2022/04/02 - 2022/04/02
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otayahikoさん
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江戸時代、九州の玄関口である小倉から唯一の外国との窓口であった長崎とを結んでいた長崎街道。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、坂本龍馬など幕末の志士に伊能忠敬やシーボルト、果てや象や孔雀も通ったとされるこの道を徒歩で巡る長編企画です。
第7弾はみやき町の中原宿を出発し神埼宿、境原宿を経由し佐賀城下までの区間を取り上げていきます。
沿道は桜の花が満開で街道歩きに彩りを添えてくれました。
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今回は佐賀県みやき町のJR中原駅からスタートです!!
満開となった桜がお出迎えしてくれました。中原駅 駅
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まずは駅から歩いて旧街道へ復帰します。
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みやき町のマンホール。
この花のようなキャラクターは何者なのか。。 -
街道歩きではお馴染みのお地蔵様
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佐電工の脇を通り過ぎていきます
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一旦国道34号線へ合流
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みやき町から上峰町へ入りました。
最近までイオンのシネコンがあった所ですね。
昔、好意を寄せる女性に会わせたいからと、先輩にここのイオンへ車で連れてかれたのを思いだしますw -
ここで一旦国道と分かれて右折します
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Googleマップによればこちらの路地が旧街道だったようです。
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国道沿いに面する天満宮
旧街道からも入っていく事ができます。 -
天満宮の反対側は長閑な牧草地が広がり、飼育されているヤギの姿もありました。
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再び国道と合流する所にあったお地蔵様と石灯籠
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上峰町を代表する河川である切通川を渡ります。
毎年夏にはニジマスのつかみ取り大会も行われているそうです。 -
切通交差点
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色褪せすぎて最早何の看板なのか読み取れませんが、表記が「上峰村」になっています。
調べたところ上峰の町制施行は平成元年(1989)だったので、恐らく昭和の頃からあったのでしょう。 -
ひたすら国道沿いを進んでいきます。
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暫く進むと佐賀成田山の別名で知られる龍王院があります。
昭和40年(1965)に本家である成田山新勝寺の佐賀県唯一の末寺として開かれたとのこと。 -
トイレ休憩も兼ねて立ち寄ってみることにしました。
本堂へ向かう開運坂はかなりの勾配です -
本堂
どことなく昭和の香りが漂う建物です。 -
寺ではありますが、敷地内には稲荷神社もあります。
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敷地の外には交通災禍受難者慰霊碑があります。
交通事故で亡くなられた方々の冥福を祈って、運送会社の社長が平成10年(1998)に寄贈したものです。
余談ですが、その運送会社は筆者の父が勤めていた会社であり、不思議な縁を感じました。。 -
上峰町から吉野ヶ里町へ入ります
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ここにもお地蔵様があります。
台座に「南方大士」と書かれていますが、どういう意味なのでしょうか。 -
久留米分岐交差点を右折します。
その名の通り、久留米方面からやってきた県道22号との合流地点となっています。 -
久留米分岐から暫く進むと目達原宿に着きます。
目達原は正式な宿場ではありませんが、中原と神埼の間の宿として賑わっていました。
こちらの旧亀川邸は茶屋本陣として大名の休息に使用されていたそうです。
外壁など正直言ってかなりボロボロですが、それが逆に当時から続く歴史の重さを感じさせます。 -
神社の所で旧街道は90度にカーブしており、旧宿場を思わせる構造になっています。
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目達原の街並み
吉野ヶ里遺跡に代表されるように、この周辺には多くの古墳や遺跡が分布しています。
目達原も古代から栄えた土地で、もともとこの地を支配していた米多国造(めたこくぞう)に由来する地名だそうです。 -
再び国道と合流する所には西鉄バスの目達原発着所があります。
久留米方面と鳥栖方面からの路線が合流する運行上の要所となっています。
長崎道が開通する前は福岡と長崎を結んでいた「九州号」も停車していました。 -
目達原といえば現在は陸上自衛隊の目達原駐屯地を思い浮かべる方も多いでしょう。
この辺りは桜の名所としても有名で、駐屯地の敷地内には多くの桜が綺麗な花を咲かせていました。 -
