2026/09/20 - 2026/09/20
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montsaintmichelさん
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後編は、2026年春にリニューアルされた坐禅堂「玄いとばり」や歴史的史料が観られる展示室、聖徳太子の庭などをレポいたします。
メインディッシュは織田信長の生母である土田御前の墓と藤堂高虎の正室である久芳院の墓です。勿論、ここにも深い謎が秘められています。お墓の造立年代は20数年しか違わないのに、片や鎌倉時代から踏襲されてきた古色蒼然とした「五輪塔」、片や現在も使われている往時の最先端「位牌型墓石」であるのはミステリーです。
その他、前編で謎解きができていなかった次のミステリーについても深堀りいたします。
1.織田信長と確執を演じた生母 土田御前がこの地に埋葬されている謎。
2.藤堂高虎が四天王寺の復興に情熱を注ぎ、巨万の富を投じて大変身を遂げさせた謎。
3.聖徳太子が四天王寺建立の地として津(伊勢国)を選定した謎。
塔世山 四天王寺のHPです。
https://sitennoji.net/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 私鉄
-
坐禅堂(お茶室)「玄(くろ)いとばり」
南に向けた書院風の堂宇は本堂に隣接する坐禅堂です。
本堂の左隣にあった坐禅堂の傷みが進んだことから、2026年2月に内面を見つめるためのモノクローム空間「玄いとばり」にリニューアルされました。 -
坐禅堂「玄いとばり」
「玄い」とは、黒よりもより深く、万物が生み出される直前のカオスの闇の色です。一方、「とばり」とは、外の世界を閉じ、内なる静けさを開くための境を意味します。この唯一無二の漆黒の空間は映画『浅田家!』のモデルとしても知られる津市出身の高名な写真家 浅田政志氏が空間プロデュースを手掛けました。
その名の通り、堂内は畳や土壁、天井、柱に至るまで全てが黒一色で染め上げられています。敢えて光を限りなく遮断した漆黒の空間に身を委ねることで、外界の喧騒から離れ、視覚的情報が氾濫した現代から離れ、自らの内面の輪郭を徐々に浮かび上がらせるという濃密な時間が過ごせる演出になっています。それ故、極めて瞑想的な体験ができます。お庭の白砂と石、苔の緑が禅寺であることを黙して語ります。
当方もモノクロームの世界に浸り、アテンション・デトックスを堪能してまいりました。 -
坐禅堂「玄いとばり」
本堂との仕切りの壁には、お釈迦様が悟りを開いた仏教の源流であるインドの聖地 ブッダガヤに根を下ろした聖樹 菩提樹のモノクローム写真が貼られています。この写真は浅田氏が現地に赴いて撮影された渾身の写真です。「ブッタガヤまでは遠くて行けないが、その菩提樹の下で坐る感覚を体験できないだろうか?」との難題をクリアさせたのが写真の力でした。
四天王寺には「日本写真生誕の立役者」とも称された上野彦馬の師 堀江鍬次郎のお墓があります。浅田氏は、この写真界の大先輩へのオマージュとして、写真が暗室の中で結像するが如く、自分自身と向き合える空間を創作されました。 -
坐禅堂「玄いとばり」
堂内には漆黒の空間にコーディネートされた黒い達磨が鎮座し、参拝者を寡黙に迎え入れてくれます。この達磨のデザインは浅田氏が担われています。
また、ガラス戸や堂内の各所には、遊び心に溢れた演出として、空間のテーマである漆黒に因んだ黒い生き物たちが隠されています。 例えば、カブトムシなどを壁や柱、ガラス戸などのデザインと同化するように、サプライズとして潜ませています。精神を集中させる坐禅の合間に、感覚を研ぎ澄ませながら宝探しが愉しめる趣向です。
モノクロームが選ばれた理由は、「肩書や雑念(色)をすべてリセットし、生まれたばかりの真っ新な状態(はじまり)に戻って自分と向き合うため」だそうです。敢えて色を無くした漆黒の空間だからこそ、内なる心の僅かな光や可能性に気付けるという、逆説的ながら深い精神性が込められているように思います。 -
史料展示室
津藩の初代藩主 藤堂高虎とその正室 久芳院に焦点を当て、お寺と藤堂家の深い絆を伝える空間となっているのが特徴です。
また、歴史あるお寺の史料室や本堂でありながら、展示物や本堂内の仏像などの写真撮影やSNS投稿が歓迎されています。
津大空襲により、山門や鐘楼門を遺して堂宇のほとんどを焼失するという悲惨な歴史を刻んだお寺ですが、現在の史料室や本堂は戦火から守り抜かれた宝物と人々の手で復興を成し遂げた歴史そのものを体現する空間となっています。 -
史料室 黒漆塗唐冠形兜(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)
史料室の入口で受付を担当されているのは「藤堂高虎」です!?
