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 復刻版第三弾。2000年8月~10月、二か月に渡る中南米縦断の旅。2020年時点、自分の人生の中で二番目に長い旅。当時は都内某私立大学政治学科の大学生で、一応は卒業論文(ゼミ論)の現地調査。もっとも私の学部は、別に書かなくても規定単位あれば卒業できます(当時は)。今はどうかは知りません。ちなみに国際行政学のゼミで、卒論のタイトルは「ラテンアメリカの開発政策」でした。今考えるとこの頃から旅が手段ではなく目的になってきた気がします。<br /><br /> マレーシア航空の2カ月OPENチケットの成田~ロサンジェルスだけであとは完全に行き当たりばったり。最終的にはアメリカ、メキシコ、ベリーズ覗く中米五か国とペルーの訪問でした。最初はパナマからコロンビアに入り、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラと回り、カリブに飛びキューバ行って戻ろうという構想だったのですが、さすがに日数足りませんでした。<br /><br /> デジカメやSNS、スマホなんてなかった時代ですが、何気に旅行記を自作のHPにアップしていました。1999年に独学でhtml勉強して、個人的に開設したジオシティーズのホームページですが、2019年3月をもってサービス終了で閉鎖になりました。ひっそりと移転はしたのですが、一部をフォートラの写真付旅行記として復刻版として再作成します。誤字脱字等は修正し、表現も一部改めますが、なるべく当時のままの文章でと思っています。写真は、APSフィルムで撮った当時の写真をデジカメで撮影しています。<br /><br /><br />帰って来た旅立ちの地(「ただいま」、思わずそう呟く)~USA編~<br />(26/08/2000-29/09/2000)<br /><br />テキーラのアミーゴ達に捧げる唄~Mexico編~<br />(29/08/2000-09/09/2000)<br /><br />マヤ民族の国とスペイン語語学学校~Guatemala編~<br />(09/09/2000-19/09/2000)<br /><br />中米街道只今疾走中~El Salvador, Honduras, Nicaragua編~<br />(19/09/2000-23/09/2000)<br /><br />軍隊なき花と緑と民主主義の楽園~Costa Rica編~<br />(23/09/2000-28/09/2000)<br /><br />世界の十字路、運河の国、そして新たな旅立ちへ~Panama編~<br />(28/09/2000-30/09/2000)<br /><br />フヒモリ大統領と悠久のアマゾンの大地~Peru, Lima, Iquitos編~<br />(30/09/2000-06/10/2000)<br /><br />謎の地上絵と湖上に浮かぶ葦の島々~Peru, Nazca, Alequipa, Puno編~<br />(07/10/2000-10/10/2000)<br /><br />古代インカ帝国の栄華と謎の空中都市~Peru, Cuzco, Machu Pichu編~<br />(11/10/2000-16/10/2000)<br /><br />遥かなる母なる大地日本を目指して~Cuzco, NARITA編~<br />(17/10/2000-20/10/2000)<br /><br />【スケジュール】<br />2000年<br />08/26 成田空港~ロサンジェルス・ハリウッド(USA)泊<br />08/27 ロサンジェルス~サンディエゴ泊<br />08/28 サンディエゴ泊<br />08/29 サンディエゴ→ティファナ(メキシコ)~<br />08/30 ~ラパス泊<br />08/31 ラパス~<br />09/01 ~マサトラン~グアダラハラ泊<br />09/02 グアダラハラ~<br />09/03 ~メキシコシティ泊<br />09/04 メキシコシティ泊<br />09/05 メキシコシティ~テオティワカン~メキシコシティ泊<br />09/06 メキシコシティ~タスコ~メキシコシティ泊<br />09/07 メキシコシティ~<br />09/08 ~オアハカ・モンテアルバン~<br />09/09 ~タパチュラ~グアテマラシティ(グアテマラ)泊<br />09/10 グアテマラシティ~アンティグア泊<br />09/11 アンティグア泊<br />09/12 アンティグア泊<br />09/13 アンティグア泊<br />09/14 アンティグア泊<br />09/15 アンティグア泊<br />09/16 アンティグア泊<br />09/17 アンティグア~パナハッチェル泊<br />09/18 パナハッチェル~グアテマラシティ泊<br />09/19 グアテマラシティ~サンサルバドル(エルサルバドル)泊<br />09/20 サンサルバドル~テグシガルパ(ホンデュラス)泊<br />09/21 テグシガルパ~マナグア(ニカラグア)泊<br />09/22 マナグア泊<br />09/23 マナグア~サンホセ(コスタリカ)泊<br />09/24 サンホセ泊<br />09/25 サンホセ~モンテベルデ泊<br />09/26 モンテベルデ泊<br />09/27 モンテベルデ~サンホセ泊<br />09/28 サンホセ~パナマシティ(パナマ)泊<br />09/29 パナマシティ泊<br />09/30 パナマシティ~リマ(ペルー)泊<br />10/01 リマ泊<br />10/02 リマ泊<br />10/03 リマ泊<br />10/04 リマ~イキトス泊<br />10/05 イキトス泊<br />10/06 イキトス~リマ~<br />10/07 ~ナスカ~<br />10/08 ~アレキパ~<br />10/09 ~プーノ泊<br />10/10 プーノ泊<br />10/11 プーノ~クスコ泊<br />10/12 クスコ泊<br />10/13 クスコ泊<br />10/14 クスコ~マチュピチュ泊<br />10/15 マチュピチュ~クスコ泊<br />10/16 クスコ泊<br />10/17 クスコ~リマ~パナマシティ~サンホセ泊<br />10/18 サンホセ~ヒューストン~ロサンジェルス泊<br />10/19 ロサンジェルス~<br />10/20 ~成田空港

【復刻版】ラテンアメリカ縦断日記 9 フヒモリ大統領と悠久のアマゾンの大地 ~Peru, Lima, Iquitos編~

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2000/09/30 - 2000/10/06

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Miyatan

Miyatanさん

 復刻版第三弾。2000年8月~10月、二か月に渡る中南米縦断の旅。2020年時点、自分の人生の中で二番目に長い旅。当時は都内某私立大学政治学科の大学生で、一応は卒業論文(ゼミ論)の現地調査。もっとも私の学部は、別に書かなくても規定単位あれば卒業できます(当時は)。今はどうかは知りません。ちなみに国際行政学のゼミで、卒論のタイトルは「ラテンアメリカの開発政策」でした。今考えるとこの頃から旅が手段ではなく目的になってきた気がします。

