2024/05/03 - 2024/05/03
474位(同エリア5329件中)
tzpapa10さん
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- 旅行記62冊
- クチコミ7件
- Q&A回答0件
- 44,293アクセス
- フォロワー26人
5月3日にホテルを出発し、地下鉄にて外環状で「亮馬橋」から「海淀黄庄」まで。そこで4号線に乗り換え「圓明園」にて下車。降りると「圓明園」と大きく彫られた照壁みたいになっていてテンションがあがる。そこから歩いて、清代に築かれた離宮の遺構である圓明園内(面積は350haに及ぶ、中国の5A級観光地(2019年認定))へ。ホテルを移動したため、全荷物を背負って約30000歩歩く。非常に疲れた。
円明園は清代に築かれた離宮で、1709年に清の康熙帝が皇子に下賜した庭園が起源で、皇子が雍正帝に即位し1725年以降様々な建築を増築し、庭園も拡張。乾隆帝時代には、円明園の東に「長春園」南東に「綺春園(のちに万春園)」を拡張し、西洋建築や噴水なども設置され、嘉源帝時代にも大規模改修などを実施。
しかし、1856年勃発の第二次アヘン戦争でフランス・イギリス連合軍が北京まで侵入し、金目のものを略奪し、「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として円明園を焼討し、その後1900年初頭にも連合軍が破壊し廃墟となった。
1984年に遺跡公園建設がはじまり、一部が修復・整備。2008年から復元作業を行うことを政府が発表しプロジェクト発足。正覚寺再建・保護など8つの重点項目。宝物の回収でも色々な歴史がある。
破壊前の絵もあるため、まだ復元されていない場所を見ると残念で、戦争の悲惨さを痛感させられた。文化遺産となるようなものを破壊するのは非常に残念。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
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朝早めにホテルを出発し、外環状で「亮馬橋」から「海淀黄庄」へ行き4号線に乗り換え。4号線で「円明園」に到着すると、駅構内には写真のような照壁のようなものがありテンションが上がります。
1707年建園とある。今から円明園に行く期待が高まる。
円明園は日本では他の観光地ほど有名でないように思いますが、中国人の知り合いからは絶対におススメだといわれた。 -
地下鉄を出たらすぐに到着。「円明園遺址」全体は左手にあります。入口前には広いスペース。
労働節のためネットで既に入場券などを購入済みだったためQRコードを見せて中に入るだけでした。円明園 城・宮殿
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「円明園博物館」の入口横の出入口。「円明園遺址公園」の南中央付近になります。
円明園 城・宮殿
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「円明園博物館」の入口。円明園遺址の入口は別にもあることを後から気づいた。中に入ると正覚寺や博物館があり、円明園遺址の綺春園につながっているので、ここを最初に観るのは問題ない。早朝に出かけたが人が多い。
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この入口は「山門」。「山門」の扁額には「正覚寺」とある。
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博物館入口横にあった石碑。不能忘記かな。
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内部にある説明図。この博物館は「山門」から入り東西に「鼓楼」・「鐘楼」を配置し、その後「天王殿」を経由し「東・西五佛殿」の後「三聖殿」とつながり、そこを抜けると中央に「文殊亭」が最終の「最上楼」へ続く。最終エリアの東西には、「東・西配殿」、「東・西六大金剛殿」、「東・西転角楼」が配されています。
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円明園再建のための1期工事(赤色)と2期工事(青色)の説明図。
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円明園博物館の簡単な見取り図。(鼓楼の内部の展示より)
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「山門」内にある展示物。土台の部分に1707年円明園建設開始、1725年庭園拡張、1745年長春園全面興建、1769年乾隆帝収回春和園・賜名綺春園、1860年英法聯軍火焼円明園(英はイギリス、法はフランス)、1900年八国聯軍侵華、円明園残存建築再次受到破壊、とありました。第二次アヘン戦争では英仏軍による焼き討ちと、八国連合軍による建物破壊は気になりました。
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山門を抜けると、現在も復興中の円明園遺址の文化財保護成果展として看板がありました。奥は「鐘楼」
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山門から入ったエリア。結構若い人が多い感じで、雍和宮などで見かけた欧米観光客はあまり見かけなかった。
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右の看板には、円明園遺址公園の正覚寺最上楼1階にて石柱回そう展があると記載。
奥は「鼓楼」 -
「正覚寺復元図(張宝成 絵)」。正覚寺は1773年に建立。14,300㎡。
鼓楼の内部の展示。鼓楼内部は「正覚創桑」というテーマ。 -
正面にあるのは「天王殿」。内部の展示は「円明重光」がテーマ。
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「天王殿」と西側入口。西奥(写真左)の屋根は「西五佛殿」
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「天王殿」の屋根下部の外観。非常に細かく色もきれい。