旧街道は駐屯地の脇を進んでいきます
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吉野ヶ里町のマンホール。
イラストはやっぱり吉野ヶ里遺跡でした。 -
本戦橋というなかなか物々しい名前の交差点。
この付近にはかつて旧日本軍の目達原飛行場がありました。 -
目達原飛行場正門跡の案内板
明治末期に伐採されるまでこの地には広大な松原が広がっており、その後は桜が植樹されて「桜馬場」として桜の名所になった旨の記載があります。
大刀洗陸軍飛行学校目達原分校として飛行場が建設されたのは昭和16(1941)年で、先祖代々この地に住んできた人々は立ち退きを余儀なくされています。
そして、太平洋戦争の末期にはここから多くの若者が特攻隊として出撃し、儚く散っていった悲しい歴史の舞台になりました。
現在の筆者より1回り以上も年下の青年達が故郷のため、家族のために意を決して飛び立っていったのだと思うと、畏敬の念を抱かずには居れません。 -
当時の正門の門柱がそのまま残っています。
花や飲み物などを御供えしている方も居ました。 -
街道に戻ってひたすら直進し、吉野ヶ里町の中心部を抜けていきます。
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田手南交差点
ここからは日本六所弁財天の一つである脊振神社へと向かう弁財天道が分岐していました。 -
交差点を右折した所に江戸時代からの追分道標が残っています。
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上宮嶽(脊振山頂)と白蛇堂(脊振神社)までの距離がそれぞれ記載されています。
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奥に脊振の山並みが見えます
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中原ー神埼における間宿の一つである田手宿に入りました。
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田手宿の建物でひときわ目を引くのがこちらの北村醤油醸造所です。
意外にも創業は1955(昭和30)年と戦後なんですね。 -
田手神社の所で街道は90度にカーブしています。
「長崎街道 田手宿」と記載された標柱も見えます。 -
田手川の堤防から田手神社を臨む
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田手宿も正式な宿場ではありませんが、やはり道路のカーブ具合が旧宿場町を思わせる構造ですね。
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田手神社の本殿
約1300年前に天智天皇が創建したと伝えられる、非常に歴史のある神社です。
その後荒廃していた時期もあったようですが、鎌倉時代には伊勢神宮より三種の神器を賜り再興を果たしています。
疱瘡が大流行した際に神徳によって多くの方が治癒したとも言われており、遠方から参詣する人も多かったのだとか。 -
境内にある学問の神様
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国道385号線と合流して田手川に架かる橋を渡ります。
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橋にも田手宿のイラストが載っています
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橋の上から眺める脊振山地と田手川
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橋を渡ると神埼市へ入ります
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神埼市のマンホール
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長閑な田園風景が広がります。
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ひのはしら一里塚の案内板
長崎街道で唯一当時からの姿を残す一里塚です。
観光地らしく無料の駐車場も整備されています。 -
一里塚の頂上に安置されているお地蔵様。
遠くには脊振の山並みが良く見えます。 -
今や長崎街道に残る一里塚はここだけとなりましたが、かつては各地で見られた光景なんですね。
地元の方が定期的に清掃されており、とても大事にされているのが伝わります。ひのはしら一里塚 名所・史跡
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一里塚の遠景
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神埼宿の入口付近にある荒木屋菓子舗
神埼市の新たな銘菓であるひしぼうろも取り扱っています。 -
神埼は宿場としての規模もそれなりに大きく、古くからの町家も所々に残っています。
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趣のあるラーメン屋さん
宝来軒 グルメ・レストラン
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そろそろ昼食の時間なので、こちらの1Fにある中華料理店に入る事とします。
宿場町らしい町家風の建物と大衆的な中華屋さんの組合せという、ちょっと不思議な雰囲気ですね。中華料理 京華園 グルメ・レストラン
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注文したのはこちらの海鮮皿うどん(850円)
