高虎以前の織田や富田時代の石垣と思しき野面積みが遺っています。
藤堂高虎が1604(慶長9)年に造った今治城は1階から順に同じ形の建物を少しずつ小さく規則正しく積み上げる方式を採用した日本初の層塔型天守でした。それまでの望楼型(大きな屋根の上に小さな見張台を載せる形式)から技術革新した高虎の発明とされます。利点としては、効率よく建てられるため、工事期間を短縮でき、その分費用も抑えられました。
高虎が縄張りした今治城や丹波篠山城に限らず、直接関与していない名古屋城なども含めて天守は層塔型であり、徳川家が造営した城のほとんどが高虎の発明の賜物とされます。 -
本丸西面 戌亥三重櫓台
藤堂高虎の築城技術の高さを賞て、加藤清正と並ぶ「戦国二大築城名人」のひとりとされます。あるいは、黒田如水を加えて「戦国三大築城名人」とも称されます。
津城や伊賀上野城、赤木城など三重県内の城郭の他、二条城や宇和島城、今治城など全国各地の築城や改修に関ったことで知られています。
徳川幕府の天下普請としては膳所城や伏見城、江戸城、篠山城、丹波亀山城、大坂城、二条城など、まさに拠点の城の築城に駆り出されています。
内堀と外堀が「回」の字を描く、典型的な輪郭式城郭です。外堀は全て埋められ、内堀も北面と西面しか残されていません。また本丸内には5つの櫓(うち2つが三重櫓)が建っていましたが、全て破壊され、今は櫓台のみが遺っています。
結構広い内堀ですが、縄張図を見ると往時はこの3倍ほどの幅があったようです。本丸内堀の北面にある長い直線の石垣の上には多門櫓が建っており、その東西の端に建てられた三重櫓同士を繋いでいました。このように津城は土塀ではなく、四方に巡らした多門櫓が本丸を囲い込む構造でした。 -
本丸北西角部 戌亥三重櫓台
本丸の北西に位置した戌亥三重櫓は高虎が考案した層搭型三重櫓でした。
この石垣は内堀の水面からは10m程の高さがあり、隅角部の算木積みを覗いて全て打込接で整然と積まれています。高虎が得意とした垂直に近い角度で高く直線的に立ち上がる石垣は圧巻です。
高虎は石垣の美しさや強度に並外れた拘りを持ち、その築城技術の極致を現代に伝える「最も高虎らしさが詰まった無骨な石垣」と言えます。
この石垣の最大の特徴は、石垣の裾部(水際)に幅1mほどの犬走り(平坦な通路)を設けていることです。これは軟弱な足場を安定させ、石垣全体の強度を保つために高虎が好んで用いた設計構造のひとつです。 -
本丸北面 戌亥三重櫓台~北多門櫓台
本丸の北面を守備するのが北多門櫓でした。東側の丑寅三重櫓と西側の戌亥三重櫓を接続した桁行(長さ)約47間半(約86m)、梁間(幅)3間もある長大なものでした。この構造は、敵を北側の内堀で阻み、高石垣の上に設けた狭間から一斉に狙い撃つ強固な防御壁でもありました。津城の防御陣形における最大のハイライトと言っても過言ではありません。多門櫓の内部は3間ごと16室に区画され、有事の際は防御の拠点や兵員の移動通路となる他、平時は武器や兵糧の格納庫として供されていたと考えられています。また、北多門櫓の石垣は日本で一番長い積み石になっています。 -
本丸北面 丑寅櫓台~北多門櫓台
疑問に思うのは、慶長16年から大規模に改修された津城は国持ち大大名の居城としては吃驚するほどスケールが小さいことです。
その理由の筆頭は、高虎は関ヶ原の戦い後に各地の築城に携わり、自らの城を造る暇がなかったゆえと推察されています。
また別の理由として挙げられるのは、津城は平時の政治を行う役所として役割分担されていたため、軍事的スケールが抑えられたとも考えられています。江戸幕府は一国一城令を発して大名が複数の城を持つのを禁じましたが、藤堂家は例外的に津城と伊賀上野城の保有を許されており、軍事・防衛予算の多くは伊賀上野城に割かれていたからです。
もう一つの理由は、高虎にとり津は「城を要塞化する」ことよりも「壊滅した町を復興し、経済都市として発展させる」ことの方が優先課題だったということです。高虎は城下町を3倍に広げ、伊勢街道を城下町に引き込んで商業を活性化させました。 -
本丸北東角部 丑寅三重櫓台
丑寅三重櫓は天守を置かなかった高虎の時代には事実上の天守として機能し、それを支えた石垣にも特別な意匠と工夫が凝らされています。
隅角部には算木積みが用いられていますが、石垣が最も崩れ難い縦横比2.5:1の強固な算木積みです。また、石の表面を平らに加工して隙間を減らす打込接も用いられています。
