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日本の温泉で一番有名という草津温泉へ行ってきた。<br />【初日】<br />道の駅和田宿昼飯・中山道和田宿本陣→長久保宿本陣→笠取峠松並木→草津温泉湯浴み湯畑散策、宿泊<br />【二日目】<br />草津温泉→西の原露天風呂→公衆白旗の湯→JR吾妻線終点「大前駅」→上田城桜まつり→安楽寺→常楽寺石多宝塔→上田鉄道終着別所駅→前山寺三重塔→美ヶ原温泉宿<br />【最終日】<br />松本城→なわて通り→蕎麦こばやし→旧開智学校→下諏訪温泉公衆旦過の源湯→夕食ふきや→帰路

草津温泉と松本城、上田、美ヶ原温泉へ行ってきたぁ

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2026/04/08 - 2026/04/10

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nekosaruさん

日本の温泉で一番有名という草津温泉へ行ってきた。
【初日】
道の駅和田宿昼飯・中山道和田宿本陣→長久保宿本陣→笠取峠松並木→草津温泉湯浴み湯畑散策、宿泊
【二日目】
草津温泉→西の原露天風呂→公衆白旗の湯→JR吾妻線終点「大前駅」→上田城桜まつり→安楽寺→常楽寺石多宝塔→上田鉄道終着別所駅→前山寺三重塔→美ヶ原温泉宿
【最終日】
松本城→なわて通り→蕎麦こばやし→旧開智学校→下諏訪温泉公衆旦過の源湯→夕食ふきや→帰路

  • 中山道和田宿の本陣のおなり門<br />中山道和田宿本陣は、文久元年(一八六) 三月の 大火で焼失したが、同年十一月の皇女和宮降嫁にそ なえてただちに再建された。現在の御入門は丸子町向陽院へ移築された門の実測調査 により復元されたもの

    中山道和田宿の本陣のおなり門
    中山道和田宿本陣は、文久元年(一八六) 三月の 大火で焼失したが、同年十一月の皇女和宮降嫁にそ なえてただちに再建された。現在の御入門は丸子町向陽院へ移築された門の実測調査 により復元されたもの

  • 中山道は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、京都までの をいう場合もある。1日7里(28km)とすれば17日の行程である。<br />和田宿は、江戸板橋宿から28番目の宿場である。

    中山道は江戸の板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、京都までの をいう場合もある。1日7里(28km)とすれば17日の行程である。
    和田宿は、江戸板橋宿から28番目の宿場である。

  • 中山道和田宿 旅籠かわちや<br />文久元年三月十日の大火で焼失したが、その年の十一 月、本陣、協本等と同じく再建。 和田宿の旅籠のうちでは規模が 大きいである。出桁造りで格子 戸のついた宿場建物の代表的な道構であり、江戸末期の建築様式を よく伝えている。 「歴史の道資料館」となっている。

    中山道和田宿 旅籠かわちや
    文久元年三月十日の大火で焼失したが、その年の十一 月、本陣、協本等と同じく再建。 和田宿の旅籠のうちでは規模が 大きいである。出桁造りで格子 戸のついた宿場建物の代表的な道構であり、江戸末期の建築様式を よく伝えている。 「歴史の道資料館」となっている。

  • 中山道和田宿本陣<br /><br />この物は中山道和田の本陣として、文久元年(一八六一)に建設された ので にある。この年の三月には宿場の大半を大災で焼失し、十一月の皇女和宮降嫁の宿泊地とされていた和田宿では、 この使役を全うすべく幕府の拝借金を得て、宿 宿場の復興が行われその中心建物として再建されたものである。<br />建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷」と、本陣の所有者が生活する「居室」に別れており、この建物は「居室棟」にあたる。 <br />明治維新後は本陣の機能を終えて、村 村役場・農協事務所として昭和五十九年 四月まで使用されていたが、役場の新庁舎移転にともない解体の運命にあった。 しかし 調査の結果、和田宿における重要な構としての価値が認められ、往時の姿に復元された。

    中山道和田宿本陣

    この物は中山道和田の本陣として、文久元年(一八六一)に建設された ので にある。この年の三月には宿場の大半を大災で焼失し、十一月の皇女和宮降嫁の宿泊地とされていた和田宿では、 この使役を全うすべく幕府の拝借金を得て、宿 宿場の復興が行われその中心建物として再建されたものである。
    建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷」と、本陣の所有者が生活する「居室」に別れており、この建物は「居室棟」にあたる。
    明治維新後は本陣の機能を終えて、村 村役場・農協事務所として昭和五十九年 四月まで使用されていたが、役場の新庁舎移転にともない解体の運命にあった。 しかし 調査の結果、和田宿における重要な構としての価値が認められ、往時の姿に復元された。

