2025/10/14 - 2025/10/15
750位(同エリア1498件中)
Bachさん
毎年恒例にしている「4組夫婦の旧交旅」で、今年は「鎌倉殿の13人」の舞台「源氏・北条の里」へ旅しました。
同期入社の仲間4人の夫婦同伴旅で、毎年1回の再会が現役時代から始まって、今年はちょうど30回目、現在は大阪と京都と横浜から集合し、お互いの存命を確認し合うという、毎年楽しみのイベントです。
源氏・北条ゆかりの地は、京都にも沢山ありますが、関東地方では鎌倉以外行ったことがなく、北条氏のルーツと源頼朝の足跡を巡るコースは、京都から鎌倉に舞台が移った歴史の流れを理解する上で大変興味深く、また「韮山城」を居城とした「北条早雲」と「北条氏」は全く無関係であるとか、お台場の大砲を造った明治遺産の「韮山反射炉」が何故ココにあるのか、韮山の「眞珠院」では、頼朝の妻・政子と最初の妻・八重姫との三角関係の内情について、三島の「楽寿園」では、1万年前の富士山の大爆発の恩恵を受けて今の「水の都」と呼ばれる三島の街が出来ているとか、新しい発見も沢山あって大変参考になりましたが、
なによりも最大の収穫は、この地で結ばれた「頼朝と政子の夫婦像」の前で、我々4組夫婦が長い年月を経ていまだに夫婦を続け、遺影となるかもしれない?記念写真を撮ることが出来たことで、最後に、富士山の恩恵を受けて美味しくなった「三島のウナギ」を食べて、また元気になって、お互いの存在に感謝しながらそれぞれの帰途につきました。
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(行程)10/14(1日目)京都(こだま9:10-11:49)~三島駅12:00~(タクシー20分)13:00三島スカイウォーク~15:00三島駅~(伊豆箱根鉄道)~伊豆長岡駅~(タクシー10分)~16:00ホテル
(2日目)9:30ホテル~(観光タクシー)~4km 9:50韮山反射炉~4km 10:30江川邸~韮山城址~2km 11:00蛭ヶ小島~北条氏邸(円城寺)跡~北条氏氏寺・願成就院~3km 11:30眞珠院~1km 12:00伊豆長岡駅~12:30三島駅~(三島市内)~13:00ランチ~14:00楽寿院~14:40三島駅(こだま14:55~17:34)~京都駅 -
(1日目)「京都駅」出発(こだま9:10発)
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奮発してグリーン車にしたが、満席状態の「のぞみ」に比べ、「こだま」はガラガラ
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各停の「こだま」で、のんびり外を眺めながら行こうと思ったが、あいにく富士山は見えず(最速ひかり 1時間50分のところ、こだまは 2時間40分)
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「三島駅」到着(11:50着)
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「三島駅」から「三島スカイウォーク」へ(約10km)
本日は、富士山は見えそうもないので、タクシーの運転手さんが自慢の写真で説明をしてくれた -
13:00 まず向かったのは、日本一の「ラグジュアリートイレ」
日本庭園もある、総工費2億円の自慢のトイレだが、豪華なのは女子トイレだけ -
「三島スカイウォーク」
2015年に開業した、全長400mの日本一長い人道吊り橋で、因みに自動車も通行する橋で最長は3,911mの「明石海峡大橋」 -
静岡県でパチンコ店を経営する「フジコー」が、地元振興のために、総工費約40億円をかけて建設したという
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突然、悲鳴が聞こえてきた方向を見ると「ジップライン」
片道300mを約10分で滑走する、大人3,100円~ -
渡ったところに、橋の構造が見える
これは、「アンカーブロック」といって、「ケーブル」の両端を大地に固定する巨大なコンクリートブロックで、ケーブルにかかる橋全体の荷重を支える最も重要な部分、この「ケーブル」が大きな左右の「主塔」に架けられ、垂直に垂れた「ハンガーロープ」で人が通行する「橋桁」を吊り下げるという構造で、1㎡当たり200kgの人の重さまで、風速65m/sまで、地震には阪神淡路大震災や東日本大震災クラスにも耐えられる、設計に1年半、施工に3年2ヶ月かかったという -
