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半年ぶりの東京文学・歴史散歩です。未踏のそういった史跡がある程度まとまっている地域はなくなってきました。<br /><br />今日は日本橋小伝馬町、大伝馬町、堀留町、人形町、中州、浜町、東日本橋、柳橋界隈を歩いてみます。<br /><br />その名の由来の多くの人形師が住んでいた人形町は中村座、市村座など芝居小屋のあった庶民の街。旅籠屋が並ぶ馬喰・横山町は商人相手の問屋の街。浜町、久松町は明治座があり、粋なお姐さんが行き交った町。小伝馬、大伝馬町は荷物を馬で運ぶ伝馬役の住んでいた町。今は地続きですが、以前は隅田川の中州で、大川の花火客や演劇で賑わった中州。東日本橋は両国橋、柳橋一帯にあった薬研堀、矢ノ倉、村松町などを統合した町。(中央区のパンフレットなどから)。<br /><br />そうなんですねえ。この地域は江戸時代から商人の町、庶民の町、遊興の町として下町の中心として賑わったところなのです。明治大正頃に書かれた書物を読むと、よくもまあここまで変わってしまうのかと驚くほど、全ては変貌してしまっています。<br /><br />文学関係では、この地に生まれた閨秀作家長谷川時雨、山岸荷葉、谷崎潤一郎。住まいのあった賀茂真淵、鏑木清方、島崎藤村。パン(牧羊神)の会の会場となった三州屋。夏目漱石の「吾輩は猫である」が「猫」として初めて上演された中州「真砂座」、真砂座の座付き作者として演劇人のスタートを切った小山内薫など。<br /><br />写真は人形町通りのからくりやぐら時計。

東京文学・歴史散歩28。中央区を歩くその1:人形町界隈。

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2019/10/23 - 2019/10/23

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121

ベーム

ベームさん

半年ぶりの東京文学・歴史散歩です。未踏のそういった史跡がある程度まとまっている地域はなくなってきました。

今日は日本橋小伝馬町、大伝馬町、堀留町、人形町、中州、浜町、東日本橋、柳橋界隈を歩いてみます。

その名の由来の多くの人形師が住んでいた人形町は中村座、市村座など芝居小屋のあった庶民の街。旅籠屋が並ぶ馬喰・横山町は商人相手の問屋の街。浜町、久松町は明治座があり、粋なお姐さんが行き交った町。小伝馬、大伝馬町は荷物を馬で運ぶ伝馬役の住んでいた町。今は地続きですが、以前は隅田川の中州で、大川の花火客や演劇で賑わった中州。東日本橋は両国橋、柳橋一帯にあった薬研堀、矢ノ倉、村松町などを統合した町。(中央区のパンフレットなどから)。

そうなんですねえ。この地域は江戸時代から商人の町、庶民の町、遊興の町として下町の中心として賑わったところなのです。明治大正頃に書かれた書物を読むと、よくもまあここまで変わってしまうのかと驚くほど、全ては変貌してしまっています。

文学関係では、この地に生まれた閨秀作家長谷川時雨、山岸荷葉、谷崎潤一郎。住まいのあった賀茂真淵、鏑木清方、島崎藤村。パン(牧羊神)の会の会場となった三州屋。夏目漱石の「吾輩は猫である」が「猫」として初めて上演された中州「真砂座」、真砂座の座付き作者として演劇人のスタートを切った小山内薫など。

写真は人形町通りのからくりやぐら時計。

  • スタートは地下鉄日比谷線小伝馬町駅。9時50分ころ。

    スタートは地下鉄日比谷線小伝馬町駅。9時50分ころ。

  • 次の地図と2枚で今日歩いた全体です。<br />左上の小伝馬町駅から右上の馬喰町駅まで。

    次の地図と2枚で今日歩いた全体です。
    左上の小伝馬町駅から右上の馬喰町駅まで。

  • 上の地図から矢印のように歩き、上の地図に戻ります。

    上の地図から矢印のように歩き、上の地図に戻ります。

  • その1。<br />伝馬町牢屋敷から人形町通りを水天宮まで。

    その1。
    伝馬町牢屋敷から人形町通りを水天宮まで。

  • 地上に出たところに、近くにある伝馬町牢屋敷跡の説明版がありました。

    地上に出たところに、近くにある伝馬町牢屋敷跡の説明版がありました。

  • その石碑。<br />石町宝永時鐘<br />江戸伝馬町牢屋敷跡<br />吉田松陰先生終焉の地<br /><br />

    その石碑。
    石町宝永時鐘
    江戸伝馬町牢屋敷跡
    吉田松陰先生終焉の地

  • 伝馬町牢屋敷跡にある十思公園。<br />今日のスタートは暗い歴史の跡からとなりました。<br />慶長年間の1610年ころ、ここに伝馬町(てんまちょう)牢屋敷がつくられ、明治8年市ヶ谷監獄に移るまで存続しました。

    伝馬町牢屋敷跡にある十思公園。
    今日のスタートは暗い歴史の跡からとなりました。
    慶長年間の1610年ころ、ここに伝馬町(てんまちょう)牢屋敷がつくられ、明治8年市ヶ谷監獄に移るまで存続しました。

  • ここは安政の大獄で捕らえられた幕末の攘夷派吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎ほか多数の罪人が処刑された所です。佐久間象山は門人吉田松陰の密航未遂事件に連座して、また蛮社の獄で捕らえられた渡辺崋山もここに入牢しています。

    ここは安政の大獄で捕らえられた幕末の攘夷派吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎ほか多数の罪人が処刑された所です。佐久間象山は門人吉田松陰の密航未遂事件に連座して、また蛮社の獄で捕らえられた渡辺崋山もここに入牢しています。