 マレーシア航空の2カ月OPENチケットの成田~ロサンジェルスだけであとは完全に行き当たりばったり。最終的にはアメリカ、メキシコ、ベリーズ覗く中米五か国とペルーの訪問でした。最初はパナマからコロンビアに入り、エクアドル、ペルー、ボリビア、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラと回り、カリブに飛びキューバ行って戻ろうという構想だったのですが、さすがに日数足りませんでした。

 デジカメやSNS、スマホなんてなかった時代ですが、何気に旅行記を自作のHPにアップしていました。1999年に独学でhtml勉強して、個人的に開設したジオシティーズのホームページですが、2019年3月をもってサービス終了で閉鎖になりました。ひっそりと移転はしたのですが、一部をフォートラの写真付旅行記として復刻版として再作成します。誤字脱字等は修正し、表現も一部改めますが、なるべく当時のままの文章でと思っています。写真は、APSフィルムで撮った当時の写真をデジカメで撮影しています。


帰って来た旅立ちの地(「ただいま」、思わずそう呟く)~USA編~
(26/08/2000-29/09/2000)

テキーラのアミーゴ達に捧げる唄~Mexico編~
(29/08/2000-09/09/2000)

マヤ民族の国とスペイン語語学学校~Guatemala編~
(09/09/2000-19/09/2000)

中米街道只今疾走中~El Salvador, Honduras, Nicaragua編~
(19/09/2000-23/09/2000)

軍隊なき花と緑と民主主義の楽園~Costa Rica編~
(23/09/2000-28/09/2000)

世界の十字路、運河の国、そして新たな旅立ちへ~Panama編~
(28/09/2000-30/09/2000)

フヒモリ大統領と悠久のアマゾンの大地~Peru, Lima, Iquitos編~
(30/09/2000-06/10/2000)

謎の地上絵と湖上に浮かぶ葦の島々~Peru, Nazca, Alequipa, Puno編~
(07/10/2000-10/10/2000)

古代インカ帝国の栄華と謎の空中都市~Peru, Cuzco, Machu Pichu編~
(11/10/2000-16/10/2000)

遥かなる母なる大地日本を目指して~Cuzco, NARITA編~
(17/10/2000-20/10/2000)

【スケジュール】
2000年
08/26 成田空港~ロサンジェルス・ハリウッド(USA)泊
08/27 ロサンジェルス~サンディエゴ泊
08/28 サンディエゴ泊
08/29 サンディエゴ→ティファナ(メキシコ)~
08/30 ~ラパス泊
08/31 ラパス~
09/01 ~マサトラン~グアダラハラ泊
09/02 グアダラハラ~
09/03 ~メキシコシティ泊
09/04 メキシコシティ泊
09/05 メキシコシティ~テオティワカン~メキシコシティ泊
09/06 メキシコシティ~タスコ~メキシコシティ泊
09/07 メキシコシティ~
09/08 ~オアハカ・モンテアルバン~
09/09 ~タパチュラ~グアテマラシティ(グアテマラ)泊
09/10 グアテマラシティ~アンティグア泊
09/11 アンティグア泊
09/12 アンティグア泊
09/13 アンティグア泊
09/14 アンティグア泊
09/15 アンティグア泊
09/16 アンティグア泊
09/17 アンティグア~パナハッチェル泊
09/18 パナハッチェル~グアテマラシティ泊
09/19 グアテマラシティ~サンサルバドル(エルサルバドル)泊
09/20 サンサルバドル~テグシガルパ(ホンデュラス)泊
09/21 テグシガルパ~マナグア(ニカラグア)泊
09/22 マナグア泊
09/23 マナグア~サンホセ(コスタリカ)泊
09/24 サンホセ泊
09/25 サンホセ~モンテベルデ泊
09/26 モンテベルデ泊
09/27 モンテベルデ~サンホセ泊
09/28 サンホセ~パナマシティ(パナマ)泊
09/29 パナマシティ泊
09/30 パナマシティ~リマ(ペルー)泊
10/01 リマ泊
10/02 リマ泊
10/03 リマ泊
10/04 リマ~イキトス泊
10/05 イキトス泊
10/06 イキトス~リマ~
10/07 ~ナスカ~
10/08 ~アレキパ~
10/09 ~プーノ泊
10/10 プーノ泊
10/11 プーノ~クスコ泊
10/12 クスコ泊
10/13 クスコ泊
10/14 クスコ~マチュピチュ泊
10/15 マチュピチュ~クスコ泊
10/16 クスコ泊
10/17 クスコ~リマ~パナマシティ~サンホセ泊
10/18 サンホセ~ヒューストン~ロサンジェルス泊
10/19 ロサンジェルス~
10/20 ~成田空港