この甲冑レプリカは、高虎が実際に着用したとされる甲冑を原寸大で再現したものです。細部の造りや威(おどし)の構造に至るまで、往時の実物を模して精巧に作られたものです。
最大の特徴である「ウサギの耳」のように長く伸びたパーツは大中黒の御幣(おおなかぐろのごへい」という脇立です。神道の神事で用いられる、串に紙を挟んだ御幣を象っています。この意匠の由来は、高虎が織田信長の甥 織田信雄(のぶかつ)から拝領したもの、あるいは関ヶ原の戦いの直前に徳川家康から贈られたものという伝承があります。
因みに縦に長く伸びたこのパーツは、戦場で「ここに高虎あり」と味方に勇気を与え、敵を威圧する絶大な効果があったそうです。素人目には、敵に高虎の居場所が簡単に知られてしまうため、逆効果のような気もするのですが…。 -
史料展示室 『絵画 絹本著色 聖徳太子像 掛け軸』(重文:レプリカ)
800年以上前の鎌倉時代に制作された聖徳太子16才の像です。
両手に金色の柄香炉を持ち、父 用明天皇の病気平癒を祈願する姿を描いています。付童子風のふっくらとした顔立ちや朱をさした唇が若々しい印象を与えますが、その中にもどこか強い意志表示が感じられます。渋みのある色調で描かれながらも、袈裟の文様の一部には金や赤を用い、画面を一層引き立たせています。 -
史料展示室 『藤堂高虎像 掛け軸』(重文:レプリカ)
脇に太刀を下げ、鋭い眼光と大きな口元が高虎の威風堂々たる様子を如実に再現しています。
高虎は1608年に津藩の初代藩主になり、関ヶ原の戦いで戦場となり焼けてしまった安濃津城や津の街の復興に尽力しました。四天王寺も焼失しましたが、高虎の正室の菩提寺として再興されました。妻を大切に想う高虎の愛情深い一面が窺える作品です。
作者は不詳となっていますが、高虎の父 虎高の肖像画が狩野派の筆と推測されていることから、狩野派など往時の一流絵師の筆によるものと考えられています。 -
史料展示室『藤堂高虎 正室像 掛け軸』(重文:レプリカ)
高虎の正室はその名を久芳院と言い、威風堂々とした高虎像が斜め右向きに座っているのに対し、正室像は逆に斜め左向きに座り、夫婦が向かい合う形で描かれています。また、優しく柔和な表情で髪を後ろに下げた姿をし、桃山時代に流行した葡萄や柳などの華やかな模様の打ち掛けを肩から羽織っています。
戦国の荒波を生き抜いた高虎が、津城で急逝した最愛の妻を如何に大切に想っていたか、その夫婦の絆が絵の優しさや華やかさから伝わってきます。 -
史料室 押出仏(レプリカ)
四天王寺の南西400m程の場所には鳥居古墳があります。
1963(昭和38)年、古墳の発掘調査が行われ、多数の押出仏と塼仏(せんぶつ)が出土しました。
因みに押出仏とは、銅製の型に薄い銅板を当て、つちやたがねで打って仏様の形を浮き出させ、それを金メッキで仕上げた仏像です。また塼仏とは、粘土を型に押し付けて仏様の形を浮き出させ、素焼きにした仏像です。
押出仏、塼仏共に日本では7~8世紀頃に流行し、鳥居古墳から出土したものもこの時期に制作されたと推定され、その時代にはこの地に仏教文化が栄えており、奈良の仏教文化と密接な関わりがあったことの証左と言えます。
出土した押出仏のひとつ「一光三尊像」は、「法隆寺献納押出仏」や「唐招提寺蔵如来立像」と形が一致しており、同じ原型から打ち出したものと判明しています。
鳥居古墳の出土品が直接四天王寺に関与するものかは定かではありませんが、聖徳太子が建立した法隆寺にあるものと同じ形の仏像が出土したことは、伊勢国 四天王寺と聖徳太子の密接な関係を裏付けるものです。 -
上層への階段
上層にもお部屋があるそうなので窓を段々に設えた階段を登ってみました。
因みに上層は一般には公開されておらず、お寺の非公開のバックヤード(収蔵庫・保管スペースや儀礼用スペース)のようです。 -
上層の縁側
階段を登った先にある縁床の意匠は、平板で細い丸竹を挟み込み、意図的に隙間を設けて下方を透かして見せる風雅なものです。 -
上層の縁側
視覚的に足を置くのが躊躇されるのですが、通常の縁床と強度は変わらないようです。 -
上層
階段の脇には坪庭もあります。 -
聖徳太子の庭
ここからは本堂を離れて境内散策に移ります。 -
聖徳太子の庭
戦国時代、伊勢国 四天王寺は織田信長による伊勢天正の乱など激しい戦火に巻き込まれ、広大な領地を失い、堂宇も焼失して見る影もない状態に陥りました。
その後、1608(慶長13)年に藤堂高虎が伊予国から伊勢・伊賀22万石の領主として津に転封されてきました。高虎は津の街を城下町として大規模に大改造し始めますが、その折に目を付けたのが荒廃して見るも無残な姿をした古刹 四天王寺でした。高虎は寺院の復興に情熱を注ぎ、巨万の富を投じて寺院を復興させました。
高虎が四天王寺を伊勢国を代表する大寺院として復興させるために行った事項は次の通りです。
1.藤堂家の祈願所への抜擢
四天王寺を藤堂家の家祈祷寺(一族の繁栄を祈る最重要寺院)に指定しました。
2.広大な領地の寄進
かつて失われていた領地として、新たに百石の朱印地を寄進し、財政基盤を完全に復活させました。
3.七堂伽藍の再建
本堂をはじめ、山門、鐘楼門など戦国時代に焼失した壮麗な建物を次々と再建。 -
聖徳太子の庭
朱色に塗られた欄干のある石橋を渡った先にあるお堂は不動堂。そこに鎮座しているのは不動明王です。
外様大名の藤堂高虎が、転封されてきた津の地にて、関係の薄い「聖徳太子ゆかりの古刹」をここまで熱心に再興したのは何故でしょうか?
