2024/08/28 - 2024/08/28
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ヌールッディーンさん
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岩内町の歴史が展示されている郷土資料館で、主に近世から近代(明治から昭和前半)の資料が充実している印象でした。
鰊漁の不漁によって衰退していった北海道西海岸の町の中にあって、この町が独自のポテンシャルを生かして活路を見出していった様子が見て取れたように思います。
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岩内町は江戸時代から明治末期頃まで鰊漁が大きな産業でしたが、それ以外にも「進取の気質」があったことを、この資料館では力説しています。
例えば、敷地内にある「野生ホップ発見の地」碑もそうしたことを示すものです。お雇い外国人トマス・アンチセルが明治4年にこの地でホップを発見し、札幌でのビール製造へと繋がっていきます。
岩内は港と茅沼炭鉱(現在の行政区画では泊村ですが、当時は岩内の行政範囲)があったために、多くのお雇い外国人が調査などに来ており、彼らと現地の鰊場の親方などが交流することで「進取の気質」が育まれたとしています。
その前提となる経済力は鰊漁によって培われましたが、岩内町内に鰊番屋がないことについての説明が興味深いです。それによると、①家庭内の労働力で間に合った刺網漁が多かったこと、②宿屋が多く、雇い漁夫はそこで寝泊まりできたこと、③人口が比較的多かっため地元で労働力を求めることができたこと、とされています。個人的には、刺網漁が多かったのであれば、それが決定的な要素かな、と思いました。
昭和初期に鰊が不漁となった後、岩内はスケソ漁へとシフトを成功させますが、鰊漁が比較的小規模だったからこそ、鰊だけに尽力するという発想がなく、そこから抜け出しやすかったのではないか、と思います。
なお、この資料館では、このシフトについて、以下の要因を挙げて説明しています。①スケソ延縄漁法を開発した漁業家がいたこと、②そのために必要な発動機船を係留できる港があったこと。港は国の事業では築港をしてもらえなかったので、町が起債して建設したことが功を奏したようです。(なお、この時期は、小樽港の築港が行なわれていた頃と思われ、国として近くの港をいくつも造る状況ではなかったと思われます。)
展示を見て岩内という町が明治期に商業でも力をつけていたこと、地元新聞が7紙も発行されたり、芸術家や文学などにも一定の関心がもたれるなど、文化資本が高い人々がそれなりに多くいたらしいことが印象に残りました。これは「進取の気質」にも繋がるものと思われます。
昭和29年に大火があったという点は、市街地のその後の発展などにどのように影響したのか、などが気になりましたが、あまりその点は説明がなかったです。ただ、展示されている地図を見て、ソーランラインの国道を境に北(港側)が飲食店などが現在でも多く、南側が官公庁の建物が多いことに気付き、明治期に町を作っていく際に札幌と同様に官庁街と民間の町とを区分していたのではないか、ということが見て取れたのも興味深かったです。
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