丑寅三重櫓は津城の鬼門(北東)を守護する役目も果たしていました。 -
本丸北東角部 丑寅三重櫓台
隅角石の算木積みの直線部が波打っているように窺えます。また、それ以外は打込接と言うよりも野面積みに近い乱積みです。これは、1944(昭和19)年12月7日の昭和東南海地震(三重県南東沖を震源とするM7.9)で石垣が崩れたため、積み直した結果のようです。
それにしても今にも崩落してきそうで、近づくのが躊躇されるほどです。 -
百五銀行 本館ビル
ここで少し寄り道です。
三重県に根づく地銀 百五銀行の本館ビル「丸之内本部棟」の北側です。
この石垣はビルの整備・建設中に出土した津城の石垣の一部です。
石垣は幅5m、高さ1.7m、奥行き1.2mあり、典型的な野面積みです。従って、高虎が改修する以前の織田信包の築城期などの面影を強く遺した、あるいはその後に部分的な改修を受けた遺構と思われます。 -
百五銀行 本館ビル
ビルの低層部のファサードには、隣接する津城址の石垣とコーディネートさせた現代的な石張りのデザイン(石積み外壁)が採用されています。
因みに百五銀行の初代頭取は藤堂高泰です。激動の幕末~明治維新への過渡期を駆け抜け、津の近代化に貢献した津藩 城代家老であり、神職であり、銀行家という多彩な顔を持つ偉大な人物です。
戊辰戦争(1868年~)が勃発した際、新政府軍の将として洋式化された津藩士千名超の兵を率いて関東や東北を転戦し、総帥として奮戦しました。前線では高い統率力を発揮した実力派の武人でした。
また、維新後の1871(明治4)年に伊勢神宮の事務統括機関である神宮司庁が設立されると、高泰はその初代 神宮少宮司の職に就きました。神道界とも縁が深く、敬神の念が篤い人物としても知られています。
1878(明治11)年、1876年の秩禄処分(家禄の廃止)により生活基盤を失った旧津藩の藩士たちの食い扶持や経済的自立を支えるため、高泰が中心となって第百五国立銀行(現 百五銀行)を創設しました。そして翌年の営業開始と共に初代頭取に就任しました。
因みに戊辰戦争後の秩禄処分により、各地の旧藩士たちは新政府への不満を爆発させました。その結果勃発したのが最大の士族反乱である西南戦争でした。津ではその圧抜きとして家老自ら旧藩士の食い扶持つくりを推進されたと言うことですので頭が下がります。 -
本丸東虎口 復興三重櫓
明治時代に廃棄された丑寅三重櫓が、1958(昭和33)年に戦後復興のシンボルとして、本丸東部にある東鉄門桝形の多門櫓跡にRC造で建てられました。層塔型丑寅三重櫓の復元を意図したものですが、残念ながら場所も意匠もオリジナルとは異なる模擬櫓です。模擬櫓には見栄えのために千鳥破風などが付けられ瀟洒な外見ですが、本来の高虎流は飾り屋根を一切付けない、すっきりとした外観が特徴です。
高虎はシンプルさを極めた層塔型天守の先駆者です。下層の柱の上に上層の柱を立ち並べる構造ゆえ、複雑な梁の組み合わせが不要です。また、破風など飾り屋根を省くことで雨漏りのリスクを減らす実用本位の設計です。更には、釘を使わずに継手や仕口などの高度な木組みで構築することにより、地震の揺れを受け流す柔軟性と大砲の衝撃にも耐え得る頑強さを両立させています。 -
本丸東虎口 復興三重櫓
三重の直下の石垣は、美麗な算木積みや矢穴(石を切り出した痕)、そして歴史を感じさせる転用石(墓石や五輪塔の一部)などがコンパクトに集約された、津城屈指の「石垣観察スポット」となっています。
また、高虎の層塔型天守を語る上で外せないのが彼とタッグを組んだ伝説の大工集団「甲良家(こうらけ)」です。高虎が豊臣秀長に仕えて本格的に築城を学び始めた際、安土城などを手がけた同郷の先輩大工 甲良光広から建築技術を学んだり、その技術を自身の建設集団に組み込んだことが、高虎覚醒のきっかけになったと伝えます。因みに、後年に甲良家を幕府のトップ棟梁へと押し上げたのが、光広の孫に当たる初代 甲良豊後守宗広です。
日光東照宮は、最初期は高虎が作事奉行として造営に関わりましたが、後に3代将軍 家光の命による大リニューアルの際、大棟梁に抜擢されたのが63歳の宗広でした。僅か1年5ヶ月で、あの絢爛豪華な社殿群を完成させたのは奇跡としか言いようがありません。また、史上最大と称された江戸城「寛永度天守」を建てたのも甲良家です。 -
本丸東虎口 復興三重櫓
復興三重櫓が建つ場所にはその左隣にあった東鉄門を取り巻く桝形が形成されていました。
