2023/03/05 - 2023/03/05
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2023/03/05
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広島の備後の国には西城と東城という町がある。これは姉妹的な関係にある。室町時代に東城を治めた宮氏と言う国人が勢力を誇っていたが、宮景友が1521年から1530年頃に東城の西に五品嶽城を築城し拠点としていた。
宮景友は1533年に五品嶽城から西側におよそ15キロ離れた地に大富山城を築城し拠点を移した。そのため、東側に位置する五品嶽城を「東城」、西側に位置する大富山城を「西城」と呼ばれるようになったと言われている。
戦国時代に突入すると、毛利元就が勢力を拡大し、宮氏は毛利の傘下に入り、所領は安堵されていたが、安土桃山時代に毛利輝元が豊臣秀吉政権に組みし、1590年の北条氏政・氏直に対する小田原征伐の遠征の際、宮広尚が兵役を抑えるために所領を過小申告したことが発覚し、毛利輝元の怒りを買った。そのため宮広尚は山陰へ転封された。
関ヶ原合戦後、毛利輝元は防長2カ国に転封され、芸備は福島正則の統治となり、西城の大富山城は廃城となり五品嶽城には福島正則の家老が入城した。この家老長尾一勝が東城の城下町を整備し現在の東城の町並みの原型を作ったと言われている五品嶽城は1615年の一国一城令により廃城となったが、長尾氏の館はあったようだ。
その後1619年に福島正則が改易となるに伴い長尾氏も東城を離れることになったが、福島正則の代わりに広島城へ入城した浅野長晟も東城に家老を配置し、後に浅野一族が東城の館に入った。
こんな山中の小さな町に家老や一族を置くほど東城は重要な場所でもあった。東城は四方に路がのび、合流地点でもあった。
そして何より西城と東城は良質の鉄がとれ、たたら製鉄が非常に盛んだった事が挙げられる。
明治時代になると、八幡製鉄など近代的な製鉄がなされるようになり、東城は衰退の一途を歩み1921年(大正10年)には東城のたたら製鉄は消滅した。以後東城は衰退していくが、現在そのレトロな街並みは注目され、観光地としても注目されつつある。
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出発はアストラムラインの大塚駅から。備北方面は広島バスセンター発は中筋バスターミナル経由、広島駅発が大塚駅経由になっている
大塚駅 駅
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東城行きは1日二往復あるがいずれも広島駅発なので大塚駅を経由する
備北交通 乗り物
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座席の横には携帯電話用のコンセントが装備されている
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東城はホンマに遠い。広島市内から広島県で一番遠い場所が備後落合か、この東城だ。高速バスでも3時間近くかかる。芸備線の場合だと乗り継ぎが悪いので四時間以上ようす。しかも本数が少ないため、往路は何とか行けても復路は使えなかったりする。
東城駅 駅
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因みに石見の中心部、浜田までが高速バスで2時間半でいくことができることを考えると、いかに東城が遠いかよく分かる。
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バスの終着は東城駅。ここまで三次、庄原と備北の主要駅を経由していく。
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東城の中心部を流れる成羽川。岡山の備中高梁方面に流れていく
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東城は広島市内から一番遠い山間部に位置するが、福山に通づる東城路と現在の新見に続く新見路が交差する要所でもあり物流の中継地点として発展した町だ。特に東城路には昔ながらの町並みを今に伝える建物が並び、今もなお江戸時代後期から明治時代にかけての趣を今に伝えている。
街道東城路 名所・史跡
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東城路から駅方面を見た様子
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東城路に入ってきた
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東城町の古い町並みが残る街道筋にあるお店。昔ながらの和菓子やさんと思いきや、ケーキなどの洋菓子も売られている。創業1919年(大正8年)の老舗のお菓子屋、延城堂
延城堂 グルメ・レストラン
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今回はパイと「雄橋」という帝釈峡の石橋の名を冠したスイーツを購入した。名の通り、重みがあり、クッキーのような柔らかい生地にキャラメルをマキアージュしたアーモンドが載せられており、甘みは抑えられ美味しく食べることができた
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こちらがパイ
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東城路を散策。
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広島の備北エリアには東城の他に西城という町もある。
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これは姉妹的な関係にある。室町時代に東城を治めた宮氏と言う国人が勢力を誇っていたが、宮景友が1521年から1530年頃に東城の西に五品嶽城を築城し拠点としていた。
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宮景友は1533年に五品嶽城から西側におよそ15キロ離れた地に大富山城を築城し拠点を移した。
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そのため、東側に位置する五品嶽城を「東城」、西側に位置する大富山城を「西城」と呼ばれるようになったと言われている。
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戦国時代に突入すると、毛利元就が勢力を拡大し、宮氏は毛利の傘下に入り、所領は安堵された。
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しかし安土桃山時代に毛利輝元が豊臣秀吉政権に組みし、1590年の北条氏政・氏直に対する小田原征伐の遠征することになった。
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そのとき宮広尚が兵役を抑えるために所領を過小申告したことが発覚し、毛利輝元の怒りを買った。そのため宮広尚は山陰へ転封された。
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関ヶ原合戦後、毛利輝元は防長2カ国に転封され、芸備は福島正則の統治となり、西城の大富山城は廃城となり五品嶽城には福島正則の家老が入城した。
