2019/06/25 - 2019/06/25
206位(同エリア389件中)
杏仁豆腐さん
今日は、水道橋から坂を巡り、早稲田まで歩きました。
小石川後楽園の脇の道を通り、小日向を歩き、鳩山会館へ。
鳩山会館はとてもおしゃれな洋館。ステンドグラスも素敵でした。
気温も上がり、汗を拭きながらの散策でした。
鳩山会館をじっくり見学し、関口フランスパンでランチ。
坂を上がったり、下がったりの散策です。
☆後半はこちら
水道橋から早稲田まで歩いてみた②☆東京カテドラル関口教会・永青文庫・肥後細川庭園☆2019/06/25
https://4travel.jp/travelogue/11511264
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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東京ドームを眺めながら、小石川後楽園東門。
こちらの門は開いていません。 -
小石川後楽園展示室。
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後楽園内の「見越山」、別名「台の御庭」所在推定地から発見されたもの。表側に「御守殿」、裏側に「天保十一庚子年九月」(1840年)の文字が刻まれています。
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後楽緑道を歩きます。
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小石川後楽園の入口。
江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)です。
国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。 -
小石川後楽園の塀に沿って歩きます。
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安藤坂の交差点に来ました。
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。 -
神田上水跡説明板
神田上水路の説明板がありました。
日本最初の上水といわれる 「神田上水」は、 江戸時代初期徳川家康の命を受けて、 大久保藤五郎忠行が開きました。 井の頭池、 善福寺池、 妙正寺池の流水を落合で合わせ、 目白台下の現在の大滝橋辺りに堰を設けて川の水位を上げて上水とし、 余った水は神田川に(江戸川)に流しました。
上水は、 水戸屋敷(現在の小石川後楽園)を通し、 現在の水道橋東側で神田川に樋を架けて渡し、 神田・日本橋方面に給水しました。 上水は、 明治34年 (1901) 給水を停止するまでの間、 江戸・東京市民の生命の糧として大きな役割を果たしました。
写真の道路は、 神田上水の流路でしたが、 明治の初めに暗渠として道路としました。 通称「水道通り」といい、 旧町名に水道町、水道端の名を残しています。 写真の場所は、 今井坂(新坂)を下りて左折した辺りです。 -
今井坂
『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
今井坂のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
この坂の上、西側一帯は、現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生れた、小石川水戸屋敷に近いこの地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹のみである。
この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 超空) -
徳川慶喜屋敷跡碑
徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜(1837~1913)は、水戸徳川藩主斉昭(なりあき)の七男として、小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。
一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍に就任。
翌年、大政を奉還したが、鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順(きょうじゅん)の意を表し、水戸にて謹慎の後、駿府(すんぷ)に隠棲(いんせい)した。
明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901)この地に移り住んだ。
慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。
享年76歳。 -
本法寺です。浄土真宗大谷派寺院。
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高源山随自院本法寺は、東本願寺の末寺で、真宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。
夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。明治一四年一月に母、二〇年三月に長兄、六月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊っちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。
境内には、早稲田大学第一四代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。 -
境内には漱石の句碑があります。
梅の花 不肖なれども 梅の花 -
善仁寺です。浄土真宗本願寺派寺院。
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鐘楼
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坂を上って、小日向神社。小日向神社は、当社付近にあった氷川神社と八幡神社とが合祀して明治2年に小日向神社となったといいます。
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小日向神社の前の服部坂(はっとりざか)。
坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。
永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。……」と書いている。
坂下にある旧文京区第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。 -
坂を上れば、小日向の住宅街。閑静な雰囲気です。
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鳩山会館の裏道に出ました。
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八幡坂(はちまんざか)
『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と東京名所図会にある。
明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。 -
八幡坂を下ります。
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今宮神社の脇に出ました。
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今宮神社
今宮神社は、元禄10年(1697)桂昌院殿の発願により、護国寺建立に際して、同所に京都柴野今宮神社より御分霊を迎えて創建、明治6年当地に遷座したといいます。 -
鳩山会館に着きました。
門は音羽通りに面しています。 -
坂を上ります。
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なかなかきつい坂です。
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玄関に到着。
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汗が出ます。
入館料600円。 -
堂々としたエントランスです。
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応接間のソファーで休憩。汗を拭きます。
