2025/05/20 - 2025/05/20
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chiaki-kさん
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今日の予定は弘前城、斜陽館、竜飛崎、そして青森駅周辺の観光と盛りだくさん。世界遺産となった三内丸山遺跡も候補だったが、本物のねぶたを見たかったので次回とした。
表紙は達谷窟岩伝説(たっこくのいわやでんせつ)という名がつけられた、ねぶた師の北村春一さん&NTTグループ制作のねぶた。テーマは坂上田村麻呂が鬼を退治する伝承のひとつで、ほとばしる滝の水の表現が見事な作品。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
5/20
ホテルをチェックアウト後、徒歩にて弘前城見学。写真は弘前城三の丸追手門。ここから入城する。
弘前城(当初は鷹岡城)は、弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった城。天守・辰巳櫓・三の丸追手門・二の丸南門などが現存しており、国の重要文化財に指定されている。 -
桜は葉桜となっていたが、園内に植えられたツツジがきれい。
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「すぎのおおはし」を渡り、
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二の丸南門をくぐると、
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本丸へ入る下乗橋に到着。橋の向こうに天守が見える。
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下乗橋から見た石垣の修理現場。手前の一段と高い石垣(天守台)の上に天守があった。
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2012年9月、天守付近の石垣の膨らみや天守の傾きがある事から修理が始まり、2015年夏に天守を曳家で移動させてから本格工事に着工する。
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この先は有料なのだがOPEN前のため無料で入場する。もちろん天守には入れない。
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天守台は修理中。
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そして天守に到着。
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方向を変えて一枚。
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しつこくもう一枚。
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天気は回復してきたが太宰治が、なかなかの美女と称した岩木山(津軽富士)は峰のほうが雲の中。
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散り始めた八重桜を入れてみた。弘前城は、半世紀前の学生時代に一度訪れているが、下乗橋から見た天守しか記憶は無い。
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弘前を後に、R7→R339と津軽平野を北上し鶴田町にある「道の駅つるた」で休憩するが、時間調整のため津軽富士見湖へ寄ってみる。
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津軽富士見湖は1660年に、津軽藩主津軽信政により、西津軽の新田開墾の灌漑用水源として築造された人造湖。
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湖には「鶴の舞橋」と呼ばれる木造の人道橋があり、三連太鼓橋の木橋としては日本最長と言われている。
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時間の制約があったので「鶴の舞橋」は写真だけ撮ってすぐに移動。最短距離ばかり見つけるのが上手な、グーグル先生の再現不能な案内により到着したのは五所川原市金木町にある太宰治記念館前。
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撮り忘れてしまったが、上の写真の後ろには「津軽三味線会館」があり、毎日生演奏が聞けるというので共通券を購入する。
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会館内では1日5回(夏季特別期間は6回)、約20分間の津軽三味線演奏が行われ、私は10:00からの演奏を鑑賞する。お名前は失念したが、演奏者は三味線のプロの方で、会場に鳴り響く力強い太棹(ふとざお)の音が印象的な演奏だった。なお、生演奏の録画はNGですが、ノーフラッシュ撮影はOKです。
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三味線会館から向かったのは向かいにある太宰治記念館・斜陽館。
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コンクリートのたたきを順路に沿って進む。
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炊事場の先にいろりの間があった。
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ピカピカに磨かれた床が凄い。
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太宰治の誕生した間。
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庭園も広い。
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仏壇も大きい。
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来客用厠(かわや)。
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純和式。当然ですが使用禁止。
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津島家(太宰の本名は津島修治)は金融業のようなこともやっていたようだ。
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2階へ登る洒落た階段。ここで太宰治について簡単なスタディを。(Wikipedia参照)
太宰 治(だざい おさむ、本名:津島 修治〈つしま しゅうじ〉は、1909年6月19日に北津軽郡金木村(現在の五所川原市金木町)で生まれた日本の小説家。父は県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などを務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。 -
母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。その乳母が辞めた後、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけ(小説「津軽」に登場する)が子守りを務めた。
太宰は成績も良く、金木小学校では開校以来の秀才と言われた。青森中学校、弘前高等学校、そして東京帝国大学文学部に進むが、大学では生来の怠け癖が出て講義について行けず、こともあろうに銀座の飲食店の女性と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。(女性は死亡、太宰は助かる) -
1935年、大学5年目になっていた太宰は、鎌倉で首吊り自殺を図り未遂に終わるが、入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後依存症となる。そして学費未納のため大学を除籍となり、その後の太宰の生活は乱れに乱れた。
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1938年、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の石原美知子と見合い。このとき、太宰は井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。その中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている。
翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町に移り住む。9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。精神的にも安定し、『女生徒』『富嶽百景』『駆込み訴え』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。写真は2階の洋間。 -
身体検査で肺浸潤と診断され徴用免除されていた太宰は、戦争中も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。戦前から戦中にかけては甲府の湯村温泉に度々逗留する。
やがて東京や甲府も空襲のため住めなくなると、太宰は津軽で終戦を迎えたが、その後、没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。写真は母の居室。 -
襖に「斜陽」の文字あり。太宰も当然目にしていただろう。
その後、美容師で愛人の山崎富栄と知り合い、『人間失格』『桜桃』などを書きあげるが、1948年6月13日、玉川上水で山崎富栄と入水自殺した。2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見されたが、太宰の命日は彼が死の直前に書いた短編にちなみ「桜桃忌」と名付けられた。享年38歳。 -
一通り見学を終え一階まで戻る。何度も言うが大きな家だね。
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記念館の前には「産直メロス」と名付けられた物産館があり、ここで太宰に関連するものや津軽地方のお土産をどっさり購入する。重い液体ものも購入したがクルマだから無問題。
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昼食に予定した料理店が休日だったので、遠回りにはなるが十三湖の日本海側を回って十三湊を目指す。途中で12時になったが、とある集落で有線放送から津軽三味線の曲が流れてきたのには驚いた。
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前方には風力発電の風車が沢山回っている。そういえば「津軽平野」という歌に♭十三湊は西風強くて~#という歌詞があったね。
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十三湖は岩木川と日本海の海水が入り混じる汽水湖。栄養が豊富なので質の良いシジミが採れるので有名。そこで・・・
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「シジミラーメン和歌山」さんで元祖シジミラーメンをいただくことに。
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さっぱりとした塩味だったが、大粒のシジミが入っていて美味しかった。
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十三湖から30分ほど移動すると小泊地区に到着。ここに太宰関連の記念館がある。
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小泊は小説「津軽」に登場した近村たけさんの出身地。小説の中で、太宰はここで「たけ」と再会し、心安らぐ幸せな時間を過ごしたことになっている。
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小説では二人は黙って小学校の運動会を眺めていたことになっているが、目の前には丁度「こどまり学園」という学校があった。
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道の駅「こどまり」で休憩。良い天気なのだが山の上には不穏な雲が。
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これが竜泊ラインというR339の名所。
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竜泊ラインの一番標高の高い場所には眺瞰台(ちょうかんだい)という眺めが素晴らしい展望台があるのだが、ご覧の通りガスで何にも見えない。残念なんてもんじゃない。
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仕方がないので終点の竜飛崎まで来ると良いお天気に!