これまで最長の、2006年開通した大分県九重町にある「九重夢大吊橋」390 mを10m抜いて、2005年日本一になったが、最新情報では、今年2025年3月に開業した大阪府茨木市の「ダムパーク」にある吊り橋で 420m、が、今後どうするのだろうか
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日本一長い吊り橋から、日本一深い駿河湾と、日本一高い富士山、の3つの日本一を眺めることができる、と唄っているが、富士山が見えない日は割引きして欲しい
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15:00 伊豆箱根鉄道駿豆線「三島駅」へ
「駿豆線」(すんずせん)は、駿河国と伊豆国の意味 -
伊豆箱根鉄道「駿豆線」で「三島駅」から「伊豆長岡駅」へ
JR「伊豆の踊り子号」は、東京からJR線で、「三島」から「伊豆箱根鉄道駿豆線」で修善寺行きへ、「伊東」から「伊豆急行線」で下田行きへ乗り入れる -
「伊豆長岡駅」到着
熱海、修善寺と並ぶ「伊豆三古湯」と呼ばれる「伊豆長岡温泉」へのアクセス駅 -
16:00 「ホテル」到着
1982年創立のリゾートホテルで、バブル期に拡大して、コロナ期を何とか乗り越えた感じのホテル -
「ウエルカムドリンク」で一休み
バブル期の面影が数多く残っていて、入ってすぐの所に立派な「和風庭園」があり、館内いたるところに「絵画」が飾ってある -
「和風庭園」
池を中心とした「池泉回遊庭園」で、手入れも行き届いて立派! -
庭に出て、園路を回遊すると、庭石や灯篭がふんだんに置かれ、築山や中の島、橋、東屋、手水鉢、蹲踞などの庭園要素を配し、植栽もゴヨウマツ、サツキ、ツツジ、サクラ、モミジなど四季を楽しむように造られていて、今どき簡単に作れるものではない
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庭園奥から池に水を引き入れてる「滝口」の石組も、年季が入った感じで立派!
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この庭園だけ見ても、ホテルの歴史と、経営者のセンスが伺えて、是非いつまでも維持して欲しいと思う
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「全館美術館」
ホテル玄関からいきなり、大きな額絵・これは濱田台児の木版画「夢殿」があり、いたる所に著名な絵画が飾られている -
このホテルでは、6,000点の作品を所有し、その内この本館には日本を代表する画家の作品500点以上を展示しているという、上村松園や、奥村土牛、加山又造、東郷青児、平山郁夫など聞いただけでも凄い!
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見ただけで分かる「平山郁夫」作品も多い
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全て本物ではないと思うが、こちらの作品は「平山郁夫・原画コーナー」と書いてあるから本物に違いない 「平等院鳳凰堂」「月光斑鳩の里」など3点
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「東海道五十三次」
歌川広重の浮世絵に描かれた、江戸から京都までの53の宿場の絵は見ていて面白い! ここで京の三条大橋を「京師」(きょうし)と表しているのに引っ掛かったが、これは「京」は「大」、「師」は「衆」を意味し、多くの人が集まる大きな都、即ち「京都」を指す言葉として歴史的な文学作品では使われたという -
「北投石」(ほくとうせき)の温泉
大浴場に行くと、ガンが治るといわれる奇跡の石「北投石」を使った湯ぶねとサウナがあって、ビックリ! 聞いたところによると、使われている「北投石」は、2,000万円!、「北投石」は、台湾の北投温泉と秋田県の玉川温泉でしか採れないと言われ、ラジウムを放射して細胞を活性化させ免疫力を増大させるので、がんの湯治場として古くから有名で、1952年に特別天然記念物に指定されてからは採取できないので、極めて貴重で、玉川温泉に行ったのと同じ効果がある -
30年続いた同期仲間旅の「最後の晩餐」
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高齢者には、品数も量も多すぎるメニュー
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(2日目)朝