  • 牢屋敷の敷地は約2700坪、常時300~400人の囚人がおり、牢名主が取り仕切っていました。窓がなく日が射さず、劣悪な環境だったといいます。

    牢屋敷の敷地は約2700坪、常時300~400人の囚人がおり、牢名主が取り仕切っていました。窓がなく日が射さず、劣悪な環境だったといいます。

  • 公園の隅にある「松陰先生終焉之地」の碑。

    公園の隅にある「松陰先生終焉之地」の碑。

  • 辞世の句。<br />留魂録「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

    辞世の句。
    留魂録「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

  • 松陰先生終焉之地。<br />時に安政6年(1859年)10月、満29歳。

    松陰先生終焉之地。
    時に安政6年(1859年)10月、満29歳。

  • 「宝永時鐘々楼」。<br />江戸時代、9か所あった時の鐘の一つでその内の最も古いもの。<br />当初日本橋石町(こくちょう)にあったものを昭和5年ここに移した。時計がない時代には鐘のある所の周囲48か町の地域の住民から時銭を徴収したという。鐘の音が聞こえても聞こえなくても金をとるのは、今のNHKと同じですね。

    「宝永時鐘々楼」。
    江戸時代、9か所あった時の鐘の一つでその内の最も古いもの。
    当初日本橋石町(こくちょう)にあったものを昭和5年ここに移した。時計がない時代には鐘のある所の周囲48か町の地域の住民から時銭を徴収したという。鐘の音が聞こえても聞こえなくても金をとるのは、今のNHKと同じですね。

  • 罪人の処刑はこの鐘を合図に行われたそうです。石町とここは近いので鐘の音が聞こえたのでしょう。

    罪人の処刑はこの鐘を合図に行われたそうです。石町とここは近いので鐘の音が聞こえたのでしょう。

  • 説明版。

    説明版。

  • 発掘の様子。<br />牢獄は幾つかあり、旗本・高位の僧侶、神官を収容する揚座敷、御家人・武士・僧侶などの揚屋、庶民の大牢、女囚だけの女牢があった。<br />

    発掘の様子。
    牢獄は幾つかあり、旗本・高位の僧侶、神官を収容する揚座敷、御家人・武士・僧侶などの揚屋、庶民の大牢、女囚だけの女牢があった。

  • 杵屋勝三郎歴代記念碑。<br />長唄三味線の名跡。

    杵屋勝三郎歴代記念碑。
    長唄三味線の名跡。

  • 公園の向かいにある大安楽寺。ここも牢屋敷の一部でした。<br />明治になり、政府はこの地を払下げようとしたが、不浄の地とて買い手がつかず、時の政商大倉喜八郎と安田善次郎に無理やり買い取ってもらった。<br />政府は払い下げになりふり構わず時の有力者に声をかけたようで、この界隈の有力者であった長谷川時雨の父にも話があったそうです。そんな土地はタダでもご免こうむると断りました。<br />

    公園の向かいにある大安楽寺。ここも牢屋敷の一部でした。
    明治になり、政府はこの地を払下げようとしたが、不浄の地とて買い手がつかず、時の政商大倉喜八郎と安田善次郎に無理やり買い取ってもらった。
    政府は払い下げになりふり構わず時の有力者に声をかけたようで、この界隈の有力者であった長谷川時雨の父にも話があったそうです。そんな土地はタダでもご免こうむると断りました。

  • 高野山の真言宗の坊主が草ぼうぼうの空き地を見て、刑死した霊を弔おうと地主の大倉、安田に掛け合い400坪の寄進を受け寺を建立した。<br />大倉の大、安田の安をとって寺の名を大安楽寺としたそうです。<br />

    高野山の真言宗の坊主が草ぼうぼうの空き地を見て、刑死した霊を弔おうと地主の大倉、安田に掛け合い400坪の寄進を受け寺を建立した。
    大倉の大、安田の安をとって寺の名を大安楽寺としたそうです。

  • 延命地蔵尊。<br />寺の隅が処刑場のあった場所とされる。

    延命地蔵尊。
    寺の隅が処刑場のあった場所とされる。

  • 江戸伝馬町牢御椓場跡。<br />御おたくばとは首切り場の事。

    江戸伝馬町牢御椓場跡。
    御おたくばとは首切り場の事。

  • 江戸八臂弁財天。

    江戸八臂弁財天。

  • 江ノ島弁財天の一つだそうです。

    江ノ島弁財天の一つだそうです。

  • 小伝馬町の交差点に戻ってきました。

    小伝馬町の交差点に戻ってきました。

  • 交差点から二筋下って人形町通りを東西に横切る通りが大伝馬本町通り。<br />この通りがかっては江戸一番の繁華な通りで、この通りに沿って大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町と連なって問屋筋が並んでいたそうです。

    交差点から二筋下って人形町通りを東西に横切る通りが大伝馬本町通り。
    この通りがかっては江戸一番の繁華な通りで、この通りに沿って大伝馬町、通旅籠町、通油町、通塩町と連なって問屋筋が並んでいたそうです。

  • ここらあたり、元の日本橋通油町1番地に長谷川時雨(しぐれ)は生を受けました。<br /><br />長谷川時雨:明治12(1879)~昭和16(1941)年。作家、劇作家、女性運動家。<br />この繁華な土地に有力な代言人(弁護士)の長女として生まれる。女に教育は不要という当時の常に漏れず学業は小学校のみ。しかし読書を好み、長唄、踊り、お花、お茶、二弦琴など良家の子女としての一通りの素養を身に着けた。<br />明治30年18歳の時、鉄問屋の放蕩息子と結婚し、失敗に終わる。

    ここらあたり、元の日本橋通油町1番地に長谷川時雨(しぐれ)は生を受けました。

    長谷川時雨:明治12(1879)~昭和16(1941)年。作家、劇作家、女性運動家。
    この繁華な土地に有力な代言人(弁護士)の長女として生まれる。女に教育は不要という当時の常に漏れず学業は小学校のみ。しかし読書を好み、長唄、踊り、お花、お茶、二弦琴など良家の子女としての一通りの素養を身に着けた。
    明治30年18歳の時、鉄問屋の放蕩息子と結婚し、失敗に終わる。

