心斎橋・淀屋橋旅行記(ブログ) 一覧に戻る
ロンドン・ナショナル・ギャラリー(略称:LNG)は、1824年に国家制定法により国民による国民のために設立された年間入館者数600万人を誇る国際的な美術館です。欧州の美術館にありがちな王室コレクションを母体にするのではなく、銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインの個人コレクション38点とその邸宅を基盤に創立されました。別名「西洋美術の教科書」とも呼ばれるほどコレクションが魅力的な美術館です。<br />現在はロンドン中心部にあるトラファルガー広場近隣に移転し、広場に面して建つ世界屈指の美の殿堂にはティツィアーノをはじめルーベンス、フェルメール、ゴッホ、モネまでアート好きには目の眩むような2300点程に及ぶ名画を所蔵しています。<br />一方、今般のLNG展はLNG所蔵の傑作が61点も同時に来日する史上初の展覧会です。同館はまとまった数の作品を貸し出すことに慎重で、今まで英国外でこのような所蔵作品展が開催されたことはありませんでした。<br />大阪展は、2020年11月3日~2021年1月31日の期間、北区中之島にある国立国際美術館にて開催されています。

情緒纏綿 大阪市中之島②国立国際美術館「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」

43いいね!

2020/11/27 - 2020/11/27

161位(同エリア1491件中)

0

38

montsaintmichel

montsaintmichelさん

ロンドン・ナショナル・ギャラリー(略称:LNG)は、1824年に国家制定法により国民による国民のために設立された年間入館者数600万人を誇る国際的な美術館です。欧州の美術館にありがちな王室コレクションを母体にするのではなく、銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインの個人コレクション38点とその邸宅を基盤に創立されました。別名「西洋美術の教科書」とも呼ばれるほどコレクションが魅力的な美術館です。
現在はロンドン中心部にあるトラファルガー広場近隣に移転し、広場に面して建つ世界屈指の美の殿堂にはティツィアーノをはじめルーベンス、フェルメール、ゴッホ、モネまでアート好きには目の眩むような2300点程に及ぶ名画を所蔵しています。
一方、今般のLNG展はLNG所蔵の傑作が61点も同時に来日する史上初の展覧会です。同館はまとまった数の作品を貸し出すことに慎重で、今まで英国外でこのような所蔵作品展が開催されたことはありませんでした。
大阪展は、2020年11月3日~2021年1月31日の期間、北区中之島にある国立国際美術館にて開催されています。

旅行の満足度
5.0

PR

  • 国立国際美術館<br />コロナ禍の開催ということもあり、事前に時間帯を予約しての入館になります。<br />予約した時刻の30分後であれば、平日ならほぼ並ばずに入館できます。また、入館者に余裕がある場合は、午後のみ当日券も販売されています。当日券があるかどうかは、入口におられる係員さんに確認すれば教えていただけます。

    国立国際美術館
    コロナ禍の開催ということもあり、事前に時間帯を予約しての入館になります。
    予約した時刻の30分後であれば、平日ならほぼ並ばずに入館できます。また、入館者に余裕がある場合は、午後のみ当日券も販売されています。当日券があるかどうかは、入口におられる係員さんに確認すれば教えていただけます。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン<br />エントランスホールに入ると、地下へと降りる階段やエスカレータが来館者を出迎えます。地下1階のパブリックゾーンを経て、地下2階~3階の展示室へと下りていきます。動線の主体をなすエスカレータ・スペースは地上部のエントランスゲートに覆われており、天井全体が巨大なトップライトと化して自然光が降り注ぎます。それ故、地下2階までは自然採光が可能な展示室となり、対照的に地下3階は人工採光による展示室となっています。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    エントランスホールに入ると、地下へと降りる階段やエスカレータが来館者を出迎えます。地下1階のパブリックゾーンを経て、地下2階~3階の展示室へと下りていきます。動線の主体をなすエスカレータ・スペースは地上部のエントランスゲートに覆われており、天井全体が巨大なトップライトと化して自然光が降り注ぎます。それ故、地下2階までは自然採光が可能な展示室となり、対照的に地下3階は人工採光による展示室となっています。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン<br />美術館の展示スペースが地下に潜っているのにはそれなりの理由があります。大阪市立科学館の敷地の地下を利用することを前提条件とし、完全地下型美術館として計画されたのです。<br />一方、こうした地下型美術館がこれまでに数多構想されてきたのにも理由があります。<br />第1に、美術作品は自然光により劣化するため、窓のない密閉空間で展示する方がよいこと。<br />第2に、地下空間は温熱環境が比較的安定しており、美術作品の保存に好都合なスペースとできること。<br />第3に、地下は遮音性が高いため、静かに作品を鑑賞する上で快適な環境を作り易いこと。<br />第4に、劇場とは異なり、一時に大勢の人が出入りすることが少ないため、避難計画の観点では地下空間を計画し易いこと。<br />一方、ペリ氏は展示室を「ホワイトキューブ」というイメージで捉えています。 彼がニューヨーク近代美術館(MOMA)を設計する際に学芸員から聞いた話だそうですが、 「美術館の展示室は白い箱が理想」だそうです。美術を展示するには、 白くて何にでも使えるフレキシブルな空間であるべきという合理的な考え方です。しかし、さすがに特別展ゆえ、雰囲気を演出するためシックな赤壁に変えられています。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    美術館の展示スペースが地下に潜っているのにはそれなりの理由があります。大阪市立科学館の敷地の地下を利用することを前提条件とし、完全地下型美術館として計画されたのです。
    一方、こうした地下型美術館がこれまでに数多構想されてきたのにも理由があります。
    第1に、美術作品は自然光により劣化するため、窓のない密閉空間で展示する方がよいこと。
    第2に、地下空間は温熱環境が比較的安定しており、美術作品の保存に好都合なスペースとできること。
    第3に、地下は遮音性が高いため、静かに作品を鑑賞する上で快適な環境を作り易いこと。
    第4に、劇場とは異なり、一時に大勢の人が出入りすることが少ないため、避難計画の観点では地下空間を計画し易いこと。
    一方、ペリ氏は展示室を「ホワイトキューブ」というイメージで捉えています。 彼がニューヨーク近代美術館(MOMA)を設計する際に学芸員から聞いた話だそうですが、 「美術館の展示室は白い箱が理想」だそうです。美術を展示するには、 白くて何にでも使えるフレキシブルな空間であるべきという合理的な考え方です。しかし、さすがに特別展ゆえ、雰囲気を演出するためシックな赤壁に変えられています。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン<br />中之島地区は堂島川と土佐堀川に囲まれた中州にあり、その地盤は多くの水分を含んでいます。地下水の浸入を防いで湿気を嫌う美術品を守るため、躯体の地下外壁は外側に防水層を設置する外防水を施しています。また周辺の地盤が変形するのを最小限に留めるため、掘削には逆打ち工法を用いています。逆打ち工法とは、地下階を持つコンクリート構造物を造る工法のひとつで、原理的には通常の工法とは逆に、地上1階の床を施工後、これを支保工として下部を掘削して下階の施工を進めていく工法です。このように工法にも多様な工夫がなされた建築物です。<br />一方で懸念されるのは南海トラフ地震などによる津波の被害です。これは建物のデザインの話ではなく、海抜ゼロm地帯に地下型美術館を採用した基本コンセプトの是非です。ピカソやセザンヌ等の名画を所蔵する美術館が水没するのは人類にとっての損失とも言えます。2000年初頭でも南海トラフ地震は懸念されており、その津波の脅威もあったはずですが、どんな経緯で地下型美術館に決まったのか興味深い所です。因みに、大阪市と大阪市博物館機構が2021年度の開館を目指している新美術館「大阪中之島美術館」も中之島にありますが、こちらは津波の影響を鑑みて地上5階建てにしています。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    中之島地区は堂島川と土佐堀川に囲まれた中州にあり、その地盤は多くの水分を含んでいます。地下水の浸入を防いで湿気を嫌う美術品を守るため、躯体の地下外壁は外側に防水層を設置する外防水を施しています。また周辺の地盤が変形するのを最小限に留めるため、掘削には逆打ち工法を用いています。逆打ち工法とは、地下階を持つコンクリート構造物を造る工法のひとつで、原理的には通常の工法とは逆に、地上1階の床を施工後、これを支保工として下部を掘削して下階の施工を進めていく工法です。このように工法にも多様な工夫がなされた建築物です。
    一方で懸念されるのは南海トラフ地震などによる津波の被害です。これは建物のデザインの話ではなく、海抜ゼロm地帯に地下型美術館を採用した基本コンセプトの是非です。ピカソやセザンヌ等の名画を所蔵する美術館が水没するのは人類にとっての損失とも言えます。2000年初頭でも南海トラフ地震は懸念されており、その津波の脅威もあったはずですが、どんな経緯で地下型美術館に決まったのか興味深い所です。因みに、大阪市と大阪市博物館機構が2021年度の開館を目指している新美術館「大阪中之島美術館」も中之島にありますが、こちらは津波の影響を鑑みて地上5階建てにしています。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン 高松次郎『影』(1977年)<br />半円形の壁に描かれた巨大な「影」の絵画です。影は実在に伴う存在ですが、影だけを取り出した時、実在は何処へ行くのでしょうか?高松氏はすでに不在ですが、不在をテーマにした彼の存在が認識できる作品のひとつと言えます。<br />1958年に東京芸術大学美術学部油画科を卒業した高松氏は、「点」や「紐」、「影」、「遠近法」、「波」、「単体」、「複合体」、「熱帯」、「原始」などのシリーズ作品を手掛けました。「不在性の論理」を確立し、作家としての異才を不動のものとしたのがこの「影」シリーズでした。果敢に挑戦し続けることを強いられたという点ではモダニストの宿命を背負っていたと言えますが、虚構と現実のきわどいバランスを明快に表現しようという意識は常に一貫していました。中でも「影」シリーズは彼にとって殊更思い入れがあり、1998年に逝去する直前にも「影」の新作を発表したことなどからもそれが窺えます。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン 高松次郎『影』(1977年)
    半円形の壁に描かれた巨大な「影」の絵画です。影は実在に伴う存在ですが、影だけを取り出した時、実在は何処へ行くのでしょうか?高松氏はすでに不在ですが、不在をテーマにした彼の存在が認識できる作品のひとつと言えます。
    1958年に東京芸術大学美術学部油画科を卒業した高松氏は、「点」や「紐」、「影」、「遠近法」、「波」、「単体」、「複合体」、「熱帯」、「原始」などのシリーズ作品を手掛けました。「不在性の論理」を確立し、作家としての異才を不動のものとしたのがこの「影」シリーズでした。果敢に挑戦し続けることを強いられたという点ではモダニストの宿命を背負っていたと言えますが、虚構と現実のきわどいバランスを明快に表現しようという意識は常に一貫していました。中でも「影」シリーズは彼にとって殊更思い入れがあり、1998年に逝去する直前にも「影」の新作を発表したことなどからもそれが窺えます。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン <br />地下2階から地下1階の天井までは吹き抜けになっており、そのスペースにも多様な展示物が常時展示されています。<br />

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    地下2階から地下1階の天井までは吹き抜けになっており、そのスペースにも多様な展示物が常時展示されています。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン <br />ジョアン・ミロ『無垢の笑い』 (1969年)陶板画<br />元々は、1970年開催の大阪万博の日本瓦斯協会のパビリオンのために77歳のミロが制作した作品です。その後、旧国立国際美術館発足後の所蔵作品第1号となり、美術館の顔として今日も来館者を出迎えています。大阪万博のシンボルと言えば岡本太郎氏『太陽の塔』が有名ですが、ミロの作品もインパクトがあります。高さ5m、横幅12m、陶板640枚を使い、ミロらしい鮮やかな赤や青、黄、緑に、真直ぐにこちらを見つめる数多の瞳…。壁画のテーマは「笑い」ですから、観る者に大阪の文化である笑いを求めているのかも…。<br />ミロは来日し、日本で制作したそうです。また、焼く前の陶板に直接絵を描き、釉薬も自らかけたそうです。陶板はスペイン東部ガリーファ町の陶芸家ジュセップ・イゥエンス・アルティガスが所有する登り窯で焼かれましたが、その窯は益子焼で有名な陶芸家 浜田庄司氏が指導して築かれたものだそうです。その意味では、ミロ・アルティガス・益子焼の日本・スペイン合作とも言えます。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    ジョアン・ミロ『無垢の笑い』 (1969年)陶板画
    元々は、1970年開催の大阪万博の日本瓦斯協会のパビリオンのために77歳のミロが制作した作品です。その後、旧国立国際美術館発足後の所蔵作品第1号となり、美術館の顔として今日も来館者を出迎えています。大阪万博のシンボルと言えば岡本太郎氏『太陽の塔』が有名ですが、ミロの作品もインパクトがあります。高さ5m、横幅12m、陶板640枚を使い、ミロらしい鮮やかな赤や青、黄、緑に、真直ぐにこちらを見つめる数多の瞳…。壁画のテーマは「笑い」ですから、観る者に大阪の文化である笑いを求めているのかも…。
    ミロは来日し、日本で制作したそうです。また、焼く前の陶板に直接絵を描き、釉薬も自らかけたそうです。陶板はスペイン東部ガリーファ町の陶芸家ジュセップ・イゥエンス・アルティガスが所有する登り窯で焼かれましたが、その窯は益子焼で有名な陶芸家 浜田庄司氏が指導して築かれたものだそうです。その意味では、ミロ・アルティガス・益子焼の日本・スペイン合作とも言えます。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン <br />アレクサンダー・カルダー『ロンドン』(1962年)動く彫刻(モビール)<br />地下1階のエントランスには建物と一体型の作品が展示されています。これらは万博公園にあった旧館から引き継がれた作品です。<br />米国彫刻家カルダー氏は、現代彫刻史上において重要な作家であり、モビールの生みの親でもあります。1930年代初頭、パリに滞在してモンドリアンやミロ、デュシャンなど往時のパリ美術界をリードしていた芸術家たちとの交流を通じて抽象美術やシュールレアリズムなど最先端芸術の影響を受けました。特にモンドリアンに傾倒し、モンドリアンの絵を3次元化するが如くモビール制作に没頭しました。モビールとスタビル(原色の金属板の立体構成による動かない作品)は、彼の芸術的才能とアブストラクトアート、工学知識の融合から創生されたアートです。<br />モビールはどの作品もシンプルかつ繊細ですが、赤や黄色などの鮮やかな色使いやストラクチャーによってはパワフルにも映ります。本作のフワフワ感にはとても癒されました。<br />生前、彼はこう語りました。「私は、動きの要素のすべてをモビールに注ぎ込もうと試みてきた。あらゆる動きをいかに調和させられるか、そして新たな美の可能性に到達できるかということなのです」。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    アレクサンダー・カルダー『ロンドン』(1962年)動く彫刻(モビール)
    地下1階のエントランスには建物と一体型の作品が展示されています。これらは万博公園にあった旧館から引き継がれた作品です。
    米国彫刻家カルダー氏は、現代彫刻史上において重要な作家であり、モビールの生みの親でもあります。1930年代初頭、パリに滞在してモンドリアンやミロ、デュシャンなど往時のパリ美術界をリードしていた芸術家たちとの交流を通じて抽象美術やシュールレアリズムなど最先端芸術の影響を受けました。特にモンドリアンに傾倒し、モンドリアンの絵を3次元化するが如くモビール制作に没頭しました。モビールとスタビル(原色の金属板の立体構成による動かない作品)は、彼の芸術的才能とアブストラクトアート、工学知識の融合から創生されたアートです。
    モビールはどの作品もシンプルかつ繊細ですが、赤や黄色などの鮮やかな色使いやストラクチャーによってはパワフルにも映ります。本作のフワフワ感にはとても癒されました。
    生前、彼はこう語りました。「私は、動きの要素のすべてをモビールに注ぎ込もうと試みてきた。あらゆる動きをいかに調和させられるか、そして新たな美の可能性に到達できるかということなのです」。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン <br />須田悦弘『チューリップ』(2006年)<br />木彫りの植物のインスタレーションで知られる須田悦弘氏の作品です。周囲の空間も作品の一部と捉えるインスタレーションという表現手法のため、作品を空間の何処に置くかに腐心されたそうです。エスカレータを下っていくと右手側にあり、地下2階からの柱の上の方に楚々と咲いています。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    須田悦弘『チューリップ』(2006年)
    木彫りの植物のインスタレーションで知られる須田悦弘氏の作品です。周囲の空間も作品の一部と捉えるインスタレーションという表現手法のため、作品を空間の何処に置くかに腐心されたそうです。エスカレータを下っていくと右手側にあり、地下2階からの柱の上の方に楚々と咲いています。

