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2018年10月スタート 世界一周 アメリカドライブ編<br /><br />5/29 デスバレー国立公園を後にして立ち寄った負の遺産観光<br />日系アメリカ人人強制収容所 マンザナー国定史跡見学のまとめデス

じんじん切なくなっちゃうマンザナー国定史跡

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2019/05/29 - 2019/05/29

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Indianal Jobs

Indianal Jobsさん

2018年10月スタート 世界一周 アメリカドライブ編

5/29 デスバレー国立公園を後にして立ち寄った負の遺産観光
日系アメリカ人人強制収容所 マンザナー国定史跡見学のまとめデス

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  • デスバレーから続く190号線から395号線に合流しローンパインの町を過ぎ北上、左手にはシエラネバダ山脈がどこまでも連なる マンザナー収容所はそのシエラネバダ山脈の麓にあります

    イチオシ

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    デスバレーから続く190号線から395号線に合流しローンパインの町を過ぎ北上、左手にはシエラネバダ山脈がどこまでも連なる マンザナー収容所はそのシエラネバダ山脈の麓にあります

  • マンザナー国定史跡(日系人収容所)に到着 まだ雪が多く残るシエラネバダ山脈から吹き降ろす風が冷たい<br /><br />マンザナー収容所は第二次世界大戦中1942年3月21日から1945年11月21まで3年8ヶ月に渡り運営された日系アメリカ人強制収容所で1935年に最後の住人が居なくなった廃村跡地に建てられました 1920年頃まではリンゴなどの果樹園が広がる一帯だったのでスペイン語のりんご園を意味する”Manzanar”と呼ばれていました<br /><br />全米に10ヶ所あった日系アメリカ人強制収容所の1つで、多い時でこのマンザナー収容所にはには1万人以上の日系アメリカ人が収容されていました(全米では11万人以上)

    マンザナー国定史跡(日系人収容所)に到着 まだ雪が多く残るシエラネバダ山脈から吹き降ろす風が冷たい

    マンザナー収容所は第二次世界大戦中1942年3月21日から1945年11月21まで3年8ヶ月に渡り運営された日系アメリカ人強制収容所で1935年に最後の住人が居なくなった廃村跡地に建てられました 1920年頃まではリンゴなどの果樹園が広がる一帯だったのでスペイン語のりんご園を意味する”Manzanar”と呼ばれていました

    全米に10ヶ所あった日系アメリカ人強制収容所の1つで、多い時でこのマンザナー収容所にはには1万人以上の日系アメリカ人が収容されていました(全米では11万人以上)

  • かつての収容所が国定史跡として認定されたマンザナー国定史跡ビジターセンター 元々はマンザナー高校の講堂として1944年に建てられたものでダンスパーティーも開かれた集いの場<br /><br />マンザナー国立史跡はビジターセンター内の資料館、収容所跡地も全て無料で見学することが可能<br /><br />営業時間 ビジターセンター: 09:00~16:30 収容所跡地: 夜明けから日没でセルフ見学可

    かつての収容所が国定史跡として認定されたマンザナー国定史跡ビジターセンター 元々はマンザナー高校の講堂として1944年に建てられたものでダンスパーティーも開かれた集いの場

    マンザナー国立史跡はビジターセンター内の資料館、収容所跡地も全て無料で見学することが可能

    営業時間 ビジターセンター: 09:00~16:30 収容所跡地: 夜明けから日没でセルフ見学可

  • ビジターセンター内にはショップも併設 日系アメリカ人強制収容所に関する書籍などお堅い内容がラインナップされている他、日本に関連するテーマだけあって和小物も販売されていました

    ビジターセンター内にはショップも併設 日系アメリカ人強制収容所に関する書籍などお堅い内容がラインナップされている他、日本に関連するテーマだけあって和小物も販売されていました

  • 館内展示スペースへ 第二次世界大戦勃発後にアメリカに移住していた日系人の排斥、送還、収容所内での暮らしぶりを分かり易く展示 (説明文が全て英語なのがちょっと残念)<br /><br />展示の締めは レーガン大統領時代にこの収容所は間違っていた”race prejudice, war hysteria and a failure of political leadersihp”と正式謝罪する映像が流されています 正式謝罪の後、収容者には1人当たり20,000ドル(約220万円)の慰謝料が支払われたそうですが正当な理由もなく自由を奪われた対価としては安すぎると思いました<br /><br />