  • 明治38年、新聞の懸賞に応募した戯曲「海潮音」が坪内逍遥に認められ、逍遥に師事する。以降次々と小説、戯曲を発表。<br />大正5年、12歳年下の小説家 三上於菟吉(おときち)と知り合い同棲する。<br />昭和3年、女性作家の発掘と女性地位向上のため「女人芸術」を創刊、執筆者に岡田八千代、田村俊子、平塚雷鳥、柳原白蓮など。またここを登竜門として世に出た作家に、林芙美子(「放浪記」はこの雑誌に掲載された)、円地文子、矢田津世子、真杉静江などがいた。長谷川時雨の功績はその著作物よりも「女人芸術」により女性作家の発掘にあったと思います。

    明治38年、新聞の懸賞に応募した戯曲「海潮音」が坪内逍遥に認められ、逍遥に師事する。以降次々と小説、戯曲を発表。
    大正5年、12歳年下の小説家 三上於菟吉(おときち)と知り合い同棲する。
    昭和3年、女性作家の発掘と女性地位向上のため「女人芸術」を創刊、執筆者に岡田八千代、田村俊子、平塚雷鳥、柳原白蓮など。またここを登竜門として世に出た作家に、林芙美子(「放浪記」はこの雑誌に掲載された)、円地文子、矢田津世子、真杉静江などがいた。長谷川時雨の功績はその著作物よりも「女人芸術」により女性作家の発掘にあったと思います。

  • 長谷川時雨

    長谷川時雨

  • 古い建物があります。もつ焼きの店でした。<br /><br />昭和8年、女流社会活動団体「輝く会」を結成するが、支那事変勃発以降は前線・銃後の慰問活動が中心となる。昭和16年、南方前線慰問活動から帰国後、過労により死去。<br />作に「うづみ火」、「旧聞日本橋」、「近代美人伝」ほか。時雨も美人でしたが、さすがに自分の事は書いていません。時雨が美人として挙げているのは、マダム貞奴(女優、川上音二郎夫人)、竹本綾之助(義太夫語り)、大塚須磨子(元芸妓、博文館主大橋新太郎夫人)、平塚雷鳥(婦人運動家)、柳原白蓮(炭鉱王伊藤伝右衛門夫人、のち離婚)、九条武子(歌人、真宗本願寺派法王大谷光尊息女)、モルガンお雪(アメリカの大富豪モルガン家御曹子夫人)、大塚楠緒子(くすおこ、なおこ、歌人、作家)など。<br /><br />この界隈の事は「旧聞日本橋」に詳しく描かれています。

    古い建物があります。もつ焼きの店でした。

    昭和8年、女流社会活動団体「輝く会」を結成するが、支那事変勃発以降は前線・銃後の慰問活動が中心となる。昭和16年、南方前線慰問活動から帰国後、過労により死去。
    作に「うづみ火」、「旧聞日本橋」、「近代美人伝」ほか。時雨も美人でしたが、さすがに自分の事は書いていません。時雨が美人として挙げているのは、マダム貞奴(女優、川上音二郎夫人)、竹本綾之助(義太夫語り)、大塚須磨子(元芸妓、博文館主大橋新太郎夫人)、平塚雷鳥(婦人運動家)、柳原白蓮(炭鉱王伊藤伝右衛門夫人、のち離婚)、九条武子(歌人、真宗本願寺派法王大谷光尊息女)、モルガンお雪(アメリカの大富豪モルガン家御曹子夫人)、大塚楠緒子(くすおこ、なおこ、歌人、作家)など。

    この界隈の事は「旧聞日本橋」に詳しく描かれています。

  • 交差点に戻って、東南角辺りに呉服店「大丸屋」がありました。<br />1717年京都伏見で創業した呉服商大丸、今の大丸百貨店、の江戸店で1743年この地に開業。日本橋通旅籠町の大丸といえば、越後屋(今の三越)を凌ぎ江戸第一の呉服屋で、間口36間、奥行き21間、800坪の地所だったそうです。<br />明治43年に潰れかかり撤退するが、1954年再度東京進出したのが今の八重洲口の大丸。

    交差点に戻って、東南角辺りに呉服店「大丸屋」がありました。
    1717年京都伏見で創業した呉服商大丸、今の大丸百貨店、の江戸店で1743年この地に開業。日本橋通旅籠町の大丸といえば、越後屋(今の三越)を凌ぎ江戸第一の呉服屋で、間口36間、奥行き21間、800坪の地所だったそうです。
    明治43年に潰れかかり撤退するが、1954年再度東京進出したのが今の八重洲口の大丸。

  • 交差点から東に入ったところが大丸新道(だいまるじんみち)と呼ばれた大伝馬本町通り。新道とは路地のことです。<br />高村光太郎の詩に「人形町」というのがあります。<br />”あの大丸も店仕舞いしたそうな 角の尾張屋の 大きなおろし小売りの甘酒の行燈が いま百八つの鐘の鳴り止んで 少しひっそりした人形町にまだ見える”<br /><br />

    交差点から東に入ったところが大丸新道(だいまるじんみち)と呼ばれた大伝馬本町通り。新道とは路地のことです。
    高村光太郎の詩に「人形町」というのがあります。
    ”あの大丸も店仕舞いしたそうな 角の尾張屋の 大きなおろし小売りの甘酒の行燈が いま百八つの鐘の鳴り止んで 少しひっそりした人形町にまだ見える”

  • その向かい、西南角辺りに”パンの会”の会場だった西洋料理屋「三州屋」がありました。<br />パン(ギリシャ神話の牧羊神)の会とは、明治41年、20歳代を中心とした若い文学、美術家たち、文学の北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇ら、画家の石井柏亭、山本鼎、倉多百羊らが結成した親睦会で、ヨーロッパの新しい芸術の動向を語り合い、日本に新しい芸術を興そうとした。反自然主義、浪漫的耽美的傾向を持つメンバーたちで、のちに上田敏、永井荷風、高村光太郎、小山内薫、谷崎潤一郎なども加わった。

