2023/07/14 - 2023/07/14
132位(同エリア624件中)
杏仁豆腐さん
暑さも厳しくなった7月中旬。
湯島天満宮にお参りに出かけました。境内は、日本人より、外国からの観光客の方が多い様子でした。
その後、麟祥院へ。春日局の菩提寺です。
春日局は徳川三代将軍家光の乳母として知られています。
功なり名をとげた春日局は、幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ちます。
これを知った将軍家光は、願いをかなえさせるために本郷湯島の土地を寺地として贈りました。
願いがかなえられた春日局は、「報恩山天沢寺」と名づけます。
寛永7年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。
寛永11年(1634)渭川和尚から法号をおくられます。
これを喜んだ家光は、法号をもって寺号とするように命じたため、「天沢山麟祥院」と号するようになりました。
麟祥院の後は、まるしょう本郷三丁目店、壺屋総本店、甘味処みつばち本店とグルメ散策です。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 私鉄
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千代田線湯島駅下車、中坂(仲坂)を上ります。
『御府内備考』に「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼名とすといふ」とある。
江戸時代には,二つの坂の中間に新しい坂ができると中坂と名づけた。したがって中坂は二つの坂より後にできた新しい坂ということになる。
また『新撰東京名所図会』には「中坂は,天神町1丁目4番地と54番地の間にあり,下谷区へ下る急坂なり。中腹に車止めあり」とあり,車の通行が禁止され歩行者専用であった。
このあたりは,江戸時代から,湯島天神(神社)の門前町として発達した盛り場で,かつては置屋・待合などが多かった。
まゐり来て とみにあかるき世なりけり
町屋の人の その人の顔かお (釈 超空) -
湯島天満宮に到着。
2000年3月31日に「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称されました。現在は「湯島天満宮」が正しいのですが、通称として「湯島天神」も使われています。
表鳥居(東京都指定有形文化財)が立派です。
銅製で、寛文7年(1667)同8年の刻銘があり、この時期に寄進された物です。
数度の修理を重ねて維持されてきました。 -
料理包丁道研鑽報徳之碑
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包丁塚
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宝物殿
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火伏三社稲荷神社
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撫で牛(手水舎左)
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撫で牛(手水舎右)
自分の悪いところが治りますようにと祈りながら撫でると、みるみる治っていくとか。ご利益のある牛さんです。 -
手水舎
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手水舎に、風鈴。
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狛犬
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樹齢250年といわれる木曽檜を使用した権現造りの社殿。
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おみくじ
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7月31日までは、七夕まつり。
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瓦斯灯
文具至宝碑
「中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた
今や文房具はOA器機にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった十一月三日(文化の日)を文具の日として定め平成元年を迎えるに当たり先人に報恩感謝の念を捧げつつここ学問の神さま湯島天神の境内に文具至宝碑を建立する」 -
「講談高座発祥の地」碑
講談師で人間国宝の一龍齋貞水さんがその由来を示す記念碑を建立しました。
講談は江戸時代半ばころまで、街角の辻講釈など、聴衆と同じ目線の高さで演じられていましたが、境内で活動していた講談師の伊東燕晋が文化4(1807)年、徳川家康の偉業を語る際に、高さ三尺の高座を設けたことが高座の始まりとされます。 -
男坂
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女坂
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新派碑
この「新派」の記念碑は新派劇創立90年を迎えた昭和52年(1977)11月1日松竹株式会社と水谷八重子氏により新橋演舞場玄関脇に建てられました。
新派の始まりは明治21年(1888)12月自由党荘士角藤定憲が同志を集め大阪の新町庄で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされています。風雪はげしい90年ではありましたが、今日「劇団新派」として隆盛を見ましたその先人たちの苦労を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑の建立を見た次第です。
そして新橋演舞場の改築にあたり当湯島天神様のご好意により新派とは深い縁で結ばれております当天神様のご境内に移させていただいたものです。
なお碑の題字は作家の川口松太郎氏の揮毫により設計は舞台美術家の中嶋八郎氏です。左側の梅樹は昭和31年(1956)新派の名優故花柳章太郎氏の献木によるもので奇しくも記念碑と献木が同じこの場所に並んだ次第です。 -
渡り廊下
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菅家遺戒碑
湯島天神に祀られている菅原道真公が残したとされる公家の家訓をまとめた書の一節だとか。現在では後の世に作られた偽物であると考えられているそうです。 -
奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)
この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されています。
これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙貼って知らせた「迷子しらせ石標」の名残りです。このことからも、境内が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことがわかります。 -
水平式日時計
此の日時計は御大典を記念して寺島又吉氏、奥村ぬい氏より鍛冶橋の欄干を軸に日時計を作り奉納されたもので、御参拝の人々から親しまれてきました。戦後の混乱期に放置のまま永い間忘れられておりましたが、今回スイス・ラドー日本総代理店酒田時計貿易株式会社の御好意により、水平式日時計として復元して戴いたものであります。 -
小唄顕彰碑
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梅園です。
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筆塚
昭和17年、里見惇、 久保田万太郎 、岩田藤七らによって建てられました。 -
桔梗が咲いています。
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王貞治氏の「努力の碑」