復興三重櫓の対面には太鼓櫓があり、櫓の中には大太鼓が設置されており、太鼓を鳴らすことで城内の武士や城下町の領民に時刻を知らせる他、火事や洪水などの非常事態の警報、藩主が江戸からの参勤交代で帰国した際の合図としても使われていたそうです。
太鼓櫓台の下部には、犬走りから城外へ行き来できるように内堀に木製の犬走り板橋が架けられていました。これは津城の防御と連絡におけるマニアックかつ重要な遺構と言えます。
有事の際、本丸から犬走りを経由して城外へ兵を出撃させたり、逆に連絡兵を素早く引き入れたりするための実戦的な非常動線としての役割を担いました。もし敵がこの木橋に迫っても、すぐ上の太鼓櫓から一斉に狙い撃ちできるという合理的な配置です。
犬走り板橋周辺の内堀は戦後に埋め立てられましたが、2026年8月に太鼓櫓跡~埋門跡の近隣(現在 津警察署北側の公園)で実施された発掘調査により、この木橋が繋がっていたとされる「高虎時代の巨大な犬走り」と「水堀に面した石垣」が地中から奇跡的に良好な状態で発見され、大きな話題となりました。 -
本丸 東鉄門虎口付近
本丸の東側にある虎口は、高虎が改修したものであり、外門の東黒門と内門の東鉄門で堅固な桝形を構成していました。両門の間で通路は右に大きく折れ曲がり、更には周囲に多門櫓を巡らせ、侵入する敵を四方から狙い撃つ「キルゾーン」として機能させていました。
東黒門は上部を透かしにした門扉を持つ高麗門、東鉄門は鉄板張の門扉を持つ櫓門でした。各々の門内には番所を設け、そこで通行人を監視していました。
この枡形は、土橋の正面に高麗門があり、左側の隅に2重の太鼓櫓が建ち、それ以外の塁上には多門と渡櫓が建つという、極めて厳重な構えでした。 -
本丸北側石垣
この上に北多門櫓が建ち、石垣は武骨な野面積みに近い打込接で積まれています。
こうして内側から見ると本丸を巡るようにかなり高い石塁が築かれていたことが判ります。しかし内堀に面する表側とは対照的に、裏側は外部に力量を見せる必要はなく、比較的小さな石を積み上げた実用主義で済ませています。 -
本丸 復興三重櫓 入口
初期の安濃津城は5層天守を備えた戦国時代そのものの城でしたが、関ヶ原の戦いで焼失しています。藤堂高虎の改修では、本丸北側が拡張され、3重櫓や多門櫓が整備されました。天守は再建されず、天守台のみが築き直された点に近世城郭としての性格が表れています。
外郭には京口門・伊賀口門・中島口門が設けられ、土塁上に櫓を配して防御線を形成していました。城下町は城の北・西・南に武家地、東に町人地を配する計画的な構成です。参宮街道を城下町に通したことで、軍事と交通の両面を担う都市としても整えられました。 -
本丸北東隅部 丑寅三重櫓台より内堀を望む
今でも幅20mほどの内堀が現存していますが、往時はこの2.5倍、50mほどの幅を誇る巨大内堀でした。
因みにこの50mという幅は近代城郭の堀の設計でよく用いられる距離で、往時のの強力兵器や火縄銃の殺戮可能な最長距離に符合させたものです。つまり50m以上離れていれば、堀の向こうから敵が放った火縄銃の玉が仮に当たったとしても死には至らない距離感という計算です。
津城の歴史で外せないのが、その前身であった安濃津城における「東海の関ヶ原」とも呼ばれる戦いです。
1600(慶長5)年8月、関ヶ原の戦いの前哨戦が安濃津城で起きました。東軍に与した富田信高の兵は、分部光嘉の兵と古田重勝からの援軍5百を合わせても千7百。対する西軍は毛利秀元や長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らを擁し、総勢3万の大軍でした。
8月24日の朝、本格的な合戦が始まりました。分部光嘉は毛利家臣の宍戸元次と一騎打ちを演じて双方が重傷を負い、富田信高自身も槍を振るって西軍に対峙しました。この乱戦の最中、単騎で夫のもとへ駆けつけて危機を救ったのが信高の妻(名前不詳:宇喜多忠家の娘)でした。後世「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」と謳われた逸話として伝わっています。