    その向かい、西南角辺りに”パンの会”の会場だった西洋料理屋「三州屋」がありました。
    パン(ギリシャ神話の牧羊神)の会とは、明治41年、20歳代を中心とした若い文学、美術家たち、文学の北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇ら、画家の石井柏亭、山本鼎、倉多百羊らが結成した親睦会で、ヨーロッパの新しい芸術の動向を語り合い、日本に新しい芸術を興そうとした。反自然主義、浪漫的耽美的傾向を持つメンバーたちで、のちに上田敏、永井荷風、高村光太郎、小山内薫、谷崎潤一郎なども加わった。

  • そこから大伝馬町通りを西に50mほどが瓢箪新道(ひょうたんじんみち)といわれた所です。この写真辺りと思います。資料が少ないので大丸新道もこれも一筋くらい違っているかもしれません。<br />パンの会のメンバーはみんな西洋文化の洗礼を受けた連中なので、会場は西洋料理屋が良いということになりいくつか経たのち、木下杢太郎が見つけてきたのがここ瓢箪新道の三州屋でした。<br />吉井勇の「大川端」に、”瓢箪新道というのは、大伝馬町2丁目の南裏通のことをいうのであるが、そこの横町から一軒の、どこかまだ文明開化的情緒の残っている、古風な西洋料理店を発見してきたのは、その時分から猟奇癖のあった木下杢太郎君であった”とあります。

    そこから大伝馬町通りを西に50mほどが瓢箪新道(ひょうたんじんみち)といわれた所です。この写真辺りと思います。資料が少ないので大丸新道もこれも一筋くらい違っているかもしれません。
    パンの会のメンバーはみんな西洋文化の洗礼を受けた連中なので、会場は西洋料理屋が良いということになりいくつか経たのち、木下杢太郎が見つけてきたのがここ瓢箪新道の三州屋でした。
    吉井勇の「大川端」に、”瓢箪新道というのは、大伝馬町2丁目の南裏通のことをいうのであるが、そこの横町から一軒の、どこかまだ文明開化的情緒の残っている、古風な西洋料理店を発見してきたのは、その時分から猟奇癖のあった木下杢太郎君であった”とあります。

  • 若い気鋭の連中ばかりで、盛んに語り、かつそれ以上に盛んに飲んだそうです。<br />北原白秋が唄った”空に真っ赤な雲の色、まへに真っ赤な酒の色、なんでこの身が悲しかろ、空に真っ赤な雲の色”は会の歌となりました。<br />また吉井勇の唄に”あかあかと土蔵の壁に夕日さし この新道のしずかなるかも。酔狂もこよいは許したまへやと 牧の御神に酒たてまつる”<br />谷崎潤一郎が初めて永井荷風にあい、その賛美の胸の内を荷風に吐露したのもここでした。その時荷風は迷惑そうに「有難うございます」とだけ言ったそうです。<br /><br />「パンの会」のパンを警察が食べるパンと思って、すわ食料を求める社会主義者の集まりか、と会場に踏み込むなんて笑い話もあったとか。

    若い気鋭の連中ばかりで、盛んに語り、かつそれ以上に盛んに飲んだそうです。
    北原白秋が唄った”空に真っ赤な雲の色、まへに真っ赤な酒の色、なんでこの身が悲しかろ、空に真っ赤な雲の色”は会の歌となりました。
    また吉井勇の唄に”あかあかと土蔵の壁に夕日さし この新道のしずかなるかも。酔狂もこよいは許したまへやと 牧の御神に酒たてまつる”
    谷崎潤一郎が初めて永井荷風にあい、その賛美の胸の内を荷風に吐露したのもここでした。その時荷風は迷惑そうに「有難うございます」とだけ言ったそうです。

    「パンの会」のパンを警察が食べるパンと思って、すわ食料を求める社会主義者の集まりか、と会場に踏み込むなんて笑い話もあったとか。

  • その先に刷毛・ブラシの老舗「江戸屋」があります。

    その先に刷毛・ブラシの老舗「江戸屋」があります。

  • 店内。創業1718年、将軍家御用達だったそうです。

    店内。創業1718年、将軍家御用達だったそうです。

  • 店内の隅に展示館がありました。

    店内の隅に展示館がありました。

  • 感じの良い店員さんが説明してくれました。

    感じの良い店員さんが説明してくれました。

  • 昔の註文帳。手に取ってみることが出来ます。全国から注文が来ていました。

    昔の註文帳。手に取ってみることが出来ます。全国から注文が来ていました。

  • 玄関を入ると、そこには洋服掛けがあり洋服ブラシがぶら下がっている、という風景。昔はそうでしたが今はどうか。<br />

    玄関を入ると、そこには洋服掛けがあり洋服ブラシがぶら下がっている、という風景。昔はそうでしたが今はどうか。

  • 馬などにベタッと押す。

    馬などにベタッと押す。

  • 人形町通りに戻りました。水天宮まで続いています。

    人形町通りに戻りました。水天宮まで続いています。

  • 通りからちょっと入ったところに椙森(すぎのもり)神社があります。<br />日本橋堀留町1丁目。

    通りからちょっと入ったところに椙森(すぎのもり)神社があります。
    日本橋堀留町1丁目。

  • 社伝によると1000年も昔の平安時代の創建。江戸商人発祥の地の神社として商人、庶民の信仰を集めた。江戸三森の神社(烏森、柳森、椙森)の一つ。<br />

    社伝によると1000年も昔の平安時代の創建。江戸商人発祥の地の神社として商人、庶民の信仰を集めた。江戸三森の神社(烏森、柳森、椙森)の一つ。

  • 江戸時代、大火が続き多くの寺社が消失。その再建のため富籤が発行され、椙森の富籤は人気があったそうです。

    江戸時代、大火が続き多くの寺社が消失。その再建のため富籤が発行され、椙森の富籤は人気があったそうです。

  • 手水舎。<br />社殿もこれも鉄筋コンクリート造り。

    手水舎。
    社殿もこれも鉄筋コンクリート造り。

  • 冨塚。<br />当初大正9年、関東大震災で倒壊し、今のは昭和28年のもの。

    冨塚。
    当初大正9年、関東大震災で倒壊し、今のは昭和28年のもの。

  • 石の鳥居。

    石の鳥居。

  • 堀留町交差点。<br />ここら辺、日本橋小伝馬町、大伝馬町、堀留町、人形町、小舟町、富沢町、蛎殻町、浜町、中州など通りごとに町名が変わったりしてややこしいです。