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この家老長尾一勝が東城の城下町を整備し現在の東城の町並みの原型を作ったと言われている。
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五品嶽城は1615年の一国一城令により廃城となったが、長尾氏の館はあったようだ。
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その後1619年に福島正則が改易となるに伴い長尾氏も東城を離れることになった。
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福島正則の代わりに広島城へ入城した浅野長晟も東城に家老を配置し、後に浅野一族が東城の館に入った。
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こんな山中の小さな町に家老や一族を置くほど東城は重要な場所でもあった。
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東城は四方に路がのび、合流地点でもあった。
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そして何より西城と東城は良質の鉄がとれ、たたら製鉄が非常に盛んだった事が挙げられる。
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備北のたたら製鉄の中心だった東城は江戸時代には反映した。
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明治時代になると、八幡製鉄など近代的な製鉄がなされるようになり、東城は衰退の一途を歩み1921年(大正10年)には東城のたたら製鉄は消滅した。
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以後東城は衰退していくが、現在そのレトロな街並みは注目され、観光地としても注目されつつある。
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東城は、目的地に向かって移動するだけでない"楽しみながら巡る"新しい「街道文化」創出し、「だけじゃない東城」を掲げ、観光にも力を入れ始めた。
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中心部はなかなかん見応えがある。
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こちらは三楽荘と言われる建物。国登録有形文化財で旧保澤家住宅だ。建物は明治24年(1891年)に建築された。当時は呉服反物商と醤油醸造業を生業としていた。昭和24年(1949年)に旅館「三楽荘」に転業し、平成30年(2018年)まで営業していた。風格ある漆黒の壁で風格ある外観だ。
三楽荘 名所・史跡
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入口は土間になっており、醸造業の跡が残され、土間か上がった場所は広い間取りだ。
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一階の座敷の欄間には素晴らしい装飾があしらわれている。
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二階に上がってみた。
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二階に上がった場所は大小いくつかの和室が作られている。
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床柱には赤松が使われているのだそうだ。
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二階の通路
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東城と言えば秋祭りが広島で知られている。毎年11月も「お通り」と呼ばれるお祭り催される。
お通り 祭り・イベント
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関ヶ原合戦後、広島藩主となった福島正則の家老、長尾一勝が五品嶽城に入城した。長尾一勝は関ヶ原の戦勝を祝し、祭礼御興行列に武者行列を加えたのが起源となったお祭りだ。その後福島正則が改易後に浅野家が広島藩に転封後も明治まで続いた。
お祭りは大名行列、武者行列、母衣行列、華童子(はなわらべ)からなる行列で構成され、市街地を練り歩く。 -
殿と姫君など総勢33名の行列が大名行列が進み、大将、副将、鳴り物、鉄砲隊、大砲隊と総勢34名の、武者行列がすすむ。
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見どころは母衣行列だろう。母衣は戦国時代に騎馬武者が背後からの矢よけや石除け用いられたマントのような武具で、織田信長は精鋭の騎馬武者を選抜して黒母衣衆と赤母衣衆という精鋭部隊が作られていたのは有名だ。
東城の「お通り」では1719年には、すでに現在のような装飾を施した形になった。江戸時代から続くこうした母衣をつけた行列を毎年執り行うのは、日本でも東城だけなのだという。 -
ひろしま神楽と言えば八岐大蛇だが、備後の東城でも神楽が盛んのようだ。
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部屋はそれぞれ異なった特徴になっている。
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客間の窓ガラスが室内にもある。
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一階に降りて奥座敷に。奥座敷は洋間になっており床柱は東南アジア原産のタガヤキンがつかわれ、欄間は鶴、亀、松が描かれている。
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本館と離れからは庭園が見れる
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離れの二階から見た庭園
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離れは明治49年(1909年)に建設された。入母屋造りとなって大広間になっている。
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二階は大広間を加工用に回り縁になっている。
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外壁には花形の窓が形成されているため、障子の開閉によって美しい変化を見ることができる。家紋の丸に木瓜の家紋によくている。
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二階の廻り縁
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欄間は屋久杉で仕上げられている。
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離れの一階も大広間になっている。
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大広間には書院や床脇が作られている。
