八丈島旅行記(ブログ) 一覧に戻る
公共交通機関は利用しづらいので、レンタカーを借りて八丈島の豊かな自然と歴史を楽しむことにした。<br />11月9日(水)レンタカーで八丈一周道路を南に走って、ふるさと村の駐車場に車を停めて、優婆夷宝明神社、大里の玉石垣を巡った。駐車場を出て、大坂トンネルに向かう。展望台に立つと横間海岸から八重根港、南原千畳敷に渡るパノラマが展望できる。トンネル近くにある大阪山砲台、人捨穴を見学し、不受不施僧の墓、八丈服部屋敷、中将院の石室を巡って、大竜ファーム BBQ農園レストラン男メシ食堂で昼食。梅辻規清の墓、裏見の滝、足湯きらめき、名古の展望台、八丈島灯台、登龍峠展望台、人間魚雷「回天」二号壕跡、抜舟の場の碑、八重根のメットウ井戸を見学。名代一休庵で夕食。

2021年、コロナ感染が下火になった秋に八丈島への旅 2.レンタカーで八丈島の自然と歴史遺跡を満喫

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2021/11/09 - 2021/11/09

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旅四郎さん

公共交通機関は利用しづらいので、レンタカーを借りて八丈島の豊かな自然と歴史を楽しむことにした。
11月9日(水)レンタカーで八丈一周道路を南に走って、ふるさと村の駐車場に車を停めて、優婆夷宝明神社、大里の玉石垣を巡った。駐車場を出て、大坂トンネルに向かう。展望台に立つと横間海岸から八重根港、南原千畳敷に渡るパノラマが展望できる。トンネル近くにある大阪山砲台、人捨穴を見学し、不受不施僧の墓、八丈服部屋敷、中将院の石室を巡って、大竜ファーム BBQ農園レストラン男メシ食堂で昼食。梅辻規清の墓、裏見の滝、足湯きらめき、名古の展望台、八丈島灯台、登龍峠展望台、人間魚雷「回天」二号壕跡、抜舟の場の碑、八重根のメットウ井戸を見学。名代一休庵で夕食。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.0
交通
3.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
レンタカー 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 11月9日(水)朝食を済ませて、WEB予約したHJPレンタカーの迎えの車を八丈ビューホテルで待つ。レンタカー会社で手続きを済ませて、午前10時過ぎに出発して、ふるさと村に向かう。写真の道は「八丈島歴史民俗資料館の裏から、ふるさと村へ通じる道路は、昔は馬路と称し、八丈島の最も古い由緒ある道で、昔のおもかげを今に伝える貴重な所」と案内板に記されている。

    11月9日(水)朝食を済ませて、WEB予約したHJPレンタカーの迎えの車を八丈ビューホテルで待つ。レンタカー会社で手続きを済ませて、午前10時過ぎに出発して、ふるさと村に向かう。写真の道は「八丈島歴史民俗資料館の裏から、ふるさと村へ通じる道路は、昔は馬路と称し、八丈島の最も古い由緒ある道で、昔のおもかげを今に伝える貴重な所」と案内板に記されている。

    ふるさと村 名所・史跡

  • ふるさと村の駐車場には写真の「椿の蔭 をんな音なく來りけり 白き布團を乾しにけるかも」というアララギ派の歌人島木赤彦の歌碑があった。1914(大正3)年10月に都会の喧騒や複雑な女性関係、行き詰まった生活から逃れるために一人で八丈島に渡り、この島に20日間滞在し、79首の短歌を詠んだ。<br />

    ふるさと村の駐車場には写真の「椿の蔭 をんな音なく來りけり 白き布團を乾しにけるかも」というアララギ派の歌人島木赤彦の歌碑があった。1914(大正3)年10月に都会の喧騒や複雑な女性関係、行き詰まった生活から逃れるために一人で八丈島に渡り、この島に20日間滞在し、79首の短歌を詠んだ。

