2023/05/16 - 2023/05/16
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ペコちゃんさん
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5月の〇〇会は、川崎市多摩区にある「生田緑地」・・・ここには805種・3296株のバラが咲き誇る「ばら苑」、五箇山や白川郷の合掌造りなど各地から移築された古民家が見学できる「日本民家園」、岡本太郎の芸術作品が幅広く鑑賞できる「岡本太郎美術館」などが広大な敷地に点在しています。
足腰のトレーニングも兼ねて(?)、五月晴れの一日を仲間6名で歩きました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
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生田緑地へのアクセスは、JR南武線・小田急線の登戸駅と小田急線の向ケ丘遊園駅が便利ですが、ばら苑へは登戸駅から出る「藤子・F・不二雄ミュージアム」行きのバスが便利なので、登戸駅で下車。
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バス乗り場で待っていると、「今日(火曜日)はミュージアムが休館日なので、バスも休みですよ」・・・エェ!! 参ったな~
30分ほど歩くことにしました。 -
ばら苑アクセスロードを歩き、ばら苑に近づくと、立て看板や幟が目印に立てられています。
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生田緑地ばら苑は小高い丘の上にあり、104段の階段を登らないと花園に行けないので、覚悟を決めて入口から階段と坂道を上ります。
階段入口付近には、キッチンカーが出店中。 -
やっと階段を上り切り、多摩丘陵の雑木林を抜けると、突然、姿を現す秘密の花園「生田緑地ばら苑」・・・春と秋のバラが見頃の時期にのみ一般公開され、春は約800種・3,300株、秋は約625種・2,900株のバラが咲き誇ります。
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小田急の開設に合わせて、1927年(昭和2年)に開園した「向ヶ丘遊園地」・・・ばら苑の開苑は1958年(昭和33年)で、当時は「東洋一のばら苑」と言われました。
2002年に遊園地は閉園しましたが、園内のばら苑存続を求める多くの市民の声に応えて川崎市が引き継ぎ、ボランティアの方々の努力によって維持されています。 -
パーゴラの右側にある青い屋根はローズガーデンハウス、その先には売店やトイレもあります。
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パーゴラの下にはベンチ。
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(左上)ヒストリー (右上)マキシム
(左下)エミール ノルデ (右下)ストローベリー アイス -
パーゴラの棚を覆う白いバラは「アルベリック バルビエ」。
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(左上)カクテル (右上)サハラ
(左下)レオナルド ダ ビンチ (右下)シーガル -
小振りの白い花が青空に映える「ボビー ジェームス」。
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「ブラン ピエール ド ロンサール」。
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苑内には随所に彫像が飾られています。
これは多摩美術大学教授・早川巍一郎氏が制作した「白鳥と子供」。 -
イギリスの貴族の館を思わせる彫像とバラ。
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今日も大勢の人が見頃を迎えたバラを楽しんでいます。
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白い彫像と色とりどりのバラのコラボ・・・心が和みます。
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バラの仲間の「シロハマナス」。
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牡丹のような八重咲きの「イザヨイバラ」・・・花の一部が欠け、十六夜の月に見立てて命名されました。
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白が美しい「新雪」。
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日本の皇室やイギリス・モナコなどの王室と関わりのあるバラを集めた「ロイヤルコーナー」。
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中央には、1977年に建立されたフローラ像・・・ロイヤルコーナーに優雅に佇む花の女神像は、フラワーショー15周年記念に朝日新聞社より贈られました。
女神像の前に咲くピンクのバラは「クィーン エリザベス」・・・1953年に戴冠式を挙げたエリザベス女王に因んで付けられた名前です。 -
「プリンセス ドゥ モナコ」・・・モナコ大公妃となったグレース・ケリーのお気に入りで命名されました。
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「プリンセス ミチコ」・・・皇太子妃時代の美智子様に贈られたバラ。
