2020/02/08 - 2020/02/08
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はしび五郎さん
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日帰りで刀装具を観に馬の博物館に行って来た。
自分のための記録用。
-
馬の博物館が所蔵している馬関連刀装具の展示があると知り、見に行って来た。
何処で何が所蔵されて、何処でどんな展覧が行われるか分からないものだと思う。少なくともこんな機会でもなければ、自分が「馬の」博物館に足を運ぶことはなかっただろう。
来館当時は(今もそうだが)競走馬はディープインパクトみたいな本当に有名どころの名前ぐらいしか知らない。写真左、「シンザン」という馬の銅像があったので調べてみたが、なんかスゴい馬、らしい。 -
全体的に画質が悪い。もっと真剣に撮っておくべきだったと、帰った後で反省。刀装具の鑑賞に来ているのであって写真撮りに来てるわけではないので、カメラにかまけるのもそれはそれでどうかと思うが。
まあそれはそれとして、このテーマ展は中川コレクションの内の刀装具が展示対象とのこと。この博物館に寄贈された中川洋一さんのコレクションは、刀装具の他にはコインなんかもあるらしい。 -
数点、厩猿信仰関連のもの
厩猿信仰とは厩で猿を飼ったり、猿の頭蓋骨を祀ったりして猿を厩の守り神とする信仰。由来は諸説あり、猿が馬を癒す、あるいは猿に魔除けや疫病除けの力があるという中国由来の信仰、中国の陰陽五行説、単に馬と猿の相性がいいから、などがある。(展示の説明より)また馬の常備薬に猿の毛がいいという俗信が昭和頃もあった。(南相馬市HPより)
[左]
駒曳猿図鐔(こまひきさるずつば)
銘:忠則 作
作:/19世紀
駒曳猿はほぼ言葉のままで、猿が馬の手綱を引く図柄のこと。題材自体はかなり歴史が古く、8世紀後半(奈良時代)の遺跡でもこの絵柄の絵馬が出土したらしい。
護符にもなっていて、これらは馬の安産や厩の守護のお守り。(南相馬市HPより)
[右]
駒曳猿図鐔(こまひきさるずつば)
銘:無銘
作:加賀後藤/19世紀 -
[上]
駒曳猿図子柄(こまひきさるずこづか)
銘:
作:後藤程乗/19世紀
ここからは合戦(と馬)を主題にした展示。
作成が江戸時代のため、いずれも江戸時代より前の有名な合戦が題材となっている模様。
[中、下]
宇治川先陣争図縁頭(うじかわせんじんあらそいずふちがしら)
銘:藻柄子入道宗典製
作:喜多川宗典/18世紀
宇治川先陣争は、木曾義仲と源頼朝(実動はその兄弟たち)の戦いである宇治川の戦い(いわゆる源平合戦(最近は治承・寿永の乱という)の中盤あたり)の最中にあった逸話。木曾義仲はこの後の粟津の戦いで討たれる。
ただし縁頭のこれら(以降の合戦関連の刀装具)は、史実の治承・寿永の乱というよりも、『平家物語』の中の話のそれと認識して解釈した方がよいと思う。
以下、宇治川先陣争の概要。
源頼朝によって派遣されたその異母弟である源範頼と源義経が木曾義仲に攻め入り、宇治川(淀川の京都府内での名称。現在の宇治市)で衝突する。これが宇治川の戦い。このとき義経の部下である佐々木高綱と梶原景季がそれぞれ頼朝から拝領された馬に乗って宇治川を渡河し、敵陣に最初に突入する先陣争いをした。当初は景季が先行していたが、途中高綱に呼び止め(お前、馬の腹帯もっとちゃんと締めとけ的な内容)られて振り返ってしまい、その隙にまんまと高綱が先に川を渡り切ってしまう結果に終わった、という話である。
