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今年(2023年)6月に翌年10月をもって、<br />シンガポール・クランジ競馬場での開催が終了する、<br />というショッキングなニュースが発表されました。<br />シンガポールで約20年活躍していた高岡秀行調教師は、<br />それに先立ち、2023年のシーズンで勇退されたそうです。<br /><br />この競馬場は、私なりに思い入れが深い場所でもあり、<br />’葬式鉄’ならぬ’葬式馬’に行きたい気持ちは山々ですが、<br />貧乏な上に、円安、石油高の’ダブルパンチ’を受け、<br />あの競馬場に私が出掛けることは無理、だとも感じています。<br /><br />乏しい写真と原稿で、この競馬場についての思い出を書くことにします。<br />その他、シンガポールと接するジョホールバルについても無駄に語ります。<br /><br />皆様のご旅行の参考にはならないとも思います。<br />お暇な方だけお読み下さい。<br /><br />旅行日時は初めてシンガポールのクランジ競馬場に行った、2005年1月15日と、あのコスモバルクが現地で勝った日にしました。<br />表紙は2007年にクランジ競馬場で撮った写真です。<br />

さよなら、クランジ競馬

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2005/01/15 - 2006/05/14

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真昼あんどん行

真昼あんどん行さん

今年(2023年)6月に翌年10月をもって、
シンガポール・クランジ競馬場での開催が終了する、
というショッキングなニュースが発表されました。
シンガポールで約20年活躍していた高岡秀行調教師は、
それに先立ち、2023年のシーズンで勇退されたそうです。

この競馬場は、私なりに思い入れが深い場所でもあり、
’葬式鉄’ならぬ’葬式馬’に行きたい気持ちは山々ですが、
貧乏な上に、円安、石油高の’ダブルパンチ’を受け、
あの競馬場に私が出掛けることは無理、だとも感じています。

乏しい写真と原稿で、この競馬場についての思い出を書くことにします。
その他、シンガポールと接するジョホールバルについても無駄に語ります。

皆様のご旅行の参考にはならないとも思います。
お暇な方だけお読み下さい。

旅行日時は初めてシンガポールのクランジ競馬場に行った、2005年1月15日と、あのコスモバルクが現地で勝った日にしました。
表紙は2007年にクランジ競馬場で撮った写真です。

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  • 以前の旅行記に書いたように、香港には1983年に行ったことがありますが、<br />シンガポールに初めて入国したのは、それよりはるかに後年の2005年1月でした。<br />無駄金を使って、JALに乗ったと思います。<br />あの航空会社の東京-新千歳の往復無料航空券が取れるまで、マイルを貯めていたので。<br />何せ18年も昔の話になるので、少し曖昧ですが。<br />当時は余り写真を撮る習慣がありませんでした。<br />まだ、〇ルンです、を使っていました。<br />ショボい話です。<br /><br />目的は週末の競馬開催、そして、国境を越えて地味に観光をすることでした。<br />シンガポールでも一応観光もした、という事でこの1枚を。<br />現在は引っ越した、とどこかで読んだ気もしますが。<br />ブギス、クラークキーに近い街中にあった気もします。<br />世界3大ガッカリ、と、昔は揶揄われていましたっけ。

    以前の旅行記に書いたように、香港には1983年に行ったことがありますが、
    シンガポールに初めて入国したのは、それよりはるかに後年の2005年1月でした。
    無駄金を使って、JALに乗ったと思います。
    あの航空会社の東京-新千歳の往復無料航空券が取れるまで、マイルを貯めていたので。
    何せ18年も昔の話になるので、少し曖昧ですが。
    当時は余り写真を撮る習慣がありませんでした。
    まだ、〇ルンです、を使っていました。
    ショボい話です。

    目的は週末の競馬開催、そして、国境を越えて地味に観光をすることでした。
    シンガポールでも一応観光もした、という事でこの1枚を。
    現在は引っ越した、とどこかで読んだ気もしますが。
    ブギス、クラークキーに近い街中にあった気もします。
    世界3大ガッカリ、と、昔は揶揄われていましたっけ。