西軍の大軍に囲まれ、城門を開けて決死の突撃を敢行した信高でしたが、敵に取り囲まれ、討ち取られる寸前の窮地に陥ります。その時、城内から緋縅(ひおどし)の鎧に身を包み、兜に半月をあしらった一人の容顔美麗な若武者が、片鎌槍を引っ提げて馬で敵陣へ突入してきました。その若武者は凄まじい勢いで次々と敵兵をなぎ倒し(敵の猛将を討ち取ったとも)、見事に夫の信高を救い出して共に城門へ引き揚げました。信高が「お前は何者だ?」と驚いて兜を脱がせると、なんと妻だったのです。このエピソードは、明治時代にも「夫を救う女武者」として錦絵にも描かれ、広く語り継がれました。
翌25日、高野山の木食応其の仲介で和議がなされ、開城されました。城下も白同様に焼け、戦後の再建は住民の疲弊で思うように進まなかったと伝えます。 -
本丸跡地
本丸跡のエリア全体に本丸御殿が建てられていました。御殿の中は、藩の政治や謁見などを執行する「表(おもて)」と日常の仕事を行う司令部「中奥(なかおく)」、天守台や埋門に最も近い安全エリアにあり高虎やその家族が暮らす生活空間「奥(おく)」に分かれていました。高虎は織田時代の古い城から本丸を東側へ大きく広げました。これは、自分自身の住まいであり、藩の最高司令部でもある本丸御殿をより広く、立派にゆったりと造るためでもありました。
現在は中央に噴水が設置され、近代的な洋風庭園として整備されています。中心部はコンクリートパネルを敷き詰めた市民憩いの場となっています。 -
本丸 高虎の遺訓石碑
高虎が生前に家臣や家族に残した教えは家訓は「高山公御遺訓」と言い、通称「遺訓二百ケ条」と呼ばれます。
戦場で数々の傷を負い手指が不自由だった高虎が、自身の激動の経験を基に家臣へ口述筆記させたものと伝え、「武士としての常の覚悟」「家来としての心掛け」「主君に対する奉公の心」「家老の心構え」の4章で構成されています。(全204ヶ条)
「可為士者常之覚悟之事/寝屋を出るより/其日を死番と可心得/かように覚
悟極るゆへに/物に動する事なし/是可為本意」
「朝、寝室を出る時から『今日は自分が死ぬ番(死ぬ日)だ』と心に決めておくこと。その覚悟が常に据わっていれば、突発的な事態が起きても心が動揺することはなく、物事を冷静に判断して最善の選択ができる」という意味です。
高虎の毎日の覚悟がよく言い表されています。 -
本丸 藤堂高虎像
本丸の南側では威風堂々とした高虎のブロンズ騎馬像が迎えてくれます。
市制施行100周年を迎えた1989(平成元)年4月1日に除幕されました。騎馬像の制作者は文化勲章受章者でもある彫刻家 中村晋也氏です。津青年会議所の創立35周年事業として発案され、市民や企業からの寄付を基に制作された経緯があり、まさに「市民からの津の恩人への感謝の気持ち」を具現化した像と言えます。
足軽の身分から伊勢国の一部と伊賀国一円の領主として32万4千石の大大名まで上り詰めた一方、築城の名手としても知られ、豊臣秀吉や徳川家康からも高い評価を受けました。家康からは「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と言われるほど絶大なる信頼を得ていたようです。家康の死後、秀忠、家光と3代に亘って使え、1630(寛永7)年に没しています。
高虎が築城に関わった城は、ここ津城をはじめ全国に20余りあるそうです。この像を前にすると、この津城の縄張りに込められた技術とその想いに改めて感じ入ります。 -
本丸 藤堂高虎像
騎馬の上で、トレードマークの「黒漆塗唐冠形兜(ウサ耳兜)」を付けて威風堂々と指令を出す雄々しき姿を切り取っています。「ウサ耳」にしか見えませんが、モチーフは古代中国の貴族や官僚が頭に被っていた冠です。左右に長く伸びる2本の板(後立)は中国の冠にある纓(えい」という飾りリボンを木(黒漆塗り)で表現しています。戦国時代末期、戦場で目立つために奇抜なデザインを競い合う「変わり兜」が大流行しました。
因みにこの兜は、主君の豊臣秀吉から拝領したものです。羽柴秀吉と名乗っていた頃に愛用していた兜だそうです。後に高虎は、自身の片腕として大活躍した重臣 藤堂玄蕃良重にこれまでの軍功を賞して授けています。その玄蕃は大坂夏の陣でこの兜を被って出陣し、激戦の末に討ち死にしています。しかし兜は敵に奪われることなく藤堂家に回収され、玄蕃家代々の家宝として受け継がれました。現在は伊賀上野城の天守閣で三重県指定文化財として展示されています。 -
本丸 藤堂高虎像
ウサ耳(纓)に描かれている「蔦の葉」は高虎の家紋で「藤堂蔦」と呼ばれています。
高虎のもうひとつの家紋(旗印)が「三つ餅(白丸を3つ縦に並べたデザイン)」です。この家紋には高虎が生涯忘れなかった若き日のエピソードが秘められています。
