1994/08/26 - 1994/08/31
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boobyさん
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ダバオの話は、子供の頃から母によく聞かされていました。
日本人が築き上げたアバカ(マニラ麻)栽培の町での裕福で幸せだった子供時代。
第二次世界大戦での一転した生活環境。日本人収容所を免れてフィリピン人の知り合いの家に避難後、日本兵上陸で一度は助かったと思えたら、さらに酷い状況が待っていたこと。
日本兵と共にジャングルに逃げたら敵兵の空襲に遭い、目の前で同級生たちを含めた何人もの人々が死んだこと。敵兵が去った後、ふと顔をあげたら、すぐそばの木の幹に弾丸が刺さっていて命拾いをしたと感じたこと。終戦後、全財産を没収され、日本に送還された直後に三人の弟を栄養失調で亡くして姉である自分を責めたこと。
母の故郷、ダバオの空港に到着時、多くの出迎えの人々が現れ、スコールの中、ツアーの人たちが涙の再会を果たしていました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- 乳幼児連れ家族旅行
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 京王観光
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セブのホテルからですが、親子三代の3人部屋ではなく、母は友人と同室、私と娘に一部屋があてがわれました。
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当時とは経営者が異なりますが、インシュラホテルは今でも同じ場所にあります。
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当時のダバオの道路状況です。信号がほとんど機能していなかった記憶があります。
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掘っ立て小屋のような民家が多かった印象です。
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ダバオ周辺にはヤシの木の林が広がっていました。
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母の子供の頃、川にはワニ、海にはサメがいると脅かされ、恐ろしくて全く泳ぐことができなかったそうです。
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トリサイクルや乗り合いジプニーが人々の主な交通手段でした。
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ダバオでの二日目はダリアオン慰霊碑、ミンタル邦人墓地で戦死者に追悼の意を捧げます。母方の祖母は戦時中に亡くなりましたが、長い年月を経て祖母の墓の上にはフィリピン人の墓が建てられてしまい、祖母がどこにいるのか全くわからなくなってしまったそうです。
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墓地近辺の民家から大勢の子供たちが集まってきます。食べ物を供えると、背を向けたとたんに一瞬で子供たちに持っていかれるため、いつからか食べ物以外のお供え物に変えたそうです。
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戦時中の邦人の墓は特定できない状況です。
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水牛に乗った青年が通りかかったので、写真を撮らせてもらいました。母が子供の頃、よく水牛に乗ったそうですが、水牛が川で水を飲もうとしてかがんだときに背中から振り落とされてしまった思い出があるそうです。
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このジプニーは日比友好協会の日系フィリピン人のもので、私たちはこのジプニーでずっと観光していました。友人だからお金はいらないと言われましたが、母たちが希望する場所にどこにでも連れて行ってくれたので、当時の相場で一日3千円を支払いました。
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墓参りの後は日系人の農園でランチパーティです。
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日系フィリピン人の方々が先に日本人たちに食事を促し、その間、料理に寄って来るハエを追い払っている、おもてなしの姿が印象的でした。
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農園ではスコールに降られましたが、屋根のある場所に避難できました。
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午後は別の慰霊碑で墓参りをし、その日の夜は日系人会館で歓迎パーティが開かれました。ダバオでは歓迎の食事に豚の丸焼きが供されます。
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翌朝です。出発まではホテルのベランダでくつろぎます。
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この日は生まれ故郷への自由訪問の日でした。私たちは母と叔母、母の友人と共に、前日に知り合って友人となった日系フィリピン人夫妻のジプニー(運転手は夫妻の従弟)で故郷に向かいます。
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昔、母たちが住んでいた場所、ダリアオンの周辺だそうです。建物はもう残っていなくて、ジャングルになっていました。祖父はアバカと呼ばれるマニラ麻を栽培しており、それを運搬するトラックを数台保有していたそうです。庭にはバゴボ族が住み、お手伝いさんも何人かいて、お手伝いさんたちとはビサヤ語で会話をしていたと母が話してくれました。
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次は母の友人の故郷、デゴスに向かいます。
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サンタクルーズ周辺に到着しました。いずれの場所もあまり発展していないことがうかがえました。
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道路脇の露店ではドリアンなどの果物が安く買えます。