    堀留町交差点。
    ここら辺、日本橋小伝馬町、大伝馬町、堀留町、人形町、小舟町、富沢町、蛎殻町、浜町、中州など通りごとに町名が変わったりしてややこしいです。

  • 通りの左手に三光稲荷神社の入り口、三光横丁/三光新道があります。日本橋堀留町。

    通りの左手に三光稲荷神社の入り口、三光横丁/三光新道があります。日本橋堀留町。

  • 短いながらも参道です。

    短いながらも参道です。

  • 江戸初期の創建。

    江戸初期の創建。

  • 説明版。<br />一帯の繊維問屋の守り神。<br />飼い猫がいなくなったらこの神社に願いをかけると見つかるそうです。

    説明版。
    一帯の繊維問屋の守り神。
    飼い猫がいなくなったらこの神社に願いをかけると見つかるそうです。

  • 街中の小さな神社です。<br />この界隈小さな神社が点在します。この地域だけで七福神めぐりが出来るそうです。<br /><br /><br />

    街中の小さな神社です。
    この界隈小さな神社が点在します。この地域だけで七福神めぐりが出来るそうです。


  • 手水鉢。

    手水鉢。

  • 先に進むと、スターバックスの前に、堺町・葺屋町(さかいちょう・ふきやちょう)芝居町跡の説明版があります。日本橋人形町。

    先に進むと、スターバックスの前に、堺町・葺屋町(さかいちょう・ふきやちょう)芝居町跡の説明版があります。日本橋人形町。

  • 江戸時代、江戸の中心日本橋でも人形町あたりは商業とともに遊興の中心でもあった。江戸三座のうち中村座と市村座などの歌舞伎興行の芝居小屋、人形浄瑠璃の小屋、お茶屋が集まり、人形関係の職人が住み、芝居見物の客で賑わった。<br />1842年の天保の改革で浅草猿若町に移転するまでの約200年間の事です。

    江戸時代、江戸の中心日本橋でも人形町あたりは商業とともに遊興の中心でもあった。江戸三座のうち中村座と市村座などの歌舞伎興行の芝居小屋、人形浄瑠璃の小屋、お茶屋が集まり、人形関係の職人が住み、芝居見物の客で賑わった。
    1842年の天保の改革で浅草猿若町に移転するまでの約200年間の事です。

  • 通りの向かい側に刃物の老舗「うぶけや」。<br /><br />またこの辺りは吉原の遊郭がありました。慶長17年(1612年)、幕府はこの辺りの葦の茂った沼地を埋め立て江戸中に散在する娼家を集めました。葭原/吉原遊郭です。明暦3年の大火(1657年)で浅草日本堤に移転するまでの約50年間です。最初の吉原を元吉原、移転後のを新吉原といいます。<br />人形町通りから東に二筋の所に、並行して大門通りというのがありますが、吉原大門の名残です。<br />

    通りの向かい側に刃物の老舗「うぶけや」。

    またこの辺りは吉原の遊郭がありました。慶長17年(1612年)、幕府はこの辺りの葦の茂った沼地を埋め立て江戸中に散在する娼家を集めました。葭原/吉原遊郭です。明暦3年の大火(1657年)で浅草日本堤に移転するまでの約50年間です。最初の吉原を元吉原、移転後のを新吉原といいます。
    人形町通りから東に二筋の所に、並行して大門通りというのがありますが、吉原大門の名残です。

  • その後幕末、天保の改革のころから取り締まりを受けた江戸中(主に深川)の岡場所(非公認の花街)の遊女らが再びこの地に移ってきて花街を形成し始めた。いわゆる芳町/葭町の花街で、明治、大正、昭和にかけ新橋、柳橋とともに隆盛を誇る。<br />芳町芸者は”粋でおきゃんで芸がたつ”と評判で、政財界人の贔屓が多かったという。<br />芳町芸者で有名なのが貞奴(川上貞奴、川上音二郎夫人)と勝太郎(小唄勝太郎)。

    その後幕末、天保の改革のころから取り締まりを受けた江戸中(主に深川)の岡場所(非公認の花街)の遊女らが再びこの地に移ってきて花街を形成し始めた。いわゆる芳町/葭町の花街で、明治、大正、昭和にかけ新橋、柳橋とともに隆盛を誇る。
    芳町芸者は”粋でおきゃんで芸がたつ”と評判で、政財界人の贔屓が多かったという。
    芳町芸者で有名なのが貞奴(川上貞奴、川上音二郎夫人)と勝太郎(小唄勝太郎)。

  • 刃物専門店「うぶけや」。<br />天明3年(1783年)大阪で操業、1800年ころ江戸に進出。ここの刃物はうぶ毛でも剃れるとの評判から名付けたそうです。

    刃物専門店「うぶけや」。
    天明3年(1783年)大阪で操業、1800年ころ江戸に進出。ここの刃物はうぶ毛でも剃れるとの評判から名付けたそうです。

  • うぶけやの並び、読売ISビルのあるあたりは「人形町末広」と「玄冶店、げんやだな」のあったところ。<br />徳川将軍の御典医だった岡本玄冶の住まいと貸家があったところからこの名がついた。<br />岡本は将軍家光の痘瘡を直したことから名声を高め、この地を賜り、自分の住まいと貸家(店)を建てたという。この店には浮世絵師歌川国芳、鳥居清満も住んでいました。

