2019/10/23 - 2019/10/23
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ベームさん
その1の続きです。
中州から隅田川沿いに浜町、東日本橋方面を歩きます。
中州は今の浜町、箱崎町辺りの隅田川に江戸時代中期、および明治の中頃から昭和にかけて洲を埋め立てた中州があり、芝居小屋、料亭のひしめく歓楽街でした。今は浜町との間の川が埋め立てられ全くの地続きになっています。
写真は隅田川テラスから見た新大橋。
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これと次の地図は今日の歩いた全体図。
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同。
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その2。
中州、浜町。 -
その2。
久松町、東日本橋、柳橋。 -
水天宮から箱崎シティエアターミナルの方に向かいます。
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箱崎シティエアターミナル。
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箱崎ジャンクション。頭上を巨大な首都高が走っています。
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高速道路を潜り抜け、箱崎町に入ってきました。
こんな仕舞屋というか町屋風の古い家も残っています。並べられた鉢物とよくマッチしています。 -
八大竜王社。
龍神、水神で雨ごいの神のようです。 -
中州に入ってきました。日本橋中州です。中州町とは言いません。
元は隅田川の浅瀬、洲でした。江戸中期、1771年ころより埋め立てが始まり、町屋、飲食店が立ち並ぶ大歓楽地、中州新地が出現します。しかし1790年ころ、松平定信の寛政の改革で街は取り壊しとなり、再びもとの浅瀬に戻りました。 -
昭和2年の地図。
真ん中の小さい島が中州で、2本の橋、上の橋が男橋、下の橋が女橋で浜町と繋がっています。新大橋があり清洲橋はまだ架橋中です。
明治19年、再び埋め立てが始まり、真砂座が出来ると芝居客目当ての待合、料亭が集まり賑わいを取り戻します。浜町とは二つの橋、男橋と女橋で結ばれていました。隅田川に面したほうにはびっしり料亭が立ち並んでいました。
その後昭和46年ころから浜町、箱崎町との間の運河(箱崎川)が埋め立てられついには全く地続きとなりました。 -
歌川広重「みつまたわかれの渕」。名所江戸百景より。
新大橋から中州辺りにかけて隅田川と小名木川と箱崎川が合するところから三つ又(三つ股、みつまた)、淡水と海水が分れるとこからわかれの渕と呼ばれた。
絵は小名木川河口の萬年橋辺りから対岸方面を描いており、真ん中に洲が描かれています。 -
明治34年頃の中洲。
山本松谷:新選東京図会より。
左から張り出しているのが中洲。まだ陸続きではなく、本土とは男橋、女橋で繋がっており、絵に描かれているのは女橋。中洲の真ん中に真砂座が描かれている。
隅田川対岸の煙突の煙は浅野セメントで、その右に仙台堀川と河口に架かる上之橋(今は無い)と思われる。
川を往来する船の賑わいが江戸から続く東京の繁華を示している。 -
今の中州風景。マンションが立ち並び人通りは少ないです。
北原白秋の「大川風景」にこんな一文があります。
「夏は短夜、紅いあかりの中州は男橋に女橋、その男橋の上にほうふつと意気な女の影が立つ。」
これで当時の繁華をしのぶしかありません。夏の大川の花火のときは両国をしのぐ賑わいだったそうです。吾妻橋から下流の隅田川を大川と通称しました。 -
道端の植え込みに丸い石が転がっています。明治26年から大正6年まで真砂座のあったところです。明治末から大正にかけ演劇全盛のころ、中州といえば真砂座のことで、真砂座といえば中州の代名詞でした。
後に築地小劇場を率いることになる劇作家、演出家の小山内薫がまだ東大在学中に三木竹二(演劇評論家、森鴎外の弟)、伊井蓉峰らと知り合い、座付き作者としてそのキャリアのスタートを切ったのも真砂座でした。小山内の自伝的小説「大川端」に当時の様子が描かれています。
ここを本拠に、伊井蓉峰、河合武雄、喜多村緑郎らが新派劇のメッカとして活躍しました。 -
明治39年11月、小山内薫演出、伊井蓉峰主演の「猫」(原作 夏目漱石の吾輩は猫である)が上演されました。当然漱石も足を運んだでしょう。
小山内は漱石が小泉八雲の後をおそい東大英文科の講師になったのを非難し、漱石排斥運動をしています。漱石嫌いでもその人気には勝てなかったのでしょう。