実は、次に挙げるような高虎ならではの深い政治的、精神的戦略があったと思われます。
1.領民の心を掴むための統治策
新領主になった高虎にとり、古くから地元の人々に愛され崇拝されてきた四天王寺を復興させることは「私はこの地の歴史と伝統を大切にする良き領主である」という強力なアピールになる。
2.聖徳太子信仰への尊崇
高虎は優れた武将であると共に深い教養人でもありました。平和な世(江戸時代)を築くに当たり、日本の仏教や法制度の礎を築いた聖徳太子の御徳を称え、その精神にあやかろうとしました。
3.最愛の妻への想い
高虎の正室(一島、後の久芳院)は、高虎がまだ貧しく名もない不遇の時代から彼を支え続けた糟糠の妻でした。1616(元和2)年に彼女が津城で急逝したことから、高虎が四天王寺を菩提寺として再興し、お墓を建てて熱心に弔いました。 -
聖徳太子の庭
四天王寺は古来地域の人々に寄り添うお寺であり、ペットの納骨や永代供養を正式に受け付けているお寺でもあります。そのため、愛犬や愛猫の健康祈願や長寿、あるいは亡くなったペットの冥福を祈るための象徴として、動物の像やレリーフが安置・整備されています。 -
聖徳太子の庭 魚藍観音
仏教に登場する三十三観音の一尊であり、魚を入れた籠(竹籠)を持つ姿や大きな魚(大魚)の背に乗った姿で表される観音様です。古くから漁師や海辺の街、水辺の地域を中心に、大漁満足や海上安全、あるいは水難除けの守り本尊として信仰されてきました。
その由来は中国の故事にある『魚藍の教え』に因みます。魚を売る美しい乙女に姿を変えて現れ、人々を仏教に導いたという説話です。籠の中の魚のように、悩みや苦しみから抜け出せない人々を掬い上げて救済するという意味が込められています。 -
目洗い地蔵尊
不動堂の右手には岩の中央をくり抜いた箇所に小さなお地蔵さんが彫られています。古くから湧き出る泉で眼病平癒にご利益があるとされ、次のような伝承があります。
目の病で仕事ができず困っていた職人が、薬師如来(医薬の仏様)の信仰が篤かった四天王寺に助けを求めて参拝に来たところ、この湧き水の音に気付いて音の方へ向かうと、そこには岩陰からひっそりと湧き出す清らかな泉がありました。その水で目を洗うと痛みが消え、視力も戻ったという。職人は感謝の気持ちを込めて薬師如来に参拝し、その後は病も治って仕事に励めるようになったといいます。以来、目洗い地蔵と呼ばれるようになったといいます。 -
目洗い地蔵尊
岩の中央部分が意図的にくり抜かれ、その奥の洞を彷彿とさせる空間にお地蔵様が佇んでいます。この「岩の奥を覗き込む」という行為自体が、目を凝らして物事をよく見る(視力が回復する)ことの象徴のようにも感じられます。
元々薬師如来は「病気を治す仏様」であり、特に目や体、心の病を癒やすとされています。この薬師如来信仰が、境内にあるお地蔵様の眼病平癒のご利益とも深く結び付いたものと思われます。
お地蔵様へ水をかける際、「心に抱える病や暗闇が、清らかな水で洗い流されますように」と念じてお参りするとよいかもしれません。 -
五輪塔
樹立する多数の五輪塔は、主に津藩(藤堂家)の重臣や藩にゆかりのある有力者たちの供養塔とされています。
この背景にあるのが初代津藩主 藤堂高虎による四天王寺の再興です。四天王寺は安濃津城の戦いで焼失しましたが、高虎が正室 久芳院の菩提寺として厚く庇護し再興させました。藩主ゆかりの寺院となったため、津藩に仕えた重臣やその家族が境内に五輪塔を建てて葬られました。時を経て、津大空襲で壊滅した境内を復興し、散らばった五輪塔をこのように1ヶ所に整然と集約したようです。江戸時代を通じて津の街の歴史を築いた有力者たちの生きた足跡として今に遺されています。合掌 -
織田信長の生母 土田御前(どたごぜん)の墓
境内の西側にある少し小高い場所に、苔生した五輪塔が寡黙に佇みます。手前にある石柱には法名「花屋寿栄禅尼(かおくじゅえいぜんに)」と刻まれていますが、正式な法名は「報春院 花屋寿栄禅尼」です。土田御前が亡くなったのは安土桃山時代の1594(文禄3)年1月7日、80歳前後とされ往時ではかなりの長寿だったようです。
織田信秀の継室となり、信長・信行・秀孝・信包・お市・お犬を産み、戦国時代の荒波に翻弄され続けた彼女が最後に辿り着いた安住の地がこの温暖な津の地でした。最晩年は安濃津城の織田信包に引き取られ、穏やかで風流な暮らしぶりだったとされ、生前から「花屋夫人(はなやふじん)」と呼ばれ親しまれていたようです。「花屋」は生母としての徳の高さを象徴するために法名に採用されたと考えられており、「寿栄」は長寿を全うした生涯を讃えています。
「報春院」は「春を報(しら)せる」との意味を持ちます。過酷な戦国時代を生き抜き、最晩年に漸く平和で穏やかな「春」のような時間を迎えられたこと、そして一族に大いなる繁栄(春)をもたらした偉大な生母への感謝と供養の念を込めたものと読み解けます。戦国乱世に翻弄されながらも、最期は「花」や「春」、「寿」という穏やかな文字に抱かれて永久の眠りに就いたと思うと、何だかホットした気持ちになれます。
奥に見える土田御前の五輪塔と向かい合う位置には、このように彼女を長年に亘って警護していた武士たちの五輪塔も建てられており、主君への忠誠を尽くした臣下たちに見守られながら安らかに眠られています。 -
土田御前の墓