若き日の高虎は、仕える主君が次々と変わり、一時期は浪人の身となり無一文でした。三河国吉田宿に着いた頃には空腹で倒れそうでした。そこで高虎は餅屋「吉田屋」の店先の餅を夢中で何個も平らげました。我に返った高虎は「出世したら必ずお返しします」と平伏して謝罪しました。店主は高虎の誠実な態度を見てこう言いました。「これだけ食えるなら、あんたは将来大物になる。代金は出世払いでいい。これを持って行って立派な武士になりなさい」と旅賃まで持たせました。その後、高虎は豊臣秀長や徳川家康にその才能を見出され、大大名にのし上がりました。高虎は大名になってからもあの時の恩を決して忘れませんでした。参勤交代で再び吉田宿を訪れた際には、餅屋の親父に餅の代金として莫大な黄金を渡し、ふたりで互いの無事を喜び合いました。
高虎はこの時の感謝の気持ちと「初心を忘れない」という決意を込め、「3つの餅」を藤堂家の正式な旗印(家紋)に制定しました。この紋は、藤堂軍のシンボルマークとなり、敵味方から恐れられ、また尊敬される旗印となりました。7度も主君を変えたため「裏切り者」と誤解されがちな高虎ですが、このエピソードからは「恩は絶対に忘れない」という義理堅く人情味溢れる素顔が透けて見えます。 -
本丸 藤堂高虎像
高虎は、往時の日本人としては異例中の異例である身長約190cm、体重約110kgという大巨漢であったと伝えられています。この像自体は実物よりも大きく造られていますが、馬に比較して高虎の体を異様に大きくしているのは、高虎の並外れた体格の良さを意識して制作されているためです。
それでは高虎の経歴をダイジェストで振り返ってみましょう。
1556(弘治2)年に近江国犬上郡藤堂村(現 滋賀県甲良町)に生まれ、15才の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦。
1576(天正4)年に21才で長浜城主 木下秀長(豊臣秀長)に300石で召し抱えられ、1585(天正13)年には紀州粉川(和歌山県粉河町)で初めての1万石の大名となりました。
その後、豊臣秀吉の下で伊予宇和島7万石となり、2度の朝鮮出兵にも参加しました。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ケ原の戦いでは東軍に与して勝利を収め、伊予今治20万石の大名となりました。
そして1608(慶長13)年、いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に22万4千石で移され、大坂の陣の後に加増され32万3千石の大大名となりました。徳川家康は高虎を篤く信頼し、外様でありながら譜代同様に扱い、亡くなる時に枕元に侍ることを許すほどでした。
1630(寛永7)年、江戸の藩邸で没しました。享年75。 -
本丸 藤堂高虎像
この高虎の騎馬像に違和感を覚えられた方もおられるのではないでしょうか?
恐らく、今治城に行かれたことがあるのでは?
実は、もうひとつの高虎ゆかりの地である愛媛県の今治城にも騎馬像が存在します。しかし、このふたつの像の雰囲気は驚くほど正反対に造られています。
今治城の高虎像は烏帽子に平服(着物)姿で馬に跨り、ゆったりと築城の現場を見回る姿をしています。一方、この高虎像は豊臣秀吉から拝領したと伝わる、黒漆塗唐冠形兜を被り、厳めしい甲冑を身に纏っています。これは、大坂の豊臣方へ睨みを利かせる要衝として津城を大改修し、最前線で戦う覚悟を決めた高虎を表現しているためとされます。 -
本丸北面 埋門(うずみもん)跡
小天守台横の城内側から見た埋門跡(石垣間に開けられた通路)です。藤堂高次時代の1639(寛永16)年に築かれたものであり、奥の幅100mほどある内堀に面した犬走り(石垣と堀の間の細い平地)へと繋がり、城内で火災や有事があった際、本丸からの緊急脱出口として機能する仕掛けです。藤堂氏が改修する前の織田信包や富田氏の時代には南側の堀の中にあった局丸と呼ばれる郭へ通じる門があったと推定されていますが、それを江戸時代により防衛・実用性を重視した隠し門へ改造したと考えられています。
現在は「お城児童公園」側へ通り抜けられる出入口となっています。 -
本丸北面 埋門跡
石垣の表面にはノミで「すだれ仕上げ」が施されています。
城郭建築における埋門とは石垣の中に埋め込まれるように造られた門を指します。普段は土砂などで塞がれており、緊急時に掘り起こして使う隠し門です。ここの埋門も往時は周囲の石垣や櫓と同化するように造られ、敵に悟られ難い構造になっていたことからその名が付いています。
