2023/11/25 - 2023/11/25
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ベームさん
先週の土曜日、今年の5月以来の”遠出”です。夏の酷暑と、長引く腰痛で家に閉じこもっていました。
ようやく腰の痛みが和らいだので、新聞で、千駄木の森鷗外記念館で森鷗外と夏目漱石の特別展と講演会があるのを知って申し込みました。幸い抽選に当たったというわけです。
講演は「千駄木の豊島与志雄ー野田宇太郎と鴎外漱石とを”引き合わせた”男」と言うもので、講師は立教大学の教授です。
折角の東京ですので少し歩いてみようと思いました。
JRの西日暮里から日暮里、谷中を通り千駄木までです。このルートはお寺と神社ばっかりで、したがって写真もほとんどそればっかりです。横道に入れば別の谷中らしい景観もあるのでしょうが、時間体力に余裕がありません。
例によって足の引き攣り防止に万全の準備をして出かけました。
表紙の写真は、谷中全生庵の観音像。北村西望作。
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今日のスタートはJR 山手線西日暮里駅。この駅に降り立つのはおそらく初めてです。
午前9時10分ころ。 -
西口。
道路の下を地下鉄千代田線が走っています。 -
目のまえに東大進学で有名な開成高校です。
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駅のすぐ横にある西日暮里公園に入りました。
開成高校の方からここあたりにかけてがいわゆる「道灌山」です。名前の由来は、太田道灌がここに出城を築いたことによるとか、土地の豪族、関道閑の屋敷跡とか説があるようです。 -
「環」
当地在住の彫刻家立川義明氏の作。 -
昔はここは花見、雪見に江戸庶民の憩いの場でした。
秋にはここで虫の音を聞く、道灌山の虫聴き、と言われ有名だったそうです。 -
時間が早いせいか、一組の親子がブランコ遊びをしているだけでした。
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西日暮里の駅前から公園の下を迂回して、谷中の方に通じている諏訪台通り。
私はこの道をずっと行きます。
この辺りは日が暮れるまで景観が楽しめるので、古来「日暮(ひぐらし)の里」と呼ばれ、風光明媚な土地でした。 -
公園のすぐ先、荒川区立第1日暮里小学校の門の前に面白いフクロウの彫刻があります。足元には高村光太郎の直筆の言葉「正直親切」の石碑があります。
荒川からかなり離れているので、えっ、ここが荒川区?です。 -
この小学校は、詩人で彫刻家高村光太郎が学んだ学校(当時は日暮里小学校)で、学校創立100周年の時に建てられました。ただしフクロウの彫刻は高村光太郎のものではありません。
「正直親切」は高村光太郎の言葉で、同校が校訓としているものです。フクロウは知恵の象徴とも、親不孝の象徴とも言われます。なぜ「正直親切」の象徴に選ばれたのでしょうね。 -
足元には光太郎直筆の石碑。
「私は花見寺の上の諏訪神社の前にあった日暮里小学校に通っていた。遊び仲間とあの界隈を遊びまわった。おとなしい時は通りの空(から)どぶに踏み台を入れて、隣のお梅ちゃんとままごとをしたり、・・・、かくれんぼあそびをした。」(随筆「谷中の家」より。同小学校誌より抜粋)
当時光太郎の父高村光雲は谷中に住んでいました。 -
そのすぐ先、諏訪神社の向いに社団法人太平洋美術会太平洋美術会研究所があります。
前身は明治時代に太平洋画会として設立された洋画の学校です。先生に中村不折、満谷国四郎、石井柏亭、小杉未醒など。学んだ方は阪本繁二郎、朝倉文夫、川端龍子など。高村光太郎の妻長沼智恵子も学んでいます。 -
明治大正時代の本にちょくちょく”太平洋画会”の名が出てきます。その流れがここにあったのですね。
外から覗くと人影があり、中はギャラリーにもなっているようです。 -
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谷中、日暮里の総鎮守諏訪神社です。
神社のホームページには諏方神社となっています。扁額も諏方と書かれていますが、 -
ここには諏訪神社となっています。どちらが正しいのでしょう。諏方は信濃の諏訪大社の古名だそうです。全国の多くの諏訪神社は諏訪を用い、諏方は少ないそうです。
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文久2年、1202年に当地の豪族豊島氏が信州諏訪大社を勧請して設立しました。
境内は鬱蒼とした木々に覆われていて、昼なお暗い感じです。 -
今は七五三の時期なんだ。
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本殿。
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メカ狛犬みたいです。
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手水舎。
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境内社御嶽山大神。。
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神輿蔵。
昔ここのお神輿は神田から隅田川までのしたと言います -
神社からの景観。
三河島、三ノ輪方面でしょうね。
新幹線、JR各線の車両がひっきりなしに通過します。 -
明治の末頃の話。
「此処の見晴らしの眺めは四季各々特徴はあったが、春から夏にかけての眺めは特によかった。浅草の十二階から根岸田圃、三河島村、千住の屏風を立てたような榛の木林、荒川から国府台、筑波山・・・」 -