実は土田御前は、嫡男 織田信長を可愛がらず、次男 信勝(信行)を溺愛して跡継ぎに推そうとしたと伝わる人物です。その偏った愛情が信長の人格形成に暗い影を落としたともされます。しかし近年の歴史研究によると、土田御前と信長が不仲だったとされる話は後世の軍記物やドラマなどの創作や誇張である可能性が高いそうです。「信長が嫌われた、冷遇された」とされる背景や理由には次に挙げる伝承や事情が影響しているように思います。
1.乳母による養育は往時の慣例
「信長を母乳で育てられなかったから距離があった」などと言われますが、往時の武家の嫡男は乳母が育てるのが慣例であり、愛情不足の根拠にはなりません。
2.弟 信勝(信行)への溺愛
信長の奇抜な行動(大うつけ)に比べ、信勝は温厚な性格で品行方正。家臣からも慕われ、将来の跡継ぎは信勝が良いと多くの者が考えていたとの俗説。
3.信長の「大うつけ」ぶりへの失望
若い頃の信長が礼儀を無視した行動を繰り返したため、生母として呆れ、疎ましく思ったという解釈。実際には「大うつけ」は他の武将を欺くための戦略的プロモーションでした。
4.家督相続と陣営の分裂
信秀の死後、織田家内で家督争いが起き、土田御前が信勝を支援し加担したとされる説。これについても真偽は不明です。
5.信勝殺害後の関係
信長が弟 信勝を処断した後も土田御前は出家することなく信長の陣営に留まっており、決定的な絶縁関係にあったとは読み解けないと考えられています。 -
土田御前の墓
土田御前の出自は美濃国 土田家とされます。因みに土田家は、平安時代後期の武将 木曾義仲の有力家臣であり、義仲四天王と称された根井行親(ねのいゆきちか)の末裔です。しかし彼女の出自に関しては諸説あり、尾張 清州の土田とも、六角高頼の娘、あるいは小嶋信房の娘とも書かれています。
信秀と結ばれ、信長や信勝(信行)、信包、お市の方など複数の子宝に恵まれました。因みに信秀の最初の正室は織田達勝(みちかつ)の娘でしたが、離縁したため土田御前が継室(後妻でも正室と同じ立場)となりました。 -
土田御前の墓
1556(弘治2)年、稲生の戦いが信長と信勝の間で勃発しました。土田御前が信長を倒すために信勝に家督争いをけしかけたとされますが、家臣の謀略に利用されたと捉えるのがよさそうです。
つまり、信長が跡を継いだ後、信勝は信秀の居城 末森城にて土田御前と共に暮らしていましたが、家臣 林秀貞や柴田勝家は信勝に織田家の家督を継がせたいとして信長を討ち倒す策略を練ったのです。
信長軍は佐久間重盛や森可成、佐久間信盛、前田利家、丹羽長秀など700人足らず。一方、信勝軍は1700人。圧倒的に信長が不利でしたが、信長率いる軍団は圧倒的な兵数差にも怯むことなく奮闘。最終的には、信勝は敗走し、末森城に籠城しました。 -
土田御前の墓
中央が土田御前の五輪塔、その両脇にあるやや小ぶりの五輪塔は、土田御前に最期まで仕えていたお付きの侍女(腰元)たちの墓碑と伝えられています。
土田御前は信長に信勝を許してくれるよう頼みました。生母に裏切られた気持ちの信長でしたが、信長も土田御前の息子であり信勝の兄という立場から、この時は許しました。しかし、信勝は再び謀反を企てました。ところが家臣 柴田勝家は信勝を見限り、信長へ密告。信長は、仮病を装って清洲城に信勝を見舞いに来させ、そこで誅殺しました。その一方、土田御前を庇護するかの如く安土城城下の屋敷で一緒に過ごしました。土田御前は織田信長やその子ども達である長男 織田信忠、次男 信雄、三男 信孝、お市の方の子どもである茶々、初、江などと仲良く暮らしました。
時を経て本能寺の変の際、蒲生賢秀らに安土城から救出された土田御前は、織田家の家督を継いだ孫 信雄の元に身を寄せました。その後、1590(天正18)年に信雄が豊臣秀吉の命令を拒否したことで改易されると、信長の弟 信包を頼って安濃津城(後の津城)に身を寄せ、1594(文禄3)年1月7日に死去。母親を深く愛していた信包は、地元の名刹でありながら戦火で荒れ果てていた四天王寺を復興させるため、母の遺体を境内の一角に手厚く埋葬し、さらに2百石もの広大な寺領を寄進しました。信包は母の供養と共に、信長をはじめとする織田一族の冥福を四天王寺に祈ったと伝えます。 -
藤堂高虎の正室 久芳院の墓
1616(元和2)年に安濃津城で亡くなり、この地に葬られました。法名「久芳院殿桂月貞昌大姉(きゅうほういんでん けいげつていしょうだいし)」から通称で久芳院と呼ばれます。
生前、彼女は「久芳(くほう)」や「お久」と呼ばれ、法名における「九芳」は一説には仏教で最高の数・吉数とされる「九」の文字を当て、彼女の徳の高さや藤堂家にもたらした多くの芳しい功績や誉れを讃えたものとされます。
「桂月」は桂の木がある美しい満月を意味します。月は仏教において清浄な心や人々を優しく照らす慈悲を象徴しており、戦国乱世に藤堂家を陰で支え続けた優しく気高い人柄を表しています。
「貞(みさお)」は操が固く、高虎に対して生涯貞節を守り抜いたことを意味します。
「昌(さかえる)」は 藤堂家が後に外様大名として屈指の大藩(津藩32万石)へと大出世し、家名が広く栄えたことを象徴しています。
戦国時代には珍しいほどの「おしどり夫婦」として知られた2人の歴史が、この法名やお墓に今も息づいています。 -
久芳院の墓
久芳院は足利氏の末裔でありながら没落した名門「一色氏」の生まれと伝わります。農家に身を寄せていたところ、まだ若く貧しかった頃の高虎に見初められて嫁ぎました。苦しい時代を共に生き抜いたことから、高虎の彼女への感謝は人一倍強いものでした。高虎は愛妻家としても知られ、四天王寺には2人の肖像画や菩提供養の想いの込められた文書が残されています。
