2026/09/20 - 2026/09/20
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montsaintmichelさん
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今回は大学時代のサークルの同期会で三重県津市を訪れた際のレポをお届けいたします。「塔世山 四天王寺」が佇む津市栄町は大学3~4回生の時に下宿していた場所ですが、往時はこのような寺院が近隣にあることすら知りませんでした。
寺伝によると、塔世山 四天王寺は推古天皇の勅命で聖徳太子が建立した古刹です。用明天皇の時代、仏教戦争で物部氏に敗れた折に太子が四天王尊像を刻み、勝利の暁には仏塔を造り仏法を広めると誓願。その結果、逆転勝利したことで国内4ヶ所に四天王寺を建立し、そのひとつが伊勢国 四天王寺とされます。往時の津は伊勢国への玄関口であり、その港の近くに法相宗の寺院として建立され、人々の平安や疫病退散の祈願所となりました。
創建に関しては諸説紛々ですが、いずれにせよ古代に遡る津市最古の寺院です。戦国時代の兵乱で堂舎焼失を経ながらも、近世には津藩主の手厚い庇護を受けて繁栄しました。現在は曹洞宗の禅寺であり、西国四十九薬師霊場34番札所の他、津七福神巡りの大黒天の寺でもあります。
今回のミッションはこの古刹に隠された4つの謎解きです。
1.聖徳太子が四天王寺建立の地として津(伊勢国)を選定した謎。
2.本尊「薬師如来坐像」の願主(発注者)が聖徳太子を含めた蘇我氏と敵対する物部氏である謎。
3.織田信長と確執を演じた生母 土田御前がこの地に埋葬されている謎。
4.藤堂高虎が四天王寺の復興に情熱を注ぎ、巨万の富を投じて大変身を遂げさせた謎。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 私鉄
-
近鉄「大阪難波」駅
三重県津市へのアクセスには近畿日本鉄道 大阪難波駅から特急「ひのとり」を利用しました。大阪難波と近鉄名古屋を2時間強で結んでおり、津へは1時間20分強で着きます。
名称「ひのとり」の由来は、先進的でスピード感ある流線型車体フォルムと、深い艶感のあるメタリックレッドを纏った外観デザインに加え、ゆったりとした車内空間や上質なサービスを提供する気品あるイメージを、神話にも登場し翼を大きく広げて飛翔する霊鳥「火の鳥」に因みます。
実は、日本初の全席バックシェル設置を導入し、前後のパーソナルスペースを大幅に向上させた特急です。2020年3月から運行を開始しています。 -
近鉄「大阪難波」駅
左側の車両は大阪難波と近鉄名古屋を結ぶ「アーバンライナー・プラス」です。
こうしたツーショットが撮れるのはとても珍しいと思います。
1988年、名阪ノンストップ特急専用のシンボルカーとして21000系「アーバンライナー」が製造されました。つまり、特急「ひのとり」の前身でした。引退後も特急として使用されていますが、「ひのとり」に比べて停車駅が多い分、遠距離になると所要時間が多くかかります。 -
近鉄「大阪難波」駅
大坂難波発では「テール」部、名古屋発では「ノーズ」部となります。
先頭フォルムは、非貫通流線型で、水平面から43度に傾斜させた曲面ガラスによりスピード感のあるシャープな印象を与えます。 -
近鉄・JR・伊勢鉄道「津」駅
津駅は、近鉄線とJR東海 紀勢本線、伊勢鉄道の共同利用駅です。
JRの駅名標には、このように平仮名で「つ」とあり、その下に小さく漢字で「津」と書かれています。この駅名標を初めて見たのは中学2年生の時でしたが、往時は津の存在すら知らず、おまけに近視が進んでいたため「?」としか読めませんでした。何てすっとぼけた駅なんだろうと真面目に思い悩んでしまった記憶があります。今では笑い話なのですが・・・。 -
近鉄・JR・伊勢鉄道「津」駅舎(東口)
1891(明治24)年11月4日に関西鉄道の駅として津支線亀山 - 津間全通時に開業したのが始まりです。
現在は県庁所在地でもあり、駅はそこそこ大きく、周辺にはマンションやホテルが立ち並び、駅ビルと言えるほどではありませんが駅に直結の「アスト津」と呼ばれるビルも聳え立ち、駅舎内には「チャム」という商業施設もあります。
因みに、仮名・漢字表記では日本一短い駅名です。ギネス・ワールド・レコーズに世界一短い駅名「Z(つ)」として登録する動きが1994年にありましたが、日本オフィスで定める「競い合えるもの」という条件にそぐわないとの返答があり見送られたそうです。 -
伊勢国 四天王寺
伊勢国 四天王寺のはじまりは飛鳥時代の6世紀、日本への仏教受け入れを巡り蘇我氏と物部氏の対立が深まった時代に遡ります。蘇我氏に与した聖徳太子は、仏教を支持する立場でしたが、戦況は物部氏が優勢で蘇我氏は3度も退却を余儀なくされました。4度目の決戦(丁未の乱:587年)を前に、太子はヌルデの木で仏法を守護する四天王尊像を刻み、「勝利したなら四天王を祀る寺を建てる」と誓願して戦いに臨み勝利しました。太子は誓い通り各地に四天王寺を建立したとされ、そのひとつが津市にある「伊勢国 四天王寺」とされます。創建年は不詳ですが、境内から奈良時代の瓦が出土しており、千年以上前には寺が建立されていた痕跡が窺えます。 -