  • 須田悦弘『チューリップ』(2006年)<br />凛とした一輪のチューリップは葉っぱの先一点だけで柱に固定されており、真近で見られるのはエスカレータで通り過ぎるその一瞬だけです。<br />2006年に開催された「三つの個展:伊藤在、今村源、須田悦弘」のために制作された作品であり、その後、今日までそのままの姿で常時展示されています。

    須田悦弘『チューリップ』(2006年)
    凛とした一輪のチューリップは葉っぱの先一点だけで柱に固定されており、真近で見られるのはエスカレータで通り過ぎるその一瞬だけです。
    2006年に開催された「三つの個展:伊藤在、今村源、須田悦弘」のために制作された作品であり、その後、今日までそのままの姿で常時展示されています。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン <br />ヘンリー・ムーア 『ナイフ・エッジ』(1961年)<br />「立つ人体像」シリーズに属する作品のひとつです。正面から見ると質量感のあるブロンズ製の彫刻ですが、側面から見ると意外にも平ぺったい作品に変身します。それが刃物の先に似ているところから『ナイフ・エッジ』と呼ばれますが、名付け親はムーア氏ではないそうです。見る角度により人は優しくも力強くも見えるということを暗喩しているのかもしれません。<br />ムーア氏は、20世紀の英国を代表する芸術家・彫刻家で、「彫刻は野外の芸術である」と語っています。炭鉱夫の息子としてヨークシャーのカッスルフォードに生まれ、大理石やブロンズを使った大きな抽象彫刻で知られています。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    ヘンリー・ムーア 『ナイフ・エッジ』(1961年)
    「立つ人体像」シリーズに属する作品のひとつです。正面から見ると質量感のあるブロンズ製の彫刻ですが、側面から見ると意外にも平ぺったい作品に変身します。それが刃物の先に似ているところから『ナイフ・エッジ』と呼ばれますが、名付け親はムーア氏ではないそうです。見る角度により人は優しくも力強くも見えるということを暗喩しているのかもしれません。
    ムーア氏は、20世紀の英国を代表する芸術家・彫刻家で、「彫刻は野外の芸術である」と語っています。炭鉱夫の息子としてヨークシャーのカッスルフォードに生まれ、大理石やブロンズを使った大きな抽象彫刻で知られています。

  • 国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン <br />ヘンリー・ムーア 『ナイフ・エッジ』(1961年)<br />地下1階フリーゾーンの床石には赤大理石製のモザイクがあしらわれ、 イタリア産のロッソアリカンテという原石をシート状に加工したものを貼っています。<br />因みに、ロッソアリカンテは変成岩のひとつで、緻密な赤褐色地に白脈が混ざるのが特徴です。石灰岩がマグマの貫入などの熱で変成作用を受け、石灰岩中の鉱物が固体のまま方解石の集合塊となって粗粒になった結晶質岩石です。割り面は結晶が光を受けてキラキラ反射し、天然石材の中でも最も美しく高い格調を持ちます。「アリカンテ」というのはスペイン南東部バレンシア州にある港湾都市の名前です。確かに「血と金の国旗」と言われるスペイン国旗を想起させるような赤大理石です。

    国立国際美術館 地下1階パブリックゾーン
    ヘンリー・ムーア 『ナイフ・エッジ』(1961年)
    地下1階フリーゾーンの床石には赤大理石製のモザイクがあしらわれ、 イタリア産のロッソアリカンテという原石をシート状に加工したものを貼っています。
    因みに、ロッソアリカンテは変成岩のひとつで、緻密な赤褐色地に白脈が混ざるのが特徴です。石灰岩がマグマの貫入などの熱で変成作用を受け、石灰岩中の鉱物が固体のまま方解石の集合塊となって粗粒になった結晶質岩石です。割り面は結晶が光を受けてキラキラ反射し、天然石材の中でも最も美しく高い格調を持ちます。「アリカンテ」というのはスペイン南東部バレンシア州にある港湾都市の名前です。確かに「血と金の国旗」と言われるスペイン国旗を想起させるような赤大理石です。

  • 国立国際美術館 地下3階 <br />館内を隈なく紹介したいのはやまやまですが、写真やビデオ撮影は1階エントランスロビーとB1階パブリックゾーンのみ許可されています。尚、フラッシュや三脚等を使用せずに景観として撮影することが条件となります。<br />しかし、係員さんに一言声をかければ、こうした写真なら撮らせていただけます。

    国立国際美術館 地下3階
    館内を隈なく紹介したいのはやまやまですが、写真やビデオ撮影は1階エントランスロビーとB1階パブリックゾーンのみ許可されています。尚、フラッシュや三脚等を使用せずに景観として撮影することが条件となります。
    しかし、係員さんに一言声をかければ、こうした写真なら撮らせていただけます。

  • 国立国際美術館 地下3階 <br />展示室の前にも写真撮影用のスペースが設けられていました。<br />絵画の展示は第1~7章による構成となっています。<br />【第1章】イタリア・ルネサンス絵画の収集<br />展覧会はイタリアのルネッサンス絵画で幕を開けます。LNGの設立以来、16世紀のフィレンツェやローマ、ヴェネツィア絵画はLNGコレクションの中核をなす分野です。また、19世紀半ば以降、英国で再評価された15世紀以前の初期ルネッサンス絵画の充実ぶりも特筆に値します。本章ではクリヴェッリやウッチェロからティツィアーノ、ティントレットまで、幅広い時代と地域の優品を展示しています。<br />【第2章】オランダ絵画の黄金時代<br />19世紀後半、LNGは17世紀のオランダ絵画の作品群を収集しました。地理的にも近く、交易や商業で繁栄したオランダの文化は、19世紀にその後を追って海洋帝国としての栄華を極めた英国にとっても親しみ易いものでした。レンブラントやハルス、フェルメールといった巨匠に加え、風俗画や海洋画など、英国で特に人気を博したジャンルの作品も併せて展示されています。<br />【第3章】ヴァン・ダイクとイギリス肖像画<br />18世紀の英国は肖像画ジャンルにおいて多数の画家を輩出しました。しかしその重要な役割を担ったのは、17世紀前半に英国で活躍したフランドル人画家ヴァン・ダイクでした。レノルズやゲインズバラといった18世紀の英国画家たちが、ヴァン・ダイクのスタイルをどのように継承し、格調高い独自の肖像画を創作していったのか、両者の作品を比較しながら紹介されています。

    国立国際美術館 地下3階
    展示室の前にも写真撮影用のスペースが設けられていました。
    絵画の展示は第1~7章による構成となっています。
    【第1章】イタリア・ルネサンス絵画の収集
    展覧会はイタリアのルネッサンス絵画で幕を開けます。LNGの設立以来、16世紀のフィレンツェやローマ、ヴェネツィア絵画はLNGコレクションの中核をなす分野です。また、19世紀半ば以降、英国で再評価された15世紀以前の初期ルネッサンス絵画の充実ぶりも特筆に値します。本章ではクリヴェッリやウッチェロからティツィアーノ、ティントレットまで、幅広い時代と地域の優品を展示しています。
    【第2章】オランダ絵画の黄金時代
    19世紀後半、LNGは17世紀のオランダ絵画の作品群を収集しました。地理的にも近く、交易や商業で繁栄したオランダの文化は、19世紀にその後を追って海洋帝国としての栄華を極めた英国にとっても親しみ易いものでした。レンブラントやハルス、フェルメールといった巨匠に加え、風俗画や海洋画など、英国で特に人気を博したジャンルの作品も併せて展示されています。
    【第3章】ヴァン・ダイクとイギリス肖像画
    18世紀の英国は肖像画ジャンルにおいて多数の画家を輩出しました。しかしその重要な役割を担ったのは、17世紀前半に英国で活躍したフランドル人画家ヴァン・ダイクでした。レノルズやゲインズバラといった18世紀の英国画家たちが、ヴァン・ダイクのスタイルをどのように継承し、格調高い独自の肖像画を創作していったのか、両者の作品を比較しながら紹介されています。

  • 【第4章】グランド・ツアー <br />「グランド・ツアー」とは、上流階級の若者たちが欧州を旅して回った18世紀の流行のひとつで、特に欧州文明揺籃の地、ローマ遺跡への憧れは熱狂的なものでした。本章では、旅行者が「土産物」として持ち帰ったカナレットらによるヴェネツィアやローマの風景画を基軸に、グランド・ツアーを通じた英国とイタリア間の芸術・文化交流の動向を紹介されています。<br />【第5章】スペイン絵画の発見<br />17世紀以降にスペイン人画家によって描かれた絵画が、英国でどのように受容されていったかを紹介されています。ベラスケスやエル・グレコ、ムリーリョ、ゴヤなど錚々たるオールドマスターたちの名画が展示場を彩ります。ムリーリョがその甘美な画風で18世紀から高い評価を得ていたように、スペイン国外におけるスペイン絵画再評価の先鞭を付けたのが英国でした。特に19世紀初頭のスペイン独立戦争にウェリントン公が率いる英国軍が参戦したことを契機に、ベラスケスやスルバランなどの作品が英国へもたらされ、再評価されていきました。<br />【第6章】風景画とピクチャレスク <br />英国では18世紀後半から、調和を尊ぶ古典的な美とは異なる、不規則で荒々しい「ピクチャレスク(絵のような)」美を敬愛する価値観が流行し、同時に風景画が隆盛しました。そうした価値観の根底を形作ったのは、クロード・ロランを筆頭とする17世紀の理想風景画でした。そうした17世紀絵画からロマン主義風景画の2人の巨匠コンスタブルやターナーに至る潮流が如何に生まれたのか、代表作を通じて紹介されています。<br />【第7章】英国におけるフランス近代美術受容<br />最終章では、19世紀にフランスで興隆した近代絵画の改革が如何にして英国へもたらされたのかを紹介されています。ピサロやモネなど英国を訪れて制作した画家も存在しましたが、英国での印象派やポスト印象派の受容はフランスに遅れを取り、20世紀になってから本格的に収集されました。アングルから印象派を経てゴッホ、ゴーガンに至る潮流を英国の視点から紐解かれています。<br />以下に個人的に印象に残った作品を紹介させていただきます。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/about-us/organisation/annual-review

    【第4章】グランド・ツアー
    「グランド・ツアー」とは、上流階級の若者たちが欧州を旅して回った18世紀の流行のひとつで、特に欧州文明揺籃の地、ローマ遺跡への憧れは熱狂的なものでした。本章では、旅行者が「土産物」として持ち帰ったカナレットらによるヴェネツィアやローマの風景画を基軸に、グランド・ツアーを通じた英国とイタリア間の芸術・文化交流の動向を紹介されています。
    【第5章】スペイン絵画の発見
    17世紀以降にスペイン人画家によって描かれた絵画が、英国でどのように受容されていったかを紹介されています。ベラスケスやエル・グレコ、ムリーリョ、ゴヤなど錚々たるオールドマスターたちの名画が展示場を彩ります。ムリーリョがその甘美な画風で18世紀から高い評価を得ていたように、スペイン国外におけるスペイン絵画再評価の先鞭を付けたのが英国でした。特に19世紀初頭のスペイン独立戦争にウェリントン公が率いる英国軍が参戦したことを契機に、ベラスケスやスルバランなどの作品が英国へもたらされ、再評価されていきました。
    【第6章】風景画とピクチャレスク
    英国では18世紀後半から、調和を尊ぶ古典的な美とは異なる、不規則で荒々しい「ピクチャレスク(絵のような)」美を敬愛する価値観が流行し、同時に風景画が隆盛しました。そうした価値観の根底を形作ったのは、クロード・ロランを筆頭とする17世紀の理想風景画でした。そうした17世紀絵画からロマン主義風景画の2人の巨匠コンスタブルやターナーに至る潮流が如何に生まれたのか、代表作を通じて紹介されています。
    【第7章】英国におけるフランス近代美術受容
    最終章では、19世紀にフランスで興隆した近代絵画の改革が如何にして英国へもたらされたのかを紹介されています。ピサロやモネなど英国を訪れて制作した画家も存在しましたが、英国での印象派やポスト印象派の受容はフランスに遅れを取り、20世紀になってから本格的に収集されました。アングルから印象派を経てゴッホ、ゴーガンに至る潮流を英国の視点から紐解かれています。
    以下に個人的に印象に残った作品を紹介させていただきます。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/about-us/organisation/annual-review