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おしゃれなスタンドです。
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応接間のビデオで鳩山会館の説明を流しています。
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文京区の音羽の丘に鳩山家の美しい洋館が姿を現したのは、関東大震災の翌年大正13年。
鳩山家は、衆議院議員の和夫(1856~1911)、総理大臣となった一郎(1883~1959)、外務大臣をつとめた威一郎(1918~1993)、さらに衆議院議員の由紀夫(1947生れ)、邦夫(1948生れ)、と四代にわたり指導的な政治家を生み育てました。
この洋館を建てたのは一郎で、ここを舞台に、戦後政治の画期となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行なわています。
設計を手掛けたのは一郎の友人の岡田信一郎(1883~1932)で、大正・昭和初期を代表する建築家として知られています。 -
ステンドグラスがきれいです。紋章です。3羽の鳩がデザインされています。
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こちらも応接間。
鳩山一郎の没後、傷みがひどくなったけれど、このたび大修復を加え、往年の輝きを回復しました。修復に当たり、一郎、その夫人で教育者の薫、威一郎を記念する部屋を設け、公開されることになりました。バラの庭を前に建つイギリス風の外観、ハトをモチーフとするステンドグラス、アダムスタイルの応接室、朝倉文夫作の和夫、春子夫妻像、などなど見るべきものはたくさんあります。 -
鳩山由紀夫像。
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鳩山一郎愛用の椅子。
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食堂です。
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食堂から見た応接間。
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サンルームです。庭園に面しています。
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こちらから庭園に出ることができます。
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1階の応接間2部屋と食堂は、洋風建築でありながら、360度回転する扉により3部屋を開放して使用できるように設計してあります。広いサンルームとの間仕切りの上には、ステンドグラスがあります。
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廊下から見た玄関。
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2階に向かう階段。
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階段の踊り場には、小川三知のステンドグラスの傑作があります。法隆寺の五重塔の上空を舞う鳩の群。見事です。
2017年9月の日本経済新聞「何でもランキング 秋にきらめくステンドグラス」において、国会議事堂に次いで第2位とされている作品です。塔の部分は、2枚のガラスを重ねることで立体感を出す工夫がされています。 -
重厚な雰囲気の階段。
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お見事です!!
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階段を上ったところに鹿。
外壁の鹿の劣化が進んだため取り外したものです。
現在はレプリカが外壁を飾っています。 -
バルコニーに出てみると、鹿がいました。
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バルコニーから外を眺めると、マンションが乱立しています。
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緑とマンションに囲まれた鳩山会館です。
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2階の大広間では、渡邉暁雄生誕100年写真・資料展を開催していました。
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日本フィルハーモニー交響楽団常任指揮者として活躍された渡邉暁雄生誕100年展。
渡邉暁雄は鳩山一郎五女と結婚、館長鳩山友紀夫の叔父にあたります。 -
1階サンルームに戻りました。
庭に出てみます。 -
鳩山一郎は戦後総理大臣を務め、1956年に日ソ共同宣言に調印し、旧ソビエト連邦と国交を回復した政治家です。
吉田茂をはじめ数々の政治家が鳩山邸を訪れています。
戦前戦後の日本の政治史をたどることができる歴史的な建造物です。 -
鳩山一郎の父である鳩山和夫の銅像。
和夫は早稲田大学校長や衆議院議長を歴任した人物です。
和夫の銅像の横には、妻である鳩山春子の銅像があります。
共立女子職業学校(のちの共立女子学園・共立女子大学)の創設者の一人です。 -
大きな鯉が泳いでいます。
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鳩山一郎氏の銅像。視線は、遥か遠くのロシアを眺めているそうです。
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庭園の薔薇はもう終わりです。
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おしゃれな洋館です。
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鳩山会館はドラマのロケ地としても有名です。
花より男子(2005年、TBS)
ハゲタカ (2007年、NHK)
リッチマン、プアウーマン(2012年、フジテレビ)
花子とアン (2014年、NHK) -
鳩山会館を出て、少し歩き、関口フランスパンに到着。
こちらでランチです。 -
130年の伝統を持つ老舗パン屋です。お店は目白坂にあります。テープのニチバン本社ビルの1階です。
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ここのフランスパンが誕生したきかっけはとても古く、明治20年にローマ法王の使者が来日した頃までさかのぼるそうです。
使者とともにやってきた ある神父が、教会経営の孤児院の子供たちに何か仕事を身につけさせようと考えた結果、「パン作り」を思いついたとか。そこで子供たちの中から1人を選び、フランス領インドネシアに留学させました。もちろん、パン作りの技術を学ばせるためです。
やがて その子供が帰国し、後に教会内に製パン工場を作ったのだとか。それが1888年のことです。 -
ランチのハンバーグサンドをいただきました。
ジューシーな肉厚のハンバーグです。 -
アイスコーヒーがついて、900円。
店内はご近所のマダムたちで賑わっていました。 -
ランチと休憩で体力、気力とも回復しました。
関口フランスパンを出ると、目白坂。
西方清戸(清瀬市内)から 練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り,このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
この坂の南面に,元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも3代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。
坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し,不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
目白台の空を真北にわたる雁
稀に見る雁の四・五十羽かも 窪田空穂(1877-1967)
カトリック東京カテドラル関口教会に向かいます。
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