    館内展示スペースへ 第二次世界大戦勃発後にアメリカに移住していた日系人の排斥、送還、収容所内での暮らしぶりを分かり易く展示 (説明文が全て英語なのがちょっと残念)

    展示の締めは レーガン大統領時代にこの収容所は間違っていた”race prejudice, war hysteria and a failure of political leadersihp”と正式謝罪する映像が流されています 正式謝罪の後、収容者には1人当たり20,000ドル(約220万円)の慰謝料が支払われたそうですが正当な理由もなく自由を奪われた対価としては安すぎると思いました

  • 展示スペースの様子 辺鄙な場所にある為か、テーマによるものか分かりませんが来場者は少な目ですが日本人なら是非訪れて欲しい場所 ワシントンのホロコースト記念博物館のような残虐性はありませんがある日を境に生活が一変 それが同じ日本人ルーツとなると見学にもおのずと熱が入ります

    展示スペースの様子 辺鄙な場所にある為か、テーマによるものか分かりませんが来場者は少な目ですが日本人なら是非訪れて欲しい場所 ワシントンのホロコースト記念博物館のような残虐性はありませんがある日を境に生活が一変 それが同じ日本人ルーツとなると見学にもおのずと熱が入ります

  • 当時の収容所の様子が分かるジオラマ 約1平方マイル四方の敷地に36のブロックに分けられたバラックには最大で約1万人の日系アメリカ人が収容されました<br /><br />バラックの合間には、畑や果樹園、リクリエーションのためのコートや運動場(剣道場・柔道場も)が設けられた他、収容された人々が働く工場も造られました

    当時の収容所の様子が分かるジオラマ 約1平方マイル四方の敷地に36のブロックに分けられたバラックには最大で約1万人の日系アメリカ人が収容されました

    バラックの合間には、畑や果樹園、リクリエーションのためのコートや運動場(剣道場・柔道場も)が設けられた他、収容された人々が働く工場も造られました

  • 天井から吊るされたスクリーンには収容された方々の名前が映し出されています 収容された日系アメリカ人は素行などの問題で判断されたわけでなく、ただ単純に“日系人”であるという民族の括りのみで収容されました

    天井から吊るされたスクリーンには収容された方々の名前が映し出されています 収容された日系アメリカ人は素行などの問題で判断されたわけでなく、ただ単純に“日系人”であるという民族の括りのみで収容されました

  • 新しく収容された人に対する注意文 アメリカ人と思って普通に暮らしていた人がいきなり囚人扱いになるという不条理さ

    新しく収容された人に対する注意文 アメリカ人と思って普通に暮らしていた人がいきなり囚人扱いになるという不条理さ

  • かつての収容所敷地内にあった建物は全て取り壊されており見学できる建物は全て修復されたもの 見学できる建物はBlock14と呼ばれるエリアの2棟、トイレ棟、食堂棟の4棟 残りは屋外見学となります

    かつての収容所敷地内にあった建物は全て取り壊されており見学できる建物は全て修復されたもの 見学できる建物はBlock14と呼ばれるエリアの2棟、トイレ棟、食堂棟の4棟 残りは屋外見学となります

  • Googleマップに落とした主な見学場所 基本車での移動となりますが周回する見学路は反時計回りに一方通行なので道順に沿って見学します

    Googleマップに落とした主な見学場所 基本車での移動となりますが周回する見学路は反時計回りに一方通行なので道順に沿って見学します

  • 14地区には2つの復元バラックが建てられており上の図のような配置となっています<br /><br />1.収容所の初期の居住スペースの様子<br />2.ブロックを治めるブロックマネージャー室<br />3.長い収容所生活の過程で改良された居住スペースと忠誠心調査についての展示<br />4.学校の教室を再現

    14地区には2つの復元バラックが建てられており上の図のような配置となっています

    1.収容所の初期の居住スペースの様子
    2.ブロックを治めるブロックマネージャー室
    3.長い収容所生活の過程で改良された居住スペースと忠誠心調査についての展示
    4.学校の教室を再現

