2024/05/04 - 2024/05/04
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tzpapa10さん
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40年近く前から北京に来たら絶対に行きたいと思っていた頤和園。5月の中国労働節休暇で頤和園に行くことをメインで一人旅で日程を検討し、雍和宮、円明園遺址公園と廻り感動はしていたが、やはり最終日の頤和園に期待していました。天気も良く期待を裏切らない景色でした。
出張などでも北京は訪問しているが、頤和園は広く丸一日最低でもフリーな状態を確保しようとしていて、学生卒業時に北京訪問から35年以上経過していました。ようやく園内を歩いて回り、観覧船にも乗船して満喫しました。
それでも全部は回り切れずでしたが、清の皇帝や西太后が暮らした景色を見れて満足でした。
東京ドーム約62個分、皇居と比較しても2倍以上という広大な敷地の約4分の3の面積を占める「昆明湖」を中心とする景観は風光明媚です。清朝第6代皇帝の乾隆帝が、母親の還暦を祝って造営したという歴史がある。昆明湖は杭州の西湖を模して造ったと言われる人工湖で、その湖を造営するときに出た土砂を積み上げ、湖の北側にある万寿山を造ったと言われているそうです。スケールが大きい。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝早く北京市内のホテル(オレンジホテル五棵松店)を出発。地下鉄で行くつもりでしたが、少し寝坊したので滴々出行で車を呼んで頤和園へ。朝7:50頃到着。
頤和園入口の石碑。頤和園 広場・公園
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滴々出行の運転手に行き先を告げたら、北門(北宮門)側に到着。WeChatで入園券は事前購入していたのでQRコードを見せて入場。労働節期間なので多数の人が来ることを心配していたが、時間も早くその場購入でも問題はなさそうだった。
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北門から入ると目についた石碑。
「英仏連合軍が焼き討ちして清漪園を破壊して130年。蘇州街を復興してこの碑を完成させる。」頤和園管理事務所。1990年9月15日。
の記載。 -
蘇州街入口にある「慈福牌坊」。蘇州街は入場料が必要で牌坊左手に料金所。
蘇州街は、1860年のアヘン戦争での焼失後、1990年に復元。街は約300m長さの通り。清朝第6代皇帝で頤和園の造営者でもある乾隆帝は、蘇州が大好きだったらしく、江南地方に6回も行幸し、その繁栄ぶりを大いに称えたと言われているそうです。蘇州の美しい街並みに惚れ込んだ乾隆帝が、北京にも蘇州を造るんだ、といって本当に造ってしまったのが、頤和園内にあるこの蘇州街。 -
蘇州は東洋のベニスとも呼ばれ、運河が張り巡らされた水の都。
まさに、運河を再現しており、きれいな光景です。 -
船着き場もあり、水郷のきれいな蘇州街。中国の大運河は北京から杭州までの1794㎞に及ぶ京杭大運河が2014年に世界遺産に登録されており、江蘇省の運河もその中に含まれている。
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橋の上からより全体を撮影
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蘇州街の運河に架かる橋。
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「古皮白松」:中国特有の樹種で山西省、河南省西部、甘粛省南部、陝西省泰嶺、四川省北部、湖北省西部などに分布し、蘇州・杭州・衡陽などに栽培。不毛の薄い土壌や比較的乾燥した寒い気候に耐性がある。白皮松は常緑樹で、針葉3本一束です。若い木の樹皮は滑らかな灰緑色で、生体の樹皮は不規則な薄い塊に脱落し、薄黄緑色の新しい皮が現れ、斑入りで美しく、樹齢が古いほど樹皮の色が白くなり観賞価値が高くなる。樹齢は約310年。
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「慈福牌坊」
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この辺りは万寿山の南側に位置する区域で、その案内図。
蘇州街側からのアクセスの場合には、「須弥霊境遺址」の北には「香岩宗印之閣」があり、さらに北側には「四大部洲」を観ることに。
四大部洲は万寿山の後方中央に位置する漢蔵式の建築群で、約2万平方メートルの敷地がある。この区域には、須弥霊境、香厳宗印之閣があり、周囲には仏教の四大部洲として東勝神洲、西牛賀洲、南贍部洲、北倶盧洲が象徴的に再現。塔のデザインは独特で、四智を象徴する赤、白、黒、緑の四つの喇嘛塔を配置。
1860年に英仏連合軍が焼討し、1980年代に修復されているらしい。 -
石畳のアプローチがあるのが特徴で両サイドは赤松。この辺は松台といわれる場所だと思います。松林に囲まれたこの台地は、仏教的瞑想や静寂の象徴として設計されているようです。
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「須弥霊境建築群」にある赤と緑のきれいな建築物(東側)。この建築群は、清の乾隆23年に創建し、須弥霊境正殿、東の宝華楼、西の法蔵楼及び慈福を含む3つの牌楼からなります。万寿山の北(裏)側になり、ちょうど山の中軸線に位置し、山を背に北向きに建っている。川に面した姿が壮大で、民族団結の歴史の証。1860年に英仏連合軍の焼討で大部分が焼失。その後頤和園管理局の長年の努力で保全・修繕プロジェクトがようやく国家文物局の許可を得て、2019~2021年の3年かけて進められ、ようやく全盛期の姿が窺えるにまでになったそうです。
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「須弥霊境建築群」の「香厳宗印之閣」。奥の山が万寿山。
清代の漢・チベット様式が融合した仏教建築。建築群全体が仏教の宇宙観を立体的に表現しており、香厳宗印之閣はその中心的存在。 -
「須弥霊境建築群」入口に付近にある石塔(パゴダ)の一種。塔は灰色の石でできており、複数層の屋根が上に向かって段階的に細くなる、中国伝統の塔の様式がよく表れている。
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「香厳宗印之閣」の主殿。主殿は漢式の黄色琉璃瓦を用いた歇山式屋根を持ち、基壇や周囲の建築はチベット式の?房(石造りの塔状建築)。
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主殿を南東から望む。
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「須弥霊境建築群」にある赤と緑のきれいな建築物(西側)
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「須弥霊境建築群」には周囲に塀があり松との相性も良く綺麗な色です。