  • 和田宿は下諏訪宿まで中山道随一の長丁場であるうえ、上り2里半、下り2里半という和田峠の難所 をひかえ、文久元年(1861) 11月の和宮通行の際は、4 日間に延8万人が通っている、という。<br />地元の案内係のおばちゃんの話では和宮さん降下のおり京都のお公家さんたちは人目のある所では優雅に振る舞っていたけど人目のないところでは結構お金に窮した過ごしぶりだった、ということが言い伝えでつたわっていると言っていた。当時は同行する者も迎える者も大変だったろうなと往時の苦労が感じられた。

    和田宿は下諏訪宿まで中山道随一の長丁場であるうえ、上り2里半、下り2里半という和田峠の難所 をひかえ、文久元年(1861) 11月の和宮通行の際は、4 日間に延8万人が通っている、という。
    地元の案内係のおばちゃんの話では和宮さん降下のおり京都のお公家さんたちは人目のある所では優雅に振る舞っていたけど人目のないところでは結構お金に窮した過ごしぶりだった、ということが言い伝えでつたわっていると言っていた。当時は同行する者も迎える者も大変だったろうなと往時の苦労が感じられた。

  • 長久保宿の宿

    長久保宿の宿

  • こちらは現当主のお宅でした。<br />史跡中山道 長久保宿旧本陣<br />【説明】長久保宿旧本陣は、17世紀後半の建築と推定される座敷棟 のほか、主屋跡や問屋場跡の遺構等が残る敷地全体が国の史 跡に指定されています。<br />長久保宿の創設当初から江戸時代を通じて石合家が本陣と 問屋を勤め、四代目当主のもとには真田信繁(幸村)の長女が 嫁いでいます。<br />当時の建物としては、大名や公家等の寛容が利用した「御 殿」と呼ばれる座敷様のほか、表門や土蔵が現存しています。<br />座敷様には、上段之間・二之間・三之 間・御小姓部屋・台子之間・入側(畳廊下) が残り、腰高障子や欄間、書院造り等の 格調高い内装は、本陣御殿の姿をよく伝えています。<br />構築年代は詳らかではありませんが、 江戸時代中頃の寛延二年(1749)の 絵図面に現状と同じ間取りが記載され ていることや、細部意匠の様式から17世 紀後半と推定され、中山道中では現存する最古の本陣建築であるといわれてい ます。<br />また、石合家には江戸時代初期からの 古文書や高札等の史資料が数多く保存 されていて、これらは町の文化財に指定 されています

    こちらは現当主のお宅でした。
    史跡中山道 長久保宿旧本陣
    【説明】長久保宿旧本陣は、17世紀後半の建築と推定される座敷棟 のほか、主屋跡や問屋場跡の遺構等が残る敷地全体が国の史 跡に指定されています。
    長久保宿の創設当初から江戸時代を通じて石合家が本陣と 問屋を勤め、四代目当主のもとには真田信繁(幸村)の長女が 嫁いでいます。
    当時の建物としては、大名や公家等の寛容が利用した「御 殿」と呼ばれる座敷様のほか、表門や土蔵が現存しています。
    座敷様には、上段之間・二之間・三之 間・御小姓部屋・台子之間・入側(畳廊下) が残り、腰高障子や欄間、書院造り等の 格調高い内装は、本陣御殿の姿をよく伝えています。
    構築年代は詳らかではありませんが、 江戸時代中頃の寛延二年(1749)の 絵図面に現状と同じ間取りが記載され ていることや、細部意匠の様式から17世 紀後半と推定され、中山道中では現存する最古の本陣建築であるといわれてい ます。
    また、石合家には江戸時代初期からの 古文書や高札等の史資料が数多く保存 されていて、これらは町の文化財に指定 されています

