岸和田・貝塚旅行記(ブログ) 一覧に戻る
さて、今回は恒例の日本100名城めぐり<br />などと書くと、自称4トラのモテ男の旅<br />行記のパクリになってしまうので、そん<br />なことは真っ赤なウソで、帰省した際に<br />地元の歴史的なところを数か所見て回っ<br />た旅行記である。<br /><br />実家に帰ったのは、20年ぶりくらいでは<br />ないかと思う。前に帰ったのは叔母さん<br />の葬式に出るためだった。<br /><br />そして、今回は親父が急死したので、法<br />事の準備のための帰省となった。<br /><br />もう90を過ぎているし、いつ死んでもお<br />かしくなかったのだが、あと1~2年は<br />大丈夫だろうと言われていたので、別に<br />気にもしていなかった。それが、母親か<br />ら電話で「お父ちゃん死んだんや」とい<br />われ、「死んだ!?」と言ったあと、絶<br />句してしまった。はっきり言って男同士<br />だし、「尊敬する人は?」と聞かれて、<br />「父です」と答えるような間柄ではない<br />ので、絶句したくらいで、それ以上の感<br />慨はなかった。性格的に全く合わないし、<br />一つ屋根の下で暮らせるような関係では<br />なかった。若いころ、よく家庭内暴力に<br />走らなかったなと思う。<br /><br />葬式は、コロナということもあり、家族<br />と親戚一部を呼んで行ったらしい。<br /><br />しかし、法事くらいは戻ってこいと言わ<br />れたので、久しぶりに帰ることにした。<br /><br /><br />

生まれ故郷の歴史探訪(大阪府岸和田市)

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2022/09/03 - 2022/09/04

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ハイペリオン

ハイペリオンさん

さて、今回は恒例の日本100名城めぐり
などと書くと、自称4トラのモテ男の旅
行記のパクリになってしまうので、そん
なことは真っ赤なウソで、帰省した際に
地元の歴史的なところを数か所見て回っ
た旅行記である。

実家に帰ったのは、20年ぶりくらいでは
ないかと思う。前に帰ったのは叔母さん
の葬式に出るためだった。

そして、今回は親父が急死したので、法
事の準備のための帰省となった。

もう90を過ぎているし、いつ死んでもお
かしくなかったのだが、あと1~2年は
大丈夫だろうと言われていたので、別に
気にもしていなかった。それが、母親か
ら電話で「お父ちゃん死んだんや」とい
われ、「死んだ!?」と言ったあと、絶
句してしまった。はっきり言って男同士
だし、「尊敬する人は?」と聞かれて、
「父です」と答えるような間柄ではない
ので、絶句したくらいで、それ以上の感
慨はなかった。性格的に全く合わないし、
一つ屋根の下で暮らせるような関係では
なかった。若いころ、よく家庭内暴力に
走らなかったなと思う。

葬式は、コロナということもあり、家族
と親戚一部を呼んで行ったらしい。

しかし、法事くらいは戻ってこいと言わ
れたので、久しぶりに帰ることにした。


旅行の満足度
5.0
観光
4.0
ホテル
5.0
交通
3.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
ANAグループ JRローカル
旅行の手配内容
個別手配
利用旅行会社
楽天トラベル

PR

  • 関西空港から30分弱で東岸和田<br />駅に着いた。<br /><br />昔は貧相な田舎駅という雰囲気<br />だったが、ずいぶん様変わりし<br />ている。<br /><br />しかし、駅の見かけは立派だが、<br />周囲には飲食店がほとんど見当<br />たらない。<br /><br />子どもの頃よく通ったショッピ<br />ングモールもなくなってしまっ<br />ていた。

    関西空港から30分弱で東岸和田
    駅に着いた。

    昔は貧相な田舎駅という雰囲気
    だったが、ずいぶん様変わりし
    ている。

    しかし、駅の見かけは立派だが、
    周囲には飲食店がほとんど見当
    たらない。

    子どもの頃よく通ったショッピ
    ングモールもなくなってしまっ
    ていた。

  • 駅の玄関は、岸和田祭りのだんじ<br />りの屋根をかたどったもの。<br /><br />何でもかんでもだんじりにすりゃ<br />ええっちゅうもんやないぞ。

    駅の玄関は、岸和田祭りのだんじ
    りの屋根をかたどったもの。

    何でもかんでもだんじりにすりゃ
    ええっちゅうもんやないぞ。

  • 駅近くの唯一のホテル、ホテルルー<br />トイン東岸和田。<br /><br />実家は兄夫婦がいるし、実家の布団<br />で寝ると変な夢を見るので、ホテル<br />に泊まることにした。<br /><br />霊感などとは一切無縁の人間だが、<br />おそらく実家の布団が重いので、そ<br />れで圧迫されるのではないかと思う。

    駅近くの唯一のホテル、ホテルルー
    トイン東岸和田。

    実家は兄夫婦がいるし、実家の布団
    で寝ると変な夢を見るので、ホテル
    に泊まることにした。

    霊感などとは一切無縁の人間だが、
    おそらく実家の布団が重いので、そ
    れで圧迫されるのではないかと思う。

  • 楽天トラベルで航空券と一緒に予約<br />したので、正確な値段はよくわから<br />ないが、朝食バイキング付きで5千<br />円くらい。<br /><br />シングルルームだからあまり広くな<br />いが、これで十分。