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階段を上り「香厳宗印之閣」の高台へ
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「香厳宗印之閣」の建物の屋上へ到達。北側方面を望む。屋上部には柱跡が確認でき、この建物は更に高層建築だったのだろうと思う。
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「香厳宗印之閣」:屋根下の青と緑の彫刻部分が非常に綺麗で、朱色の柱や壁がマッチしている。
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「香厳宗印之閣」:頤和園の万寿山の裏手、仏教的な象徴性を強く持つエリア「四大部洲」に位置する。扁額に「香厳宗印之閣」
清朝皇室庭園における漢・チベット建築群の中核的構成要素。清朝乾隆帝(1736-1795)の治世に初めて建てられ、チベットの桑耶寺をモデルとしている。当初は3階建てだったが、1860年に英仏連合軍によって焼失した後、光緒14年(1888年)に平屋の仏教寺院に再建。現存する寺院群は主にチベットの宗教建築で、漢風の彩釉瓦屋根と須弥壇が組み合わされ、仏教宇宙観を立体的に表現。 -
「四大部洲」:四大部洲は万寿山の北方中央に位置する漢蔵式の建築群で、約2万平方メートルの敷地を占める。この区域には、須弥霊境、香厳宗印之閣があり、周囲には仏教の四大部洲?東勝神洲、西牛貨洲、南贍部洲、北倶盧洲が象徴的に再現。塔のデザインは独特で、四智を象徴する赤、白、黒、緑の四つの喇嘛塔(四方梵塔)が配置されています。
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四大部洲の中心的な建築物「香厳宗印之閣」
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階段を上りながら、万寿山の頂上を目指し、四大部洲エリアを歩く。
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「日月台」と「四方梵塔」。四隅に配置されている。
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さらに上も建築物があります。
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階段を上るのはこんな感じです。
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階段上りきってからの北側眺望(蘇州街側)。かなり高いところに来ていると実感しました。
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更に上に行きますが、写真のような洞窟みたいな通路もあります。
子供たちははしゃいでましたが、走るのは危ない。 -
洞窟を出たところを上から見るとこんな感じ。
石垣ほどではないが、石が積まれた山のようになってます。 -
岩山上りきって万寿山頂上でこのような眺望(北側)
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頂上部西側にある建築物
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建築物の入口
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六角形の写真のような建築物も発見。何かは?
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「智慧海」:万寿山の頂上に位置しています。
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「智慧海」:チベット様式の影響を受けた構造で、石レンガ造りの「無梁殿」
5つの入口がある。 -
外壁は黄色と緑の瑠璃瓦が使われ、無数の仏像が埋め込まれているのが圧巻
アーチ形入口。内部には「無量寿仏(阿弥陀如来)」が祀られており「無量殿」とも呼ばれるそうです。 -
外壁にある仏はこんな感じ
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「智慧海」を東方向から
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「智慧海」の正面(南側)入口。
三連のアーチ門を備えた壮麗な構造で、中央のアーチが最も大きく、色鮮やかな瑠璃装飾と龍の彫刻が智慧海の象徴的な外観。
この正面は、智慧海の内部空間に至る入口で仏教的宇宙観への導入部。建物自体が「無梁殿」として石造であり、内部には千体以上の仏像が並ぶ荘厳な空間が広がっているそうですが、中には入れませんでした。残念。頤和園の中でも特に神聖な宗教建築とされており内部は非公開。 -
上部の扁額には「祇樹林」
祇樹とは、古代インドの祇陀太子(ジェータ王子)が所有していた林(園林)を意味するそうです。この林は、仏教の大施主である給孤独長者(スダッタ)が釈迦のために購入し、精舎(僧院)を建立した場所。 -
「頤和園商店」:万寿山山頂にある智慧海から西側の出口を出る手前にあった売店で、清涼飲料水と簡単な食べ物を売る程度。早々にのどが渇き水を購入。
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万寿山頂上に沿って、写真のような道が続いている。歩きやすいし、天気も良く爽快でした。
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途中に案内看板が設置されており、これを見ながら移動していたが、なかなか案内版は親切ではなく、道にある行先表示も見間違いやすく、同じところを何度もぐるぐるしていた時もあった。
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「智慧海」から西へ進む。
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道中には写真のような休憩所もいくつかあり。まだ朝早い(8:40頃)のため休憩している人は見当たらずです。
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「画中遊導覧図」。この看板ですぐに画中游へ行けると思ったが、入口が分からず迷い昆明湖まで下りることに。
画中游とは、頤和園の素晴らしい景観を絵画のように楽しみ、あるいは散策することを指しています。 -
道中にはベンチもあり、時間を掛けてゆっくり回るのもありですね。
画中游は右手にあるはずだが、塀などがありずるずる道沿いに下りる。 -
中央にある「昆明湖」の方へ下りていく坂道。途中で建築物(雲松巣と思われる)があると思いながら歩いていた。