諏訪神社はおすわさま、と呼ばれて、春の花見、夏の夕涼み、秋の月見、冬の雪見に庶民で賑わったそうです。
伊藤左千夫の歌。
「村つづき 青田を走る 汽車見えて 諏方の茶店は 涼しかりけり」 -
地蔵坂。
神社と線路の間にある坂。隣のかって諏訪神社の別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵に一つの地蔵があることから名付けられたそうです。 -
隣りの浄光寺(雪見寺)。
江戸時代までは諏訪神社の別当寺(神社を管理する寺)でした。 -
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銅造地蔵菩薩立像。
1691年、元禄4年、空無上人により江戸の6か所に建立された江戸六地蔵の3番目。高さ約1丈、3m。
そう威圧感を与えるでなく、穏やかですっきりした姿ですね。 -
銅造地蔵菩薩坐像。
1809年、文化6年。 -
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ここには福神漬けの発明者、野田清右衛門の表彰碑があるそうですが、分かりませんでした。「酒悦」の創設者です。
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諏訪台通り。
尾根道ですね。諏訪神社の夏祭りには道の両側にびっしり夜店が立ち並ぶそうです。 -
諏訪台通りから西に下る富士見坂です。今は正面奥の建物で見えないそうです。
写真右のマンションのある所は久保田万太郎が、大正15年から昭和9年頃まで住んでいたところです。 -
案内には、”現在でも富士山を望むことが出来る”とありますが、看板設置時はそうだったのでしょうね。
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補陀落山(ふだらくさん)観音院養福寺。真言宗。
西日暮里から日暮里にかけて、諏訪台通りの左右にはお寺が並んでいます。 -
警火 警視庁。
入り口わきにあります。火の用心でしょうか。昔は消防は警視庁管轄だったそうです。 -
ここには江戸時代俳諧談林派の宗匠西山宗因の句碑、明治時代の大出版社「博文館」の創始者大橋佐平の墓、江戸時代の奇人自堕落先生こと山崎俊明の墓があります。
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仁王門。
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左右の仁王像は運慶の作だそうです。
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鐘楼。
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本堂。
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江戸時代初期の俳諧談林派の句碑が並んでいます。まるでお墓のようです。
お寺の人の話では、この場所に時々人が集まって句会が開かれるそうです。 -
江戸初期、この流派は江戸俳諧を席巻したが、西山宗因(1605~1682年)死後は衰えました。松尾芭蕉は桃青時代は談林派だったと謂われます。
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梅翁花樽碑「江戸をもって鑑とす也花に樽」。
梅翁は西山宗因の号です。 -
大橋佐平(1836年~1901年)の墓。大きな墓です。夫人の墓と並んでいます。越後長岡の生まれ。明治時代の大出版社博文館の創設者。
博文館:明治20年創業。初の総合雑誌「太陽」や、「少年世界」、「文章倶楽部」などを発刊し、広く天下に原稿を求めたので、全国の文学少年少女たちはこの雑誌に投稿して掲載されるのを名誉としました。 -
大橋乙羽。1869~1901年。米沢生まれ。大橋佐平の女婿。
始め硯友社に属し、小説を書いていたが、佐平の女婿(長女の)となると博文館に入社、今でいう雑誌の編集者の仕事をした。樋口一葉、尾崎紅葉、巌谷小波などの作品を取り上げ世に知らしめるのに功績があった。 -
この辺りのお寺にはどこも赤い頭巾に涎掛けをつけた可愛い地蔵さんが立っています。
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啓運寺。法華宗。
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本堂。
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見られませんでした。
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御殿坂手前の諏訪台通り。
右の長い塀は経王寺の塀。 -
諏訪台通りが御殿坂に交わる所。
角の寺は経王寺。 -
経王寺。日蓮宗。
諏訪台通りが御殿坂に出る左角にあります。 -
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慶応4年5月(1868年7月)の旧幕府軍、彰義隊と、官軍(新政府軍)との戦い、いわゆる上野戦争で彰義隊がここに逃げ込み、官軍が打ち込んだ鉄砲の弾痕が山門の扉に残っています。
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経王寺。
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本堂。