    うぶけやの並び、読売ISビルのあるあたりは「人形町末広」と「玄冶店、げんやだな」のあったところ。
    徳川将軍の御典医だった岡本玄冶の住まいと貸家があったところからこの名がついた。
    岡本は将軍家光の痘瘡を直したことから名声を高め、この地を賜り、自分の住まいと貸家(店)を建てたという。この店には浮世絵師歌川国芳、鳥居清満も住んでいました。

  • 歌舞伎「与話情浮名横櫛、よはなさけうきなのよこぐし」の源氏店のモデルになっています。通称「切られ与三」とも、「お富与三郎」とも。<br />春日八郎の「お富さん」は大ヒットしました。「死んだはずだよお富さん 生きていたとは ・・・・」<br /><br />寄席「人形町末広」は慶應3年(1867年)の開業、昭和45年廃業。<br />

    歌舞伎「与話情浮名横櫛、よはなさけうきなのよこぐし」の源氏店のモデルになっています。通称「切られ与三」とも、「お富与三郎」とも。
    春日八郎の「お富さん」は大ヒットしました。「死んだはずだよお富さん 生きていたとは ・・・・」

    寄席「人形町末広」は慶應3年(1867年)の開業、昭和45年廃業。

  • 人形町交差点です。

    人形町交差点です。

  • 交差点の少し先に鉄造菩薩頭のある大観音寺(おおかんのんじ)があります。

    交差点の少し先に鉄造菩薩頭のある大観音寺(おおかんのんじ)があります。

  • 明治13年の創建。本尊は鋳鉄製の菩薩頭。<br />

    明治13年の創建。本尊は鋳鉄製の菩薩頭。

  • 本尊は170㎝の鋳鉄製菩薩頭。<br />鎌倉時代のもので、かって鎌倉の新清水寺に祀られていた観世音菩薩像だった。廃寺となり、江戸時代に鎌倉八幡宮そばの井戸より頭部だけが掘り出された。<br />

    本尊は170㎝の鋳鉄製菩薩頭。
    鎌倉時代のもので、かって鎌倉の新清水寺に祀られていた観世音菩薩像だった。廃寺となり、江戸時代に鎌倉八幡宮そばの井戸より頭部だけが掘り出された。

  • 明治になりここ大観音寺に移され、本尊となった。

    明治になりここ大観音寺に移され、本尊となった。

  • 結構にぎわっていました。

    結構にぎわっていました。

  • 菩薩頭は東京都指定有形文化財。

    菩薩頭は東京都指定有形文化財。

  • 茶吉尼天(だきにてん)さま。<br />起源はインド、ヒンズー教の人肉を喰う夜叉女。日本ではつき物落とし、病気平癒、開運出世の神とされる。<br />白狐に乗る天女の姿で描かれます。

    茶吉尼天(だきにてん)さま。
    起源はインド、ヒンズー教の人肉を喰う夜叉女。日本ではつき物落とし、病気平癒、開運出世の神とされる。
    白狐に乗る天女の姿で描かれます。

  • 中央、天女が白狐にまたがっています。<br />谷崎潤一郎の生家がこの近くで、幼少のころ谷崎は婆やに負ぶさって縁日の日によくここに来たという。家業が傾く前のことで、谷崎は乳母日傘(おんばひがさ)で育てられました。

    中央、天女が白狐にまたがっています。
    谷崎潤一郎の生家がこの近くで、幼少のころ谷崎は婆やに負ぶさって縁日の日によくここに来たという。家業が傾く前のことで、谷崎は乳母日傘(おんばひがさ)で育てられました。

  • 地蔵尊。

    地蔵尊。

  • その先にからくりやぐら時計があります。

    その先にからくりやぐら時計があります。

  • からくり櫓・町火消。

    からくり櫓・町火消。

  • 江戸の町火消はいろは47組あり、人形町界隈は「は組」でした。

    江戸の町火消はいろは47組あり、人形町界隈は「は組」でした。

  • ちょうど11時。

    ちょうど11時。

  • 午前11時から午後7時までの毎正時に動きます。

    午前11時から午後7時までの毎正時に動きます。

  • 纏(まとい)上げです。

    纏(まとい)上げです。

  • からくり櫓の先に説明版がありました。<br />蛎殻銀座跡です。

    からくり櫓の先に説明版がありました。
    蛎殻銀座跡です。

  • 銀貨鋳造所である銀座は1612年今の銀座2丁目に置かれたが、1800年寛政の改革で廃止された後、1801年ここ人形町に作られた。明治2年大阪に造幣局がつくられるまで存続しました。

    銀貨鋳造所である銀座は1612年今の銀座2丁目に置かれたが、1800年寛政の改革で廃止された後、1801年ここ人形町に作られた。明治2年大阪に造幣局がつくられるまで存続しました。