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日本人には嫌われ者のドリアンですが、ドリアンが日本に紹介されるずっと以前の、私が子供の頃ですら、母は移動販売の八百屋からドリアンを仕入れていました。
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母の友人の出身地であるデゴス市街です。
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この町の小さなレストランで昼食を食べましたが、何も期待していなかった割にはとても美味しかったことを覚えています。
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日系フィリピン人夫妻の知り合いがいたので、少し乗せてもらいました。
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物がほとんど残っていませんがデゴスの市場です。
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大勢が乗った車が前を走っています。
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ダバオに戻り、ショッピングモールに連れて行ってもらいました。モールの中に遊園地がありました。
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小さな観覧車までありました。ディズニーですが、キャラクターの顔が微妙です。
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翌日も朝からよく晴れています。ホテルの周りを散歩しました。
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20年後に再訪したときには既になくなっていたバゴボ族のMandaya weaving centerが、この頃はホテルに隣接していました。
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民芸品を売る子供たちが娘と遊んでくれました。
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伝統的な機織の様子を撮影させてもらいました。
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伝統的な民族施設は経済の発展とともに姿を消しました。
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ホテルの敷地内ではヒヨコたちが生まれてしまいました。
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この頃のインシュラホテルのプライベートビーチは水が透き通っていました。この20年後には水質汚染により遊泳禁止になります。
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20年後には対岸のサマル島(大きい方のサマール島ではなくダバオの隣の小さな島)のビーチに多くの欧米人が集まっていますが、この頃にはまだ欧米系がそれほど進出していません。
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経営者は変わりましたが居抜きだったようで、プールは20年後もこの頃のままでした。母は泳ぎませんでしたが、私と娘は泳ぎました。
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母が、物資が少ないダバオの子供たちに寄贈するために日本で購入したゴムボートは、滞在中、娘の遊び道具になっていました。
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遊び疲れて。
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プール遊びの後はビーチに移動してきました。
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ヒトデを並べてみました(撮影後はきちんと海に戻しました)。
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午後は友人になった日系フィリピン人夫妻の案内でダバオの別のビーチに遊びに行きました。
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ビーチを含めて広い敷地内には私たちを含めて数人の客しかいませんでした。滞在中、ジプニーのドライバーを担ってくれていたお兄さんと。
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宿泊施設もありましたが、Villa Victoria Beach Resortで検索してもドバイの同名の施設が検索されるだけなので、廃業となった可能性が高いです。
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ビーチは波が高く、砂も黒く、周辺に松の木が生えていたりと、日本の海岸のようでした。集客には向かない環境だった印象です。
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地元の子供たちに開放すれば、かなり賑わったであろうと思いますが、それでは商売が成り立たなかったのでしょう。
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インシュラホテルでの夕食です。私の夢に出てくる母は、晩年の年老いた母ではなく、この頃の母です。倒れてから亡くなるまでの半年間、私のことがわからなくなってしまいました。母は意思表示ができず、もちろん会話もできず、寝返りも打てず、酷い褥瘡ができていました。コロナ期間だったので面会の頻度も少なく、東京から沼津の病院まで行っても会わせてもらえない日もありました。何よりも、食べることが大好きだった母が、口から物が食べられなくなったことが、見ていて一番辛かったです。母の生と死の間で一喜一憂を繰り返し、退院後の施設を探したりして気を紛らわせていましたが、ある日、死が母を苦しみから救ってくれました。
母との思い出を辿りに、ダバオを再訪することも考えましたが、母のいないダバオを想像すると悲しみを募らせそうでもあり、私にはまだ母の死が消化できていないので、再訪するにしても、もう少し時間が必要だと思いました。
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