  • 最初のセクション 開設初期の居住スペースの再現展示 1棟あたり4部屋に区切られて、20フィート2の1部屋に8人(2家族)が生活 支給品は裸電球1個の部屋にストーブ、ベッド、毛布、マットレスだけでした<br /><br />当初あてがわれた部屋は急ごしらえの為、隙間風が吹き込み冬は寒く、夏は砂埃が酷かったそうです<br /><br />鎖後は全て取り壊して建材として転売された為、かつての建物で現存する建物はありません

    最初のセクション 開設初期の居住スペースの再現展示 1棟あたり4部屋に区切られて、20フィート2の1部屋に8人(2家族)が生活 支給品は裸電球1個の部屋にストーブ、ベッド、毛布、マットレスだけでした

    当初あてがわれた部屋は急ごしらえの為、隙間風が吹き込み冬は寒く、夏は砂埃が酷かったそうです

    鎖後は全て取り壊して建材として転売された為、かつての建物で現存する建物はありません

  • 収監にあたっての十分な準備時間はなく、持ち込める荷物にも制限が課せられました<br /><br />“We could only carry what we could carry, and my suitcase was full of diapers and children’s clothes.”<br /><br />各収容所は真珠湾攻撃の翌年(1942年)に開設され、戦争が終結した1945年には閉鎖されましたが 収容所に移される際に全財産を失ったなどの理由でそのまま収容所内に留まる人も少なくなかったそうです<br /><br />ナチスの収容所と違い到着後に没収されることはありませんでしたが酷い話です

    収監にあたっての十分な準備時間はなく、持ち込める荷物にも制限が課せられました

    “We could only carry what we could carry, and my suitcase was full of diapers and children’s clothes.”

    各収容所は真珠湾攻撃の翌年(1942年)に開設され、戦争が終結した1945年には閉鎖されましたが 収容所に移される際に全財産を失ったなどの理由でそのまま収容所内に留まる人も少なくなかったそうです

    ナチスの収容所と違い到着後に没収されることはありませんでしたが酷い話です

  • 2番目のセクション ブロックマネージャー室 物品の支給や郵便窓口等に使用された部屋の再現<br /><br />1ブロックに居住バラックは14棟、トイレ・洗濯棟計4棟、食堂棟1棟が設けられ、1ブロックに最大300人程が暮らしました 収容所にいる間人々は住所、名前、そしてID番号が記された名札を常に携帯する必要があったそうです<br /><br />

    2番目のセクション ブロックマネージャー室 物品の支給や郵便窓口等に使用された部屋の再現

    1ブロックに居住バラックは14棟、トイレ・洗濯棟計4棟、食堂棟1棟が設けられ、1ブロックに最大300人程が暮らしました 収容所にいる間人々は住所、名前、そしてID番号が記された名札を常に携帯する必要があったそうです

  • 運動場 バラック1とバラック8の間にバスケットコートが再現されていました

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    運動場 バラック1とバラック8の間にバスケットコートが再現されていました

  • かつてバラックが建てられていた場所にはバラック番号が書かれた立札だけが残されています

    かつてバラックが建てられていた場所にはバラック番号が書かれた立札だけが残されています

  • 三番目のセクション 3年間の間に住人達によって改善された居住スペースの様子 1万人もの人口があれば様々な職業の人がいるは当然、家具が作れる人は家具を作り少しでも生活環境を良くしようと努めました 

    三番目のセクション 3年間の間に住人達によって改善された居住スペースの様子 1万人もの人口があれば様々な職業の人がいるは当然、家具が作れる人は家具を作り少しでも生活環境を良くしようと努めました 

  • 教会や野外劇場、新聞編集室などがあった他病院もあり、3年間の間で生まれた子も少なくありません

    教会や野外劇場、新聞編集室などがあった他病院もあり、3年間の間で生まれた子も少なくありません

  • 同じく3番目のセッション 忠誠心調査に関する展示やかつての収容者達の証言を集めた映像展示があります<br /><br />収容された日系アメリカ人にはアメリカ政府に忠誠心があるかどうか下記のような調査を受けました<br /><br />・あなたは米軍に従軍する意思はあるか? また、従軍した際に、どこの戦地へも出征する意思はあるか?<br />・あなたは米国へ忠誠を誓い、米国をいかなる脅威から守る意思があるか?<br />・また、あなたは日本国天皇or自国への忠誠心を放棄する意思はあるか?<br /><br />政府による強制収容とこの忠誠心調査は日系アメリカ人同士に大きな亀裂を生じさせ、収容所内では、争い事や揉め事が起こったそうです