  • 9月30日(土)<br /> しばらく、結構な時間眠っていた気がした。生まれて初めての南米。初めての南半球である。知らないうちに赤道を通過したのであろう。幼い頃は赤道という言葉を真に受けて、赤道の上空には、つまり緯度0℃のラインの上空か地上に赤い線が道のように描かれている姿を想像していた。勿論そんなはずはないが。<br /><br /> やがてペルーはリマの上空に飛行機は差し掛かる。リマ周辺はチャラと呼ばれる砂漠地帯であり、空から見るとただ茶色い台地ばかりが目立っている。やがて着陸。かなり涼しい。というよりも、むしろ少し寒いほどである。リマはようやく春が訪れたのであろう。入国手続きを済ますと、観光案内所の人にホテルの予約はしないかといわれたので、とりあえず行ってみる。こういうところで予約できるホテルは高いんだろうな。一番最初に勧められたのがミラフローレスにある69US$のホテル。さすがに高いのでやめた。高級そうなミラフローレスではなく、セントロに宿をとろうと考えていたが、今はやや政情不安定得しょっちゅうデモが起こって危険だといわれた。日系人のフジモリ氏が辞意を表明したとはいえ大統領の座にいると、何か問題が発生すると日本人が標的にされかねない。とにかく安い宿、20US$以下がいいといっていると、ミラフローレスにある11$の宿を勧められる。案内嬢の父親が経営しているらしい。そこに決めると空港バンなどを手配してくれた。リマの町には赤茶けた煉瓦造りの家や建物が多く、中米の町とは違った雰囲気である。やがて海岸に差し掛かる。何処までも赤茶けた色の大地の崖の脇に荒波が押し寄せる太平洋。独特の感じで、南米に来たことを強く実感した。やがて高級住宅街ミラフローレスの一軒の宿の前に停まった。外から見ると普通の一軒家である。オーナー夫妻が出迎えてくれた。どことなく裕福そうな感じである。<br /><br /> しばらく町を歩く。10分もしないあたりでミラフローレスの中心に着く。中央には噴水や公園があり、ヨーロッパ風に整備された感じである。日本でいえば田園調布と銀座がくっついた感じである。かなり綺麗で、活気がある感じである。ペルー独自のインカコーラを飲んでみる。黄色いコーラのような炭酸飲料で、何かの薬草が入っているらしい。<br /><br /> オーナー英語が堪能で、旅の相談にも乗ってくれた。でもペルーのあちこちでストライキが発生して、バスが動いていない地域があるらしい。果たして大丈夫なのだろうか…。<br /><br />10月1日(日)<br /> この宿は朝は確実にお湯は出るけど、それ以外の時間帯は頼んでから30分くらいたたないとお湯は出ないらしい。なので朝シャワーを浴びる。髪を洗い体を洗おうとした瞬間お湯が出なくなってしまった。恐らくお湯が出る時間帯というのが決まっているから、それをわずかばかりすぎてしまったからであろう。<br /><br /> オーナーと相談して今後の旅の予定を決める。ペルーの最後はクスコからリマに飛んで、同日乗換えでコスタリカ・サンホセに行くことになった。後、イキトスでアマゾンジャングルツアーにも参加することになった。とりあえず今後の旅の目処がついた。<br /><br /> とりあえずセントロを少し見物してから博物館めぐりでもしようと思った。町というのは実際に歩いてみて土地勘と雰囲気をつかむものであるという自論があるので、ミラフローレス地区からセントロまで歩こうと思った。ひたすらアレキッパ通りを北上。すぐに着くものだとたかをくくっていた。アレキッパ通りは中央部にサイクリングロードらしき道が整備されていて、比較的道幅が広い。だいぶ歩いたと思って地図を見たら、まだLince地区だった。もうすぐ着くと思っていたのに、まだ道のりの半分も行っていない。かなり途方に暮れる。歩くこと二時間近く、政府関係らしき建物がちらほらと見え始めてやっとセントロの入り口に差し掛かったと思った。しばらく歩くとサンマルティン広場に着いた。フジモリ大統領の政治や、この間行われた大統領選挙に関する抗議のプラカードがいっぱいあった。それでも道行く人々はあまり気にせずに、休日を楽しんでいるようである。「Fuera Fujimori !」 (フジモリ、出て行け!)という文字が印象的だった。他にも「Go to Japan」という立て看板もあった。フジモリ氏はペルー人からすれば、ペルー人ではなく日本人、即ち外国人なのであろうか。ペルー人のアイデンティティーは一体どのようなものなのであろうか、少々疑問に思えた。国家ってなんだろうか、民族ってなんだろうか、アイデンティティーってなんだろう、そういった疑問を投げかけてくれたようにも思えた。<br /><br /> 昼食はセビッチェレストランで食べた。魚の切り身や貝や烏賊や蛸などの新鮮なシーフードに、レモン汁等で作ったドレッシングで味付けしたペルーの代表料理である。マリネのようなもので、海産国ペルーだからこそ可能な調理法だろう。日本人の口によくあう。その後は近くを散策。歴史的建物やらデパートやらレストランやらが非常に多い。特にラ・ウニオン通りは賑わっていると同時に、ユネスコの世界遺産に登録されているとかで、街の景観を保つためであろう、マクドナルドやケンタッキーの看板までもが黒く塗りつぶされていた。ジーンズを買おうとしたが、どうやらペルーには裾を調整する習慣がないようで、裾を調整してくれない。せっかく買ったのが長すぎるので短くして欲しいといくら口で話してジェスチャーで説明してもわかってくれない。仕方がないので、短いのに取り替えてもらう。一見すると賑わっているこの国も、僕らの見えないところでの問題はきっと多いのであろう…。<br /><br />10月2日(月)<br /> とりあえずは洗濯を済ませて、郵便物を日本に送ろうと思った。のんびりと朝食をとった後で、まずは洗濯物屋に行く。それから郵便物を日本に送ったり、チケットの代金を払ったり、洗濯物を取りに行ったりと、かなり多忙な時間を過ごした。オーナーのアンヘルもいろいろな人達の旅の相談に乗ったりと、はたから見ると多忙そうだった。郵便一つをとっても大変である。ペルーは中米よりは郵便事情はよいが、南米の中では特別によいわけでもないので、郵便一つ送るだけでも大変である。やっとの思いで全ての用事が終わった後で、天野博物館に向かう。天野博物館は故天野芳太郎氏が設立した博物館で、ペルーのインカやプレインカの土器や織物などが展示される。<br /><br /> 予約した時間に博物館に着く。久しぶりに日本語を話した気がする。一週間ぶりだろうか。署名の欄を見ても七割方は日本人の気がする。どっかの観光ツアーの人々もやってきた。やがて説明が始まる。なんとも故天野氏は、ペルーの文化財はペルーの人のものだから外国の人がそれを使ってお金儲けをしてはいけないという方針で、入場料は一切とらないそうである。そのためお土産を売ってその利益でかろうじて運営しているそうである。ペルーの海岸地帯はフンボルト海流という寒流のおかげで水が殆ど蒸発しないために殆どが砂漠地帯である。そのため文明が栄えたのは川沿いの地域に限られるが、気候がよかったこともあってか比較的初期の段階から様々な文明が発達していたそうである。そしてやがてクスコの人たちがインカ帝国を築き、周辺の集落をまとめて巨大な面積の帝国を築き上げる。インカの特徴としては文字がなくて縄を使った記録で統治していたこと、石で道を築き上げる技術が優れていたこと、飛脚を使った情報システムが初期の段階から発達していたことがあげられる。そのインカもあっけなくピサロ率いるスペインに占領されてしまう。インカ以前にも優れた文明が数多くあって、プレ・インカと呼ばれている。そのなかの一つがチャンカイ文化である。土器のデザインが単純というか幼稚というか、そんな感じであったので殆ど見向きもされなかったが、織物の技術が非常に発達していて、天野氏はその研究の第一人者だったらしい。<br /><br /> 宿に戻ってからはオーナーファミリーとの雑談に花が咲く。日本と違ってペルーでは公立の学校では英語教育がなくて、一部の私立の学校や、あるいは留学したり学校に通ったりして英語を勉強するそうである。その他色々なことを語り明かした。<br /><br />10月3日(火)<br /> 午前中は国立博物館に行く。コレクティーボで行こうとするものの、どのバスに乗っていいのかよくわからない。それでもどうにかしてたどり着く。壁には大きく“Museo de la Nacional”とかかれており、かなり重厚で高いコンクリート打ちっぱなしの建物である。学生料金で多少安く入れた。中に入るとプレインカからインカにかけての土地の模型や写真やら埋蔵品が数多く配置されていた。外から見ると高層ビルなのに、実際の展示があるのは合計3フロアだった。やはりチャンカイの土器はどことなく愛嬌があると思えた。国立だからと思っていたのに、ここもまたスペイン語の説明しかなかったので、ここでもまた写真やら図などを頼りにせざるを得なかった。<br /><br /> 一度ペンションに戻る。オーナーのアンヘルが、昼飯にセビッチェをおごってくれるというのだ。約束の時間より少し前に戻ったのだが、彼はかなり遅れて戻ってきた。車でお店に向かう。彼の愛車はニッサンだった。15年近く愛用しており、かなり性能がいいと気に入っていた。お店のある地区はミラフローレスよりはやや貧しい人たちが住む地区らしい。ミラフローレスは割と裕福な人々が住まう地区で、リマ市内では比較的裕福な層や貧困層の人々の住む地区が割と明確に分かれているそうである。そしてやや貧困な層が住む地区は、夕方以降の治安は多少悪くなるそうである。かなりの大皿に盛られたセビッチェにかなりビックリした。でも安くてすごく美味しかった。オーナーのアンヘルとも、毎晩のようにいろいろな話をしていたが、またここでも色々と話した。彼はニューヨークに住んでいたときに英語を学んだそうである。<br /><br /> 戻って一休みした後、日秘文化会館に向かう。行き方がよくわからなかったので、タクシーに乗る。運転手曰く、リマ市内は日本車と韓国車ばかりである。日本車の方が少し高いそうである。日秘文化会館はペルー移民80周年を記念して、1979年に建てられた施設で、日系人の交流の場、日本文化を学ぶ場として利用されている。館内ではNHKの「おはようニッポン」が放送されていた。丁度日本は朝らしい。そういえば時々インターネットでチェックしているものの、日本のニュースは殆ど知らない。オリンピックもプロ野球も一体どうなっているのだろうか。博物館も併設されており、日系移民や日秘関係の歴史を深く知ることが出来た。外見は日本人に似た人が館内には多かったものの、やはり日系人の話している言葉はスペイン語である。はじめは苦難の連続だったが、大統領になった人がいるくらいなので、これからも頑張って欲しいと少し思えた。

