2022/02/23 - 2022/02/23
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otayahikoさん
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江戸時代、九州の玄関口である小倉から唯一の外国との窓口であった長崎とを結んでいた長崎街道。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、坂本龍馬など幕末の志士に伊能忠敬やシーボルト、果てや象や孔雀も通ったとされるこの道を徒歩で巡る長編企画です。
第2弾は北九州市八幡西区の引野口を出発して木屋瀬宿を経由しJR小竹駅までの区間を取り上げていきます。
小竹町出身の筆者にとってはまさにお馴染みの地元の風景なのですが、こうして歩いてみると地元の歴史や史跡について知らない事ばかりだと実感しますね。
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長崎街道踏破の旅、第2弾は北九州市八幡西区の引野口からスタートです!!
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暫くは国道と分かれて左側の旧街道を進んでいきます。
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朱雀ラーメンなる良さげなラーメン屋を発見!!
国道からは見えない位置にあり、こうした店と巡り会えるのも街道歩きの利点だと思います。 -
旧街道をずんずん進んでいきます
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菅原道真を祀る涼天満宮。
今は枯れてしまっていますが、かつては境内に大きな松があり木陰で旅人が涼んでいた事からこの名が付いたそうです。
また、江戸時代には長崎の熊部新治郎という方が所用で京都へ向かう途中にこの神社で休憩した際、その際にお金の入った荷物を松の枝にかけたまま忘れてしまうという失態をしてしまいました。
翌年、長崎へと帰郷する彼が再度立ち寄ると、なんと忘れた荷物はそのまま枝に掛かった状態で残っていたそうです!
以後、この松は「かね掛けの松」と呼ばれるようになったんだとか。
忘れ物や落とし物の絶えない筆者にとっては何ともありがたい話ですね。。 -
さらに進むと謎の鳥居があったのでとりあえず撮影。
石碑の文字は削れてて読めなかったので、改めて調べたところ「やから様」という源平合戦の時代の史跡であったようです。
当時、この一帯を通りかかった平家方の女性二人組が疲れ果てて道脇の谷間で野宿をすることに。
一人はとても気品の高い母親でもう一人は乳母らしく乳児を抱いていました。
やがて、平家の落人を追っていた源氏方の武士がやってきて、乳児の泣き声を聞き付けると、この2人の女性と乳児を討ち取ろうとしました。
最早これまでと悟った母親は懐の短刀を取り出して乳児を刺し、自らも乳母と共に自害してしまいます。
この哀れな女性の冥福を祈って建てられたのが「やから様」であり、以後、夜泣きする乳児の願いを込めて祈ると治ると言い伝えられています。 -
国道に戻って下り坂を進んでいきます。
以前、2車線だった頃は勾配ももっと急だった記憶がありましたが、道路が拡張されて歩道も広くなり、かなり歩きやすくなりました。 -
街道歩きで悩ましいのはトイレの問題です。
もともとトイレの近い筆者は冬場だと30分持たない事も多々あります。
引野口で済ませてきたのですが、早くも持たなくなってきたので近くにあったスーパーに入って用を足します。
トイレには2017年12月に閉園したスペースワールドの写真が展示されていて何とも感慨深いものがありました。 -
町上津役から再び国道と分かれて旧道に入っていきます。
しかし、上津役(こうじゃく)ってかなりの難読地名ですよね。。 -
この辺りが旧上津役村と小嶺村の境界になるようです。
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都市高速を潜った所にある小嶺の一里塚跡
八幡西区の一里塚跡は道路の片隅に置かれていて、ちょっと分かりにくいですね。 -
まだ30分も経ってないですが、またトイレが怪しくなってきたので小嶺シティボウルに立ち寄ります。
1Fのパン屋の看板がそれ以上に主張していますね。小麦の奴隷 北九州小嶺店 グルメ・レストラン
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小嶺シティボウルの中にはゲームコーナーがあるのですが、太鼓の達人11や初代マリオカートなど古いゲームが多数ありました。
今ではかなり貴重なポップンミュージック14があったので、ついついプレイしてしまう。。 -
小嶺台の交差点から国道と分かれて進んでいきます。
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道なりに進むと北九州市指定文化財の「立場茶屋銀杏屋」があります。
屋敷を所有していた清水家は農業を営んでいましたが、諸藩の大名などが通る際には事前に連絡を受けて、屋敷を休憩所として開放していたそうです。
筆者が立ち寄った際はひなまつりの展示会をやっていたので、普通に見物していたらスタッフの方から「長崎街道を歩いて来られたのですか?」と声を掛けられました。