埋門跡右側にある石垣は小天守台のものです。 -
本丸北面 埋門跡
かつては幅100mほどあったとされる内堀側から見た埋門です。
奇麗な切込接で門を囲んでいますが、南面の東側(右側)は野面積み、西側は打込接です。また、埋門の周囲や本丸東側の石垣裾部には高虎の城の特徴である幅4mほどの犬走りが巡らされており、非常時にはそこを通って東多門櫓や太鼓櫓下から場外へ脱出できる仕組みになっています。
津城の本丸の石垣裾部にはこうした犬走りが遺されている箇所が多々あります。これは今治城や丹波篠山城と同様に、平城を築く際の高虎の芸風です。犬走には石垣を補強する効果があり、その最大の理由は、この平坦地(犬走り)が地面を押さえ付け、石垣の足元(根元)に加わる水圧や土圧を分散させて崩落を防止する一種のバットレスに似た機能を果たすからです。特に津城は伊勢湾に近い低湿地に築かれており、地盤が極めて軟弱という悪条件でした。
因みに、城の中枢部を四角く高石垣でコンパクトにまとめ、全周に多門櫓を廻らせて虎口を2ヶ所に限定して枡形や馬出で固めるという基本的な縄張りも今治城や篠山城と同じです。
「築城名人」と言うと技巧の限りを凝らした超職人技を想像しがちですが、藤堂高虎は合理的かつ実践的な城造りができる敏腕プロデューサーでした。いわば現実主義者とも言え、層塔型櫓や直線的な算木積み、犬走りなどがその典型と言えます。例えば直線的な算木積みは、見上げるような絶壁(直線的な急勾配)です。これは、敵に「登るのは不可能」という絶望感を植え付け、戦意を喪失させる究極の防衛手段(兵法にある戦わずして勝つ)でもありました。加藤清正の石垣「武者返し」とは正反対の発想とも言えます。
豊臣秀長の下で才能を開花させ、徳川家康にも篤く信頼された高虎のキャラが透けて見える点がこの津城の魅力に他なりません。 -
本丸北面 南多門櫓台
埋門の東側(右側)の石垣には、高虎が本丸を拡張した際に積んだ石垣の継ぎ目(新旧石垣の境界線)が確認できます。これは、本丸を東側と北側に拡張し、更に高虎の代名詞である高石垣で囲む縄張りにするためでした。それにより北側の角部に丑寅三重櫓と戌亥三重櫓を建て、それらを多門櫓で繋ぐことで他の城郭で言う天守に匹敵する防御要塞に替えたのです。
西側(左側)は若干丸みを帯びた石材を自然に近い形で積んだ野面積みの面影があり、東側(高虎が足した石垣)は石材を平らに加工して隙間なく積む打込接や算木積みといった高虎流の高度な技術が使われており、石垣の形や積み方の違いが明瞭です。 -
本丸北面 南多門櫓台
中央部にある斜めのラインが入った隅角石の出っ張りから左側が織田信包時代の津城最古の野面積みです。
この隅角部は、元々信包時代の石垣の東端の隅角部だった場所に高虎が新しい石垣を継ぎ足して右側(東側)へ広げたため、古い隅角石がそのまま石垣の途中に飲み込まれる形で遺ってしまったという説があります。
また、長い直線の石垣は水圧や自重で外側に膨らみ易いため、敢えて途中に頑丈な隅角石を突起のように造成し、石垣全体の強度を高めるためのバットレス構造(補強壁・控え壁)として設計したとの見方もあります。 -
埋門~小天守台~大天守台南面
本丸南西隅には大天守台と小天守台があります。埋門の左側にふたつの隅角部が見られ、一番左が大天守台です。
初めは織田信長の弟 信包が安濃津城として5層の大・小天守を築城しましたが、高虎の時代には富田氏が移築した3層の大天守と2層の小天守が築かれていました。しかし、2代藩主 藤堂高次の時代に二の丸で発生した火災により天守が延焼。やがて再建されないまま明治維新を迎えました。かつて大天守と小天守が並んでいた証左がこのL字型という歪な形をした天守台です。 -
小天守台~大天守台南面
右側の小天守の南面の石垣には小さな築石の野面積みが見られます。
下半分は野面積みです。織田信包時代(1580年頃)の古い石垣がそのまま土台として遺っている部分です。
上半分は打込接・布積みです。1662年の大火で崩落した跡、江戸時代中期の技術で加工された四角い石を使い、横のライン(目地)を揃えて美しく積み直されています。上部の積み直された石垣は下の古い野面積みのラインよりも少し外側へ迫り出すように歪んで見える特徴があります。これが防衛上の「はねだし(武者返し)」の意図なのか、あるいは長い年月の荷重により石垣が外側へ膨らんでしまったものなのか、現在も城郭ファンの間で議論を呼ぶ興味深い形状をしています。