    ふるさと村 名所・史跡

  • ふるさと村には母屋、高倉、まや(牛舎)、閑所(便所)などが一式揃った八丈島の貴重な昔の民家を修復して公開していたが、2018(平成30)年1月8日夜、火災で全焼してしまった。この場所には写真の母屋が建っていて、焼失以前の写真を見ると茅葺き屋根になっていた。残念ながら、内部の見学はできなかった。駐車場から八丈一周道路に出て周辺のスポットを散策。

    ふるさと村には母屋、高倉、まや(牛舎)、閑所(便所)などが一式揃った八丈島の貴重な昔の民家を修復して公開していたが、2018(平成30)年1月8日夜、火災で全焼してしまった。この場所には写真の母屋が建っていて、焼失以前の写真を見ると茅葺き屋根になっていた。残念ながら、内部の見学はできなかった。駐車場から八丈一周道路に出て周辺のスポットを散策。

    ふるさと村 名所・史跡

  • 道路の脇に陣屋跡があり「享禄元年(1528)に、小田原北条氏の代官中村又次郎が来島し、此処に陣屋を設けた。江戸時代になると、幕府は此処を島役所(陣屋、御仮屋と言った)とし、明治33年(1900)には東京府八丈島庁となり、島の政治の中心地だった。しかし、明治41年(1908)には島庁が移転したため、政治とは無関係の所となった」と書かれた案内板があった。

    道路の脇に陣屋跡があり「享禄元年(1528)に、小田原北条氏の代官中村又次郎が来島し、此処に陣屋を設けた。江戸時代になると、幕府は此処を島役所(陣屋、御仮屋と言った)とし、明治33年(1900)には東京府八丈島庁となり、島の政治の中心地だった。しかし、明治41年(1908)には島庁が移転したため、政治とは無関係の所となった」と書かれた案内板があった。

    八丈島役所跡 名所・史跡

  • 道路を横断して少し行くと、写真の優婆夷宝明神社に出る。鳥居の横の案内板には「この神社には、事代主命の八丈島の妃・優婆夷姫と、その子・古宝丸が祀られている。事代主命は、出雲(島根県)の大国主命の子で、父に国を瓊瓊杵尊(天照大神の孫)に譲ることを勧め、自らは国を出て三宅島で亡くなったという」と記されている。

    道路を横断して少し行くと、写真の優婆夷宝明神社に出る。鳥居の横の案内板には「この神社には、事代主命の八丈島の妃・優婆夷姫と、その子・古宝丸が祀られている。事代主命は、出雲(島根県)の大国主命の子で、父に国を瓊瓊杵尊(天照大神の孫)に譲ることを勧め、自らは国を出て三宅島で亡くなったという」と記されている。

    優婆夷宝明神社 寺・神社・教会

  • 写真は神社の拝殿で、「千年以上前に編纂された延喜式神名帳に記されている大変古いもの(式内社という)で、八丈島の総鎮守(郷社)とされる。社地には、稲荷神社など5神が祀られており、社殿内には祭神・木造女神座像(都文化財)」が安置されている。<br />

    写真は神社の拝殿で、「千年以上前に編纂された延喜式神名帳に記されている大変古いもの(式内社という)で、八丈島の総鎮守(郷社)とされる。社地には、稲荷神社など5神が祀られており、社殿内には祭神・木造女神座像(都文化財)」が安置されている。

    優婆夷宝明神社 寺・神社・教会

  • 拝殿の奥には、写真の珍しい石造りの本殿がある。ここにはキリシタン灯籠が置かれ「嘉永7年(1854)に奉納されたこの灯籠は 別名織部灯篭と呼ばれるが、キリスト教や茶道とは関係なく、島の願主達が名工の誉れ高い石工仙次郎(1834流罪、1856没)に、好きなように腕前を揮わせた作品と思われる。八丈島ではキリシタン灯籠はこの一対しか発見されていない」と説明されている。