伊勢国 四天王寺
境内史跡図(リーフレットより)
伊勢国 四天王寺の歴史を振り返ってみましょう。
創建当初の四天王寺の宗派は法相宗でしたが、平安時代中期に律宗、その後に天台宗へと遷移していきました。その理由は、往時の仏教宗派は学問派閥としての性格が濃く、現代のように固定されていなかったためです。
伊勢国地誌『勢陽五鈴遺響』によると、1147(久安3)年に藤原景通(加藤景道)により薬師堂などが修復され、寺院の再興は息子 藤原景清にも引き継がれました。景清は平家に仕えた武将であり『平家物語』にも源平合戦での活躍が記されています。
その後、室町時代に正海慈航(しょうかいじこう)禅師により曹洞宗に改められ、以降現在に至るまで曹洞宗の禅寺となっています。
正海禅師は伊勢国 長野城主 工藤氏の子に当たります。京都 南禅寺にて仏門に入り、比叡山延暦寺で具戒を受かり、加賀国 宗徳寺を経て四天王寺に立ち寄りました。
1429(永享元)年、伊勢神宮に詣でた正海禅師は宗徳寺開山の玉叟良珍(ぎょくそうりょうちん)禅師と出会い、玉叟禅師から「汝は既に大悟徹底の境地に至ったようである。また今でこそ荒れ果てているが、塔世山は聖徳太子が開いた霊寺である。ここで努めて修行寺を興し、他に遊することなかれ」と諭されたのを契機に四天王寺を曹洞宗に改めました。すると多くの檀信徒が訪れ、活気ある禅寺となったようです。
因みに太子にまつわる伝説のひとつに「奈良の片岡で禅宗の開祖 達磨大師に出会った」という説話があり、太子が創建した四天王寺が時を経て禅寺に至ったことは不思議な縁を感じさせます。 -
門前
1565(永禄8)年に伊勢で勃発した騒乱により、四天王寺は薬師堂を残して大半が焼け落ちました。その時、僧侶たちは門前の蓮池に稲を植え、背後の山で麦を育てて飢えを凌いだそうです。1568(永禄11)年には織田信長の伊勢侵攻により一帯は更に荒廃しました。1580(天正8)年、信長の弟 信包(のぶかね)が津城主となり、生母 土田御前を四天王寺に埋葬して寺領2百石を寄進しました。一説には信包は四天王寺の衰退を惜しみ、本能寺の変で焼死した兄 信長の冥福を祈って斎田(神に供える米を栽培する田)を合わせて220石を寄進したと伝えます。
しかし1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの前哨戦として西軍の毛利軍など数万の兵が津城に攻め寄せ、この四天王寺に陣を張って城攻めの前線基地としたため、更に荒廃したようです。 -
門前
1608(慶長13)年、藤堂高虎は江戸幕府から伊賀や伊勢など約20万石の土地を与えられ津城に入城。高虎は大坂の豊臣家の挙動に備えて津城の大修築と城下町の整備に尽力すると共に街道の要衝に位置した四天王寺も厚く庇護しました。
1616(元和2)年、高虎の正室 久芳院が四天王寺に埋葬され、寄進が行われました。その3年後には高虎らによって堂宇が建立され、僧侶にも20人扶持(1年相当のお米を20人分)が給付されました。1637(寛永15)年には2代目藩主 藤堂高次により本堂が造営され、1641(寛永18)年には山門が建立されました。その山門は現存しており、津市有形文化財に指定されています。
1656(明暦2)年には、高次が寺領百石を寄進。159(万治2)年には3代目藩主 藤堂高久により薬師堂が修繕されました。また1759(宝暦9)年と1783(天明3)年には百石の寺領と年百俵の米が与えられるなど、藩の庇護を受けて栄えました。
因みに伊勢神宮への参宮街道沿いに立地した四天王寺は、江戸時代に流行した「おかげ参り」により多くの参詣者が訪れたようです。1797(寛政9)に刊行された観光ガイドブック『伊勢参宮名所図会』には四天王寺が紹介されており、往時のの寺領は現在よりもはるかに広く、太子堂や弁天堂、天神社などが存在していたことが判ります。本堂右手には現在も遺る芭蕉翁文塚(ばせをつか)も描かれています。 -
門前 坂村真民の歌碑
門前左手に四天王寺を訪れた仏教詩人 坂村真民(しんみん)の詩『法悦の涙』を刻んだ歌碑があります。この詩は、真民が四天王寺を訪れた際、本尊 薬師如来坐像の前に座して朝のお勤めに参拝した時の深い感動と宗教的歓喜(法悦)を詠ったもので、次のような情景と心情を綴っています。
1.仏様の姿への感動: 2度も火災に遭い、谷に落ちるほどの苦難を経ているにも拘わらず、焦げ跡ひとつなく、暗い影すら全く見せない、柔和そのものの薬師仏の姿に心を打たれます。
2.法悦の涙: 特別な計らいにより仏様のすぐ側に座り、朝のお勤めに参加させてもらった真民は、読経の間、抑えようとしても頬を伝って落ちてくる涙が止まらなくなります。
3.「法悦の涙」の境地: 悲しみの涙ではなく、仏の慈悲や尊さに深く包まれたことで湧き上がる、言葉にできない喜びの涙。それこそが「法悦の涙」というものであると、生まれて初めて身をもって知った、という極めて純粋な信仰の喜びが綴られています。