  • カルロ ・クリヴェッリ『聖エミディウスを伴う受胎告知 』1486年<br />栄えある展示作品の嚆矢に抜擢されたのは、イタリアのマルケ地方で活躍した「後期ゴシック」とも「ルネッサンス初期」とも分類できない画家クリヴェッリの作品です。彼の作品はナポレオン侵攻とその後の混乱で祭壇画から切り離されて世界中に散逸しましたが、ラファエル前派を擁する英国では彼の華美な様式が賛美され、海を渡った作品のひとつです。正確な線遠近法や精妙な装飾、トリックアートを彷彿とさせるリンゴとウリの3D手法は彼の作品に共通する特徴です。若き日のドナテッロの影響を受けた斬新な遠近感や強烈な表現である一方、後期ゴシック様式の豪華な装飾も見所です。<br />他方、彼は人妻との不倫で有罪となり、祖国ヴェネツィアを追われました。本作では大天使ガブリエルと聖エミディウスを戸外から窓越しにマリアと会話させていますが、過去の反省を含めて「家の中に入ったらあらぬ誤解を生む」との杞憂かもしれません。そう勘ぐるとマリアの描写が妙にエロティックに見えてきます。<br />通常、受胎告知には大天使ガブリエルとマリア以外は登場しませんが、本作では聖エミディウスや街の人々が登場し、聖なる情景を日常の光景として描いています。受胎告知は、マリアの前に大天使ガブリエルが現れて聖霊によりイエスを受胎したことを告げ、彼女がそれを甘受する静謐なシーンです。しかし、本作でその脇役を務めるのが、地震や疫病などの守護聖人エミディウスです。実は、この絵画にはもうひとつのエピソードが重ねられています。1482年3月25日、ローマ教皇シクストゥス4世からイタリアの都市アスコリ・ピチェーノへ自治権を与える旨の文書が届きました。それを記念し、厳律フランチェスコ会女子修道院はクリヴェリへこの絵画を発注しました。実は3月25日は受胎告知の日でもあり、「受胎告知」と「自治権獲得」の2重の喜びを表現した絵画なのです。高架橋の上では、高官たちが今届いたばかりの文書を読んでいます。聖エミディウスがアスコリ市のジオラマを持つて跪いているのはこのためです。<br />教会の祭壇画ゆえ縦長ですが、その形に合わせて細い路地と深い奥行きの構図を再現できているのは、クリヴェリの熟練された線遠近法のなせる業です。線遠近法は全ての平行線がひとつの消失点に収斂し、その点が路地の突き当りの格子の前に佇む人物の帽子です。<br />祭壇画ゆえ宗教的アレゴリーは不可欠な要素です。籠の中の鳩は「聖霊による受胎」であり、また「ローマ教皇からの文を伝書し終えた」ことも暗示しています。大天使ガブリエルが持つ白ユリや袋小路、寝室の透明な瓶はマリアが「純潔」であることを、手前のリンゴは「禁断の果実」とそれに伴う「人類の原罪とイエスの贖罪」を、ウリはヘブライ語で「復活」を意味することから「イエス復活による救済」を暗喩します。孔雀は、孔雀の肉は決して腐らないと信じられていたため、「不死」を意味します。純粋さの象徴である燃えるロウソクは「信仰」を暗示します。絵画の下には「ECCLESIASTICA(教会)の下のLIBERTAS(自由)」と書かれ、3つの紋章は左から「司教の紋章」「ローマ教皇の紋章」「アスコリ・ピチェーノの街の紋章」です。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    カルロ ・クリヴェッリ『聖エミディウスを伴う受胎告知 』1486年
    栄えある展示作品の嚆矢に抜擢されたのは、イタリアのマルケ地方で活躍した「後期ゴシック」とも「ルネッサンス初期」とも分類できない画家クリヴェッリの作品です。彼の作品はナポレオン侵攻とその後の混乱で祭壇画から切り離されて世界中に散逸しましたが、ラファエル前派を擁する英国では彼の華美な様式が賛美され、海を渡った作品のひとつです。正確な線遠近法や精妙な装飾、トリックアートを彷彿とさせるリンゴとウリの3D手法は彼の作品に共通する特徴です。若き日のドナテッロの影響を受けた斬新な遠近感や強烈な表現である一方、後期ゴシック様式の豪華な装飾も見所です。
    他方、彼は人妻との不倫で有罪となり、祖国ヴェネツィアを追われました。本作では大天使ガブリエルと聖エミディウスを戸外から窓越しにマリアと会話させていますが、過去の反省を含めて「家の中に入ったらあらぬ誤解を生む」との杞憂かもしれません。そう勘ぐるとマリアの描写が妙にエロティックに見えてきます。
    通常、受胎告知には大天使ガブリエルとマリア以外は登場しませんが、本作では聖エミディウスや街の人々が登場し、聖なる情景を日常の光景として描いています。受胎告知は、マリアの前に大天使ガブリエルが現れて聖霊によりイエスを受胎したことを告げ、彼女がそれを甘受する静謐なシーンです。しかし、本作でその脇役を務めるのが、地震や疫病などの守護聖人エミディウスです。実は、この絵画にはもうひとつのエピソードが重ねられています。1482年3月25日、ローマ教皇シクストゥス4世からイタリアの都市アスコリ・ピチェーノへ自治権を与える旨の文書が届きました。それを記念し、厳律フランチェスコ会女子修道院はクリヴェリへこの絵画を発注しました。実は3月25日は受胎告知の日でもあり、「受胎告知」と「自治権獲得」の2重の喜びを表現した絵画なのです。高架橋の上では、高官たちが今届いたばかりの文書を読んでいます。聖エミディウスがアスコリ市のジオラマを持つて跪いているのはこのためです。
    教会の祭壇画ゆえ縦長ですが、その形に合わせて細い路地と深い奥行きの構図を再現できているのは、クリヴェリの熟練された線遠近法のなせる業です。線遠近法は全ての平行線がひとつの消失点に収斂し、その点が路地の突き当りの格子の前に佇む人物の帽子です。
    祭壇画ゆえ宗教的アレゴリーは不可欠な要素です。籠の中の鳩は「聖霊による受胎」であり、また「ローマ教皇からの文を伝書し終えた」ことも暗示しています。大天使ガブリエルが持つ白ユリや袋小路、寝室の透明な瓶はマリアが「純潔」であることを、手前のリンゴは「禁断の果実」とそれに伴う「人類の原罪とイエスの贖罪」を、ウリはヘブライ語で「復活」を意味することから「イエス復活による救済」を暗喩します。孔雀は、孔雀の肉は決して腐らないと信じられていたため、「不死」を意味します。純粋さの象徴である燃えるロウソクは「信仰」を暗示します。絵画の下には「ECCLESIASTICA(教会)の下のLIBERTAS(自由)」と書かれ、3つの紋章は左から「司教の紋章」「ローマ教皇の紋章」「アスコリ・ピチェーノの街の紋章」です。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • パオロ・ウッチェロ『聖ゲオルギウスと竜』1470年頃 <br />古格なビザンチン様式を受継ぎながらも線遠近法を取り入れたルネッサンス初期の画家ウッチェロの逸品です。斜めに突き出した槍や芝生が空間の奥行きを強調しています。本作は、ナチスに接収されアルトアウゼー塩鉱に保管されていましたが、戦後に米軍により発見され、ウィーンに大邸宅を構えていたポーランド貴族ランコロンスキー伯爵家へ返還された経緯を持ちます。<br />キリスト教の聖人伝説『黄金伝説』に登場する聖ゲオルギウスの竜退治がモチーフです。初期キリスト教時代から、竜は悪の象徴であり異教を指します。この絵は、ウッチェロが線遠近法をマスターしようとしていた初期作品のため未熟さも見て取れ、映画館のコンセプトアートを彷彿とさせ微笑ましくもあります。彼の魅力であるゴシック的幻想と幾何学的世界の融合は、シュールレアリズム絵画が誕生した20世紀になってから再評価されたものです。尚、15世紀に制作された2mもの絵が来日すること自体、奇跡です。何故なら、この時代はテンペラ板絵であり、一寸した温度や湿度の変化でも割れてしまうほど繊細だからです。しかし、この絵は最古の油彩カンヴァス画として制作されました。ウッチェロの新技術への探求心が線遠近法に留まらなかったことが今日の奇跡を生みました。<br />ゲオルギウスは、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの弾圧によりキリスト教改宗を迫られますが、それを拒んで斬首されたと伝わります。やがてゲオルギウスは騎士に人気の殉教聖人となり、英国ガーター騎士団の守護聖人ともなりました。<br />『黄金伝説』には、カッパドキア出身の聖人ゲオルギウスがドラゴンに襲われたリビアの都市シレーヌを救ったという伝説があります。彼は、ドラゴンの生贄として捧げられた王女を救うため、槍で突いてドラゴンを弱らせました。そして王女に、腰帯をドラゴンの首に結び付けて街へ連れて行くように命じました。(王女が竜をペットにしている絵画ではありません。)そして彼は、街の人々にキリスト教に改宗するならばドラゴンを殺すと約束し、彼らが改宗した後、王と廷臣たちの前でドラゴンを殺したと伝わります。<br />ゲオルギウスが竜を刺した場面と王女が竜の首に腰帯を結び付けた場面という時間差のある2つの場面を1枚にまとめて描いています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    パオロ・ウッチェロ『聖ゲオルギウスと竜』1470年頃 
    古格なビザンチン様式を受継ぎながらも線遠近法を取り入れたルネッサンス初期の画家ウッチェロの逸品です。斜めに突き出した槍や芝生が空間の奥行きを強調しています。本作は、ナチスに接収されアルトアウゼー塩鉱に保管されていましたが、戦後に米軍により発見され、ウィーンに大邸宅を構えていたポーランド貴族ランコロンスキー伯爵家へ返還された経緯を持ちます。
    キリスト教の聖人伝説『黄金伝説』に登場する聖ゲオルギウスの竜退治がモチーフです。初期キリスト教時代から、竜は悪の象徴であり異教を指します。この絵は、ウッチェロが線遠近法をマスターしようとしていた初期作品のため未熟さも見て取れ、映画館のコンセプトアートを彷彿とさせ微笑ましくもあります。彼の魅力であるゴシック的幻想と幾何学的世界の融合は、シュールレアリズム絵画が誕生した20世紀になってから再評価されたものです。尚、15世紀に制作された2mもの絵が来日すること自体、奇跡です。何故なら、この時代はテンペラ板絵であり、一寸した温度や湿度の変化でも割れてしまうほど繊細だからです。しかし、この絵は最古の油彩カンヴァス画として制作されました。ウッチェロの新技術への探求心が線遠近法に留まらなかったことが今日の奇跡を生みました。
    ゲオルギウスは、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの弾圧によりキリスト教改宗を迫られますが、それを拒んで斬首されたと伝わります。やがてゲオルギウスは騎士に人気の殉教聖人となり、英国ガーター騎士団の守護聖人ともなりました。
    『黄金伝説』には、カッパドキア出身の聖人ゲオルギウスがドラゴンに襲われたリビアの都市シレーヌを救ったという伝説があります。彼は、ドラゴンの生贄として捧げられた王女を救うため、槍で突いてドラゴンを弱らせました。そして王女に、腰帯をドラゴンの首に結び付けて街へ連れて行くように命じました。(王女が竜をペットにしている絵画ではありません。)そして彼は、街の人々にキリスト教に改宗するならばドラゴンを殺すと約束し、彼らが改宗した後、王と廷臣たちの前でドラゴンを殺したと伝わります。
    ゲオルギウスが竜を刺した場面と王女が竜の首に腰帯を結び付けた場面という時間差のある2つの場面を1枚にまとめて描いています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)』<br />1514年頃<br />16世紀のヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノは、イタリアのヴェネツィアに生まれました。往時のヴェネツィアではベリーニやジョルジョーネなどの先達が潤沢な色彩で描くヴェネツィア派を確立していました。ティツィアーノは、彼らに師事しましたが、20代初頭には個人的に高く評価されていました。86歳頃まで生きた長命の画家で、時代毎に作風が転じていくのが特徴であり、本作は初期の頃の作品です。<br />『新約聖書』にあるイエス復活後のエピソードのひとつです。マグダラのマリアがイエスの墓に亡骸がないことに気づき泣き暮れていた時、そこへイエスが現れました。復活したイエスに最初に会った弟子がマグダラのマリアと伝わります。イエスが左手に持つ農具は、マリアが復活したイエスを墓地の管理と勘違いしたことを表しています。<br />イエスと確信して近寄るマリアに「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」と諌める緊迫した瞬間を切り取っています。マリアはイエスを捉えようとし、イエスは身を捩らせて拒んでいます。『ヨハネによる福音書』によれば、この後「まだ父(主である神)のもとに行っていないから」と告げ、「触れるにはまだは早いよ」と諭します。<br />本作では、イエスの上体はマリアに被さるように傾き、拒みながらもマリアの刹那の喜びと深い悲しみに心痛めるイエスの慈愛を描写しています。実はX線解析により、当初イエスはマリアから身を遠ざけていたのが判明し、その構図はジョットの作品を参考にしたものと考えられています。<br />抒情豊かな風景描写には羊の群れなど宗教的なシンボルを織り交ぜ、観る者の感情をドラマチックに掻き立てます。また、青と金色で描かれた地平線と現実的な田園描写は、一層の謎めいた演出効果をもたらしています。更に、大木をマリア、丘をイエスの身体の延長上に配し、画面全体をX字に分割した構図としています。<br />羊の群れは「良き羊飼い」のメタファーを、大木はアダムとイブが禁断の果実を採った「知恵の木」をなぞらえ、やがてはイエスが磔にされる「十字架」を暗喩しています。<br />描写で注目したいのは、マリアの白い上着です。薄いレースのような上着の奥に腕の存在が感じられます。見えないものまでイメージさせてしまう若きティツィアーノの技量に吃驚です。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)』
    1514年頃
    16世紀のヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノは、イタリアのヴェネツィアに生まれました。往時のヴェネツィアではベリーニやジョルジョーネなどの先達が潤沢な色彩で描くヴェネツィア派を確立していました。ティツィアーノは、彼らに師事しましたが、20代初頭には個人的に高く評価されていました。86歳頃まで生きた長命の画家で、時代毎に作風が転じていくのが特徴であり、本作は初期の頃の作品です。
    『新約聖書』にあるイエス復活後のエピソードのひとつです。マグダラのマリアがイエスの墓に亡骸がないことに気づき泣き暮れていた時、そこへイエスが現れました。復活したイエスに最初に会った弟子がマグダラのマリアと伝わります。イエスが左手に持つ農具は、マリアが復活したイエスを墓地の管理と勘違いしたことを表しています。
    イエスと確信して近寄るマリアに「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」と諌める緊迫した瞬間を切り取っています。マリアはイエスを捉えようとし、イエスは身を捩らせて拒んでいます。『ヨハネによる福音書』によれば、この後「まだ父(主である神)のもとに行っていないから」と告げ、「触れるにはまだは早いよ」と諭します。
    本作では、イエスの上体はマリアに被さるように傾き、拒みながらもマリアの刹那の喜びと深い悲しみに心痛めるイエスの慈愛を描写しています。実はX線解析により、当初イエスはマリアから身を遠ざけていたのが判明し、その構図はジョットの作品を参考にしたものと考えられています。
    抒情豊かな風景描写には羊の群れなど宗教的なシンボルを織り交ぜ、観る者の感情をドラマチックに掻き立てます。また、青と金色で描かれた地平線と現実的な田園描写は、一層の謎めいた演出効果をもたらしています。更に、大木をマリア、丘をイエスの身体の延長上に配し、画面全体をX字に分割した構図としています。
    羊の群れは「良き羊飼い」のメタファーを、大木はアダムとイブが禁断の果実を採った「知恵の木」をなぞらえ、やがてはイエスが磔にされる「十字架」を暗喩しています。
    描写で注目したいのは、マリアの白い上着です。薄いレースのような上着の奥に腕の存在が感じられます。見えないものまでイメージさせてしまう若きティツィアーノの技量に吃驚です。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン『34歳の自画像 』<br />1640年<br />17世紀バロック期のオランダを代表する巨匠レンブラントは、光と闇の画家と称され、63歳で亡くなる直前まで2000点程の作品を描きました。中でも自画像は、油彩画が約50点、エッチングが32点、ドローイング7点を含めて100点近くに上り、「自画像の画家」とも呼ばれます。佳作揃いの本展にあって、本作はゴッホ『ひまわり』に比肩するマスターピースのひとつとされ、レンブラント中期の最高傑作との呼び声の高い作品です。<br />本作は肖像画の注文主に向けた「見本」として描かれたとの見方もあります。何故なら、右肘を窓の桟に掛けて斜め45度の角度で右側に向き、視線を正面に向けたポーズやルネッサンス期の古典的な宮廷風コスチュームを纏う姿は、ラファエロやティツィアーノ、デューラーなどの肖像画へのオマージュであるからです。その一方、そうした大画家の系譜に属することを誇示しているとの見方もあります。また、歴史に残る画家に名を連ねんと、「Rembrandt 1640」と右下にファーストネームを署名しているのも注目です。<br />30代の壮年期にしては自信に満ちた姿ですが、彼のその後を知っている者としてはどことなく哀愁が滲んでしまいます。事実、34歳のレンブラントは画家としての絶頂期であり、肖像画家として人気を博したことからこの絵を描く前年に工房を兼ねた豪邸を購入し、殺到する肖像画の注文を40~50人もの弟子を抱えて大量生産体制を整えました。2年後には世界3大名画に数えられる集団肖像画の大作『夜警』を完成させています。<br />だた、順風満帆ではなく、この時期に子どもや母親、そして1642年には妻サスキアを亡くしました。また、『夜警』は当時は不評で仕事が激減、人生は傾斜していきました。「禍福は糾える縄の如し」とも言うべき変転期に描いた自画像であり、単に姿形を似せるだけでなく、その人物の性格や内面までを炙り出すことを信条とした彼の真骨頂が窺えます。構図は先達のオマージュですが、彼の独創性も見られます。荒々しくも的確な筆致がうなじの髪の毛の描写や暗部をロウソクの明かりで照らし出したような空間表現に窺えます。画家の人生に思いを馳せて鑑賞してみてはいかがでしょうか。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン『34歳の自画像 』
    1640年
    17世紀バロック期のオランダを代表する巨匠レンブラントは、光と闇の画家と称され、63歳で亡くなる直前まで2000点程の作品を描きました。中でも自画像は、油彩画が約50点、エッチングが32点、ドローイング7点を含めて100点近くに上り、「自画像の画家」とも呼ばれます。佳作揃いの本展にあって、本作はゴッホ『ひまわり』に比肩するマスターピースのひとつとされ、レンブラント中期の最高傑作との呼び声の高い作品です。
    本作は肖像画の注文主に向けた「見本」として描かれたとの見方もあります。何故なら、右肘を窓の桟に掛けて斜め45度の角度で右側に向き、視線を正面に向けたポーズやルネッサンス期の古典的な宮廷風コスチュームを纏う姿は、ラファエロやティツィアーノ、デューラーなどの肖像画へのオマージュであるからです。その一方、そうした大画家の系譜に属することを誇示しているとの見方もあります。また、歴史に残る画家に名を連ねんと、「Rembrandt 1640」と右下にファーストネームを署名しているのも注目です。
    30代の壮年期にしては自信に満ちた姿ですが、彼のその後を知っている者としてはどことなく哀愁が滲んでしまいます。事実、34歳のレンブラントは画家としての絶頂期であり、肖像画家として人気を博したことからこの絵を描く前年に工房を兼ねた豪邸を購入し、殺到する肖像画の注文を40~50人もの弟子を抱えて大量生産体制を整えました。2年後には世界3大名画に数えられる集団肖像画の大作『夜警』を完成させています。
    だた、順風満帆ではなく、この時期に子どもや母親、そして1642年には妻サスキアを亡くしました。また、『夜警』は当時は不評で仕事が激減、人生は傾斜していきました。「禍福は糾える縄の如し」とも言うべき変転期に描いた自画像であり、単に姿形を似せるだけでなく、その人物の性格や内面までを炙り出すことを信条とした彼の真骨頂が窺えます。構図は先達のオマージュですが、彼の独創性も見られます。荒々しくも的確な筆致がうなじの髪の毛の描写や暗部をロウソクの明かりで照らし出したような空間表現に窺えます。画家の人生に思いを馳せて鑑賞してみてはいかがでしょうか。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ヤン・ステーン 『農民一家の食事』1665年頃<br />ヤンは、17世紀オランダのライデンで大半の制作活動を行った、フェルメールと同時代の風俗画家です。日常生活を描いた他の画家との相違点は、酔っぱらって羽目を外した輩や不倫・浮気を連想させる男女関係などを描き込んだ教訓的な風俗画としたことです。<br />食事の準備をする母親と祈りを捧げる妹、それに帽子を手にする兄。奥では父親がパンを切り分けています。決して裕福とは言えない暮らしぶりながら、神への感謝を忘れずに祈る兄妹。タイトル通り、敬虔なプロテスタント一家の日常を切り取ったかのように見えます。尚、シャルダン『食前の祈り』に似ていますが、シャルダンの方が後の時代の画家ですので、この絵画を参考にしたのかもしれません。<br />一方で穿った見方もできます。手前の犬の行為が「不安」を暗示しています。何故なら、兄妹の敬虔さとは真逆に、犬はエサを待てずにボウルを舐め回しているからです。犬のしつけすらできないこの家族は、どこかだらしないところがあり、本質的な敬虔さに欠けているとも言えます。<br />そう想像を逞しくした上でこの絵をもう一度観ると、全く別の風景がそこに広がります。妹は形式的に手を合わせながら食物を凝視しています。兄が持つ帽子の下では、手を合わせてもいません。そんな兄妹に「正しくお祈りしなさい」と注意もせず食事の準備に勤しむ両親は、まるで犬に与えるエサを作っているかのように無感情です。このように「犬の暗示」を踏まえると途端に描かれた日常の意味が変化する風刺画は、ヤンの真骨頂とも言える「怖い絵」です。<br />大切なことは、人生は善悪や成功・失敗で決まるものではなく、自ら道を選択してどんな未来も切り開けるということです。往時のオランダは海洋貿易で世界をリードする覇権国でした。市民が主役になって日常を謳歌する人類史上初めての国だったオランダにあっても、その栄光は永遠ではありませんでした。そんな中でどう生きていくのか、今なすべきことは何かというヤンの素朴な問いかけは、新型コロナウィルスのパンデミックと必死に闘う今の世界にとり、不可欠な問いかけとは言えまいか…。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ヤン・ステーン 『農民一家の食事』1665年頃
    ヤンは、17世紀オランダのライデンで大半の制作活動を行った、フェルメールと同時代の風俗画家です。日常生活を描いた他の画家との相違点は、酔っぱらって羽目を外した輩や不倫・浮気を連想させる男女関係などを描き込んだ教訓的な風俗画としたことです。
    食事の準備をする母親と祈りを捧げる妹、それに帽子を手にする兄。奥では父親がパンを切り分けています。決して裕福とは言えない暮らしぶりながら、神への感謝を忘れずに祈る兄妹。タイトル通り、敬虔なプロテスタント一家の日常を切り取ったかのように見えます。尚、シャルダン『食前の祈り』に似ていますが、シャルダンの方が後の時代の画家ですので、この絵画を参考にしたのかもしれません。
    一方で穿った見方もできます。手前の犬の行為が「不安」を暗示しています。何故なら、兄妹の敬虔さとは真逆に、犬はエサを待てずにボウルを舐め回しているからです。犬のしつけすらできないこの家族は、どこかだらしないところがあり、本質的な敬虔さに欠けているとも言えます。
    そう想像を逞しくした上でこの絵をもう一度観ると、全く別の風景がそこに広がります。妹は形式的に手を合わせながら食物を凝視しています。兄が持つ帽子の下では、手を合わせてもいません。そんな兄妹に「正しくお祈りしなさい」と注意もせず食事の準備に勤しむ両親は、まるで犬に与えるエサを作っているかのように無感情です。このように「犬の暗示」を踏まえると途端に描かれた日常の意味が変化する風刺画は、ヤンの真骨頂とも言える「怖い絵」です。