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「天王殿」の展示物。「宮灯」。左の掛け軸は乾隆帝の書で「上元灯詞」
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「円明園四十景之廊然大公湯様」
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内部はこんな感じです。天井も緑色できれい。
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「円明園記」
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清の皇帝が円明園に滞在した日数を記載しています。
「雍正帝」平均206.8日/年。最多361日
「乾隆帝」平均126.6日/年。最多251日
「嘉慶帝」平均162日/年。最多247日
「道光帝」平均260.1日/年。最多355日
「咸豊帝」平均216.4日/年。最多317日 -
上の2枚は「円明園四十景」。下は「回復原図」
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正面は「三聖殿」。向かって右に「東五佛殿」、左に「西五佛殿」がある。
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「三聖殿」側からの「天王殿」
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「東五佛殿」
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円明園遺址考古勘探、発掘位置示意図。
円明園ないの、円明園、綺春園、長春園のどこで何を発掘したかなどを番号で表示。
まだこれらの園に入る前だったので、重要そうなものは確認。 -
各遺跡の発掘時の写真や、発掘での出土品などを展示。
発掘は1984~1999年で西洋楼遺跡から開始したとあります。 -
2012年から発掘開始した「大宮門」の発掘写真と出土品など。
円明園西南部にあり約8,000㎡。 -
「三聖殿」側「東五佛殿」前からみる「天王殿」
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「西五佛殿」
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「東五佛殿」
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イチオシ
「三聖殿」朱と緑の調和がきれいです。
阿弥陀仏(無量寿佛)を奉り、両側に観世音菩薩と大勢至菩薩。 -
「三聖殿」内の展示。テーマは「万園の園」。
入ってすぐにあるのは、長春園北側の西洋楼庭園の海晏堂前の噴水時計に設置されていた十二支像の全景模型。1856年の第2次アヘン戦争時に破壊されたという見解もあるそうですが、1930年ごろに北京近郊でこの12の像の写真が撮影されていて、その後首を切断され12干支の各首が各地に流出したらしいです。 -
十二支像を近くから。
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反対側の十二支像。奥から午、卯、巳、未、鳥、猪、だと思う。
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「獅子林」の碑(額)と「獅子林図」
円明園の紅葉といえば、獅子林の元宝楓が欠かせないそうで。かつて乾隆帝が愛した園中園だそうです。訪問時は5月で紅葉の時期ではなかったが、紅葉の時期に訪れる価値もありそうです。 -
中国で署名な建築家である雷氏の初代から第七代までの紹介。円明園や頤和園の建築物を多く手掛けたそうです。
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「十二支獣首銅像」。現在7つが返却されており、5つはまだのようです。
左から「虎」「猿」「牛」首銅像の模造品。
2000年、中国保利集団(Poly Group)が香港の競売会で「虎首」「牛首」と「猿首」の銅像を3300万香港ドルで落札。この3体はいずれも「保利芸術博物館」で収蔵。 -
「猪」首銅像の模造品
2003年初頭、中華流失海外文物回収専門基金がアメリカで「豚首」の行方を突き止め、交渉後、アメリカのコレクターが「豚首」を基金に譲渡することに同意。同年9月、香港マカオの実業家であるスタンレー・ホー氏が基金に対して600万元を拠出、「豚首」を買い戻す。その後、基金は保利集団に寄贈され、現在は保利芸術博物館で収蔵中。円明園の獣首銅像の中で、唯一公益ルートで返還された1体。 -
「鼠」と「兔」首銅像の模造品。
2013年4月、フランスのピノー家が、海外に流出していた「十二大水法遺跡」の青銅製「鼠首」と「兎首」を無償で中国政府に返還することを宣言。現在、中国国家博物館で収蔵中。 -
西洋楼は清時代中期以降に多くのヨーロッパ人が献上品とともに中国に文化を伝え、ベルサイユ宮殿、ギリシャ建築を模した庭園を、乾隆帝時代にイタリア人宣教師が中国の職人に指導して作らせたらしいです。その石柱や彫刻などの破片などを展示。
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「三聖殿」を通過すると、中央に位置する「文殊亭」
展示のテーマは「園夢之基」。中には文殊菩薩を奉る。 -
「東六大金剛殿」
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「西六大金剛殿」
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豚首銅像を買い戻した香港・マカオの実業家であるスタンレー・ホー氏が、2007年、6910万香港ドルを費やして円明園の「馬首」銅像を購入し、国に寄贈すると宣言。
銅像は本来の場所、北京市円明園管理処に返還され収蔵。
円明園で現在見ることができる唯一のオリジナルの十二支獣首。多くの観光客が撮影しており注目度の高さが全然違いました。 -
「馬首回帰」の経緯についての説明。
馬首銅像の廻りには、象の各部の金属成分表(銅Cuは約98%)、各部の拡大写真なども展示されていました。 -
「最上楼」
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「最上楼」では、円明園石柱回帰展が行われていた。