  • 笠取峠に残る松並木、現在は110本が残っているとのことでした。<br />和宮が輿の中からこの松並木を見て通ったのは文久元年11月8日のことであった。

    笠取峠に残る松並木、現在は110本が残っているとのことでした。
    和宮が輿の中からこの松並木を見て通ったのは文久元年11月8日のことであった。

  • 草津温泉熱乃湯の4時半の湯もみショーを待つ列、直前に券買って並べた

    草津温泉熱乃湯の4時半の湯もみショーを待つ列、直前に券買って並べた

  • 湯もみのおねえさんたち熱い湯をかぶりながら頑張っておられました

    湯もみのおねえさんたち熱い湯をかぶりながら頑張っておられました

  • さすが草津、あたりは硫黄の匂いが充満してた

    さすが草津、あたりは硫黄の匂いが充満してた

  • 湯量も豊富

    湯量も豊富

  • 湯畑の夜景

    湯畑の夜景

  • 部屋食でお風呂もよくていいお宿でした

    部屋食でお風呂もよくていいお宿でした

  • 翌日は朝から草津温泉西の河原の大きな露天風呂に入った。そこは万代鉱泉、湯量が豊富だ。自然の中の100人は入れる広々とした露天風呂に数人で独占してのんびり温泉出来た。<br />その後湯畑に行ったら湯畑泉の公衆白旗の湯(写真)があったのでここは無料だし入ってみた。小さな木製湯船が2つ、入っていたおじさんがこっちのがぬるいよ、という方へ入ったけどとんでもなく熱い。そのおじさんもこのお風呂二日目だけど今日は熱いと言っていた。水を入れてようやく1分程浸かれた。少し白濁した温泉だった。草津温泉湯畑の前にあって泉質も湯畑に近いらしい。確かに温泉に入ったという気分にはなる。近くに白旗原泉があり源頼朝が入ったお湯らしい。よかった。

    翌日は朝から草津温泉西の河原の大きな露天風呂に入った。そこは万代鉱泉、湯量が豊富だ。自然の中の100人は入れる広々とした露天風呂に数人で独占してのんびり温泉出来た。
    その後湯畑に行ったら湯畑泉の公衆白旗の湯(写真)があったのでここは無料だし入ってみた。小さな木製湯船が2つ、入っていたおじさんがこっちのがぬるいよ、という方へ入ったけどとんでもなく熱い。そのおじさんもこのお風呂二日目だけど今日は熱いと言っていた。水を入れてようやく1分程浸かれた。少し白濁した温泉だった。草津温泉湯畑の前にあって泉質も湯畑に近いらしい。確かに温泉に入ったという気分にはなる。近くに白旗原泉があり源頼朝が入ったお湯らしい。よかった。

  • 白旗湯畑<br /><br />建久四年(一一九三年)鎌倉 将軍頼朝が浅間山六ヶ原の 巻狩の折、この草津まで騎馬を進めあれはてた源泉地を改修し みずから入浴されたと伝へられ る。以来この湯を御座の湯と呼 び、その後いつの頃からの祠を建てて頼朝を祀った。現在の頼朝宮は天明二年(一七八二年) 八月に改築されたもので、草津温泉伝承(光泉寺藏温泉奇効記) を今に伝え、常温泉の入浴客の際い信仰をあつめてた。<br /><br />明治二十年、白旗の湯と改称 されたが、旧源泉は、この湯畑 に沈んでいる小さな湯枠の中と考えられる。草津温泉の開湯伝承、温泉信仰につらなる歴史的遺跡である。

    白旗湯畑

    建久四年(一一九三年)鎌倉 将軍頼朝が浅間山六ヶ原の 巻狩の折、この草津まで騎馬を進めあれはてた源泉地を改修し みずから入浴されたと伝へられ る。以来この湯を御座の湯と呼 び、その後いつの頃からの祠を建てて頼朝を祀った。現在の頼朝宮は天明二年(一七八二年) 八月に改築されたもので、草津温泉伝承(光泉寺藏温泉奇効記) を今に伝え、常温泉の入浴客の際い信仰をあつめてた。

    明治二十年、白旗の湯と改称 されたが、旧源泉は、この湯畑 に沈んでいる小さな湯枠の中と考えられる。草津温泉の開湯伝承、温泉信仰につらなる歴史的遺跡である。

  • 松本に向かう途中にあった吾妻線終着駅「大前駅」。夏の青春18切符の時期には若者が多く訪れるそうな。

    松本に向かう途中にあった吾妻線終着駅「大前駅」。夏の青春18切符の時期には若者が多く訪れるそうな。

  • 上田城桜まつり

    上田城桜まつり

  • 真田石 東虎口櫓門横に位置<br />大手の石垣に巨石を用いる 例は多く、城主はその権威を示 すために、大きさを競ったとい う。真田石は、真田信之が松代 に移封を命じられた際に、父の 形見として持っていこうとし たが、微動だにしなかったとい う伝承がある。現在ある石垣は 仙石忠政が造ったものである が、真田氏に寄せる人々の敬愛 の情がうかがえる伝承である。