    拝殿の奥には、写真の珍しい石造りの本殿がある。ここにはキリシタン灯籠が置かれ「嘉永7年(1854)に奉納されたこの灯籠は 別名織部灯篭と呼ばれるが、キリスト教や茶道とは関係なく、島の願主達が名工の誉れ高い石工仙次郎(1834流罪、1856没)に、好きなように腕前を揮わせた作品と思われる。八丈島ではキリシタン灯籠はこの一対しか発見されていない」と説明されている。

    優婆夷宝明神社 寺・神社・教会

  • ふるさと村の駐車場に戻る途中に大里の玉石垣があった。玉石垣とは、荒波に削られ角のとれた丸い石だけを使って、六方積みという手法で横長の玉石を規則正しく積み上げた石垣のこと。かつて島庁がおかれた大里地区の玉石垣は規模・保存状態ともに最良のもの。流人たちが海岸から玉石を運び、丹念に積み上げて築いた。

    ふるさと村の駐車場に戻る途中に大里の玉石垣があった。玉石垣とは、荒波に削られ角のとれた丸い石だけを使って、六方積みという手法で横長の玉石を規則正しく積み上げた石垣のこと。かつて島庁がおかれた大里地区の玉石垣は規模・保存状態ともに最良のもの。流人たちが海岸から玉石を運び、丹念に積み上げて築いた。

    大里の玉石垣 名所・史跡

  • ふるさと村の駐車場を出て、八丈一周道路を走る。島一番の交通難所だった大坂を上る。日露戦争戦勝記念に大坂トンネルが掘られた。写真はトンネルの手前にある展望台からの眺め。横間海岸から南原千畳岩海岸にかけての海岸線が見渡せ、八丈富士や八丈小島も見えるが、この日は頂上に雲がかかっていた。

    ふるさと村の駐車場を出て、八丈一周道路を走る。島一番の交通難所だった大坂を上る。日露戦争戦勝記念に大坂トンネルが掘られた。写真はトンネルの手前にある展望台からの眺め。横間海岸から南原千畳岩海岸にかけての海岸線が見渡せ、八丈富士や八丈小島も見えるが、この日は頂上に雲がかかっていた。

    大坂トンネル展望台 名所・史跡

  • トンネル手前の山側には大阪山砲台がある。日本軍は米軍上陸想定地点の一つとして南原を考えていて、その方向に向けて砲列を据えた。写真は直射砲台の跡。

    トンネル手前の山側には大阪山砲台がある。日本軍は米軍上陸想定地点の一つとして南原を考えていて、その方向に向けて砲列を据えた。写真は直射砲台の跡。

    大坂トンネル展望台 名所・史跡

  • トンネルを通り抜けてすぐに左に曲がると防衛道路があり、少し行くと人捨穴という立札が建っている。緩やかな斜面を少し上がると、写真の小さなお地蔵さんが置かれた洞窟がある。江戸時代に飢饉で口減らしのために老人を捨てた穴とも、風葬跡ともいわれている。真偽のほどは定かではない。

    トンネルを通り抜けてすぐに左に曲がると防衛道路があり、少し行くと人捨穴という立札が建っている。緩やかな斜面を少し上がると、写真の小さなお地蔵さんが置かれた洞窟がある。江戸時代に飢饉で口減らしのために老人を捨てた穴とも、風葬跡ともいわれている。真偽のほどは定かではない。

  • 八丈一周道路をさらに南に進むと、不受不施僧の墓がある。「不受不施派は日蓮宗の一宗派で、僧は信者でないものを供養せず、信者以外から布施は受けない、という宗制を固守し幕府に逆らったため危険視され、寛文6年(1666)キリシタン同様禁断の厳令が下り、多数の信者が磔、斬、流などの刑に処せられた」と案内板に書かれている。

    八丈一周道路をさらに南に進むと、不受不施僧の墓がある。「不受不施派は日蓮宗の一宗派で、僧は信者でないものを供養せず、信者以外から布施は受けない、という宗制を固守し幕府に逆らったため危険視され、寛文6年(1666)キリシタン同様禁断の厳令が下り、多数の信者が磔、斬、流などの刑に処せられた」と案内板に書かれている。