    大切なことは、人生は善悪や成功・失敗で決まるものではなく、自ら道を選択してどんな未来も切り開けるということです。往時のオランダは海洋貿易で世界をリードする覇権国でした。市民が主役になって日常を謳歌する人類史上初めての国だったオランダにあっても、その栄光は永遠ではありませんでした。そんな中でどう生きていくのか、今なすべきことは何かというヤンの素朴な問いかけは、新型コロナウィルスのパンデミックと必死に闘う今の世界にとり、不可欠な問いかけとは言えまいか…。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ジャン=オーギュスト=ドミニク・ アングル<br />『アンジェリカを救うルッジェーロ  』 1819~39年<br />アングルはフランスの画家で、19世紀前半に台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッド等から新古典主義を継承しました。ナポレオンの没落によりブリュッセルに亡命後に注目され、古典主義的な絵画の牙城を守りました。復古的でアカデミックでありながら新鮮な感覚は、印象派のドガやルノワールをはじめ、アカデミスムとは無縁のセザンヌやマティス、ピカソ等にもその影響を及ぼしました。<br />本作はアングルの代表作のひとつであり、制作年代が長くなっているのはアングルが同名の絵画を何枚も描いたからです。この縦型の縮小バージョンは、1894年にドガが某伯爵の売り立てで購入し、所有していたコレクションのひとつです。本作は、イタリアの詩人ルドヴィーコ・アリオストによる16世紀の叙事詩『狂えるオルランド』の第10歌をモチーフに描かれました。グリフォンと雌馬の間に生まれたとされる伝説の生物「ヒッポグリフ(上半身が鷲、下半身が馬)」にまたがっている騎士が英雄ルッジェーロです。ルッジェーロがブルターニュ海岸近くを通りかかった際、「涙の岩」に鎖で繋がれた中国(キタイ)の王女アンジェリカを発見します(金髪美女のため、お世辞にも中国人には見えませんが…)。彼女は野蛮人によって拉致された上に裸にされ、巨大海獣オルカの生贄にされる寸前でした。水中からオルカが現われて彼女に襲いかかる刹那、颯爽と馳せ参じたルッジェーロは魔法の槍をオルカの開いた口に突き刺して彼女を救いました。恐怖に耐えかねたアンジェリカの身を捩ったポーズが印象的です。<br />アングルは、アンジェリカが直面する危機感を、彼女の滑らかで薄い体と、硬い鎧と岩、鋭い槍、グリフォンの嘴と爪、そしてオルカの歯と対比することで強調しています。<br />この物語はアンドロメダとペルセウスが登場するギリシア神話と酷似していますが、ペルセウスはその後アンドロメダを得るのに対し、ルッジェーロはアンジェリカにけんもほろろにふられてしまいます。更には、彼女に魔法の指輪を盗まれるというオチまであります。でも最後はブルガリアの王となり幕が下ります。しかしその7年後、人殺しの濡れ衣を着せられて暗殺されてしまうのですが…。<br />因みに、アングルの興味はもっぱら無防備な女性の裸体表現にあったとされ、この作品の異なるバージョンを制作したばかりか、鎖に繋がれたアンジェリカだけを抜き出して描いた作品もあります。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ジャン=オーギュスト=ドミニク・ アングル
    『アンジェリカを救うルッジェーロ 』 1819~39年
    アングルはフランスの画家で、19世紀前半に台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッド等から新古典主義を継承しました。ナポレオンの没落によりブリュッセルに亡命後に注目され、古典主義的な絵画の牙城を守りました。復古的でアカデミックでありながら新鮮な感覚は、印象派のドガやルノワールをはじめ、アカデミスムとは無縁のセザンヌやマティス、ピカソ等にもその影響を及ぼしました。
    本作はアングルの代表作のひとつであり、制作年代が長くなっているのはアングルが同名の絵画を何枚も描いたからです。この縦型の縮小バージョンは、1894年にドガが某伯爵の売り立てで購入し、所有していたコレクションのひとつです。 本作は、イタリアの詩人ルドヴィーコ・アリオストによる16世紀の叙事詩『狂えるオルランド』の第10歌をモチーフに描かれました。グリフォンと雌馬の間に生まれたとされる伝説の生物「ヒッポグリフ(上半身が鷲、下半身が馬)」にまたがっている騎士が英雄ルッジェーロです。ルッジェーロがブルターニュ海岸近くを通りかかった際、「涙の岩」に鎖で繋がれた中国(キタイ)の王女アンジェリカを発見します(金髪美女のため、お世辞にも中国人には見えませんが…)。彼女は野蛮人によって拉致された上に裸にされ、巨大海獣オルカの生贄にされる寸前でした。水中からオルカが現われて彼女に襲いかかる刹那、颯爽と馳せ参じたルッジェーロは魔法の槍をオルカの開いた口に突き刺して彼女を救いました。恐怖に耐えかねたアンジェリカの身を捩ったポーズが印象的です。
    アングルは、アンジェリカが直面する危機感を、彼女の滑らかで薄い体と、硬い鎧と岩、鋭い槍、グリフォンの嘴と爪、そしてオルカの歯と対比することで強調しています。
    この物語はアンドロメダとペルセウスが登場するギリシア神話と酷似していますが、ペルセウスはその後アンドロメダを得るのに対し、ルッジェーロはアンジェリカにけんもほろろにふられてしまいます。更には、彼女に魔法の指輪を盗まれるというオチまであります。でも最後はブルガリアの王となり幕が下ります。しかしその7年後、人殺しの濡れ衣を着せられて暗殺されてしまうのですが…。
    因みに、アングルの興味はもっぱら無防備な女性の裸体表現にあったとされ、この作品の異なるバージョンを制作したばかりか、鎖に繋がれたアンジェリカだけを抜き出して描いた作品もあります。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ヨハネス・フェルメール『ヴァージナルの前に座る若い女性』<br />1670~72年頃?<br />初来日したフェルメールの作品は1968年の『ディアナとニンフ』でした。その後52年が経ち、36作品とされる(諸説あり)現存作品のうち、本作で24作品目の来日になります。<br />本作の色彩で目を引くのが女性が纏う服やカーテンに惜しみなく使われているフェルメール・ブルーです。これはラピスラズリという鉱石を原料とした顔料で、アフガニスタンでしか採れないため往時は金と等価の高価なものでした。<br />フェルメールが全作品群の中でも異彩を放つ本作を描いたのは40歳頃であり、43歳で亡くなる最晩年の作品です。確かに空間構成や光の表現においては以前の作風に比べて視覚的な合理化が顕著です。特に前髪や青衣の平面的な光の表現、椅子の装飾や画中画の額縁のデフォルメは1660年代の絵画からは想像できません。その理由については、肉体的な衰えや病、生活苦の中で描けなくなったとも、細部の描き込みに拘らず自由闊達な描写で新境地を切り開こうとしたとも説かれています。とは言え、首飾りには『真珠の耳飾りの少女』の瞳やイヤリングに見られる光の反射やハイライト部などを点描で表現する「ポワンティエ技法」が健在です。<br />仄暗い部屋で女性が楽器「ヴァージナル」に手をかけています。チェンバロの一種とされ、その語源は「ヴァージン」といいます。突然の訪問者に驚いたのか、嬉しかったのか、その手を止めてじっとこちらを見つめています。<br />しかし本作には、以前の作品とは決定的に違う箇所があります。真骨頂の窓から射し込む柔らかな光が封印されていることです。光は手前から当てられ、女性や弦楽器「ヴィオラ・ダ・ガンバ」の曲線に光を浴びせています。仄暗い中に白く浮かび上がる妖しも儚げな眼差しは、誰に向けられているのか?ここには特有の寓話的含意が込められています。画中画は、フェルメールの義母が所有していたディルク・ファン・バビューレン画『取り持ち女』です。左から順に、リュートを弾く女性、中年男、老女であり、音楽を快楽の象徴とする西洋の風刺と共に売春宿の女性と客、取り持ち女を暗喩しています。画中画と対比させているのが上品さと高貴さを兼ね備えた女性です。上品さと下劣さを対峙させることで音楽の持つ二面性を表現しています。<br />さて、彼女は訪問者を招き入れようとしているようにも窺えます。意味深なヴィオラは訪問者との合奏を暗示するかのようです。しかし、実際には訪問者の性別すら不明で、女性との関係も絵の中に示唆されておらず、観る者の想像力に委ねられています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ヨハネス・フェルメール『ヴァージナルの前に座る若い女性』
    1670~72年頃?
    初来日したフェルメールの作品は1968年の『ディアナとニンフ』でした。その後52年が経ち、36作品とされる(諸説あり)現存作品のうち、本作で24作品目の来日になります。
    本作の色彩で目を引くのが女性が纏う服やカーテンに惜しみなく使われているフェルメール・ブルーです。これはラピスラズリという鉱石を原料とした顔料で、アフガニスタンでしか採れないため往時は金と等価の高価なものでした。
    フェルメールが全作品群の中でも異彩を放つ本作を描いたのは40歳頃であり、43歳で亡くなる最晩年の作品です。確かに空間構成や光の表現においては以前の作風に比べて視覚的な合理化が顕著です。特に前髪や青衣の平面的な光の表現、椅子の装飾や画中画の額縁のデフォルメは1660年代の絵画からは想像できません。その理由については、肉体的な衰えや病、生活苦の中で描けなくなったとも、細部の描き込みに拘らず自由闊達な描写で新境地を切り開こうとしたとも説かれています。とは言え、首飾りには『真珠の耳飾りの少女』の瞳やイヤリングに見られる光の反射やハイライト部などを点描で表現する「ポワンティエ技法」が健在です。
    仄暗い部屋で女性が楽器「ヴァージナル」に手をかけています。チェンバロの一種とされ、その語源は「ヴァージン」といいます。突然の訪問者に驚いたのか、嬉しかったのか、その手を止めてじっとこちらを見つめています。
    しかし本作には、以前の作品とは決定的に違う箇所があります。真骨頂の窓から射し込む柔らかな光が封印されていることです。光は手前から当てられ、女性や弦楽器「ヴィオラ・ダ・ガンバ」の曲線に光を浴びせています。仄暗い中に白く浮かび上がる妖しも儚げな眼差しは、誰に向けられているのか?ここには特有の寓話的含意が込められています。 画中画は、フェルメールの義母が所有していたディルク・ファン・バビューレン画『取り持ち女』です。左から順に、リュートを弾く女性、中年男、老女であり、音楽を快楽の象徴とする西洋の風刺と共に売春宿の女性と客、取り持ち女を暗喩しています。画中画と対比させているのが上品さと高貴さを兼ね備えた女性です。上品さと下劣さを対峙させることで音楽の持つ二面性を表現しています。
    さて、彼女は訪問者を招き入れようとしているようにも窺えます。意味深なヴィオラは訪問者との合奏を暗示するかのようです。しかし、実際には訪問者の性別すら不明で、女性との関係も絵の中に示唆されておらず、観る者の想像力に委ねられています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • アンソニー・ヴァン・ダイク<br />『レディ・エリザベス・シンベビーとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー 』<br />1635年<br />ヴァン・ダイクは、現ベルギーのアントワープに生まれ、英国王チャールズ1世に召喚されて宮廷画家となりました。国王の希望は「王の画家にして画家の王」と讃えられる巨匠ルーベンスの召喚でしたが、その代役に大抜擢されたのがルーベンス工房の筆頭助手として活躍していたヴァン・ダイクでした。彼の肖像画の成功の秘訣は、理想化(今風に言う「盛り方」)が天才的だったことです。往時の肖像画は、外見に加えてパーソナリティや家柄・職業なども絵画に表すことが求められていました。こうした彼の旺盛な「サービス精神」は、モデルの人間性にフォーカスして「自らの表現」を優先したゴヤと対比されるところです。17世紀の英国には代表的な画家は数えるほどしかおらず絵画後進国と蔑まれましたが、18世紀には突如英国美術の黄金時代を迎えるに至りました。その原動力となったのが「肖像画」と「風景画」のジャンルでした。<br />本作では師匠ルーベンス譲りの流麗な筆致でドレスの絹の質感や繊細な髪を表現しています。そして何よりも適度に美化されたエレガントな雰囲気で人気を博したことがよく判ります。LNG副館長のスーザン・フォイスター氏が個人的に一番好きな作品として挙げたのが本作です。<br />初代サヴェッジ子爵トマスの長女と次女の肖像画です。右側の黄色のドレスを纏っているのが妹エリザベスです。本作はエリザベスの婚約記念に制作を依頼されたものです。それが判るのはアトリビュートの存在です。バラは美の神ヴィーナスを表します。本作ではキューピッドからバラを渡されるエリザベスをヴィーナスに見立てています。つまりビジュアル(見た目)だけでなく、普遍的な美(心からの美)も描いていますから、依頼人もこの絵を見て感激したはずです。また、黄色(サフラン色)は古代の花嫁衣装の色だったとも伝わります。左側は姉アンドーヴァー子爵夫人ドロシーですが、この時点では未婚でした。それを示すのが純白のドレスです。<br />一方、肖像画の伝統的なルールは「一人一枚」ですが、この作品は掟を破って2人描かれています。これを「二重肖像画(ダブル・ポートレイト)」と呼び、英国人が好んで描かせたスタイルだったそうです。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    アンソニー・ヴァン・ダイク
    『レディ・エリザベス・シンベビーとアンドーヴァー子爵夫人ドロシー 』
    1635年
    ヴァン・ダイクは、現ベルギーのアントワープに生まれ、英国王チャールズ1世に召喚されて宮廷画家となりました。国王の希望は「王の画家にして画家の王」と讃えられる巨匠ルーベンスの召喚でしたが、その代役に大抜擢されたのがルーベンス工房の筆頭助手として活躍していたヴァン・ダイクでした。彼の肖像画の成功の秘訣は、理想化(今風に言う「盛り方」)が天才的だったことです。往時の肖像画は、外見に加えてパーソナリティや家柄・職業なども絵画に表すことが求められていました。こうした彼の旺盛な「サービス精神」は、モデルの人間性にフォーカスして「自らの表現」を優先したゴヤと対比されるところです。 17世紀の英国には代表的な画家は数えるほどしかおらず絵画後進国と蔑まれましたが、18世紀には突如英国美術の黄金時代を迎えるに至りました。その原動力となったのが「肖像画」と「風景画」のジャンルでした。
    本作では師匠ルーベンス譲りの流麗な筆致でドレスの絹の質感や繊細な髪を表現しています。そして何よりも適度に美化されたエレガントな雰囲気で人気を博したことがよく判ります。LNG副館長のスーザン・フォイスター氏が個人的に一番好きな作品として挙げたのが本作です。
    初代サヴェッジ子爵トマスの長女と次女の肖像画です。右側の黄色のドレスを纏っているのが妹エリザベスです。本作はエリザベスの婚約記念に制作を依頼されたものです。それが判るのはアトリビュートの存在です。バラは美の神ヴィーナスを表します。本作ではキューピッドからバラを渡されるエリザベスをヴィーナスに見立てています。つまりビジュアル(見た目)だけでなく、普遍的な美(心からの美)も描いていますから、依頼人もこの絵を見て感激したはずです。また、黄色(サフラン色)は古代の花嫁衣装の色だったとも伝わります。左側は姉アンドーヴァー子爵夫人ドロシーですが、この時点では未婚でした。それを示すのが純白のドレスです。
    一方、肖像画の伝統的なルールは「一人一枚」ですが、この作品は掟を破って2人描かれています。これを「二重肖像画(ダブル・ポートレイト)」と呼び、英国人が好んで描かせたスタイルだったそうです。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー 『トマス・コルトマン夫妻』<br />1770~72年頃<br />本作も二重肖像画のひとつです。モデルはトマス・コルトマンとその妻のメアリ・バーロウであり、結婚後、約一年を経て描かれました。つまり、ヴァン・ダイクから130年程経った時代の肖像画です。英国の工業都市ダービーでは、旧家の名士や産業革命で台頭してきた新興ブルジョワジーは、互いの名門の証をアピールする手段として競うように肖像画を描かせました。やがてジョゼフ・ライトはダービーを代表する画家となり、彼の作品の多くはダービー市議会が所有し、「ライト・オブ・ダービー」と称されるようになりました。<br />新興ブルジョワジーは、旧来のブロマイドのような定型的な肖像画ではなく、夫妻が会話して最中を切り取ったような「カンヴァセーション・ピース」と言われる、リアリティ豊かでより自然体のスタイルを好んだそうです。本作は、実在する夫妻の肖像をありのままに、所有する屋敷や馬、領地と共に、お互いの存在を意識し合うかのように仲睦まじく描かれています。<br />夫は妻の膝元に手を掛け、妻は優し気な眼差しで夫を見つめています。そんな中、2人の視線が交わらない代わりに馬と犬が見つめ合っています。おまけに犬はこちらにお尻を向けています。また、夫のズボンのポケットには小銭の形が浮き出ています。本来リアルでなくても良い所を敢えてリアルに描いたという、砕けた遊び心が通じるほど画家と夫妻は気の置けない間柄だったことを窺わせます。実はトマス夫妻はジョゼフの友人でありパトロンでもありました。背景には、ロマン主義絵画風の風景が広がっており、この後、英国で隆盛を極める風景画の潮流を本作の中に予感することができます。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー 『トマス・コルトマン夫妻』
    1770~72年頃
    本作も二重肖像画のひとつです。モデルはトマス・コルトマンとその妻のメアリ・バーロウであり、結婚後、約一年を経て描かれました。つまり、ヴァン・ダイクから130年程経った時代の肖像画です。 英国の工業都市ダービーでは、旧家の名士や産業革命で台頭してきた新興ブルジョワジーは、互いの名門の証をアピールする手段として競うように肖像画を描かせました。やがてジョゼフ・ライトはダービーを代表する画家となり、彼の作品の多くはダービー市議会が所有し、「ライト・オブ・ダービー」と称されるようになりました。
    新興ブルジョワジーは、旧来のブロマイドのような定型的な肖像画ではなく、夫妻が会話して最中を切り取ったような「カンヴァセーション・ピース」と言われる、リアリティ豊かでより自然体のスタイルを好んだそうです。本作は、実在する夫妻の肖像をありのままに、所有する屋敷や馬、領地と共に、お互いの存在を意識し合うかのように仲睦まじく描かれています。
    夫は妻の膝元に手を掛け、妻は優し気な眼差しで夫を見つめています。そんな中、2人の視線が交わらない代わりに馬と犬が見つめ合っています。おまけに犬はこちらにお尻を向けています。また、夫のズボンのポケットには小銭の形が浮き出ています。本来リアルでなくても良い所を敢えてリアルに描いたという、砕けた遊び心が通じるほど画家と夫妻は気の置けない間柄だったことを窺わせます。実はトマス夫妻はジョゼフの友人でありパトロンでもありました。背景には、ロマン主義絵画風の風景が広がっており、この後、英国で隆盛を極める風景画の潮流を本作の中に予感することができます。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • エル・グレコ 『神殿から商人を追い払うキリスト 』1600年頃<br />本作は、スペインのトレドで描かれ、プロテスタントによる宗教改革に対抗するカトリック側の姿勢を反映した作品とされます。つまりカトリックにとりプロテスタントは異端であり、追放すべき存在でした。因みに、エル・グレコは同じテーマの絵を6枚描きましたが、この絵が最後の作品とされます。<br />『マタイの福音書』の21章で語られる、イエスが祈る者のためにある神殿で生贄用の動物の売買や両替をしていた商人たちを追放したという説話がモチーフです。画面中央のイエスの目は見開かれ、手には鞭が握られています。左側には追い払われて嘆く商人たち、右側には使徒たちが描かれています。使徒の中にはミケランジェロやテツィアーノなどの顔を描き込んだ者もいると指摘されています。エル・グレコ特有の人物の姿態やイエスの赤紫色の衣服やマスタードイエローなど、彼の特徴がぎっしり詰まった作品となっています。<br />背後にはアーチが開かれ、そこにはレリーフが彫られています。商人たちの背後には「商人たちの追放」ではなく「アダムとイヴの楽園追放」が彫られ、イエスによる神殿の清めを暗示しています。また、使徒たちの背後には「イサクの犠牲」が彫られ、イエスが犠牲になる未来を予兆しています。<br />一方、見方を変えれば、画面の左右に堕落した人と清廉な人を対比して配しており、これは天国と地獄に行く人々を描いた『最後の審判』のシーンを彷彿とさせます。尚、右端には籠を担いだ女性が意味深に描かれていますが、これが何を示唆するのかについては一致した見解はないそうです。<br />1895年に本作をLNGに寄贈したロビンソンは、V&A博物館の学芸員でルネッサンス美術研究家・スペイン美術コレクターでしたが、エル・グレコについては往時の世間の風潮通り「風変わりな画家」としか見ていなかったようです。しかし、彼の特徴的なデフォルメした人体表現は往時の流行でもあり、荒々しい筆致はヴェネツィア派の手法を追求したものです。実は、16世紀後半にトレドで活躍した彼は、その後忘れ去られます。第一次世界大戦の頃、先に述べた彼の特徴がモダンだという理由で再評価されたことで現在に至ります。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    エル・グレコ 『神殿から商人を追い払うキリスト 』1600年頃
    本作は、スペインのトレドで描かれ、プロテスタントによる宗教改革に対抗するカトリック側の姿勢を反映した作品とされます。つまりカトリックにとりプロテスタントは異端であり、追放すべき存在でした。因みに、エル・グレコは同じテーマの絵を6枚描きましたが、この絵が最後の作品とされます。
    『マタイの福音書』の21章で語られる、イエスが祈る者のためにある神殿で生贄用の動物の売買や両替をしていた商人たちを追放したという説話がモチーフです。画面中央のイエスの目は見開かれ、手には鞭が握られています。左側には追い払われて嘆く商人たち、右側には使徒たちが描かれています。使徒の中にはミケランジェロやテツィアーノなどの顔を描き込んだ者もいると指摘されています。エル・グレコ特有の人物の姿態やイエスの赤紫色の衣服やマスタードイエローなど、彼の特徴がぎっしり詰まった作品となっています。
    背後にはアーチが開かれ、そこにはレリーフが彫られています。商人たちの背後には「商人たちの追放」ではなく「アダムとイヴの楽園追放」が彫られ、イエスによる神殿の清めを暗示しています。また、使徒たちの背後には「イサクの犠牲」が彫られ、イエスが犠牲になる未来を予兆しています。
    一方、見方を変えれば、画面の左右に堕落した人と清廉な人を対比して配しており、これは天国と地獄に行く人々を描いた『最後の審判』のシーンを彷彿とさせます。尚、右端には籠を担いだ女性が意味深に描かれていますが、これが何を示唆するのかについては一致した見解はないそうです。
    1895年に本作をLNGに寄贈したロビンソンは、V&A博物館の学芸員でルネッサンス美術研究家・スペイン美術コレクターでしたが、エル・グレコについては往時の世間の風潮通り「風変わりな画家」としか見ていなかったようです。しかし、彼の特徴的なデフォルメした人体表現は往時の流行でもあり、荒々しい筆致はヴェネツィア派の手法を追求したものです。実は、16世紀後半にトレドで活躍した彼は、その後忘れ去られます。第一次世界大戦の頃、先に述べた彼の特徴がモダンだという理由で再評価されたことで現在に至ります。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • フランシスコ・デ・スルバラン 『アンティオキアの聖マルガリータ 』<br />1630~34年<br />ベラスケスと共に17世紀前半のスペインで活躍したセビーリャ派の画家です。宮廷画家にはなれませんでしたが、生涯を通してアンダルシアの教会や修道院のために宗教画を制作したことから「修道僧の画家」とも称されました。その活躍の裏には宮廷画家ベラスケスの影響があったといいます。<br />アンティオキアの聖マルガリータは、聖書には登場しない十四救難聖人のひとりで、妊婦や出産の守護聖人とされます。処女殉教者 聖マルガリータにアンダルシア地方の女性羊飼いの服装を纏わせて描いた架空の肖像画で、肌が陶器のように滑らかな質感で描かれています。スルバランは教会からの依頼で聖人・聖女の肖像画を数多く制作し、中にはペルーやアルゼンチンからの依頼もあったそうです。こうした作品のほとんどは弟子たちが制作しましたが、本作は珍しくスルバラン自身が描いた作品とされます。<br />彼の作品は単純な構図のものが多いのですが、宗教観と精神性が豊かであり、静謐という言葉がしっくりきます。こちらを儚げに見つめる眼差しと口元は、知性と信仰への強い決意を感じさせます。<br />伝説によると、4世紀の頃、トルコのアンティオキアの総督が羊番をしていたマルガリータを見初めて求婚したところ、彼女がキリスト教の信仰を理由に断ったため、残忍な拷問を科した後に投獄しました。その牢獄に悪魔が竜に身を変じて現れ、彼女を呑み込んでしまいますが、手に持った十字架で竜の腹を切り裂き、無事に逃れることができました。最期は斬首されて殉教するのですが、このエピソードから妊婦や出産の守護聖人として崇められています。因みに、彼女の足元に潜むのがその竜で、聖マルガリータを特定するアトリビュートです。竜の鱗や鋭い目、鋭い牙や爪にも注目です。<br />聖マルガリータ信仰は、その後も継承されて十字軍遠征の時代に隆盛を極め、現在でもカトリックで篤く信仰されています。特に英国では多くの教会で聖マルガリータ崇拝を公認しています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    フランシスコ・デ・スルバラン 『アンティオキアの聖マルガリータ 』