  • 泊まったホテルから、MRTと徒歩でこちらの駅に行きました。<br />列車で一駅乗って国境越えをしました。<br />列車の写真がないのは間抜け極まりません。<br />’単純馬鹿’が’タンジョン・パガー’で撮ったピンボケ写真です。<br />…単なるダジャレでした。<br />時間の関係で急行列車に乗る事になったので、無駄金を使いました。<br />「バスの方が安い」<br />そう親切にアドバイスをして下さった現地の方が居ましたが、<br />「列車に乗りたい」<br />と、ここでも無茶をしました。<br />ブキティマは通過、ウッドランズ駅はない時代だったと思います。<br />ブキティマといえば、元々はシンガポール・ターフクラブはそちらにあったそうです。

    泊まったホテルから、MRTと徒歩でこちらの駅に行きました。
    列車で一駅乗って国境越えをしました。
    列車の写真がないのは間抜け極まりません。
    ’単純馬鹿’が’タンジョン・パガー’で撮ったピンボケ写真です。
    …単なるダジャレでした。
    時間の関係で急行列車に乗る事になったので、無駄金を使いました。
    「バスの方が安い」
    そう親切にアドバイスをして下さった現地の方が居ましたが、
    「列車に乗りたい」
    と、ここでも無茶をしました。
    ブキティマは通過、ウッドランズ駅はない時代だったと思います。
    ブキティマといえば、元々はシンガポール・ターフクラブはそちらにあったそうです。

  • という事で、ここからはジョホールでの訪問先の写真を載せます。<br /><br />ジョホールバルも、この駅しかありませんでした。<br />周辺は治安が悪い場所らしいですが、何の事件、事故にも遭いませんでした。<br />幸運に感謝します。

    という事で、ここからはジョホールでの訪問先の写真を載せます。

    ジョホールバルも、この駅しかありませんでした。
    周辺は治安が悪い場所らしいですが、何の事件、事故にも遭いませんでした。
    幸運に感謝します。

  • ジョホールバル駅近くに止まっていたタクシーを拾って、こちらに来ました。<br />ラーキン・スタジアムです。<br />発音が悪くて、最初は同じラーキンにある、長距離バスステーションに連れて行かれそうになりましたが、無事に着きました。<br />正面の写真です。<br />

    ジョホールバル駅近くに止まっていたタクシーを拾って、こちらに来ました。
    ラーキン・スタジアムです。
    発音が悪くて、最初は同じラーキンにある、長距離バスステーションに連れて行かれそうになりましたが、無事に着きました。
    正面の写真です。

  • この1枚には、私が写っています。<br />委託撮影なので、このサイトに上げても問題はない、とは思いますが。<br />人が良い、華人のタクシーの運転手を呼んで、シャッターを切ってもらいました。<br />写〇ンです、の。<br />我ながら、情けない日本人です。<br /><br />左手には文庫本を持って、右手でそれを指さしています。<br /><br />紺色のTシャツを着ていますが、これは意図したものです。<br />文庫本は一〇治夫氏が書いたベストセラー「たったひとりの〇ールドカップ」です。<br />当時住んでいた部屋の、最寄り駅近くのビルにあった、〇ックオフで105円(税込み)で買いました。<br />荷物になるので、泊まったホテルの部屋に置いてきたのは、ナイショにした方が良い話かも知れません。<br />自分がイカレた人間であることは否定はしませんが、こんなふざけた写真を撮った、撮らせたのは、単に私の頭がおかしいせいではない、とも強調したい気もします。<br />この1枚に関しては、言い訳はできます。<br /><br />「オレ? オレなの?!」<br />あのポーズを少し真似たつもりです。<br />1997年11月16日(17日変わっていたかもしれません)サッカー日本代表の歴史が創られた日の、あのサッカー選手を。<br />その後半18分の交代があってから、あの日の日本代表の戦いは違ったものになりました。<br />アイドリングからトップギアに入った、そんな表現を私はしますが。<br />スポンサー、マスコミ、その他のしがらみ、そんなものは一切関係なく、<br />現場の責任者が、潔く、最良の決断をした、とも感じました。<br />ダエイ、アジジ、マハダビキア…を擁して、<br />当時、攻撃力ではアジアでもっとも優れていたイランチームを逆転で下した、<br />この交代以降の、あの試合は、第一次岡田監督時代のもっとも輝いていた時間でした。