    9月30日(土)
     しばらく、結構な時間眠っていた気がした。生まれて初めての南米。初めての南半球である。知らないうちに赤道を通過したのであろう。幼い頃は赤道という言葉を真に受けて、赤道の上空には、つまり緯度0℃のラインの上空か地上に赤い線が道のように描かれている姿を想像していた。勿論そんなはずはないが。

     やがてペルーはリマの上空に飛行機は差し掛かる。リマ周辺はチャラと呼ばれる砂漠地帯であり、空から見るとただ茶色い台地ばかりが目立っている。やがて着陸。かなり涼しい。というよりも、むしろ少し寒いほどである。リマはようやく春が訪れたのであろう。入国手続きを済ますと、観光案内所の人にホテルの予約はしないかといわれたので、とりあえず行ってみる。こういうところで予約できるホテルは高いんだろうな。一番最初に勧められたのがミラフローレスにある69US$のホテル。さすがに高いのでやめた。高級そうなミラフローレスではなく、セントロに宿をとろうと考えていたが、今はやや政情不安定得しょっちゅうデモが起こって危険だといわれた。日系人のフジモリ氏が辞意を表明したとはいえ大統領の座にいると、何か問題が発生すると日本人が標的にされかねない。とにかく安い宿、20US$以下がいいといっていると、ミラフローレスにある11$の宿を勧められる。案内嬢の父親が経営しているらしい。そこに決めると空港バンなどを手配してくれた。リマの町には赤茶けた煉瓦造りの家や建物が多く、中米の町とは違った雰囲気である。やがて海岸に差し掛かる。何処までも赤茶けた色の大地の崖の脇に荒波が押し寄せる太平洋。独特の感じで、南米に来たことを強く実感した。やがて高級住宅街ミラフローレスの一軒の宿の前に停まった。外から見ると普通の一軒家である。オーナー夫妻が出迎えてくれた。どことなく裕福そうな感じである。

     しばらく町を歩く。10分もしないあたりでミラフローレスの中心に着く。中央には噴水や公園があり、ヨーロッパ風に整備された感じである。日本でいえば田園調布と銀座がくっついた感じである。かなり綺麗で、活気がある感じである。ペルー独自のインカコーラを飲んでみる。黄色いコーラのような炭酸飲料で、何かの薬草が入っているらしい。

     オーナー英語が堪能で、旅の相談にも乗ってくれた。でもペルーのあちこちでストライキが発生して、バスが動いていない地域があるらしい。果たして大丈夫なのだろうか…。

    10月1日(日)
     この宿は朝は確実にお湯は出るけど、それ以外の時間帯は頼んでから30分くらいたたないとお湯は出ないらしい。なので朝シャワーを浴びる。髪を洗い体を洗おうとした瞬間お湯が出なくなってしまった。恐らくお湯が出る時間帯というのが決まっているから、それをわずかばかりすぎてしまったからであろう。

     オーナーと相談して今後の旅の予定を決める。ペルーの最後はクスコからリマに飛んで、同日乗換えでコスタリカ・サンホセに行くことになった。後、イキトスでアマゾンジャングルツアーにも参加することになった。とりあえず今後の旅の目処がついた。

     とりあえずセントロを少し見物してから博物館めぐりでもしようと思った。町というのは実際に歩いてみて土地勘と雰囲気をつかむものであるという自論があるので、ミラフローレス地区からセントロまで歩こうと思った。ひたすらアレキッパ通りを北上。すぐに着くものだとたかをくくっていた。アレキッパ通りは中央部にサイクリングロードらしき道が整備されていて、比較的道幅が広い。だいぶ歩いたと思って地図を見たら、まだLince地区だった。もうすぐ着くと思っていたのに、まだ道のりの半分も行っていない。かなり途方に暮れる。歩くこと二時間近く、政府関係らしき建物がちらほらと見え始めてやっとセントロの入り口に差し掛かったと思った。しばらく歩くとサンマルティン広場に着いた。フジモリ大統領の政治や、この間行われた大統領選挙に関する抗議のプラカードがいっぱいあった。それでも道行く人々はあまり気にせずに、休日を楽しんでいるようである。「Fuera Fujimori !」 (フジモリ、出て行け!)という文字が印象的だった。他にも「Go to Japan」という立て看板もあった。フジモリ氏はペルー人からすれば、ペルー人ではなく日本人、即ち外国人なのであろうか。ペルー人のアイデンティティーは一体どのようなものなのであろうか、少々疑問に思えた。国家ってなんだろうか、民族ってなんだろうか、アイデンティティーってなんだろう、そういった疑問を投げかけてくれたようにも思えた。