    1630~34年
    ベラスケスと共に17世紀前半のスペインで活躍したセビーリャ派の画家です。宮廷画家にはなれませんでしたが、生涯を通してアンダルシアの教会や修道院のために宗教画を制作したことから「修道僧の画家」とも称されました。その活躍の裏には宮廷画家ベラスケスの影響があったといいます。
    アンティオキアの聖マルガリータは、聖書には登場しない十四救難聖人のひとりで、妊婦や出産の守護聖人とされます。処女殉教者 聖マルガリータにアンダルシア地方の女性羊飼いの服装を纏わせて描いた架空の肖像画で、肌が陶器のように滑らかな質感で描かれています。スルバランは教会からの依頼で聖人・聖女の肖像画を数多く制作し、中にはペルーやアルゼンチンからの依頼もあったそうです。こうした作品のほとんどは弟子たちが制作しましたが、本作は珍しくスルバラン自身が描いた作品とされます。
    彼の作品は単純な構図のものが多いのですが、宗教観と精神性が豊かであり、静謐という言葉がしっくりきます。こちらを儚げに見つめる眼差しと口元は、知性と信仰への強い決意を感じさせます。
    伝説によると、4世紀の頃、トルコのアンティオキアの総督が羊番をしていたマルガリータを見初めて求婚したところ、彼女がキリスト教の信仰を理由に断ったため、残忍な拷問を科した後に投獄しました。その牢獄に悪魔が竜に身を変じて現れ、彼女を呑み込んでしまいますが、手に持った十字架で竜の腹を切り裂き、無事に逃れることができました。最期は斬首されて殉教するのですが、このエピソードから妊婦や出産の守護聖人として崇められています。因みに、彼女の足元に潜むのがその竜で、聖マルガリータを特定するアトリビュートです。竜の鱗や鋭い目、鋭い牙や爪にも注目です。
    聖マルガリータ信仰は、その後も継承されて十字軍遠征の時代に隆盛を極め、現在でもカトリックで篤く信仰されています。特に英国では多くの教会で聖マルガリータ崇拝を公認しています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ディエゴ ・ベラスケス 『マルタとマリアの家のキリスト 』1618年頃<br />スペインが無敵艦隊で世界を制覇し「黄金の世紀」と呼ばれた時代に、ベラスケスはスペイン国王フェリペ4世の専属画家になり、確実に画家としてのキャリアを積みました。職務に忠実に国王や王妃、王子など王室の権威を伝える作品に勤しみましたが、一方ではラフな筆遣いで王室の使用人をカジュアルに描き、「印象派の先駆け」とも称されました。<br />本作はベラスケスが19歳頃に故郷セビーリャで描いた作品です。テーマ『マルタとマリアの家のキリスト 』は、新約聖書『ルカによる福音書』の11章に記された物語ですが、聖書で1、2を争う難解な内容です。その宗教画の要素に加え、厨房の野菜などを描く「ボデゴン(厨房画)」と言う風俗的静止画やフランドル絵画で流行した「二重構図」の要素も盛り込んでおり、複雑怪奇な作品に仕上がっています。<br />宗教的なメインテーマは、「二重構造」として窓の向こう、もしくは鏡に映った姿、あるいは画中画として表現しています。姉マルタはイエスをもてなすためにせわしく働いているのに、妹マリアは手伝いもせずにイエスの話に聞き入っています。それなのにイエスは、マリアの態度の方が正しいと説きます。それ故、マルタは不満を露にしてふくれっ面をしています。この物語の教えは、その瞬間毎に最も必要なことに専念しなさいということです。ここでは、イエスに会えたのだから、まず説教を聞き、その後におもてなしをするのが良いという教えです。<br />そして視線を前景に移すと、テーブルの上の魚やニンニクをすり潰す乳鉢の質感の再現には、ベラスケスの類い稀な力量が遺憾なく発揮されています。しかし、料理の下ごしらえをする若いメイドは、指図だけする老メイドに少しムッとしている様子です。そのふてくされたような一瞬の表情には迫真性があります。聖書の解釈も含めて多彩な鑑賞の仕方ができる作品ですが、この若いメイドがひとりで奉仕を強いられているマルタの比喩、あるいは後日の姉妹の姿として描かれているとの解釈もあります。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ディエゴ ・ベラスケス 『マルタとマリアの家のキリスト 』1618年頃
    スペインが無敵艦隊で世界を制覇し「黄金の世紀」と呼ばれた時代に、ベラスケスはスペイン国王フェリペ4世の専属画家になり、確実に画家としてのキャリアを積みました。職務に忠実に国王や王妃、王子など王室の権威を伝える作品に勤しみましたが、一方ではラフな筆遣いで王室の使用人をカジュアルに描き、「印象派の先駆け」とも称されました。
    本作はベラスケスが19歳頃に故郷セビーリャで描いた作品です。テーマ『マルタとマリアの家のキリスト 』は、新約聖書『ルカによる福音書』の11章に記された物語ですが、聖書で1、2を争う難解な内容です。その宗教画の要素に加え、厨房の野菜などを描く「ボデゴン(厨房画)」と言う風俗的静止画やフランドル絵画で流行した「二重構図」の要素も盛り込んでおり、複雑怪奇な作品に仕上がっています。
    宗教的なメインテーマは、「二重構造」として窓の向こう、もしくは鏡に映った姿、あるいは画中画として表現しています。姉マルタはイエスをもてなすためにせわしく働いているのに、妹マリアは手伝いもせずにイエスの話に聞き入っています。それなのにイエスは、マリアの態度の方が正しいと説きます。それ故、マルタは不満を露にしてふくれっ面をしています。この物語の教えは、その瞬間毎に最も必要なことに専念しなさいということです。ここでは、イエスに会えたのだから、まず説教を聞き、その後におもてなしをするのが良いという教えです。
    そして視線を前景に移すと、テーブルの上の魚やニンニクをすり潰す乳鉢の質感の再現には、ベラスケスの類い稀な力量が遺憾なく発揮されています。しかし、料理の下ごしらえをする若いメイドは、指図だけする老メイドに少しムッとしている様子です。そのふてくされたような一瞬の表情には迫真性があります。聖書の解釈も含めて多彩な鑑賞の仕方ができる作品ですが、この若いメイドがひとりで奉仕を強いられているマルタの比喩、あるいは後日の姉妹の姿として描かれているとの解釈もあります。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 『幼い洗礼者聖ヨハネと子羊 』<br />1660~65年<br />ムリーリョは、17世紀のバロック期のスペインを代表する画家のひとりです。スルバランの自然主義や明暗法を継承し、宗教画の他に風俗画なども描きました。<br />初期の頃はテネブリズム(光と闇のコントラストを用いたスタイル)を中心とした作風でしたが、17世紀後半はベラスケスの影響を受けて作品に色彩豊かな表現が見られるようになりました。子どもを描かせれば右に出る者はいないムリーリョですが、実は10人程の子どもを授かるも、そのほとんどを早くに病気で亡くしています。また、46歳の時には最愛の妻ベアトリスも亡くしています。そうした背景に思いを馳せながら本作を改めて観ると、印象が少し変わってくるかもしれません。<br />キリスト教においてヨハネという人物は2人存在し、イエスに洗礼を授けるヨハネとイエスの最初の弟子のひとりであるヨハネがいます。本作は前者のヨハネを表し、幼いヨハネが岩場で神の子羊にすり寄られている姿は「荒野のヨハネ」というモチーフです。子羊は人類の罪を贖うイエスを表わし、岩の下には聖ヨハネのアトリビュートである葦の杖が置かれ、その杖に巻かれたリボンにはラテン語で「ECCE AGNES(見よ!神の子羊)」と書かれています。通常は成人したヨハネが描かれるのですが、ムリーリョは可愛らしい子どもをモデルにしているのが斬新です。子どもと子羊の仕草にも注目してください。子羊の右前足がヨハネの右手に乗っているところ、ヨハネの左手の指が立っているところにもほっこりさせられます。ムリーリョの描く少年少女は愛らしく、存命中から英国では人気を博していました。<br />ムリーリョの作品はどうしても少年の表情に視線が収斂してしまうのですが、額にも注目してみてください。本作に用いられている額は、黒地に厚い金の装飾が施された、往時のスペイン絵画の典型的なものです。絵画作品はオーナーや時代と共にオリジナルの額が取り替えられることも多々ありますが、LNGでは作品が描かれた時代にその場所で用いられた様式に合わせた額を設えて展示されているそうです。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 『幼い洗礼者聖ヨハネと子羊 』
    1660~65年
    ムリーリョは、17世紀のバロック期のスペインを代表する画家のひとりです。スルバランの自然主義や明暗法を継承し、宗教画の他に風俗画なども描きました。
    初期の頃はテネブリズム(光と闇のコントラストを用いたスタイル)を中心とした作風でしたが、17世紀後半はベラスケスの影響を受けて作品に色彩豊かな表現が見られるようになりました。子どもを描かせれば右に出る者はいないムリーリョですが、実は10人程の子どもを授かるも、そのほとんどを早くに病気で亡くしています。また、46歳の時には最愛の妻ベアトリスも亡くしています。そうした背景に思いを馳せながら本作を改めて観ると、印象が少し変わってくるかもしれません。
    キリスト教においてヨハネという人物は2人存在し、イエスに洗礼を授けるヨハネとイエスの最初の弟子のひとりであるヨハネがいます。本作は前者のヨハネを表し、幼いヨハネが岩場で神の子羊にすり寄られている姿は「荒野のヨハネ」というモチーフです。子羊は人類の罪を贖うイエスを表わし、岩の下には聖ヨハネのアトリビュートである葦の杖が置かれ、その杖に巻かれたリボンにはラテン語で「ECCE AGNES(見よ!神の子羊)」と書かれています。通常は成人したヨハネが描かれるのですが、ムリーリョは可愛らしい子どもをモデルにしているのが斬新です。子どもと子羊の仕草にも注目してください。子羊の右前足がヨハネの右手に乗っているところ、ヨハネの左手の指が立っているところにもほっこりさせられます。ムリーリョの描く少年少女は愛らしく、存命中から英国では人気を博していました。
    ムリーリョの作品はどうしても少年の表情に視線が収斂してしまうのですが、額にも注目してみてください。本作に用いられている額は、黒地に厚い金の装飾が施された、往時のスペイン絵画の典型的なものです。絵画作品はオーナーや時代と共にオリジナルの額が取り替えられることも多々ありますが、LNGでは作品が描かれた時代にその場所で用いられた様式に合わせた額を設えて展示されているそうです。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ニコラ・プッサン 『泉で足を洗う男のいる風景 』1648年頃<br />フランス絵画が美術史上で重要な地位を占めるのは、ロココ~ロマン主義や写実主義、印象派の時代です。その端境のバロック全盛期に頭角を現したのがプッサンです。しかし、彼はラファエロに傾倒し、画業のほとんどをローマで担い、古典派芸術に大きな影響を与えて「古典主義の祖」とも称されました。聖書や神話、叙事詩をモチーフにした絵画だけでなく、本作を描いた頃から、景色の中に神話などの要素を寓意的に埋め込んだ風景画を描くようになりました。バロック期の後に興隆を極めたフランス絵画の原点は、彼が確立したと言っても過言ではないほど気高く実直な哲人画家でした。<br />本展では本作を風景画のジャンルに展示していますが、実際には本作の解釈は難航を極めます。川の流れと道が観る者の視線を遠景にある街へと誘い、蒼い空と木々の深い緑、その涼しげな木陰は典型的な風景画を彷彿とさせます。一方、前景には数人の人物が描かれ、左側の男性は噴水で足を洗っており、羊飼いの横の白い衣装の女性は右端にある寺院らしき建物の柱を指差すかのようなポーズで画面に収まっています。<br />本作が描かれた時代は、この絵に描かれているような水溜まりが寺院の近くに設らわれ、信者たちが浄化の儀式として足を洗っていたそうです。ですから、この絵には宗教的な寓意が秘められていることが判ります。そうした目でよく観てみると、真ん中の大木にはリボンを結んだ杭のようなものが打たれており、その下にも2つの白っぽい小さな像が吊るされています。これらにはそれなりの寓意が込められていると思いますが不詳です。また、剣と鞘は、地面に横たわっている男が軍隊生活から退役したことを指すものと思われます。<br />尚、この情景は、古典作家が描写したギリシアのテンペ渓谷にインスパイヤされたという解釈もあります。因みに、その渓谷は、ピンドゥス山地に源を発し、エーゲ海のテルメ湾へと注ぎ込みます。ギリシア神話の12神が住む場所ともされており、雄大なオリンポス山塊の陰にあります。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ニコラ・プッサン 『泉で足を洗う男のいる風景 』1648年頃
    フランス絵画が美術史上で重要な地位を占めるのは、ロココ~ロマン主義や写実主義、印象派の時代です。その端境のバロック全盛期に頭角を現したのがプッサンです。しかし、彼はラファエロに傾倒し、画業のほとんどをローマで担い、古典派芸術に大きな影響を与えて「古典主義の祖」とも称されました。聖書や神話、叙事詩をモチーフにした絵画だけでなく、本作を描いた頃から、景色の中に神話などの要素を寓意的に埋め込んだ風景画を描くようになりました。バロック期の後に興隆を極めたフランス絵画の原点は、彼が確立したと言っても過言ではないほど気高く実直な哲人画家でした。
    本展では本作を風景画のジャンルに展示していますが、実際には本作の解釈は難航を極めます。川の流れと道が観る者の視線を遠景にある街へと誘い、蒼い空と木々の深い緑、その涼しげな木陰は典型的な風景画を彷彿とさせます。一方、前景には数人の人物が描かれ、左側の男性は噴水で足を洗っており、羊飼いの横の白い衣装の女性は右端にある寺院らしき建物の柱を指差すかのようなポーズで画面に収まっています。
    本作が描かれた時代は、この絵に描かれているような水溜まりが寺院の近くに設らわれ、信者たちが浄化の儀式として足を洗っていたそうです。ですから、この絵には宗教的な寓意が秘められていることが判ります。そうした目でよく観てみると、真ん中の大木にはリボンを結んだ杭のようなものが打たれており、その下にも2つの白っぽい小さな像が吊るされています。これらにはそれなりの寓意が込められていると思いますが不詳です。また、剣と鞘は、地面に横たわっている男が軍隊生活から退役したことを指すものと思われます。
    尚、この情景は、古典作家が描写したギリシアのテンペ渓谷にインスパイヤされたという解釈もあります。因みに、その渓谷は、ピンドゥス山地に源を発し、エーゲ海のテルメ湾へと注ぎ込みます。ギリシア神話の12神が住む場所ともされており、雄大なオリンポス山塊の陰にあります。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • クロード・ロラン  『海港』 1664年<br />17世紀のフランス古典主義を代表する風景画の巨匠ロランの作品です。彼は主にローマを活躍拠点とし、空気感が漂う詩情性豊かな風景画に、明暗を強調した神秘的な風景描写を融合させ、実在と架空の物を巧みに組み合わせた 理想的な風景画「ピクチャレスク」を確立しました。ピクチャレスクとは、18世期後半に画家ウィリアム・ギルピンが出版した挿絵付き旅行記『ピクチャレスク・ツアー』に由来する風景の概念を指します。ギルピンはピクチャレスクを「山脈や渓谷、平原、海辺などの変化と多様性を持った風景」と定義しました。「絵のような」という意味を持ち、今風に言えば「インスタ映え」に近いニュアンスのものです。実際の風景を忠実に描くのではなく、アトリエで様々なパーツを組合わせて理想的な架空の風景を追求しました。グランドツアーでイタリアを訪れた英国人がロランの絵に魅了され、それを絵画後進国と蔑まれていた母国へ持ち帰ったことで風景画ブームが巻き起こりました。<br />本作も、どこの港とも知れぬ、でもどこか古代ローマ遺跡を彷彿とさせる港町風景が描かれています。画面奥に向かって開けた海、左手には古典的な建築物を配し、そして地平線近くの太陽が海面に落とす黄金色の光やその柔らかな空気感が幻想的な色どりを添え、やがて海面に反射しながら岸辺に佇む人物の輪郭を浮き出させます。このもやっとした空気感が漂うノスタルジックで幻想的な風景画こそ、ロランの真骨頂です。ロランに強く影響を受けた英国の国民的画家がウィリアム・ターナーでした。<br />ファルネーゼ庭園への玄関口を彷彿とさせる華やかな入口を持つローマ風建物の時計は5時少し前を指しています。その時計の上と船の旗の右側にある3つの金色のアヤメ紋章(フランス王の紋章)は、本作がフランス人の常連客を対象としていたことの証左です。<br />一方、いつしかロランの絵画を肖像画の背景に描くだけでは飽きたらなくなり、ロランの描いた風景をそのまま自邸の庭に再現しようとした貴族たちも現れました。それが英国式風景庭園のはじまりです。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    クロード・ロラン 『海港』 1664年
    17世紀のフランス古典主義を代表する風景画の巨匠ロランの作品です。彼は主にローマを活躍拠点とし、空気感が漂う詩情性豊かな風景画に、明暗を強調した神秘的な風景描写を融合させ、実在と架空の物を巧みに組み合わせた 理想的な風景画「ピクチャレスク」を確立しました。ピクチャレスクとは、18世期後半に画家ウィリアム・ギルピンが出版した挿絵付き旅行記『ピクチャレスク・ツアー』に由来する風景の概念を指します。ギルピンはピクチャレスクを「山脈や渓谷、平原、海辺などの変化と多様性を持った風景」と定義しました。「絵のような」という意味を持ち、今風に言えば「インスタ映え」に近いニュアンスのものです。実際の風景を忠実に描くのではなく、アトリエで様々なパーツを組合わせて理想的な架空の風景を追求しました。グランドツアーでイタリアを訪れた英国人がロランの絵に魅了され、それを絵画後進国と蔑まれていた母国へ持ち帰ったことで風景画ブームが巻き起こりました。
    本作も、どこの港とも知れぬ、でもどこか古代ローマ遺跡を彷彿とさせる港町風景が描かれています。画面奥に向かって開けた海、左手には古典的な建築物を配し、そして地平線近くの太陽が海面に落とす黄金色の光やその柔らかな空気感が幻想的な色どりを添え、やがて海面に反射しながら岸辺に佇む人物の輪郭を浮き出させます。このもやっとした空気感が漂うノスタルジックで幻想的な風景画こそ、ロランの真骨頂です。ロランに強く影響を受けた英国の国民的画家がウィリアム・ターナーでした。
    ファルネーゼ庭園への玄関口を彷彿とさせる華やかな入口を持つローマ風建物の時計は5時少し前を指しています。その時計の上と船の旗の右側にある3つの金色のアヤメ紋章(フランス王の紋章)は、本作がフランス人の常連客を対象としていたことの証左です。
    一方、いつしかロランの絵画を肖像画の背景に描くだけでは飽きたらなくなり、ロランの描いた風景をそのまま自邸の庭に再現しようとした貴族たちも現れました。それが英国式風景庭園のはじまりです。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー<br />『ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス』  1829年<br />第6章「風景画とピクチャレスク」のフィナーレを飾るのは、風景画の巨匠ターナーです。18世紀後半~19世紀初頭に活躍した英国を代表する風景画家で、印象派の先駆けとも称されました。ターナーは油彩や水彩、素描など2万3千点を超える作品を英国に遺贈し、LNGには代表作の油彩10点が所蔵されています。<br />本作は、古代ギリシアのホメロスの叙情詩『オデュッセイア』の第9巻のエピソードをモチーフにした、光と大気の情景が迫ってくる作品です。19世紀には神話画は時代遅れでリアリティに乏しいと蔑まれており、ファンタジックな神話を如何に描けば観る者の心を捉えるか腐心した痕跡が窺えます。<br />神話によると、トロイア戦争からの帰途、船の左奥に見える洞窟に住むポリュフェモスと呼ばれる片目の人食い巨人に英雄オデュッセウスと仲間が捕らえられてしまいます。その後、火の付いたトーチで巨人を盲目にして彼らは洞窟から脱出し、船に戻りました。本作は大海原へ出航するオデュッセウスが船上から雄たけびを上げている姿を切り取っています。<br />緋色のマントを纏い、赤い旗がたなびく下で甲板に立つのがオデュッセウス。巨人の姿を船に覆い被さるような崖の上の雲の中に忍ばせ、左手を上に挙げ、右手で顔を覆った姿をシルエットで想像させます。また、太陽神アポロンが乗る馬車は馬の頭の形をした太陽の光線で表わしています。神話では「アポロンが馬車に太陽を乗せてやってくることで朝が来る」とされており、朝焼けのドラマチックな情景を鮮烈な色彩で描いています。<br />船首には海の精霊ネレイスやトビウオを波しぶきに紛れるようさりげなく描いています。本作は遠目で見ると光と色彩と空気感が堪能できます。叙情詩をモチーフにしたという背景を知らなければ風景画そのものです。ターナーの本心は風景を描きたかったんだろうと感じさせる作品です。<br />光が色彩に溶け込むような色彩効果は、英国を訪れたモネやピサロなど後のフランス印象派画家へと受け継がれていきました。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
    『ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス』 1829年
    第6章「風景画とピクチャレスク」のフィナーレを飾るのは、風景画の巨匠ターナーです。18世紀後半~19世紀初頭に活躍した英国を代表する風景画家で、印象派の先駆けとも称されました。ターナーは油彩や水彩、素描など2万3千点を超える作品を英国に遺贈し、LNGには代表作の油彩10点が所蔵されています。
    本作は、古代ギリシアのホメロスの叙情詩『オデュッセイア』の第9巻のエピソードをモチーフにした、光と大気の情景が迫ってくる作品です。19世紀には神話画は時代遅れでリアリティに乏しいと蔑まれており、ファンタジックな神話を如何に描けば観る者の心を捉えるか腐心した痕跡が窺えます。
    神話によると、トロイア戦争からの帰途、船の左奥に見える洞窟に住むポリュフェモスと呼ばれる片目の人食い巨人に英雄オデュッセウスと仲間が捕らえられてしまいます。その後、火の付いたトーチで巨人を盲目にして彼らは洞窟から脱出し、船に戻りました。本作は大海原へ出航するオデュッセウスが船上から雄たけびを上げている姿を切り取っています。
    緋色のマントを纏い、赤い旗がたなびく下で甲板に立つのがオデュッセウス。巨人の姿を船に覆い被さるような崖の上の雲の中に忍ばせ、左手を上に挙げ、右手で顔を覆った姿をシルエットで想像させます。また、太陽神アポロンが乗る馬車は馬の頭の形をした太陽の光線で表わしています。神話では「アポロンが馬車に太陽を乗せてやってくることで朝が来る」とされており、朝焼けのドラマチックな情景を鮮烈な色彩で描いています。
    船首には海の精霊ネレイスやトビウオを波しぶきに紛れるようさりげなく描いています。本作は遠目で見ると光と色彩と空気感が堪能できます。叙情詩をモチーフにしたという背景を知らなければ風景画そのものです。ターナーの本心は風景を描きたかったんだろうと感じさせる作品です。
    光が色彩に溶け込むような色彩効果は、英国を訪れたモネやピサロなど後のフランス印象派画家へと受け継がれていきました。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ジャン=バティスト=カミーユ・コロー 『西方より望むアヴィニョン 』<br />1836年<br />1830年派とも呼ばれるフランスで花開いたバルビゾン派は、パリ郊外のバルビゾン村に移住し、農村風景やフォンテーヌブローの森を舞台に写実主義絵画を発展させました。バルビゾン村に集まった画家は総勢100人以上とされますが、コローはバルビゾン派の7星のひとりに数えられました。ありふれた日常の風景でさえも詩情豊かに描く手法は、後の印象派やポスト印象派の画家たちに多大な影響を与えました。尚、コローは森や湖の風景画で知られていますが、『真珠の女』といった肖像画にも定評があります。<br />本作は、コロー40歳の時の作品で、アヴィニョンで描かれました。彼は、何度もこの地を訪れ、ローヌの反対側にある小さな町ヴィルヌーヴレスアヴィニョンからアヴィニョンを眺め、比較的小柄な画面に南仏の陽光が溢れるパノラマビューを鮮やかに描写しています。前景の樹木と背景の青い空に挟まれたアヴィニョンの街並みは樹木の深い緑と対比されて浮き上がり、明るいプロヴァンスの陽光が今にも画面から漏れてきそうです。<br />一方、右側の曲がりくねった大木を水平ラインに対峙させてアクセントとすると共に、画家とアヴィニョンの街との距離感をそれとなく伝えるツールとしています。<br />彼の作品の多くはコロー・グリーンと称される仄暗いイメージが強烈なのですが、この作品はそれを封印しています。前景の樹木の緑にはその片鱗が認められますが、地面や建物、画面の半分を占める空など、それ以外の色彩のウェイトが高くなっています。この明るさは、1825~28年にイタリアを初めて訪れた時に彼が制作した絵画を彷彿とさせます。また、画面中央にはアヴィニョンの街のランドマークともなる教皇庁を細かく描き込み、左側にローヌ川とそこに架けられた橋の遺構を描いています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ジャン=バティスト=カミーユ・コロー 『西方より望むアヴィニョン 』