永井荷風は中学生のころ、夏には大川(隅田川)の水練場で泳ぎを習っていました。
随筆「夏の町」にこんな一節があります。
「自分が水泳を習い覚えたのは神伝流の稽古場である。・・・。朝早く・・・、肌襦袢のような短い水着一枚になって大川筋をば汐の流れに任せて向島から佃島のあたりまで泳いで行き、疲れると・・・濡れた水着のままでよく真砂座の立ち見をした事があった。」 -
清洲橋の袂に来ました。清洲橋通りが中州のど真ん中を貫いています。
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防錆のための塗装工事が平成30年から2年間の予定で行われています。
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国の重要文化財です。
関東大震災復興事業の一つとして、昭和3年竣工。長さ186m。 -
対岸は江東区。萬年橋と小名木川の河口が見えます。
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萬年橋。
橋の左袂に芭蕉庵史跡展望庭園があります。 -
橋の裏。
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巨大な支柱です。
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隅田川テラスに降りてみました。
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隅田川テラスからの清洲橋。
工事の支柱や覆いがなければ美しい姿が見られるのですが。 -
隅田川テラス。
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遊覧船が波を蹴立ててきました。。
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付近案内図。
左上手に新大橋、右下手に清洲橋。対岸は深川、小名木川の河口と萬年橋。 -
日本橋消防署の消防艇です。
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同。
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テラスの壁には綺麗なタイルのモザイク絵がありました。
花魁かな。 -
江戸の風景を描いています。
新大橋。 -
これは多分萬年橋。
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商家。大店ですね。
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対岸、芭蕉記念館です。
以前深川を歩いた時行きました。 -
新大橋が見えてきました。
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遠くにスカイツリー。
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昭和52年完成の斜張橋、173m。
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スッキリした姿です。
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中州のはずれあたりです。
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新大橋の浜町がわの袂。
震災避難記念碑が建っています。 -
新大橋は人助け橋と言われています。
関東大震災で隅田川に架かる橋が崩落する中、新大橋だけが持ちこたえ、多くの人の命を救いました。 -
震災避難記念碑から浜町公園(写真緑の所)の南側あたりにかけ肥後細川家の長屋があり鏑木清方、書生時代の島崎藤村が住んでいました。
鏑木清方(明治11~昭和47年、挿絵画家、日本画家、随筆家)は明治39年から45年にかけこの辺りの細川家の長屋に住んでいます。挿絵画家から脱皮しようともがいていたころです。その頃のことは随筆「明治の東京」に詳しく描かれています。 -
島崎藤村(明治5年~昭和18年)は10歳で上京後、12歳のころから銀座にある同郷の先輩吉村忠道の家に寄寓した。16歳の時吉村の転居にともないここ日本橋浜町に移る。ここから藤村は神田の共立学校、芝の明治学院に学ぶ。また吉村の営む横浜の雑貨店で働いたこともあった。まさに彼の青春時代を過ごした街です。
吉村は藤村を自分の事業の後継者にと目論んでいたが、藤村はその意に添わず教師、文学者の道を歩む。