    この1枚には、私が写っています。
    委託撮影なので、このサイトに上げても問題はない、とは思いますが。
    人が良い、華人のタクシーの運転手を呼んで、シャッターを切ってもらいました。
    写〇ンです、の。
    我ながら、情けない日本人です。

    左手には文庫本を持って、右手でそれを指さしています。

    紺色のTシャツを着ていますが、これは意図したものです。
    文庫本は一〇治夫氏が書いたベストセラー「たったひとりの〇ールドカップ」です。
    当時住んでいた部屋の、最寄り駅近くのビルにあった、〇ックオフで105円(税込み)で買いました。
    荷物になるので、泊まったホテルの部屋に置いてきたのは、ナイショにした方が良い話かも知れません。
    自分がイカレた人間であることは否定はしませんが、こんなふざけた写真を撮った、撮らせたのは、単に私の頭がおかしいせいではない、とも強調したい気もします。
    この1枚に関しては、言い訳はできます。

    「オレ? オレなの?!」
    あのポーズを少し真似たつもりです。
    1997年11月16日(17日変わっていたかもしれません)サッカー日本代表の歴史が創られた日の、あのサッカー選手を。
    その後半18分の交代があってから、あの日の日本代表の戦いは違ったものになりました。
    アイドリングからトップギアに入った、そんな表現を私はしますが。
    スポンサー、マスコミ、その他のしがらみ、そんなものは一切関係なく、
    現場の責任者が、潔く、最良の決断をした、とも感じました。
    ダエイ、アジジ、マハダビキア…を擁して、
    当時、攻撃力ではアジアでもっとも優れていたイランチームを逆転で下した、
    この交代以降の、あの試合は、第一次岡田監督時代のもっとも輝いていた時間でした。

  • サッカー場です。<br />といって、陸上トラックもありますが。<br />こちらのスタジアムは現在でもあるのでしょうか?<br />どこかのサイトで、改装された、という記事を読んだ記憶もありますが。<br />自由に入れました。<br />不正をした訳ではありません、ここでは、ですが。<br /><br />背中が写っている、マレー系のオジサンに断って入場しました。<br />「アイム ジャパニーズ。ヒヤ スペシャル プレース、8イヤーズ アゴー」<br />おかしな人間丸出しの、片言英語を喋った記憶があります。<br />こちらも情けない話でした。<br /><br />こちらのスコアボードに’IRAN 2 JAPAN 3’という電光表示があったのをTVで観た記憶があります。<br /><br />

    サッカー場です。
    といって、陸上トラックもありますが。
    こちらのスタジアムは現在でもあるのでしょうか?
    どこかのサイトで、改装された、という記事を読んだ記憶もありますが。
    自由に入れました。
    不正をした訳ではありません、ここでは、ですが。

    背中が写っている、マレー系のオジサンに断って入場しました。
    「アイム ジャパニーズ。ヒヤ スペシャル プレース、8イヤーズ アゴー」
    おかしな人間丸出しの、片言英語を喋った記憶があります。
    こちらも情けない話でした。

    こちらのスコアボードに’IRAN 2 JAPAN 3’という電光表示があったのをTVで観た記憶があります。

  • 写真を撮り終わると、乗ってきたタクシーで国境近くまで戻りました。<br />東南アジアらしい’経済飯’のオカズだけをつまみに、タイガービールを1杯やりました。<br />そして、歩いて国境を越えました。<br />このサイトで他の方の原稿を読むと、コロナ直前ぐらいには随分長い行列ができて時間が掛かる、とも書かれていましたが、<br />当時は待ち時間はありませんでした。<br />といって、やらかしましたが。<br />汽車の切符をパスポートに挟んでいなかったので、出国印なしで、再びシンガポールに再入国することになりました。<br />マレーシアの出国手続きを、しなかったことになります。<br />その年の夏だったかにパスポートを書き換えたので、狡っからく胡麻化した形になります。<br />現在のような顔認証、指紋認証の時代だと、トラブルになった可能性もあります。<br />2018年にはマレーシアは指紋認証になっていました。<br />渡った橋のはるか下に、国境、コーズウェイの海が見えました。<br /><br />2018年にクアラルンプール郊外で食べた経済飯。<br />このオカズに似たものをつまみにして、タイガーを飲みました。<br /><br /><br />