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万寿山南側の中腹にあるが、門は閉状態で出入りできず下りるしかなくさらに下へ(南方)へ進む。
地図には建築物の入る門位置が詳しく記載していないので、坂道を上ったり下ったりして非常に疲れた。 -
正面にみえるのが「昆明湖」。昆明湖畔には写真のような建築物「長廊」があり、ベンチも湖畔沿いにあるため、多くの人が湖畔で休憩していた。
「昆明湖」は頤和園の3/4の面積を占める湖。
中央にある東屋は「秋水亭」と呼ばれ、「三水分榮」の扁額。東屋は長廊には四季を象徴する四亭(留佳亭・寄瀾亭・秋水亭・清遥亭)がある。 -
「長廊」は、ご覧のように長い。全長728m、273部屋に及ぶ。中国で最も長い回廊として知られ、1992年に「ギネス世界記録」に登録。長廊の梁には14000点以上の絵画が描かれており、山水風景、花鳥、虫魚、人物など、多様なテーマが含まれているそうです。
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「山水湖光共一楼」:乾隆帝の銘文が刻まれた1階が玄関ホールに繋がっている。赤い柱、黄色い瓦、そして八角形の形が特徴的。3層構造を誇り、2階は彫刻が施された欄干で囲まれている。
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「山水湖光共一楼」から続く「長廊」
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万寿山中腹にある「画中游」へ行くために万寿山を登ることに。
登ってすぐ左手に博物館らしきものがありました。清代の衣装を着た人が立っており、興味はあったが時間がなく通過。 -
画中游目指して万寿山を上ります。
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東側に「聴鸝館」が位置します。乾隆帝が母親のために立てた戯楼中国(劇場)です。オウムやインコなどの鳴き声が美しい音楽を連想させることから、この名前が付けられ、その美しい響きから、音楽を愛する場所であることを示しています。
「画中游」の南側下部に位置します。 -
少し上がるって「聴鸝館」を撮影。
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「鳳翔雲應」の扁額。「聴鸝館」の2階に設置されたもの。
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「画中游」導覧図。
西側に「借秋楼」、東側に「愛山楼」が位置し、中央に「澄輝閣」がある。 -
「画中游」の中央にある「澄輝閣」。写真右手が「愛山楼」左手が「借秋楼」。
「澄輝閣」は上層階へ上がれるようになっている。 -
「澄輝閣」
清らかで明るい光が満ちる場所という理想的な空間を表現しています。これは単なる建物名ではなく、自然美と精神性の融合を象徴する名前。 -
「画中游」エリアからの昆明湖方面(南側)眺望
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「画中游」エリアから望む「聴鸝館」「昆明湖」方面眺望。
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「画中游」にある3つの建築物は廊下でつながっている。
廊下の屋根裏・梁などは装飾されており非常に綺麗です。 -
屋根裏部の装飾。魚や鳥が描かれており、色も綺麗です。
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途中にある天井部の様子。青・緑・朱色の色彩が本当に美しく、中国伝統的なデザインも非常に綺麗です。
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「玉泉宝塔」:北京の北西部にある玉泉山頂上にある香岩寺にある八角七層の楼閣式レンガ塔で、頤和園の画中游から写真のようにみえます。乾隆帝によって建てられたこの塔は、高さは47.7m、塔頂は地表から150m地点に位置し、北京で最も高い場所にある。
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「借秋楼」
「秋を借りる楼閣」で、秋の景色や雰囲気を借景として取り込む建物という意味。これは中国庭園の美学において非常に重要な概念で、自然の季節や風景を建築に取り込むことで、時間と空間の調和を図るものです、周囲の木々が色づく季節になると、まさにその名の通り秋の美を借りて輝く場所になるそうです。秋にも訪れたいですね。楼閣から眺める昆明湖や万寿山の紅葉は、まさに「借景」の極致。 -
「借秋楼」「澄輝閣」「愛山楼」をつなぐ廊下の屋根・東屋の屋根も綺麗です。
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「愛山楼」
山を愛する心を表現した楼閣という意味で、自然への敬意と美的感受性を象徴。 -
「画中游」の北側(万寿山の頂上側)にある「石牌坊」
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画中游エリアを出て、遊覧方向に沿って万寿山を少し下り遠めから撮影。
「澄輝閣」の上層にはかなりの人がいます。 -
「澄輝閣」の上層にはかなりの人
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「昆明湖」湖畔まで下りてきて、再び長廊を歩く。
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長廊と昆明湖の間には松が植えられていて、こんな感じ。
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「秋水亭」付近から望む「昆明湖」
遊覧船がかなり浮かんでいます。 -
長廊の西端部にある渡船口「石丈亭」付近。2隻遊覧船が停泊中。
渡船口は昆明湖には6か所あります。 -
「長廊」の東屋の一つ「清遥亭」
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昆明湖の西北部にある「石舫」または「清晏舫」と呼ばれる建造物。清の乾隆20年(1755年)に建造。船体は大理石、楼閣部分は木造(外観は石造風に塗装)。
全長約36メートル、2層の楼閣付き。装飾には、ステンドグラスの窓、大きな鏡、龍頭の排水口などがある。「河清海晏」=天下泰平の象徴として命名された湖畔に固定された観賞用の建築物。 -
乗船チケット売り場
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石丈亭の乗船チケット売り場にあるルート看板。
ルートは石丈亭渡船場から「十七孔橋」近くの「新建宮門」近くの渡船場へ
(看板の白破線) -
昆明湖での遊覧船電子チケット。大人一人40元(約800円)です。
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乗船する遊覧船。