    1836年
    1830年派とも呼ばれるフランスで花開いたバルビゾン派は、パリ郊外のバルビゾン村に移住し、農村風景やフォンテーヌブローの森を舞台に写実主義絵画を発展させました。バルビゾン村に集まった画家は総勢100人以上とされますが、コローはバルビゾン派の7星のひとりに数えられました。ありふれた日常の風景でさえも詩情豊かに描く手法は、後の印象派やポスト印象派の画家たちに多大な影響を与えました。尚、コローは森や湖の風景画で知られていますが、『真珠の女』といった肖像画にも定評があります。
    本作は、コロー40歳の時の作品で、アヴィニョンで描かれました。彼は、何度もこの地を訪れ、ローヌの反対側にある小さな町ヴィルヌーヴレスアヴィニョンからアヴィニョンを眺め、比較的小柄な画面に南仏の陽光が溢れるパノラマビューを鮮やかに描写しています。前景の樹木と背景の青い空に挟まれたアヴィニョンの街並みは樹木の深い緑と対比されて浮き上がり、明るいプロヴァンスの陽光が今にも画面から漏れてきそうです。
    一方、右側の曲がりくねった大木を水平ラインに対峙させてアクセントとすると共に、画家とアヴィニョンの街との距離感をそれとなく伝えるツールとしています。
    彼の作品の多くはコロー・グリーンと称される仄暗いイメージが強烈なのですが、この作品はそれを封印しています。前景の樹木の緑にはその片鱗が認められますが、地面や建物、画面の半分を占める空など、それ以外の色彩のウェイトが高くなっています。この明るさは、1825~28年にイタリアを初めて訪れた時に彼が制作した絵画を彷彿とさせます。また、画面中央にはアヴィニョンの街のランドマークともなる教皇庁を細かく描き込み、左側にローヌ川とそこに架けられた橋の遺構を描いています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ピエール=オーギュスト・ルノワール『劇場にて(初めてのお出かけ)』<br />1876~77年<br />ルノワールの画風は大分すると生涯で3度変遷しており、本作が描かれたのは印象派時代の晩年に当たり、印象派として脂が乗っていた時期です。しかし、他の印象派の画家たちとは一線を画し、自然や背景よりも人物を重視しました。また、彼には絵画を描く上でのモットーがあり、それは「見る人を楽しい気持ちにさせたい」でした。そこから彼独特の優しい人物表現が生まれました。作品を鑑賞する際には人物に注目されることをお勧めします。<br />本作は、繊維業で財を成した20世紀初頭の実業家サミュエル・コートールドが設立したコートールド基金により、1923年に英国が買い上げた作品です。手前の若い女性に焦点を当て、遠景の観客を曖昧な筆遣いでソフトフォーカスにすることで、網膜に映る映像に似せた広がりを感じさせています。この技法は、この後に描かれる名作 『 ムーラン・ド・ラ・ギャレット 』へと引き継がれていきます。<br />この時期のルノワールは、直接的ではないものの、劇場で観客たちが織り成す人間模様を描いています。お洒落れをした若い女性が、劇場の桟敷席から少し前のめりになりながら一心に客席を見渡しています。その初々しい姿は観る者を微笑ましい気持ちにさせてくれます。<br />一方、往時の劇場は観劇の場所でもあり、また男女の出会いの場でもありました。19世紀後半の劇場は「その後の情事」を暗示させるメタファーであり、ルノワールが好んだモチーフのひとつでした。<br />それを踏まえ想像を逞しくして改めて観ると、彼女が手にするスミレの花束も意味深です。スミレは「恥ずかしさ」や「謙遜」を意味するからです。また、観劇している人々のざわめきと彼女の緊張感とを対比するかのように描いており、印象派特有の粗い筆致の割には情景が手に取るように伝わってきます。それ故、絵画を観る者は、彼女の秘められた心理を覗き見しているような妙な気分に陥り、一寸したスリリングなひと時を味わえます。<br />因みに、『初めてのお出かけ』という副題は、制作後50年程経ち、この絵がオークションにかけられた際に付けられました。ルノワールが題名を残さなかったため、それまでは単に『劇場にて(at the theatre)』と呼ばれていたようです。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ピエール=オーギュスト・ルノワール『劇場にて(初めてのお出かけ)』
    1876~77年
    ルノワールの画風は大分すると生涯で3度変遷しており、本作が描かれたのは印象派時代の晩年に当たり、印象派として脂が乗っていた時期です。しかし、他の印象派の画家たちとは一線を画し、自然や背景よりも人物を重視しました。また、彼には絵画を描く上でのモットーがあり、それは「見る人を楽しい気持ちにさせたい」でした。そこから彼独特の優しい人物表現が生まれました。作品を鑑賞する際には人物に注目されることをお勧めします。
    本作は、繊維業で財を成した20世紀初頭の実業家サミュエル・コートールドが設立したコートールド基金により、1923年に英国が買い上げた作品です。手前の若い女性に焦点を当て、遠景の観客を曖昧な筆遣いでソフトフォーカスにすることで、網膜に映る映像に似せた広がりを感じさせています。この技法は、この後に描かれる名作 『 ムーラン・ド・ラ・ギャレット 』へと引き継がれていきます。
    この時期のルノワールは、直接的ではないものの、劇場で観客たちが織り成す人間模様を描いています。お洒落れをした若い女性が、劇場の桟敷席から少し前のめりになりながら一心に客席を見渡しています。その初々しい姿は観る者を微笑ましい気持ちにさせてくれます。
    一方、往時の劇場は観劇の場所でもあり、また男女の出会いの場でもありました。19世紀後半の劇場は「その後の情事」を暗示させるメタファーであり、ルノワールが好んだモチーフのひとつでした。
    それを踏まえ想像を逞しくして改めて観ると、彼女が手にするスミレの花束も意味深です。スミレは「恥ずかしさ」や「謙遜」を意味するからです。また、観劇している人々のざわめきと彼女の緊張感とを対比するかのように描いており、印象派特有の粗い筆致の割には情景が手に取るように伝わってきます。それ故、絵画を観る者は、彼女の秘められた心理を覗き見しているような妙な気分に陥り、一寸したスリリングなひと時を味わえます。
    因みに、『初めてのお出かけ』という副題は、制作後50年程経ち、この絵がオークションにかけられた際に付けられました。ルノワールが題名を残さなかったため、それまでは単に『劇場にて(at the theatre)』と呼ばれていたようです。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • クロード・モネ『睡蓮の池』1899年<br />1870年に普仏戦争が始まると、モネは兵役を逃れるためロンドンへと渡りました。この時期に出会った英国の風景画家ターナーがモネの作風に影響を及ぼしました。その後、フランスに戻った彼はジヴェルニーに移住し、百花繚乱の「花の庭」を造り、続いて池に蓮を植えて太鼓橋を架けた「水の庭」を造りました。また、その池の周りには柳や竹、桜、藤、アイリス、牡丹など様々な植物を植えました。この幻想的な庭で「睡蓮の池と橋」の風景を18点も描いています。「光の画家」とも言われたモネは、刻一刻と移ろい行く光を描き、夏の陽光が反射する水面のきらめきを点描で表現しました。本作はモネが描いた「睡蓮」の連作の初期のもので、光の表現にはターナーに通じるものがあるように思えます。また、歌川広重の版画『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれた太鼓橋を彷彿とさせる橋はジャポニズムを彷彿とさせ、その橋を正面にして少し引いた構図も特徴的です。更に、橋の両側が見切れており、景色の一部だけを切り取った構図も浮世絵から学んだ技法と思われます。<br />しかしこの絵画、何か違和感がありませんか?<br />太鼓橋を真正面から見ているのに、池には奥行があってやや上方から見下ろしてた視点です。つまり、本作は真正面とそのやや上からの2つの視点から描かれた作品ということです。西洋絵画では、永い間、実際の3次元の風景を2次元の平面で再現するというテクニックが探求されてきました。そこでモネは、3次元空間を絵画に留めるためのツールとして、絵画の中に視点を複数設けることで時間の流れを作りました。本作に見られる複数の視点は、「現代絵画の父」と称されるセザンヌやピカソのキュビスム、それに続くモダンアートの原点とも言えます。また、本作は、3次元世界の再現と移り行く時間の表現を併せ持つという意味では、4次元的な絵画と言えるのかもしれません。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    クロード・モネ『睡蓮の池』1899年
    1870年に普仏戦争が始まると、モネは兵役を逃れるためロンドンへと渡りました。この時期に出会った英国の風景画家ターナーがモネの作風に影響を及ぼしました。その後、フランスに戻った彼はジヴェルニーに移住し、百花繚乱の「花の庭」を造り、続いて池に蓮を植えて太鼓橋を架けた「水の庭」を造りました。また、その池の周りには柳や竹、桜、藤、アイリス、牡丹など様々な植物を植えました。この幻想的な庭で「睡蓮の池と橋」の風景を18点も描いています。「光の画家」とも言われたモネは、刻一刻と移ろい行く光を描き、夏の陽光が反射する水面のきらめきを点描で表現しました。 本作はモネが描いた「睡蓮」の連作の初期のもので、光の表現にはターナーに通じるものがあるように思えます。また、歌川広重の版画『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれた太鼓橋を彷彿とさせる橋はジャポニズムを彷彿とさせ、その橋を正面にして少し引いた構図も特徴的です。更に、橋の両側が見切れており、景色の一部だけを切り取った構図も浮世絵から学んだ技法と思われます。
    しかしこの絵画、何か違和感がありませんか?
    太鼓橋を真正面から見ているのに、池には奥行があってやや上方から見下ろしてた視点です。つまり、本作は真正面とそのやや上からの2つの視点から描かれた作品ということです。西洋絵画では、永い間、実際の3次元の風景を2次元の平面で再現するというテクニックが探求されてきました。そこでモネは、3次元空間を絵画に留めるためのツールとして、絵画の中に視点を複数設けることで時間の流れを作りました。本作に見られる複数の視点は、「現代絵画の父」と称されるセザンヌやピカソのキュビスム、それに続くモダンアートの原点とも言えます。また、本作は、3次元世界の再現と移り行く時間の表現を併せ持つという意味では、4次元的な絵画と言えるのかもしれません。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • エドガー・ドガ 『バレエの踊り子  』1890~1900年<br />ドガは、印象派の中心人物にも関わらずそのジャンルに収まるのを嫌い、「モダニズム生活の古典画家」を自称しました。彼が印象派展に積極的だった訳は、美術界を支配するアカデミーやサロンへの対抗心でした。そのために印象派の真骨頂の色彩分割法を用いず、戸外での制作もしませんでした。印象派の異端児と蔑まれたのは、モネやルノワールと年が離れていたからだけでなく、家柄の違いもありました。多くの印象派画家は労働者層でしたが、彼は銀行家の息子でした。更に、モネやルノワールは絵画を私塾で学んで「移ろう光」に固執しましたが、彼は国立美術学校に学んでデッサンを重視し、新古典主義の巨匠アングルに傾倒しました。こうした華々しい経歴から見れば評価されて当然ですが、この絵のように塗り残したり、遠近法を疎んじたトリミングや踊り子をモチーフにしたため、往時の価値観から逸脱したため評価されませんでした。<br />彼は「動き」の描写に優れ、オペラ座の会員となって踊り子の稽古場や楽屋に出入りしてその場でデッサンしました。彼の作品の半数以上はバレエの絵ですが、その訳は兄が破産し、彼は借金返済のために売れる絵を描く必要に迫られ、往時はバレエの絵が人気だったためです。<br />本作は、大勢の踊り子が並んだ様子にも見えるし、ひとりの踊り子の動きを時系列で描いた様にも見えます。また、長椅子と踊り子を対角線上に配して奥行きを強調しています。更に、各々の造形をデフォルメしており前衛風でもあります。一方、日本画のアンシンメトリー性や余白、見切りなどを参考にして描いているようです。<br />他方、彼の眼目は踊り子の努力への賞賛や華やかな世界に潜む闇を描くことであり、動きの表現は単なる手法に過ぎないとの見方もあります。往時のバレリーナは労働者層であり、貧困生活から這い上がるため、良いパトロンを探すのに必死でした。往時は「オペラ座は上流階級の娼館」と揶揄されており、そうした歪んだ社会をバレエの絵を通して投影したともされます。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    エドガー・ドガ 『バレエの踊り子 』1890~1900年
    ドガは、印象派の中心人物にも関わらずそのジャンルに収まるのを嫌い、「モダニズム生活の古典画家」を自称しました。彼が印象派展に積極的だった訳は、美術界を支配するアカデミーやサロンへの対抗心でした。そのために印象派の真骨頂の色彩分割法を用いず、戸外での制作もしませんでした。印象派の異端児と蔑まれたのは、モネやルノワールと年が離れていたからだけでなく、家柄の違いもありました。多くの印象派画家は労働者層でしたが、彼は銀行家の息子でした。更に、モネやルノワールは絵画を私塾で学んで「移ろう光」に固執しましたが、彼は国立美術学校に学んでデッサンを重視し、新古典主義の巨匠アングルに傾倒しました。こうした華々しい経歴から見れば評価されて当然ですが、この絵のように塗り残したり、遠近法を疎んじたトリミングや踊り子をモチーフにしたため、往時の価値観から逸脱したため評価されませんでした。
    彼は「動き」の描写に優れ、オペラ座の会員となって踊り子の稽古場や楽屋に出入りしてその場でデッサンしました。彼の作品の半数以上はバレエの絵ですが、その訳は兄が破産し、彼は借金返済のために売れる絵を描く必要に迫られ、往時はバレエの絵が人気だったためです。
    本作は、大勢の踊り子が並んだ様子にも見えるし、ひとりの踊り子の動きを時系列で描いた様にも見えます。また、長椅子と踊り子を対角線上に配して奥行きを強調しています。更に、各々の造形をデフォルメしており前衛風でもあります。一方、日本画のアンシンメトリー性や余白、見切りなどを参考にして描いているようです。
    他方、彼の眼目は踊り子の努力への賞賛や華やかな世界に潜む闇を描くことであり、動きの表現は単なる手法に過ぎないとの見方もあります。往時のバレリーナは労働者層であり、貧困生活から這い上がるため、良いパトロンを探すのに必死でした。往時は「オペラ座は上流階級の娼館」と揶揄されており、そうした歪んだ社会をバレエの絵を通して投影したともされます。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ポール・セザンヌ  『プロヴァンスの丘』 1890~92年頃<br />フランス南東部マルセイユの北方に位置するエクス・アン・プロヴァンスは、紀元前に栄えた古い街です。セザンヌが生まれ、そして生涯を閉じた街としても知られ、街には彼の軌跡を記す場所が点在しています。<br />ポスト印象派の巨匠セザンヌの作品は、反復されたブラシストロークが真骨頂であり、平面的な色使いと小さな筆致を駆使して複雑な描写をしています。本作には自然豊かなプロヴァンスの陽光に満ちた青い空、山の斜面に建つモルタル塗りの壁と赤く平らな瓦葺屋根の農家などを鮮やかな色彩で描いています。更に、緑の木々を画面全体の統一的な構成を目指した長方形のタッチの積み重ねで描いています。<br />一方、彼は「知覚の真理」を追究し、複数の視点による表現方法を探求しました。その思想はキュビスムに受け継がれ、彼は、マティスに「絵の神様」、ピカソに「我々の父」と敬愛され、「近代絵画の父」とも称されています。しかし、彼が現在のような評価を得たのは、亡くなった後のことでした。<br />こうした「不遇の天才」には、身を挺して支える者、あるいは互いを高め合うライバルが存在するのが世の常です。その両者の役割を担ったのが小説家エミール・ゾラでした。しかし、ゾラの小説家としての成功が未だ評価されないセザンヌとの間に感情のささくれをもたらし、やがて40年に亘る友情は破局しました。母子家庭に育ち、学校でいじめられていたゾラを救ったことで2人は深い絆で結ばれました。やがて、それぞれの夢を追いかけ始めました。しかし、セザンヌは画家としてサロンに挑むも、いつも落選。そんな折、ゾラは『居酒屋』が大ベストセラーとなり、スターダムにのしあがってセザンヌの心を閉ざしていきました。更に、ゾラが発表したセザンヌをモデルとした小説『制作』が決定的な亀裂を生みました。事実、初期のセザンヌの絵は暗く陰湿で、小説の中の画家クロードの絵とそっくりでした。しかし、晩年のセザンヌの画風は鮮やかな色調と明るく溌溂とした、生命感溢れる作品に昇華しました。小説は「さあ、仕事に戻ろうか。時間がない」というフレーズで終わります。これは、ゾラがセザンヌに呼びかけた励ましのメッセージでした。クロードが恋焦がれ、追い求め続けた「外光」が晩年のセザンヌの絵に宿りました。つまりこの「外光」へのヒントがなければ、クロード同様に一生日の目を見なかったかったかもしれません。<br />1902年、ゾラの急死に衝撃を受けてセザンヌが晩年に描いた『大水浴』や『セントヴィクトワール山』の集大成的連作は、先立った盟友ゾラへのオマージュと言えるのかもしれません。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ポール・セザンヌ 『プロヴァンスの丘』 1890~92年頃
    フランス南東部マルセイユの北方に位置するエクス・アン・プロヴァンスは、紀元前に栄えた古い街です。セザンヌが生まれ、そして生涯を閉じた街としても知られ、街には彼の軌跡を記す場所が点在しています。
    ポスト印象派の巨匠セザンヌの作品は、反復されたブラシストロークが真骨頂であり、平面的な色使いと小さな筆致を駆使して複雑な描写をしています。本作には自然豊かなプロヴァンスの陽光に満ちた青い空、山の斜面に建つモルタル塗りの壁と赤く平らな瓦葺屋根の農家などを鮮やかな色彩で描いています。更に、緑の木々を画面全体の統一的な構成を目指した長方形のタッチの積み重ねで描いています。
    一方、彼は「知覚の真理」を追究し、複数の視点による表現方法を探求しました。その思想はキュビスムに受け継がれ、彼は、マティスに「絵の神様」、ピカソに「我々の父」と敬愛され、「近代絵画の父」とも称されています。しかし、彼が現在のような評価を得たのは、亡くなった後のことでした。
    こうした「不遇の天才」には、身を挺して支える者、あるいは互いを高め合うライバルが存在するのが世の常です。その両者の役割を担ったのが小説家エミール・ゾラでした。しかし、ゾラの小説家としての成功が未だ評価されないセザンヌとの間に感情のささくれをもたらし、やがて40年に亘る友情は破局しました。母子家庭に育ち、学校でいじめられていたゾラを救ったことで2人は深い絆で結ばれました。やがて、それぞれの夢を追いかけ始めました。しかし、セザンヌは画家としてサロンに挑むも、いつも落選。そんな折、ゾラは『居酒屋』が大ベストセラーとなり、スターダムにのしあがってセザンヌの心を閉ざしていきました。更に、ゾラが発表したセザンヌをモデルとした小説『制作』が決定的な亀裂を生みました。事実、初期のセザンヌの絵は暗く陰湿で、小説の中の画家クロードの絵とそっくりでした。しかし、晩年のセザンヌの画風は鮮やかな色調と明るく溌溂とした、生命感溢れる作品に昇華しました。小説は「さあ、仕事に戻ろうか。時間がない」というフレーズで終わります。これは、ゾラがセザンヌに呼びかけた励ましのメッセージでした。クロードが恋焦がれ、追い求め続けた「外光」が晩年のセザンヌの絵に宿りました。つまりこの「外光」へのヒントがなければ、クロード同様に一生日の目を見なかったかったかもしれません。
    1902年、ゾラの急死に衝撃を受けてセザンヌが晩年に描いた『大水浴』や『セントヴィクトワール山』の集大成的連作は、先立った盟友ゾラへのオマージュと言えるのかもしれません。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • ポール・ゴーガン  『花瓶の花』  1896年<br />ゴーガンは、ポスト印象派の放浪画家として知られ、外界を感覚的に捉える印象派の自然主義を否定しました。それ故、眼に見えない内面や神秘の世界、理念や思想の表現を志向し、ピカソやマティスといった後の前衛美術家に多大な影響を及ぼしました。「コーギャン」とも記されますが、フランス語の発音に近い「ゴーガン」が近年の美術展覧会で採用されています。<br />ゴーガンの生き方に強いインスピレーションを得た英国の小説家サマセット・モームは、『月と六ペンス』(1919年)を執筆しました。小説のチャールズ=ストリックランドのモデルがゴーガンとされています。ゴーガンは株式仲買人でしたが、彼の運命を変えたのが1884年のパリ大恐慌でした。日本のバブル崩壊を知っている世代には明白でしょうが、株は大暴落し、職を失った彼は仕方なく画家に専念する決意をします。やがて、制作のための「楽園」を求めて家族を残してタヒチに渡り、最期はポリネシアの最果て地、マルキーズ諸島ヒヴァ・オワ島で55歳(1903年)で亡くなりました。<br />この花瓶に生けられた熱帯植物の絵は晩年にタヒチで描かれました。第一印象は「日本画のような静止画」というものでした。彼は、ゴッホと並び浮世絵の影響を受けたことが知られ、構図や描画手法を学びました。影が少ない明るくカラフルな色使い、やや高めからの視点、立体感が少ない平面的な構図など、浮世絵手法のオンパレードです。彼らしい色使いの茶や黄色をベースとした背景に補色の青と赤の花を配し、アクセントには白色。花瓶の青さが華やかさを抑え、落ち着いた印象を与えます。貧困や病気に悩まされていた時期の作品だそうですが、どこか夢の中の幻想を描いた絵のようにも感じられます。本作はドガが所有していた作品であり、没後のオークションでその一部をLNGが購入しました。<br />この頃の彼は2度目のタヒチ移住を14歳の幼妻ヴァエホと暮らし、子どもを授かるも死産。死を意識した絶望の中で描き上げたのが最高傑作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897年)でした。その後、彼はヒ素を飲んで自殺を図りますが、大量に飲み過ぎたため吐き出して失敗。エリートだった彼の人生は晩年にかけて散々なものになりましたが、そのおかげで後世に残る名作が生まれたというのは皮肉なものです。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    ポール・ゴーガン 『花瓶の花』 1896年
    ゴーガンは、ポスト印象派の放浪画家として知られ、外界を感覚的に捉える印象派の自然主義を否定しました。それ故、眼に見えない内面や神秘の世界、理念や思想の表現を志向し、ピカソやマティスといった後の前衛美術家に多大な影響を及ぼしました。「コーギャン」とも記されますが、フランス語の発音に近い「ゴーガン」が近年の美術展覧会で採用されています。
    ゴーガンの生き方に強いインスピレーションを得た英国の小説家サマセット・モームは、『月と六ペンス』(1919年)を執筆しました。小説のチャールズ=ストリックランドのモデルがゴーガンとされています。ゴーガンは株式仲買人でしたが、彼の運命を変えたのが1884年のパリ大恐慌でした。日本のバブル崩壊を知っている世代には明白でしょうが、株は大暴落し、職を失った彼は仕方なく画家に専念する決意をします。やがて、制作のための「楽園」を求めて家族を残してタヒチに渡り、最期はポリネシアの最果て地、マルキーズ諸島ヒヴァ・オワ島で55歳(1903年)で亡くなりました。
    この花瓶に生けられた熱帯植物の絵は晩年にタヒチで描かれました。第一印象は「日本画のような静止画」というものでした。彼は、ゴッホと並び浮世絵の影響を受けたことが知られ、構図や描画手法を学びました。影が少ない明るくカラフルな色使い、やや高めからの視点、立体感が少ない平面的な構図など、浮世絵手法のオンパレードです。彼らしい色使いの茶や黄色をベースとした背景に補色の青と赤の花を配し、アクセントには白色。花瓶の青さが華やかさを抑え、落ち着いた印象を与えます。貧困や病気に悩まされていた時期の作品だそうですが、どこか夢の中の幻想を描いた絵のようにも感じられます。本作はドガが所有していた作品であり、没後のオークションでその一部をLNGが購入しました。
    この頃の彼は2度目のタヒチ移住を14歳の幼妻ヴァエホと暮らし、子どもを授かるも死産。死を意識した絶望の中で描き上げたのが最高傑作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(1897年)でした。その後、彼はヒ素を飲んで自殺を図りますが、大量に飲み過ぎたため吐き出して失敗。エリートだった彼の人生は晩年にかけて散々なものになりましたが、そのおかげで後世に残る名作が生まれたというのは皮肉なものです。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