    写真を撮り終わると、乗ってきたタクシーで国境近くまで戻りました。
    東南アジアらしい’経済飯’のオカズだけをつまみに、タイガービールを1杯やりました。
    そして、歩いて国境を越えました。
    このサイトで他の方の原稿を読むと、コロナ直前ぐらいには随分長い行列ができて時間が掛かる、とも書かれていましたが、
    当時は待ち時間はありませんでした。
    といって、やらかしましたが。
    汽車の切符をパスポートに挟んでいなかったので、出国印なしで、再びシンガポールに再入国することになりました。
    マレーシアの出国手続きを、しなかったことになります。
    その年の夏だったかにパスポートを書き換えたので、狡っからく胡麻化した形になります。
    現在のような顔認証、指紋認証の時代だと、トラブルになった可能性もあります。
    2018年にはマレーシアは指紋認証になっていました。
    渡った橋のはるか下に、国境、コーズウェイの海が見えました。

    2018年にクアラルンプール郊外で食べた経済飯。
    このオカズに似たものをつまみにして、タイガーを飲みました。


  • 歩いて国境を越えると、競馬場はすぐ側です。<br />MRTに乗ったでしょうか、やはり記憶は曖昧です。<br />それでも随分時間を持て余しました。<br />偉そうに、スタンド3階の’@ハイビスカス’の客になりました。<br />国際レース以外の時には、パスポート(+金)があれば入れました。<br />Tシャツの上に襟付きのシャツを着ました。<br />その程度の常識はあるつもりですが…。<br />当たり前の話です。<br />東南アジアでは襟付きのシャツ、長ズボン、サンダル以外の靴、で、<br />スマートカジュアルになるというのが私の舐め切った解釈です。<br /><br /><br />

    歩いて国境を越えると、競馬場はすぐ側です。
    MRTに乗ったでしょうか、やはり記憶は曖昧です。
    それでも随分時間を持て余しました。
    偉そうに、スタンド3階の’@ハイビスカス’の客になりました。
    国際レース以外の時には、パスポート(+金)があれば入れました。
    Tシャツの上に襟付きのシャツを着ました。
    その程度の常識はあるつもりですが…。
    当たり前の話です。
    東南アジアでは襟付きのシャツ、長ズボン、サンダル以外の靴、で、
    スマートカジュアルになるというのが私の舐め切った解釈です。


  • 1月16日(日曜日)にスリーリングス・トロフィーという重賞レースがありました。<br />スリーリングスは当地の往年の名馬で、シンガポール・ゴールドカップを3勝しています。<br />この数年後に、あの、エルドラドがこの記録に並びました。<br /><br />別にJRAのエリート馬やらエリート調教師、騎手がこちらに登場しても、<br />斜に構えている私は、余り熱心に応援もしませんが、<br />’我らが’道営育ちの高岡先生の管理馬が登場したので、当然、その馬券を買いました。<br /><br />…見事に負けました。<br />こちらがその馬、ダイヤモンドダストです。<br />乗っているのはマレーシア人のディン・アジズ騎手です。<br />私がこの競馬場で実際にレースを観たのは、たかだか述べ7日間に過ぎませんが、<br />この馬とは縁があったのか、3回現地で観たことになります。<br />このスルーリングス・トロフィー、<br />2006年のシンガポール航空インターナショナルカップ、<br />日本の競馬の歴史が作られた、<br />相馬眼の高さで知られる、亡き岡田総帥が見立てた最高傑作・コスモバルクが勝った、あのレースです。<br />そして、同じ年のシンガポール・ゴールドカップでも、この馬を観ました。<br />全てのレースで、もう少しで3着という、惜しい結果でした。<br />

    1月16日(日曜日)にスリーリングス・トロフィーという重賞レースがありました。
    スリーリングスは当地の往年の名馬で、シンガポール・ゴールドカップを3勝しています。
    この数年後に、あの、エルドラドがこの記録に並びました。