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乗船すると左手に「仏香閣」が望めます。
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船上からの景色1
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船上からの景色2
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船の内部の状況。椅子は木製で座席は固いです。
天井部分は青と緑で綺麗です。 -
他の遊覧船。屋根は黒っぽい色のものもあります。
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他の遊覧船。屋根は黄色。自分の船も黄色い屋根でした。
奥の橋は、「玉帯橋」で流麗な姿が美しく有名です。 -
昆明湖の南湖島にあり、十七孔橋を渡った先にある「南湖島亭」こと「知春亭」
文字通り、春を知る亭から命名されています。 -
「南湖島」にある建築群。涵虚堂・知魚亭・涵道堂・鏡清斎などがあります。
後で「南湖島」に行ってみることにしています。 -
「新建宮門」近くの渡船場へ到着し、下船し撮影
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「十七孔橋」の説明
清の乾隆15年(1750年)の建立。東は東堤に接し、西は南湖島につながる。
全長150mで中国の皇室庭園の中で現存する最長の橋で、十七個のアーチがあることから命名された。橋のたもとと橋の欄干にはさまざまな500頭の石獅子が彫られている。橋の欄干の両端には石で彫られた勇猛な獣があり、清代石彫芸術品のなかでも傑作とされている、とのこと。 -
「十七孔橋」を今から渡ります。
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イチオシ
十七孔橋の渡りはじめのところから、昆明湖と仏香閣を撮影。
これぞ頤和園のイメージです。 -
南湖島へ行くときに十七孔橋の架かる東側にある案内所兼休憩所的な建築物。
江南庭園風の景観構成の一部として伝統的デザインとなっている。 -
十七孔橋の入口側にある石彫の獣
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十七孔橋を渡る人々。5月の労働節休暇中のため、かなりの人が来園していました。
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渡船場には船が次から次に発着している(@橋上)
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渡ってきた「十七孔橋」を振り返って撮影。右の欄干に石獅子がいます。
奥が休憩所兼案内所 -
「十七孔橋」を進んで南湖島に近づいてきました。
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南湖島に到着すると看板が。中英日韓で記載。
南湖島は、昆明湖の前湖の中央に位置しています。 -
南湖島に到着すると、緑と赤の綺麗な牌坊
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昆明湖側にも牌坊。扁額には彩虹の文字。
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イチオシ
南湖島から見る十七孔橋。アーチ17個確認できました。
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南湖島の乗船場
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昆明湖側へ行くところにある牌坊
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「広潤霊雨祠」の門。「南湖島」に渡ってすぐにある寺。
通称「龍王廟」と呼ばれ、乾隆帝の時代に龍神祠を再建し、庭園内で雨乞いをする場所として使用された。その後、ここに雨乞いの効果があったことから、嘉慶帝自ら祠の名前を「広潤霊雨祠」と改名。西太后も訪れて焼香したことで有名。 -
「広潤霊雨祠」内にあった主殿。「霊厳殿府」
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「広潤霊雨祠」内はこんな感じ。
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2つの扁額。
「霊厳霞蔚」:「霊気が満ち、霞がたなびく美しい霊地」。
「澤普如春」:雨乞いの場にぴったり。「恩恵が春のように広く行き渡る」という意味で、祠の霊験や慈悲を象徴。 -
「涵虚堂」と「嵐翠間」のあるエリアに行きます。
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「嵐翠間」は昆明湖で演習する水軍を閲兵する施設。その近くから昆明湖を望むことができます。
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「涵虚堂」
「嵐翠間」のすぐ背後に建っている。乾隆18年(1753年)に「望蟾閣」として建てられ、武昌の黄鶴楼を模した三層楼閣。嘉慶年間に地盤沈下のため一層建築に改修。咸豊10年(1860年)に英仏連合軍によって焼失。光緒16年(1890年)に再建され、「涵虚堂」と改名。 -
「嵐翠間」から見る「昆明湖」と「佛香閣」
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「嵐翠間」と昆明湖の間にある岸辺へ下りる階段。目の前に昆明湖が広がります。
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「嵐翠間」:南湖島に位置する建築のひとつで、清朝末期の西太后が閲兵儀式を観覧するために設けた特別な空間。閲兵台としての機能は、1889年、西太后は北洋水軍の将兵約3000人を頤和園に移動させ、昆明湖を「大海」に見立てて水師演習を実施。。その際、嵐翠間は西太后が軍事演習を観覧するための「閲兵台」として使用。
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南湖島の周囲にはこのような道があります。
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他にも南湖島には写真のような建築物があります。
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これも同様です。左が「月波楼」、右が「雲香閣」。
「月波楼」:「月波」は月光が湖面に映る様子を指し、詩的で静謐なイメージ
「雲香閣」:「雲香」は雲のように漂う香り、つまり香炉の煙や自然の香気を象徴 -
同じく南湖島の建築物。「淵会軒」と「鑑遠堂」だと思います。
「淵会軒」:「淵」は深淵、「会」は交わる、「軒」は高楼。つまり、深い理解が交差する静かな空間を意味。