  • 「八丈島にも多数の流刑者が送られて来たが、それらの墓に終戦前まで本山の妙覚寺から清掃料が送られてきたという。封建時代における宗教弾圧のむごさを、目の当たりに見せられる墓標群である。昭和58年に、島内各地にあったものも集められ改修整備された」と記されている。不受不施僧には八丈島出身の日要、日諫がいるが、捕らえられ江戸で獄死している。

    「八丈島にも多数の流刑者が送られて来たが、それらの墓に終戦前まで本山の妙覚寺から清掃料が送られてきたという。封建時代における宗教弾圧のむごさを、目の当たりに見せられる墓標群である。昭和58年に、島内各地にあったものも集められ改修整備された」と記されている。不受不施僧には八丈島出身の日要、日諫がいるが、捕らえられ江戸で獄死している。

  • 八丈服部屋敷に行く。玉石垣の通用門にある案内板には「屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたもの」で、服部家については「初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、小舟方のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた」と説明されている。江戸時代、幕府に献上する黄八丈織りの御用船預かりの家で、服部家の屋敷跡になる。

    八丈服部屋敷に行く。玉石垣の通用門にある案内板には「屋敷入口の石垣は、流人近藤富蔵が築城形式に依って築いたもの」で、服部家については「初代は下田の出身であるが、二代目から代々八丈島の官船の内、小舟方のお舟預かりを勤めて莫大な資産を築いた」と説明されている。江戸時代、幕府に献上する黄八丈織りの御用船預かりの家で、服部家の屋敷跡になる。

    八丈服部屋敷 名所・史跡

  • 「船方の一生を図で示すが如く、その歴史は波瀾に富み、悲劇的な色彩を帯びて、豪勢を誇った家屋敷も」、現在では当時の建物自体は残っていないが、写真の樹齢700年ともいわれるソテツや亜熱帯の植物と玉石垣の庭も見事である。

    「船方の一生を図で示すが如く、その歴史は波瀾に富み、悲劇的な色彩を帯びて、豪勢を誇った家屋敷も」、現在では当時の建物自体は残っていないが、写真の樹齢700年ともいわれるソテツや亜熱帯の植物と玉石垣の庭も見事である。

    八丈服部屋敷 名所・史跡

  • 建物の中に入ると歴史展示コーナーがあり、服部家ゆかりの器や道具類、島の昔を懐かしむ織機などが展示されている。樫立地区に伝わる無形文化財の樫立踊りや八丈太鼓の上演も行われる。八丈服部屋敷は観光客に郷土芸能を披露する名所となっている。

    建物の中に入ると歴史展示コーナーがあり、服部家ゆかりの器や道具類、島の昔を懐かしむ織機などが展示されている。樫立地区に伝わる無形文化財の樫立踊りや八丈太鼓の上演も行われる。八丈服部屋敷は観光客に郷土芸能を披露する名所となっている。

    八丈服部屋敷 名所・史跡

  • 八丈服部屋敷から少し走ると写真の中将院の石室がある。案内板には「中将院は、大納言坊城俊完卿の末子で、修験法を会得していた。貞享2年(1685)3月罪科不明のまま八丈島に流罪となった。当時、樫立村では毎夜鬼が出没して、通りかかりの女、子供に悪ふざけをしていたが、彼がこれを退治して諏訪の庁に鎮め祀っ」たと説明されている。

    八丈服部屋敷から少し走ると写真の中将院の石室がある。案内板には「中将院は、大納言坊城俊完卿の末子で、修験法を会得していた。貞享2年(1685)3月罪科不明のまま八丈島に流罪となった。当時、樫立村では毎夜鬼が出没して、通りかかりの女、子供に悪ふざけをしていたが、彼がこれを退治して諏訪の庁に鎮め祀っ」たと説明されている。

  • 中将院の石室から八丈一周道路を東に7分ほど走って、細い道を南に行くと大竜ファーム BBQ農園レストラン男メシ食堂がある。うみかぜ椎茸農園が経営しているレストランで、椎茸やきくらげなどを使った豊富なメニューを提供している。