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中で展示されていた西洋風の石柱などの展示物。
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正覚寺エリアからの出口より「文殊亭」と「三聖殿」
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正覚寺エリアから出ます。西洋楼遺址区とあるが出ると綺春園になりますが、あまりに広くて現在地を見失いました。西洋楼遺址区は長春園になるので一番遠かった。
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円明園遺跡(正覚寺エリア)から綺春園に入ってすぐの売店でジュース(円明園貢梨汁)を購入。
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「綺春園」の案内図。赤い綺春園の文字の下に「円明園博物館」「正覚寺」とあります。売店は園の文字の近くにあり。近くからとにかく廻ることにした。
「綺春園」には正覚寺から入る方法と、「綺春園宮門」から入る方法がある。地下鉄でアクセスすると正覚寺が近いが、バスは「綺春園宮門」前に停まる。
中央の一番上にある「三園交界」という地点が「綺春園」「長春園」「円明園」の3つの交点になる。 -
「長春園」の案内図。「三園交界」はこのエリアでは中央最下部に記載されている。「西洋楼遺跡」に行きたいと思っていたが、正覚寺からは最も離れて北の端に位置している。「長春園」には「長春園宮門」「東門」の2か所から入れる。
「東門」から入ると、直ぐに紅葉で有名な「獅子林」がある。また、「西洋楼遺跡区」は別料金が必要である。「円明園盛世全景模型」もあり、ここのチケットが必要になっているようです。 -
「円明園」の案内図。写真の右側に「長春園」があり、右下部が「綺春園」に接続している。入口は案内図下部の南側には「円明園大宮門」があるが未開放区になっている。最初の博物館の所要時間を考えると、これら3つの園を全て廻ることは1日出回るのは不可能と思われ、できる範囲で回ることにした。
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「綺春園」を博物館側から「円明園」「長春園」との「三園交界」に向かって北上。
博物館北側の池とそこに架かる橋。 -
橋の部分に近づくと、橋は両サイドに階段があり、中央は普通の傾斜で作られていた。
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博物館東の池にある「鑑碧亭」。ここから景色を眺めると良いとのこと。池の反対側からのアクセスだったので撮影のみ。
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博物館の「最上楼」を綺春園側から。
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「三園交界」に向けてこのような道を歩く。非常にのんびりしている。
2泊分の荷物を背負いながら、正直ホテルを2泊とも同じにすれば良かったと後悔しながら歩く。 -
後700mで「三園交界」へ。その前に「春沢斎」もあるので寄ってみよう。
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池も多くあり。高齢者は入園料が無料だったので近くの高齢者にとっては散策には本当にいい場所です。
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サークル部分外周にベンチがあり、休憩できるようにもなっている。
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池にはアヒルもいて癒されます。
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「春沢斎」に到着。写真は、説明看板。Chunze Lodgeと英語でありますが、ロッジが建っていたところです。嘉慶6年(1801年)に完成し、敷地面積8500㎡。主な建物として、春沢斎の他、水心舎、暢恵軒、茂悦精舎、時登楼などで、東西に並んだ3つの院落で構成されていたとあります。1986年に綺春園の山形水系整備の時に「清澄秋爽」の残石銘板が出土した。
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博物館で所蔵されていた「春沢斎」遺址で発見された「清澄秋爽」の残石銘板。嘉慶帝の書。
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看板の前で「春沢斎」があったという場所を見るとこんな感じ。
最初は看板だけで何もないのか?と思っていたのですが、調べて歩いていて円明園遺址公園の内容を理解してきたのでした。 -
絵の部分の拡大。実際にはこの絵のような建物がこの部分にあったことを想像すると、第2次アヘン戦争で英仏連合軍が焼討したのは本当に残念なことです。この後も色々廻るが同じようなところが多いです。最初は何これ?という感じでいました。
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右手には結構大きな池があり、遊覧船が浮かんでいる。
奥には橋「会心橋」が架かっている。 -
遊覧船は近くで見るとこんな感じ。
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「会心橋」を渡る。
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「三園交界」近くの道案内。「游覧車」「曲院風荷」「三一八烈士墓」とある。
どこがいいのか分からず、取り敢えず「曲院風荷」を目指す。 -
この地点が「三園交界」の近く。石碑か何かあるのかと探してみたが見つからず。あとでネット検索すると石碑があるようです。左の乗り物が「游覧車」。歩き疲れていたので乗りたかったが見れなくなる場所がでるので我慢。
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「綺春園」から「円明園」方向に向けて歩く。真っすぐ広い歩道で、両側に木々が連なる快適な遊歩道。天気も快晴でいうことなし。