朝風呂に入って、庭園を見ながら朝食 -
「朝食」
近くの丹那高原の牛乳、沼津の干物、蒲鉾、シラス、梅干しが美味しかった! -
9:30 ホテルを出発して、観光タクシーで「韮山反射炉」へ
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9:50「韮山反射炉」(にらやまはんしゃろ)
平成27年(2015)「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録 -
「明治日本の産業革命遺産」
幕末期に西洋技術を導入し、日本の伝統文化を融合させ、急速な発展をとげた炭鉱、鉄鋼業、造船業に関する8地区、23施設で、(萩地区)萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾、(鹿児島地区)旧集成館、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝、(韮山地区)韮山反射炉、(釜石地区)橋野鉄鉱山高炉跡、(佐賀地区)三重津海軍所跡、(長崎地区)小菅修船場跡、三菱長崎造船所第三船渠、三菱長崎造船所クレーン、三菱長崎造船所旧木型場、三菱長崎造船所占勝閣、高島炭坑、端島炭坑、旧グラバー住宅、(三池地区)三池炭鉱、三池港、(熊本地区)三角西旧港、(八幡地区)八幡製鉄所、遠賀川水源地ポンプ室 -
韮山反射炉を造った「江川英龍」(えがわ ひでたつ)
江戸末期1853年のペリー来航で、日本は外国の脅威にさらされ、幕府は江戸湾海防の実務責任者となった韮山の代官「江川英龍」に、「台場築造」と「反射炉の建造」を命じ、その年の12月に着工したが、1855年、英龍は竣工を見ることなく病死してしまい、息子の英敏が佐賀藩の助力を得て1857年完成し、西洋式大砲が鋳造された *ペリーは翌1854年に再び江戸湾に現れたが、この砲台のおかげで横浜まで引き返したという -
10:30「江川邸」へ
「韮山反射炉」を造った「江川英龍」の生家で、江戸時代に幕府の韮山代官職を世襲した江川家の屋敷(残念ながら当日は休館で入場できず) -
「江川邸」(えがわてい)
平安時代から続く「江川家」のお屋敷で、現在の建物は江戸から大正時代にかけて建築され、現存する邸宅建築として国指定重要文化財にもなっており、江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気は、2018年NHK大河ドラマ「篤姫」のロケ地としても使われた -
「江川家住宅」国指定重要文化財
(説明板)江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。現存の家屋の主屋は室町時代(1336~1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。同35年より文化庁、静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。またその際萱葺きだった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。江川氏は徳川時代の初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等をすすめたことで知られている。昭和42年に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。江川家住宅及びその周辺の重要文化財は次のとおりである。江川家住宅宅地 11837平方米、同 主家、同 付属建屋、書院、仏間、土蔵等 -
お屋敷の前の「枡形」(ますがた)
門前に、城の出入り口(虎口)によく見かける「枡形」があり、これは敵の侵入を防ぐためではなく、代官外出の際に人数を数えたり、幕末に農兵の訓練場として使っていたそうで、この時使われていた「右向け、右」「気をつけ、前へならえ」という号令は、「江川英龍」がオランダ語の号令を翻訳し、日本人に分かり易いように作ったと言われる -
「表門と主屋玄関」
休館で内に入れないが、「表門」は、江戸時代の1696年建築、1823年修復、2000年に屋根の葺替えを行った薬医門(やくいもん)、「主屋」は、室町時代創建部分と江戸時代修築部分が含まれ、元々は茅葺き屋根であったが近年瓦葺屋根を銅板に葺替えられた。800年前から天井に収められている日蓮聖人の「火伏せのお札」と呼ばれる曼荼羅のためか、現在まで火事に遭っておらず、屋敷に所蔵する史料がそのまま残っており、歴史の流れを見ることが出来る -