「鑑遠堂」:「鑑」は鏡や見極めること、「遠」は遠方、「堂」は広間。つまり、遠くを見通す知恵の場を意味。 -
十七孔橋上から東岸の乗船場を見た風景。ここは「新建宮門」付近です。
もともと、この船着き場に到着してます。
昆明湖東岸には杭州・西湖を模した柳並木が続いていてます。 -
かなり歩き続け、十七孔橋近くの売店で、「軟麻花(小豆いり)」と書かれた、天津名物の麻花のような形をしたアンパンみたいなものと、「アイスレモンティー」を購入。美味しかったです。
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売店の様子。10:35頃でしたが、多くの人が購入してました。
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「鎮水銅牛(または金牛)」
頤和園の昆明湖東岸にある銅牛像。乾隆20年(1755年)に鋳造された清代の作品。
水害を鎮めるために設置されたとされ、「鎮水」の名の通り、湖の守護と安定を象徴。背中には乾隆帝による漢詩が刻まれており、昆明湖の美しさや牛の象徴性を讃えている。 -
「舒雲牌坊」
鎮水銅牛のすぐ近く、昆明湖東岸の遊歩道沿いに設置。「舒雲」という扁額は、雲がゆったりと広がるような穏やかな景色を讃える詩的表現であり、頤和園の庭園美を象徴。 -
銅牛の近くに設置されており、石碑の東側にはその詩文が金属プレートに現代語注釈付きで掲示されている。
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金属プレート。現代文約として次のような意味だそうです。
西堤はかつて東堤と呼ばれていたが、名称は必ずしも固定されたものではない
湖の光景は広大で碧く、堤の影は整然と並ぶ
波を突く柱に生命が宿り、波を蹴って飛び立つ野鳥は無心で自由
私も愚か者も春の景色を惜しみ、水を引いて稲を植える畦を見る -
石碑近くから昆明湖東岸沿いに北上しながら、「十七孔橋」と「南湖島」を望む
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「昆明湖」東岸北上しながら、「佛香閣」方面を望む。
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「昆明湖」東岸北上しながら、「南湖島」と建築群を。
橋みたいにみえるのが「嵐翠間」 -
東岸を北上すると、「文昌閣」に到着。
「文昌」は中国の道教における文運・学問の神「文昌帝君」に由来します。文昌閣はその神を祀る場であり、知識・文化・文運の象徴。乾隆15年(1750年)に建造され、頤和園の中でも古い建築のひとつ。昆明湖の東岸のある「新建宮門」から入って最初の場所にあり、頤和園の玄関口的存在。
現在は文昌院博物館として活用。清代皇室の収蔵品(青銅器、玉器、陶磁器、漆器、金銀器、家具など)を約1000点の文化財を6つの展示室に分けて展示。 -
「文昌閣」の下を抜け、頤和園博物館入口付近から「文昌閣」を撮影
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文昌閣下のゲートを抜けると、東側に「頤和園博物館」と掲げられた門があります。
とりあえず、その門を抜けて外側へ行ってみます。 -
外にでると、「頤和園研究院」(写真建築物)
さらに進むと頤和園外部の周回道路である昆明湖東路につながっており、そのさらに東側には「北京市頤和園管理処」があります。 -
外へ続く道の両側で多くの人が休憩している。
奥の左手に「頤和園博物館」がある。 -
「頤和園博物館」
この博物館の敷地内には、「文昌院」「書斎」「盆景庁」などがある。
時間もなく、中には入らず。 -
頤和園出口にある門まで来て、引き返します。
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引き返すときに「頤和園博物館」入口を撮影。入口のは狛犬も。
屋根がふたこぶになっています。
赤、緑、青で綺麗な色彩の建築物です。 -
「頤和園博物館」入口付近からの「文昌閣」
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「文昌橋」と「知春亭」
「頤和園博物館」から「文昌閣」の道へ戻った向かい側に、橋を渡っていく。
奥には「佛香閣」も見えます。 -
「文昌閣」を下から覗き上げるとこんな感じで迫力ある。
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イチオシ
文昌橋から望む「佛香閣」と万寿山の頂に建つ「智慧海」
手前の「昆明湖」と遊覧船も含め絶景です。 -
「文昌橋」上からの「文昌閣」
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「知春亭」
こぢんまりとした東屋(亭)で、柳の木や湖と一体になった風景が非常きれい。 -
「知春亭」付近からの「南湖島」と「嵐翠間」
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中央には「十七孔橋」。湖面には多くの遊覧船。
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「知春亭」前の小島からの「文昌閣」と「頤和園博物館」入口
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「知春亭茶飲」休憩所ですね。
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こちらは店入口に甜品とあります。いわゆるスイーツ店ですね。
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「仁寿殿」前にある龍と鳳凰の像。
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「仁寿殿」。柵があり近寄れないようになっている。
乾隆15年(1750年)に建築開始され、1860年(咸豊10年)に英仏連合軍に焼かれ、光緒12年(1886年)に復元。慈禧と光緒が住むときに朝政を治めた。
清朝時代の皇帝が政務を執り行った場所で、頤和園の中でも格式の高い建築。
建物の前には、権威と吉祥を象徴する青銅製の龍と鳳凰(孔雀に似た姿)の像が配置されており、皇帝の威厳と天命を表す。
鳳凰は中国神話で「皇后の象徴」とされるため、龍と対になる形で置かれることが多く、清朝の皇室文化を反映。 -
仁寿殿の前庭にある青銅製の龍の像。像の足元にある玉(宝珠)は、知恵や力の源を象徴し、龍がそれを守っている構図は「天下を治める力」を暗示
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「仁寿殿」を正面から。労働節休暇ということもあり、とにかく人が多い。
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「仁寿殿」近くで清代の衣装を着た女性