    楽天トラベルで航空券と一緒に予約
    したので、正確な値段はよくわから
    ないが、朝食バイキング付きで5千
    円くらい。

    シングルルームだからあまり広くな
    いが、これで十分。

  • ホテルのバイキングで朝食を済ませ<br />た。バイキングって人間性が出るよ<br />なあ。若くてけっこうかわいい女の<br />子が、どんぶりにから揚げを富士山<br />のようにてんこ盛り、おまけにオレ<br />ンジジュースをコップに5杯。どん<br />な朝めしだよ。<br /><br />さて、東岸和田駅から天神山町を通<br />るバスに乗り、天神山三丁目で下車。<br />バスは1時間に1本しかなかった。<br /><br />ここは半世紀前に団地と住宅地を建<br />てるために原野と丘を切り拓いた所<br />である。<br /><br />「天神山」という名称がいかにもダ<br />サく、当時は不評だった。<br /><br />さらに、団地内には下っ端のヤーさ<br />んがけっこう住んでいるという噂が<br />あった。<br /><br />当時からすでにシノギが厳しかった<br />のか、ヤクザも団地住まいになって<br />いたのである。

    ホテルのバイキングで朝食を済ませ
    た。バイキングって人間性が出るよ
    なあ。若くてけっこうかわいい女の
    子が、どんぶりにから揚げを富士山
    のようにてんこ盛り、おまけにオレ
    ンジジュースをコップに5杯。どん
    な朝めしだよ。

    さて、東岸和田駅から天神山町を通
    るバスに乗り、天神山三丁目で下車。
    バスは1時間に1本しかなかった。

    ここは半世紀前に団地と住宅地を建
    てるために原野と丘を切り拓いた所
    である。

    「天神山」という名称がいかにもダ
    サく、当時は不評だった。

    さらに、団地内には下っ端のヤーさ
    んがけっこう住んでいるという噂が
    あった。

    当時からすでにシノギが厳しかった
    のか、ヤクザも団地住まいになって
    いたのである。

  • 周囲にはこんな感じで、こんもりと<br />盛り土したような森がある。<br />

    周囲にはこんな感じで、こんもりと
    盛り土したような森がある。

  • ぼくの進行方向にも、木々で覆われた<br />丘がある。<br /><br />じつはこれらは古墳なのである。

    ぼくの進行方向にも、木々で覆われた
    丘がある。

    じつはこれらは古墳なのである。

  • ちょっと遠くから見るとこんな感じ。<br /><br />丘が二つ並んでいて、出来損ないの前方<br />後円墳のような形をしている。子どもの<br />頃は前方後円墳だと教えられてきたのだ<br />が、後の研究では円墳であるとされた。<br /><br />この古墳を大山大塚遺跡公園と呼ばれ、<br />一応、岸和田市が管理している。<br /><br />ということで、古墳の中に分け入って<br />みよう。ここは皇族の墓ではなく、お<br />そらく在地の有力者の墓だったので、<br />勝手に入っても構わないのだ。

    ちょっと遠くから見るとこんな感じ。

    丘が二つ並んでいて、出来損ないの前方
    後円墳のような形をしている。子どもの
    頃は前方後円墳だと教えられてきたのだ
    が、後の研究では円墳であるとされた。

    この古墳を大山大塚遺跡公園と呼ばれ、
    一応、岸和田市が管理している。

    ということで、古墳の中に分け入って
    みよう。ここは皇族の墓ではなく、お
    そらく在地の有力者の墓だったので、
    勝手に入っても構わないのだ。

  • 住宅地の裏手にはゾウ公園という奇妙な<br />公園というか、ただの広場があった。

    住宅地の裏手にはゾウ公園という奇妙な
    公園というか、ただの広場があった。

  • ゾウのオブジェが置かれているだけの広場<br />で、遊びに来る子供たちもいないことが、<br />ぼうぼうの雑草でよくわかる。

    ゾウのオブジェが置かれているだけの広場
    で、遊びに来る子供たちもいないことが、
    ぼうぼうの雑草でよくわかる。

  • この階段が古墳の中へ行く道のようだ。<br /><br />しかし、内部は笹と雑草で覆われ、ほ<br />とんど獣道状態。<br /><br />おまけにやぶ蚊の襲来を受け、腕や首<br />筋を掻きながら歩いた。<br /><br />「公園」なんだからちゃんと整備しと<br />けよ。(ゾウ公園もな!)

    この階段が古墳の中へ行く道のようだ。

    しかし、内部は笹と雑草で覆われ、ほ
    とんど獣道状態。

    おまけにやぶ蚊の襲来を受け、腕や首
    筋を掻きながら歩いた。

    「公園」なんだからちゃんと整備しと
    けよ。(ゾウ公園もな!)