第36代当主「江川英龍」(えがわひでたつ)1801-1855
鎌倉時代から続く大和源氏の系統で、江戸時代から伊豆韮山代官となり、代官9代目、代官をしながら砲術を学び、佐久間象山・橋本左内・木戸孝充らにも教授し、韮山反射炉や品川台場など海防の充実に尽力し、絵画や書にも優れ「坦庵」(たんなん)の雅号でも知られる -
裏口から入ると、「主屋」の裏手には、外庭が広がり、5つの蔵や、茶道の世界で有名な「韮山竹」の竹林など見ることができる *「韮山竹」(にらやまだけ)は、根元に「雪割れ」と呼ばれるひび割れが入ったものが、茶道で千利休が花入れとして珍重したことで知られる貴重な竹
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「南蔵」(明治25年建築の米蔵)、「北蔵」(大正8年建築の米蔵)、「東蔵」「西蔵」「武器蔵」(幕末建築)の5つの蔵がある
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「古井戸」
元禄時代まで、この井戸の水を使って日本酒を作っていたそうで、江川家15代が北条時頼に献じ、18代が「北条早雲」より「江川酒」の名を賜わり、徳川家康も鷹狩りで献上された「江川酒」を賞美し褒めたと伝わる -
「パン祖の碑」(碑文徳富蘇峰)
江川英龍は江戸期の1842年頃、日本で初めてパンを焼いたとされ、全国パン協会がこれを認めて「パン祖」としてこの碑を建て、初めてパンを焼いた4月12日を「パンの日」にして、土間にある竈に年に一度の火入れが行われ、当時のレシピを再現したパンを焼いて振る舞うイベントが行われるという。パンは、国防上の観点から考えたもので、米だと炊くのに煙が出て敵に見つかるので、兵隊の携帯食として保存性の高い乾パンのようなもので、当時のレシピは大切に保管されている -
「びらん樹」(毘蘭樹)
「バクチノキ」(博打の木)とも呼ばれる面白い名前の珍しい木で、樹齢と共に樹皮が剥がれる様子が、博打に負けて着物を脱がされる博徒に例えた命名、「ビランジュ」は、この木の北限にあたる、小田原の飛乱地(びらんじ)にある樹齢350年の名木が国の天然記念物となっていることからの命名 -
「裏門」(北門)
江戸時代の1832年建築で、門扉はもっと古く、 1590年「韮山城」が豊臣秀吉の軍勢に包囲された時の砦だった時、激しい攻撃を受けた鉄砲や矢の跡などが数多く残る -
裏門からの富士山
今日は見えないが、天気の良い日には「額縁の富士山」が見える -
「韮山城址」(にらやまじょうし)
「韮山城」は、15世紀末に「北条早雲」(ほうじょうそううん)の拠点になり、伊豆から関東に領土を広げ、1501年小田原城を拠点とした後も、1519年没するまでここを居城とし、重要拠点の一つであったが、その後1590年に豊臣秀吉による小田原征伐で、軍勢が迫ったため約100日間籠城したたものの敗れて1601年廃城となり、現在の「韮山城」の敷地は殆ど韮山代官「江川家」の持ち物となっている -
「北条早雲」と「北条氏」の関係
「北条早雲」(1432-1519)は、戦国時代に相模国を統一した小田原城城主、「北条氏」は、源頼朝亡き後、1203~1333年まで鎌倉幕府の実権を握った執権政治を続けた一族で、何の関係もない。姓が同じなのは、いずれも「伊豆国北条」を拠点としたからで、「北条氏」は、平氏一族の平時家がこの地に住んで「北条」を名乗ったのが始まりで、「北条早雲」は、伊豆を支配した本拠が「韮山城」で、早雲の子・氏綱が鎌倉北条氏の系統であることを示すために性を変えたのだという、から全然無関係でもない -
10:00「蛭ケ小島」(ひるがこじま)へ
永暦元年(1160)源頼朝公配流の地 *「蛭ヶ小島」は、水田の中にあったので蛭(ひる)が多かったことからの命名と言われる -
10:00「蛭ヶ島公園」(ひるがじまこうえん)
(駒札)源頼朝は14歳の時、平治の乱に敗れ、伊豆に配流されました。その後20年間流人として過ごしました。ここ蛭ケ島は頼朝が流人生活を送った場所と伝えられています。公園内には、江戸時代に伊豆の地誌「豆洲志稿」を著した相山冨南が、この場所を頼朝配流の地と考証したことを記念する「蛭島碑記」(ひるがしまひき)があります。また、平成16年に富士山に向かって頼朝と政子が寄り添うブロンズ像「蛭ヶ島の夫婦」が建てられました。 -
「蛭ヶ島」(源頼朝配流の地跡)