    真田石 東虎口櫓門横に位置
    大手の石垣に巨石を用いる 例は多く、城主はその権威を示 すために、大きさを競ったとい う。真田石は、真田信之が松代 に移封を命じられた際に、父の 形見として持っていこうとし たが、微動だにしなかったとい う伝承がある。現在ある石垣は 仙石忠政が造ったものである が、真田氏に寄せる人々の敬愛 の情がうかがえる伝承である。

  • 昭和19年頃遊郭として使われていた上田城、との説明文<br /><br />

    昭和19年頃遊郭として使われていた上田城、との説明文

  • 本丸西橋は<br />に上田城主となった仙石忠政が行った、寛永 3年(1626)からの上田城復興工事の際 に建てられました。<br />現在本丸の東西虎口には隅橋が3棟ありま すが、南・北槽の2棟は、明治維新後、他所へ 移築されていたものを現在地に再移築したも のです。西槽のみが寛永期の建築当初の部材を 残し、外観もほぼそのままの姿を残す西槽は 全国的にも貴重な建物であり、昭和30年には南 機・北櫓とともに長野県宝に指定されました。 とのこと

    本丸西橋は
    に上田城主となった仙石忠政が行った、寛永 3年(1626)からの上田城復興工事の際 に建てられました。
    現在本丸の東西虎口には隅橋が3棟ありま すが、南・北槽の2棟は、明治維新後、他所へ 移築されていたものを現在地に再移築したも のです。西槽のみが寛永期の建築当初の部材を 残し、外観もほぼそのままの姿を残す西槽は 全国的にも貴重な建物であり、昭和30年には南 機・北櫓とともに長野県宝に指定されました。 とのこと

  • 安楽寺<br />日本遺産、木造惟仙和尚坐像 木造仁和尚坐像(重要文化)<br />安楽寺の創立は慈覚大師ともいい、宗派は天台あるいは 律宗とも考えられている。その後、信濃出身の・谷性値が 臨済寺院として中興開山した(現在は曹)、境内の伝芳堂に、 惟値と開山二世幼牛恵仁の等身大の僧侶の橋像「頂組」が並んで 祀られている。没後、弟子たちがその徳を慕い造立したもので、 安楽寺が鎌倉と同水準の禅宗文化を受容し、「信州の学海」として、 修行僧を多数輩出していたことがうかがえる。

    安楽寺
    日本遺産、木造惟仙和尚坐像 木造仁和尚坐像(重要文化)
    安楽寺の創立は慈覚大師ともいい、宗派は天台あるいは 律宗とも考えられている。その後、信濃出身の・谷性値が 臨済寺院として中興開山した(現在は曹)、境内の伝芳堂に、 惟値と開山二世幼牛恵仁の等身大の僧侶の橋像「頂組」が並んで 祀られている。没後、弟子たちがその徳を慕い造立したもので、 安楽寺が鎌倉と同水準の禅宗文化を受容し、「信州の学海」として、 修行僧を多数輩出していたことがうかがえる。

  • 国宝 八角三重塔説明<br />この塔は一見、四重塔に見えるが、昭和二十七年長野県 最初の国宝として指定された折り、初重の屋根はひさしに 相当する「裳階」であるという見解で、裳階付き八角三重塔として認定された。 建立年代については詳らかではないが、安楽寺が鎌倉北条氏の外護によって栄えた寺で、開山機谷惟仙禅師が入宋僧、二世幼牛恵仁禅師が中国よりの帰化僧として住職して いた頃、また当地に守護として信州一円に威を張った塩田 北条氏が館を構えていた鎌倉時代末期(一二七七~一三三 三) 以外に考えられないというのが定説になっている。塔は本来、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以後は特定の人物や戦死者の供養のために建てられた例が 多く、恐らくこの塔も北条氏の供養塔として建てられたも のと考えられる。<br /><br />建築様式は当時、中国宋代の先進技術であった唐様(禅宗 様)を用い、扇垂木・弓形連子・詰組など、和様の塔とは 違った重厚な佇まいを見せている。八角塔は奈良・京都などに記録として残されているが、それらが失われた今日、 我が国に残された唯一の八角塔であり、禅宗寺院に残る塔としても極めて貴重な遺構である。