  • ここは、この付近の有力者の墓とさ<br />れているが、なぜかもう一人葬られ<br />ている者がいる。<br /><br />捕鳥部萬(とっとりべのよろず)が<br />その人物の名前である。<br /><br />生まれた年は不明、没年は587年と<br />思われる。<br /><br />捕鳥部萬は物部守屋に仕える武将で、<br />100人程度の部下を従えていた。<br /><br />587年に勃発した、物部守屋と蘇我馬<br />子、厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳<br />太子)との戦争、丁未の乱において、<br />難波にあった守屋の居宅を守っていた<br />とされている。<br /><br />この戦争は、教科書には仏教を導入す<br />るか否かの対立から生じた戦争とされ<br />ているが、実際には皇位継承戦争である。<br /><br />穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立<br />しようとする物部守屋に対し、それに<br />反対する蘇我馬子、厩戸皇子らの戦い<br />である。<br /><br />物部氏の一族は現在の八尾市あたりを<br />根拠地としており、この付近の衣摺の<br />戦に敗れ、守屋含め一族は滅ぼされた。<br /><br />

    ここは、この付近の有力者の墓とさ
    れているが、なぜかもう一人葬られ
    ている者がいる。

    捕鳥部萬(とっとりべのよろず)が
    その人物の名前である。

    生まれた年は不明、没年は587年と
    思われる。

    捕鳥部萬は物部守屋に仕える武将で、
    100人程度の部下を従えていた。

    587年に勃発した、物部守屋と蘇我馬
    子、厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳
    太子)との戦争、丁未の乱において、
    難波にあった守屋の居宅を守っていた
    とされている。

    この戦争は、教科書には仏教を導入す
    るか否かの対立から生じた戦争とされ
    ているが、実際には皇位継承戦争である。

    穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立
    しようとする物部守屋に対し、それに
    反対する蘇我馬子、厩戸皇子らの戦い
    である。

    物部氏の一族は現在の八尾市あたりを
    根拠地としており、この付近の衣摺の
    戦に敗れ、守屋含め一族は滅ぼされた。

  • 物部一族討滅の報を受けた萬は、夜中<br />に単独で難波を離れ、奥さんの出身地<br />のこのあたりに逃げて潜伏した。<br /><br />この付近を当時は有真香邑(ありまか<br />むら、またはあまかむら)と呼んでいた。<br /><br />有真香邑はこのあたりから、貝塚市<br />の一部までを含む、現在なら一つの<br />市として成立しそうな広大なエリア<br />である。<br /><br />現在でも「有真香」という呼称は使<br />われている。

    物部一族討滅の報を受けた萬は、夜中
    に単独で難波を離れ、奥さんの出身地
    のこのあたりに逃げて潜伏した。

    この付近を当時は有真香邑(ありまか
    むら、またはあまかむら)と呼んでいた。

    有真香邑はこのあたりから、貝塚市
    の一部までを含む、現在なら一つの
    市として成立しそうな広大なエリア
    である。

    現在でも「有真香」という呼称は使
    われている。

  • しかし、蘇我方の残党狩りは執拗で、<br />数十人からなる追及の部隊がここまで<br />やって来た。<br /><br />捕鳥部萬は、たった一人で雑木林の中<br />でゲリラ戦を行い、蘇我方の兵士を何<br />人も射殺したという。まるでランボー<br />である。<br /><br />しかしさすがに多勢に無勢。最後は木<br />の上から弓で射かけていたところを討<br />たれ、斬られた。<br /><br />当然首は斬られたが、萬が飼っていた<br />白犬が首を咥えて、威嚇するので、蘇<br />我兵はそこで引き上げた。

    しかし、蘇我方の残党狩りは執拗で、
    数十人からなる追及の部隊がここまで
    やって来た。

    捕鳥部萬は、たった一人で雑木林の中
    でゲリラ戦を行い、蘇我方の兵士を何
    人も射殺したという。まるでランボー
    である。

    しかしさすがに多勢に無勢。最後は木
    の上から弓で射かけていたところを討
    たれ、斬られた。

    当然首は斬られたが、萬が飼っていた
    白犬が首を咥えて、威嚇するので、蘇
    我兵はそこで引き上げた。

  • その捕鳥部萬の墓が、この古墳の中にあ<br />るというのだが、場所がさっぱりわから<br />ない。<br /><br />しかし、googleマップで「捕鳥部萬 墓」<br />で検索すれば、たちどころに場所が表示<br />された。<br /><br />どうやら、古墳の頂上あたりにありそうだ。

    その捕鳥部萬の墓が、この古墳の中にあ
    るというのだが、場所がさっぱりわから
    ない。

    しかし、googleマップで「捕鳥部萬 墓」
    で検索すれば、たちどころに場所が表示
    された。

    どうやら、古墳の頂上あたりにありそうだ。

  • 雑木林に覆われて薄暗く笹と雑草だらけ<br />の獣道を蚊に生き血をささげながら登る<br />と碑のようなものが見えてきた。<br /><br />どうやら墓もここにあるようだ。<br /><br /><br />

    雑木林に覆われて薄暗く笹と雑草だらけ
    の獣道を蚊に生き血をささげながら登る
    と碑のようなものが見えてきた。

    どうやら墓もここにあるようだ。


  • 硯のような形の頑丈な石に、びっしりと文<br />字が彫られている。

    硯のような形の頑丈な石に、びっしりと文
    字が彫られている。

  • 碑名は「捕鳥部萬碑」。<br /><br />碑文は江戸末から明治時代を生きた公爵、<br />三条実美という人物によるもの。<br /><br />文字はほとんど読み取れない。