王貞治君は、昭和五十二年九月三日午後七時十分五秒、後楽園球場において通算本塁打七五六号を達成、前人未踏の世界記録を樹立しました。これをたたえて政府は、わが国初の「国民栄誉章」を贈り、また球界最高の「正力松太郎賞」初の受賞者となりました。これは、昭和三十三年読売巨人軍に入団以来試練の嵐に耐え、心技を研鑽した努力の結晶であります。王君は、これを記念し崇敬する湯島神社に、白梅一樹を献木いたしました。ここに有志相集い、王君の生涯の座右銘である「努力」の碑を建立、もって青少年の亀鑑とするものであります。 -
都々逸之碑
都々逸は日本語の優雅さ言葉の綾言回しの妙などを巧みに用いて人生の機微を二十六字(七・七・七・五)で綴る大衆の詩である古くより黒岩涙香平山蘆江長谷川伸らの先覚者により普及しわれわれとその流れの中で研鑽を重ねて来た短歌俳句と並ぶ三大詩型の伝統を守り更なる向上と発展を願い各吟社協賛の下詩歌の神の在すこの地に碑を建立する -
戸隠神社
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笹塚稲荷
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夫婦坂を下ります。
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下から見上げた夫婦坂
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夫婦坂の前の坂道は「切道坂」。
「御府内備考」には「切通は天神社と根生院(こんじょういん)との間の坂なり,是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三,四丁目の間より池の端,仲町へ達する便道なり,」とある。
湯島の台地から,御徒町方面への交通の便を考え,新しく切り開いてできた坂なので,その名がある。
初めは急な石ころ道であったが,明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に,電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し”で,坂の名は全国的に知られるようになった。
また,かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床(きのとこ)」(本郷2-38-9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が,朝日新聞社の夜勤の帰り,通った坂である。
二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも
勤めなればかな 石川 啄木 -
啄木が深夜に歩いた切通坂には、夜勤を詠んだ歌碑が建てられています。
二晩おきに、夜の一時頃に切通の坂を上りしも――、勤めなればかな。(『悲しき玩具』より) -
麟祥院(りんしょういん)に来ました。
春日局之像
高橋剛作 題字 文京区長 成島正嗣 -
春日局の墓
春日局(天正7年~寛永20年・1579~1643)は、三代将軍徳川家光乳母で名はお福。
稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長9年(1604)家光(竹千代)が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。
この麟祥院は、寛永元年(1624)春日局隠棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺は局び菩提寺となり、法名にちなみ「天澤山 麟祥院」と改めた。
墓地奥にある局の墓は、無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形をしている。
哲学館跡
明治20年(1887)、この麟祥院内に「東洋大学」の前身である「哲学館」が創立された。
創立者井上円了は、安政5年(1858)越後国(新潟県)の寺に生まれる。明治18年(1885)東京大学文学部哲学科卒業。2年後の明治20年(1887)9月16日、哲学と宗教の啓発のため、私塾「哲学館」を境内の一棟を借りて開校する。哲学館では、授業以外に今日の通信教育ともいうべき講義録を毎月3回発行し哲学の普及につとめた。
円了は大正8年(1919)大連で逝去。享年61歳。 -
山門です。
「海東法窟」の扁額が山門に掲げられています。 -
春日局終焉之地碑
寛永元年(1624年)、3代将軍・徳川家光の乳母で、大奥をつくった春日局の隠棲所として創建された寺で、春日局の菩提寺。 -
麟称院碑
元禄13(1700)年の造立 -
鐘楼
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臨済宗妙心寺派の寺です。
本堂にかかる扁額は 「麟祥禅院」。 -
手水鉢
稲葉氏家紋「角切折敷三文字」があります。
寛永20(1643)年の造立。 -
春日局墓所案内図があります。
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佐倉藩 堀田家墓
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春日局の墓は無縫塔(卵塔)。死後の世界からも政治を見通せるように、との春日局の遺言に基づき、穴が穿ってあります。
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墓石の四方と台石には穴があり、「願いが通る」と江戸時代より人々に参詣されているそうです。
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まるしょう 本郷三丁目店で昼食です。
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店内に入った時は、席も空いていましたが、次から次へと客が入ってきました。
あっという間に、1階は満席になりました。 -
ソース焼きそば
豚肉、キャベツ、もやし
安定の美味しさ、ソース焼きそば
熱々です。 -
しょうゆ焼きそば
豚肉、キャベツ、にら、もやし
しょうゆ焼きそばも美味しいです。あっさりしています。 -
まるしょうからも近い、壺屋総本店に来ました。
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創業は第3代将軍徳川家光の時代、寛永年間(1624~44年)とされています。
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壺屋は開業当時壺に入れた砂糖を売っていて、そこから壺屋とついたそうです。その壺屋で生まれた名物が、壺屋最中となります。
店内は撮影禁止でした。 -
壺屋最中は粒あん、こしあんがあります。
茶色が粒あん、白がこしあんです。 -
壺の形です。中には、ぎっしりとあんこが詰まっています。
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壺屋のような江戸幕府と関わりが深かった老舗は、明治維新の際に店を閉められてしまうケースが多かったとか。壺屋も閉店を検討していたようですが、その時に勝海舟が、市民が壺屋の菓子を食べたいといっているから続けるように、と説得し、今に繋がる老舗として生き続けることになったそうです。
歴史を感じます。 -
壺屋からみつばちに来ました。
明治42年に氷業をスタートした「甘味処 みつばち」。小倉アイス発祥のお店です。 -
「小倉アイスの由来」
大正4年(1915年)、ある夏の日曜日。
創業者嶋田当与が氷あずきの種が残ったのでもったいなく思いアイスクリームを作る桶に貯蔵してみた。
明朝、桶の蓋を開けてみる、なっなんと、周りが少し凍っていたので食べてみた。 -
喫茶スペースでいただきました。
小倉あんみつをいただきました。
自家製の餡子や抹茶の求肥が添えられています。寒天は伊豆産、赤えんどう豆は北海道産と産地にもこだわってつくられたあんみつです。 -
黒蜜をかけて、いただきます。
沖縄産の黒糖で出来た濃厚な黒蜜です。
あんみつに添えられた杏がいいです。小倉アイスも美味しい。
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