この逸話を元に縁頭を見ると、水面の真ん中で馬共々後ろを振り返っているのが梶原景季(赤丸)、前を向いているのが佐々木高綱(黄丸)と分かる。 -
宇治川合戦図縁頭(うじかわかっせんずふちがしら)
銘:
作:/18世紀
こちらも縁の方の鞍上で振り返っている武士(赤丸)景季で、頭の武士(黄丸)が高綱。
金で波間が表現されていて豪奢。
この先陣争い時の馬の名前も登場していて、高綱の乗る馬はいけづき(生◯口編に妾、「生食」「池月」などとも書く)、景季の馬はするすみ(磨墨)という。この馬たちも調べてみると面白いが、長くなるので割愛。 -
一の谷合戦図縁頭(いちのたにかっせんずふちがしら)
銘:乙柳軒兼随
作:浜田兼随/18世紀
一の谷合戦も、源平合戦に含まれる戦い。
先ほどの宇治川より後の戦いで、木曾義仲VS源頼朝の裏で勢力を立て直した平氏と、源頼朝勢との戦い。
鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし(義経が断崖を騎馬で駆け降りて平家陣営に奇襲をかけた逸話)もこの戦いの一局面で、この縁頭はこの奇襲中に起こった話として平家物語に登場する「敦盛」という話。
敦盛というと本能寺の織田信長のイメージがあったが、その謡曲の元ネタ。鵯越の逆落としによる奇襲中、源氏方の熊谷直実が、波際(奇襲場所(史実上の正確な場所は諸説あり)は崖と海に挟まれた場所)に逃げようとしている平家方の武将を発見。追って馬から落としてみたら、彼の息子ぐらいの若武者(平敦盛)で。直実は討ち取るのを躊躇ったが、結局は誰かに殺されるだろうと泣く泣くこの少年の首を落とした、という逸話。
縁頭は赤丸の方が熊谷直実で、黄丸の方が平敦盛。
頭の熊谷直実は軍扇を持っているが、JR熊谷駅の彼の銅像や他の幾つかの彼の浮世絵でも同じように軍扇を持ってる。これは上記平家物語の敦盛の話で直実は黒い軍扇を翳して敦盛を呼び止めたそうなので、多分そこから来てる。
というか、軍扇を持った騎馬武者と描くことで、当時の教養のある人は「あ、こいつ熊谷直実だ」と気付けるのだろう。多分。
今まさに軍扇を翳して敦盛を呼び止める直実と、金の粒で表現された水飛沫を撒き散らしながら後ろを振り返りつつ必死に逃げる敦盛がこんな小さな縁頭でもよく分かる。
浜野兼随(はまのかねゆき)は江戸中期の江戸金工。
浜野流の二代目。高彫を得意としたそう。 -
こちらも平家物語にでてくるの源氏VS平氏の一幕。
というか源平合戦に含まれる戦いだと一、二を争うくらい有名な合戦じゃなかろうか。前後のくだりは兎も角とも、那須与一が弓を射るシーンで。
[左上]
屋島合戦図鐔(やしまかっせんずつば)
銘:
作:浜野/18世紀
南無八幡大菩薩云々は覚えているので割愛。前後の状況をメモ。
一の谷の敗戦後、平家は屋島に拠点を移した。一年後(三日平氏の乱や葦屋浦の戦いを挟む)にその屋島に源氏が進軍。
日が落ちるので戦いを一度お開きに(昔の戦争は、野戦は基本なくて夜になると休戦していたらしい)、、、というところでこの話になる。
[左上以外]
屋島合戦図縁頭(やしまかっせんずふちがしら)
銘:
作:浜野/18世紀
鐔、縁頭の図案や雰囲気が双方とてもよく似ている。これら一揃いの拵の可能性があるだろうか。 -
義経弓流し図縁頭(よしつねゆみながしずふちがしら)
銘:
作:加賀後藤/18世紀
平家物語にある、八島合戦の那須与一の扇の的直後の戦いの話。