当時の事は藤村の自伝的小説「桜の実の熟する時」に詳しく描かれています。 -
ここはまた花井お梅殺人事件のお梅が開いていた待合「酔月/水月」のあったところです。
1863年、佐倉藩の下級武士に生まれたムメ(お梅)は15歳で柳橋、新橋の芸者になる。美貌と勝ち気で人気芸者だった。第三十三国立銀行頭取河村の妾となり、ここ浜町河岸で待合「酔月」を開く。
明治20年6月、父と待合の経営方針の諍いから、父に味方する番頭の八杉峯吉をものの弾みで出刃包丁で殺害、自分は警察に自首した。
このいきさつは、篠田鉱造が「明治百話」の中で見てきたように描いています。
峯吉がお梅に横恋慕しての痴話喧嘩のすえ、とか諸説あるようです。 -
死刑になるべきところ、判決は情状酌量をもって罪1等減じ無期徒刑。15年後に特赦で出獄。以後お汁粉屋を開いたり、自分の事件を題材にした芝居の役者、芸者に戻ったりの生活だったが、大正5年肺炎で死去、53歳。
美貌で人気芸者の殺人事件とあって、世間は大騒ぎ、6月14日の大阪朝日新聞は「大川端の惨劇 花井お梅、出刃でひと突」と報じた。高橋お伝、夜嵐お絹とともに明治3大毒婦とまで言われた。 -
ここが浜町公園の正面入り口です。
これを題材にしたのが、歌舞伎5代目菊五郎演じる河竹黙阿弥の「月梅薫朧夜、つきうめかおるおぼろよ」、新派花柳章太郎演じる川口松太郎の「明治一代女」ほかで、いずれも大人気だったそうです。 -
公園内に清正公寺(せいしょうこうじ)があります。
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本堂。
加藤清正を祀る寺。1861年、熊本藩主細川斎護の建立。 -
この吐水口は水道の蛇口でした。
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公園内にある中央区立総合スポーツセンター。
浜町公園は元熊本藩主細川家の下屋敷。関東大震災の復興事業の一環として、隅田公園、錦糸公園とともに1929年開園。 -
公園入口から明治座に続く緑道。
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地下鉄都営新宿線、浜町駅。
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緑道の入り口。
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明治座です。浜町公園前交差点。
小山内薫の自伝的小説「大川端」の冒頭は明治座で始まっています。
”今から七年前ー丁度日露戦争が済んだ年の秋だった。久松町の明治座に愛国婦人会の慈善演芸会が三日ばかり催されたことがあった。”
そこで正雄(小山内のこと)は葭町(よしちょう)のお酌(半玉、雛妓)君太郎を見初めたのでした。葭町は今の人形町にあった花街。小山内が真砂座の伊井蓉峰一座の座付き作者をしていた時です。 -
明治26年、初代市川左団次が既存の芝居小屋を買収し、明治座と改称。
当初は歌舞伎、新派の殿堂だったがそのご時代劇、現代劇、歌謡ショー、ミュージカル形式など幅広い出し物を上演している。
島村抱月・松井須磨子の芸術座、川上音二郎・貞奴一座もここで活動している。 -
明治座で芝居を見て甘酒横丁を歩き、水天宮にお参りするというのが流行りだったそうです。
五木ひろしさんてまだ現役だったのですか。調べてみたら私より年下でした。五木フアンの方すみません。 -
明治座/浜町センタービル。
元の明治座は戦災や火災にあったが、1993年、浜町センタービルにテナントとして入る。 -
ここにも甘酒横丁。甘酒横丁は人形町通りから明治座まで約400mの通りです。
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甘酒横丁を少し人形町方向に行くと浜町川緑道に突き当たります。
以前隅田川に注ぐ浜町川という掘割があり、浜町河岸があった。それが暗渠になり緑道となったのです。
花井お梅の事件はこの浜町河岸で起こったといわれます。 -
勧進帳の武蔵坊弁慶の像があります。
ここが弁慶と関係があるわけではありません。中村座、市村座などの芝居小屋があったせいでしょう。 -
浜町川緑道。
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漢方医学復興の地の碑。
明治に入り、西洋医学に押され衰退の道を歩んでいた漢方医学の復権に功あった漢方医和田啓十郎の医院があったところ。 -
緑道が金座通りに突き当たり、金座通りを右に曲がると笠間稲荷神社東京別社があります。
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笠間藩主牧野氏の下屋敷跡。