因みに真民は、仏教の精神をベースに平易で心に染み入る数多くの詩を遺した「癒やしの詩人」「民衆の詩人」です。
1909(明治42)年に熊本県に生まれ、8歳の時に父親を亡くしました。5人の兄弟と共に、母親の熱心な信仰心に守られながら極貧の中で苦難の幼少期を過ごしました。青年期には教員として朝鮮半島に渡り、戦後に引き揚げてからは愛媛県に移住しました。高校の国語教師を勤める傍ら詩作に励みました。40代から本格的に詩の世界に入り、後に代名詞となる『念ずれば花ひらく』が生まれました。 -
山門(市指定有形文化財)
1646(寛永18)年に再建された四脚門であり、戦時の津大空襲を奇跡的に免れて今に遺されています。
装飾的な彫刻が少なく彫りが浅いという江戸時代初期の特徴がよく表われており、落ち着いた、どっしりとした優美さが魅力です。具体的に言えば、木鼻は平面的で、輪郭をなぞるような浅い線(親切彫り・浅彫り)で表現するに留めています。これは「実用性」や「厳格さ」を重んじる戦国時代の武骨な気風を残留させた江戸時代初期の典型的な建築様式です。 -
山門
扁額にある「塔世山」は山号です。「塔世(とうせ)」という言葉の成立ちや由来には諸説あり、最有力説が「四天王寺の仏塔(塔)」に由来するというものです。聖徳太子がこの地に四天王寺を建立したとの伝承があり、その際、立派な仏塔(五重塔など)も建てられたことから「塔がある地」(=「塔世」)と呼ばれるようになったと古来語り継がれています。
この「塔世」は津市中心部の北東側(安濃川の河口付近)を指す古代からの由緒ある地名であり、平安時代の1062(康平5)年の古文書『民部田所勘注状』には「塔世里(とうせのり)」という名前で四天王寺の領地として記録されています。因みに現在でも津市の中心部には、「塔世町」や国道23号線に架かる「塔世橋」という大橋にその名残が見られます。実に歴史ロマンの詰まった言葉ではありませんか。
尚、扁額の文字に関しては、再建時に改めて往時の高僧により揮毫されたものか、あるいは空襲から守り抜かれたオリジナルを掲げているかは不詳です。 -
山門
明治時代に入ると政府は神道の国教化政策を行うため、1868(明治元)年に神仏判然令を発します。これは神社から仏教的要素を排除する指令であり、それまで津藩から与えられてきた扶持米(収入)を失い、寺院経営は困窮を極めました。
明治維新の混乱が落ち着いてきた明治時代中期、鈴木天山禅師が四天王寺の復興に尽力します。太子堂や八王子社、薬師堂などの改修や、阿弥陀如来坐像、大日如来坐像、阿閃如来坐像、千手観音坐像、薬師如来坐像などの平安仏が改めて安置されました。 -
聖徳太子の庭
境内には2022年の聖徳太子1400年御遠忌を記念して造営された現代庭園「聖徳太子の庭」があります。
山門を潜ったその先に広がる美しい境内庭園を称したものであり、白砂と美しい苔のコントラスト、そして現代美術家が手がけた前衛アートなどが調和した、静謐でフォトジェニックな異空間です。 -
山門(境内から見る)
1945(昭和20)年7月28日、米軍による空襲が津市中心部を襲いました。この空襲により山門と鐘楼門を除く全ての堂宇が灰燼に帰しました。安置されていた貴重な平安時代の仏像も焼失しましたが、本尊 薬師如来坐像だけは檀信徒の発案により市郊外の蔵に避難されており、奇跡的に空襲の被害を逃れました。
1947(昭和22)年、密禅定行禅師と檀信徒の力により戦火で荒廃した四天王寺に仮本堂が設けられました。定行禅師はその後20数年に亘り諸国を行脚して托鉢を行い、本堂再建を目指しました。1966(昭和41)年、念願の本堂再建が実現しました。 -
山門
軒先を飾る軒丸瓦に「巴」が使われているのは、本堂正面の大きな巴の意匠と同じく、木造建築の天敵である火災を防ぐための「火の用心(防火)」の呪術的な祈りに基づいています。
飾り瓦(留蓋瓦)は「桃」です。古代からの深い信仰と神話に基づいた縁起物であり、「強力な魔除け(邪気払い)」と「不老長寿・家運長久」の2つの大きな意味が込められています。 -
琴風関の碑
山門を潜って直ぐ左手に佇みます。
津市出身の元大関 琴風豪規氏(ことかぜ こうき:後の尾車親方)の功績を讃えて建立された記念碑です。石碑には、現役時代の彼の代名詞であった決まり手に因み、「土俵人生がぶりより」という言葉が力強く刻まれています。1983(昭和58)年に2度目の幕内優勝を果たしています。
1989(平成元)年6月18日、琴風関の栄誉と不屈の土俵人生を永く後世に伝えるため、津の歴史の象徴である四天王寺の境内に建立されました。除幕式には親方となった琴風本人も参列されたそうです。 -
地蔵尊
琴風関の碑の先には小首をかしげて寂し気な表情をなされた地蔵尊が佇みます。 -
中雀門
1640年代(寛永年間)前後に2代目藩主 藤堂高次により建造された中雀門も空襲から免れた歴史ある入母屋瓦葺の四脚門です。 -
中雀門
2層には擬宝珠付きの高欄が巡らされ、正面と背面には花頭窓が施されています。
「中雀門」という名前は一般的に寺院の中心伽藍の手前にある中門を指します。
俗世から本尊が祀られている本堂へと気持ちを切り替える重要な区切りの役割を持ちます。 -