(説明板)このあたりを、韮山町蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐(ひょうえのすけ:頼朝)配流の地といわれている。狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかではない。しかし、「吾妻鏡」(あずまかがみ)の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻・政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5粁の守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ケ島で過ごしたものといえよう。当公園中央部にある「蛭島碑記」の古碑は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。 -
「蛭島碑記」(ひるがしまひき)
寛政2年(1790)、伊豆の地誌「豆州志稿」(ずしゅうしこう)を著した「秋山富南」(あきやまふなん)が、この地を頼朝が流された地と考証したことを記念して建立された -
「秋山富南頌徳碑」(あきやまふなんしょうとくひ)
「豆州志稿」の増訂に当った萩原正夫(明治の政治家)が、「秋山富南」を称えて、明治26年(1893)に建立した -
頼朝と政子「梛(なぎ)の葉の縁結びの碑」
(説明文)北条時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、31歳の源頼朝と21歳の北条政子は恋に落ちました。源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を伊豆国の目代である山木判官 平兼隆の元に嫁がせようと企てますが、祝言の晩、政子は山木館を脱出し、熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も北条時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と相会することができたのです。かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめでたく夫婦になることができました。近世中期の投節(なげぶし)のひとつに ♪こんどござらば持て来てたもれ、伊豆のお山の梛の葉を。♪ という歌があります。「こんどおいでになるときには、伊豆のお山のなぎの葉を持って来て下さいね」という願いのうちに「それをお守りにしたいから。」との意がこめられています。女の方から男に言った言葉です。当寺の俗信では、梛の葉を鏡の裏に入れて「お守り」にすると願いごとがかなう(結ばれる)とされていました。「伊豆のお山」とは伊豆山権現のことです。源頼朝と北条政子の熱烈な恋愛は伊豆山権現で成就したのですから、この故事にならって梛の葉は、当時の娘たちのあこがれであり、願いであったことでしょう。梛を鏡の裏のお守りにすることは、寛永の頃こら享保の頃まで流行したようです。*「梛の葉」は、縦に繊維があるため葉が横に割けにくく簡単には破れない -
「蛭ヶ島の夫婦(ふたり)」
富士山を見つめる31歳の「頼朝」と21歳の「政子」の像、2003年に寄贈されたもで、「二人はこの地で結ばれる、日本史上にその名を残す二人の若き日の姿である」と書かれている -
「源頼朝」は、12歳から後白河上皇の皇子「二条天皇」に仕え、エリートコースを歩んでいたが、1159年13歳の時に、父・源義朝と共に平清盛らを相手に「平治の乱」を戦って敗れ、平清盛の継母・池禅尼の命乞いにより奇跡的に助命され、翌1160年、14歳で蛭ヶ小島に配流され、父の菩提を弔いながら20年間を過ごした、その間平清盛は後白河法皇近臣としてその権力拡大を成し遂げ、後白河院も平氏の軍事力を利用して反院政派を抑えたが、独裁が過ぎて後白河院と対立することになり、1180年、平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まっていた源頼政の勧めによって、後白河法皇の皇子「以仁王」(もちひとおう)が平氏追討を全国の源氏に発した令旨を受け、頼朝も源氏再興の兵を挙げ、1185年壇ノ浦で平家を滅ぼし、1189年奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉に武家政権の府を誕生させ、1192年征夷大将軍に任命されたが、1199年相模川の橋供養の帰りに落馬し、その怪我が原因で52歳で亡くなった