具も大きく素朴な味わいで美味しかったです。 -
櫛田神社の所で街道は直角にカーブしています。
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櫛田神社境内の桜並木
今年は桜の開花が非常に早く、既に散り始めているものも多々ありましたが、それでも見事な美しさです。 -
ちなみに博多の櫛田神社はこの櫛田宮の分社にあたります。
福岡市民にとってはスルーできない重要な場所ですね。櫛田宮 寺・神社・教会
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旧古賀銀行神埼支店
1914(大正3)年の竣工で外観はモダンな洋風建築ですが、実際は木造の伝統技法を用いて建てられており、当時の佐賀地方でよく見られた手法となっています。 -
神埼といえばやはり「神埼そうめん」が有名ですが、街道沿いにも製麺所の姿を見かける事ができます。
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この周辺はかつて定期的に市が開かれていた事から「二日町」や「七日町」と呼ばれていたそうです。
現在も古くからの町屋が残っています。 -
真光寺の所で再び直角にカーブします。
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真光寺はかつてシーボルトが神埼を訪れた際に宿泊したと伝えられています。
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かつての脇本陣跡
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こちらは浄光寺
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歩道にも長崎街道の案内が埋め込まれていました。
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小川に架かる橋にもしっかりと「長崎街道」の文字が刻まれています。
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まんえい堂の神埼宿場茶屋
名物のおこわ等をお目当てに多くの方が訪れていました。
観光案内所も併設されており、散策の拠点にも使えますね。 -
筆者はさっき昼食を食べたばかりなので、おこわは断念しましたが糖分補給に酒まんじゅうを買いました。
後から知ったのですが福岡市内にも笹丘イオンに店舗があるそうです。まんえい堂 神埼宿場茶屋店 グルメ・レストラン
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酒まんじゅうを食べて糖分補給。
次回は名物のおこわを是非いただきたいですね。 -
神埼宿の西側の出入口として機能していた西の木戸口跡。
現在は公園として整備されています。 -
川沿いの道から見た神埼宿の眺め
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城原川を渡ります
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城原川を渡ると国道34号と県道48号の分岐点があります。
どちらに進んでも佐賀市内へは行けますが、次の境原宿へは左側の県道を進む事になります。 -
堤防に沿って敷かれた道を進みます。
飯塚あたりの遠賀川流域にも似た風景ですが、
こちらの方がより空気がのんびりしているように感じます。 -
神埼市にある「新宿」
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道端に奉られている観音様
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佐賀平野は温暖な気候を利用した二毛作が有名ですが、この時期は一面に広がる青々とした麦畑を見る事ができます。
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倉庫には日本一のもち米産地である事が大きくアピールされていました。
手前の水路では釣りを楽しむ人も居ました。 -
この辺りから佐賀平野特有の複雑に入り組んだクリークを見掛けるようになります。
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漢字一文字で「姉」というユニークな地名
付近には西鉄バスの「姉」バス停もあります。 -
クリークで泳ぐ亀の姿
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地場スーパーを核店舗とした小規模なショッピングモールがあります。
モール内には個人経営の電器店も入居しており、地元密着で頑張っているようです。 -
西鉄バスの境原バス停
この付近が旧境原宿となっています。 -
浄土真宗浄覚寺
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佐賀まではあと6kmです
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境原宿があったことを示す案内板
犬童川を利用した水運の拠点として栄えたようですが、1874(明治7年)に起きた佐賀の乱によって宿場一帯は全焼してしまい往時の街並みは失われてしまいました。 -
そんな訳でかつての宿場の雰囲気を感じさせるものは殆ど残っていないのですが、何とか少しでも趣を感じる場所は無いものかと探していると。。
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若宮神社がありました。
案内板によれば1641年(寛永18)にこの地に遷座したとのこと。
当時からのものかは不明ですが、鳥居からもかなりの歴史を感じさせます。 -