    同じく3番目のセッション 忠誠心調査に関する展示やかつての収容者達の証言を集めた映像展示があります

    収容された日系アメリカ人にはアメリカ政府に忠誠心があるかどうか下記のような調査を受けました

    ・あなたは米軍に従軍する意思はあるか? また、従軍した際に、どこの戦地へも出征する意思はあるか?
    ・あなたは米国へ忠誠を誓い、米国をいかなる脅威から守る意思があるか?
    ・また、あなたは日本国天皇or自国への忠誠心を放棄する意思はあるか?

    政府による強制収容とこの忠誠心調査は日系アメリカ人同士に大きな亀裂を生じさせ、収容所内では、争い事や揉め事が起こったそうです

  • 4番目のセクションは 学校に関する展示 収容所内には子供も沢山いたので当然学校(幼稚園から高校まで)もありました

    4番目のセクションは 学校に関する展示 収容所内には子供も沢山いたので当然学校(幼稚園から高校まで)もありました

  • 幼稚園と小学生以上のクラスの復元展示 教室は綺麗に復元され過ぎていてちょっとリアリティが欠けていました 子供が一番多かった時でk-12人口(幼稚園から高校)で約2100人の子供が収容所内にいたそうです

    幼稚園と小学生以上のクラスの復元展示 教室は綺麗に復元され過ぎていてちょっとリアリティが欠けていました 子供が一番多かった時でk-12人口(幼稚園から高校)で約2100人の子供が収容所内にいたそうです

  • アメリカで生まれた子供たちは何も分からずそれまでの生活が一変 戦争の一番の犠牲者は子供という言葉がありますが本当にそうかもしれません

    アメリカで生まれた子供たちは何も分からずそれまでの生活が一変 戦争の一番の犠牲者は子供という言葉がありますが本当にそうかもしれません

  • 学校行事に関する年表 高校にはフットボールやバスケットチームもあったそうです よく考えれば収容所に収監される前はフツーに学校へ行き、クラブ活動もフツーに行っていたのですから・・・

    学校行事に関する年表 高校にはフットボールやバスケットチームもあったそうです よく考えれば収容所に収監される前はフツーに学校へ行き、クラブ活動もフツーに行っていたのですから・・・

  • 食堂棟近くにに再現されたトイレ棟(女子) 各居住棟にはトレイ・シャワーは整備されていないので共同トイレの利用となりますが・・・

    食堂棟近くにに再現されたトイレ棟(女子) 各居住棟にはトレイ・シャワーは整備されていないので共同トイレの利用となりますが・・・

  • トイレ・シャワーには仕切りがなくプライベートがまるで考慮されていません

    トイレ・シャワーには仕切りがなくプライベートがまるで考慮されていません

  • この建物では冬は寒すぎじゃないか?

    この建物では冬は寒すぎじゃないか?