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(COPY)「北条氏邸・円成寺跡」(ほうじょうしてい・えんじょうじあと)(蛭ヶ島から「北条氏邸跡」「北条氏氏寺」を経由して「眞珠院」へ
北条氏の館があった所で、1333年鎌倉幕府の滅亡後、北条一族は鎌倉から韮山に戻り、館の跡に北条氏の冥福を祈って「円成寺」を建て、尼寺として江戸時代まで続いたが廃寺となり、現在は発掘調査が行われ整備中 -
(COPY)北条氏氏寺「願成就院」(がんじょうじゅいん)
1189年、源頼朝による奥州征伐の戦勝を祈願して北条時政によって建立されたが、境内には北条時政の墓があり、「北条氏の氏寺」となっている -
11:30「眞珠院」(しんじゅいん)
鎌倉初期、源頼朝との仲を裂かれ、真珠ヶ淵に入水した伊東祐親(いとうすけちか)の娘「八重姫」(やえひめ)が祀られる、「八重姫」は、北条政子を妻に迎える前の最初の妻 -
「伊東八重姫入水の地」
「源頼朝」は、1160年伊豆に流罪となり、監視役である豪族「伊東祐親」の娘と結ばれ男児も設けたが、父親は激怒し3歳の男児を処しただけではなく、源頼朝を暗殺しようとし、頼朝は「北条時政」の邸宅へ逃亡し、そして「北条政子」と結婚することになるが、八重姫は、悲しみに暮れる日々を送る中、遂に意を決し頼朝の身をかくす北条時政邸の門をたたき、既に政子と結ばれていることを知ると、我が舘に帰る術もなく、「真珠ヶ淵」に身を投じてしまった -
「眞珠院」は、鎌倉時代初期に真言宗の寺として創建され、室町時代に曹洞宗に改宗されているが、「八重姫」の供養堂があることから、身を投げたとされる「真珠ヶ淵」に因んで「眞珠院」としている
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「八重姫御堂」(静堂)(やえひめみどう しずかどう)
鎌倉初期、源頼朝との恋にやぶれ悲恋の入水をした伊東ハ重姫をまつる御堂で、堂内正面に八重姫の木像を安置し、下に供養塔を収める。堂の右手の大木は「那木」(なぎ)といい、この葉は横に割けず、愛のお守りとして、又、家族平穏のお守りとして持つと功徳があるという。堂左前にある「願かけ石」は、自分の年の数だけ石をたたき、願い事をすると必ず成就すると古来より伝えられている *「静堂」と呼ばれるのは、似たような境遇であった「静御前」(源義経の愛妾で愛児を頼朝に殺された)が同情して建てたという説もあることから -
「八重姫主従七女之碑」
八重姫に従っていた侍女6人が、真珠ヶ淵に身を投げた八重姫を葬り弔ったのが真珠院の始まりといわれ、八重姫を葬った侍女たちは、伊東へ帰る途中で自害したという -
参道を進むと、正面に「本堂」、右側に「庫裡」がある
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参道の両側は、いろんな種類の灯籠や植栽、石組など、日本庭園を感じさせるような枯山水庭園になっている
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参道脇の石灯籠や五重石塔
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「十三重塔」
何となく多重になれば高貴そうに見えるが、塔はもともと仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるもので、多層の塔は功徳を積むための象徴として、遠くからでも参拝できるように高く建てて仏教の信仰を集めるのが目的で、特に身分とかは関係ない -
12:00「伊豆長岡駅」へ
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12:30 再び「三島駅」
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ランチで、駅前の「うなぎ屋」さんに入ったが、満席で入れず
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仕方ないので、「三島のウナギ屋」さんを探して、市内を散策
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「源兵衛川」(げんべえかわ)
「水の都」と呼ばれる「三島市」の市街地を流れる清流で、富士山の伏流水を源流とし、戦国時代に伊豆の守護代「寺尾源兵衛」が開削した灌漑用水路が、今でもバイカモやゲンジボタルも見えるほど奇麗な形で守られており、「ウナギの三島」と言われる由縁にもなっている -