話によると街道歩きで立ち寄る方はかなり多いとの事で、過去には主要五街道を全て制覇した方も来られたのだとか。
屋敷の概要を親切に説明いただいた上に展示会の期間は入れない天井裏なども特別に見せていただき、本当にありがとうございました。 -
かつて徳川家康が休んだとされる縁側
ここにも雛人形が展示されています。 -
この屋敷の象徴ともいえる大銀杏
天保7年(1836)の火災による焼け跡が今も残っています。 -
少し進むと難所「石坂の急坂」に差し掛かります。
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今は遊歩道が整備され楽に通過する事ができますが、かつては大名も駕籠から降りて自分の足で歩いたとされる難所でした。
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この辺りはあまり都市化も進んでいないので、眺望も往時とさほど変わらないのではないかと思います。
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石坂の急坂の案内板
かつては黒崎方にも「アケ坂」と呼ばれる急坂があり、アップダウンの激しい難所であった事が記されています。 -
急坂を過ぎて黒川を渡ります
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衰退気味とはいえ、やはり北九州は政令指定都市。
小倉からとめどなく市街地が続いてきましたが、流石にこの辺りまで来ると田園風景が目立ち始めます。 -
再び国道と合流。そろそろ昼食にしたい所です。
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このラーメン屋に入ろうとしたのですが、店内はかなりの密だったので断念。。
ラーメン力 グルメ・レストラン
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都市高速のガードを潜ります
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ガードを潜った所にお好み焼き屋さんがあったので、こちらに入る事にしました。
お好み焼 ここ笑 グルメ・レストラン
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注文したのは海鮮ミックス(860円)
生地は家庭的などこか懐かしい味わいで、具材の海老がとにかく大きく、尻尾ごと入っているという贅沢な一品でした。
具材に関しても店長がこだわり抜いて選定しているのだとか。
店の方もすごく親切で長崎街道を歩いてる事を話したら、とても喜んでいて、「是非、店の事を沢山宣伝してほしい!」と仰っていました。
皆様も是非、長崎街道を歩かれる際は茶屋の原の「ここ・笑」さんへお立ち寄りください。 -
店を出て少し進むと茶屋原の一里塚跡があります。
実際には小嶺から一里も離れておらず、「六合塚」なんて呼ばれていました。
石坂の急坂などの難所があることを考慮してこの位置に設置されたとのこと。
ちなみに石坂で立ち寄ったの銀杏屋の方の話によれば、豊臣秀吉がこの地にあった茶屋で休憩した事が「茶屋原」の由来になっているそうです。 -
木屋瀬宿はもうすぐです。
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ここにも明治時代を再現した黒ポストが設置されていました。
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筑豊電鉄の踏切を渡ります。
反対側には新木屋瀬駅があります。新木屋瀬駅 駅
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木屋瀬宿に到着しました。
木屋瀬は子供の頃に家族でサンリブへよく買い物に行っていてお馴染みの土地ですが、まともに観光した事は無かったですね。。 -
古くからの街並みを色濃く残しています。この日は天皇誕生日だった事もあり、軒先には日の丸が掲げられていました。
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木屋瀬宿の案内図。
子供の頃はサンリブしかない田舎だと思ってましたが、宿場が現役だった当時は遠賀川の水運の拠点として大いに賑わっていました。 -
遠賀川の土手の方へ向かうと扇天満宮があります
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もやいの家というかつての町家を活用した美術館もあります。
しかし、長崎街道界隈では結構何処でも象のイラストをお目にかけますね。
それだけ当時のインパクトは凄かったのでしょう。 -
隣の家との間隔はかなり狭く、結構密集して建てられているのがわかります。
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みちの郷土史料館の入口から撮影。道路の直角カーブがかつての宿場町であった事を匂わせています。
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多目的ホールとして使われているこやのせ座
かつて木屋瀬には「大正座」と呼ばれる芝居小屋があり、活況を呈していました。
役者さん達は遠賀川の対岸にある筑前植木駅から人力車で木屋瀬まで来ていたそうです。 -