    中将院の石室から八丈一周道路を東に7分ほど走って、細い道を南に行くと大竜ファーム BBQ農園レストラン男メシ食堂がある。うみかぜ椎茸農園が経営しているレストランで、椎茸やきくらげなどを使った豊富なメニューを提供している。

    大竜ファーム 名所・史跡

  • 写真のAランチを注文。この日はカンパチの漬け丼とサラダ、味噌汁が付いていた。三原山に登るつもりだったが、HJPレンタカーの人は登らない方が良いということだった。唐滝や硫黄沼もガイドなしでは立ち入りできないとのことで、雨も降ったりやんだりだったのでどちらも諦めた。

    写真のAランチを注文。この日はカンパチの漬け丼とサラダ、味噌汁が付いていた。三原山に登るつもりだったが、HJPレンタカーの人は登らない方が良いということだった。唐滝や硫黄沼もガイドなしでは立ち入りできないとのことで、雨も降ったりやんだりだったのでどちらも諦めた。

    大竜ファーム 名所・史跡

  • レストランを出て北に走ると梅辻規清の墓がある。梅辻規清は、江戸時代末期の神道思想家で鳥伝神道の開祖で、1798(寛永10)年に山城上賀茂神社の社家に生まれた。江戸下谷池の端仲町に居を構え神道教法の本社として教えを広め、門弟信者が数千人に及び、活発な布教を恐れた幕府は1847(弘化4)年に八丈島に流し、1861(文久元)年に没した。

    レストランを出て北に走ると梅辻規清の墓がある。梅辻規清は、江戸時代末期の神道思想家で鳥伝神道の開祖で、1798(寛永10)年に山城上賀茂神社の社家に生まれた。江戸下谷池の端仲町に居を構え神道教法の本社として教えを広め、門弟信者が数千人に及び、活発な布教を恐れた幕府は1847(弘化4)年に八丈島に流し、1861(文久元)年に没した。

  • 梅辻規清の墓から東に3分ほど走ると裏見ヶ滝の駐車場に到着する。この日は雨が降ったり止んだりしていたので、雨が止むまで自動車の中で待った。雨が止んだので、駐車場から少し歩いて、写真の裏見ヶ滝の入口から滝に向かう。

    梅辻規清の墓から東に3分ほど走ると裏見ヶ滝の駐車場に到着する。この日は雨が降ったり止んだりしていたので、雨が止むまで自動車の中で待った。雨が止んだので、駐車場から少し歩いて、写真の裏見ヶ滝の入口から滝に向かう。

    裏見ケ滝 自然・景勝地

  • 裏見ヶ滝までの道は散策路として整備され、鬱蒼とした亜熱帯植物のジャングルの坂道を上って滝に向かう。

    裏見ヶ滝までの道は散策路として整備され、鬱蒼とした亜熱帯植物のジャングルの坂道を上って滝に向かう。

    裏見ケ滝 自然・景勝地

  • 裏見ヶ滝に行く途中に為朝神社石宮がある。鳥居はなかったが、写真のように神社に繋がる玉石の階段があった。玉石の階段は雨で濡れて滑りやすそうで、危険なので登るのを諦めた。保元の乱で敗れ1156(保元元)年に 伊豆大島に流された源為朝を祀る神社。為朝神社石宮には為朝が水路を整えたという言い伝えが残されている。

    裏見ヶ滝に行く途中に為朝神社石宮がある。鳥居はなかったが、写真のように神社に繋がる玉石の階段があった。玉石の階段は雨で濡れて滑りやすそうで、危険なので登るのを諦めた。保元の乱で敗れ1156(保元元)年に 伊豆大島に流された源為朝を祀る神社。為朝神社石宮には為朝が水路を整えたという言い伝えが残されている。

    裏見ケ滝 自然・景勝地

  • 散策路を少し歩くと流れ落ちる滝の裏側に遊歩道があり、歩いて通り抜けができる。滝の裏側からも眺められる。裏見ヶ滝は三原川が中之郷の水田用水路と交差する所にできた滝。滝の周囲には写真のように天然記念物のヘゴシダやフェニックス・ロベレニーが群生している。