    別にJRAのエリート馬やらエリート調教師、騎手がこちらに登場しても、
    斜に構えている私は、余り熱心に応援もしませんが、
    ’我らが’道営育ちの高岡先生の管理馬が登場したので、当然、その馬券を買いました。

    …見事に負けました。
    こちらがその馬、ダイヤモンドダストです。
    乗っているのはマレーシア人のディン・アジズ騎手です。
    私がこの競馬場で実際にレースを観たのは、たかだか述べ7日間に過ぎませんが、
    この馬とは縁があったのか、3回現地で観たことになります。
    このスルーリングス・トロフィー、
    2006年のシンガポール航空インターナショナルカップ、
    日本の競馬の歴史が作られた、
    相馬眼の高さで知られる、亡き岡田総帥が見立てた最高傑作・コスモバルクが勝った、あのレースです。
    そして、同じ年のシンガポール・ゴールドカップでも、この馬を観ました。
    全てのレースで、もう少しで3着という、惜しい結果でした。

  • コミティーズ・プライスという現地の重賞を勝っています。<br />これが高岡厩舎のシンガポールでの初重賞勝ちでした。<br />(その時、この競馬場にいればなぁ 泣)<br />こちらは2006年11月のゴールドカップ時のパドックで撮った写真です。<br /><br />エルドラドも結局現地で観ることはできませんでした やっぱり泣、ですね。<br />もちろん、と書いて良いでしょうか、高岡厩舎の管理馬です。<br />この馬はステイゴールドの仔で日本産です。<br />生まれた牧場に里帰りした、とどこかで読みました。<br />シンガポール・ゴールドカップはJRAに例えると有馬記念に近い感じのレースで、<br />全盛期は日本円で5~6000万円超えの1着賞金だった、と思います。<br /><br />

    コミティーズ・プライスという現地の重賞を勝っています。
    これが高岡厩舎のシンガポールでの初重賞勝ちでした。
    (その時、この競馬場にいればなぁ 泣)
    こちらは2006年11月のゴールドカップ時のパドックで撮った写真です。

    エルドラドも結局現地で観ることはできませんでした やっぱり泣、ですね。
    もちろん、と書いて良いでしょうか、高岡厩舎の管理馬です。
    この馬はステイゴールドの仔で日本産です。
    生まれた牧場に里帰りした、とどこかで読みました。
    シンガポール・ゴールドカップはJRAに例えると有馬記念に近い感じのレースで、
    全盛期は日本円で5~6000万円超えの1着賞金だった、と思います。

  • コスモバルクが勝った時にも現地にいましたが、この時撮った写真は失くしました。<br />間抜けです。<br />写ル〇ですから’デジタル化’していたのですが、この後、滞在したベトナムで引ったくりに遭いました。<br />さらに言えば、レースの馬券は単勝しか的中しなかったという、情けない結末もあります。<br />それでも、若干は浮いたので、サイゴンでは、1泊をマジャスティックホテルに泊まるという贅沢をしました。<br /><br />こちらはその時に泊まったサイゴン・マジェスティックの室内の写真です。<br />

    コスモバルクが勝った時にも現地にいましたが、この時撮った写真は失くしました。
    間抜けです。
    写ル〇ですから’デジタル化’していたのですが、この後、滞在したベトナムで引ったくりに遭いました。
    さらに言えば、レースの馬券は単勝しか的中しなかったという、情けない結末もあります。
    それでも、若干は浮いたので、サイゴンでは、1泊をマジャスティックホテルに泊まるという贅沢をしました。