高虎は7度も主人を変えたことや築城の名人として知られた戦国武将です。関ヶ原の戦いと大坂の陣では東軍に与したことで初代津藩主となり、戦火で荒れた安濃津城や城下の復興、荒廃していた四天王寺を再興し久芳院の菩提寺とし、津城内にあった久芳院の書院を移築しました。 -
久芳院の墓
久芳院は、子宝に恵まれなかったため、高虎に側室を迎えるように説得したと伝えます。しかし高虎は側室を迎えようとせず、丹羽長秀の3男 藤堂高吉を養子に迎えて家督を継がせようとします。
後に説得に応じた高虎は、松寿院を側室に迎えて嫡子 藤堂高次を得ますが、久芳院への心配りは一切変わることはなかったそうです。 -
久芳院の墓と土田御前の墓
この画像は、久芳院の墓(手前)と土田御前の墓(奥)の相違点を示しています。
こうして見ると久芳院の墓の方が若干高い位置に祀られていることが判ります。
四天王寺を再興してくれた高虎の正室のお墓ですから、それくらいの忖度は許されてしかるべきかもしれません。
一方、久芳院のお墓が「位牌型」であるのに対し、土田御前のお墓が「五輪塔」である理由は、2人が亡くなった17世紀初頭が丁度墓石形式の転換期に当たり、それぞれの立場や供養の仕方に違いがあったからと考えられています。
土田御前が没したのは1594(文禄3)年です。鎌倉時代~安土桃山時代にかけ、貴族や最高格式の武将、その一族のお墓(供養塔)は五輪塔が最高ランクの形式でした。一方、久芳院が没したのは1616(元和2)年です。この時代は、墓石文化が一変する過渡期でした。それまでの五輪塔や宝篋印塔から、位牌型墓石へと流行が遷移し、大名家でも採用し始めた時期です。従って、このお墓は江戸時代初期の新しい墓石文化を先駆けて反映したものなのです。
最大のポイントは、土田御前は元々は境内の別の場所に葬られていたことです。安濃津城の戦いで荒廃したため、津城主 藤堂高虎が織田家への敬意と菩提を弔うため、この地に五輪塔で仕立て直したという側面があることです。 -
水子地蔵菩薩尊
墓所の最上段にお祀りされています。
仏教において、一番高い場所は、天に近い清らかな場所、あるいは仏の世界に最も近い神聖な場所とされます。幼くして旅立った子どもたちの魂が、迷うことなく地蔵菩薩尊の光に包まれて空へと還って行けるように、また、お墓全体を一番上から優しく見守ってもらうために、墓所の中でひと際見晴らしの良い最上段の特別な区画に安置されるのが一般的だそうです。 -
水子地蔵菩薩尊
四天王寺は、近年誕生した「令和の大観音」の台座に身近な動物の姿を彫り込んでいることやペット供養にも注力されていることからも判る通り、「この世の全ての命を平等に救い、手厚く供養する」というポリシーを持たれています。
この地蔵菩薩尊もまた、小さな命の冥福を祈る場所であると共に、悲しみを抱える両親や家族が何時でも訪れ、静かにお線香をあげて我が子を想うことができる、お寺の温かい慈悲の心が詰まった空間と言えます。 -
江戸時代の儒学者 斎藤拙堂(せつどう)の墓
斎藤拙堂は江戸時代後期の儒学者です。
1797(寛政9)年に江戸柳原の津藩邸で生まれ、江戸幕府直轄の学校 昌平坂学問所で学び、津藩校「有造館」の督学や津藩主 藤堂高猷(たかゆき)の教育係を務めました。欧米に対抗するには西洋の学問の習得が不可欠と考え、洋学や種痘の採用と普及に努め、津藩の優秀な人材に洋学を学ばせるため自身の書を売って費用を捻出し、長崎に留学させたと伝えます。つまり、津藩の発展に生涯を捧げた人物です。また種痘(天然痘の予防接種)に対する人々の不安を解消するため、最初に自身の孫娘に投与して、種痘の安全性を示したとも伝えます。 -
斎藤拙堂の墓
1859(安政6)年に有造館を退官後、鳥居町(四天王寺の近隣)に山荘「棲碧山房(せいへきさんぼう)」を構え、文人たちと交流して晩年を穏やかに過ごしました。吉田松陰や吉田東洋、横井小楠といった幕末の志士・学者たちが続々と拙堂を慕って訪れ、時局を語り合ったそうです。1865(慶応元)年7月14日、享年69歳で山荘の居室にて病死し、馴染み深い四天王寺に埋葬されました。
因みに「栖碧」という言葉は、山荘のあった茶磨山が安濃川(塔世川)に面しており、緑豊かな美しい自然に囲まれていたことから、青々とした美しい緑(碧)の中に佇む住処(栖)という意味が込められています。 -
斎藤拙堂の墓
四天王寺の境外で隣り合うように並ぶ斎藤拙堂と堀江鍬次郎は、幕末の津藩における「偉大な師(学校長)」と「優秀な教え子(門下生)」という師弟関係にありました。鍬次郎が日本の写真史に名を残す大偉業を成し遂げられた背景には師である拙堂の強力なバックアップがありました。
拙堂は、津藩の藩校「有造館」の第3代督学・学長を務め、往時は全国に名を馳せた大学者でした。江戸藩邸に生まれた堀江鍬次郎は、この有造館で拙堂から薫陶を授かりました。拙堂は鍬次郎の優秀さや柔軟な才能を早くから高く評価していたそうです。
1857(安政4)年、江戸幕府が長崎海軍伝習所を開設した際、津藩からも優秀な留学生を派遣することになり、「これからの時代は西洋の科学や軍事技術が必要だ」と見抜き、鍬次郎を熱烈に推挙したのが拙堂でした。
拙堂は漢学者でありながら、世界地理の書物を収集し、藩に洋式軍制や種痘を導入するなど、新しいものに理解を示す思想の持ち主でした。師である拙堂のこうした「日本のために外の世界(科学技術)を知る」という教えがあったからこそ、鍬次郎も長崎で未知の写真術(舎密学という最先端テクノロジーに果敢に挑戦し、後に津藩へ戻ってから有造館の教頭として次世代へそれを繋ぐことができたのです。 -