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歩いていると「九州景区」の看板。円明園の主要な部分がこれになる。
「九州清晏」は皇帝の寝宮で、このエリアの9つの小島で構成されている。「桐碧書院」「天然図画」「楼月開雲」「慈雲普護」「上下天光」「杏花春館」など。 -
九州景区は写真の赤丸内をいい、后湖とその周りの9つの島をいうようです。
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円明園にあった売店。ジュースを買おうと試みたが、WeChat支払いでキャッシュレスだったためかうまくいかず喉からから。
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売店の向かい側には「円明園」の石碑があり。花もきれいに咲いていました。
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「円明園」石碑の裏には長い詞が書かれている。
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「荷風院麹」の石碑
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「曲院風荷」の説明看板。乾隆初年に完成、敷地面積50,000㎡。建築面積1,450㎡。
曲院風荷(中央の王殿)の他、洛伽勝焼、飲練長虹などの建物があり。西湖十景の名所を模倣している。 -
「曲院風荷」内部の湖面にかかる橋。
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「曲院風荷」西側の遊歩道。「天然図画」側
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「天然図画」近くの池。
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「天然図画」エリアに到着。ここには、円明園遺址公園全体の案内図があり。幾つかの箇所にあり。ここで現在地を確認できる。
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「碧桐書院」の石碑
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碧桐書院の説明と当時の外観図。
清の康熙帝が創建開始し、全面積は13,500㎡あり、そのうち1,700㎡が建築面積を占めていた。碧桐書院や雲琴亭などがあり、昔は「梧桐院」と呼ばれて、清代の皇帝が勉強したところ。四方を山に囲まれ、多くの院落があり、庭に水が引水され、庭園植物として梧桐が有名。1737年に碧桐書院に改名。 -
これが鳥瞰図で、山の中に建築物がいくつかあります。
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現在は何もない広場のような状況になっていて、天気が良く気持ちは本来いいはずだが、建築物が全て焼失しているかと思うと、悲しい気分にもなる。
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「碧桐書院」から「慈雲普護」へ向かう途中に橋の残骸か水門の残骸のようなものがあり。
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「一孔橋」(?)
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「慈雲普護」の石碑
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「慈雲普護」の説明看板。清の康熙朝に建てられ、敷地面積10,000㎡。建築面積800㎡。歓喜仏場、慈雲普護、自鳴鐘楼、昭福龍王殿などの建築物があった。清朝の帝后が園に住んでいた時に、よく香を摘んで仏を拝む寺院もあった。観世音菩薩、関帝聖君と竜王を祀るだけではなく、道士小屋も建てられ、仏教、道教と民間信仰が混ざり合う色彩を体現していたそうです。ここの遺跡は、湖に面した石岸と南側の歓喜仏場前の藤栽培が復活している。
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「慈雲普護」の現在は建築物の残っていない。正面には藤栽培がされている。
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湖側の様子。
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すぐ隣の「上下天光」遺跡に到着。その石碑。
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「上下天光」の説明看板。雍正4年(1726年)に完成し、敷地面積10,500㎡、建築面積1,600㎡。主な建物は、上下天光、心鏡澄観敞庁など。上下天光は湖に面した建物で、湖に突き出た台と曲橋があり、両側の曲橋の間にそれぞれ東屋があり、清帝の中秋節に宴を設けて月を鑑賞する場所だった。この風景は、「岳陽楼記」の「上下天光、一碧万頃」の洞庭湖の意境を再現。2004年に、上下天光楼前の臨水プラットフォームと階段が復元され、后湖の風景を眺められる。
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后湖の風景
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上下天光にはトイレがあったので用を足してから、杏花春館方面へ。きちんと整備ざれた石檀がある。
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「杏花春館」遺跡に到着。看板には現在地の他に、今向いている方向、QRコードによる円明園遺址公園サイトへのアクセスができるようになっている。
建築物はほとんど復元されていないので、このエリアを歩いているとどこをどう歩いているのか分からなくなってくるので、非常に助かる。
ここも山の中に幾つかの建築物があるが、復元されていなかった。 -
后湖沿いの道を歩いています。天気が快晴で気温も暖かく気分上々?