     昼食はセビッチェレストランで食べた。魚の切り身や貝や烏賊や蛸などの新鮮なシーフードに、レモン汁等で作ったドレッシングで味付けしたペルーの代表料理である。マリネのようなもので、海産国ペルーだからこそ可能な調理法だろう。日本人の口によくあう。その後は近くを散策。歴史的建物やらデパートやらレストランやらが非常に多い。特にラ・ウニオン通りは賑わっていると同時に、ユネスコの世界遺産に登録されているとかで、街の景観を保つためであろう、マクドナルドやケンタッキーの看板までもが黒く塗りつぶされていた。ジーンズを買おうとしたが、どうやらペルーには裾を調整する習慣がないようで、裾を調整してくれない。せっかく買ったのが長すぎるので短くして欲しいといくら口で話してジェスチャーで説明してもわかってくれない。仕方がないので、短いのに取り替えてもらう。一見すると賑わっているこの国も、僕らの見えないところでの問題はきっと多いのであろう…。

    10月2日(月)
     とりあえずは洗濯を済ませて、郵便物を日本に送ろうと思った。のんびりと朝食をとった後で、まずは洗濯物屋に行く。それから郵便物を日本に送ったり、チケットの代金を払ったり、洗濯物を取りに行ったりと、かなり多忙な時間を過ごした。オーナーのアンヘルもいろいろな人達の旅の相談に乗ったりと、はたから見ると多忙そうだった。郵便一つをとっても大変である。ペルーは中米よりは郵便事情はよいが、南米の中では特別によいわけでもないので、郵便一つ送るだけでも大変である。やっとの思いで全ての用事が終わった後で、天野博物館に向かう。天野博物館は故天野芳太郎氏が設立した博物館で、ペルーのインカやプレインカの土器や織物などが展示される。

     予約した時間に博物館に着く。久しぶりに日本語を話した気がする。一週間ぶりだろうか。署名の欄を見ても七割方は日本人の気がする。どっかの観光ツアーの人々もやってきた。やがて説明が始まる。なんとも故天野氏は、ペルーの文化財はペルーの人のものだから外国の人がそれを使ってお金儲けをしてはいけないという方針で、入場料は一切とらないそうである。そのためお土産を売ってその利益でかろうじて運営しているそうである。ペルーの海岸地帯はフンボルト海流という寒流のおかげで水が殆ど蒸発しないために殆どが砂漠地帯である。そのため文明が栄えたのは川沿いの地域に限られるが、気候がよかったこともあってか比較的初期の段階から様々な文明が発達していたそうである。そしてやがてクスコの人たちがインカ帝国を築き、周辺の集落をまとめて巨大な面積の帝国を築き上げる。インカの特徴としては文字がなくて縄を使った記録で統治していたこと、石で道を築き上げる技術が優れていたこと、飛脚を使った情報システムが初期の段階から発達していたことがあげられる。そのインカもあっけなくピサロ率いるスペインに占領されてしまう。インカ以前にも優れた文明が数多くあって、プレ・インカと呼ばれている。そのなかの一つがチャンカイ文化である。土器のデザインが単純というか幼稚というか、そんな感じであったので殆ど見向きもされなかったが、織物の技術が非常に発達していて、天野氏はその研究の第一人者だったらしい。

     宿に戻ってからはオーナーファミリーとの雑談に花が咲く。日本と違ってペルーでは公立の学校では英語教育がなくて、一部の私立の学校や、あるいは留学したり学校に通ったりして英語を勉強するそうである。その他色々なことを語り明かした。

    10月3日(火)
     午前中は国立博物館に行く。コレクティーボで行こうとするものの、どのバスに乗っていいのかよくわからない。それでもどうにかしてたどり着く。壁には大きく“Museo de la Nacional”とかかれており、かなり重厚で高いコンクリート打ちっぱなしの建物である。学生料金で多少安く入れた。中に入るとプレインカからインカにかけての土地の模型や写真やら埋蔵品が数多く配置されていた。外から見ると高層ビルなのに、実際の展示があるのは合計3フロアだった。やはりチャンカイの土器はどことなく愛嬌があると思えた。国立だからと思っていたのに、ここもまたスペイン語の説明しかなかったので、ここでもまた写真やら図などを頼りにせざるを得なかった。

     一度ペンションに戻る。オーナーのアンヘルが、昼飯にセビッチェをおごってくれるというのだ。約束の時間より少し前に戻ったのだが、彼はかなり遅れて戻ってきた。車でお店に向かう。彼の愛車はニッサンだった。15年近く愛用しており、かなり性能がいいと気に入っていた。お店のある地区はミラフローレスよりはやや貧しい人たちが住む地区らしい。ミラフローレスは割と裕福な人々が住まう地区で、リマ市内では比較的裕福な層や貧困層の人々の住む地区が割と明確に分かれているそうである。そしてやや貧困な層が住む地区は、夕方以降の治安は多少悪くなるそうである。かなりの大皿に盛られたセビッチェにかなりビックリした。でも安くてすごく美味しかった。オーナーのアンヘルとも、毎晩のようにいろいろな話をしていたが、またここでも色々と話した。彼はニューヨークに住んでいたときに英語を学んだそうである。

     戻って一休みした後、日秘文化会館に向かう。行き方がよくわからなかったので、タクシーに乗る。運転手曰く、リマ市内は日本車と韓国車ばかりである。日本車の方が少し高いそうである。日秘文化会館はペルー移民80周年を記念して、1979年に建てられた施設で、日系人の交流の場、日本文化を学ぶ場として利用されている。館内ではNHKの「おはようニッポン」が放送されていた。丁度日本は朝らしい。そういえば時々インターネットでチェックしているものの、日本のニュースは殆ど知らない。オリンピックもプロ野球も一体どうなっているのだろうか。博物館も併設されており、日系移民や日秘関係の歴史を深く知ることが出来た。外見は日本人に似た人が館内には多かったものの、やはり日系人の話している言葉はスペイン語である。はじめは苦難の連続だったが、大統領になった人がいるくらいなので、これからも頑張って欲しいと少し思えた。

  • (反政府デモ)

    (反政府デモ)

