2026/05/17 - 2026/05/17
8位(同エリア228件中)
松本伸雄さん
朝倉氏の侵攻を退けた国境の城
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若狭国吉歴史資料館でスタンプをいただきます
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右中の赤い旗から登ります。国道27号(若狭街道)が下を通ります
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座敷は、佐柿町奉行所遺構です。幕末には水戸浪士(天狗党)の一部が準藩士屋敷に収容された
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左は、城主居館です 国吉城は、若狭守護武田義統の有力武将粟屋勝久が、越前との国境に近い三方郡佐柿にあった古城跡を利用して1556年(弘治2)に築いた
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江戸時代の石垣 勝久は、主家の若狭武田氏で生じた家督争いに絡み、新当主に従わずにいた。
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◯びがいました そのため、1563年(永禄6)9月、武田氏の縁戚である越前朝倉勢が国吉城に攻め寄せた。
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城主居館の石垣、角は算木積みです 勝久は籠城してこれを撃退し、以降ほぼ毎年侵攻する朝倉勢と戦い続け、この城を守り通した
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石垣溝 1570年(元亀1)4月,勝久は、朝倉氏と敵対する織田信長と結んで、その軍勢を国吉城に迎えた
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中段石垣、野面積み 国吉城は朝倉攻めの本陣とされ、織田勢は敦賀に攻め寄せたが、江北の浅井氏の裏切りによって撤退を余儀なくされた。殿(しんがり)の木下藤吉郎や徳川家康がまず逃げ込んだのが佐柿国吉城でした
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シャガの群生、引っ張ると根がすぐ抜けるので、城の斜面によくあります 勝久はこれ以降も織田方に属し、1573年(天正1)の浅井朝倉氏滅亡の際も一乗谷へ出陣している
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クマガイソウの自生地 1582年(天正10)本能寺の変で自害した信長の後継者争いに端を発する柴田勝家と豊臣秀吉の対立では、このとき若狭国を治めていた丹羽長秀は秀吉方に与しており、柴田勢の侵攻に備えた城の改修を勝久に命じている
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背中に背負った母衣(ほろ)にみたてた グーグルより 賤ヶ岳の戦いののちには、勝久に代わって秀吉配下の木村重茲が若狭半国の領主として入城、城下の町割と整備を進めた
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九十九折の道 1585年(天正13)豊臣政権下で堀尾吉晴が一時この城に入り、丹羽氏による城代支配を経て木村重茲が再び入国した。
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木村重茲はのちに秀吉の甥、豊臣秀次の謀反疑惑事件に連座して自害を命じられている
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土塁 その後は若狭一国を領有した浅野氏、木下氏、京極氏の下で城代支配が続き、そののち酒井氏がこの地を領して明治維新に至った
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伝二ノ丸
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本丸下帯曲輪段石垣
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左、連続曲輪群
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本丸下北側堀切
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転用石
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Ⅱ郭からⅢ郭の曲輪間の高低差
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段石垣
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本丸北西虎口 鏡石もあります
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のぼりがライトアップされます
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本丸
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土塁
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本丸南隅櫓台
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本丸東虎口
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若狭湾
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国吉城の碑
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九十九折を降ります
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太陽の塔の横に「ミャクミャク」さんが居るそうです おわり
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