中央にある白い台が上下天光にある臨水プラットフォームかな。 -
「碧瀾橋」手摺の上面は屈曲したクリスタル製でした。橋の湾曲がかなり大きく特徴的。
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碧瀾橋を渡って「坦坦蕩蕩」遺跡へ。長方形の魚池。
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「坦坦蕩蕩」遺跡の説明看板。康熙朝に建てられ、敷地面積10,500㎡、建築面積1,650㎡。主な建築物は、素心亭、双佳斎、光風齋月、知魚亭、碧瀾橋など。昔は金魚池と呼ばれ、皇帝が餌をやり、金魚を鑑賞する場所。乾隆21年(1756年)、乾隆は72回も来て金魚を鑑賞。この庭園は清代杭州の「西湖十八景」の一つである「玉泉魚躍」と似ていて、島には壮大な長方形の魚池が彫られており、「品」の形をしている。2004年に魚池の四岸にある条石、池の中の環状積石、蔵魚潭が保存。碧瀾橋は元の場所で修復。
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魚池と環状積石
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「坦坦蕩蕩」石碑
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「茹古涵令」遺跡の石碑。ここは、敷地面積9,000㎡、建築面積3,300㎡。皇帝が冬に読書をする場所。広く、清らかで、ずっと清朝皇帝が大臣と古今を語り、詩を詠み、絵を描く場所だった。この遺跡には清朝歴代皇帝や大臣などの書画の原本など大量のコレクションがあるそうです。あとから、インターネットで3D復元図を見つけた。焼失しているのは本当に残念。
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「棕亭橋」「茹古涵令」から「九州清晏」へ行くときにわたる后湖側の橋。
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「九州清晏」后湖の南に位置する島で、清朝皇帝の寝宮区。前後三段は順番に円明園殿、奉三無私殿、九州清晏殿。歩いているときは宮殿も焼失して復元していないので、ぶらぶらと散策していたが、皇帝の寝ていた場所との認識もなくもったいないことをしました。
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九州景区から前湖西側の道を南下し、「正大光明」へ。そこの石碑。
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「正大光明」の様子。中央やや左にあるのが石碑。西側にある「長春仙館」へ向かう。
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「長春仙館」の石碑
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「長春仙館」の説明看板。雍正4年(1726年)に建てられ、敷地面積8,000㎡、建築面積3,700㎡。主な建物は、長春仙館、緑陰軒、麗景軒、含碧堂、林虚桂静、古香斎など。昔は「蓮花館」と呼ばれ、周囲が山と水に囲まれた静かな環境。この島には2つの木橋がある。南大橋と鳴玉溪橋。乾隆帝は即位前にここに住んでいた。即位後は、皇太が園に遊びに行くたびにこの景東路で休憩。西路は孝賢皇后の褒宮。嘉慶帝が即位して最初の3年はここに住み、多くの月季花(別名長春花)を植えた。ここは円明園の第二寝宮で各種施設が充実。ここは、堤防と臨水建築台基を修繕し、鳴玉溪橋は橋体を修復。
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長春仙館遺跡の様子。ここも広場のような感じ。
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円明園の南に位置する周回道路。この道は東西にほぼ真っすぐある。右手には塀があるが、「正大光明」の南側は未開放であるが、「円明園大宮門」になっている。この大宮門なども正大光明です。
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道路にあった「円明園遺址」の石碑。
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道路側で「正大光明」の説明看板を発見。
雍正3年(1725年)に基本的に完成し、敷地面積100,000㎡、建築面積7,000㎡。主な建物は大宮門、出入賢良門、正大光明殿など。正大光明は円明園の前朝区。大宮門は円明園の正宮門で、皇帝の出入り専用。1860年、英仏連合軍が円明園に入って略奪・放火をした時、正大光明殿を指揮部としていた。同年10月フランス侵略軍が大宮門に侵入し、八品首領任亮が率いる20人余りの円明園技勇臣官が敵軍に抵抗し、全員犠牲に。円明園博物館に「円明園技勇八品首領任亮墓石」収蔵。 -
「正大光明」沿いの遊歩道。「勤政親賢」へ向かいながら振り返って撮影。
天気が良く絶好の円明園散策日和です。 -
「勤政親賢」の説明看板。
雍正3年(1725年)に建てられ、西は正大光明殿と隣接し、前朝区の重要な部分。清帝が園内で政務を聞き、日常政務を処理する場所であり、機能は紫禁城養心殿に似ている。本景は規模が大きい建築風景群で、南北150m、東西幅170mで敷地面積が25,000㎡。東北と西の三方を山と水に囲まれ環境が美しい。各庭には奇石が配置され、名高い花が植えられ、清帝はここに住んで仕事をしていた。 -
現在の様子。ここで円明園を確認すると、三一八烈士墓に行きそびれていることに気づき、「正大光明」から戻ることにした。
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「勤政親賢」から九州景区に入るとことにかかる「如意橋」
渡るとすぐに三一八烈士墓がある。 -
如意橋を渡ると、前湖側に三一八烈士墓、后湖側に九州清晏がある。その分岐点あたりにある現在地表示板。
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三一八烈士墓に向かう。写真中央遊歩道右手にあるのが「三一八烈士墓」
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行く途中で「九州清晏」の説明看板を発見。