若宮神社の本殿
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境原を過ぎるといよいよ佐賀城下へと向けて進んでいきます。
旧街道は分岐を右へと入ります。 -
江戸時代の郡境石
「従是東神崎郡」「従是西佐嘉郡」と書かれているのがわかります。
現在はこの付近が神埼市と佐賀市の境界になっています。 -
郡境石を過ぎて再び国道へ戻ります
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戦国時代に起きた「巨勢・高尾の戦い」での戦死者を葬ったとされる戸次塚。
当時の佐賀一帯を支配していた龍造寺氏は豊後の大友氏による侵略を撃退しています。 -
水路の上に沢山の鯉のぼりが掲げられています。
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この水路は徳永線と呼ばれ、農水省が管理する幹線水路となっています。
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暫く進んで旧街道は右手へ入ります。
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何処にでもある月極駐車場ですが、表記が「月極」ではなく「月決」になっています。
地域によって表記に違いがあったりするのでしょうか。。 -
牛島宿交差点
こういう昔ながらの地名が使われているのは良いですね。 -
交差点を入った所には巨勢大連を主祭神として奉る巨勢神社があります。
巨勢大連は飛鳥時代に孝徳天皇の命を受けて異民族の侵攻を受けていた壱岐・対馬を平定し、その後は守護として荒野であった巨勢の地を開拓した人物です。
彼を慕う現地住民が死後に社を建て、巨勢大明神として崇め奉った事がこの神社の興りとされています。 -
モラージュ佐賀の横を通り過ぎます。
佐賀市内でも有数のショッピングモールで、土曜という事もあり多くの買い物客が訪れていました。 -
構口交差点
その名の通り、佐賀城下の東側への出入口となる「構口」が近くにあります。 -
大溝川に架かる構口橋を渡ればいよいよ佐賀城下です。
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橋を渡った先には長崎街道の全ての宿場が記載された案内板がありました。
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牛嶋口跡は公園として整備されています。
江戸時代当時は現在の構口橋よりも南側に木造の橋が架けられており、橋を渡った先には木戸や番所を設けて通行人を監視していました。 -
かつて木戸が設置されていたのはこの辺りですね
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長崎街道において「佐賀城下」と呼ばれるエリアは非常に広く、東端の牛嶋口から西端の高橋までは実に5kmほどの道程になります。
これまでに通ってきた宿場と比較しても桁違いの規模であり、かつての佐賀の繁栄ぶりを伺い知る事ができます。 -
かつて牛嶋口に設けられていた番所の跡地。
江戸時代当時を再現した道標も設置されています。 -
佐賀城下の長崎街道は排水溝の蓋のデザインも凝っています。
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街道歩きでは何かと道に迷いがちですが、佐賀城下では旧街道は路面が黄色に塗られているためその心配もありません。
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牛嶋町は江戸時代初期に整備され、幕末時点では108世帯420人もの人が住んでいました。
穀物店が多かった事が特徴で町内には14軒もあったそうです。 -
地元公民館には安全運転の標語が多数掲げられていました。
確かにこの一帯は道幅も狭ければ、観光客や通学の児童など歩行者も多いので、ドライバーにとっては非常にやりにくいだろうと感じます。。 -
擬洋風チックな牛嶋町公民館の建物もどこか趣を感じますね。
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商業や海運で発展した佐賀は古くから恵比須信仰がとても盛んで、恵比須の数は日本一を誇っています。
佐賀市内だけでも800体以上の石像があるそうで、長崎街道沿いにも多数見かける事ができます。 -
紺屋川に架かる思案橋を渡ると上今宿町に入ります。
今では全く面影はありませんが、明治の頃までは佐賀城下で最も賑やかな商業地として繁盛していました。 -
思案橋界隈は紺屋川における舟運の荷揚げ場としても使われていました。
当時の雁木が残されていますが、なんと2019年(平成31)に家屋の解体中に偶然発掘されたものだそうです。 -
思案橋遺跡の案内板も今年1月に設置されたばかりでピカピカでした。
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ところで思案橋といえば、長崎街道の終点である長崎市の方を連想する方が多いと思いますが何か関連はあるのでしょうかね。
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佐賀県遺産にも登録されている野中鳥犀園
1796(寛政8年)に野中家が生薬「鳥犀園」の販売を藩から許可された際に建てられた町家が残っています。 -
この辺りから古くからの町家が多く残る柳町地区へと入ります。
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旧南里邸
約300年前に建てられた佐賀市内でも最古とされる町家です。 -
御厨商会の角を左折します
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ざぶとん恵比須