    碑名は「捕鳥部萬碑」。

    碑文は江戸末から明治時代を生きた公爵、
    三条実美という人物によるもの。

    文字はほとんど読み取れない。

  • 右側に石段があり、その上に墓石があった。

    右側に石段があり、その上に墓石があった。

  • これが捕鳥部萬の墓である。<br /><br />古墳自体は笹と雑草でぼうぼうだが、碑<br />と墓の周囲はきれいにされていた。<br /><br />古墳のすぐ近くに、萬の奥さんの子孫と<br />される方が住んでいて、ずっと墓守をし<br />ているらしい。<br /><br />千年以上前から墓守をずっと続けている<br />なんてすごい話だ。<br /><br />塚元さんという方らしいのだが、この辺<br />一帯の土地を持っておられるようで、天<br />神山に団地と住宅地を造成する際には、<br />古墳を遺跡公園にすることで承知したら<br />しい。<br /><br />中学の同級生に塚元という男がいて、彼<br />の家はかなり大きかった。あいつのこと<br />だろうか。でも、チビでいじめられっ子<br />だった。<br /><br />ちなみに、萬の首を抱いて守った白犬は<br />もう一つの丘陵部に「義犬塚」として祀<br />られている。

    これが捕鳥部萬の墓である。

    古墳自体は笹と雑草でぼうぼうだが、碑
    と墓の周囲はきれいにされていた。

    古墳のすぐ近くに、萬の奥さんの子孫と
    される方が住んでいて、ずっと墓守をし
    ているらしい。

    千年以上前から墓守をずっと続けている
    なんてすごい話だ。

    塚元さんという方らしいのだが、この辺
    一帯の土地を持っておられるようで、天
    神山に団地と住宅地を造成する際には、
    古墳を遺跡公園にすることで承知したら
    しい。

    中学の同級生に塚元という男がいて、彼
    の家はかなり大きかった。あいつのこと
    だろうか。でも、チビでいじめられっ子
    だった。

    ちなみに、萬の首を抱いて守った白犬は
    もう一つの丘陵部に「義犬塚」として祀
    られている。

  • 捕鳥部萬については、調べるといろいろ<br />な疑問点が出てくる。<br /><br />物部守屋に仕えていたというが、100人<br />もの部下を従えて、なぜ難波にいたのか。<br /><br />戦争は東にある守屋の本拠地で行われて<br />いたのにである。<br /><br />彼は殺される間際に次のようなことを叫<br />んだという。<br /><br />「私は天皇の盾となって働いてきた。<br />なのに、それを咎めるとはどういうこと<br />なのだ。捕らえる、殺すは私の言い分を<br />聞いてからにしてくれ」。<br /><br />そこには、主の守屋は全く出て来ない。<br />天皇に対する忠誠を感じさせる言葉だ<br />けである。<br /><br />そして、萬を討ち取ったと飛鳥に報告<br />すると、「遺体を八つに切り裂き、串<br />刺しにして8国にばらまけ」との命令<br />が来た。<br /><br />物部守屋でさえそんな目に遭わされて<br />いないのに、死んでそこまでされると<br />は、朝廷側は萬の存在を恐れていたと<br />しか思えない。単なる守屋の有力家臣<br />の一人とは思えないのである。<br /><br />

    捕鳥部萬については、調べるといろいろ
    な疑問点が出てくる。

    物部守屋に仕えていたというが、100人
    もの部下を従えて、なぜ難波にいたのか。

    戦争は東にある守屋の本拠地で行われて
    いたのにである。

    彼は殺される間際に次のようなことを叫
    んだという。

    「私は天皇の盾となって働いてきた。
    なのに、それを咎めるとはどういうこと
    なのだ。捕らえる、殺すは私の言い分を
    聞いてからにしてくれ」。

    そこには、主の守屋は全く出て来ない。
    天皇に対する忠誠を感じさせる言葉だ
    けである。

    そして、萬を討ち取ったと飛鳥に報告
    すると、「遺体を八つに切り裂き、串
    刺しにして8国にばらまけ」との命令
    が来た。

    物部守屋でさえそんな目に遭わされて
    いないのに、死んでそこまでされると
    は、朝廷側は萬の存在を恐れていたと
    しか思えない。単なる守屋の有力家臣
    の一人とは思えないのである。

  • そもそも、武将一人を斬るために100<br />人近い追っ手を差し向けるとは大げさ<br />すぎないか? 確かに萬は100人の家<br />来を召し抱えていた。しかし、単独で<br />逃亡したことははっきりしている。<br /><br />100人の家来を持つ武人、大人数で構<br />成された朝廷側の追っ手、斬られる間<br />際の言葉。これらのエピソードは、捕<br />鳥部萬という人物が、現在この周辺で<br />伝えられているイメージとはずいぶん<br />異なるものを浮かび上がらせる。

    そもそも、武将一人を斬るために100
    人近い追っ手を差し向けるとは大げさ
    すぎないか? 確かに萬は100人の家
    来を召し抱えていた。しかし、単独で
    逃亡したことははっきりしている。