牧野氏が茨城の笠間稲荷(日本3大稲荷の一つ)の分霊を邸内に勧請したもの。
五穀、水産、殖産の神です。 -
手水舎。
狐の絵が描かれています。 -
金座通りと清洲橋通りが交差する久松町交差点。
松山藩主久松松平家の下屋敷がこの辺りにありました。町名の由来だと思います。
本郷真砂町に旧松山藩の子弟の育英の為の寄宿舎「常磐会」を作ったのが久松松平家です。正岡子規もそこに寄宿したことがあります。内藤鳴雪は舎監をしていました。 -
清澄通りを左にちょっと行ったところに、「賀茂真淵県居(あがたい)の跡」のプレートがビルの壁に掛けられています。
賀茂真淵:江戸中期の国学者、歌人。浜松出。1697~1769年。
万葉集、古事記、日本書紀を深く研究、近世国学並びに和歌史上に大きな足跡を残した。
荷田春満(かだのあずままろ)、本居宣長、平田篤胤(あつたね)とともに国学の四大人といわれる。
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1764年、68歳の時ここに居を定め、その住まいを自分の号「県居(あがたい)」と名付けた。県居とは田舎住まいのこと。
ここで真淵は万葉集の研究に没頭し、歌会を催して余生を送った。1769年73歳で死去。
ここで歌ったものに、
こほろぎの鳴くやあがたの我宿に月かげ清し訪ふ人もがな
あがたゐの茅生(ちふ)の露原かきわけて月見に来つる都人かも
県居の名の通り田舎だったようです。 -
久松町交差点に戻り、金座通りを隅田川方面に。
この通りは日本橋本石町の日本銀行から続いており「金座通り」といいましたが、今この名を称するのはここ浜町の部分だけです。 -
金座通りを隅田川方面に歩きました。
ここら辺は日本橋浜町1丁目です。 -
隅田川の堤防沿いの浜町河岸通りを歩くと日本橋中学校があります。
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日本橋中学校の角に、はんこのような碑がありました。
昔あった地名が消えていくのを惜しんで建てられた碑です。 -
江戸の初期この地は谷野と呼ばれていた。幕府の米蔵があり谷之御蔵と称した。
元禄11年(1698年)の火事で米蔵は焼失し、米蔵は築地に移転、跡地は町屋や武家屋敷になった。
明治になりこの地は矢ノ倉町と定められる。昭和46年、住居表示実施により東日本橋1丁目となり、矢ノ倉の町名は消えた。
利便性、効率性だけを考えた住居表示実施は全国から由緒ある地名を次々と消していきました。昔からの地名は歴史であり文化遺産です。残念なことです。 -
中学校周辺の道。
この辺りに昔薬研堀(やげんぼり)があったのではないかと思います。
隅田川に通じるL字型の掘割で、堀の底が漢方の薬種をすり潰して粉にひくV字型の薬研の形に似ていたので薬研堀の名がついた。 -
同。
ここにあった米倉に米を荷揚げするために開削されたが、1698年米倉が焼失し築地に移転すると堀の役目はなくなり、埋め立てられていった。明治36年わずかに残った堀も完全に埋め立てられたが地名だけは薬研堀町として残った。
それも昭和46年、住居表示実施で素っ気ない東日本橋となり薬研堀の名前も消えた。 -
文政11年(1828年)の古地図です。
上の方、神田川が西から流れてきて隅田川に注ぐところに柳橋。その下に両国橋があって両国広小路があります。その下元柳橋があり、そこから左にL字の鍵型に食い込んでいる運河が薬研堀です。今はどちらもありません。
ずっと下って新大橋、小名木川の河口に萬年橋。中州を書き加えましたが当時はまだ浅瀬でした。 -
浜町河岸通りを跨ぐ陸橋。
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この辺りに薬研堀が隅田川につながる所にあった「元柳橋」があったのではないかと思います。
最初は「柳橋」でしたが、後に神田川が隅田川に注ぐところに新たに「柳橋」が出来たので、薬研堀の橋に「元」をつけて「元柳橋」にしたようです。両国に生まれた画家木村荘八は異説を唱えています。長くなるので省略します。 -
今も柳が植わっています。
葛飾北斎、歌川広重、小林清親の描く元柳橋には柳の大木が描かれており、「柳橋」の名の由来ともいわれます。 -
両国橋が眺められます。奥のアーチは総武線の鉄橋。
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薬研堀不動の方に向かいます。
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通りの先にスカイツリー。
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薬研堀不動院です。東日本橋2丁目。