    散策路を少し歩くと流れ落ちる滝の裏側に遊歩道があり、歩いて通り抜けができる。滝の裏側からも眺められる。裏見ヶ滝は三原川が中之郷の水田用水路と交差する所にできた滝。滝の周囲には写真のように天然記念物のヘゴシダやフェニックス・ロベレニーが群生している。

    裏見ケ滝 自然・景勝地

  • 滝の裏側を通り抜けて水路の対岸から滝を見ると、雨が降った後だったので、光に透けた水がシャワーのように降り注ぐ爽やかな光景が見られ、気持ちが良かった。奄美大島でも亜熱帯植物のヘゴシダの群生林を見たが、ずっと北にある八丈島はヘゴシダの北限になっている。

    滝の裏側を通り抜けて水路の対岸から滝を見ると、雨が降った後だったので、光に透けた水がシャワーのように降り注ぐ爽やかな光景が見られ、気持ちが良かった。奄美大島でも亜熱帯植物のヘゴシダの群生林を見たが、ずっと北にある八丈島はヘゴシダの北限になっている。

    裏見ケ滝 自然・景勝地

  • 恐竜時代のようなジャングルの散策路を歩いていると、滝の水が流れ落ちる水路には意外に水は少なかった。散策路を一周すると、写真の小さな橋に出る。これを渡ると滝の入口に戻ることができる。

    恐竜時代のようなジャングルの散策路を歩いていると、滝の水が流れ落ちる水路には意外に水は少なかった。散策路を一周すると、写真の小さな橋に出る。これを渡ると滝の入口に戻ることができる。

    裏見ケ滝 自然・景勝地

  • 裏見ヶ滝を南に走って海岸に出ると、足湯きらめきがある。眼前には太平洋の大海原が広がり、雄大な景色を眺めながら足湯が楽しめる。天気が良くなったので名前の通り、藍ヶ江のきらきらした海のきらめきが心地よい。

    裏見ヶ滝を南に走って海岸に出ると、足湯きらめきがある。眼前には太平洋の大海原が広がり、雄大な景色を眺めながら足湯が楽しめる。天気が良くなったので名前の通り、藍ヶ江のきらきらした海のきらめきが心地よい。

    中之郷温泉 足湯きらめき 温泉

  • 足湯きらめきから10分ほど走ると名古の展望台に到着する。高さ180mの断崖の上に展望台が設けられている。眼下には弓の形をした洞輪沢湾があり、半島状に張り出した小岩戸の鼻に連なる素晴らしい展望が広がる。展望台に上ると八丈島灯台も見える。

    足湯きらめきから10分ほど走ると名古の展望台に到着する。高さ180mの断崖の上に展望台が設けられている。眼下には弓の形をした洞輪沢湾があり、半島状に張り出した小岩戸の鼻に連なる素晴らしい展望が広がる。展望台に上ると八丈島灯台も見える。

    名古展望台 名所・史跡

  • 名古の展望台から3分ほどで八丈島灯台に到着。こんな道を入ってもいいのかと思うほどの細い道を少し行くと灯台が見える。現在は使われていないので灯台内には立ち入りできない。1951(昭和26)年に初点灯され、塔高17m、海面から96mの高さに白亜の灯台がある。

    名古の展望台から3分ほどで八丈島灯台に到着。こんな道を入ってもいいのかと思うほどの細い道を少し行くと灯台が見える。現在は使われていないので灯台内には立ち入りできない。1951(昭和26)年に初点灯され、塔高17m、海面から96mの高さに白亜の灯台がある。

    八丈島灯台 名所・史跡

  • 八丈島灯台から曲がりくねった八丈一周道路を15分ほど走ると登龍峠展望台に到着する。天気が良ければ八丈富士と八丈小島まで見えるが、この日は雲が垂れ込めていて、どちらの頂上も見えなかった。眼下には底土港、神湊港や三根の町並みが見渡せる。