康熙帝時代に建てられ、敷地面積25,000㎡、建築面積8,600㎡。主な建物は円明園殿、奉三無私殿、九州清晏殿、同道堂、慎徳堂など。九州清晏は帝后の主な寝宮区で、各王朝の皇帝は改築と増築があり、雍正帝、道光帝はここで亡くなり、嘉慶帝と咸豊帝はここで生まれている。本景は西・中・東の三路庭園で構成されている。中路にある円明園殿が円明園の正殿とされている。奉三無私殿は御園祭殿であり、宗親宴を開催する場所でもあり、九州清晏は清皇帝の主な寝殿。1929年、元奉三無私殿一帯に「三一八烈士墓地」が建設された。この遺跡は、三大殿台基だけが認識できる程度。 -
”三・一八”烈士紀念碑の石碑。
他にも、「三一八烈士墓」「三一八烈士公墓」と記された石碑もあった。
三一八事件は、1926年3月18日に北京で発生した反軍閥、反帝国主義デモ運動に対する弾圧事件。中国人作家の魯迅は「三月十八日、民国以来、最も暗黒なる日」と呼んだそうです。 -
中華民国十八年四月に建立された。「三一八烈士公墓」。花や飲料品が供えられていました。
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三一八烈士公墓の廻りに沈痛哀悼ということで、記念劉和珍君というものがありました。後で調べると魯迅が発表した散文で、デモで命を落とした北京女子師範大学英文系学生であった劉和珍さんへの思いを記しています。廻りの中国人の人は真剣に読んでいました。
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「洞天深処」。円明園の東南端部に位置する。再び「正大光明」「勤政親賢」を通過し、ようやく到達。
「九州景区」は全て廻ることができたが、円明園の半分も廻れていない。この時点で午後1時近い。まだ西洋楼遺跡にも行けておらず焦ってきた。
雍正帝は皇子をより勉強させ、特別に放宮乾清門の左に「尚書房(後に上書房)」を設立し、園に住むときも皇子への教育を教育を緩めなかったので、円明園にも「上書房」を設置。円明園宮門区東南隅福園門内の洞天の奥深く(洞天深処)は、皇子書房と住居を主体とする建築風景群。 -
小学校低学年くらいの女の子が座ってお菓子を食べていたが、「別有洞天」と記された石碑。「別有洞天」は円明園から福海を左手に見ながら東方向に行って「長春園」に入ったすぐの所にある。「三園交界」に近い円明園側に位置します。位置は実は秘密らしく、城関を経由して出入りすると、納翠楼、水木清華の閣、時業斎、石舵がある。雍正8年(1730年)前後に建てられた。当時は秀清村と呼ばれ、乾隆4年(1739年)に別有洞天と名付けられた。
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「石舵遺跡」に説明石碑。石舵は「別有洞天」の中の建築物。
乾隆27年(1762年)に建設され1860年に英仏連合軍の火で焼失した。1985年にこの石舵の座は水道発掘時に出現したようです。 -
石舵遺跡の座の周辺には多くの人が。「三園交界」から近いこともあり人が多い。
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円明園のモニュメント。
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「福海景区」の碑。円明三園の中心に位置し、園内最大の水面であり、東西南北の幅はそれぞれ500m、600mで、四方の小さな水域を加えて合計500ムー(ムーは単位で約666㎡なので333,000㎡ある。福海の中には「蓮島瑶台」があり、伝説の蓬莱、方丈三仙山。島の上には殿亭台があり、「望之若金堂玉所、玉楼十二」。端午の節句になると、ここで大型のドラゴンボート競渡イベントが開催。冬に凍った後、皇帝は氷床に乗って福海で遊んだ。水上娯楽センターでもある。
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「三園交界」から南北にある遊歩道で、西洋楼遺址区方面に繋がる道。
多くの人が「西洋楼遺址区」方面にむかっている。私も朝から何も食べず梨ジュースだけで空腹のまま歩く。 -
かなり歩くと、「拾光売買街」というのがあり、近くでレストランや屋台があることに感激。何か食べることに。
円明園には2つの売買街が存在し、同楽園売買街と含経堂売買街で、同楽園が一番有名。売買街は清朝の皇帝が民間の週間、市井文化を体験する宮廷市場。 -
奥にあるのは洋風レストラン。右手は屋外のカフェのようなスタイルの店。撮影場所近くにフランクフルトを販売していたので購入して食べ、カフェでまずコーヒーを購入し立ち飲みしてからレストランへ向かいました。
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レストランの中の様子。レストランに入るといっぱいでしたが、全席埋まっており一人で入ったら相席になるのでどうしようかと思ったが、一人で4人席に座っていた人と相席で座り、「三明治」(サンドイッチ)」を食べた。時間的には1時半を過ぎておりドリンクとケーキなどを食べている人の方が多かった。
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売買街の様子。色々な店がでていて活気がある。
「拾光売買街」の中心。色々な屋台。章魚小丸子は「たこ焼き」、その右は「老北京ヨーグルト」、「涼皮」は西安周辺の名物、「冷鍋串串」「拾光ソーセージ」など。 -
ソーセージの向こうには「うさぎのぬいぐるみ」「レモンティー」や「椰子の実」「チーズ餅」「鶏手羽」などの屋台。
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福海遊覧船の乗り場もある。
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フランクフルトや羊串焼き、写真のように切ったソーセージなどの焼き物もあり。手前のソーセージを購入し食べた。
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売買街をでて、西洋楼遺址区へ急ぐ。橋を渡るとすぐに西洋楼遺址区へ到着。
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西洋楼遺址区へ入るには別途入場券が必要。右奥に見えるのが売場ですが、すごい人。ウンザリする数です。
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西洋楼遺址区には入れたが、2時15分くらいになっていた。右手に西洋建築の部材が残っているが、周辺の人の数が多くなかなか進まない。先が思いやられる。円明園や綺春園ではそんなに混んでいなかったが、ここの込み具合は半端ない。