    国宝 八角三重塔説明
    この塔は一見、四重塔に見えるが、昭和二十七年長野県 最初の国宝として指定された折り、初重の屋根はひさしに 相当する「裳階」であるという見解で、裳階付き八角三重塔として認定された。 建立年代については詳らかではないが、安楽寺が鎌倉北条氏の外護によって栄えた寺で、開山機谷惟仙禅師が入宋僧、二世幼牛恵仁禅師が中国よりの帰化僧として住職して いた頃、また当地に守護として信州一円に威を張った塩田 北条氏が館を構えていた鎌倉時代末期(一二七七~一三三 三) 以外に考えられないというのが定説になっている。塔は本来、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安したものだが、中世以後は特定の人物や戦死者の供養のために建てられた例が 多く、恐らくこの塔も北条氏の供養塔として建てられたも のと考えられる。

    建築様式は当時、中国宋代の先進技術であった唐様(禅宗 様)を用い、扇垂木・弓形連子・詰組など、和様の塔とは 違った重厚な佇まいを見せている。八角塔は奈良・京都などに記録として残されているが、それらが失われた今日、 我が国に残された唯一の八角塔であり、禅宗寺院に残る塔としても極めて貴重な遺構である。

  • 安楽寺から常楽寺まで徒歩10分程。細い道を歩くと茅葺き本堂がある。約300年くらい前の建物だ。<br />市指定有形文化財(建造物)<br />説明板に<br />「この本堂は、寄棟造、茅葺の建物で、正面中央に唐破風の向拝を 付けています。間取りは、前側に細長く広縁をとり、中央に外陣・内 陣があり、その両脇に部屋を配置する構成で、内陣の左脇の部屋が 「上段の間」となっています。この間取りは当初からのもので、ほとんど 改造されていません。また、間口が十間(約18m)あり、長野県内の 江戸中期後半の天台真言系本堂として屈指の規模を持っています。 寺の「分限帳」によれば、客殿(本堂)・本尊・庫裏の建立は四十六世 翁玄の代(「1710~38在住で、本尊の妙観察智阿弥陀如来坐像には 享保十年(1732年)の墨書があり、本堂の再建も本尊入仏と同じ 事保十七年頃であったと考えられます。建物の様式をみても、虹梁の 絵様・粗物・欄間などのように十七世紀後期の比較的古い様式を示す 部分と、柱が一間ごとに立たないという十八世紀中期以降の特色が 混在しており、享保末期~元文期(1730年代)の建築と考えられ ます。ただし、庫裏破風の向拝部分は、株式が本堂と若干異なっており、後に付け加えられたとみられます。<br />本堂の意匠は彫刻的な装飾は少なめですが、これは江戸中期に 属する本堂の特色で、常楽寺本堂は江戸中期後半の特色をよく 示した貴重な建築といえます」

    安楽寺から常楽寺まで徒歩10分程。細い道を歩くと茅葺き本堂がある。約300年くらい前の建物だ。
    市指定有形文化財(建造物)
    説明板に
    「この本堂は、寄棟造、茅葺の建物で、正面中央に唐破風の向拝を 付けています。間取りは、前側に細長く広縁をとり、中央に外陣・内 陣があり、その両脇に部屋を配置する構成で、内陣の左脇の部屋が 「上段の間」となっています。この間取りは当初からのもので、ほとんど 改造されていません。また、間口が十間(約18m)あり、長野県内の 江戸中期後半の天台真言系本堂として屈指の規模を持っています。 寺の「分限帳」によれば、客殿(本堂)・本尊・庫裏の建立は四十六世 翁玄の代(「1710~38在住で、本尊の妙観察智阿弥陀如来坐像には 享保十年(1732年)の墨書があり、本堂の再建も本尊入仏と同じ 事保十七年頃であったと考えられます。建物の様式をみても、虹梁の 絵様・粗物・欄間などのように十七世紀後期の比較的古い様式を示す 部分と、柱が一間ごとに立たないという十八世紀中期以降の特色が 混在しており、享保末期~元文期(1730年代)の建築と考えられ ます。ただし、庫裏破風の向拝部分は、株式が本堂と若干異なっており、後に付け加えられたとみられます。
    本堂の意匠は彫刻的な装飾は少なめですが、これは江戸中期に 属する本堂の特色で、常楽寺本堂は江戸中期後半の特色をよく 示した貴重な建築といえます」