    八丈島灯台から曲がりくねった八丈一周道路を15分ほど走ると登龍峠展望台に到着する。天気が良ければ八丈富士と八丈小島まで見えるが、この日は雲が垂れ込めていて、どちらの頂上も見えなかった。眼下には底土港、神湊港や三根の町並みが見渡せる。

    登龍峠展望 名所・史跡

  • 登龍峠の付近が最も曲がりくねった急坂となっている。登龍峠の名は「天に昇る龍のような道」ということに由来し、写真は三根地区の「龍」の壁画オブジェ。坂から眺めると、あたかも龍が昇天するように見えると言われている。登龍峠の手前の末吉地区のも龍の壁がある。

    登龍峠の付近が最も曲がりくねった急坂となっている。登龍峠の名は「天に昇る龍のような道」ということに由来し、写真は三根地区の「龍」の壁画オブジェ。坂から眺めると、あたかも龍が昇天するように見えると言われている。登龍峠の手前の末吉地区のも龍の壁がある。

  • 登龍峠展望台から12分ほどで底土港の駐車場に到着する。駐車場から川を渡ると人間魚雷「回天」二号壕跡がある。「昭和20年の春、本土決戦に備え特攻兵器の人間魚雷『回天』が、沖縄・九州・四国・近畿の各地方と、関東では唯一、この八丈島に第二回天隊の『回天』8基が配備された。そのうちの4基がこの底土基地」にあったと案内板に記されている。

    登龍峠展望台から12分ほどで底土港の駐車場に到着する。駐車場から川を渡ると人間魚雷「回天」二号壕跡がある。「昭和20年の春、本土決戦に備え特攻兵器の人間魚雷『回天』が、沖縄・九州・四国・近畿の各地方と、関東では唯一、この八丈島に第二回天隊の『回天』8基が配備された。そのうちの4基がこの底土基地」にあったと案内板に記されている。

  • 底土基地は陸側に崩落した1号壕、2号壕が海側にある。回天の格納壕は長さ37m、幅3m、高さ3.5mの大きさがあり、2箇所の壕に回天を2基づつ収納した。「回天隊員はそれぞれ格納壕の中で進発時期が来るのを待ち続けていた。…進発の機会は遂に訪れず、終戦となってのち、武装解除のため来島した米国艦隊が『回天』全部の爆破を指示」した。

    底土基地は陸側に崩落した1号壕、2号壕が海側にある。回天の格納壕は長さ37m、幅3m、高さ3.5mの大きさがあり、2箇所の壕に回天を2基づつ収納した。「回天隊員はそれぞれ格納壕の中で進発時期が来るのを待ち続けていた。…進発の機会は遂に訪れず、終戦となってのち、武装解除のため来島した米国艦隊が『回天』全部の爆破を指示」した。

  • 底土港の近くには写真の「鬼ごろし」の酒銘を刻んだ石碑がある。少し離れた所にある「八丈興発」の目印になっている。鹿児島の阿久根の商人である丹宗庄右衛門が琉球との密貿易の罪によって八丈島に流罪となった。当時、八丈島では雑穀を使ったドブロクを飲んでいたが、丹宗庄右衛門は芋焼酎の醸造に着手し、八丈島に定着した。

    底土港の近くには写真の「鬼ごろし」の酒銘を刻んだ石碑がある。少し離れた所にある「八丈興発」の目印になっている。鹿児島の阿久根の商人である丹宗庄右衛門が琉球との密貿易の罪によって八丈島に流罪となった。当時、八丈島では雑穀を使ったドブロクを飲んでいたが、丹宗庄右衛門は芋焼酎の醸造に着手し、八丈島に定着した。

  • 海岸沿いに北に行くと抜舟の場の碑がある。「浮喜田秀家が流されてから明治4年(1871)に至る265年間に八丈島には1917名の流人が送られて来た。流人の中には漁船を盗んで脱走を計る者も居たが、これを抜舟と呼び、11回も記録されている。しかし、…成功した記録は1件だけである。此所は漁船も多く、北側に面していて、抜舟に好都合のところだったらしい」と案内板に記されている。