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離れの奥には茶室が建てられている。
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茶室の室内に入ってみた。
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茶室から見た庭園
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茶室から見た庭園その2
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庭園
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三楽荘の裏手のある寺院
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それが禅佛寺。残念ながら由来が分からなかった。
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こちらは徳了寺の楼門。
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その本堂。1604年に建立された。
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後藤商店の蔵。後藤商店は現在様々な事業を展開しており、後藤生酢醸造場はその一つだが、醸造所は酢の醸造する老舗中の老舗だ。
後藤商店(後藤生酢醸造元) 専門店
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後藤家は平安時代から続く神主の家系で、約500年前に東城の八幡神社から分家したが、当時の東城には造り酒造5軒、醤油屋が3軒あり、15代「茂四郎」はそれらと関係のない酢造りを始めた。現在看板となっている赤酢は100年以上前から続く商品だ。
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1865年(慶応元年)に創業した生熊酒造は東城路の中心部にある老舗の店。生熊酒造といえば1926年(昭和元年)から続く「超群」というお酒。
生熊酒造 専門店
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東城は石灰岩質のどじょうだが、そのカルスト台地の湧き水を仕込み水にしている。蔵の見学も実施されているので平日に行ってみよう。休日は残念ながら営業していない。
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東城の老舗の酒蔵なのは北村醸造場。創業は江戸時代、天保年間(1830~1844) の酒蔵だ。北村醸造所の看板酒は「菊文明」。菊文明は、明治の初期から続くお酒だ。
カルスト台地を流れてきた水を使用した辛口のお酒が特徴。家族三人で経営しているというのは本当にすごい。北村酒造場 専門店
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谷繁元信球歴館
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建具店が何と雑貨カフェを営んでいる。これはナイスアイデアだ。意外と流行っているようで、14時にいくと、ランチメニューはすでに売り切れでピザなら食べることができた。
Zakka&Cafe Yabuki Tategu Ten グルメ・レストラン
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今回は当店で販売される紅茶クッキーを購入した。クッキーはバターが抑えられあっさりした味。なかなか美味しかった。
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本堂が二階建てになっており珍しい作りの西方寺。元々は室町時代の初めに創建された。東城浅野家の菩提寺でもあった
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竹屋饅頭といえば、昔テレビのCMをやってた記憶があり、なんとなく広島でも知名度があるお店。1861年(文久元年)創業の竹屋饅頭本舗
竹屋饅頭本舗 東城本店 グルメ・レストラン
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それが東城町が縁だとは知らなかった。まんじゅうのこしあんがポイントで丁寧に濾されたアンコがとても美味しく、ほのかに酒粕の香りが漂う上品で大人の味。
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竹屋まんじゅう
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お目当ての場所でランチを食べることができなかったのでこちらでラーメンを食べた。その名もベトコンラーメン。
風龍 グルメ・レストラン
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ベトコンと言えば40代後半よりも年を重ねている人でなければ意味が解らんのんじゃないだろうか? というより何故ベトコン?意味が良く判らんかったがニラともやし、玉ねぎ、そしてにんにくを豚肉で痛めてラーメンに載せたものだが、豚肉とニンニクの味が利いていて素朴ながらも美味しい味。ベトコンとの関連性が良く判らんが、うまかった。
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東城町を歩いているとたまたま通りすがりに見つけたお店が春風舎。
春風舎 グルメ・レストラン
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以前は理容店だったような雰囲気のある店。鶏のから揚げのテイクアウト専門店。注文してから揚げてくれるので熱々のカリカリで食べることができる。
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ジューシーではあるが、塩と胡椒がもう少し効いていたらさらにおいしくなるだろう
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成羽川にかかる趣きある橋
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東城の中心部を流れる成羽川と背後に五品嶽城城跡がある。
五品嶽城跡 名所・史跡
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川は青々としている
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バスを待っていると新見行きの気動車に遭遇した。二桁の乗客が乗っていたのには驚かされた。多くの乗客は廃線前に乗っておこうと思ってきたのだろうか
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広島駅行が東城駅前の駐車場で出発を待っている
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広島駅行のバス。東城からの乗客は10名程度だった。
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