こちらは荷役の取り扱いや人馬の継所として使用されていた問屋場跡。業務の関係上、道路の幅が他の箇所と比べて1.5倍の7.5メートルに拡大されています。
また、水害に備えて宿場内で最も高い位置に設けられていました。 -
木屋瀬宿は赤間を経由して福岡方面に向かう唐津街道との分岐点でもあります。
木屋瀬から福岡までの距離を記した標柱です。 -
こやのせ座の横から黒崎方を一望
外敵に攻められても宿場を見通せないように直角にカーブしている事がわかります。
この後、写真奥のみちの郷土史料館にも立ち寄りましたが、思った以上に展示が充実しており、240円で十分楽しむ事ができました。北九州市立長崎街道木屋瀬宿記念館 美術館・博物館
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かつての船庄屋であった梅本家の旧宅。
江戸時代の木屋瀬は筑前や豊前からの年貢米集積地としての役割を担っており、遠賀川を川ひらたと呼ばれる船で若松や黒崎といった港まで運んでいました。
その管理を担っていたのが船庄屋である梅本家でした。 -
さらに進むと旧高崎家住宅があります。
高崎家は江戸時代後期の木屋瀬を代表する豪商でしたが、放送作家だった伊馬春部の生家でもあります。 -
木屋瀬宿でもひな祭りのイベントを開催しており、
地元の方々が所蔵している雛壇が多数展示されていました。
石坂の銀杏屋やみちの郷土史料館と比較しても規模が大きく、ズラリと並んだ雛壇は圧巻でした。 -
かつての村庄屋であった松尾家の旧宅。
木屋瀬には「村庄屋」「宿庄屋」「船庄屋」の三庄屋が居ましたが、こちらは村全体を統括する役割を担っていました。 -
木屋瀬宿を抜ければ長かった北九州市も終わりとなります。
小倉からずっとお世話になったこの道標ともお別れですね。 -
福岡方面へ向かう唐津街道との分岐点にある追分石。
「従是右赤間道」と記載されている通り、右手に向かえば遠賀川を渡って赤間へと続いています。
ちなみにこの追分石はレプリカで、実物は交通事故で破損したため、みちの郷土史料館に移されています。 -
直進すればこのまま直方へと続いています
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追分石から唐津街道赤間方面を臨む
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遠賀川の土手に達した所が北九州市と直方市の境界になります。
いよいよこれから筑豊路のスタートです。 -
本来の長崎街道は堤防に沿った道なのですが、歩道もなく流石に危険極まりないので河川敷の遊歩道を歩く事にします。
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暫く進んだ所にある分岐を左に進みます
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旧長崎街道感田村に到着しました。
何故か長崎方の次の宿場が飯塚ではなく、その1つ先になる内野宿までの距離が書かれています。 -
西国大飢饉の報せを受けて地元へ向かっていた島原藩士達が、近隣の彦山川の氾濫によって立ち往生してしまったため、柴田丹兵衛という人が思い切って瀬踏みを強行したところ溺死し、遺体がこの感田村へ流れ着きました。
村人達は丹兵衛の勇気を讃えて遺体を手厚く葬ったとの事で、今も彼の墓が大事にされているのですね。 -
筑豊電鉄感田駅の目の前にある阿高神社。
こちらにも地元で語り継がれている伝承がありました。
大洪水で安宅村(現在の田川郡川崎町)にあった祠がここ感田村まで流れてきてしまい、「神様が居なくなって困っているだろう」と安宅村へ使者を走らせた所、「村を守るどころか洪水で流される神様など要らん」と突っぱねられたので、以後この地で流されてきた神様を祀ったそうです。
阿高神社の「阿高」は元々の祠があった安宅村から取られた名前なんですね。 -
筑豊電鉄感田駅
ちなみに地元CMで有名なびっくり市やイオンモール直方へはここからバスが頻発しているので、乗り継ぎにも便利です。 -
阿高神社にあった長崎街道を案内した壺のようなもの。
ここでもやはり、次の宿場は内野となっていました。 -
境内にもしっかりと「旧長崎街道感田村」と書かれています。
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樹齢500年に達する樟の大樹
直方市内では最も大きな木との事です。 -
神社の外にはかつての水門の跡もありました
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感田の村を抜けて遠賀川に架かる日の出橋を渡ります。
遠賀川と彦山川が合流する地点にあり、ここからは川幅もぐっと狭くなります。
写真右側が直方市の中心市街地です。 -
頓野口の渡場跡に立つ銀杏の木。
江戸時代当時、日の出橋なんて便利なものはありませんでしたから渡し船で対岸へ渡る必要があります。
ここに限らず遠賀川流域では渡場となる場所には目印として銀杏の木がある事が多かったようです。 -
旧街道はホリデー車検の脇を進んでいきます。
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頓野口渡場跡の案内
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まっすぐ進むと直方市を代表する商店街である古町アーケードがあります。