    こちらはその時に泊まったサイゴン・マジェスティックの室内の写真です。

  • (シンガポール、クランジ競馬と相性が悪かったのか?)<br />実はそんなこともありませんでした。<br />馬券下手ではありますが、2度、万馬券を獲らせもらいました。<br />といって、レートが3倍安いマレーシアの場外でしたが。<br />サッカーくじを買ったこともあります。<br />人気がないチームに賭けたら5倍くらいの良い配当になりました。<br />イングランド・プレミアリーグだったでしょうか。<br />買う時は普通に売ってくれましたが、払い戻す時にはパスポートが必要でした。<br /><br />この他、非開催時の’場外’にも1度行っています。<br />JRAのスプリンターズステークスの発売がありました。<br />…外れました。<br />オレハマッテルゼという馬が出ていましたが、現地のアナウンスでは、日本とアクセントが違っていたので面白かった記憶があります。<br />あの、ディープインパクトが凱旋門賞で走った当日でした。<br />そのレースの発売があるか、と思っていたのですが、当時はありませんでした。<br />レイルリンク1着、ディープインパクト3着(後に失格)の結果は、シンガポールで知りました。<br />部屋にベッドだけしかないホテルの、14インチ位のブラウン管TVのテロップが流れていた記憶があります。<br /><br />話を2006年、シンガポール航空インターナショナルカップに戻せば、<br />あのシンガポールの蒸し暑い夜、<br />ゴール後、馬上で手を高々と上げた五十嵐冬樹の姿、<br />コスモバルクの前後の蹄鉄が触れる音、<br />それは自分にとって、生涯忘れることができないものになりました。<br /><br />コスモバルクを管理した田部和則調教師(当時) 2014年4月に門別競馬場で撮影

    (シンガポール、クランジ競馬と相性が悪かったのか?)
    実はそんなこともありませんでした。
    馬券下手ではありますが、2度、万馬券を獲らせもらいました。
    といって、レートが3倍安いマレーシアの場外でしたが。
    サッカーくじを買ったこともあります。
    人気がないチームに賭けたら5倍くらいの良い配当になりました。
    イングランド・プレミアリーグだったでしょうか。
    買う時は普通に売ってくれましたが、払い戻す時にはパスポートが必要でした。

    この他、非開催時の’場外’にも1度行っています。
    JRAのスプリンターズステークスの発売がありました。
    …外れました。
    オレハマッテルゼという馬が出ていましたが、現地のアナウンスでは、日本とアクセントが違っていたので面白かった記憶があります。
    あの、ディープインパクトが凱旋門賞で走った当日でした。
    そのレースの発売があるか、と思っていたのですが、当時はありませんでした。
    レイルリンク1着、ディープインパクト3着(後に失格)の結果は、シンガポールで知りました。
    部屋にベッドだけしかないホテルの、14インチ位のブラウン管TVのテロップが流れていた記憶があります。

    話を2006年、シンガポール航空インターナショナルカップに戻せば、
    あのシンガポールの蒸し暑い夜、
    ゴール後、馬上で手を高々と上げた五十嵐冬樹の姿、
    コスモバルクの前後の蹄鉄が触れる音、
    それは自分にとって、生涯忘れることができないものになりました。

    コスモバルクを管理した田部和則調教師(当時) 2014年4月に門別競馬場で撮影

  • 現役時代の五十嵐冬樹騎手(現・調教師) 2015年10月に門別競馬場で撮影

    現役時代の五十嵐冬樹騎手(現・調教師) 2015年10月に門別競馬場で撮影

  • コスモバルク 2006年日経賞パドック<br />

    コスモバルク 2006年日経賞パドック

  • ペナン場外では2006年10月から2007年3月まで、シンガポール競馬は’主戦場’でした。<br />ジンリーという馬が勝ったレースで連複で100倍超えの馬券を当てて、<br />ペナン沈没での最初の1ヵ月は、その配当で暮らした気もします。<br />当たり前の話ですが、その後は吐き出す一方でした。<br /><br />そのジンリーの写真です。<br />2007年2月 スリーリングス・トロフィーパドックで<br />鞍上はパナマ人のオスカー・チャぺス<br /><br /><br /><br />

    ペナン場外では2006年10月から2007年3月まで、シンガポール競馬は’主戦場’でした。
    ジンリーという馬が勝ったレースで連複で100倍超えの馬券を当てて、
    ペナン沈没での最初の1ヵ月は、その配当で暮らした気もします。
    当たり前の話ですが、その後は吐き出す一方でした。