中雀門
「應供客(おうぐかく)」と記された扁額が掛けられています。お寺ではこの言葉には「おもてなしの心」が込められているとしています。かつての港町 安濃津に立地する四天王寺は外から多くの客人を迎える場所でもありました。そのため「山門や中雀門を潜った参拝者は、皆等しく尊い客人(應供の客)として、誠心誠意おもてなしをさせていただきます」という慈悲と和の精神がこの「應供閣」の3文字に表現されています。揮毫は高次もしくは当寺を中興した高僧によるとされます。 -
中雀門
この門も装飾的な彫刻が比較的少なく、彫りも浅いという江戸時代初期の建築様式の特徴を色濃く残しています。例えば日光東照宮に代表されるような、江戸時代中期以降の極彩色で立体的なデコラティブ(装飾的)な彫刻とは異なり、木本来の質感や建築そのものの構造美を活かした簡素で引き締まった美しさが魅力です。 -
中雀門
派手な彫刻を探すよりも、門全体の美しいプロポーションや横木の端々に施された職人のさりげない手仕事(浅彫りの木鼻)などの調和に注目すると、より深い魅力が味わえます。 -
中雀門
何故指定文化財ではないのかと疑問に思いますが、文化財指定では「建てられた当時の構造や部材がどれだけそのまま残っているか」という点が審査されます。中雀門は江戸時代の建物ですが、『伊勢参宮名所図会』などに描かれた広大な伽藍配置から判断すると、後世に少し場所を移動させたり、傷んだ部材を新しいものに大体的に取り替える修繕が行われた可能性があります。後世の手が多く加わっているとの指摘で見送られるケースが多々あります。 -
中雀門
本堂側から振り返った中雀門です。
中雀門は2階建ての鐘楼門の形式に倣っており、その上層の屋根に入母屋造が採用されています。
こうして見ると入母屋造の美しいシルエットに魅了されます。 -
本堂
太平洋戦争時の津大空襲により、伊勢国 四天王寺は山門と鐘楼以外を焼失しました。現在の本堂は52世 密禅定行和尚が托鉢行によって再建したものです。
大阪 四天王寺の堂宇も同様ですが、こちらの本堂も戦後に再建された建物であり、コンクリート造りの堂宇となっています。
1966(昭和41)年に鉄筋コンクリート造(RC造)で再建された際、耐久性を考慮して銅板葺の入母屋屋根が採用されています。遠目には瓦のようにも見えますが、近くで見ると金属特有のシャープなラインや規則的な継ぎ目(ハゼ)が確認できます。 -
本堂
本来なら扁額がある場所には黄金色に輝く『巴』の意匠が掲げられています。
お寺の解説によると、文字(扁額)ではなく「巴の造形」を中央へ配置し、堂宇のアイデンティティを示す特別なシンボル(紋章レリーフ)との意味合いがあるようです。そうであれば、この『巴』は堂宇そのものを災害や邪気から守るための「祈りと信仰のシンボル」と言えます。つまりは、2度と戦火に見舞われないように「世界平和を希求」していると言えるのかも!?
近年、地政学的な見地から「核の持ち込み」を容認する風潮がありますが、「核」が本質的に攻撃への抑止力になるか否かを問うてみることが肝要と思います。「核」に抑止力があるならば、何故、核保有国のロシアがウクライナとの戦争で劣勢に立たされているのでしょうか?ロシアでさえ核を用いることは国際的な孤立を招くと判断し、核は使えないのです。従って、米国が日本のために核を使用することは100%あり得ません。例え日本に核が持ち込まれても画餅に過ぎず、抑止力にはならないどころか、戦前への回帰と非難され、近隣諸国との関係が悪化するのは自明です。 -
本堂 半鐘
本堂右端の軒下には同時期(1680(延宝8)年頃)に同じ鋳物師が鋳造した半鐘があります。
半鐘は通常、主に寺院内で日常の行事の時間(合図)を知らせるために使われます。
この半鐘の最大の特徴は梵鐘と「一対」で鋳造された点にあります。 -
本堂 半鐘
半鐘に刻まれた「大慈悲」とは、仏教において「仏様や菩薩様が持つ、限りなく深く広大な情けと慈しみの心」を意味します。
「慈」: 人々に楽しみや幸福を与えたいと願う心(与楽)。
「悲」: 人々の苦しみや悲しみを取り除いてあげたいと願う心(抜苦)。
これらが合体した「抜苦与楽(ばっくよらく)」の精神が「慈悲」であり、それが人間を超越した仏の絶対的な規模であるため「大」が付けられます。
四天王寺を創建した聖徳太子は、仏教において大慈悲の象徴「救世観音」の生まれ変わりと古来信仰されてきました。そのため、半鐘の銘に「大慈悲」とある場合、それは今ここに集う人々を救おうとする観音菩薩の心、ひいては太子の御誓願そのものを称えているという意味合いになります。 -
本堂
外陣では「バレー教室」が開催されていました。その関係もあり、生徒さんたちが多数写り込むため、引いて撮影できなかったのが残念です。
ただし、本堂がこうした用途にも用いられているのは、このお寺が地域に開かれ住人さんたちから、愛されている証左と思います。 -
本堂
本堂の正面で「巴」の結界を見上げて邪気を払い、「半鐘」の大慈悲に傾聴して目を覚まし、そして堂内の「やさしいお顔の馬頭観音」が過去の苦しみを取り除き、「釈迦如来」が今を導き、「阿弥陀如来」が未来を保障する。