  • 安楽寺から常楽寺まで徒歩10分程。細い道を歩くと茅葺き本堂がある。そこから少しはなれた山中に重要文化財の石の多宝塔があった。<br />「重要文化財 常楽寺石造多宝塔<br />材質・寸法 安山岩・総高七四センチメートル<br />銘文によれば、天長二年(八二五)、火焔の中から北向観音がこの地に出現した。そこで、木造の宝塔を建立したが、寿永年間(一一八二 ~八四)に焼失した。弘長二年(1262)本塔を造立し、金銀泥で書かれた一切経一部を奉納したとある。 石造多宝塔の類例は全国的に見ても少なく、特に重要文化財指定となると、本塔と滋賀県の小菩提寺の二基にすぎない。さらに 本塔は、笠や裳階が鎌倉時代の多宝塔の典型を示しており、全国的に 見てもたいへん貴重な遺例である。」

    安楽寺から常楽寺まで徒歩10分程。細い道を歩くと茅葺き本堂がある。そこから少しはなれた山中に重要文化財の石の多宝塔があった。
    「重要文化財 常楽寺石造多宝塔
    材質・寸法 安山岩・総高七四センチメートル
    銘文によれば、天長二年(八二五)、火焔の中から北向観音がこの地に出現した。そこで、木造の宝塔を建立したが、寿永年間(一一八二 ~八四)に焼失した。弘長二年(1262)本塔を造立し、金銀泥で書かれた一切経一部を奉納したとある。 石造多宝塔の類例は全国的に見ても少なく、特に重要文化財指定となると、本塔と滋賀県の小菩提寺の二基にすぎない。さらに 本塔は、笠や裳階が鎌倉時代の多宝塔の典型を示しており、全国的に 見てもたいへん貴重な遺例である。」

  • 上田電鉄、別所温泉駅に保存されてる昔の車両。

    上田電鉄、別所温泉駅に保存されてる昔の車両。

  • 別所温泉駅、終点だ。

    別所温泉駅、終点だ。

  • 安楽寺常楽寺から車で10分ほど三重塔があるという前山寺を訪ねた。<br />前山寺は塩田城の鬼門に位置し、その祈願寺と伝わる。また信濃四談林とされ、信州の学海としての役割を担った歴史ある寺である。<br />前山寺縁起<br />「当山は、新義真言宗の寺院で、本尊は大日如来、 かつては信州四ヶ談林の中に数えられた経学の 堂であり、塩田城の鬼門に位置してその祈願寺でもあった。<br />独股山を護摩修業の霊場として 創立、はじめは古義真言にして法相・三論両宗を 兼ね、法蔵坊・花藏坊・地蔵院といっていたが、 鎌倉時代に讃岐国善通寺の長秀上人、伽藍建立を 発頼しでこの地に表止し、その規模を拡大して、正法院 前山寺としたと伝えられている」

    安楽寺常楽寺から車で10分ほど三重塔があるという前山寺を訪ねた。
    前山寺は塩田城の鬼門に位置し、その祈願寺と伝わる。また信濃四談林とされ、信州の学海としての役割を担った歴史ある寺である。
    前山寺縁起
    「当山は、新義真言宗の寺院で、本尊は大日如来、 かつては信州四ヶ談林の中に数えられた経学の 堂であり、塩田城の鬼門に位置してその祈願寺でもあった。
    独股山を護摩修業の霊場として 創立、はじめは古義真言にして法相・三論両宗を 兼ね、法蔵坊・花藏坊・地蔵院といっていたが、 鎌倉時代に讃岐国善通寺の長秀上人、伽藍建立を 発頼しでこの地に表止し、その規模を拡大して、正法院 前山寺としたと伝えられている」

  • 前山寺(ぜんざんじ)三重塔:重要文化財<br />「この塔の特徴は、柿葺きこけらぶき二層三層に扉も窓もなく、また。 廻縁も勾欄もなく、横板壁を張りつめ、各柱の下部からは長い貫が四方に突出ていることである。<br />これは、未完成のためで、各社の上部壁ぎわに切り込みがあることからも肯ける。しかし、見た目には不自然さん感じられず、安定と調和と保つみごとな姿だといえる。<br />この塔の様式は、鎌倉時代末期にはしまった和様と禅宗様との折衷様式である。<br />建立年代は、様式上室町時代と推定される」