  • 10月4日(水)<br /> イキトスに向かいアマゾンツアーに参加するために朝早くに起きた。二人のドイツ人も一緒に参加するので、一緒に空港までの送迎者に乗る。市内に向かう道路は軒並み混雑しているようである。それでもリマの道路状況は比較的よいほうだと思う。やがて空港に到着。タンズ航空のイキトス行きに乗る。思っていたよりも立派な飛行機だった。途中プカルパに寄って、最終目的地イキトスに到着。イキトス周辺は鬱蒼としたジャングルに囲まれていて、空から見下ろすとまるで緑の海のようだった。<br /><br /> イキトスはゴム産業でかつては栄えたかなりの大都市である。他のどの都市とも道路で結ばれておらず、もっぱら移動手段は飛行機とアマゾン河の海運に限られる。即ちほぼ完全に外界から閉ざされた町である。空港に到着後、ツアー会社の人たちが迎えに来てくれた。そのまま車に乗り込む。イキトスのある地方は熱帯に位置するのでかなり熱い。<br /><br /> アマゾン河の支流にある港からロッヂに向けてのモーターボートが出る。やがてアマゾン河の本流に入る。その川幅は相当広く、あたかも海にいるような感じにもなる。茶色く濁った河のはるか彼方に何処までも緑色の鬱蒼としたジャングルが広がる。自然の美しさ、というよりもあまりの自然の広大さに、人間の存在というのがちっぽけに感じられた。<br /><br /> しばらくしてから、原住民の村を訪れるツアーに行く。モーターボートに乗り込んで再び大河の流れに身を任せる。ボートが桟橋に差し掛かると、女の子が出迎えてくれた。頭の上には飼いならした小猿がしがみついている。ここの子供たちは動物が好きなようで、猿やらナマケモノやら小鳥やらを飼いならしている。外見はそれほど普通の人たちと変わらないだろうが、電気もガスも水道も電話もないような村で、雨季でも沈まないように高床式の家に住み、日の出と共に起きる。なんか人間本来の姿を見ているようだ。<br /><br /> ロッヂに戻り水遊びをする。ボートに乗る。かなりぼろく穴もあいていて、小さかったので、岸に戻りたくなった。戻ろうとしたとき、一緒にいたドイツ人が悪ふざけをしてボートを揺らした。するとボートは転覆した。岸からそれほど離れていなかった割には川底は意外と深かった。必死に泳いで何とか桟橋にたどり着いた。おかげでポケットの中に入れておいたカメラが故障してしまった。かなりショックで気分も沈んだ。<br /><br /> 夜にラファエルというペルー人のおじさんと話しこんだ。ギターでの弾き語りが得意で、僕はギターの弾き方がよくわからなかったけど、弾かせてくれた。日本語も少し教えてあげた。「SUKIYAKI」こと「上を向いて歩こう」はペルーで相当ヒットしたようで、日本の歌というとすぐにこの歌を思い出すそうである。少しだけ気分が晴れた気がした。 <br /><br />10月5日(木)<br /> 朝早くに起きて、みんなでアマゾンのピンクイルカを見に行くことに。再び桟橋に向かう。まだ朝五時ごろだったが、ロッヂ近くの村の村民たちは既に起きて活動をしていた。なんとも日の出と共に活動する健康的な人々である。ピンクイルカが見れる確率は50%くらい。ボートを途中で止めてガイドのレオンが口笛を吹く。最初は何事も起こらなかった。別の場所に移動する。口笛を吹く。すると何処からともなくピンクがかかったような色のイルカたちが現れる。少し大きめの体が時折水面下から姿を見せる。僕たちは運がよかったようである。<br /><br /> 朝食後アマゾンのジャングルの少し奥地まで足を踏み入れる。森の上のほうは高い木々に覆われていて、下のほうにも様々な草木が生育している。熱帯雨林の生物の多様性を感じる。下には草が生えて、高さ50mはあるかという巨木も実際にある。巨木には大きなつたがぶら下がっていて、人がぶら下がったくらいで程度ではびくともしない。ターザンになった気分でつたにぶら下がる。<br /><br /> 昼食後今度は釣りに挑戦。木の枝に釣り糸と釣り針をつけただけの簡単な釣り竿である。釣り針には餌として鶏肉の切り身をつける。確かに釣り糸は引いているのだが、釣り上げてみると餌だけ取られている。確かに手ごたえはあるのだが、どうしても釣れない。一緒にいた人たちはピラニアやその他いろいろな魚を釣り上げていた。ピラニアは体の下半分が少し赤くて不気味だった。滴る血を吸ったのだろうか、なんともグロテスクな姿だった。<br /><br /> その後原住民ヤグアス族の村を訪ねる。村の子供たちは学校に行くときは普通の格好をするのだが、村にいるときは独特の格好をしている。男は上半身が裸で下に藁で出来たようなスカートのようなズボンをはいていて、女は下半身は布で出来たスカートのようなものをまとい、上半身は藁で出来た大きなマフラーのようなものをして、胸の辺りを隠している。それでも少し動くと胸が見えたりもする。どの文化も女性は胸を見せないのが世界共通だろうか。吹き矢を体験させてくれた。この矢に毒を盛って狩をするそうである。<br /><br /> ロッヂに踊るとオウムが出迎えてくれた。「Hola」と挨拶する。猿の襲撃にも遭った。何回も飛び掛ってきたり、髪の毛を掴んだりと生意気な奴だった。その他にもハンモックに揺られながら昼寝をしたりとなかなか貴重な体験をした一日だった。<br /><br />10月6日(金)<br /> 今日をもっていよいよジャングルツアーも終了。アマゾンの魅力の1%ほどだろうが、体験できたことは確かである。電気も水道もガスも電話もない世界。そういった我々の目からすれば過酷とも言える生活環境の中でも元気に生きている人々。少しは何かを学んだ気がした。我々の身の回りには本来ならそれほど必要のないモノで満ち溢れているのだろうか。人間ってどんなに苛酷な環境だろうと、衣食住と何らかの楽しみがあれば生きていける。生活するためのパターンが守られれば伝統的な生活も守られる。それが何らかの外的要因があってそのパターンが崩れたとき、そのときに援助の手を差し伸べるのが国家やその他の組織が果たすべき役割ではないのだろうか。<br /><br /> ツアー、振りかえって盛ればカメラが壊れたことに対する不快感が終止付きまとい、ひたすら不機嫌だった。ただカメラの故障という大問題を、小さなこととして受け止められるだけの寛大さが足りなかったのかもしれない。まだまだ度量が全然足りないのだろうか。ドイツ人の彼も、もしもの場合を考えて連絡先を教えてくれたし、何とか帰国した後で保険会社とも相談してみよう。<br /><br /> 飛行機はイキトスの町を飛び立つ。ふと思うのが中南米路線のスチュワーデスのことである。彼女らは殆ど金髪である。多少は染めているかもしれないが、中南米の街角で見かける女性は殆どが黒髪である。多少茶色っぽい人もいるが。金髪やそれに近い人のみを航空会社が採用しているのか、そういう髪の色をしていることが美徳なのかはよくわからない。それでもそういった傾向が見られるのは確かである。<br /><br /> リマの空港に到着。前泊まっていたホテルにとりあえず行く。荷物を預かってもらっていたからである。その後こまごまとした用を済ます。シャワーも浴びさせてくれた。アマゾンのロッヂのシャワーは河の水を濾過しただけだったので、水しか出なかった。しかも出が悪い。仕方がなく水道の水(これも河の水を濾過したもの)に石鹸をつけて体中をごしごしと洗った。熱帯のアマゾンのこと、これだけでも十分に体が洗えるし寒くもなかった。こういった出来事の中でも、常に我々日本人が持つ豊かさと貧しさは一体どんなものか考えてしまう。<br /><br /> 色々とリマにいる間にお世話になったアンヘルさんとも別れてタクシーでバス乗り場に向かう。ターミナル周辺地域はかなり雰囲気が悪そうである。運転手もこの辺りはかなり危険だと教えてくれた。やがてナスカ行きのバスは発車する。高級住宅街、高層ビル、繁華街、古いコロニアル調の町並み。そして貧民街。全ての要素が混じりあって成り立つ人口700万の大都会リマをこうして去ろうとしている…。