ここのエリアを「諧奇趣」といい、乾隆十六年に建てられた円明園内の欧州式水法大殿。 -
「西洋楼遺址景区」の説明パネル。
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「諧奇趣」説明パネルの図
「西洋楼遺址」には説明用のパネルもあり、文章と当時の絵によって表示されています。 -
「諧奇趣」。人混みから西洋楼の部材の見える側へ移動し撮影。
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近くで見るとこんな感じ。石の基礎の上に残骸が当時のままの感じ。また、石柱が残っている。
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「黄花陣」の説明パネル。「黄花陣」の説明看板もあり、迷路の壁の高さは1.2m。小さい子供は全く見えないので難しいでしょうね。
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「黄花陣」。西洋楼遺址区のさらに北隅に迷路がある。これは乾隆帝によって「黄花陣(ホァンフアヂェン)」と名付けられたもので、総延長約1.6㎞のほぼ左右対称の迷路の中心に、小さなパーゴラ(東屋)が建っている。設計の総指揮はジュゼッペ・カスティリオーネがとり、実際のデザインは同じイエズス会士のイグナティウス・ジッヒェルバルトが行ったと言われている。
その形は、フランスのバロック式庭園(平面幾何学式庭園)の迷路を模したもの。迷路やフォリー(庭園内の小建築)によって「遊び」を提供することは、観覧者が退屈しがちな幾何学庭園にとって重要ですが、バロック式庭園には広大な敷地を貫いてナナメ方向に眺望を誘導する軸線が欠かせないらしいが、ここには迷路がポツンとあるだけ。 -
パーゴラ(東屋)に向かって迷路を歩いていくようになっている。子供たちがはしゃぎまわっていた。
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中央にあるパーゴラ(東屋)に到着した。
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迷路はこんな感じ。普通に歩いていると簡単には分らないので大人でも何度か間違えます。
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中央のパーゴラ(東屋)から迷路を見るとこんな感じ。
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「養雀籠」の説明パネル
「養雀籠」は、「黄花陣」の東側にあった西洋門。乾隆二十四年(1759年)に建設。主室は通廊になっており、南北の部屋では孔雀などの鳥が檻の中で飼われているため、「鳥籠」という名前が付けられ、中国と西洋の要素が融合した西洋建築風景区の建築スタイル。 1860年に英仏連合軍が焼き払ったとき、東側は大理石で造られていたため保存状態が良かったが、西側の中国風のアーチは完全に焼失。鳥かごは、長春園北側にある洋風建築の名所の一つ。 -
「五竹亭」の説明石板。
五竹亭は方外観の南側に位置し、南向きで、5つの竹の廊下と18の部屋から構成され、西洋式の二重軒竹亭。 -
「五竹亭」の遺跡
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「方外観」の説明石板。
清時代の皇帝家園林庭院の代表作品で、別名「明園」。乾隆24年(1759年)に建設。大理石のアナグラム模様で覆われた3つの部屋を持つ欧州小宮殿で、屋根は重いひさしと上下に3つの部屋を持つ3間の青い釉薬タイルの屋根。両側には2階に通じる半円形の石の階段がある。門と階段のステップは銅で枠取られている。 -
写真は実際の「方外観」の欧州小宮殿を示したもの。ネットなどではカラーの鳥瞰図などを確認できます。屋根や床などは落ちてよく分からない。
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「方外観」の遺跡。柱部分の遺跡が残っている。
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別角度からはこんな感じ。
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「海晏堂」の石碑
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イチオシ
「海晏堂」
。博物館の「三聖殿」内に模型があったが、「十二生肖獣首銅像」が左右に6体ずつ並べられていた場所、写真はその噴水場。鼠、虎、龍、馬、猿、犬が南側に、牛、兔、蛇、羊、鶏、豚が北側に、八の字を描いて並んでいる。各動物(体は人間)が2時間ずつ時間を担当し、担当の時間になると池に向かって口から水を噴射した。昼の12時には12体の動物人間が全員一斉に噴射した。 -
「海晏堂」の噴水場
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「海晏堂」の周辺を含んだ全景はこんな感じ。「海晏」という言葉は、「河清海晏、国泰民安」という意味。「文苑英華」唐鄭錫「日には王字賦がある」。黄河の流れが澄んでいて、海の風が穏やかで波が静かということ。この言葉は、天下の太平を比喩し、世界平和を賛美する縁起の良い意味とされる。中国王室庭園円明園で実用的な建築「海晏堂」の名はここから由来。
噴水の背後には欧式の宮殿があり一部が背後に残っています。 -
「線法山」の説明パネル。線法は西洋焦点遠近法を意味します。山麓に円形の土塁、西洋風の楼閣、東西のアーチ門などがある。円形の土の丘は約8mの高さがあり、3 度曲がって丘の頂上まで続く螺旋状の道があります。階段の幅は約1.5mで、両側には低い黄緑色のガラス張りの壁があります。
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「海晏堂」の噴水場近傍の遺跡
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中央にある2本の柱は「海晏堂蓄水池台基」の手前の柱。とにかく人が多い。手前にも石垣のような遺跡。
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「海晏堂蓄水池台基」を確認