今ではすっかりシャッター通りと化しましたが、筆者が小学生だった90年代半ば頃はダイエーなんかも入っていて、まだそこそこ活気がありました。古町通り商店街 市場・商店街
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アーケードそのものはかなり長く、かつて炭鉱で栄えた時代を偲ぶ事ができます。
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今は向野堅一記念館として使用されている建物。
筆者が中学生の頃までは現役の病院として使われていました。向野堅一記念館 美術館・博物館
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直方市に隣接する小竹町出身の筆者にとっては、この辺りの長崎街道はしょっちゅう友達と自転車で走ってたお馴染みの道です。
そんな道を坂本龍馬やシーボルトも歩いたのだと思うと感慨深いものがありますね。 -
福岡藩の支藩として直方藩が設置されていた時代があり、その頃はここに尾崎口という門が作られ城下町への入口であったようです。
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福北ゆたか線と平成筑豊鉄道の線路に沿う形で進んでいきます。
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中学生の頃、親友とよくジュースを買ってたDyDoの自販機は今も健在でした。
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もうすぐ小竹町に入ります!
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福北ゆたか線の踏切を渡ります。
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小竹町に入りました。住み慣れた地元だからといって手は抜かず、何か痕跡があれば拾っていくようにします。
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JR勝野駅を臨む。
何気に実家の最寄り駅なのですが、快速が止まらないため日中は1時間に1本しか列車がなく、小竹駅や直方駅を使うこともよくありましたね。勝野駅 駅
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地味にこの辺りは道が入り組んでてややこしかったですね。
Googleマップとにらめっこしながら進んでいきます。 -
兵丹区公民館
同じ小学校の校区内なのに一度も来たことがない。。 -
この道も歩くのは初めてです。
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小竹町の設置した長崎街道跡の道標もありました。
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この辺り、直方市と小竹町と宮若市の境界が複雑に入り組んでおり、旧長崎街道も一瞬だけ宮若市を通過する事になります。
駕籠立場跡の石碑のある場所は実は宮若市だったりします。 -
勝野駅からはかつて宮田線という路線が分岐しており、廃線後も写真の位置に長らく煉瓦積みの橋梁が残されていたのですが、見事に撤去されてて愕然としました。
やはり、いつかは消え行く運命なのですね。。 -
正面の草に覆われた道がかつての廃線跡です。
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小竹町に戻り南良津地区に入りました。
江戸時代、度々氾濫していた遠賀川の治水対策として黒田藩が建築した南良津唐戸があります。
小学校の頃、社会科の時間で町の地図を作るやつがあったと思うのですがその際に先生が何か説明していたのを覚えています。 -
これがその水門跡。中央にある石柱は回転する仕組みになっていて、塵やゴミをうまく下流に流せるようになっていたそうです。
なんと平成元年(1989)に排水機場が完成するまでは現役で使われていたのだとか。 -
正面奥に見えるのがその排水機場です。
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福北ゆたか線の線路に沿って進みます。
我が地元ながら長閑な風景が延々と続くため、北九州から歩き通しの身体には結構堪えます。
ここから小竹駅って地味に遠いんですよねw
ラストスパート、最後の力を振り絞って頑張ります! -
小竹町名物のジャーマンベーカリーの看板。
ここのエクレアは絶品なので是非お越しの際は寄ってくださいね!ジャーマンベーカリー 小竹店 グルメ・レストラン
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線路沿いをひたすら進みます。
右手には小竹町が造成した工業団地があります。 -
ここにも長崎街道跡の石碑と祠があります。
結局何なのかはわかりませんでしたが。。 -
日が暮れてきました。
思えば引野口を出発してから7時間、よく頑張ったと思います。 -
本日のゴール、小竹駅に到着しました!!
次回は小竹駅から飯塚宿を経由し冷水峠手前の内野宿まで行く予定です。
Part3へ続く
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