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この辺り、古いお店がいくつか残っています。
「谷中せんべい」。 -
リキュールの「山内屋」。
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佃煮の「中野屋」。
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延命院。
1648年(慶安元年)開山。
経王寺の反対角にあります。 -
門を入るとすぐ右手に椎の大木がありました。
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江戸名所図会にも描かれていて、開山当初からあったものでしょう。
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いまにも崩れ落ちそうで、つっかい棒でかろうじて支えていました。
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本堂。
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「行硯院日潤上人」墓。
1803年、11代将軍家斉の時代。
日潤はこの寺の住職で、怪しげな祈禱で江戸城の奥女中や商人の女将をたぶらかして女色に耽ったという。ことが露見して日潤は死罪となった。延命院事件。 -
この説明書きでは、延命院事件の日潤の女犯(にょぼん)は事実ではなく、大奥内での権力争いだったとあります。がこれでは面白くないでしょう。
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御殿坂を右に取ればゆうやけだんだんから谷中銀座、左は日暮里駅方面ですが、私は諏訪台通りから御殿坂を突っ切って真っすぐ三崎坂の方に歩きます。
ここまでは荒川区、ここから先は台東区。 -
歩き始めて2時間近く。一休みしました。
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すぐ右手に古い町屋が2軒並んでいます。
右が錻力屋、左が未来定番研究所。
「未来定番研究所」とは、大丸松坂屋のマーケティング組織で、5年先の定番となるモノやコトを発見し育てるのだそうです。建物は築100年になる「銅菊」という銅細工の店だったものです。 -
錻力、ブリキ、こんな字、見ませんね。ブリキも死語みたいです。
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そのほぼ向かいに朝倉彫塑館。
彫塑家朝倉文夫の住居兼アトリエだった建物で、国の登録有形文化財に指定されています。 -
朝倉文夫。
1883年(明治16年)~1964年(昭和39年)大分県出身。
東洋のロダン、と呼ばれる日本を代表する彫刻家。 -
私は彫刻にはあまり興味が無いので、中には入りませんでした。
路地を通って裏に回ると、幸田露伴や北原白秋の住居跡があります。 -
さらに進むと右手に観音寺。
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本堂。
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赤穂浪士の兄弟がこの寺の和尚で、浪士たちはこの寺に集まって吉良上野介襲撃の計画を練ったという。
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観音寺の築地塀(練塀)。
国の登録有形文化財です。 -
湯島聖堂にも長い築地塀がありますね。
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長安寺。
狩野芳崖の墓があります。 -
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狩野芳崖の墓。1828~1888年。
近代日本画の父、と言われ。フェノロサと協力して日本画の再興に尽くした。 -
韋駄天、と言うお店。和の器となっています。
ウインドーに小さな徳利が並んでいます。 -
功徳林寺(くどくりんじ)
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本堂。
明治26年創立の比較的新しいお寺。 -
笹森稲荷堂。
ここは元感応寺(今の谷中天王寺)笠森稲荷があった所で、旧跡として笠森稲荷堂が作られました。
この門前の水茶屋「鍵屋」の娘が美人で評判のお仙です。
向こう横丁のお稲荷さんへ 一文あげて ざっとおがんでおせんの茶屋へ。
谷中三崎坂の大圓寺にも瘡守(かさもり)稲荷があって、よく混同されます。 -
絵馬堂。
絵馬のお店かと思わせますが。和食のお店です。 -
一見さんは寄せ付けないような雰囲気ですね。
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古本屋もあります。
「古書鮫の歯」開店昼頃~夕暮れ時、となっています。
私は古本を漁るのは好きですが、やはり入り難い雰囲気です。こう奥まっていては、入るとそのままでは出ずらいです。 -
三崎(さんさき)坂に出ました。正面の通りから歩いてきたのです。
左に曲がると谷中霊園、右に曲がると不忍通りの団子坂下です。 -
三崎坂。
団子坂方向に歩きます。長ーい下りです。 -
永久寺。曹洞宗。
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ここには江戸末期から明治初期にかけての戯作者、ジャーナリスト仮名垣魯文(かながきろぶん)の墓があります。1829~1894年。本名野崎文蔵。