これこそが伊勢国 四天王寺でしか味わうことのできない唯一無二の体験です。 -
本堂 須弥壇
中央に鎮座する釈迦牟尼仏は正しい方向へと導いてくれる「現世」ご利益の仏様です。その脇侍を右側に阿弥陀如来像、左側に馬頭観世音菩薩像が務めており、これはとても珍しい独自の三尊構成です。
その最大の理由は、室町時代に天台宗から曹洞宗(禅宗)へ改められたことです。禅宗で根本的な本尊として敬われるのがお釈迦様です。しかし、お寺が辿ってきた歴史を重んじた結果、禅の象徴のお釈迦様を中心に据えつつ、誰もが親しみやすい阿弥陀様を脇侍とするという、優しく寛容な配置が選ばれています。
中尊:釈迦如来(現世の救い)
歴史上に実在し、今を生きる私たちに仏教の教えを説いて導いてくれる「現世」の仏様です
左脇侍:馬頭観音(過去の救い・病気平癒)
聖徳太子が過去に罹った病を癒やした伝説のように、私たちが「今ここに到達するまでに抱えた苦しみや障壁(因縁や病気)」を打ち砕き、優しく包み込んでリセットしてくれます。
右脇侍:阿弥陀如来(来世の救い・極楽往生)
南無阿弥陀仏と唱えるすべての人を、亡くなった後に「極楽浄土(来世)」へと迎え入れてくれる仏様です。
このように、馬頭観音様によって過去の苦しみを除かれ、お釈迦様によって現世を正しく導かれ、最終的に阿弥陀様によって来世の安らぎが約束されるという、全方位の大慈悲のストーリーがこの祭壇で完結されています。 -
本堂 須弥壇
左側の脇侍 馬頭観世音像は、一般的な憤怒相ではなく、とても優しいお顔(慈悲相)をされているのが特徴です。
実は、この像が聖徳太子の病気平癒の伝説に由来しています。614(推古天皇22)年、太子がこの地に四天王寺を建立しようとした際、太子は重い病を患っていました。そして太子は自ら馬頭観音像を刻み、病気平癒を深く祈願したと伝えます。その祈りが通じて病は無事に癒え、その馬頭観音を安置するために建てた草庵こそが、津市四天王寺の起源とする説もあります。 -
本堂 須弥壇 馬頭観世音菩薩像
では何故、穏やかで優しいお顔をされているのでしょうか?
その理由は、「病に苦しむ聖徳太子を優しく包み込み、その苦しみを取り除いた」という、救済の記憶がそのまま形になったからと伝えます。また、太子自身が観音様の化身とされることから、太子の持つ「和の精神」や「深い慈悲心」が馬頭観音の表情にも写し取られたとも考えられています。
因みに江戸時代には津藩主 藤堂家の祈願所となり、馬頭観音像は「津の初午(はつうま)さん」として、厄除けや病気平癒を願う地域の人々から熱狂的な信仰を集めました。
残念ながら、かつての古い馬頭観音像は津大空襲により焼失しましたが、太子が病を克服したという伝説の絆は、再建された現在の本堂須弥壇にも、中尊を支える大切な脇侍として守り継がれています。 -
本堂 本尊 薬師如来坐像(重文)
須弥壇の右脇に遠慮がちに鎮座されていますが、こちらが伊勢国 四天王寺の本尊です。立札には「国宝」とありますが、現在は「重文」です。1913(大正2)年に「国宝」に指定されましたが、文化財保護法(1950年制定)により「重文」に各下げになりました。
平安後期に作られた像高65cmの薬師如来坐像です。お顔は清凉寺式と思われ、趣の深い佇まいをしています。薬師如来は、古来より病気平癒の医薬の仏様として信仰され、左手に薬壺を持ち、右手に施無畏印を結んだ姿で表され、聖徳太子の父 用明天皇も自身の病気平癒を願い、薬師如来像の造立を願われました。
伊勢国 四天王寺の薬師如来坐像は、平安時代に生きた物部美沙尾(もののべのみさお)という女性の発願によって造立された一木割矧造です。病に伏せていた彼女は、病気平癒を祈願して薬師如来坐像の造立に着手しました。しかし仏像の完成を待たずして亡くなり、願いを継いだ僧 定尋(じょうじん)によって1077(承保4)年2月に完成しました。
薬師如来坐像は1945(昭和20)年の津大空襲で薬師堂が焼失した際には、奇跡的に難を逃れ、現代にその姿を留めています。 -
本堂 本尊 薬師如来坐像
本像は檜造りで、その表面を漆箔で仕上げています。頭体部は竪一材から造り、両脚部には横一材を寄せています。また、右腕の臂から先と右手首や左手首はそれぞれ別材を矧いでいます。背面から背刳りが施され、像底からも浅く内刳りされています。
像容は、薬師如来通例の形制を示し、大衣と裙を着け、右足を外にして結跏趺坐し、右手は掌を前方に開いた施無畏印を結び、左手には薬壷を持ちます。
肉髻は自然な盛り上がりを見せ、顔は目鼻立ちが中央に集まります。足は右を上にし、衣の襞は浅くもしっかりと刻み、いわゆる定朝様の仏像の穏やかさとはまた別の端整さが魅力です。小像ながら平安時代後期の作らしい穏やかな作風が漂い、寺院の本尊というより、個人の念持仏といった趣の深い像です。
本像は、像内に納入されていた品々により、造立の経緯と年代とが知られた点が重要です。納入品は、1805(文化2)年、本像が開帳された際、仏師 友学康珍により修理された折に像内から取り出されたものです。