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「頤和園文化産品専売店」
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「寿星石」
清代光緒12年(1886年)に頤和園が再建された際、現在の北京大学構内にあった「墨璽根園」から移されたもの。この石は色が青く潤いがあり、形状が中国の神話に登場する「寿星(寿老人)」に似ていることからその名が付けられた。 -
「世界遺産」の石碑
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「仁寿門」
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「全国重点文物保護単位」の石碑
1961年3月4日に中華人民共和国国務院が公布 -
北京皇家園林 頤和園 の石碑
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「九龍壁」
頤和園の「楽寿堂」区域に位置されている西太后の居所だった場所の近く。
楽寿堂は西太后が日常生活を送った場所で、九龍壁はその前庭に設置。
威厳と祝福の象徴。 -
道なりにあるいていると「東宮門」に来てしまい、間違えて出てしまうところだった。まだ午前11:50頃で引き返すことに。
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「東宮門」前の様子。石獅子像は、清代宮廷建築の典型的な守護像で、頤和園の主要な門には対になって設置されているが、特に東宮門前の獅子は、観光客の撮影スポットとして有名。獅子像の周囲に花壇と金属柵が設置されている点が東門の整備された部分。
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東宮門にある「頤和園旅客服務中心」
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「寿星石」のある所まで戻り、「佛香閣」方面を目指す。
奥に龍の像、仁寿殿 -
紫の清代の衣装を着た女児がいました。可愛いですね。
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仁寿殿の北西には、西太后の居所だった「楽寿堂」や、清代最大の芝居舞台「徳和園」があり、そこに向かいます。政治的象徴から私的空間へと移る構成になっていて、観光客の軸となるルート。
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扁額には「慶演昌辰」とある「徳和園」
「慶演昌辰」は、慈禧太后の誕生日(万寿節)を祝う演劇活動を指し、「昌辰」は吉祥な日を意味。
「徳和園大戯楼」で、清代最大規模の宮廷劇場で、慈禧太后が京劇を観賞した場所として有名。 -
慈禧與徳和園演劇文物展と呼ばれる展覧会が2025年には3か月間行われ、頤和園と故宮博物院が共同開催している特別展。展覧会では、慈禧が徳和園で行った祝賀劇や宮廷演劇文化を中心に紹介。
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「徳和園」北側には、「頤楽殿」・「敬事堂」・「慶雲堂」などがある。
「頤楽殿」は、西太后が観劇を行うための専用観覧殿。頤和園の名称とも響き合い、西太后の理想的な余暇空間を象徴
「敬事堂」は、儀式や文物の保管、あるいは皇族の学問・礼儀に関する活動が行われた場所。
「慶雲堂」は、清代には皇族の静養や書画鑑賞の場として使われ、慈禧太后が観劇後に休憩した場所と言われている。 -
「徳和園大楼」、「頤楽殿」などを別アングルから
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「徳和園大楼」(手前)と「頤楽殿」(奥)
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徳和園エリアの奥をさらに上がっていきます。
静かでゆったりした時間が流れる感じ。 -
「苔亭」
赤い円柱と多層の屋根を持つ伝統的な中国式亭(あずまや)で、石段の上に建てられている。 -
「苔亭」から下ると、「福蔭軒」に向かう。奥に見えるのが福蔭軒で、その前に写真のような通路がある。
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「福蔭軒」への通路。廊下とはいえ、緑の柱・梁と朱色の欄間のようなものの調和がきれいです。
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「福蔭軒」
徳和園に隣接した地区にあり、西太后が観劇の際に休憩や準備を行った場所とされている。西太后の動線は、福蔭軒 → 頤楽殿 → 大戯楼という流れで設計されていたらしい。 -
「干峰彩翠城関」
「干峰彩翠」は、晴れた日にこの場所から眺めると、幾重にも重なる青々とした山々と彩雲が広がることから名付けられ、詩的で吉祥的な命名。城関の上部に刻印かれています。園内で唯一、山の中腹に設けられた城関らしい。
視界が非常に広く、前湖(昆明湖)と後山(万寿山)を一望できる絶好の展望台。
乾隆18年(1753年)に創建され、光緒19年(1893年)に西太后の命で修復。 -
イチオシ
「干峰彩翠城関」からの眺め。絶景です。
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「干峰彩翠城関」
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「干峰彩翠城関」から東側へ少し下ると、「重翠亭」がある。
周囲の木々の緑に包まれた静謐な空間。多数の人が休憩している。 -
「長廊」にあるあずまやの1つ「華閣暎雲亭」
「華閣」は華やかな楼閣、「暎雲」は雲に映えるという意味 -
「排雲殿」に向かう道からの障壁。
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「佛香閣」を近くから。やっと頤和園のメインである佛香閣近くまで来た。感動。
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「排雲殿」に向かう人々。
排雲殿は、乾隆帝が母の還暦祝いのために建立した大報恩延寿寺を、西太后が再建したもの。西太后の誕生日祝賀などに使われた。屋根部の金の模様が特徴的。 -
「雲輝玉宇牌楼」
「佛香閣」や「排雲殿」への入口部に建つ色鮮やかな牌楼。
石獅子は「排雲門」にあり、排雲門側から撮影。扁額には「雲輝玉宇」とある。 -
「排雲門」
頤和園の中でも特に荘厳で象徴的な門のひとつであり、万寿山の中腹にある排雲殿へと至る重要な入口。左下は扁額拡大。
「排雲門」→「二宮門」→「排雲殿」と続く。
排雲門の両側には、紫霄殿・玉華殿・芳輝殿・雲錦殿などの配殿が並ぶ。 -
「玉華殿」
乾隆帝が頤和園を造営した際、母・崇慶皇太后の還暦祝いのために建てた建物のひとつ。皇太后の静養と居住の場として設計され、庭園内でも特に格式高い空間。