「西洋道中膝栗毛」や「安愚楽鍋」、「高橋お伝夜叉譚(やしゃものがたり)」など。 -
右の細い石柱に「かながきろぶむ」と彫られています。
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大きい墓石の側面には、
「遺言 本来空 財産無一物 俗名仮名垣魯文」。
金や物に執着しない、いかにも江戸っ子らしい。 -
魯文記念碑。
選文は成島柳北。拡大すると、上部に猫の目と鼻と口が彫られていて、魯の字形だそうです。
魯文は猫が好きでした。榎本武揚が夫婦のネコを呉れたが死んでしまった。それを供養するため建てた塚、山猫めおと塚も隣にあります。碑文は福地桜痴。 -
寺の多い土地柄、石材店があります。
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火除不動。
永久寺の向い。 -
ここにも可愛らしいお地蔵さん。
赤ずきんに涎掛け。 -
明王院。
坂の両側にはお寺が連なっています。 -
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カフェ猫衛門。
谷中は猫が人気のようですね。若い人が何人か外で並んでいました。 -
隣りの谷中堂。
招き猫グッズのお店のようです。 -
猫衛門と谷中堂。
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龍谷寺。
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龍谷寺のたんぼとけ。
咳や痰などの、喉の病にご利益があるそうです。 -
天竜院。
江戸時代後期の漢方医伊東玄朴の墓があります。1801~1871年。 -
日本で初めて種痘を広めました。
墓域を探しましたが、見つかりませんでした。 -
全生庵。
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明治13年、幕末の徳川家家臣山岡鉄舟が戊辰戦争や上野戦争の犠牲者を弔うため建てました。比較的新しいお寺です。
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奥の方の高台に建つ金色の観音像。
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長崎の原爆平和記念像の製作者北村西望の作。1975年。
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「雀の学校」、「浜千鳥」、「叱られて」などの作曲家弘田龍太郎の墓。
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弘田龍太郎。1892~1951年。高知県生まれ。
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山岡鉄舟。1836~1888年。
旧幕臣。江戸城無血開城の根回しをした。剣、書道の達人。 -
三遊亭圓朝の墓。1839~1900年。
江戸末期から明治にかけて活躍した落語家。明治初期の作家たちが圓朝の話し方を、言文一致の範とし、近代落語の祖とも言われた。
墓碑は「三遊亭圓朝無舌居士」。山岡鉄舟が生前に揮毫していたままを刻んだもの。
喋るのを職業とする人に、無舌とは。 -
怪談物、人情物を得意とした。
「怪談牡丹灯籠」、「真景累が淵(しんけいかさねがふち)」、「塩原太助一代記」など。
全生庵には圓朝が蒐集した幽霊画が多数保管されていて、日を決めて公開されています。 -
坂の途中に谷中小学校があります。
明治35年開校の古い学校です。
左に写っている時計は大名時計。近くに大名時計博物館と言うのがあります。 -
向かいに大圓寺。
ここには笹川臨風の「錦絵開祖鈴木春信」の碑と、永井荷風の「笠森阿仙の碑」があります。
春信はお仙を多彩な色彩の錦絵に仕上げました。 -
本堂が二つ、くっ付いています。珍しいですね。
左が経王殿(本堂)、右が薬王殿(瘡守堂)。昭和9年築。
薬王堂は瘡守稲荷薬王大菩薩を祀り、瘡、皮膚病に御利益があります。梅毒治癒に効験あらたかと言うので、遊女のお参りも多かったそうです。
経王殿は日蓮上人を祀っています。
瘡守=かさもり=笠森、ややこしい。 -
薬王殿の足元にある瘡守薬王菩薩碑。
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大銀杏の樹。
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永井荷風の「笠森阿仙の碑」。
感応寺(今は無い)の笠森稲荷のそばに鍵屋という茶店があり、そこにお仙という看板娘がいた。彼女を見ようと店は大いに流行ったという。 -
笠森稲荷は同じ谷中の功徳林寺(くどくりんじ)にあります。
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鈴木晴信「笠森お仙」。
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この近辺、老舗が幾つかあります。
江戸千代紙の「いせ辰」。 -
菊見せんべい。
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銭湯も。朝日湯。
このあたりに昔、新幡随院というお寺があったそうです。三遊亭圓朝の怪談「牡丹灯籠」の舞台です。 -
北からよみせ通り、南からへび道が三崎坂に交わる所。
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以前よみせ通りとへび道は藍染川が流れていて、この場所に枇杷橋(合染橋)が掛かっていました。今は暗渠となっています。