  • 甘酒横丁の交差点です。

    甘酒横丁の交差点です。

  • 交差点脇には人形焼きの板倉屋。<br />明治40年創業です。

    交差点脇には人形焼きの板倉屋。
    明治40年創業です。

  • 甘酒横丁は交差点から東に明治座までの約400mの通りです。

    甘酒横丁は交差点から東に明治座までの約400mの通りです。

  • 以前横丁の入り口付近に「尾張屋」という甘酒屋があり、それがこの名の由来だそうです。

    以前横丁の入り口付近に「尾張屋」という甘酒屋があり、それがこの名の由来だそうです。

  • ちょっと歩いてみました。

    ちょっと歩いてみました。

  • 道はば広く横丁という感じはしませんが、もとはもっと狭く、関東大震災のあと拡幅されたそうです。

    道はば広く横丁という感じはしませんが、もとはもっと狭く、関東大震災のあと拡幅されたそうです。

  • とうふの双葉。明治40年創業。<br />普通の豆腐のほか、豆乳ドーナツ、とうふのから揚げなんかもあります。2階では豆腐料理も食べられます。

    とうふの双葉。明治40年創業。
    普通の豆腐のほか、豆乳ドーナツ、とうふのから揚げなんかもあります。2階では豆腐料理も食べられます。

  • 鳥忠(とりただ)。鶏肉屋ですか。<br />美味しそうな玉子焼きとか怖い親子焼きなんてのもありました。

    鳥忠(とりただ)。鶏肉屋ですか。
    美味しそうな玉子焼きとか怖い親子焼きなんてのもありました。

  • 交差点に戻り、角にある玉英堂。<br />1576年、京都三条大橋の袂で創業の和菓子の老舗。<br />虎家喜(とらやき、どらやき)が名物だそうです。<br />甘酒横丁の名の由来の甘酒屋「尾張屋」があったところです。尾張屋のことは前の方の大丸呉服店の写真の所で、高村光太郎の詩に詠われています。

    交差点に戻り、角にある玉英堂。
    1576年、京都三条大橋の袂で創業の和菓子の老舗。
    虎家喜(とらやき、どらやき)が名物だそうです。
    甘酒横丁の名の由来の甘酒屋「尾張屋」があったところです。尾張屋のことは前の方の大丸呉服店の写真の所で、高村光太郎の詩に詠われています。

  • 地下鉄人形町駅。

    地下鉄人形町駅。

  • 甘酒横丁の反対側の道を少し行くと親子丼でゆうめいな「玉ひで」という鳥料理の店があります。昼時で人気の店なのか行列ができています。<br />昼だけの親子丼が1500円からで、サラリーマンの昼としては少々お高いようで。今のサラリーマンは懐が豊かなのかなあ。<br />池波正太郎は若いころ日本橋の株屋に丁稚奉公していてこの辺り詳しい。玉ひで/<br />玉秀にもよく行ったそうですが、今では味はまったく変わってしまっているそうです。江戸切絵図散歩より。

    甘酒横丁の反対側の道を少し行くと親子丼でゆうめいな「玉ひで」という鳥料理の店があります。昼時で人気の店なのか行列ができています。
    昼だけの親子丼が1500円からで、サラリーマンの昼としては少々お高いようで。今のサラリーマンは懐が豊かなのかなあ。
    池波正太郎は若いころ日本橋の株屋に丁稚奉公していてこの辺り詳しい。玉ひで/
    玉秀にもよく行ったそうですが、今では味はまったく変わってしまっているそうです。江戸切絵図散歩より。

  • その先に谷崎潤一郎生誕の場所があります。<br />日本橋人形町1-7-10。

    その先に谷崎潤一郎生誕の場所があります。
    日本橋人形町1-7-10。

  • 谷崎潤一郎生誕の地。未亡人松子夫人の字です。<br />明治19年(1886年)、当時の蛎殻町に生まれる。昭和40年死去。<br />乳母日傘(おんばひがさ)で育てられ、幼少から神童と呼ばれ、府立一中、一高、帝大国文科(家産傾き中退)と秀才コースを歩む。<br /><br />帝大在学中に和辻哲郎、木村荘太らと同人誌「第二次新思潮」発行、誌上に「刺青」を発表し永井荷風に認められる。

    谷崎潤一郎生誕の地。未亡人松子夫人の字です。
    明治19年(1886年)、当時の蛎殻町に生まれる。昭和40年死去。
    乳母日傘(おんばひがさ)で育てられ、幼少から神童と呼ばれ、府立一中、一高、帝大国文科(家産傾き中退)と秀才コースを歩む。

    帝大在学中に和辻哲郎、木村荘太らと同人誌「第二次新思潮」発行、誌上に「刺青」を発表し永井荷風に認められる。

  • 以後続々と耽美主義的、マゾヒズム的女性崇拝を追求した作品を発表、文豪とまで称されるようになる。芸術観についての芥川龍之介との論争、最初の千代夫人の佐藤春夫との夫人譲渡事件は有名。<br /><br />代表作に「痴人の愛」、「春琴抄」、「蓼喰う虫」、「細雪」、「鍵」、「卍」、現代語訳「源氏物語」等。

    以後続々と耽美主義的、マゾヒズム的女性崇拝を追求した作品を発表、文豪とまで称されるようになる。芸術観についての芥川龍之介との論争、最初の千代夫人の佐藤春夫との夫人譲渡事件は有名。

    代表作に「痴人の愛」、「春琴抄」、「蓼喰う虫」、「細雪」、「鍵」、「卍」、現代語訳「源氏物語」等。

  • その先、右に曲がったところに中央区立日本橋小学校、日本橋図書館があります。

    その先、右に曲がったところに中央区立日本橋小学校、日本橋図書館があります。

  • ここに西郷隆盛の住まいがありました。

    ここに西郷隆盛の住まいがありました。

  • 明治維新後鹿児島に引っ込んでいた西郷は新政府から是非にと乞われ上京し、参議となりこの地に住まいを定めました。<br />以降明治6年、征韓論に敗れ下野し鹿児島に帰るまでの2年間をここに住んでいました。

    明治維新後鹿児島に引っ込んでいた西郷は新政府から是非にと乞われ上京し、参議となりこの地に住まいを定めました。
    以降明治6年、征韓論に敗れ下野し鹿児島に帰るまでの2年間をここに住んでいました。