納品は、『結縁交名状』や『貢進状』などの古文書類と櫛や鏡などの工芸品とに大別されますが、大像造立の経緯を記しているのは『結縁交名状』です。それによると、本像は、物部美沙尾が願主となり、「内作」の物部吉守と「木作」の勝重孝を中心に造立が行われ彼女の没後、その志を継いだ寺家目代僧 定尋が願主となって1077(承保4)年22月頃に仏像が完成し、種々の品を像内に納入したものと記しています。 -
本堂 本尊 薬師如来坐像
最大のミステリーは本尊 薬師如来坐像に隠された願主(発注者)の謎です。
平安時代(1077年)に完成した仏像ですが、像内から発見された納入品(記録)により、以下にある矛盾が浮上したのです。
四天王寺は、聖徳太子が崇仏派の蘇我氏に加勢し、排仏派の物部氏を滅ぼした戦勝祈願として、各地に建立した4つの四天王寺のひとつと伝承されています。つまり、「物部氏滅亡」の象徴とも言える寺院です。 しかし、薬師如来坐像の願主は物部美沙尾(もののべのみさお)という「物部姓」の姫君でした。更に、仏像を彫った仏師も物部吉守だったのです。蘇我氏に滅ぼされた、あるいは仏教に猛反対していた物部氏の末裔が、誰よりも深く仏教に帰依し、命を賭けて薬師如来に祈りを捧げ、聖徳太子ゆかりの四天王寺に寄進したという事実は、歴史の大きなロマンです。
歴史研究家の間では、次のような推測がなされています。
1.蘇我氏と物部氏の間に政略結婚があり、実は血筋や関係性が完全に敵対一色ではなかった。
2.滅ぼされた物部一族の怨霊を鎮めるため、後に物部の名を冠した仏像を敢えて安置した 。 -
本堂 本尊 薬師如来坐像
薬師如来坐像の胎内からは文書だけでなく、平安時代の鏡や櫛、扇なども発見されました。これらは、若くして亡くなった美沙尾が生前愛用していた形見、あるいは彼女の魂そのものとして納められたと考えられています。
平安時代後期に彫られた仏像ですが、その胎内からはそれより250年も古い弘仁12年(821年)の寺領や地図、台帳が記載された紙片が発見されました。
この古文書により、往時の伊勢国 四天王寺が現代の想像を遥かに超える大寺院であったことが証明されました。1062年には後冷泉天皇から「斎田(神仏に捧げる米を作る特別な田んぼ)」を直接授かった記録も残されています。つまり、地方の小さな寺院ではなく、国家や朝廷、地方豪族と密接に結びついた伊勢国の中心的な権力拠点だったと言えます。
何故こうした領地の権利書を敢えて仏像の胎内に納めたのでしょうか?
この背景には武士の台頭による不穏な空気があったと考えられています。平安時代後期には、朝廷の力が弱まって各地で武士や新たな勢力が台頭し、寺院の領地を脅かし始めました。そのため寺院は「この広大な領地は朝廷や神仏に認められた神聖な土地である」という絶対的な証拠(利権の証明書)を最も安全で神聖な仏像の胎内に隠すことで略奪を免れようとしたと推測されています。
残念ながら、その後寺院は時代の荒波に飲まれ、朝廷の弱体化と共に一度は荒廃しました。しかし、その窮地を救ったのが、1147年に薬師堂を修復した藤原景通やその息子で『平家物語』の豪傑としても名高い平家の武将 藤原景清(平景清)でした。古文書が「かつての黄金期」を語ったが故、後の時代の人々もこの寺院を必死に守り、再興に尽力したとされます。 -
本堂 本尊 薬師如来坐像
物部美沙尾なる女性がどんな人物だったかは不詳です。それは歴史書『日本紀略』や『百錬抄』などには彼女の名が登場しないからです。 彼女の出自や名が今に伝わっているのは薬師如来坐像像の胎内から発見された納入文書に記録されていたからです。
胎内納品の鏡や櫛、扇骨、縫針、タカラカイなどは仏像の願主であった彼女の愛用品だったと考えられます。また、納品されていた行政文書『民部田所勘注状』は、1062(康平5)年に記されたものであり、平安時代後期における当寺の領地や経済的基盤であった田畑の状況を窺うことができます。
こうしたことから、美沙尾は単なる熱心な仏教徒ではなく、伊勢国を治めていた有力豪族の夫人、あるいは姫君と推測されます。 -
本堂 本尊 薬師如来坐像
名にある「物部」から、飛鳥時代に聖徳太子や蘇我氏と戦って敗れた有力軍事豪族 物部氏の末裔であったのは疑う余地がありません。かつて物部氏は排仏派の代表格として歴史に名を馳せましたが、500年後の平安時代後期には、その末裔が伊勢の地に根を下ろし、往時とは一転して篤く仏教に帰依する分家として暮らしていたということです。
彼女が仏教を篤く信仰するようになった最大の理由は自身の病気平癒を祈願するためと考えられます。仏像が病気平癒のご利益がある薬師如来であったことがそれを裏付けています。その美沙尾が病に倒れ、仏像の完成を待たずに没した後、彼女の遺志を継いで仏像を完成させたのは目代僧(寺の管理職)の定尋でした。また、実際に仏像を彫った中心人物は仏師 物部吉守でした。
このことから、物部一族や周囲の有力者、寺院の僧侶と強い絆を持った、地域でも人望のある高貴な女性だったことは想像に難くありません。 -
本堂 豊川稲荷と三面大黒天(織田信長公祈願)
須弥壇の左脇には豊川稲荷と三面大黒天が並んで祀られています。
豊川稲荷は曹同宗のお寺ゆえ、そのご縁でお祀りされているのでしょうか?