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柳町には江戸時代初めの1608年(慶長13)にキリスト教会である南蛮寺が建立されていました。
しかし、わずか5年後には禁教令が出たために廃寺となり、その後町人の街として整備されたそうです。 -
両足を曲げて座るスタイルのたたみ恵比須。
畳屋さんを御守りするだけあって、鎮座するのも畳の上ですね。 -
旧久富家住宅
履物商を営んでいた久富家が、1921(大正10)年に柳町へ移転した際に「履物問屋久富商店」として建てたものです。旧久富家住宅 名所・史跡
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内部にはお洒落な工房やアトリエなどが多く入居していました。
ただ、あまりにも綺麗にリノベーションされすぎていて、建物本来の良さが伝わりにくいなと感じます。 -
旧三省銀行
1882(明治15年)に旧佐賀藩士によって銀行類似業務を行う三省社の店舗として建てられ、1885(明治18年)からの8年間は三省銀行として営業していました。
現在は佐賀市歴史民俗館の一部として開放されています。旧三省銀行 名所・史跡
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佐賀における蘭学者の始祖である島本良順の墓所。
長崎で蘭学や蘭医術を学んだ後、佐賀で開業医として働く傍らで蘭学塾を開くものの、佐賀の保守的な風土もあって最初はかなり苦戦したようです。
それでも、真摯な診療と学識が認められて佐賀藩医学療の寮監として採用されたり、蓮池藩主の侍医として抜擢されるなど成果を残し、彼の門下からは多くの優秀な蘭学者を輩出するに至っています。 -
旧牛島家
先程の南里邸と同じく、約300年前に建築された佐賀城下では最古の部類となる町屋建築です。
こちらも佐賀市歴史民俗館として開放されており、自由に見学できますが時間の都合で断念。。
柳町界隈は思いの外、観るものが多くて街道歩きの片手間ではとても時間が足りない事を実感しました。
今度は1日かけてゆっくりと佐賀城下を歩く旅をしてみたいですね。旧牛島家 名所・史跡
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呉服恵比須
台座は呉服屋を営んでいた森永家が陳列台として使用していたものだそうです。 -
旧古賀家
古賀銀行の創立者である古賀善平の邸宅で、1884(明治17年)に建てられました。
大隈重信とも親交があったようで、彼が佐賀に帰郷した際には宿泊したとの逸話も残っています。旧古賀家 名所・史跡
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旧森永家の脇にある煙草の製造所跡の案内。
ここ佐賀城下においては森永家が製造する煙草も名産品の一つとされていました。
その中でも「富士の煙」と呼ばれる銘柄は人気が高く、最新の紙巻煙草に改良された後も大隈重信などの名士が愛用していたそうです。
言うなれば地酒のタバコ版のようなイメージですね。 -
この旅ではすっかりお馴染みとなった明治時代の黒ポスト。
もちろんこの佐賀城下にもあります。 -
旧中村家
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旧古賀銀行
1885年(明治18)に両替商であった古賀善平が創立し、かつては九州の5大銀行に列せられるほどの繁華を極めていました。
こちらも現在は佐賀市歴史民俗館として開放されており、大正5年当時の姿に復原されています。
この日は全館貸切となっていましたが、館内にはカフェもあるので次回訪れた時にじっくり観てみたいですね。旧古賀銀行 (佐賀市歴史民俗館) 美術館・博物館
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地場の食品加工業、諸富商事の入口にあった恵比須さん
コロナ禍を反映してかマスクを装着しています。 -
呉服元町の交差点
大きく長崎街道と書かれた中華風の門が設置されています。 -
呉服町地区の案内板
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老舗のお菓子屋さん「ひぜんえびす屋」の脇には江戸時代から残る道標と、道しるべ恵比寿の姿があります。
ひぜんえびすや 専門店
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人差し指の絵柄で方向を示しており、現代人が見ても親しみの持てるデザインですね。
佐賀城下には他に2箇所、江戸時代からの道標が残っていますが、ここ呉服町のものが最も綺麗に整備されています。 -
暫く進むと白山名店街のアーケードがあります。
この周辺にも良さげなカフェやら昔ながらのマーケットなんかがあったのですが、時間が無いので今回はお預けです。。 -
アーケードの入口に鎮座するその名も「長崎街道恵比須」
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アーケードの規模はそれなりに大きいのですが、地方都市の例に漏れず空き店舗や歯抜けとなっている箇所が目立ちます。
昔は賑わっていたのでしょうね。。 -
旧街道はアーケードを出てさらに直進する事になりますが、時間の都合で今回はここまで。
右折して佐賀駅へと向かう事にします。 -
そして長崎街道沿いから佐賀駅までが思いの外遠い。。
既に足はパンパンですが、何とか最後の力を振り絞り早足で進みます。 -
佐賀駅バスセンターへ到着!!
何とか目的のバスにも間に合い、無事に福岡へ帰ることができました。
次回は佐賀から牛津宿、小田宿を経由して武雄市のJR北方駅まで行く予定です!
Part8へ続く佐賀駅バスセンター 乗り物
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