    100人の家来を持つ武人、大人数で構
    成された朝廷側の追っ手、斬られる間
    際の言葉。これらのエピソードは、捕
    鳥部萬という人物が、現在この周辺で
    伝えられているイメージとはずいぶん
    異なるものを浮かび上がらせる。

  • 古墳を出て村のある方へ歩くと、だん<br />じり囃しが聞こえてきた。<br /><br />街道近くの神須屋(こうずや)町のだ<br />んじりが小屋引き出されていた。<br /><br />10月の本番に向けて、整備や掃除でも<br />しているのだろうか。

    古墳を出て村のある方へ歩くと、だん
    じり囃しが聞こえてきた。

    街道近くの神須屋(こうずや)町のだ
    んじりが小屋引き出されていた。

    10月の本番に向けて、整備や掃除でも
    しているのだろうか。

  • 街道を大阪湾方面に下り、府道、通称<br />小栗街道を大坂方面へ向かった。<br /><br />ここは、小松里(こまつり)町の交差<br />点。<br /><br />関係ないけど我が母校、大阪府立久米<br />田高等学校はここを左折したところに<br />ある。<br /><br />高校野球の予選はだいたい2回戦で負<br />けるような、何をやらせても中途半端<br />なヤンキー高校だったが、ダンス部が<br />今年のだんすこうしえん日本高校ダン<br />ス部選手権で優勝した。2年連続準優<br />勝で、3度目の正直で優勝。卒業生か<br />らすれば、ありえないことである。お<br />そらく、コーチに優秀な人がいるんだ<br />ろう。

    街道を大阪湾方面に下り、府道、通称
    小栗街道を大坂方面へ向かった。

    ここは、小松里(こまつり)町の交差
    点。

    関係ないけど我が母校、大阪府立久米
    田高等学校はここを左折したところに
    ある。

    高校野球の予選はだいたい2回戦で負
    けるような、何をやらせても中途半端
    なヤンキー高校だったが、ダンス部が
    今年のだんすこうしえん日本高校ダン
    ス部選手権で優勝した。2年連続準優
    勝で、3度目の正直で優勝。卒業生か
    らすれば、ありえないことである。お
    そらく、コーチに優秀な人がいるんだ
    ろう。

  • 交差点のすぐ近くにあるのが清原和博<br />(西武→読売→覚せい剤取締法違反)の<br />生家跡(笑)。<br /><br />昔ここに「清原電気店」という電気屋が<br />あったのだが、完全に更地になっている。<br /><br />学校帰りにここで電池やカセットテープ<br />を買って帰ったのだが、あの店にあんな<br />のがいたとはなあ。<br /><br />清原が西武に入団した際、球団へ納入す<br />電気製品はすべて清原の親父の店が請け<br />ることにしたという。おかげで蒸しじゃ<br />が以上に懐はホクホクだったようだ。<br /><br />その後一家は芦屋に引っ越したと聞いた。<br /><br />多分清原は自分に甘い人間のようだから、<br />クスリは今も時々やっているんじゃない<br />かと思う。

    交差点のすぐ近くにあるのが清原和博
    (西武→読売→覚せい剤取締法違反)の
    生家跡(笑)。

    昔ここに「清原電気店」という電気屋が
    あったのだが、完全に更地になっている。

    学校帰りにここで電池やカセットテープ
    を買って帰ったのだが、あの店にあんな
    のがいたとはなあ。

    清原が西武に入団した際、球団へ納入す
    電気製品はすべて清原の親父の店が請け
    ることにしたという。おかげで蒸しじゃ
    が以上に懐はホクホクだったようだ。

    その後一家は芦屋に引っ越したと聞いた。

    多分清原は自分に甘い人間のようだから、
    クスリは今も時々やっているんじゃない
    かと思う。

  • 小松里の交差点を右折して、数分行くと、<br />巨大な溜め池がある。<br /><br />これが久米田池。一周2.6キロもある池で<br />ある。<br /><br />香川県の満濃池に次ぐ大きさである。

    小松里の交差点を右折して、数分行くと、
    巨大な溜め池がある。

    これが久米田池。一周2.6キロもある池で
    ある。

    香川県の満濃池に次ぐ大きさである。

  • 満濃池が作られたのが701年、この久米田<br />池は725年。ほぼ同時期である。<br /><br />聖武天皇が仏僧、行基に掘削を命じ、3年<br />間の工事を経て完成した。<br /><br />行基は奈良の大仏造立の実質的責任者だが、<br />近畿を中心に15の溜め池を作るなど、社会<br />整備事業も行っている。

    満濃池が作られたのが701年、この久米田
    池は725年。ほぼ同時期である。

    聖武天皇が仏僧、行基に掘削を命じ、3年
    間の工事を経て完成した。

    行基は奈良の大仏造立の実質的責任者だが、
    近畿を中心に15の溜め池を作るなど、社会
    整備事業も行っている。

  • 穴を掘ってそこに水を呼び込んだのではな<br />く、三方が高くなっている場所で、そこを<br />川が流れていたので、一角だけ堤を築き、<br />堰き止める形にしたという。<br /><br />向こう岸がその堤の部分にあたる。<br /><br />