  • フィンセント・ファン・ゴッホ  『ひまわり』  1888年<br />最後の展示室には、本展の目玉となる本作のみが有終の美を飾るように展示されています。暗い展示室の中で自ら発光しているかのような圧倒的な存在感と生命力が感じられます。<br />「ひまわりの画家」とも称されるゴッホは、生涯で7枚の花瓶に生けられたひまわりの作品を残し、1枚の絵の中にひまわりの蕾~枯れて種子になるまでのライフサイクルを描き込みました。また、強烈な黄色のバリエーションが放つ眩しさは、実物ならではの感動ものです。<br />一方、斜めの方向から見て驚かされるのは筆触による厚塗りの立体感です。薄塗りで平面的な花瓶が最奥にあり、厚塗りの花が手前にあります。花も一輪ずつ異なる奥行きに描き、立体感に富んでいます。この立体感は大塚国際美術館の陶板画では再現不可です。ゴッホらポスト印象派の画家たちは、印象派が失くしてしまった「形」を取り戻そうと、見たままを主観的に色と輪郭で形を描きました。<br />本作はゴッホが南仏アルルの「黄色い家」で共同生活を送る畏友ゴーガンへのオマージュとして描いた4枚の「ひまわり」の最後に描いた作品です。その内、ひまわり好きなゴーガンの寝室を飾るのに相応しいと認め、署名したのは2枚だけでした。その1枚が本作であり、背景をそれまでの青から黄色に変えることで更に生命力をパワーアップさせています。黄色はゴッホにとり幸福の色であり、ひまわりの花は夢にまで見た共同生活への忠誠を象徴するものでした。因みに、中世の西洋絵画では黄色は「嫉妬」や「裏切り」というネガティブな色とされましたが、この時代には「忠誠」の色でした。ゴッホは精神を病んだ狂気の画家とのイメージが強いのですが、教職や牧師を目指したこともあり、知識人でもありました。それ故、黄色のひまわりが持つ象徴的な意味も認知していたと思われます。<br />しかし、不幸なことにゴーガンとの共同生活は僅か2ヶ月で破局しました。自らの耳を切り落とす事件を起こし、その翌年37歳の若さでこの世を去りました。しかし、悩み多き人生の中でも、夢と希望と活力に満ちていたアルル滞在中には数々の傑作を描いています。この絵画の背景にあるストーリーを知ればこそ、より一層心に響く作品です。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/<br /><br />この続きは、情緒纏綿 大阪市中之島③大阪市中央公会堂でお届けいたします。