  • 路地の中に藪そばがあったので昼にしました。<br />神田、並木、池之端藪そばの系統だそうです。

    路地の中に藪そばがあったので昼にしました。
    神田、並木、池之端藪そばの系統だそうです。

  • 人形町藪そば。<br />もりそばにしました。600円。

    人形町藪そば。
    もりそばにしました。600円。

  • 人形町通りに戻るともう一つからくりやぐら時計があります。

    人形町通りに戻るともう一つからくりやぐら時計があります。

  • 江戸落語からくり櫓。人形町は落語の寄席「人形町末広」があったところです。

    江戸落語からくり櫓。人形町は落語の寄席「人形町末広」があったところです。

  • 江戸落語をモチーフにしています。

    江戸落語をモチーフにしています。

  • 午前11時から午後7時まで、毎正時に約2分間人形たちが動きます。

    午前11時から午後7時まで、毎正時に約2分間人形たちが動きます。

  • 平成21年設置。

    平成21年設置。

  • 通りはハロウインの売り出し中です。

    通りはハロウインの売り出し中です。

  • 明治33年頃の人形町。<br />山本松谷:新選東京名所図会より。<br /><br />土蔵造りの商店が並ぶ。人は人力車に乗り、荷物は大八車で運んでいる。東京に人力車が現れたのは明治3年で、たちまちのうちに駕籠を駆逐しました。<br />自動車は明治30年代にポツポツ輸入が始まり、40年以降にすこしづつ普及し始めます。<br /><br /> <br /><br /><br /><br />

    明治33年頃の人形町。
    山本松谷:新選東京名所図会より。

    土蔵造りの商店が並ぶ。人は人力車に乗り、荷物は大八車で運んでいる。東京に人力車が現れたのは明治3年で、たちまちのうちに駕籠を駆逐しました。
    自動車は明治30年代にポツポツ輸入が始まり、40年以降にすこしづつ普及し始めます。

     



  • 水天宮の交差点に来ました。

    水天宮の交差点に来ました。

  • 角に重盛永信堂の店。<br />先に見た板倉屋とともに人形焼きの老舗です。大正6年創業。<br />人形焼きとゼイタク煎餅が人気だそうです。

    角に重盛永信堂の店。
    先に見た板倉屋とともに人形焼きの老舗です。大正6年創業。
    人形焼きとゼイタク煎餅が人気だそうです。

  • 向こう角に水天宮。

    向こう角に水天宮。

  • 入り口は人形町通りです。

    入り口は人形町通りです。

  • 入り口。

    入り口。

  • 久留米藩主有馬家が1818年、久留米の水天宮(水天宮の総本社)を江戸芝赤羽橋の上屋敷に勧請したもの。明治5年当地に移転。<br />祭神は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇、建礼門院(平清盛の娘、安徳天皇の母)、二位の尼(清盛の正室)。どうやら水天宮は平家方のようです。<br />

    久留米藩主有馬家が1818年、久留米の水天宮(水天宮の総本社)を江戸芝赤羽橋の上屋敷に勧請したもの。明治5年当地に移転。
    祭神は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇、建礼門院(平清盛の娘、安徳天皇の母)、二位の尼(清盛の正室)。どうやら水天宮は平家方のようです。

  • 水天宮は水神を祀る神社で、水の守護神、水難除け、安産、子授けの神です。

    水天宮は水神を祀る神社で、水の守護神、水難除け、安産、子授けの神です。

  • お宮参り、七五三の家族で賑わっていました。

    お宮参り、七五三の家族で賑わっていました。

  • 真新しい社殿は遷座200年を記念して建て替えられ、今のは平成28年築です。

    真新しい社殿は遷座200年を記念して建て替えられ、今のは平成28年築です。

  • 手水舎。

    手水舎。

  • 吐水口には龍が多いが、龍は水にまつわる神、龍神だからでしょう。首を長く伸ばした形も丁度よい。

    吐水口には龍が多いが、龍は水にまつわる神、龍神だからでしょう。首を長く伸ばした形も丁度よい。

  • 狛犬はブリジストンの創業者石橋正二郎の奉納だそうです。久留米出身です。

    狛犬はブリジストンの創業者石橋正二郎の奉納だそうです。久留米出身です。

  • 寳生弁財天。

    寳生弁財天。

  • 明治33年頃の水天宮。<br />山本松谷:新選東京名所図会より。<br /><br />縁日であろうか、人力車で大挙参詣に来ている。露店がずらっと並んでいる。<br /><br />

    明治33年頃の水天宮。
    山本松谷:新選東京名所図会より。

    縁日であろうか、人力車で大挙参詣に来ている。露店がずらっと並んでいる。

  • 参道入り口。<br />ここまで人形町通りを歩いてきました。全く昔の面影はありませんが、それでも賑やかで、老舗のお店や小さな神社がいくつもあり、なんとなく往時の商人や庶民の活況を想像させる町でした。<br />大門通りは水天宮の裏に続いており、吉原の遊郭はここまで広がっていました。<br /><br />その2に続きます。

    参道入り口。
    ここまで人形町通りを歩いてきました。全く昔の面影はありませんが、それでも賑やかで、老舗のお店や小さな神社がいくつもあり、なんとなく往時の商人や庶民の活況を想像させる町でした。
    大門通りは水天宮の裏に続いており、吉原の遊郭はここまで広がっていました。

    その2に続きます。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • World TraveRunnerさん 2022/01/18 11:00:47
    とても参考になりました(メールの返信挨拶も兼ねて)
    「東京文学・歴史散歩」のタイトル通り、内容の濃い読み応えのある旅行記ですね。
    とても参考になりました。

    メールをいただいたのですが、返信ができない設定だったので、こちらに書き込みをしました。失礼します。

    過去旅の「2016年20日間スイス一周旅」も詳しく大変興味が持てたので、コロナ禍が収束したら、次はスイスに行こうかとも考えています。
    私はまだ”4travel”を始めたばかりなので、しばらくは過去旅ばかりですがよろしくお願いします。

    ベーム

    ベームさん からの返信 2022/01/18 16:43:48
    Re: とても参考になりました(メールの返信挨拶も兼ねて)
    World TraveRunner さん、

    拙い私の旅行記読んでいただき有難うございます。
    過去旅の材料をお持ちで羨ましいですね。私はもうアップする種を持ち合わせておりません。文学歴史散歩も続けられるか、寂しい限りです。
    今後もご検討お祈りします。

        ベーム

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