写真家の祖 堀江鍬次郎の墓
堀江鍬次郎は日本の写真術の先駆者のひとりです。お墓の正面には、戒名ではなく彼の本質を示す字(あざな)として、大きく「堀江公粛墓(こうしゅくぼ)」と刻まれています。この文字は、上野彦馬らと共に日本の黎明期のテクノロジーを支えた、津藩が誇る天才科学者への敬意を込めた特別な銘文と言えます。
1831(天保2)年、江戸染井の津藩邸で生まれました。斎藤拙堂の尽力で長崎に留学した津藩士のひとりで、西洋の化学を学び、学友の上野彦馬と共に写真術の研究を始めました。往時は写真に使う薬剤を自作せねばならず、牛の血や骨から抽出した青酸カリやアンモニアを使ったというエピソードがあります。 -
堀江鍬次郎の墓
1861(文久元)年、津藩主 藤堂高猷の援助により150両もする写真機材一式をフランスから取り寄せ、江戸津藩邸で高猷の撮影を行いました。津藩校「有造館」の蘭学教頭を務め、坂本龍馬の写真で有名な天才写真師 上野彦馬と共に日本初の化学解説書『舎密局必携』を著すなど化学や写真術の普及に尽力しましたが、1866(慶応2)年に35歳の若さで病没しました。
遺言により鍬次郎の亡骸は恩師 斎藤拙堂の墓地の一角に葬られました。死してなお、師弟の絆が墓所に残されているのは歴史ロマンの醍醐味です。 -
堀江鍬次郎の墓
墓碑の側面や裏面には、日本の写真史・科学史において彼が残した輝かしい功績や彼が歩んだ激動の足跡が、漢文による墓碑銘(伝記)として隙間なく刻まれています。
津藩から選ばれた12名のひとりとして長崎へ留学し、そこで騎兵砲隊築城諸頂(西洋の砲術や築城術)を熱心に学んだという経歴。
オランダ人医師ポンペらから、往時最先端の化学の旧称である舎密(せいみ)を熱心に学んだこと。
学友の上野彦馬らと共に化学の知識を応用して過酷な薬品製造に挑み、日本における写真術の開祖(先駆者)となった功績。
津に戻った後、藩校「有造館」の蘭学師教頭などの要職を務めたこと。
将来を嘱望されながらも慶応2年に36歳という若さで病没したことや、その命日などが刻んであります。 -
聖徳太子の庭 一字一石法華経塔
その名の通り法華経(大乗妙典)の経文を、小石に一文字ずつ墨書して地中に埋め、その上に建てられた供養塔です。 -
琥珀観音堂
鐘楼門の手前にある小さな堂宇は琥珀観音堂です。
堂内には琥珀焼きで作られた観音様が安置されています。 -
琥珀観音堂
琥珀焼とは、岐阜県土岐市を拠点に国内外で活躍する気鋭の陶芸家 青木良太氏が開発した、本物の琥珀を釉薬の原料として用いた画期的な焼き物です。
因みに2026年2月22日に開眼した「令和の大観音(聖観音菩薩)」の玉眼に幻の琥珀を宿した琥珀焼が使われています。そのため、玉願が夕暮れ時に美しく琥珀色に染まることから、令和の観音様を「琥珀観音」とも呼ぶそうです。 -
宝篋印塔(重県指定文化財)
宝篋印塔は五輪塔と並び中世~近世にかけて盛んに作られた代表的な供養塔の一種です。
しかし、こちらは個人の墓碑ではなく、鎌倉時代末期もしくは南北朝時代に建立されたと伝わる貴重な石造美術品です。 土台に彫られた金石文には「文保二年(1318年)」と紀年銘が刻まれています。また、宝篋印塔は「関西形式」と「関東形式」で特徴が違いますが、この塔は典型的な初期の関西形式の美しさを満たすものだそうです。700年以上もの風雪に耐え、ほぼ完全な形で現代に遺されている点が極めて価値が高いそうです。
往時の熱心な仏教徒たちが集まり、社会の安寧や亡くなった人々の冥福を祈って建てられた塔と考えられています。元々は別の場所に据えられたものですが、大正時代に電車道が整備された際やその後の戦災復興などを経て、参拝者が一番よく目にする現在の鐘楼門の手前へ移設されたそうです。 -
鐘楼門(市指定有形文化財)
1715(正徳5)年に再建が竣工した鐘楼門です。
上層を本瓦葺、入母屋造にした格式の高い四脚門であり、左側に設けられた階段から階上鐘楼(上層)へ上がることができる複合的な建築物です。 -
鐘楼門
簡素を極めた山門に比べ、梁や柱を支える組み物などの木組みが複雑になり、細部の装飾に工夫が凝らされて華やかな印象です。これは徳川綱吉などの時代を経て、世の中が安定し、町人文化が花開いた後に建てられたからです。約60年前に建立された山門の質実剛健なイメージとは真逆であり、時代の変遷を如実に感じ取ることができます。 -
鐘楼門
旧伊勢街道に面して聳え立つ楼門の上層に梵鐘を吊るす構造は、外部から見ても風格が漂い、寺院のシンボル的な景観を紡ぎ出しています。 -
梵鐘(市文化財指定)
鐘楼門の上層に吊るされた梵鐘は、1680(延宝8)年に津の著名鋳物師 辻越後守陳種(つじえちごのかみのぶたね)によって鋳造されたことが梵鐘に刻まれた銘文に記されています。 -
梵鐘
初代の鐘は鐘楼門の竣工から少し遅れた1723(享保8)年に鋳造されました。
太平洋戦争時には、歴史的価値が認められ、厳しい金属供出を免れました。しかし、1945(昭和20)年の津大空襲の猛火により、梵鐘が融け落ちてしまったそうです。現在の梵鐘は1955(昭和30)年に初代の形状や銘文を忠実に再現して再鋳されたものです。 -
梵鐘