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無料駐車場にクルマを置いて、岬の先端を目指すが・・・
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一番先端には自衛隊のレーダーが鎮座していました。
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後ろを振り返ると竜飛崎灯台と竜飛崎の碑が。
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目の前には北海道の渡島半島(松前半島)が見えており、海底には青函トンネルが通っている。
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竜飛崎灯台のそばを通過し、
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青函トンネル関連施設を眺めながら、
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反対側へ向う。
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秋田側を眺めるとこんな感じ。こちらのほうが荒々しい竜飛崎のイメージに合っているかも。
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竜飛崎を後に左手に津軽海峡を眺めながらR339→R280→D14を青森方面へと進む。写真はJR奥津軽今別駅。北海道新幹線の駅だが、こんな人里離れた場所から誰が新幹線に乗るの?
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D14→改良されたR280をすっ飛ばして16時に青森到着。17時で閉館すると思い込んでいたので外観を撮る暇もなく飛び込んだのは「ねぶたの家 ワ・ラッセ」。(実際は18時)入り口がわからずウロウロするがなんとか入場する。出迎えは「聖徳太子 鬼神の覚醒」という作品。
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「ねぶたの家 ワ・ラッセ」は、青森ねぶたの保存伝承を目的とするほか、青森の観光の目玉とするべく青森市が2011年に建てた施設だが、市が管理するねぶた関連の博物館はこれが初めてだそうです。
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「木鹿大王 妖術を使う」という作品。三国志からヒントを得たそうです。
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「閻魔大王と浄波璃の鏡」という作品。
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タイトルは解らないが女性も登場。
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「雪の吉野山 激闘」という作品。作者は北村隆さんで、義経の家来である佐藤忠信が当代一の荒法師と戦ったシーンを再現しているそうです。降り積もる雪を一つ一つ紙と針金とLED電球で作り上げた見事な作品ですね。
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この施設の名物は、ねぶたを眺めるだけでは無く、実際に参加すること。「ねぶた囃子演奏披露&おまつり体験」と名付けられたイベントは毎日4回実施され、観客を巻き込んで毎回大いに盛り上がるそうです。
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これは太鼓体験。スタッフの指導のとおりに太鼓を叩きます。
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これは鐘ですが、さすがに笛は無理ですね。と、いうことで青森ねぶた初体験は、とても印象に残りました。
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ワ・ラッセを出て周囲をブラタモリ。これは新装なったJR青森駅。駅とは思えない近代的なビルだね。
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青森港に作られた青森駅前ビーチにはAOMORIのモニュメントが。
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かつて青森ー函館間を行き来していた青函連絡船八甲田丸が係留されている。
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そして、こんな記念碑も。終戦間近の1945年7月14日~15日、アメリカ海軍艦載機の空襲により青函連絡船12隻が被害を受け(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態となった。さらに7月28日夜には青森市内に83000本もの焼夷弾が降り注ぎ、市街地家屋の88%を焼失、亡くなった方も1000人近く出る被害があった。
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写真は撮り忘れたが、この後アスパム(青森観光物産館)という名の三角形の建物に入り青森のお土産をどっさり購入した後、エレベータで10階にある「みちのく料理西むら」で夕食。イカ、ホタテ定食を頂くが、美味しかった。なお右上にアサヒスーパードライのような瓶が見えますがノンアルですよん。
晩飯を食べた後、クルマで今夜の宿スーパーホテル青森まで移動。指定の立体駐車場にクルマを入れてからチェックイン。部屋ではシャワーを浴びたあとアスパムで購入したビールなどで宴会をしながら青森の夜は更けていった。
これで「2025年 北東北旅行記3:青森でねぶたと出会う、弘前城・津軽半島・ワラッセ」は終了です。本日も最後までご覧いただきありがとうございます。次回は「2025年 北東北旅行記4:函館21時間一本勝負、青函フェリー&亀田半島一周」です。
ホテル口コミはこちら
https://4travel.jp/dm_hotel_tips/15241906 -
OMAKE1
尻切れトンボのような終わり方になったのでOMAKEを3発追加。これは小泊の記念館にあった近村たけさんの若いころの想像像。 -
OMAKE2
津島修治の子供のころの想像像。 -
OMAKE LAST
太宰治の走れメロス風の想像像。
おしまい
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