「時の鐘」三石神社(みついしじんじゃ)
江戸時代初期に、三石神社の境内に設置されたのが始まりで、当時から三島宿の住民や旅人達に愛され、三島八景の1つにも数えられていたが、第二次世界大戦で軍に没収され、昭和25年(1950)に再建され、今でも毎日夕方6時に鳴らされている -
(COPY)「三嶋大社」(みしまたいしゃ)
今回はスルーしたが、「三嶋大社」は、伊豆に流された源頼朝が深く崇敬し、源氏再興を祈願し成就したことで伊豆国で最も格式の高い神社となった。もともと奈良・平安時代から記録が残っていて、伊豆諸島の噴火を畏れた人々から篤く崇敬され、中世に入り源頼朝始め多くの武家からの崇敬を集め、以降も東海道の宿場町として栄えた三島を往来する庶民からも篤く信仰された *「源頼朝ゆかりの三社詣」は、「三嶋大社」と、関東武士の崇敬を受けてきた「箱根神社」と、頼朝と北条政子が結ばれた熱海の「伊豆山神社」 -
ウナギ屋「すみの坊」
やっと探し当てたお店は、綺麗な立派な建物で、聞いたら近年2022年に建て替えたらしく、1958年創業の老舗、「富士の湧水にさらされた三島のうなぎは臭みがなく、余分な脂が落ちて身が引き締まることで美味しくなります」とある -
焼き上がりは見えるようになっており、長年継ぎ足した秘伝のタレで、じっくり丁寧に焼き上げるのは、老舗ならではの技だとアピールしている
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「並うな重」(5,060円)を注文
背開き、蒸してから焼く関東風で、秘伝のタレと羽釜炊きのご飯が調和して、クド過ぎず、ふっくらとして美味しい *関西風は腹開き、蒸さないが、浜松あたりで分かれる -
「楽寿園」(らくじゅえん)
三島駅への途中で立ち寄った「楽寿園」は、西南戦争をおさめるなど明治維新で活躍された「小松宮彰仁親王」(こまつのみやあきひとしんのう 1846-1903)が、明治23年(1890)に別邸として造営され、没後所有者が代わったが、昭和27年(1952)三島市が購入し市立公園として一般公開している -
「楽寿園」案内板
「正門」から入場して、「駅前口」から退場して「三島駅」へ -
「楽寿園」の敷地は、古くは古墳時代の跡があり、江戸時代には三嶋大社や浅間神社などの領地でもあったが、約1万年前の富士山の噴火で流れ出した溶岩流がここで止まった時の溶岩が大量に残っている
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「三島溶岩流」とは
約1万年前の富士山の噴火によって流出した大量の玄武岩の溶岩が、三島市付近に到達して固まった溶岩流のことで、三島市の大地を形成し、 溶岩の隙間を通り抜けた豊富な湧水が「水の都」を作っている -
「縄状溶岩」(なわじょうようがん)とは
溶岩が陸上でゆっくりと冷え固まって、縄をねじったような模様になった溶岩で、溶岩がそのままドーム状に固まった「溶岩塚」(ようがんつか)も見られる -
「楽寿園」は、富士山の溶岩流の末端にあたり、「三島溶岩」があちこちに露出し、その上に木々がたくましく育っており、地質学上でも貴重な資料として、平成24年(2012) に 伊豆半島ジオパークのジオサイトとして指定された
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「小浜池」(こはまがいけ)
溶岩から通り抜けて湧水する所は、「小浜池」と手前の「中の瀬」にあり、池底の溶岩層の多数の溝すべてから湧き出てきて、ここから源兵衛川へと流れ出る -
「中の瀬」(なかのせ)
「小浜池」沿いに造られた「小松の堤」の南側は、より自然な湿地帯のようなエリアで、湧水は、ここの「はやの瀬」「中の瀬」「せりの瀬」の3つの瀬に集まり、「源兵衛川」に流れて行く。水温は年間を通して15~16℃で、市街地では夏は涼しく、冬は暖かい流れを作るが、農業用水として使う場合は、低温な湧水を農業用水に適した水温に上げるため、水路幅を広く水深を浅くする工夫をした上で、ため池に貯めてから利用する、これは軽井沢の灌漑用水路(御影用水など)にもあったが、先人の知恵には頭が下がる -
「小浜池」から「楽寿館」(らくじゅかん)を望む
この付近はかつて「小浜山」と呼ばれたが、明治23年(1890)に「小松宮彰仁親王」により、池泉回遊式庭園と別邸「楽寿館」が造営され、富士山の湧水による「小浜池」を中心に周囲の自然林からなる庭園は、昭和29年(1954)に国の天然記念物及び名勝に指定されている -