津大空襲の際、「鐘楼門は焼け残ったのに、吊るされていた梵鐘は融け落ちてしまった」という記述は矛盾しているように思えますが、実は爆撃の凄まじさを物語る史実です。これには、木造建築と青銅の性質、そして熱の伝わり方により、以下の理由が挙げられます。
1.青銅が融ける温度に達した猛火
津大空襲の爆撃では周囲を焼き尽くす焼夷弾が投下されました。これにより、山門と中雀門、鐘楼門を除いた他の堂宇は数千度ともなった熱風と炎で焼失しました。
梵鐘の材料は青銅であり、その融点は約900~1000℃ですが、激しい空襲の火災では、建物が完全に燃え尽きなくても、中に籠った熱が金属を融かす温度に容易に達します。
2.鐘楼門自体の全焼は免れた
山門や鐘楼門、中雀門は、直撃弾を免れたり、風向きや必死の消火活動などにより、全焼する事態は免れました。
しかし、周囲の本堂や薬師堂などの大伽藍が激しく炎上したため、その強烈な輻射熱や熱風が鐘楼門の上層部分に容赦なく吹き込みました。
3.お堂の構造がオーブンのようになった
鐘楼門の上層は、四方が壁ではなく柱や高欄で囲まれ、風の通る構造をしています。そのため、周囲の火災による猛烈な熱風が上層に直接吹き込み、熱が籠り続けました。これにより、上層内部は「超高温のオーブン(炉)」のようになり、その温度に耐えきれず、歪み、融け落ちてしまったのです。
木材は表面が炭化するとそれ以上燃え進み難くなる性質があり、骨組みとしての門は奇跡的に耐え残りましたが、梵鐘やそれを支えていた部分は輻射熱を受けてしまったということです。 -
石仏群
境内の外に石仏が集められた場所があります。
これは四天王寺の旧境内墓地(戦災無縁墓・石仏群)、あるいは近年整備された永代供養墓霊園に合祀された古い石仏を集めた場所だそうです。
中央の大きな石仏は子供を抱いています。こうした石仏は、主に子育て地蔵(子抱き地蔵)や慈母観音と呼ばれ、子どもの健康と成長ならびに守護や子授け・安産祈願、水子供養といった信仰を持っています。
四天王寺は、古くから女性の生涯・救済を大切なテーマのひとつに掲げているお寺ですので納得です。 -
平影清鎧掛松の碑
「史跡 地蔵堂跡 平景清鎧掛松」と刻んであり、津の英雄伝説を今に伝える貴重な史跡碑です。源平合戦の伝説的な武将 悪七兵衛景清(あくしちびょうえ:平景清)は、平家滅亡後も源頼朝の命を狙い続けたとされる伝説的な武将でした。この石碑には津の街と平景清を結ぶ次のような歴史ロマン溢れる背景があります。
伝説によると、平家滅亡後の動乱の中、景清が安濃津に身を隠したと伝えます。その際、この付近にあった立派な松の木に鎧を脱いで掛け、休息をとったと伝えられています。それ故、その松は古くから地域の人々に「鎧掛けの松」として親しまれ大切に守られてきましたが、津大空襲で灰燼に化したようです。
平家に仕えて戦って都落ちに従ったため、俗に平姓で平景清とも呼ばれますが、藤原秀郷の子孫 伊勢藤原氏(伊藤氏)であり、伊藤景清とも称されます。「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛でした。 -
松尾芭蕉の文塚
1737(元文2)年、津を代表する俳人 二日坊((ふつかぼう)宗雨:菊地宗雨)によって建立された文塚です。二日坊宗雨は、実家が医者でありながら家業を継がず、俳諧一筋の生涯を送った人物です。
この文塚は全国にある芭蕉文塚の中で18番目の古さとされます。因みに文塚とは、詩文などの草稿を埋めて供養や記念として建てた塚のことです。芭蕉文塚は句碑に先行するものであり、全国的にも希少とされます。
芭蕉の故郷 伊賀国に隣接する津市一帯は、芭蕉の門人や彼を慕う俳人が殊更多い多い地域でした。この文塚は、芭蕉没の約40年後に建てられたもので、伊勢の地で如何に早くから、深く芭蕉が神聖視され、愛され続けていたかを証左する歴史的物証となっています。
因みに、左後方にあるのが「二日坊杖塚」です。江戸時代中期に津の城下町で活躍した高名な俳人 二日坊宗雨が愛用していた旅の杖を納めて供養した塚です。
名の由来に関するエピソードを紹介しておきます。菊池宗雨は、若い頃に出家しようとお寺に入りました。しかし、直ぐに故郷の津が恋しくなり、僅か2日で寺を逃げ出して帰ってきてしまいました。これに呆れた周囲から「世間には『3日坊主』という言葉があるが、お前は2日坊主だな!」とはやし立てられたそうです。
彼はこれを「こりゃあ面白い」と気に入り、自ら進んで「二日坊」と名乗って俳人として活動し、やがて多くの弟子を抱える有名人になりました。 -
松尾芭蕉の文塚
石碑の背面には、芭蕉が何処で生まれ、どのような生涯を送り、どのように俳諧の道を極めていったかという略歴やこの文塚が建てられた由来が刻まれています。 -
濵翁秀荻居士の石碑(左端)
江戸時代に津の街で活躍した俳人 浜田荻右衛門の供養墓です。二日坊宗雨をはじめとする津の俳人たちとも深い交流があり、この石碑には津の文化の黄金期を物語るユニークな伝承が残されています。
荻右衛門の没後、供養墓が彼を熱狂的に慕っていた門弟 伊勢戸兵蔵により建てられました。たったひとりの文化人を慕い、後世にその名を残すために巨大な石碑を建てる文化が江戸時代の津に根付いていたことを示す、貴重な史料です。
桜木春山の顕彰碑(中央)
桜木春山は、幕末~明治時代初期にかけて津の街で活躍した高名な漢詩人でした。芭蕉文塚や濱翁秀荻居士の墓のすぐ隣に並んでいるのは、彼が往時の津の文人・文学サークルの中心人物であったからです。江戸時代の津は、藩校「有造館」を中心に学問が盛んで、文人たちが集まっては詩を詠み、俳句を競い合う豊かな文化が根付いていました。