那須与一が扇の的のを射抜いた後に何やかやあり、なし崩しで再度源氏と平氏が戦った際、その参戦メンバーの一人だった源義経が戦場真っただ中で平氏に熊手で引っ掛けられて落とした弓を、(海に浸かっての戦いだったので流された弓を鞭で引っ掛けて)わざわざ悠長に拾う(普通戦場でそんなことしてたらもしかしなくとも殺されるので、その後家臣に怒られて義経が釈明する)話。
頭の赤丸に、熊手っぽいものを持った武士を乗せた船があるので、この人が義経の弓を落とした平氏と思われる。その赤丸の下で、右手に刀持ってるけど戦そっちのけで海面に視線を向けて左手で弓を拾おうとしているが義経か。
縁の方のわちゃわちゃしているのは義経救援に向かう源氏家臣団。お疲れ様です。
加賀後藤は、加賀前田家に出仕した後藤家。
後藤覚乗、後藤悦乗らがいる。一般的な後藤家の作風に比べ、豪壮華麗な作風らしい。 -
ここからは教養系(?)。
江戸時代以前の著名な読み物や古事、中国(当時だと唐か?)の伝承や神仙を題材にしたもの。
[上]
業平東下り図縁頭(なりひらあずまくだりずふちがしら)
銘:細野惣左衛門
作:細野政守/17-18世紀
東下りも含め、伊勢物語が題材にされたものはよく見かける気がする。それだけ当時は知っていて当たり前の話だったのだろうか。
細野政守(ほそのまさもり)は江戸中期の京金工。
細野氏。京の町の風景などを得意とした金工らしい。細密な毛彫平象嵌に特徴がある。
[左下]
業平東下り目貫(なりひらあずまくだりめぬき)
銘:
作:伝後藤程乗/18世紀
後藤程乗(ごとうていじょう)は後藤宗家九代目。後藤宗家七代目である顕乗の嫡子。
後藤覚乗と共に加賀前田家に出仕し、加賀金工の育成と藩の財務に携わったらしい。
[右下]
井出玉川図鐔(いでたまがわずつば)
銘:勝任(花押)
作:水戸金工/19世紀
歌枕とは、歌で詠まれた地名だが、それ以上に『あの』みたいなある種の憧れも含む言葉らしい。現代で言うなら映画やアニメの聖地巡礼先みたいな所という認識だろうか……?
で、井出玉川とは京都府綴喜郡井出町を流れる川であり、「六玉川」(歌枕になっている全国6ヶ所の玉川)の一つ。伊勢物語でも以下の句が登場している。
山城の井出の玉水手にむすび
たのみしかひもなき世なりけり
滅茶苦茶雑にまとめると、結婚の約束を女性に反故にされた男性の失恋の歌である。
他にも万葉集や古今和歌集にもここを詠んだ歌があり、西行法師、小野小町、紀貫之、後鳥羽院、松尾芭蕉などなど、錚々たる歌人がこの玉川を歌に詠んでいるらしい。
この鐔はどんな歌をイメージして彫ったのだろうか。 -
ここからは、中国の仙人を題材にした作品。
[左]
馬師皇図鐔(ばしこうずつば)
銘:一宮見龍子長義(花押)
作:一宮長義/18世紀
馬師皇は、中国の神話時代の馬医。
彼の元にあるとき一匹の龍が治療を求めて訪ねてきた。この馬師皇さんは「あ、治療して欲しいんだな」とこの龍を治してあげたそうだ。で、その後も度々龍が訪ねてきては治してあげていたそうだが、ある日このお医者さん、この龍の背に乗って姿を消してしまったという。
龍に乗って行ったので仙人になったとのことらしいが、頻繁に治療されに来るならお前の住処んとこ行った方が早いわなんて思ったのかなと、ちょっと思った。
鐔を見ると、赤丸のところで馬(龍)に鍼を指しているのが分かる。この展示のある博物館の元来の対象である競走馬への治療に、笹針というものがあるらしい。この鐔で馬師皇さんが行っている治療もそんな感じのものなのかも。
一宮長義は江戸中期の京金工。