    海岸沿いに北に行くと抜舟の場の碑がある。「浮喜田秀家が流されてから明治4年(1871)に至る265年間に八丈島には1917名の流人が送られて来た。流人の中には漁船を盗んで脱走を計る者も居たが、これを抜舟と呼び、11回も記録されている。しかし、…成功した記録は1件だけである。此所は漁船も多く、北側に面していて、抜舟に好都合のところだったらしい」と案内板に記されている。

    抜船の場 名所・史跡

  • 抜舟の場の近くに「流人の碑」があるはずだが、見つけられなかった。近くの店で聞くと廃棄されたとのことだった。八丈空港道路を通って写真のヤケンヶ浜海水浴場に出た。天然の岩に囲まれた海水浴場で、中央にも大きな岩がある。近くに海を正面に望む見晴らし台もある。

    抜舟の場の近くに「流人の碑」があるはずだが、見つけられなかった。近くの店で聞くと廃棄されたとのことだった。八丈空港道路を通って写真のヤケンヶ浜海水浴場に出た。天然の岩に囲まれた海水浴場で、中央にも大きな岩がある。近くに海を正面に望む見晴らし台もある。

  • 八丈空港道路を渡ると八重根のメットウ井戸がある。メットウは海産巻貝のギンタカハマの八丈方言。「西山(八丈富士)溶岩流が形成した裾野の、末端部に掘られた螺旋形を呈する井戸で、上部の直径は約20m、下部は約6~8mで、深さは約8mです。…この井戸は、石碑の銘文から明治13年(1880)頃に造られたと推定されています」と案内板に記されている。

    八丈空港道路を渡ると八重根のメットウ井戸がある。メットウは海産巻貝のギンタカハマの八丈方言。「西山(八丈富士)溶岩流が形成した裾野の、末端部に掘られた螺旋形を呈する井戸で、上部の直径は約20m、下部は約6~8mで、深さは約8mです。…この井戸は、石碑の銘文から明治13年(1880)頃に造られたと推定されています」と案内板に記されている。

    八重根のメットウ井戸 名所・史跡

  • 八重根のメットウ井戸から東に少し歩くと3方向が護岸された旧八重根海水浴場、その先に八重根港がある。岩礁を掘り込んだ漁港で、地元漁船の拠点漁港であるとともに周辺海域で操業する漁船の避難漁港として利用されている。天然岩、コンクリートによる歩道や階段など、防波堤の整備により港内静穏度の向上を図っている。

    八重根のメットウ井戸から東に少し歩くと3方向が護岸された旧八重根海水浴場、その先に八重根港がある。岩礁を掘り込んだ漁港で、地元漁船の拠点漁港であるとともに周辺海域で操業する漁船の避難漁港として利用されている。天然岩、コンクリートによる歩道や階段など、防波堤の整備により港内静穏度の向上を図っている。

  • 八重根港から八丈中央道路を5分ほど走った東京都八丈支庁横に、写真の名代一休庵がある。ここで夕食。店の前には広い駐車場があるので、自動車で行っても安心。店の中は広くはないが、カウンター席、テーブル席、座敷がある。

    八重根港から八丈中央道路を5分ほど走った東京都八丈支庁横に、写真の名代一休庵がある。ここで夕食。店の前には広い駐車場があるので、自動車で行っても安心。店の中は広くはないが、カウンター席、テーブル席、座敷がある。

    名代一休庵 グルメ・レストラン

  • 卵とじうどんとカレーライスの小を注文。卵とじうどんにはアシタバの天ぷらが入っていて、うどんはアシタバを練り込んだ手打ち麺。

    卵とじうどんとカレーライスの小を注文。卵とじうどんにはアシタバの天ぷらが入っていて、うどんはアシタバを練り込んだ手打ち麺。

    名代一休庵 グルメ・レストラン

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