    10月4日(水)
     イキトスに向かいアマゾンツアーに参加するために朝早くに起きた。二人のドイツ人も一緒に参加するので、一緒に空港までの送迎者に乗る。市内に向かう道路は軒並み混雑しているようである。それでもリマの道路状況は比較的よいほうだと思う。やがて空港に到着。タンズ航空のイキトス行きに乗る。思っていたよりも立派な飛行機だった。途中プカルパに寄って、最終目的地イキトスに到着。イキトス周辺は鬱蒼としたジャングルに囲まれていて、空から見下ろすとまるで緑の海のようだった。

     イキトスはゴム産業でかつては栄えたかなりの大都市である。他のどの都市とも道路で結ばれておらず、もっぱら移動手段は飛行機とアマゾン河の海運に限られる。即ちほぼ完全に外界から閉ざされた町である。空港に到着後、ツアー会社の人たちが迎えに来てくれた。そのまま車に乗り込む。イキトスのある地方は熱帯に位置するのでかなり熱い。

     アマゾン河の支流にある港からロッヂに向けてのモーターボートが出る。やがてアマゾン河の本流に入る。その川幅は相当広く、あたかも海にいるような感じにもなる。茶色く濁った河のはるか彼方に何処までも緑色の鬱蒼としたジャングルが広がる。自然の美しさ、というよりもあまりの自然の広大さに、人間の存在というのがちっぽけに感じられた。

     しばらくしてから、原住民の村を訪れるツアーに行く。モーターボートに乗り込んで再び大河の流れに身を任せる。ボートが桟橋に差し掛かると、女の子が出迎えてくれた。頭の上には飼いならした小猿がしがみついている。ここの子供たちは動物が好きなようで、猿やらナマケモノやら小鳥やらを飼いならしている。外見はそれほど普通の人たちと変わらないだろうが、電気もガスも水道も電話もないような村で、雨季でも沈まないように高床式の家に住み、日の出と共に起きる。なんか人間本来の姿を見ているようだ。

     ロッヂに戻り水遊びをする。ボートに乗る。かなりぼろく穴もあいていて、小さかったので、岸に戻りたくなった。戻ろうとしたとき、一緒にいたドイツ人が悪ふざけをしてボートを揺らした。するとボートは転覆した。岸からそれほど離れていなかった割には川底は意外と深かった。必死に泳いで何とか桟橋にたどり着いた。おかげでポケットの中に入れておいたカメラが故障してしまった。かなりショックで気分も沈んだ。

     夜にラファエルというペルー人のおじさんと話しこんだ。ギターでの弾き語りが得意で、僕はギターの弾き方がよくわからなかったけど、弾かせてくれた。日本語も少し教えてあげた。「SUKIYAKI」こと「上を向いて歩こう」はペルーで相当ヒットしたようで、日本の歌というとすぐにこの歌を思い出すそうである。少しだけ気分が晴れた気がした。 

    10月5日(木)
     朝早くに起きて、みんなでアマゾンのピンクイルカを見に行くことに。再び桟橋に向かう。まだ朝五時ごろだったが、ロッヂ近くの村の村民たちは既に起きて活動をしていた。なんとも日の出と共に活動する健康的な人々である。ピンクイルカが見れる確率は50%くらい。ボートを途中で止めてガイドのレオンが口笛を吹く。最初は何事も起こらなかった。別の場所に移動する。口笛を吹く。すると何処からともなくピンクがかかったような色のイルカたちが現れる。少し大きめの体が時折水面下から姿を見せる。僕たちは運がよかったようである。

     朝食後アマゾンのジャングルの少し奥地まで足を踏み入れる。森の上のほうは高い木々に覆われていて、下のほうにも様々な草木が生育している。熱帯雨林の生物の多様性を感じる。下には草が生えて、高さ50mはあるかという巨木も実際にある。巨木には大きなつたがぶら下がっていて、人がぶら下がったくらいで程度ではびくともしない。ターザンになった気分でつたにぶら下がる。

     昼食後今度は釣りに挑戦。木の枝に釣り糸と釣り針をつけただけの簡単な釣り竿である。釣り針には餌として鶏肉の切り身をつける。確かに釣り糸は引いているのだが、釣り上げてみると餌だけ取られている。確かに手ごたえはあるのだが、どうしても釣れない。一緒にいた人たちはピラニアやその他いろいろな魚を釣り上げていた。ピラニアは体の下半分が少し赤くて不気味だった。滴る血を吸ったのだろうか、なんともグロテスクな姿だった。

     その後原住民ヤグアス族の村を訪ねる。村の子供たちは学校に行くときは普通の格好をするのだが、村にいるときは独特の格好をしている。男は上半身が裸で下に藁で出来たようなスカートのようなズボンをはいていて、女は下半身は布で出来たスカートのようなものをまとい、上半身は藁で出来た大きなマフラーのようなものをして、胸の辺りを隠している。それでも少し動くと胸が見えたりもする。どの文化も女性は胸を見せないのが世界共通だろうか。吹き矢を体験させてくれた。この矢に毒を盛って狩をするそうである。

     ロッヂに踊るとオウムが出迎えてくれた。「Hola」と挨拶する。猿の襲撃にも遭った。何回も飛び掛ってきたり、髪の毛を掴んだりと生意気な奴だった。その他にもハンモックに揺られながら昼寝をしたりとなかなか貴重な体験をした一日だった。

    10月6日(金)
     今日をもっていよいよジャングルツアーも終了。アマゾンの魅力の1%ほどだろうが、体験できたことは確かである。電気も水道もガスも電話もない世界。そういった我々の目からすれば過酷とも言える生活環境の中でも元気に生きている人々。少しは何かを学んだ気がした。我々の身の回りには本来ならそれほど必要のないモノで満ち溢れているのだろうか。人間ってどんなに苛酷な環境だろうと、衣食住と何らかの楽しみがあれば生きていける。生活するためのパターンが守られれば伝統的な生活も守られる。それが何らかの外的要因があってそのパターンが崩れたとき、そのときに援助の手を差し伸べるのが国家やその他の組織が果たすべき役割ではないのだろうか。