    穴を掘ってそこに水を呼び込んだのではな
    く、三方が高くなっている場所で、そこを
    川が流れていたので、一角だけ堤を築き、
    堰き止める形にしたという。

    向こう岸がその堤の部分にあたる。

  • 高校生の時、ここをいつも2周走っていた。<br /><br />40年近く前なので、大阪の片田舎のこの辺<br />では、ジョギングなどというハイカラ(?)<br />な文化はなく、街灯のない暗い堤の上を走<br />っていた。<br /><br />おかげで冬のマラソン大会では好成績を収<br />めることができた。

    高校生の時、ここをいつも2周走っていた。

    40年近く前なので、大阪の片田舎のこの辺
    では、ジョギングなどというハイカラ(?)
    な文化はなく、街灯のない暗い堤の上を走
    っていた。

    おかげで冬のマラソン大会では好成績を収
    めることができた。

  • 久米田池から和泉市方向に自転車を走らせ、<br />摩湯町というところまでやって来た。<br /><br />ここには、摩湯山古墳という前方後円墳が<br />ある。

    久米田池から和泉市方向に自転車を走らせ、
    摩湯町というところまでやって来た。

    ここには、摩湯山古墳という前方後円墳が
    ある。

  • 交差点の少し先に周濠とともに古墳が見え<br />てきた。

    交差点の少し先に周濠とともに古墳が見え
    てきた。

  • 前方後円墳とはいうものの、上空から見る<br />とこんな感じ。<br /><br />造りかけでほったらかしにされような形だ。<br /><br />細長く伸びる丘陵のしっぽの部分(下の部<br />分)を切って堀をめぐらせたのだろうとさ<br />れている。<br /><br />前方後円墳というと、大阪の百舌鳥古市古<br />墳群の前方後円墳を想像するが、このよう<br />ないびつな形のものも多い。<br /><br /><br /><br />

    前方後円墳とはいうものの、上空から見る
    とこんな感じ。

    造りかけでほったらかしにされような形だ。

    細長く伸びる丘陵のしっぽの部分(下の部
    分)を切って堀をめぐらせたのだろうとさ
    れている。

    前方後円墳というと、大阪の百舌鳥古市古
    墳群の前方後円墳を想像するが、このよう
    ないびつな形のものも多い。



  • 周濠の堤のの上を歩いてみた。<br /><br />この先は道はついていないが、そのまま古<br />墳の中へつながっている。

    周濠の堤のの上を歩いてみた。

    この先は道はついていないが、そのまま古
    墳の中へつながっている。

  • この辺りは前方後円墳のくぼみのように見<br />えなくもない。<br /><br />

    この辺りは前方後円墳のくぼみのように見
    えなくもない。

  • ここが古墳の中への入り口。<br /><br />現在は立入禁止となっている。<br /><br />昔は、市内の小学生にとっては遠足コース<br />だった。<br /><br />5年生の頃ここまで歩かされたが、往復で<br />10キロ以上あったと思う。とにかく疲れた<br />ことだけは覚えている。<br /><br />

    ここが古墳の中への入り口。

    現在は立入禁止となっている。

    昔は、市内の小学生にとっては遠足コース
    だった。

    5年生の頃ここまで歩かされたが、往復で
    10キロ以上あったと思う。とにかく疲れた
    ことだけは覚えている。

  • 摩湯山古墳が作られたのは、4世紀末期と<br />されている。<br /><br />天皇で言えば、仁賢、武烈両天皇の時代に<br />あたる。<br /><br />葬られているのはもちろん皇族ではなく、<br />地元の有力者である。<br /><br />しかし、久米田池や天神山の古墳もそう<br />だが、5世紀ごろに大阪の南部でこれだ<br />けのものを造る人員を動員していたこと<br />に驚かされる。<br /><br />大阪南部は古代にはJR阪和線の手前ま<br />でが海で、そのあたりに人口は集中して<br />おり、住宅地を造成しようものなら、弥<br />生時代から飛鳥時代の住居跡がぼろぼろ<br />と出てくる。<br /><br />穴を掘ったら遺跡に当たる状態で、ヘタ<br />に遺跡に当たったりしたらそこで工事は<br />中断、不動産屋は頭を抱えるような状況<br />がしょっちゅうだったのだ。<br /><br />おそらく、当時としては相当な人口密集<br />地帯だったのだろう。<br /><br />そして、飛鳥地方との交流も盛んで、都<br />周辺で造られた古墳を見た者がいたに違<br />いない。<br />

    摩湯山古墳が作られたのは、4世紀末期と
    されている。

    天皇で言えば、仁賢、武烈両天皇の時代に
    あたる。

    葬られているのはもちろん皇族ではなく、
    地元の有力者である。

    しかし、久米田池や天神山の古墳もそう
    だが、5世紀ごろに大阪の南部でこれだ
    けのものを造る人員を動員していたこと
    に驚かされる。

    大阪南部は古代にはJR阪和線の手前ま
    でが海で、そのあたりに人口は集中して
    おり、住宅地を造成しようものなら、弥
    生時代から飛鳥時代の住居跡がぼろぼろ
    と出てくる。