    そのジンリーの写真です。
    2007年2月 スリーリングス・トロフィーパドックで
    鞍上はパナマ人のオスカー・チャぺス



  • その他には、タキノビッグという馬が2着に来て、800倍超えの3連単を獲りました。<br />買っていたのは、たったの2リンギットだけでしたが。<br />2007年2月でした。<br />2006年5月の、あの日にも、タキノビッグは、コスモバルクの’前座’として登場しました。<br />確か、ダイアモンドダストと同じ服色でした。<br />鞍上の五十嵐冬樹が道中最後方で、<br />馬場の感触を確かめるようにレースを進めていた姿が印象に残っています。<br /><br />2頭とも高岡厩舎の所属馬でした。<br />結局、シンガポール競馬の思い出を語ろうとすると、<br />コスモバルクを除けば、ほとんど全てが、高岡秀行調教師とそれにまつわる馬、馬券のことに終始してしまいます。<br />’チーム道営’との思い出の地ということでしょうか。<br /><br />これh2005年1月15日に撮った写真で参考画像です。<br />ホンモノだったかハライゴシだったか、高岡厩舎の馬の写真です。<br />鞍上は長く高岡厩舎に所属していたM.ZAKI騎手です。

    その他には、タキノビッグという馬が2着に来て、800倍超えの3連単を獲りました。
    買っていたのは、たったの2リンギットだけでしたが。
    2007年2月でした。
    2006年5月の、あの日にも、タキノビッグは、コスモバルクの’前座’として登場しました。
    確か、ダイアモンドダストと同じ服色でした。
    鞍上の五十嵐冬樹が道中最後方で、
    馬場の感触を確かめるようにレースを進めていた姿が印象に残っています。

    2頭とも高岡厩舎の所属馬でした。
    結局、シンガポール競馬の思い出を語ろうとすると、
    コスモバルクを除けば、ほとんど全てが、高岡秀行調教師とそれにまつわる馬、馬券のことに終始してしまいます。
    ’チーム道営’との思い出の地ということでしょうか。

    これh2005年1月15日に撮った写真で参考画像です。
    ホンモノだったかハライゴシだったか、高岡厩舎の馬の写真です。
    鞍上は長く高岡厩舎に所属していたM.ZAKI騎手です。

  • 2006年、シンガポールゴールドカップのパドックで。<br />この馬(MR LINE)が勝ちました。<br />鞍上はJeff Lloyd騎手です。

    2006年、シンガポールゴールドカップのパドックで。
    この馬(MR LINE)が勝ちました。
    鞍上はJeff Lloyd騎手です。

  • 2006年11月に撮ったシンガポール競馬場の場内写真です。<br />この後、大型スクリーンは増えました。

    2006年11月に撮ったシンガポール競馬場の場内写真です。
    この後、大型スクリーンは増えました。

  • レース後引き揚げてきた藤井勘一郎騎手(現・JRA所属)とオプティマムノート(高岡厩舎)。<br />2007年2月に撮った写真です。<br />藤井騎手は負傷療養中ですが、奇跡の回復を心より祈ります。<br />

    レース後引き揚げてきた藤井勘一郎騎手(現・JRA所属)とオプティマムノート(高岡厩舎)。
    2007年2月に撮った写真です。
    藤井騎手は負傷療養中ですが、奇跡の回復を心より祈ります。

  • こちらは2005年1月16日に場内で撮った写真です。<br /><br />ネットの映像では、その後もシンガポール競馬を観ていましたが、<br />現地の競馬場に行ったのは2007年が最後になってしまいました。<br /><br />2018年にスンガイベシ(クアラルンプール)の場外で買ったのが、シンガポール競馬最後の参戦となってしまいました。<br />この時も堅い単勝馬券を1つ拾っただけです。<br /><br />もう、行けないだろうなぁ、<br />もう、買えないだろうなぁ、<br />そう思うと、寂しい限りです。<br /><br />さようなら、クランジ競馬。<br />ありがとう、クランジ競馬。

    こちらは2005年1月16日に場内で撮った写真です。

    ネットの映像では、その後もシンガポール競馬を観ていましたが、
    現地の競馬場に行ったのは2007年が最後になってしまいました。

    2018年にスンガイベシ(クアラルンプール)の場外で買ったのが、シンガポール競馬最後の参戦となってしまいました。
    この時も堅い単勝馬券を1つ拾っただけです。

    もう、行けないだろうなぁ、
    もう、買えないだろうなぁ、
    そう思うと、寂しい限りです。

    さようなら、クランジ競馬。
    ありがとう、クランジ競馬。

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