因みに大天守前の犬走りの幅は8mもあったそうです。 -
本丸 大天守台 北東隅角部
埋門を通って本丸へ戻り、天守台を見上げてみましょう。
高虎は天守台の改修後に5重の大天守を建てる計画でしたが実行に移していません。その理由は明確ではありませんが、一説には江戸幕府への配慮や武家諸法度による規制、実利を重んじる高虎の政治的判断などにより築城を断念したとも伝わります。その代わりに複数の3重櫓を築いて実質的な天守として機能させたようです。
大天守北東部の隅角部の算木積みや打込接は1662(寛文2)年の大火後に改装されたものであり、他の大天守台の隅角部に比べてシャープな印象があります。
因みにこの大天守台の広さは、南北16m、東西14mあるそうです。 -
本丸 大天守台 北面
大天守台の石垣の積み方は、上下や左右で積み方が違い、明らかに時代が異なります。その理由は1662(寛文2)年の大火にあります。 西面や南面の下部が野面積みなのは織田信包時代の古い石垣がそのまま遺されたからです。北面や東面の上部は打込接・布積みであり、大火の後、崩れた部分だけを往時の最先端技術で積み直して補修したため、新旧の石垣がモザイクのように合体した変則的なものになっています。 -
本丸 大天守台 北面
北面の石垣は説明に窮するような超変則的な形をしていますが、詳細な図面が存在しないためその経緯は不詳のようです。左下から右上へ石垣のラインが斜めに走っている箇所があり、これは大天守台やそこにあった穴蔵(地下倉庫)へアクセスするために造られた応急的な石段(雁木)の跡だそうです。
また、かつては大天守台と小天守台の繋目にある凹状の切れ目の部分には、埋門が構えられていたと推測されています。敵の目線であれば、石垣が凹んだ所から容易に侵入できると思ってしまいます。しかし門を突破しようとすると、頭上から狙い撃ちされるため、身動きが取れなくなるという恐ろしい迎撃空間になっていました。このように、津城の大天守台は単なる石の塊ではなく、地下倉庫(穴蔵)を擁し、その直ぐ横に秘密の出入口(埋門)を構えた、実戦のための巨大な要塞システムだったと言えます。
一見、石段上部の石垣が斜めに剥がされたようでもあり、後世の改変や崩落対策の痕跡かと思しき不思議な造りになっており、興味は尽きません。 -
本丸 大天守台 北面
一説には、往時は上部の石がオーバーハングしており、登ってくる敵兵がこれ以上は進めなくなる、いわゆる武者返し的な石垣構造だったとも考えられています。廃城後に安全優先でその出っ張りを引っ込めてしまったのかもしれません。確かに、凹部の辺りを中心に上部の石垣が少し外側へ迫り出しているようにも窺えます。
こうした構造で現存するものとしては人吉城の「はねだし石垣」が知られています。因みに欧州の城郭ではよく見られる仕掛けだそうです。
もしそうであれば、高虎流の合わせ技で「はねだし石垣の隙間に埋門を造った最強の要塞」と考える方がしっくりきます。 -
本丸 大天守台 北西隅角部
大天守台の西面石垣には、北面や東面とは180度異なる、古式蒼然とした武骨な特徴が見られます。ここには津城の最初の姿が色濃く遺されており、自然石をそのまま積み上げた野面積み及び不規則に並べた乱積みです。
また、北西隅角部は、まだ石の加工が甘く、算木積みの技術が完全に完成しきっていない初期段階の形をしています。
こうしたことから、織田信包が最初に望楼型五重大天守を建てた当時(1580年頃)の石垣が奇跡的に大火の崩壊を免れて遺ったものとされています。往時は五重大天守と五重小天守が聳えていました。 -
西の丸南面
左右で石垣の積み方が異なることがよく判ります。
左側が江戸時代の高虎流切込接・布積み、右側が明治時代以降に積まれた近代的な谷積み(落とし積み)です。右側の石垣の所にはかつては土橋が架けられており、本丸と西の丸は内堀で分離されていました。 -
本丸 西鉄門虎口
本丸から西の丸へ通じる西鉄門虎口は複数の門と櫓を組み合わせた堅牢な枡形虎口構造です。
ここには前後に2つの門が構えられていました。外門は西黒門と言い、西の丸から枡形へ入る最初の門です。形状は屋根付きの強固な高麗門形式だったそうです。内門は西鉄門と言い、枡形から本丸へ入る最終防衛線の門です。門の上部に多門櫓を載せた厳重な櫓門形式でした。門扉に鉄板が張られていたことが西鉄門の名前の由来です。 -