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「プリンセス サヤコ」・・・紀宮清子内親王に贈られたバラ。
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「プリンセス ノブコ」・・・寛仁親王妃・信子様に捧げられたバラ。
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色鮮やかな「ラス ベガス」。
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赤いバラは「カクテル」。
「ばら苑」の美しさは、雑草引き・剪定・誘引・施肥など多くの市民ボランティアによって支えられています。 -
手前の白いバラは「金蓮歩」・・・その奥には「母と子」の彫像。
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春は、つるバラが一斉に咲き誇ります・・・この愛らしいバラは「バレリーナ」。
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ビッシリと花をつけたこのバラは「宮城野」。
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ドイツ系の青バラ「ブルームーン」・・・周り一帯に芳香が漂っています。
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「フィリス バイド」。
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パーゴラにこぼれるバラは「つる カレドニア」。
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5月後半の土・日には、ばら苑内の芝生広場で「ばら苑コンサート」も開催されます。
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売店ではバラの花や鉢植えを販売していますが、この後、民家園や岡本太郎美術館の予定があるので、パス。
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40分ほどバラを楽しんだ後は、日本民家園に向かいます。
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広大な生田緑地は丘陵地なので、次の目的地に行くのも結構大変・・・約150段の階段を上ったり下りたり・・・
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住宅街を下って大きな道を右に進むと・・・
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生田緑地の東口に到着。
2012年にオープンしたビジターセンターで地図やパンフレットを貰って・・・ -
日本民家園の入口で入園料(330円)を払います。
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「川崎市立日本民家園」は、急速に消滅しつつある古民家を永く将来に残すことを目的に、1967年に開園した古民家の野外博物館・・・東日本の代表的な民家をはじめ、水車小屋・船頭小屋・高倉・歌舞伎舞台など25件の建物が保存・展示されています。
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坂を上ると、最初に現れるのは0番の「原家住宅」・・・原家は中原街道に面する小杉陣屋町に屋敷を構え、明治期には小杉村における有数の豪農で、この建物は明治44年(1911)に建て替えられた邸宅です。
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広間には立派なシャンデリアが吊るされ、「座敷」「中の間」「上がり間」と続く豪壮な住宅です。
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原家住宅のすぐ上側が「宿場」のエリアで、4棟の古民家があります。
<1>鈴木家住宅
奥州街道の宿駅の馬宿で、福島市に建っていた19世紀初期の建物です。
馬の産地であった岩手県南部地方から来た人々に利用されていました。
【馬宿】馬喰(ばくろう:馬商人)や馬方(うまかた:馬の世話役)を泊める宿屋 -
奥に続く水色の部分がマヤ(内厩)で、10数頭の馬が泊まれるようになっていましたが、鉄道などの交通機関の普及に伴って馬を運ぶ人が減り、馬宿の営業は明治20年頃に終わりを迎えます。
鈴木家はもともと稲作や養蚕を行う農家で、宿屋や醤油の醸造業などを営んでいた時期があり、民家園に移築された主屋の裏には醤油蔵や牛小屋などがありました。 -
通りに面した店と上段の間・次の間が接客と商いの場で、奥に茶の間があります。
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<2> 井岡家住宅
奈良の旧市街地に17世紀末に建てられた町屋で、当初は油屋を営み、後に線香屋に転業しました。 -
建物に入ると、左側は店・台所・居間の3間があり、右側は通り土間、中2階もある典型的な町家の造りになっています。
農村部の家と違って屋根は茅葺でなく瓦葺で、囲炉裏もありません。 -
<3>佐地家の門・供待
名古屋城の東南にあった禄高250石の武家屋敷の門と供待で、19世紀初期に建てられ、昭和の初めに佐地家の所有となりました。
この門は、公家や武家の屋敷でみられる棟門(むなかど)と呼ばれる屋根つきの門で、入口の左右にある小屋根は、提灯を吊すためのものです。