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「海晏堂蓄水池台基」手前の石柱。
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「海晏堂蓄水池台基」の説明石碑
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「海晏堂蓄水池台基」の説明石碑と現状全景
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奥には「大水法」と「遠Ying観」がある。私は手前からアクセスしたが、逆側からアクセスすることも可能で、この付近は人の交差もありラッシュアワーなみの混雑。
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「観水法」遺跡の現状
観水法は西洋楼遺址区の「大水法」向かい側にあり、乾隆帝が噴水の景色を見る場所。皇帝の玉座を置く台基と玉座の後の石彫屏風及び両側のバロック式石門などを含む。咸豊10年(1860年)に英仏連合軍に破壊され、宣統2年(1919年)以降に残された石屏風彫刻石心は揚涛によって朗潤園に運ばれ、1977年に今のところに運ばれた。 -
「海晏堂」の東に位置する「大水法」の説明パネル。
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「大水法」石碑。
「大水法」は、乾隆24年(1759年)に完成。人口噴泉は「水法」と呼ばれ、数が多く、勢いもあり、奇抜な特徴もあり「大水法」と呼ばれている。おもに、「諧奇趣」、「海晏堂」、「大水法」の3つの大型噴水群を形成。大水法は園内で最大の欧州式噴水景観。咸豊10年(1860年),英仏連合軍の侵略により破壊。 -
「大水法」全景。
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「大水法」遺跡。西洋楼遺址景区の最大の注目です。
奥に見えるのが「Yuanyingguan」遺跡。 -
「Yuanyingguan(遠Ying観)」遺跡。
インターネットでは、大水法の背後に西洋式建築物があったようになっています。 -
フランスのロマン主義作家・詩人であるビクトル・ユーゴ―(1802~1885)の像。
「レ・ミゼラブル」の著者として有名。
円明園を英仏連合が焼討・破壊・略奪したのが1860年の第2次アヘン戦争であるので同時代になる。彼はこの英仏連合軍の行為を批判した。
胸像の台座背面にも中国語で記載がありました。 -
ユーゴ―胸像近くにあった説明書
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まだまだ見切れていないが翌日の「頤和園」観光もあるので、円明園遺址公園をあとにすることに。西洋楼遺址区からは、獅子林、方河を抜けて「東門」へ向かう。
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「円明園遺址公園」東門。ここから入れば西洋楼遺址区を最初に見れたんですが、博物館のある南側から入ったので最後に焦ってみる結果になってしまった。ここからは、また円明園駅から地下鉄でホテルへ行くつもりだったので、相当歩かなければならない。
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長春園景区「南門」。結構時間的には午後3時半を過ぎているがすごい人の列。
年間パスみたいなのがあれば、夜も遅くまで明るいし、涼しくなるので、近くの人は夕方行くのかもしれない。 -
「長春園宮門」
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長春園宮門入口両側には銅麒麟がいる。
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「長春園宮門」東側の建築物
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「長春園」からの入口近くにあった石碑。
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「匯苑」というレストラン。円明園遺跡公園の廻りの中関村北大街沿にあり。
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ようやく地下鉄「円明園」駅まで300mに。かなり円明園遺址公園の周回道路は長い。約45分も歩いた。
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円明園を長春園の外側を廻って「円明園」駅へ向かう途中に、中国の精華大学があった。中央の国旗を掲げた門に「精華大学」とある。北京大学と並ぶ学府で、円明園が近くにあるのは良い環境です。
あとで地図を見ると、「北京大学」も隣接していることを知った。 -
旅行客サービスセンター
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「万春園」入口。綺春園の南東部に位置する。
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円明園「南門」。夕方4時を過ぎていたが、まだこんなに入場者がいるとは驚き。
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4号線で「円明園」駅から「海淀黄庄」まで行き、10号線に乗り換える。6号線に乗り換える「慈寿寺」駅までは6駅。宿泊先の最寄の地下鉄駅は6号線「海淀五路居」駅。10号線「慈寿寺」駅で乗換て1駅。スマホの歩数を見ると30,000歩近く歩いていたので一気に疲労が。何とか夕方6時過ぎにはホテルにつきそうだ。翌日も頤和園に行き、上海まで帰らないといけないのですぐに食事に行って寝るに限る。
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蘭州牛肉面の店で麺を食べることにした。近くのショッピングモールにタクシーを止めてもらったが、マクドやケンタッキーなどのファストフードや、カフェが多く一人食には今一つだったので。
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冷やし中華みたいな麺があったので、それを食べることにした。
併せて羊肉串も2本注文。まずまずでした。
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