    フィンセント・ファン・ゴッホ 『ひまわり』 1888年
    最後の展示室には、本展の目玉となる本作のみが有終の美を飾るように展示されています。暗い展示室の中で自ら発光しているかのような圧倒的な存在感と生命力が感じられます。
    「ひまわりの画家」とも称されるゴッホは、生涯で7枚の花瓶に生けられたひまわりの作品を残し、1枚の絵の中にひまわりの蕾~枯れて種子になるまでのライフサイクルを描き込みました。また、強烈な黄色のバリエーションが放つ眩しさは、実物ならではの感動ものです。
    一方、斜めの方向から見て驚かされるのは筆触による厚塗りの立体感です。薄塗りで平面的な花瓶が最奥にあり、厚塗りの花が手前にあります。花も一輪ずつ異なる奥行きに描き、立体感に富んでいます。この立体感は大塚国際美術館の陶板画では再現不可です。ゴッホらポスト印象派の画家たちは、印象派が失くしてしまった「形」を取り戻そうと、見たままを主観的に色と輪郭で形を描きました。
    本作はゴッホが南仏アルルの「黄色い家」で共同生活を送る畏友ゴーガンへのオマージュとして描いた4枚の「ひまわり」の最後に描いた作品です。その内、ひまわり好きなゴーガンの寝室を飾るのに相応しいと認め、署名したのは2枚だけでした。その1枚が本作であり、背景をそれまでの青から黄色に変えることで更に生命力をパワーアップさせています。黄色はゴッホにとり幸福の色であり、ひまわりの花は夢にまで見た共同生活への忠誠を象徴するものでした。因みに、中世の西洋絵画では黄色は「嫉妬」や「裏切り」というネガティブな色とされましたが、この時代には「忠誠」の色でした。ゴッホは精神を病んだ狂気の画家とのイメージが強いのですが、教職や牧師を目指したこともあり、知識人でもありました。それ故、黄色のひまわりが持つ象徴的な意味も認知していたと思われます。
    しかし、不幸なことにゴーガンとの共同生活は僅か2ヶ月で破局しました。自らの耳を切り落とす事件を起こし、その翌年37歳の若さでこの世を去りました。しかし、悩み多き人生の中でも、夢と希望と活力に満ちていたアルル滞在中には数々の傑作を描いています。この絵画の背景にあるストーリーを知ればこそ、より一層心に響く作品です。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/

    この続きは、情緒纏綿 大阪市中之島③大阪市中央公会堂でお届けいたします。

この旅行記のタグ

関連タグ

43いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅の計画・記録

「旅の計画」作成でもれなく300ポイント!

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

心斎橋・淀屋橋の人気ホテルランキング

PAGE TOP

ピックアップ特集