佐地家の主屋は名古屋に残ったため、次に見学する三澤家住宅を主屋に見立てて配置しています。 -
供待(ともまち)は、お供が主人の帰りを待つための施設で・・・
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内部は土間・門番部屋と、この供待(囲炉裏のある板の間)からなる間取りで、甲冑などが飾られています。
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<4>三澤家住宅
中山道から分かれる伊那街道の宿場町・伊那部宿(長野県伊那市)にあった薬屋・・・天保11年(1840)に焼失した直後に再建され、明治に入って旅籠も兼業し、善光寺詣りや伊勢詣りの客などが宿泊しました。
屋根は石置きの板葺きで、壁は内外ともに土壁漆喰仕上になっています。 -
オオエと呼ばれるこの部屋は家族が日常に使う場所で、板の間には囲炉裏や神棚があります。
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三澤家から坂道を上ると、庚申塚や道祖神などが置かれています。
【庚申塚】中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔
【庚申講】人間の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜に寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くことを避けるため、夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習 -
宿場のエリアから「信越の村」へ。
<5>水車小屋
江戸末期に長野市郊外の山村に造られた水車小屋で、直径3.6mもある大型の水車が取り付けられ、小屋の内部には水車の動力を伝える木製の歯車の装置があり、それを利用して製粉や精米を行う挽臼や石臼も並んでいます。 -
<6>佐々木家住宅
享保16年(1731)に長野県八千穂町の山あいの高冷地(八ヶ岳の東)に建てられた農家で、日本民家園に1965年に移築されました。
佐々木家は村の名主を交替で勤める有力農家でした。 -
建物の東側は中二階の採光のため「かぶと造り」の屋根になっています。
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土間から梯子で上る中二階は、村の寺子屋としても使われたそうです。
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土間に面した広い「お勝手」・・・奥には囲炉裏、入り口側の壁には手織り機の高機(たかはた)が置かれています。
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<7>江向(えむかい)家住宅
18世紀初期に建てられた富山県・五箇山地方の農家の合掌造・・・大屋根に開いた窓は、この地方の特徴です。
急勾配の大屋根が、手を合わせた形から合掌造と呼ばれ、2階・3階は養蚕などに使われました。 -
囲炉裏の上にある火棚は、火の粉が上がるのを防いだり、濡れた物の乾燥に使われていました。
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<8>山田家住宅
江向家住宅と同じく五箇山地方の合掌造り民家で、建築年代も同じく18世紀初期。 -
囲炉裏がある居間と、その奥には浄土真宗の信仰が篤い地方なので、立派な仏壇を備えた仏間があります。
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<9>野原家住宅
五箇山の利賀集落から移築した合掌造りで、18世紀初期の建物です。 -
広間の天井を走る太い梁は「牛梁」、横に渡してある曲がった梁は「チョーナ梁」・・・チョーナ梁は斜面に生えたために根元が大きく曲がった木を梁として使用したもので、手斧の柄に似ているところから名づけられました。
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<10>山下家住宅
19世紀前期に建てられた飛騨白川郷の合掌造り・・・現在は「そば処 白川郷」として営業していますので、ここで昼食をとります。 -
広い店内ですが、昼時なので、ほぼ満席状態。
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ビール片手に食べる蕎麦は美味しい!
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岐阜県白川村字御母衣にあった山下家は、御母衣ダム建設で水没することになったので、川崎市の千葉建三氏が入手し、川崎に移築して料亭として使用していました。
昭和44年に民家園に移されましたが、園内の休憩所として使用するために全面的な復原は行われていないそうです。 -
「信越の村」から短いトンネルを抜けた先が「関東の村」です。
<11>作田家住宅
イワシの地引網漁で栄えた房総・九十九里浜の網元の家で、左側の主屋は17世紀後期、右側の土間は18世紀後期に建てられました。
1軒の住宅でありながら表から見ると屋根が2つある「分棟型(ぶんとうがた)」という構造になっており、現在は修理中。 -
<12>沖永良部の高倉
19世紀後期の建物で、太い4本柱の上部に穀物を収納する場所を設け、ネズミ等の侵入を防ぐようにしており、床下部は作業場・休憩所・物置などに利用されました。
川崎市には沖縄出身者が多く、この高倉はその人達の郷土の建物として移築されました。 -
<13>広瀬家住宅