一宮長常の門人。
[右]
馬師皇図鐔(ばしこうずつば)
銘:香雪軒友直
作:/19世紀
赤い銅で表された馬に(写真だと潰れて見えないが)金で表現した鍼を使って老人が治療を施しているのが分かる。視線の先には雲間から顔を覗かせる龍。
教養ある人だと「馬と龍+治療中の老人=馬師皇」って図式になるんだろう。 -
[上]
潘閬逆騎驢目貫(はんろうぎゃくきろめぬき)
銘:
作:後藤/18世紀
これは倒騎驢が題材になってる。
潘閬は古代中国の隠士。古代周の穆王(こくおう)に仕えていた潘閬は、あるとき冤罪で花山というところに追放になった。暫くして冤罪が解けて都に戻ることになったのだが、花山の風物が名残惜しく、驢馬に逆に乗って花山を見ながら都に戻ったという古事。
左の目貫の人物が通常とは逆に驢馬に乗ってるので、潘閬と分かる。
[中、下]
張果老図子柄(ちょうかろうずこづか)
銘:無銘
作:水戸金工/19世紀
張果老(名前は張果。老は敬称)は古代中国の著名な仙人、八仙の一人。一応史実にも出て来るらしい。(流石に仙人はないだろうけど) -
[上]
張果老図子柄(ちょうかろうずこづか)
銘:後藤光冶(花押)
作:後藤益乗/17世紀
張果老はかなり色々な伝承を持つ仙人で、その一つに
[下]
張果老図鐔(ちょうかろうずつば)
銘:古伸画 宗利彫
作:/18世紀
こちらも同じく張果老。けれど他の張果老と異なり、表(左)には瓢箪を逆さにする老人がいるだけで、馬の姿は見えない。何処かといば、裏返した鐔(右)の左下。
しかも表の瓢箪の傾けている方向(赤矢印)が丁度裏側の馬の位置(黄丸)に向けられていて、まるで瓢箪からポロッとこぼれた馬が茎孔を通って裏側に飛び出て来たかのように見える。 -
ここからは三国志演義を題材にした作品。
[上]
張飛長板橋図鐔(ちょうひちょうはんきょうずつば)
銘:
作:奈良/18世紀
長板橋の戦い。或いは長坂坡の戦い。
なんやかやあって劉備軍が江陵へ退却している最中、曹操軍が劉備軍に追いついた。殿を務めていた張飛が長板橋で立ち塞がり(かつ配下にあたかも大軍がこちらにいるかのように工作させて)曹操軍相手に一喝し、彼らを引き留めることに成功するという話。
鐔だと鞍上の張飛が今まさに曹操軍を一喝しているところなんだろう。馬も一緒になって睨め付けてる。歌舞伎の見栄を切っているように見えるのは、自分だけではないと思う。
[下]
騎馬関羽図鐔(きばかんうずつば)
銘:藤利寿
作:会津正阿弥/19世紀 -
玄徳檀渓図縁頭(げんとくだんけいずふちがしら)
銘:大森英秀(花押)
作:大森英秀/18世紀
ある宴会に出席した劉備が自身の暗殺計画を知り、自身の愛馬(的盧という、額に白い斑点があるタイプの馬。縁起が悪いとされている)に乗って逃げ出した。途中、檀渓(谷川)を越えようとしたところ流れが急で中々進めず、追手が迫ってきてヤバいというところで劉備が泣き言言いながら愛馬に鞭を入れると、その馬は檀渓を飛び越えたという話。
水の中(檀渓の中)で必死に鞭を入れる劉備は分かるけれど、この馬、自分には額に斑点があるようには見えない(赤丸)。 -
博物館手前のバス停でバスに乗ると、台地を降って元町や中華街の方にまで行ける。
せっかく横浜まで来たので、中華街で食事して帰った。丁度春節の時期だったため、提灯などで街の飾りが賑やか。コロナの影響で、人はあまりいなかったが。
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