     ツアー、振りかえって盛ればカメラが壊れたことに対する不快感が終止付きまとい、ひたすら不機嫌だった。ただカメラの故障という大問題を、小さなこととして受け止められるだけの寛大さが足りなかったのかもしれない。まだまだ度量が全然足りないのだろうか。ドイツ人の彼も、もしもの場合を考えて連絡先を教えてくれたし、何とか帰国した後で保険会社とも相談してみよう。

     飛行機はイキトスの町を飛び立つ。ふと思うのが中南米路線のスチュワーデスのことである。彼女らは殆ど金髪である。多少は染めているかもしれないが、中南米の街角で見かける女性は殆どが黒髪である。多少茶色っぽい人もいるが。金髪やそれに近い人のみを航空会社が採用しているのか、そういう髪の色をしていることが美徳なのかはよくわからない。それでもそういった傾向が見られるのは確かである。

     リマの空港に到着。前泊まっていたホテルにとりあえず行く。荷物を預かってもらっていたからである。その後こまごまとした用を済ます。シャワーも浴びさせてくれた。アマゾンのロッヂのシャワーは河の水を濾過しただけだったので、水しか出なかった。しかも出が悪い。仕方がなく水道の水(これも河の水を濾過したもの)に石鹸をつけて体中をごしごしと洗った。熱帯のアマゾンのこと、これだけでも十分に体が洗えるし寒くもなかった。こういった出来事の中でも、常に我々日本人が持つ豊かさと貧しさは一体どんなものか考えてしまう。

     色々とリマにいる間にお世話になったアンヘルさんとも別れてタクシーでバス乗り場に向かう。ターミナル周辺地域はかなり雰囲気が悪そうである。運転手もこの辺りはかなり危険だと教えてくれた。やがてナスカ行きのバスは発車する。高級住宅街、高層ビル、繁華街、古いコロニアル調の町並み。そして貧民街。全ての要素が混じりあって成り立つ人口700万の大都会リマをこうして去ろうとしている…。

  • (サトウキビ絞りの体験)

    (サトウキビ絞りの体験)

  • (アマゾンの子供たちとともに)

    (アマゾンの子供たちとともに)

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  • Decoさん 2023/10/19 08:57:11
    ペルー人のアイデンティティ
    Miyatanさん、こんにちは。

    以前、プーノの方の旅行記でお邪魔しましたが、こちらの旅行記を拝見して、リマに滞在していた頃のことを思い出しました。
    まず、ミラフローレスからセントロまで歩かれたのですね! これは長距離ですね(笑)。私は五か月ほどの滞在中、あまり長い距離は歩きませんでした。治安が最悪だったからというのもありますが。

    さて、ペルー人のアイデンティティと旅行記中にありましたので、私の覚えていることを書いてみようと思います。ただし、1989年でかなり前の話で、現在はペルー社会も随分変わっていると思いますし、私が受けた印象とうことで、正確な事実とは違うかも知れません。

    リマにはアンデスから移住してきた人々が多く住んでいます(セントロの北側の低い山には家々が立ち並んでいるあたり)。
    私は滞在中、何度か出入りしていた所のスタッフの皆さんのダンスパーティーに誘われて行ったことがあるのですが、その中の一つがアンデスから下りて来た方たちのパーティーだったのです。音楽もサルサよりもアンデス民謡みたな曲(ワイノやワイラス)が多くかかっていました。
    そこで、ちょっとお話したから、「colonia japnesaは、移住してきて、豊かになっている。自分たちも同じようになりたい」と言われたのです。そのとき、アンデスから移住してきた人々は、日系人を自分たちと同じような”一つの民族グループ”として見ていて、外国からの移住と国内からの移住を区別していないように感じて、ちょっとびっくりしました(あくまでも、私の印象で事実かどうかはわかりません)。これは印象深くて、今でも覚えています。
    ただ、他の人と話していて、アンデスからきた人々の中でも、一世と二世・三世ではまた感覚が違っていて、二世・三世ではアンデスとのつながりを持ちつつも、リマっ子という意識の方が強いようにも感じました。
    (日系人も、二世の方々は日本人より日本的なところがありましたが、三世以降はほぼペルー社会に溶け込んで、結婚相手も日系人を意識していないように思いました)

    その後私は帰国して翌年あたりだったと思いますが、フジモリ大統領がいきなり出てきて当選したのは、驚きでしたが、妙に納得したものです。山から下りて来た人々、またアンデスにいる人々の多くがフジモリに投票したのではないかと想像しました(リマの移住者と故郷のアンデスの人々には強いネットワークがあるようです)。

    日本に帰国後、リマで長く仕事をされていた精神科医の先生にお話する機会があって、「欧州系の人々は、国内では西洋風の生活をしていて、文化的にもそこに属しているような意識があるが、国外に対すると、自分たちのアイデンティティを”インカ帝国の栄光”に求めるところがあって、複雑な(矛盾しているけど)です」みたいにおっしゃっていました。

    今は時代も変わり、経済状況も随分変わっていて、恐らく民族の意識なども変化したところもあるかも知れません。今はどうなっているか…。
    長文のコメント、大変失礼致しました。
                                   Deco

    Miyatan

    Miyatanさん からの返信 2023/10/24 00:27:59
    RE: ペルー人のアイデンティティ
    Decoさん、こんばんは。

    暫く留守にしていたので、お返事遅くなりまして申し訳ございません。

    ミラフローレスからセントロまでは12kmくらいあった気がします。泊まっていた宿のオーナーの娘さんに、信じられないといった感じで言われました。多分私が滞在していた当時は治安はいくらかましになっていたと思います。ツーリストポリスが目を光らせていましたし。

    ペルーに関しての詳細な裏話ありがとうございます。私はそこまで長くいたわけではないので、そこまで詳しい話は分かりません。感覚的なものかもしれませんが、アンデス系の人たちが日系人に対して親近感を抱いているとしたらそれは意外でした。

    最近は民族的な意識とかどうなっているんですかね。社会人になると弾丸旅行が多くなり、そこまで現地の人たちと込み入った話をする機会もあまりなく、どこまで立ち入っていい物なのかもよくわからないので、正直あまりわからないです。

    リマは欧米色強いですが、クスコは完全にアンデス色ですよね。アンデス系は結構好きなので、いつか機会があればまたペルーに行ってみたいです。

    Miyatan

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