2019/10/15 - 2019/10/17
84位(同エリア374件中)
イッテツさん
長遊会とは昭和48年卒(73年)長崎大学の親しい仲間で作った2年に1回の旅行を楽しむ会のことである。発足は東京在住の3人の仲間から始まったらしい。今回4回目だそうで、私は初めての参加である。事前に行くと言ってたものの風邪をこじらせてどうにもならず、欠席も考えたが、車を出すという約束をたがえる事の方がより迷惑がかかると思い強行参加した。さてどうなることやら?
1日目 嬉野温泉 「うれしの 元湯」に集合して、祐徳神社へ~ガタリンピックで有名な鹿島干潟交流館。
2日目 名護屋城~(呼子クルージングの予定が強風のために中止)~虹ノ松原ドライブ~鍋島焼秘窯の里 大川内山。
3日目 武雄温泉楼門~吉野ヶ里遺跡散策
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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1日目(10月15日)
嬉野温泉「うれしの 元湯」集合 -
祐徳稲荷神社本殿
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本殿横の絵馬
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奥の院への入り口
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風邪をひいているせいもあってここで引き返す。
降りてきた人からまだまだ遠いですよと言われた。 -
ガタリンピックで有名になった
鹿島干潟交流館前の干潟
どこまでも干潟 -
この写真に2匹ムツゴロウがいる。
小さいムツゴロウがあっちこっちでぴょんぴょん跳ねる
こんなにムツゴロウっているんだと初めて知った。 -
真中上の方にもムッゴロウがいる。
たくさん跳ねる姿が見えるムツゴロウも、望遠レンズがなければなかなか写真に撮るのは難しい。 -
宿に帰って夕食
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これから始まるディナーの前菜
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2日目(10月16日)
名護屋城址
天正19年8月(1591年)豊臣秀吉の命により築城
文禄元年(1592年)3月突貫工事により8か月で完成 -
正面
文禄・慶長の役
文禄元年(1592年)に始まった文禄2年(1593年)に休戦した
慶長2年(1597年)講和条約の交渉決裂によって再開され、秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した。 -
肥前名護屋城図屏風のモニュメント
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名護屋城・城下町模型
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秀吉が居住した山里丸の草案茶室跡
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東側
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西側
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陣跡配置図 130の陣跡が見つかっている。
実際は160名の大名が陣屋を構えていた。
当時の名だたる武将は全ていた。家康は本陣を名護屋城のすぐ前に少ない人数で置き、兵の本体は名護屋浦を隔てて向こう側に置かされた。豊臣秀吉はこれで安心したのだろう。しかし家康が出兵することは無かった。 -
大手口
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大手門跡
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壊された大手門の石垣
島原の乱の後、名護屋城も反乱軍によって利用されないように、角をこわして建物が建てられないようにした。 -
どの角も壊された
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長い坂を上る
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大手口の石垣
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東出丸の曲輪跡
この場所に兵を入れて人数を数えた。 -
名護屋城跡並びに陣跡
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この竹藪の所に秀吉の住まいである山里丸があった。
山里丸には草庵があり茶室があった。
1593~94年1年2ヶ月をここで過ごした。 -
三の丸 大手口から本丸に通じる重要な曲輪で、本丸を警護する侍が詰めていた重要な場所と考えられている。
真中に井戸がある。水を汲みに来る侍が歩きやすいように砂利が敷いてあった。
礎石や砂利が残っている。 -
砂利はここら辺に一部残っている。
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本丸大手門跡
この場所の門を伊達政宗が仙台・青葉城に移築したという伝承がある。 -
これより本丸
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本丸御殿の発掘調査の説明
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本丸御殿跡
300畳の広さがあり名だたる武将がここで豊臣秀吉に謁見していた。 -
乃木希典陸軍大将の揮毫による
但し乃木大将は一回もここに来たことは無いという。 -
豊臣秀吉が一時住んだが、風が吹いて寒いので下の山里丸に住まいを作らせ、そこに居住した。
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天守台の説明
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かっては五層七階の天守閣が建っていました。
初冬には対馬を望むことができる。 -
名護屋城天守台祉
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二の丸
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水手曲輪の跡
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本丸から玄界灘を望む
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こっち方面だろうか壱岐対馬
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ここから釜山へは、ここから広島に行くより近い。
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名護屋城博物館
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当時の街並み
野も山も空いたところがないと水戸の平塚滝俊が書状に記した。
水が足らず水争いが頻繁に起きたそうだ。
名護屋城築城によって一時的に人口は増えたが、地元の人口は当時も今もほとんど変わらないそうだ。 -
各大名の陣地
文禄の役の2年間はこの地を使用したが、慶長の役では武将達がそれぞれの港より出兵したためにこのような陣地を作ることは無かった。ただ補給・連絡の中継基地として重要な役割を果たした。 -
有力大名の名前が載る日本地図
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倭国軍の安宅船の模型
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李舜臣率いる朝鮮水軍の亀甲船
李舜臣はこの戦いで戦死したが、朝鮮の英雄 -
当時使われた鉄砲(火縄銃)
文禄の役の時は朝鮮軍に鉄砲は無く、秀吉軍には圧倒的な力の差があった。しかし2度目の慶長の役には、捕虜になった秀吉軍の捕虜によって、既に鉄砲はでき、備えも堅剛になって苦戦を強いられた。 -
昼食は
道の駅 桃山天下市 -
残念ながら呼子名物イカ刺しは、海が荒れて漁船が出航できずに、取れてなくて作ることができないと言われた。
しかしイカ丼はあったのでイカ丼セットで注文した。 -
海が荒れて船が出ず
呼子クルージングそして波戸岬行きは中止
晴天だけに残念である
虹ノ松原 -
虹ノ松原をシーサイドホテルの前の海岸より写す。
綺麗に見えるけど海岸線の上の方にはプラスチックや瓶のゴミがいっぱい溜まっている。この海岸線見える所全てそうである。一つ一つ見てみると全て日本の製品だった。夏には片付けるんだろうが見たくない光景だった。 -
大川内山
クルージングがなくなったので 秘窯の里 大川内山 に行った。
鍋島藩の御用窯
「鍋島」は販売目的ではなく将軍家への献上品や諸大名への贈答品として使われた。 -
およそ30の窯元が軒を連ねている。
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窯元の後ろの山は急峻で人を近づけない。前からの入り口には役人の番所があり通行を見張っていた。
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夕食は再び
嬉野温泉「うれしの 元湯」で頂く -
3日目(10月17日)
武雄温泉楼門 -
武雄温泉資料館
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吉野ヶ里遺跡
環濠 -
今からおよそ2,100年前の歴代の王のものという北墳丘墓
甕棺(かめかん)
北墳丘墓の甕棺は比較的サイズが大きく、銅剣や管玉など数々の副葬品をともなっている。 -
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足を曲げて埋葬した
これはモニュメントです。 -
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こちらは庶民の甕棺
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甕棺墓列
全長300メートル、約500基からなる -
北内郭は、最も神聖な場所とされており、巨大な祭殿がある。
当時の建物が多数復元されている。 -
30メートルの物見櫓
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高床式の倉庫
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中の村では、祭祀や政治的儀礼に使用する道具や酒などが作られていたとされ、酒ずくりの家などが再現されている。
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内濠と物見櫓
以前と違ってきれいに整備さた公園となっている。バスなどを利用しないと、あまりに広いので大変だと思います。全部見て回るには1日では足りないかもしれない。 -
ここのレストランでうどんを頂いて解散。
皆さんのおかげで何とか旅することができました。
最後まで咳が止まらずご迷惑かけました。
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