本丸 西鉄門虎口周辺
縄張図によると、虎口の左側には伊賀櫓という2重櫓が建っていたようですが、今はその櫓台の石垣ごとなくなっています。
西黒門を突破しようとする敵や枡形内に侵入してきた敵に対し、この伊賀櫓や周囲の石垣上に巡らされた西多門櫓から矢や鉄砲を容赦なく浴びせる横矢掛かりの縄張りが徹底されていました。 -
本丸 西鉄門虎口
ここの石垣には刻印が見られます。
こちらはギリシャ文字の「Φ(ファイ)」に似た記号です。
因みに津城の石垣の刻印は、誰の普請かを特定するのが極めて難しいそうです。その最大の理由は「津城は天下普請ではない」ことです。津城は高虎が大改修した城であり、藤堂家の身内だけで普請しており、他藩と区別するための家紋などを彫る必要がなかったからです。そのため、誰がどの石を担当したかという詳細な古文書は残っておらず、個人の特定には至っていません。
一般的な刻印の目的には次のような解釈があります。
1.盗難・紛失防止
2.工事区域の明確化
3.石を切り職人の仕事の証としてのサイン
4.石積みの順番や石の寸法・品質チェックのための目印
5.方位などを記したもの
6.神仏への祈りやお城が崩れないための魔除けとして刻まれた特殊な紋様(五芒星や特定の文字など) -
本丸 西鉄門虎口
西の丸側から見た西虎口です。
虎口を形成する石垣の隅角部には、高虎が得意とした算木積みが精緻に施されており、崩れにくく強固な直角を造り出しています。また、こうすることで、攻め込んできた敵に対する死角をなくせ、上部にあった櫓から狙い撃ちする機能性を持たせていました。 -
西の丸から本丸 戌亥三重櫓台を望む
本丸西面には内堀に面した石垣裾部に人が通れるほどの平坦なスペース「犬走り」が設けられています。 -
西の丸 日本庭園
現在の西の丸の一部は明治時代以降に市民の憩いの場として日本庭園になっています。
ここは池のようですがほとんど水がありません。 -
西の丸 日本庭園
凛とした曼殊沙華が一輪咲いてます。 -
西の丸 日本庭園
庭園の池の周囲や芝生、苔地を抜けて散策するための園路には自然石を用いた飛び石も配置されています。 -
西の丸 入徳門
天保年間の1820(文政3)年に10代藩主 藤堂高兌(たかさわ)が二の丸(外堀と内堀の間のエリア)に開設した藩校「有造館」の講堂の正門だった入徳門です。戦災を免れて1971(昭和46)年にこの地に移築し、津城唯一の遺構となっています。主柱の前後に2本ずつ計4本の控柱が屋根を支える四脚門です。
有造館は明治時代になって廃校になりましたが、その後の第一小学校や師範学校、津中学校校舎となりました。この入徳門は正門として使われ、朱塗りの門だったことから赤門学校とも呼ばれました。 -
西の丸 入徳門
軒丸瓦には藤堂家の家紋「藤堂蔦紋」が刻まれています。高虎は忠誠心と実力を徳川家康に認められ、松平家一門並みの扱いとして「藤紋」を賜りました。しかし、高虎は自分にはもったいないと辞退し、生涯に亘って「蔦紋」を使い続けました。このエピソードは高虎の義理堅さと謙虚な人柄を表すものです。 -
西の丸 入徳門
有造館は、藩財政が危機に瀕し、また藩士の気力の減退などを目の当たりした津藩主 高兌が、大藩でありながら藩校を持たなかった反省として、藩士の教育こそ根本であると考えて建てられた藩校でした。優れた学者を集め、貴重な書籍の刊行を進めるなど充実した教育環境が整っていたそうです。
こうしたことから全国300以上の藩の中で、津藩は文藩(教育・学問に優れた藩)と呼ばれるほどになりました。講堂や大成殿、演舞場、調馬場などがあり、藩士の礼節や算術、弓、馬、剣などの教育が行われていました。
因みに高兌は倹約家としても知られており、藩政改革の一環として藩士の知行や扶持米の一部を積み立て、藩内の事業資金などに充てました。有造館もそうした積立により営まれた学校です。 -
西の丸南面
こちら側は打込接と解説されていますが、手前の石垣は少し歪ませた乱積みに近いように思えます。
通常の打込接は、石の角や表面を軽く加工し、横の目地が比較的真っ直ぐ通るように水平に積み上げられています。 -
西の丸 玉櫓台
スタート地点まで戻ってまいりました。
この続きは、桐葉知秋 伊勢国 津④高山神社<エピローグ>でお届けいたします。
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