  • 洗面所 鏡は無かったのでしょうか? お湯が出たようなのでそこは救われます

    洗面所 鏡は無かったのでしょうか? お湯が出たようなのでそこは救われます

  • 最後の見学は食堂棟

    イチオシ

    最後の見学は食堂棟

  • 各ブロックに大きな食堂棟が1つ 1日3食 毎回約300食の食事がこの食堂棟で提供されていました

    各ブロックに大きな食堂棟が1つ 1日3食 毎回約300食の食事がこの食堂棟で提供されていました

  • 収容所が開設された当初は全てのブロックが整っていなった為、1つの食堂で800人分の食事を3交代(朝昼晩だと2400食!!)で提供したこともあったそうです

    収容所が開設された当初は全てのブロックが整っていなった為、1つの食堂で800人分の食事を3交代(朝昼晩だと2400食!!)で提供したこともあったそうです

  • 配膳所と食堂の様子 ここで300人分の食事を提供するなんて想像ができません

    配膳所と食堂の様子 ここで300人分の食事を提供するなんて想像ができません

  • スペースと時間が限られていた為、子供の行儀が悪くなった 食事の躾ができないという不満もあったそうです

    スペースと時間が限られていた為、子供の行儀が悪くなった 食事の躾ができないという不満もあったそうです

  • 収容所内には畑や果樹園、養鶏所もあり自給自足に勤めたそうです 日本人のやる事だから良く働き、より良い作物を作ろうと努力したことでしょう

    収容所内には畑や果樹園、養鶏所もあり自給自足に勤めたそうです 日本人のやる事だから良く働き、より良い作物を作ろうと努力したことでしょう

  • 収容所の中で暮らす人はそれまで普通の生活をしてきた普通の市民 季節ごとパーティーや餅つきが行われるなどして制約がある中でも努力工夫して暮らしていた様子が見て取れます

    収容所の中で暮らす人はそれまで普通の生活をしてきた普通の市民 季節ごとパーティーや餅つきが行われるなどして制約がある中でも努力工夫して暮らしていた様子が見て取れます

  • 餅つき大会の様子

    餅つき大会の様子

  • ロック14以降は車で移動しながら立ち寄りスポットを巡ります 最初は収容者の手によって造られた日本公園

    ロック14以降は車で移動しながら立ち寄りスポットを巡ります 最初は収容者の手によって造られた日本公園

  • マンザナーを含む各地の収容所では苦しい生活から解放されることを目的に庭造りが盛んに行われ、各ブロックで競うように庭園を造りました 34ブロックの住人によって造られたこの庭園はマンザナー収容所の中でも最も精巧な庭園とされています

    マンザナーを含む各地の収容所では苦しい生活から解放されることを目的に庭造りが盛んに行われ、各ブロックで競うように庭園を造りました 34ブロックの住人によって造られたこの庭園はマンザナー収容所の中でも最も精巧な庭園とされています

  • 日本庭園の奥にはリンゴなどを栽培した果樹園もあり、現在も名残を見る事が出来ますが車ではアクセスできないので庭園だけ見て先に進みます

    日本庭園の奥にはリンゴなどを栽培した果樹園もあり、現在も名残を見る事が出来ますが車ではアクセスできないので庭園だけ見て先に進みます

  • 慰霊塔 シエラネバダ山脈を背景に建つ真っ白な慰霊塔<br />収容所では延べ135名が亡くなり、そのうち15名がこの地に埋葬され、残りの方は故郷の墓地に埋葬されたそうです

    イチオシ

    慰霊塔 シエラネバダ山脈を背景に建つ真っ白な慰霊塔
    収容所では延べ135名が亡くなり、そのうち15名がこの地に埋葬され、残りの方は故郷の墓地に埋葬されたそうです

  • May you find peace

    May you find peace

  • You are love

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  • 収容所の周りを取り囲むフェンス 僅かな手荷物だけでこの何もない地に強制送還された人の想いはどれ程のものだったのでしょうか? フェンスの外の景色をどのような気持ちで眺めたのでしょうか?<br /><br />想像しても想像しきれせんが本当に切なさでいっぱいになりました

    イチオシ

    収容所の周りを取り囲むフェンス 僅かな手荷物だけでこの何もない地に強制送還された人の想いはどれ程のものだったのでしょうか? フェンスの外の景色をどのような気持ちで眺めたのでしょうか?

    想像しても想像しきれせんが本当に切なさでいっぱいになりました

  • 周回コースの終わり近くには、かつて工場が建てらていた工場跡地があります 工場では陸軍が使用する迷彩ネットが作られていましたが、作製に当れるのは2世である米国市民のみとされていました

    周回コースの終わり近くには、かつて工場が建てらていた工場跡地があります 工場では陸軍が使用する迷彩ネットが作られていましたが、作製に当れるのは2世である米国市民のみとされていました

  • 周回路の終わりはMPが詰めていた検問所があり、出入りするすべての車がチェックされました<br /><br />この場所周辺のエリアは監視スタッフ用の住居が建てられてた場所となります