薬研堀の名はこの不動にだけ残っています。 -
薬研堀不動院。
天正3年(1585年)豊臣秀吉の紀州根来寺攻めの時、住職が本尊不動明王を担いで江戸まで逃げ草庵を結び、1591年にここ隅田川の畔に堂宇を建立したのがはじまり。
目黒不動、目白不動とともに江戸3大不動といわれる。 -
明治25年に川崎大師平間寺の東京別院となる。
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この地は今の順天堂大学の祖と言われる佐藤泰然が天保9年(1838年)オランダ医学塾/和田塾を開いたところで、境内に順天堂発祥の地の碑があります。
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大日本除虫菊の会社。
薬研堀の名からこの辺り薬関係の商売が多かったそうです。薬として使われた七味唐辛子の老舗もありました。 -
薬研堀不動の裏にある矢の蔵稲荷。
この地に幕府の米蔵があった当時、その中にあった神社だそうです。 -
柳橋通りを両国橋の方に歩きます。
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中央区産業会館。
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両国橋の袂に来ました。今の橋は1932年の架橋です。
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両国広小路があったところです。上野、浅草とともに江戸の三大広小路です。
江戸に多かった火事、橋への類焼を防ぐため、橋の両側に広場をつくり火除け地を設けたのが広小路です。そのため常設の建物は禁止でしたが、仮設の見世物小屋(芝居、軽業、手品、女浄瑠璃、講談、中には卑猥な見世物も)とか食べ物屋、水茶屋などが集まってきて一帯は明治初期まで浅草と並び江戸一番の盛り場となりました。 -
通りは京葉道路、靖国道路です。
この界隈の事はこの地、両国吉川町で生まれた画家木村荘八の「東京の風俗」に詳しく描かれています。
荘八は明治26年、「いろは」という牛肉店チェーンを営む木村荘平の8番目の息子に生まれました。荘平は次々に店を増やし(最盛期は20店を超えた)第1いろは、第2いろは、・・・と名付けそれぞれに妾をおいて管理させた。 -
道端の植え込みに、旧跡両国広小路、の碑。
そして次々と生まれてくる子に、男は長男荘太から始まり、荘五、荘六、荘八、荘一二、荘・・と名付けた。荘八は第8いろはで生まれています。兄弟全部で30人以上いたそうです。それにしてもお盛んなことですね。当時は政財界の貴顕紳士から庶民の金持ちまで、妾を持つのは当たり前だった。
伊藤博文なんて、公用で地方に出向くときも妾を連れて行ったそうです。ある時旅館で着替えるとき部下に荷物を解かせたところ、女物の衣装が次から次と出てきました。妾の荷物と取り違えたのでした。さすがの伊藤公も赤面したそうです。 -
昔は橋の両側とも両国で、西側が両国の中心で、隅田川の東側は向両国とか東両国と呼ばれました。今は東側が両国の名を残し、本家の方は東日本橋という素っ気ない町名になっています。
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背面には両国広小路の由来が彫り込まれています。
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葛飾北斎描く両国橋と広小路、「浮世両国橋夕涼花火見物の図」。
広小路の殷賑ぶりがうかがわれます。 -
明治31年の両国川開き。
明治の画家山本松谷の新選東京歳時記の絵です。
前年の明治30年の川開きでは押し寄せる人並みの圧力で橋の欄干の一部が崩れ、数十人の人が川に落ち、死者も出たそうです。 -
その先に緑色の橋が見えます。
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神田川が隅田川に注ぐ河口に架かる柳橋です。
ユニークな曲線美を持つ橋です。 -
最初の橋は元禄11年(1698年)。
関東大震災で崩落後今の橋は昭和4年に完成しています。 -
橋の袂に立つレリーフ。
春の夜や 女見返る 柳橋 正岡子規
子規がこんな所まで。子規は松山より大学予備門にはいるため上京後、病で動けなくなるまで実によく東京中を歩き回っています。
柳橋の名前は、橋の袂に一本の柳の木があったからと言われますが、諸説あるようです。 -
たしかに柳の木が一本寂しげに立っています。