切妻屋根で、軒が低く、壁の多い閉鎖的な17世紀末期の甲州民家で、山梨県甲州市塩山上萩原から移築したものです。 -
居間には床板を張らず、地面の上に茅束とムシロて暮らしていました。
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<14>太田家住宅
茨城県笠間市から移築された分棟型民家で、左側の主屋は17世紀後期、右側の土間は18世紀後期に建てられ、土間には馬屋もありました。 -
2つの屋根を接続して一軒の家を構成する分棟型の特徴である屋内の雨樋が、表にせり出しています。
土間に入ると家屋を分割するように木製の雨樋が梁のように天井を貫いていますが、樋が詰まると家の中に雨水が溢れたとか。 -
日常生活の中心である「広間」と「土間」との間には仕切りがなく、ひとつながりの空間になっています。
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太田家住宅から坂道を少し降りた山の斜面にあるのが「神奈川の村」で、4棟の古民家があります。
<15>北村家住宅
1687年に建築された建物で、神奈川県秦野市堀山下から移築されました。 -
広間の床は板の間と竹簀子(すのこ)を使い分け、夏場はムシロを敷いて快適に生活していたのでしょう。
広間の奥には、しめ縄の奥に神棚が設えられ、達磨が並んでいます。 -
<16>清宮家住宅
生田緑地から歩いて15分ほどの所にあった17世紀後期の古民家で、家の正面を除き三方が土壁で塞がれた、開口部が少ない極めて閉鎖的な民家で、近世民家特有の縁側もありません。 -
囲炉裏がある広間。
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農機具を納めた小屋がありました。
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<17>伊藤家住宅
17世紀末~18世紀初め頃に建てられた川崎市麻生区の農家ですが、現在、修理中。 -
<18>蚕影山祠堂(こかげさんしどう)
この祠堂は文久3年(1863年)の建築で、川崎市麻生区の東光院境内に祀られていましたが、養蚕の衰退とともに堂の維持が困難になったため、岡上の養蚕講中より昭和44年に川崎市に寄贈されました。 -
内部の宮殿の両側面には養蚕の神様である金色姫の苦難の物語(獅子・鷹・舟・庭の4場面)が彫刻されています。
本尊の馬鳴(めみょう)大菩薩像は、貧しい人に衣服を与える菩薩で、養蚕や機織りの守り仏とされます。 -
<19>岩澤家住宅
土壁と板壁を併用した17世紀末期の建物で、神奈川県愛甲郡清川村から移築されたものです。
相模川の支流の小鮎川の段丘上に立地し、炭焼きを中心に焼き畑農業や林業を営み、名主も勤めた家柄でした。 -
生活の中心だった囲炉裏のある「座敷」・・・この板の間で養蚕も行っていたそうです。
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<20>菅(すげ)の船頭小屋
昭和4年に建てられたこの船頭小屋は、多摩川右岸の菅と対岸の調布を結ぶ「菅の渡し場」にあり、船頭が客を待ち、川の見張りをしたり休憩する場所でした。
外回りの柱には鉄の輪があり、出水の際には輪に丸太を通して小屋ごと担いで移動させました。 -
最後は「東北の村」で、2棟の古民家があります。
<21>工藤家住宅
宝暦年間(1751~1764)に建てられた、旧南部領にみられる曲がり屋で、岩手県紫波郡紫波町から移築されました。
手前が主屋、L字型に曲がった奥の建物が農耕馬の馬屋です。 -
工藤家では2頭の馬を飼っていて、栗毛なら「クロ」、赤毛なら「アカ」と呼び、餌は1日3回で藁や燕麦や葛の葉が主食でフスマや米のとぎ汁を混ぜたそうです。
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<22>菅原家住宅
18世紀末期に建てられた山形県鶴岡市松沢の農家で、寄棟造りの入口(妻入り)の上部には養蚕のために切上窓(高ハッポウ)が設けられています。 -
4室ある中で、生活の中心は囲炉裏のある「オメエ」・・・大きな囲炉裏の上にはアマダナが設けられ、衣類の乾燥や、食物をいぶして保存するためなどに用いられました。
これで民家園の見学は終わり、岡本太郎美術館へ向かいます。 -
「川崎市岡本太郎美術館」は「自然と融合した美術館」のコンセプトに基づいて設計され、岡本太郎の死後3年後の1999年に開館しました。
展示室など、ほとんどの施設が地下にあり、右側がエントランスと常設展示室、左側が企画展示室とミュージアムショップ・カフェテリア、中央の地上部分が「母の塔」を中心とする公園スペースになっています。 -
中央の階段を上って「母の塔」の方へ・・・階段の右手にはカフェテリア。
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カフェテリアの前の池に展示されたブロンズ像「樹霊1」・・・大阪万博の「太陽の塔」の地下に展示されていた作品で、近鉄バッファローズのマークに似ている感じ。
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階段を上った先にある、美術館のシンボル「母の塔」・・・高さ30mのこの塔は「大地に深く根ざした巨木のたくましさ」と「ゆたかでふくよかな母のやさしさ」、「天空に向かって燃えさかる永遠の生命」をイメージして制作されました。
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豊かな躍動感あふれる姿・・・この塔の正面は、高津区にある太郎の母・岡本かの子の文学碑「誇り」に向けて建てられています。
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階段の横にあるここがミュージアムの入り口・・・自然と一体化した、トンネルに潜っていくような設計です。