    穴を掘ったら遺跡に当たる状態で、ヘタ
    に遺跡に当たったりしたらそこで工事は
    中断、不動産屋は頭を抱えるような状況
    がしょっちゅうだったのだ。

    おそらく、当時としては相当な人口密集
    地帯だったのだろう。

    そして、飛鳥地方との交流も盛んで、都
    周辺で造られた古墳を見た者がいたに違
    いない。

  • さて、古墳めぐりのあと、南海岸和田駅<br />前までやって来た。<br /><br />この駅も昔と違ってずいぶん様変わりした。

    さて、古墳めぐりのあと、南海岸和田駅
    前までやって来た。

    この駅も昔と違ってずいぶん様変わりした。

  • 駅から海側に伸びる駅前通り商店街。

    駅から海側に伸びる駅前通り商店街。

  • アーケードが高いのは、祭りのとき、こ<br />こをだんじりが通るため。<br /><br />日曜の午後だというのに、あまりにも人<br />通りの少なさに愕然とする。<br /><br />昔はもっと賑わっていたはずなんだがなあ。

    アーケードが高いのは、祭りのとき、こ
    こをだんじりが通るため。

    日曜の午後だというのに、あまりにも人
    通りの少なさに愕然とする。

    昔はもっと賑わっていたはずなんだがなあ。

  • よくレコードを買いに来たレコード店<br />「ヤング」(笑)。<br /><br />今となってはおじんくささ満点の店名。<br /><br />レコード店自体が現在では成り立ちに<br />くい商売で、ほとんどが演歌のCD売<br />って細々と生きている状態になってし<br />まった。

    よくレコードを買いに来たレコード店
    「ヤング」(笑)。

    今となってはおじんくささ満点の店名。

    レコード店自体が現在では成り立ちに
    くい商売で、ほとんどが演歌のCD売
    って細々と生きている状態になってし
    まった。

  • ここのドル箱はだんじり祭りのDVD<br />のようだ。<br /><br /><br /><br />

    ここのドル箱はだんじり祭りのDVD
    のようだ。



  • 商店街を端まで歩き、国道26号線を<br />渡り、路地を歩いているとこんなも<br />のを見つけた。<br /><br />十数年前に放送された、NHKの朝<br />ドラ「カーネーション」のロケ現場<br />だったところらしい。<br /><br />「カーネーション」はファッション<br />デザイナーのコシノ三姉妹の母、小<br />篠綾子を描いたドラマである。<br /><br />三姉妹は五軒家町の生まれというか<br />ら、おそらくこの付近に違いない。

    商店街を端まで歩き、国道26号線を
    渡り、路地を歩いているとこんなも
    のを見つけた。

    十数年前に放送された、NHKの朝
    ドラ「カーネーション」のロケ現場
    だったところらしい。

    「カーネーション」はファッション
    デザイナーのコシノ三姉妹の母、小
    篠綾子を描いたドラマである。

    三姉妹は五軒家町の生まれというか
    ら、おそらくこの付近に違いない。

  • 軽自動車1台が通れるかどうかの路地<br />を行ったところにお寺がある。

    軽自動車1台が通れるかどうかの路地
    を行ったところにお寺がある。

  • 臨済宗妙心寺派のお寺、本徳寺。<br /><br />元々は隣の貝塚市にあった海雲寺が戦火<br />に遭い、ここに移され、本徳寺と名を変<br />えたものである。<br /><br />この寺がどうしたかというと、ここには<br />これが所蔵されているのである。<br /> ↓   ↓   ↓

    臨済宗妙心寺派のお寺、本徳寺。

    元々は隣の貝塚市にあった海雲寺が戦火
    に遭い、ここに移され、本徳寺と名を変
    えたものである。

    この寺がどうしたかというと、ここには
    これが所蔵されているのである。
     ↓   ↓   ↓

  • 昨年はやたらテレビで見かけた、明智光<br />秀の肖像画である。

    昨年はやたらテレビで見かけた、明智光
    秀の肖像画である。

  • なぜここにこんなものがあるのかという<br />と、明智光秀の長男、明智光慶が光秀が<br />討ち死にした山崎の合戦後出家し、妙心<br />寺派の僧侶となり、南国梵桂という名で<br />海雲寺にやって来て、絵師に描かせたと<br />言われているのだ。<br /><br />光慶に関しては山崎の合戦で光秀が討ち<br />死にした日に病死したと言われているが、<br />ドンピシャのタイミングだけにどうもお<br />かしいとは言われ続けている。<br /><br />さらに、実は光秀は落ち延びて、雲海寺<br />までやって来て、光慶(南国梵桂)の保<br />護の下、隠棲していたという都市伝説も<br />ある。<br /><br />昨年の大河ドラマ「麒麟が来る」のラス<br />トも長谷川博己が馬に乗って駆けていく<br />思わせぶりなシーンで終わっていて、光<br />秀生存説を匂わせるようなだった。

    なぜここにこんなものがあるのかという
    と、明智光秀の長男、明智光慶が光秀が
    討ち死にした山崎の合戦後出家し、妙心
    寺派の僧侶となり、南国梵桂という名で
    海雲寺にやって来て、絵師に描かせたと
    言われているのだ。