春山の没後、その偉大な功績や津の街に遺した知的財産を称えるため、門下生や地元の知識人たちにより顕彰碑が建てられました。
舞踊師匠 初代 篠塚力寿(りきじゅ)碑(右から2つ目)
この石碑は、江戸時代から近代にかけて上方や伊勢、津などで広く親しまれた、日本舞踊(京舞)の伝統的な流派 篠塚流の津における歴史と街の芸事の隆盛を今に伝える記念碑です。
篠塚流とは、江戸時代後期の文化・文政期(1804~30年)に上方歌舞伎の振付師 篠塚文三郎により京都で創始された、京舞で最古の歴史を持つ名門流派です。能や狂言、更には幸若舞などの古式ゆかしい技法を取り入れ、品格ある美しい踊りが特徴です。
石碑に名を残す初代 篠塚力寿は、江戸時代後期~明治・大正時代ににかけて、津で多くの門下生を抱え、絶大な人気を誇った「街の舞踊のお師匠さん」でした。
これらの石碑群は「津の文化の黄金期を伝える記念碑」として、この境外の並びに大切に集められています。 -
最大のミステリーが「何故、聖徳太子は四天王寺建立の地のひとつとして『津』を選択したのか?」です。
伊勢国 四天王寺の創建に関し『津市史』などの研究によると、飛鳥時代に聖徳太子が建立したのではなく、後に国家が地方に建てた国分寺のような存在であり、後に四天王寺に改称したとの説(聖武天皇の国分寺説)や平安時代初期の弘仁年間(810~824年)以前に建てられた説など諸説紛々です。
しかし境内からは7世紀初頭(奈良時代~飛鳥時代後期)の古瓦が発見されており、いずれにせよ往時の朝廷が「この重要な地(津)に寺を置くべき」と判断したことは間違いありません。
歴史学者や『津市史』が殊更「弘仁年間以前の建立説」を取り上げるのは、百歩譲って聖徳太子が580~590年代に建立したというのは伝説だとしても、「少なくとも奈良時代~平安時代初頭には伊勢国の有力な大寺院として存在していたことは事実」と言えるからです。
英国の歴史学者E・H・カーがその著書『歴史とは何か』の中で残した、歴史学において最も有名な定義「歴史とは、過去と現在との尽きることのない対話である(History is an unending dialogue between the past and the present.)」が思い起こされるシチュエーションです。 -
ここからは伊勢国 四天王寺が聖徳太子によって建立されたと仮定しての話です。何故、建立の地として「津」が選ばれたのかは、やはり謎です。
仏教戦争で蘇我氏に与した太子は、仏法を守護する四天王尊像を彫り、「この戦いに勝利したら、四天王を祀る仏塔を4ヶ所に建立する」と誓いました。見事勝利した太子は、誓い通り各地に四天王寺を建立したとされます。寺伝によると、そのうちの東方持国天を祀る寺院として建立されたのが伊勢国 四天王寺だそうです。何故「伊勢国(津)」を選んだのかについては、その理由を記した古文書が残されていないようです。しかし往時の時代背景や津の立地を鑑みると、津には以下3点の歴史的かつ地政学的な優位性があったと考えられます。
1.神道の聖地「伊勢神宮」に対峙する仏教の拠点「伊勢国 四天王寺」
視野を津ではなく、伊勢国に拡大して思案すれば、伊勢国には日本古来の神道の最高聖地「伊勢神宮」が鎮座しています。太子が仏教戦争で物部氏(神道派)との戦いに勝利し、仏教の全国ネット化を模索していた時代において、神道の聖地を有する伊勢国の玄関口である津の港に大寺院を構えることは、神道と仏教の融和(神仏習合)あるいは牽制や東国への仏教展開のための布石と考えられます。そうであれば伊勢国の玄関口であった津に建立されたのは必然と思われます。
2.伊勢神宮へ続く交通・物流の要衝
「津」の言葉そのものは「船着き場や港」を意味します。古代の安濃津は飛鳥や難波から伊勢神宮へ向かう伊勢街道と東国へ結ぶ海路が交わる交通の要衝でした。国家の守護神 四天王尊像を祀る大寺院を人や物が行き交う要衝に置くことで、仏教による国家防衛や統治の象徴とした可能性も否めません。
3.朝廷と繋がる豪族の存在
仏教を受け入れた蘇我氏や朝廷は伊勢国の豪族とも繋がりを持ちました。これほどの大寺院を建立し維持するには経済的・政治的に支える強力な地元勢力が不可欠です。津の周辺には朝廷を支えるだけの豊かな経済力を持った豪族たちが存在しており、この地が選ばれたと考えられます。 -
9月限定御朱印「名月と大観音さま」
秋の美しい満月と「令和の大観音」さまが描かれた、幻想的な秋のデザインです。
こうした御朱印撮影スポットが社務所の脇に設けられています。
この後、四天王寺を離れ、津駅前にある食事処「伊勢門」にてサークルの同期生と合流し、愉しいひと時を過ごしました。今回の同期会の趣旨は「Bさんを偲ぶ会」でした。2026年7月1日にすい臓癌で亡くなりました。
この続きは、桐葉知秋 伊勢国 津③津城址でお届けいたします。 -
おまけ
この3階建の建屋が建つ場所は当方が大学3~4回生の時に暮らしていた下宿のあった場所です(40数年前)。下宿するまでは愛知県から1時間強かけて通学していました。
往時は2階建の建屋でしたが、外観はさほど変わっていません。ただし。周囲は区画整理が行われたのか、道幅も広くなりスッキリしています。因みに、当方の部屋があった所はカフェになっていました。店内の様子を見たかったのですが、生憎定休日でした。
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