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岡本太郎(1911~1996)は川崎市高津区で生まれた、いわば ” 川崎ッ子 ” 。
両親と共に1929年から約10年間フランスで過ごしましたが、ピカソの作品に衝撃を受け、抽象芸術を志します。
また1960年代後半にはメキシコを訪れ、シケイロスなどの壁画運動に大きな影響を受けました。
その後、独特の画風に込められた心を「芸術は爆発だ!」と言い放ち、1970年に開催された大阪万博のシンボル「太陽の塔」と共に一世を風靡した岡本太郎です。 -
母親の岡本かの子(1889~1939)は大地主の長女で、若いころから文学に熱中するお嬢さん育ちで、家事や子育てが全く出来ない人でしたが、歌人であり作家としても活躍。
父親の岡本一平(1886~1948)は朝日新聞で漫画記者として名を馳せましたが、付き合いのため収入のほとんどを酒代に使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあったそうで、こんな家庭環境も岡本太郎の画風に影響したかもしれません。 -
エントランスに展示された作品は、1981年作「月の顔」・・・見る角度によって全く表情が異なり、三日月形に見える角度もありますが、これは「二つの横顔が一体になって初めて完全体になる」という太郎の理念を表した男女の横顔です。
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常設展示室の入口「赤の部屋」・・・太陽の塔でも見覚えのある顔の作品と ” TARO ” の文字が大胆に描かれ、現実世界から一気に岡本太郎の世界に引き込まれます。
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「芸術は民衆(ピープル)のもの」・・・太陽の光のように無償で皆に与えられるべきものという信念を貫いた岡本太郎・・・作品を売らない主義の太郎は、ゆかりの深い川崎市に懇願され、1,779点もの作品を寄贈しました。
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「太陽の塔」のミニチュア版。
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(上)1981年「遭遇」
(下)1967年「天空に我あり」 -
(左)1987年「瑞鳥」(中央)1977年「夢の鳥」(右)1970年「火の接吻」
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「夢の鳥」のティーセットを制作している写真(1976年)。
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(上)1954年「青空」
(下)1951年「クリマ」・・・フランス語で気候や気象といった意味の「クリマ」は目の付いた物体がうねるように描かれており、強烈なエネルギーが満ちているように感じます。 -
近鉄バッファローズの水牛をイメージした球団ロゴは、1959年に岡本太郎がデザインしたもの・・・極度に抽象化されながら、一目で水牛と分かるデザインはさすが。
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1989年「リョウラン」
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1963年「エクセ ホモ」
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(上)1973年「海辺の肖像」
(下)1947年「夜」・・・紺色の不気味な樹木に囲まれる中に背中にナイフを隠し1人立つ女性の姿、その視線の先には稲妻のような真っ赤な火が燃えて、怒った顔のように見えます。 -
1959年「動物」・・・コンクリートとは思えない柔らかさがあり、まるで紙粘土で造られたような温かみを感じます。
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(上)1972年「躍進」
(下)1980年「眼と眼のコミュニケーション」 -
岡本太郎の等身大人形と、自作のインテリアや家具などが置かれたコーナー。
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立体作品のコーナー・・・『樹人』が中央に置かれ、周りに彫刻作品が囲んでいます。
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1971年「樹人」
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1966年「若い時計塔」
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1969年「喜び」・・・子どもが丸いボールに乗り、天にむけてリボンを掲げています。
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企画展示室では『顕神の夢 ―幻視の表現者― 村山槐多、関根正二から現代まで』を開催中。(写真撮影はNG)
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帰りは生田緑地・西口からバスに乗り「向ヶ丘遊園駅」へ。
今日の歩数は約17,000歩・・・一日よく歩きました。
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