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両岸には船宿が並んでいます。「小松屋」、成島柳北の「柳橋新誌」に船宿小松屋というのが記されています。これがその小松屋とすれば1850年頃からあることになります。幕末期から明治にかけてのこの地の遊廓、船宿の賑わいぶりが細かく描かれています。
成島柳北の「柳橋新誌」によると、船には大きいのから屋形船、汁翻(しるこぼし)、猪牙船(ちょきぶね)、任舟(にたりぶね)があり、小松屋は屋形船を持っていたそうです。 -
江戸中期からこの辺りは隅田川の舟遊び客相手の船宿とか料亭が多くありました。
船宿や柳橋の花街の座敷で遊んだ客が春の花見に、夏の夕涼みに船を繰り出したのです。
また新吉原通いの猪牙船(ちょきふね)の発着所でした。 -
今も神田川の両岸にはたくさんの屋形船がもやっています。多いときは150艘を数えたそうです。
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奥の橋は浅草橋。
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橋の欄干。
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柳橋芸者の簪。
柳橋の客筋は良く、柳橋芸者の気位は高かく、好みも一流だったそうです。
やはり成島柳北の「柳橋新誌」によると、幕末頃の江戸で芸者(芸を売る)が多く質の高いのは柳橋で、吉原は芸者も多いが中心は女郎(娼妓、身体を売る)であるとあります。 -
橋を渡った台東区側から。
柳橋の芸者は化粧が薄く趣がある。その意気は爽快で客に媚びるようなことはしない。俗にいう「神田上水を飲んで育った江戸っ子の心意気」がある、いわゆる深川の辰巳芸者の面影を残している、とも柳北は書いています。 -
何とも言えない曲線です。
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渡ったところは柳橋大川端通り。台東区。
この先にかって柳橋の花街だったところとか、大久保で3人の子供を失った島崎藤村が移ってきた浅草新片町がありましたが、今日の散歩の範囲外です。
江戸から明治にかけての柳橋の風俗については、成島柳北(旧幕臣、ジャーナリスト、戯作者)の「柳橋新誌」に描かれています。 -
橋の袂の料亭「亀清楼」。安政元年(1854年)創業。伊藤博文のお気に入りだったとか。かっては「新柳二橋」と言われ、新橋と並び称された花街もなくなり、料亭は次々と壊されマンションや駐車場に変わっていきました。亀清はその料亭の唯一の生き残りだそうです。
小山内薫の自伝的小説「大川端」に正雄(小山内のこと)が商家の旦那に連れられて亀清の舞台開きに行く場面があります。
「柳橋へ掛かると、つひ向こうに、御殿とでも言ひそうな、甍の高い二層楼が、花やかな灯を黒い水に落としていた。」
「あれだよ。」と、福井さんはその高殿を指した。 -
神田川河口。
森鴎外の「青年」にも亀清は出てきます。主人公の純一が県人会の忘年会の会場である亀清楼に行く場面です。
「両国の橋手前で電車を降りて、左へ曲がって、柳橋を渡って、高山先生の跡について亀清に這入った。・・・・。外はまだ明るいのに、座敷には電燈が附いている。一方の障子に嵌めた硝子越しに、隅田川が見える。斜めに見える両国橋の上を電車が通っている。」 -
神田川と隅田川の合流点。
橋は総武線の鉄道橋だと思います。 -
総武線とスカイツリー。
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河口側から見た柳橋。
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隅田川対岸。
百本杭があった辺りと思います。 -
これで帰路につきました。総武線馬喰町駅に向かいます。
途中にある初音森神社。 -
1330年ころの創建。そのころこの地を初音の里といったらしい。
2021年3月追記。朝日新聞のコラムにこんなことが書かれていました。
”江戸時代初期、この付近に初音の馬場の井戸という名水があり、徳川家康が愛馬「三日月」にこの水を飲ませ、初音森神社に詣でたのち関ヶ原の戦いに臨んだという伝説がある”。 -
ビルの壁に張り付いています。
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浅草橋交差点。
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馬喰町駅です。3時半ころ。
座って帰れました。今日のコースは比較的短く、足の痛みも少なく済みました。
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