「小浜池」は、満水時には新緑が映える鏡のような水面が広がるが、渇水時には三島溶岩流が露出し、岩だらけの枯山水状態になる、水位は季節によって降水量の多い夏期に増加し、冬季には減少、また富士山の積雪が多いと次の年は多くなったりするが、近年は渇水傾向にあるという *令和2年(2020)9年ぶりに満水状態となったという
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園内には溶岩の上に生えた樹木の他、小松宮別邸以降に植えられた樹木と合わせ数百の樹木が生育しており、季節に応じた野鳥も多く、自然に溢れる市民の憩いの場として、素晴らしい
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「三景橋」
「源兵衛川」と並ぶ「蓮沼川」(はすぬまがわ)の出水口に架けられた橋で、「蓮沼川」は小松宮彰仁親王別邸であったことから「宮さんの川」と呼ばれる -
「あやめヶ池」
水上でよく見る花は「サンパチェンス」という、「サン」太陽と「パチェンス」(ペイシェンス)忍耐の文字通り、夏の暑さに強く、水質浄化効果もあるから、水上栽培に適し、初夏から秋まで長く花を咲かせ地上の花壇でも映える -
「みどりヶ池」に架かる「こもれびはし」
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「楽寿灯籠」(らくじゅとうろう)
園内には数多くの灯篭が効果的に置かれているが、この灯篭は「楽寿灯籠」と特別な名前があるくらい、巨大で特異な形が特に目立つ -
「濡鷺型灯篭」(ぬれさぎがたとうろう)
これも特徴的な灯篭で、「霧雨の中に一本足で立つサギの姿」をしている -
「中門」(なかもん)
「楽寿園」とイベント広場を分けている境界門 -
「楽寿館」(らくじゅかん)
明治23年(1890)「小松宮彰仁親王」の別邸として造営された、京風の数寄屋造り(茶室風に造った)建物で、庭園と一体化するように建てられている -
「楽寿館」(市指定建造物)
(説明板)建築様式は全体的に京風の数奇屋造りで、今では数少ない明治時代中期の貴重な建造物である。建築用材も非常に吟味されており、現在では入手困難なものも少なくない。特筆すべきは、応接用の部屋であった「楽寿の間」の装飾絵画である、悪末から明治にかけての一流の日本画家の競作が一堂に集められており、県指定文化財になっている。三島市では、小松宮彰仁親王の別邸として使用された由緒と、国の名勝天然記念物に指定されている園内の一部との照合を考慮し、この建造物を文化財として指定した -
「梅御殿」(うめごてん)
当時は、楽寿館に並び、桜御殿、紅葉御殿、梅御殿の三棟が、渡り廊下で結ばれていたが、現在は「梅御殿」以外は取り壊され渡り廊下もない -
「梅御殿」(うめごてん)
「楽寿館」と同じ、明治23年の建立で、主座敷の床柱に、太い梅の木が使われていることから「梅御殿」と呼ばれる -
「深池」楽寿園
赤い橋の下は、溶岩トンネルの天井が崩壊してできた窪地で、江戸時代には寺社の墓域だったり、石切り場として利用され、「三島石」とか「小浜石」と呼ばれ、石橋や墓石、石碑。門柱、石垣などに使われたのが、今でも見ることが出来、街に独特な景観を生み出している -
「中門」前の「お休み処」脇には、湧水の小川が流れる、ちょっとした庭園がある
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休憩所に「菊まつり」のポスターがあった(10/30~11/30)今年のテーマは、「平安神宮」
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その前では、「平安神宮」の準備が進んでいる
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その横では、「平安神宮」に飾る「懸崖菊」作りに精出している
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出口には「十月桜」
9~10月に咲いて、春にもまた咲く、二度咲きの桜だが、冬桜、四季桜、不断桜など、いろいろあってどう違うのか、良く分らん -
14:40「楽寿園」駅前口から退場
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「三島駅」こだま14:55発~京都駅17:34着
最後まで富士山は現れないまま、帰路に就く
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