    周回路の終わりはMPが詰めていた検問所があり、出入りするすべての車がチェックされました

    この場所周辺のエリアは監視スタッフ用の住居が建てられてた場所となります

  • 周回道路をぐるっと回り最後に訪れた消防署(ビジターセンターの近くので最初に見てもOK)

    周回道路をぐるっと回り最後に訪れた消防署(ビジターセンターの近くので最初に見てもOK)

  • 1942年7月1日~1945年6月30日の間に起きた火災は全部で91軒 内18件が食堂棟、27件がバラックでの火災 消防隊員は収容所の住人で給料は消防隊員は月16ドル、署長は月19ドルの月給を得ていたそうです (カモフラージュネット工場の月給も16ドル)<br /><br />有事の時は大変ですが普段は仕事らしい仕事がないので人気の仕事だったそうです

    1942年7月1日~1945年6月30日の間に起きた火災は全部で91軒 内18件が食堂棟、27件がバラックでの火災 消防隊員は収容所の住人で給料は消防隊員は月16ドル、署長は月19ドルの月給を得ていたそうです (カモフラージュネット工場の月給も16ドル)

    有事の時は大変ですが普段は仕事らしい仕事がないので人気の仕事だったそうです

  • 建物の中には当時の消防車が残されていました

    建物の中には当時の消防車が残されていました

  • 監視塔 収容所の周囲にはこのような監視塔が8塔置かれ、機関銃を携えた監視兵が常に監視していたそうです

    監視塔 収容所の周囲にはこのような監視塔が8塔置かれ、機関銃を携えた監視兵が常に監視していたそうです

  • 見学終了時、空を見上げると空軍の爆撃機らしき機体が上空を低空飛行していきました<br /><br />戦争に関する負の遺産観光の後に戦闘機を見てまた切なくなりました

    見学終了時、空を見上げると空軍の爆撃機らしき機体が上空を低空飛行していきました

    戦争に関する負の遺産観光の後に戦闘機を見てまた切なくなりました

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  • GenKiさん 2021/06/30 12:04:25
    日系人強制収容
    はじめまして。
    「マンザナー」のワードに興味を持ち、拝見しました。

    私はハワイですが日系人に関わる活動をしているため、日系にまつわるワードには反応してしまいますが、日本の方が日系の歴史に興味を示し、関連施設を訪問される事をとても嬉しく思います。

    戦争時とは言え、やはりあの強制収容はアメリカ合衆国の憲法違反でした。そして憲法の理念に反していました。もちろん、ドイツ系やイタリア系も強制収容されていますが、日系はその比ではありませんでした。

    但し、日系人の強制収容所は、10カ所ではありません。
    大統領が署名した大統領令第9102によって設立された戦時移住局の管轄がこの10カ所であって、他に司法省が管轄する収容所もあり、そちらにも多くの日系家族が収容されており、司法省管轄のクリスタルシティキャンプに収容されていた二世の女性から話を聞いた事があります。

    ハワイにも、大きな収容所としてサンドアイランドとホノウリウリがありました。小さなキャンプや一時的な収容場所をあげたらきりがないぐらいです(笑)。

    また、忠誠登録の質問は、3つではなく2つですね。
    33項目あった質問のうち、その第27番目は、徴兵年齢に達していた男子に「あなたはいかなる場所にあっても戦闘義務をはたすべく合衆国軍隊にすすんで奉仕する用意はありますか」と問い、続く第28番目の質問は、全収容者に対して「あなたは無条件でアメリカ合衆国に忠誠を誓い、合衆国を外国や国内の敵対する力の攻撃から守り、また、日本国天皇をはじめいかなる外国政府・権力・組織に対しても忠誠も服従もしない、と拒絶することを誓えますか」と質しています。

    この二つの質問に対して「No」と答えた者が、のちに「ノーノー・ボーイ」と呼ばれ、キャンプ内での日系人の対立を生みました。

    そして、日系二世部隊の結成によって、米国軍で最もメダルを授与されましたが、最も多くの犠牲者も出しました。

    戦争は、人間を苦しめますが、一方で、戦争が起こらないように人間が監視し意志を示さないと行けませんね。

    長々と失礼しました。

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