夏目漱石の「三四郎」で、団子坂の菊見に疲れた美禰子と三四郎が橋を渡って川沿いに歩いた、とあるのはこの橋でしょう。 -
へび道。
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よみせ通り。
へび道とよみせ通りは台東区と文京区の境界線です。 -
団子坂下交差点角にある今川焼の店。
人気があるのか、行列が出来ています。 -
団子坂下。
三崎坂と団子坂が両側から下って来て、不忍通りと交わるところです。この近くのラーメン屋で昼にしました。
坂の名の由来は、坂の麓に団子屋があったからとか、人が転ぶと団子のように坂の下まで転がったからとか。 -
団子坂。汐見坂とも。
昭和の初めころのある人の文章にこんなのがあります。
「小石川の肴町通りから谷中墓地まで、一筋に抜ける幅二間ばかりの往来があって、その中程にS字型に湾曲した急坂がそれで、よく人力車が引っくりかえる処から人も車も団子になるという訳でもあるまいが、・・・。大抵の人は坂の上下で車を降りたものだが、中には命知らずの人もあって曲がり角で人も車諸共転覆して、大怪我をした等の話も聞いた。」 -
昔は幅5mもない急坂で、明治末までは菊の季節になると、道の両側にびっしりと菊人形の小屋が並んだそうです。その様は鴎外、漱石、二葉亭などの文学作品によく登場しています。特に漱石の「三四郎」は有名でしょう。
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団子坂上。
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団子坂上に建つ森鴎外記念館です。
鴎外が明治25年、前の家(のち夏目漱石も住んだ猫の家)からこの地に移り、以来大正11年他界するまで住まいした家「観潮楼」の跡です。
関東大震災にも耐えましたが、昭和12年、失火によりほぼ全焼。わずかに残っていた部分も昭和20年1月の空襲で灰燼に帰しました。 -
今日はこの特別展を見るのと講演を聞くのが目的です。
館内は写真撮影禁止です。 -
観潮楼の門があったところ。
家の2階からは品川沖の白帆が見えたのが命名の由来だそうです。 -
「三人冗語」の森鷗外、幸田露伴、斎藤緑雨が腰かけていた根府川石。
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永井荷風書「沙羅の樹」。
「褐色(かちいろ)の根府川石に 白き花はたと落ちたり
ありしとも青葉がくれに 見えざりし沙羅の木の花」
荷風は鴎外に心酔していました。 -
観潮楼の下を根津神社の方に通じる薮下通り。
この道をよく歩いた永井荷風によると、片側は太田が原の竹藪と断崖。片側は絶壁で、目の下に畑や田んぼ、谷中、上野、浅草方面が見渡せたそうです。今は全く何も。 -
薮下道の途中、路地を右に入ると鬱蒼とした森がありました。
今は「千駄木ふれあいの杜」となっていますが、樹が生い茂っていてとても気安く入って行ける感じでは無かったです。 -
昔、太田道灌の子孫の屋敷跡で、太田が原と言われ「太田が池」と呼ばれた池がありました。
昭和の初めに埋め立てられ、住宅地になってしまいます。ここはその時残った部分で、本郷台東縁崖線の一部です。 -
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薮下通りの出口近くにある日本医科大学付属病院。
この坂、解剖坂を上ります。 -
登り切ったすぐ右手辺りが、夏目漱石の「猫の家」跡です。
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イギリス留学から帰った漱石は、ここ友人斎藤阿具の家に明治36年3月から39年12月まで住みました。この間一高東大で英文学を教えながら著作を始め、「吾輩は猫である」、「倫敦塔」、「草枕」などを書きました。
作家夏目漱石誕生の地です。 -
奇しくもこの家には森鴎外も明治23年10月から1年余り住んでいました。明治大正の2大文豪がこの家に住んでいたのです。鴎外はここから千駄木の観潮楼に移ったのです。
この家は今明治村に移築されています。
私はさらに根津神社に行きましたが、はや薄暗くなり写真も撮りずらくなったので終わります。 -
帰りは地下鉄千代田線根津駅から西日暮里、上野駅経由で東京上野ラインで帰りました。
今日は歩数が少なく、途中休んだり、講演を聞いたりで足の痙攣は起こりませんでした。
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2023/12/01 05:36:06
- 歩いてみたい道
- ベームさん おはようございます。
今朝は早くから充実した時間を過ごせました。
私も東京を時々歩きますが(正確には自転車です)、詳しく谷中や日暮里をご紹介いただきました。朝倉文雄の美術館や谷中の墓地は行ったことがありますが、この界隈の面白さを改めて知ることとなりました。
私もまねて同じところを歩いてみたいと思います。ところどころ老舗がのこっているのは嬉しいですね。
大作の旅行記、お疲れさまでした。
pedaru
- ベームさん からの返信 2023/12/01 16:44:07
- Re: 歩いてみたい道
- pedaruさん、
書き込み、有難うございます。
酷暑と腰痛でじっと家にこもっていたものでしたから、久しぶりの街歩きでした。坂の多い所で自転車では少ししんどいかも知れませんが、是非一度詳しく回ってみてください。
ベーム
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