清末期、西太后が頤和園を再建した際、玉華殿は彼女の執務室や接客空間として使用。 -
4つの配殿(紫霄殿・玉華殿・芳輝殿・雲錦殿)前には写真のような水路がある
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配殿前はかなり広い。
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清代の衣装がいいですね。
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橋の欄干、配殿、樹木の色合いがいいです。
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「雲錦殿」
乾隆帝の時代に造営された「清漪園」が頤和園の前身で、雲錦殿もこの時期に設けられたと考えらている。頤和園は1888年に西太后によって再建され、雲錦殿もその一環で整備。「雲錦」は雲のように柔らかく、錦のように華麗な模様を意味。
皇帝や西太后が賓客を迎えたり、儀式を行ったりする場として使用され、頤和園の中でも格式の高い建物のひとつ。 -
「雲錦殿」の扁額。下には「祥映昌基」とあります。「吉兆が映えて、繁栄の基が築かれる」という意味で、皇室の威光と文化的理想を空間に刻んだものです。
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奥は「玉華殿」
「排雲門」へ上がる階段上り口付近。 -
「排雲門」。扁額には、「萬壽無彊」とあります。意味は「限りない長寿を願う」「永遠の繁栄と健康を祈る」ということらしく、西太后の長寿と繁栄を祈念する象徴として設置されたようです。
排雲門は排雲殿へと続く正門で、西太后が誕生日などの祝賀を受ける際に使われた儀式空間の入口になる。 -
「排雲門」内の大香炉
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巨木「古白皮松」と大香炉。人の背丈くらいあります。右奥にもあります。
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ついに「排雲殿」前の階段入口に到着。背後に「佛香閣」。園内の看板地図を見ながら、佛香閣に行こうとしていたが、昆明湖近くの「雲輝玉宇牌楼」から順番に来ないといけなかった。まだ拝殿(芳輝殿)を近くで見ていないので、それを見てから行くことに。
「排雲殿」は、頤和園の中心軸に位置する壮麗な建築群の主殿で、西太后の寿慶(誕生日祝賀)を中心とした儀式空間として設計・使用された重要な施設。
乾隆帝が母親の還暦誕生日を祝うために建立した「大報恩延寿寺」の大雄宝殿を基礎に、光緒13年(1887年)に西太后が再建して排雲殿と命名。
殿内の陳設は清朝の宮廷礼制に則り、倫理・階級・格式を強調。家具や器物は王公大臣からの献上品で、殿内には1500点以上の豪華な陳設が並んでいたそうですが、現在は清代宮廷の原状を再現した展示施設として公開されており、慈禧太后の肖像画(1905年、オランダ人画家による)なども展示されているそうです。 -
排雲殿前の広場には多くの人が休憩しています。
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清代中国服を着用した女性。「芳輝殿」前。
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「芳輝殿」
芳輝殿は漢蔵折衷式の仏教建築で、清朝後期におけるチベット仏教(ラマ教)への傾倒を反映。1860年の英仏連合軍による破壊後、1890年代に西太后の命で再建され、清末の宗教的復興の象徴となった。 -
「芳輝殿」前から望む「佛香閣」
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「排雲殿」前庭の龍像
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同じく前庭にある三足・双耳・蓋付きの「青銅製大香炉」
蓋には通気孔(透かし彫り)があり、香煙が立ち昇る設計 -
「排雲殿」を正面から。迫力もあり荘厳で圧倒されます。
排雲殿は慈禧太后の誕辰祝賀など皇室儀礼の中心空間。 -
「排雲殿」前に設置された金属製の鳥像「仙鶴」。長寿と吉祥を象徴する鶴。
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「紫霄殿」
排雲殿の西側に並ぶ配殿の一つで、東側には芳輝殿、西側には紫霄殿が対称的に配置。紫霄殿は、排雲殿の主殿で行われる祝賀儀礼に対して、贈答品の展示や賓客の接待空間として使われたそうです。 -
「御井」または「御泉」と呼ばれる石造の井戸。頤和園・排雲殿前に設置された儀礼的・象徴的な水源で、実用性よりも空間の格式と清浄性を示すための装置。
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排雲殿正殿に掲げられている扁額。「大圓寶鏡」
大圓は「円満」「悟りの境地」などの意味があり、寶鏡は心の清浄さや悟りの象徴を意味します。 -
排雲殿へ上る階段側から見る「芳輝殿」と回廊部分。
配殿は五楹(ごえい)構成の中型建築。楹とは柱と柱の空間のことらしく、正面に6本の柱が立ち、柱間が5つあることです。
配殿は、排雲殿と回廊で連結され、祝賀儀礼の補助空間として機能。 -
排雲殿の内部を外からガラス越しに撮影。円卓と椅子の配置、背後の屏風や装飾は、排雲殿の宮廷原状陳列。
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「佛香閣」を目指して、この階段を上っていきます。
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排雲殿側面
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排雲殿全景
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階段をのぼり、「佛香閣」へ向かいます。
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排雲殿を左手に、階段を上りながら下方向を撮影。
反対側は下り一方通行の階段。 -
階段が非常に綺麗な印象です。この「佛香閣」の台座は21m高さがあるそうです。
5-6階建ての建築物の屋上に行く感じ。 -
かなり上まで上ってくると、昆明湖方面は絶景。
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排雲殿内の展示。漢詩や行灯。
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内部の装飾である鴨居と天井の間にある彫刻欄間や絵画も綺麗です。
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九龍壁の煉瓦彫刻の展示
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排雲殿と佛香閣までの回廊部で、その屋根が生える。