    前山寺(ぜんざんじ)三重塔:重要文化財
    「この塔の特徴は、柿葺きこけらぶき二層三層に扉も窓もなく、また。 廻縁も勾欄もなく、横板壁を張りつめ、各柱の下部からは長い貫が四方に突出ていることである。
    これは、未完成のためで、各社の上部壁ぎわに切り込みがあることからも肯ける。しかし、見た目には不自然さん感じられず、安定と調和と保つみごとな姿だといえる。
    この塔の様式は、鎌倉時代末期にはしまった和様と禅宗様との折衷様式である。
    建立年代は、様式上室町時代と推定される」

  • 美ヶ原温泉、落ち着いた宿和泉屋善兵衛、料理もお風呂よくていいお宿でした、

    美ヶ原温泉、落ち着いた宿和泉屋善兵衛、料理もお風呂よくていいお宿でした、

  • 桜満開の松本城

    桜満開の松本城

  • 現存のお城はどこも急階段。

    現存のお城はどこも急階段。

  • 天守の屋根裏には「奉鎮祭二十六夜神」をお祀りした神棚があった。<br /><br />松本城のHPには<br />二十六夜神伝説が載っていた。<br /> 「戸田康長が松本城に入ってむかえた初めての新年、元和4 (一六一八) 年正月26日の夜のこと。持筒頭の 川井八郎三郎という武士が、本丸御殿で夜中の城の守りをしていました。<br />ちょうど月が出たころ、だれかが自分の名前をよんで いるのが聞こえました。ふり向いてみると、緋(赤) のはかまをつけたきれいなお姫様が立っていました。 思わず八郎三郎はその場にひれふしました。<br />お姫様は、錦の袋を八郎三郎にあたえながら、「これから、二十六夜様をまつり、米3石3斗3升3合3勺をたいて祝えばお城は栄えていくでしょう。ただ し、この袋の口は決して開けてはなりません」とい うと、天守の上の方へ消えてしまいました。<br />八郎三郎は、このことをお殿様の康長に伝えました。 康長は、天守六階の梁の上に二十六夜様をおまつり し、いわれたとおり、2月から毎月26日にはおもち をそなえて、おまつりしました。<br />享保12 (一七二七) 年、本丸御殿が火事にあったと き、天守が焼けなかったのは二十六夜様のおかげだと 語り伝えられています」とのこと。

    天守の屋根裏には「奉鎮祭二十六夜神」をお祀りした神棚があった。

    松本城のHPには
    二十六夜神伝説が載っていた。
    「戸田康長が松本城に入ってむかえた初めての新年、元和4 (一六一八) 年正月26日の夜のこと。持筒頭の 川井八郎三郎という武士が、本丸御殿で夜中の城の守りをしていました。
    ちょうど月が出たころ、だれかが自分の名前をよんで いるのが聞こえました。ふり向いてみると、緋(赤) のはかまをつけたきれいなお姫様が立っていました。 思わず八郎三郎はその場にひれふしました。
    お姫様は、錦の袋を八郎三郎にあたえながら、「これから、二十六夜様をまつり、米3石3斗3升3合3勺をたいて祝えばお城は栄えていくでしょう。ただ し、この袋の口は決して開けてはなりません」とい うと、天守の上の方へ消えてしまいました。
    八郎三郎は、このことをお殿様の康長に伝えました。 康長は、天守六階の梁の上に二十六夜様をおまつり し、いわれたとおり、2月から毎月26日にはおもち をそなえて、おまつりしました。
    享保12 (一七二七) 年、本丸御殿が火事にあったと き、天守が焼けなかったのは二十六夜様のおかげだと 語り伝えられています」とのこと。

  • 崩壊寸前の古写真

    崩壊寸前の古写真

  • コンクリートじゃなく本物、木造迫力ある

    コンクリートじゃなく本物、木造迫力ある

  • 桜の四柱神社

    桜の四柱神社

  • なわて通り

    なわて通り

  • 国宝旧開智学校、松本城から徒歩10分ほどだが駐車場もある。

    国宝旧開智学校、松本城から徒歩10分ほどだが駐車場もある。

  • 下諏訪温泉公衆温泉「旦過の湯」、いいお湯でした。<br />

    下諏訪温泉公衆温泉「旦過の湯」、いいお湯でした。

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