これには、「曹洞宗(禅宗)」の寺院であること、そして仏教の守護神としての神仏習合の歴史が深く関係しています。豊川稲荷は、神社ではなく妙厳寺(みょうごんじ)という曹洞宗のお寺です。一般的に稲荷というと神社の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を連想しますが、豊川稲荷が祀っているのは仏教の善神である豐川ダ枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)です。仏教由来の神様(仏天)であるため、四天王寺の本堂脇にもお寺の守護神・現世利益の仏様として自然に溶け込み、お祀りされています。 -
本堂 三面大黒天
三面大黒天は比叡山延暦寺にも祀られており、豊臣秀吉や徳川家康の念持仏としても知られます。戦国時代に広まり、一説には秀吉の若い頃、常にこの像を懐に忍ばせ、勝負運・財運・良縁を願ったそうです。天下人に信仰されたことから、開運出世の神様と崇められてきました。
ここの三面大黒天も、大黒天(護国豊穣の福の神)、毘沙門天(必勝と財運の福の神)、弁財天(福徳財宝の福の神)が三位一体となった姿をなされ、戦国時代に広まった三面大黒天信仰の影響を強く受けたと考えられています。 -
本堂 三面大黒天
経年変化で表面の彩色は剥落して木肌が露出していますが、観る者の心を打つ威厳は微塵も揺らぎません。
最大の特徴は大黒天の「ふくよかなお顔立ち」です。戦国時代の三面大黒天は、戦勝祈願の意味合いが強く、憤怒相の毘沙門天のイメージが強いのですが、この三面大黒天は「愛らしい微笑みで私たちの心を和ませてくれる、ふくよかなお姿」をされています。観る者を安心させる穏やかな表情をしており、戦勝祈願に限らず、「日々の暮らしの豊かさ(五穀豊穣・商売繁盛)」をもたらす神様としても親しまれてきました。
背丈はゆうに1mを超える大きな像です。 -
本堂 三面大黒天
この像には聖徳太子作との伝承があります。 当寺に明治時代から伝わるお札の版木に「聖徳太子御作」と記されていることが根拠のようです。
また、織田信長が天下統一を祈願したとも伝えられています。信長も太子作と伝わる三面大黒天に強い信仰を寄せていたようです。更には豊臣秀吉も祈願したとの伝承があります。天下統一を図るために戦った二大天下人が共に戦勝や立身出世を祈ったことから、「天下人に愛された最強の出世開運神」としても信仰を集めてきました。
従って、単に「自分だけが儲かりたい」という願掛けより、「自分が成功することで、周りの人や家族、ひいては社会を幸せにします」という大局的な誓いを添えると、より強い後押しが頂けると言われています。 -
本堂 令和の大観音
御朱印11万枚で建立された総高約4m(像高約2m)の尊像です。
聖徳太子御聖忌1400年を契機として発願され、2026年の聖徳太子の命日(2月22日)に青山俊董老師による導師開眼法要が厳修されました。
何故観音かと言えば、平安時代から聖徳太子は観音様の化身とされ大事にされてきたからです。 -
本堂 令和の大観音
大観音には、伊勢神宮や名古屋城の建材にも使われてきた木曽檜が使われています。その中でも、雷に打たれて立ち枯れした特殊な木だそうです。雷に打たれたということは、その山で一番高い所にある御神木のような存在です。その神になった木を仏像として千年残る存在にするのが仏師の役割だそうです。 -
本堂 令和の大観音
宝冠には、四天王寺の御朱印のデザインに登場した、桜や紫陽花、紅葉、椿などの季節毎の植物やウグイス、ツバメなどの動物たちが装飾されています。
胸元から下げられた瓔珞(ようらく)や二の腕の臂釧(ひせん)、手首の腕釧(わんせん)には、干支や絶滅危惧種の生き物たちが鎖のように連なってあしらわれています。また、胸飾りの中心部には、「どのような境遇の人も分け隔てなく受け入れる」という意味を込め、七色の宝石(四天王寺のゆかりの方々から寄進されたもの)が埋め込まれています。
左手に持つのは蓮の蕾です。通常は閉じたものですが、これは「花びらが一枚だけ、わずかに開きかけている」という繊細な造形になっています。まだ悟りを開いていない私たちの心や願いが、観音様の手によりこれから花開いていく瞬間を表しています。 -
本堂 令和の大観音
観音様の彫りだしを担当されたのは京都で3代続く富田工芸 冨田珠雲仏師です。
また、装飾品は三重県の金属工芸作家 何惠娜(か えな)さんが小さな生き物や花々をモチーフとした美しい七宝焼で制作しました。純銀のベースにガラスの粉を焼付ける「純銀七宝」の技法が用いられ、鮮やかな色彩が表現されています。また、平和な世にのみ現れるとされる「金の鳳凰」と、瑞獣である「銀の龍」が宝冠にダイナミックに打ち出されています。更には、 宝冠の正面中央には、観音様の本来の姿として、小さな阿弥陀如来立像が組み込んであります。
何惠娜さんは、中国にルーツを持ち、イタリアでズバルツォ・チェゼッロ技法を修行されました。日本で活躍されている惠娜さんならではの3ヶ国の伝統を受け継いだ金銀細工です。