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佛香閣へ上がる爬山廊(登山回廊)側から撮影した「排雲殿」
排雲殿から階段を上るために人が待っています。 -
佛香閣から爬山廊を降りてくる人々。
労働節休暇で天気もいいから仕方ないですがすごく混んでいる。
傾斜も急でした。
上がるのは手前の階段ですが、本当に混んでいました。 -
佛香閣までの爬山廊(登山回廊)の途中で見える「轉輪蔵」
「轉輪蔵」は、仏教の経典(大蔵経)を収めるための回転式書架を備えた経蔵。 -
爬山廊(登山回廊)からの眺望。
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イチオシ
佛香閣の手前の広間からの眺望。昆明湖方面。清代建築物の橙色の屋根、廻りの樹々、昆明湖と浮かぶ船、南湖島、も含め絶景です。
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佛香閣の手前の広間からの眺望。
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「佛香閣」。頤和園の万寿山中腹、標高約60メートルの位置にあり、昆明湖を見下ろす絶好の展望台。建物自体は高さ約36.5メートルの八角三層楼閣で、石製の高台に建てられている。
正面には「雲外天香」の扁額。香煙が天外に届き神霊に通じるという意味。 -
佛香閣の背後にある万寿山頂上に位置する「智慧海」。最初の方にに回ったが、下から見上げるとまた違った迫力がある。
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「智珠門」
佛香閣の智慧海側にある、橙色と緑色のコントラストの屋根がある綺麗な門。この門を通ることで、頤和園の空間構成は儀礼→信仰→悟りという三段階の象徴的遷移を完成させるとのこと。 -
佛香閣を台座レベルから
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佛香閣台座レベルからの眺望。奥に「玉泉宝塔」
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「宝雲閣銅殿」:佛香閣の西側に位置する、銅で鋳造された仏殿。木造建築を模した精巧な構造で、清代の金属工芸技術の粋を集めた建築物。1860年の第2次アヘン戦争で英仏連合軍によって銅製窓枠などが略奪されたそうですが、1993年にアメリカ保険会社会長が買い戻し10枚返却、1996年にフランス政府が1枚返却したらしい。
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「排雲殿」のところまで下りてきました。
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「聴鸚館」
頤和園の東部、仁寿殿や玉華堂の近くに位置し、「画中游」の南になる。政務空間と生活空間の中間的な役割を果たしていたそうです。現在は宮廷料理レストランとして営業しており、清代の「壽膳房」の献立を再現した料理が提供されているらしい。 -
「聴鸚館」
「聴鸚」は直訳すると「鸚鵡(インコ・オウム)の声を聴く」という意味ですが、宮廷内の静寂な空間で自然の音や詩的な情景を楽しむという雅趣を表しています。 -
「清晏舫」(石昆明湖の西端部に位置する石造の船形建築で、清朝の乾隆帝によって1755年(乾隆20年)に建造。「石舫」とも呼ばれる。船体部分は大理石で造られており、長さは約36m。上部の楼閣は木造だが、外壁には大理石の模様が描かれており、見た目は石造。元々は中国式の楼閣が設けられていましたが、1860年の第二次アヘン戦争で英仏連合軍により焼失。1893年(光緒19年)に西洋風の様式で再建。
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清晏舫(石舫)のすぐ横にある建物。「水木明瑟」と呼ばれる休憩所・付属建築。
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「清晏舫」と小さい浮舟
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清晏舫(石舫)のすぐ横にある建物部にある「頤和園全体図」
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荇(草冠に行)橋という石橋とその入口にある牌坊
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橋の中央には亭があり、獅子像なども設置されている。
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「臨河殿」
主に西太后が昆明湖の景色を楽しむための休憩・観賞空間として使われていたらしい。石橋からすぐの位置にある。西太后が雨の日に鏡越しに湖面の雨景を鑑賞した場所として有名。 -
「延清賞楼」
主に西太后や皇族が昆明湖の景色を鑑賞し、休憩や接待に用いた楼閣。清晏舫(石舫)の近く、昆明湖の北西岸に位置し、湖畔に面した二層構造の楼閣。
清晏舫と延清賞楼はセットで設計されており、泰平・安寧・詩的情緒の象徴として庭園美を構成しているそうです。 -
「画舫船庫」:
清晏舫(石舫)の近くにある船庫。現在は観光用の遊覧船が発着する場所としても利用されており、頤和園の水上観光の起点。 -
「画舫船庫」周辺の状況。後方にあるのは宿雲檐城関。
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遊覧船乗車券販売所
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「宿雲檐城関」
頤和園の北西部に位置する門型建築で、万寿山の裏手にある静かな区域への入口を形成する構造物 -
出口へ急ぐ。帰りの高速鉄道:北京南駅発上海虹橋駅の時間が気になってます。
午後2:30頃。 -
外側通路を地下鉄北宮門駅へ向かう
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北宮門駅へ到着。途中で北京大学、精華大学などがありました。
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地下鉄では、北宮門から4号大興線で北京南駅まで約48分。
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北京南駅にて、重慶小麺で食べました。
午後4時ころ。 -
豆が入っていてなかなかいける。辛くて癖になる味です。
豆の触感がいい。 -
「北京南駅」。北京南駅から上海虹橋駅まで高速鉄道で約4.5時間くらい。
空港も遠いし、荷物検査など面倒なので、北京⇔上海は高鐵を利用する方が多い。
ビジネス出張は飛行機が多いですが。
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