    光慶に関しては山崎の合戦で光秀が討ち
    死にした日に病死したと言われているが、
    ドンピシャのタイミングだけにどうもお
    かしいとは言われ続けている。

    さらに、実は光秀は落ち延びて、雲海寺
    までやって来て、光慶(南国梵桂)の保
    護の下、隠棲していたという都市伝説も
    ある。

    昨年の大河ドラマ「麒麟が来る」のラス
    トも長谷川博己が馬に乗って駆けていく
    思わせぶりなシーンで終わっていて、光
    秀生存説を匂わせるようなだった。

  • 本徳寺は個人の住宅と一体化した形になっ<br />ており、中に入ることはできなかった。

    本徳寺は個人の住宅と一体化した形になっ
    ており、中に入ることはできなかった。

  • 焼けた海雲寺を岸和田の五軒屋町に移すこ<br />とを命じたのが、ここ岸和田城の二代目当<br />主、岡部行隆である。

    焼けた海雲寺を岸和田の五軒屋町に移すこ
    とを命じたのが、ここ岸和田城の二代目当
    主、岡部行隆である。

  • 岸和田市の唯一無二というか、これしかな<br />いランドマークである。

    岸和田市の唯一無二というか、これしかな
    いランドマークである。

  • 四方を堀に囲まれており、入り口はこの大手<br />門のみ。

    四方を堀に囲まれており、入り口はこの大手
    門のみ。

  • 入ると三層の本丸が見えた。

    入ると三層の本丸が見えた。

  • 本丸の正面にははきれいに整備された庭がある。<br /><br />作庭家の重森三玲という人が昭和28年に作っ<br />た八陣の庭。<br /><br />三国志の英雄、諸葛孔明が考案した八卦の陣<br />をイメージしたものらしい。

    本丸の正面にははきれいに整備された庭がある。

    作庭家の重森三玲という人が昭和28年に作っ
    た八陣の庭。

    三国志の英雄、諸葛孔明が考案した八卦の陣
    をイメージしたものらしい。

  • これが天守閣から見た八陣の庭。<br /><br />八卦の陣からどうイメージしたのか、さっばり<br />わからない。<br /><br />(金網が遠いところに張り巡らされており、思<br />いっきり手を伸ばして金網をボケさせようとし<br />たが、これが限度)

    これが天守閣から見た八陣の庭。

    八卦の陣からどうイメージしたのか、さっばり
    わからない。

    (金網が遠いところに張り巡らされており、思
    いっきり手を伸ばして金網をボケさせようとし
    たが、これが限度)

  • 細かい玉砂利には精緻な文様が描かれていた。

    細かい玉砂利には精緻な文様が描かれていた。

  • これが、岸和田城の歴代当主。<br /><br />確か最後の当主が明治維新後文部大臣に<br />就任したと聞いた。もうヨボヨボのじい<br />さんだったらしい。

    これが、岸和田城の歴代当主。

    確か最後の当主が明治維新後文部大臣に
    就任したと聞いた。もうヨボヨボのじい
    さんだったらしい。

  • 岸和田城を築いたのは楠正成の甥、和田高<br />家(にぎたたかいえ)と言われているが、<br />南北朝期は、この辺りはまだ海で、もっと<br />東側、南海線と阪和線の間あたりだったの<br />ではないかとされてるが、築城されていた<br />かどうかは不明。<br /><br />ここに天守閣を造ったのは羽柴秀吉の叔父、<br />小出秀政。元は五層だったらしい。

    岸和田城を築いたのは楠正成の甥、和田高
    家(にぎたたかいえ)と言われているが、
    南北朝期は、この辺りはまだ海で、もっと
    東側、南海線と阪和線の間あたりだったの
    ではないかとされてるが、築城されていた
    かどうかは不明。

    ここに天守閣を造ったのは羽柴秀吉の叔父、
    小出秀政。元は五層だったらしい。

  • これが城下町の風景。今も瓦屋根が多く、<br />城下町の風情が残っている。

    これが城下町の風景。今も瓦屋根が多く、
    城下町の風情が残っている。

  • 東岸和田駅前は飲み屋と言えるものがあ<br />まりなく、駅構内にある居酒屋、ニュー<br />タコイチというところに入った。

    東岸和田駅前は飲み屋と言えるものがあ
    まりなく、駅構内にある居酒屋、ニュー
    タコイチというところに入った。

  • 中生にたこわさにモツ煮、枝豆。〆に焼き<br />そばを食べて2080円。安いもんだ。

    中生にたこわさにモツ煮、枝豆。〆に焼き
    そばを食べて2080円。安いもんだ。

  • 帰りはANAとの共同運航便、真っ黒なスタ<br />ーフライヤー。ほぼ満席だった。

    帰りはANAとの共同運航便、真っ黒なスタ
    ーフライヤー。ほぼ満席だった。

  • 久しぶりの帰省で、帰ったら改めて見ておこうと<br />思っていたところを全部回った2日間だった。<br /><br />こんなことでもないとめったに帰省しないので法<br />事には感謝。

    久しぶりの帰省で、帰ったら改めて見ておこうと
    思っていたところを全部回った2日間だった。

    こんなことでもないとめったに帰省しないので法
    事には感謝。

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