一方、玉眼にも注目です。陶芸家 青木良太さんによって1400年ぶりに蘇らせた極小の玉眼「琥珀焼」になっています。仏教において七宝のひとつとして最も尊ばれる琥珀ですが、古くは聖徳太子自身も民を救うための研究の中で、この琥珀の輝きを焼物で表現しようと試みたと伝わります。青木さんは、年間1万5千種もの釉薬を研究する自身の全技術を注ぎ込み、土と火のコントロールにより本物の琥珀と見紛うほどの深く温かい透明感と輝きを焼物として現代に復活させました。ただし、玉眼は僅か1.6cmであり、これほどの極小サイズで琥珀の色彩と輝きを焼上げるのは「本来ならあり得ない」領域だったようです。こうして仏像史上初めて琥珀焼の玉眼が用いられた観音様が開眼したのです。 -
本堂 救世観音像(聖徳太子の観音様)
令和の大観音の台座の下部にはカーテンで仕切られた静かにお参りできる空間が設けられています。その中に鎮座されるのは聖徳太子の化身とされる救世観音様です。キリスト教会にある懺悔室を彷彿とさせる小部屋です。
聖徳太子没後1400年を記念して2022年2月22日に迎え入れられた観音様です。平安時代から続く「聖徳太子は観音様の化身」という信仰を具現化したものです。像高は60cm。子どもや車椅子の人とも目が合うよう、敢えてこの高さに設計されたそうです。
観音様を横から見てみると、人々の助けを求める声に何時でも立ち上がれるよう、上体を少し前傾させ、腰を浮かせた大和座りの姿勢をなされています。差し出された右手は与願印を結んでいます。これは、大衆の願いを聞き、成就させることを示す印相です。 -
本堂 救世観音像
この観音様の説明で欠かせないのが「月」と「女性」、「聖徳太子」です。月は古来仏教で大切に扱われている祈りの象徴です。また、四天王寺は女性の祈りが込められた場所です。例えば、本尊 薬師如来坐像は平安時代の姫君が自己の病気平癒を祈願したものであり、境内には織田信長の生母や藤堂高虎の正室が安らかに眠っています。月と女性をテーマに、四天王寺を開いた太子の化身である救世観音像を造立したのにはこうした背景がありました。
仏像は冨田珠雲仏師によるものです。住職と10年に亘って構想を語り合いながら、拘り抜いた救世観音像を具現化しました。
装飾品は何惠娜さんが手がけたものです。冠を被り、左手に麈尾(扇)と呼ばれる仏具を持つ姿は、観音様が太子の化身であることの証です。宗教者としての太子を描く際、冠と麈尾は外せない存在です。実際に『勝鬘経講義伝説』の絵画に描かれた太子は中国の皇帝を思わせる冠(冕冠)を被り、麈尾を持っています。通常、観音様は左手に蓮を持つことが多いことから、麈尾には蓮の花があしらわれています。尚、麈尾の周りは古代ギリシア時代から装飾に用いられたアカンサスの意匠で縁取り、唐草模様を全面にあしらっています。これは西洋と東洋の融合を象徴し、国境を超えてお参りして欲しいという願いが込められています。 -
本堂 救世観音像
冠の天辺に3つの丸い宝石、その周りに満ち欠けを表した銀細工の月が12個、胸元のネックレスにも月があしらわれています。3つの丸い宝石は、真ん中のシトリンが太陽、横のムーン・ストーンが月を表し、散り嵌められた星の装飾と合わせて宇宙観を表現しています。これらの宝石飾りは「旒」と呼ばれ、仏教の五色の宝玉と七宝を使用しているのが特徴です。宝石のひとつ一つに仏教の意味が込められた冠です。
太陽・月・星の装飾を使用している理由は「勝鬘経というお経の講義をしたところ、天から蓮の花が降り積もり、太子の冠から太陽・月・星の光が輝いた」という『勝鬘経講義』の説話をモチーフにしているからです。 -
本堂 天井画『波波龍円相図』
本堂外陣の天井には、波と波が激しくぶつかり合う中から龍神が生まれ、その真ん中に月を浮かべた『波龍円相図』と呼ばれる天井絵が描かれています。
京都 八坂神社などに作品を奉納されているアーティスト 塩澤文男氏によって描かれ、2019年に四天王寺に迎えられました。
禅宗において悟りや真理、宇宙そのものを表す一円の記号「円相」の中に、水を湛えた地球(生命)と、それを司り守護する龍神様が配置されています。これらの生命や宇宙が循環する象徴を表現しています。
通常の拝観でも美しい青と黒のコントラストを満喫できるのですが、このようにブラックライトを照射すると龍神と月が幻想的に浮かび上がる現代アート特有の演出も凝らされています。 -
本堂 天井画『波波龍円相図』
塩澤氏が長年テーマにされている「月」に関しては、地球から見られる風情ある姿ではなく、「誰も見たことのない月の裏側」を描いています。これには「普段は意識しない裏側の世界にまで想像力を働かせ、想いを馳せる」という深いメッセージが込められています。
また、仏教の守護神であり水を司る「龍神」と「地球」を描くことで、自然災害や疫病など人間の力ではどうにもならないものに対する国家安穏や人々の暮らしの守護への祈りが捧げられています。
この続きは、桐葉知秋 伊勢国 津②四天王寺<後編>でお届けいたします。
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