2019/05/30 - 2019/05/30
300位(同エリア641件中)
杏仁豆腐さん
以前から行きたいと思っていた、忍城とさきたま古墳群。この二つの目的地を目指して車で出かけました。
まずは忍城。見に来る人も少なく、閑散としていました。ついでに行田の街を少し散策。
さきたま古墳公園に移動。予想より気温も上がり、汗をかきながら古墳群をめぐりました。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
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忍城に到着。まずは行田市郷土博物館に入ります。
行田市郷土博物館は忍城の本丸の跡地に1988年(昭和63年)2月にオープンしました。 -
博物館では古代の行田から現代まで、実物の資料を数多く展示しています。
この通路を通って、御三階櫓の博物館へ向かいます。
忍城には江戸時代、天守に相当する御三階櫓が築かれていましたが、明治時代に破却されました。
1988年(昭和63年)、本丸跡に行田市郷土博物館が建てられ、その一部として御三階櫓が再建されています。 -
御三階櫓からの景色。
忍城には江戸時代、天守に相当する御三階櫓が築かれていましたが、明治時代に破却されました。
1988年(昭和63年)、本丸跡に行田市郷土博物館が建てられ、その一部として御三階櫓が再建されています。
市役所が見えます。 -
遠くに赤城山や秩父連山も見えます。
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いい眺めです。
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今日は暑くなりそうです。
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エントランスホールに戻ってきました。
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忍城の鐘
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忍城の鐘
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城門
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忍城の由来
忍城は文明十年(一四七八)頃、成田顕泰(あきやす)により築城された「守り易く攻めにくい」難攻不落の名城であったと伝えられている
天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の関東平定の中で戦われた石田三成による忍城水攻めにも耐えこの城は水に浮くのかと恐れられ「忍の浮城」とも称されたという
寛永十六年(一六三九)時の老中 阿部忠秋が入城し忍城大改築に着手 孫の正武(まさたけ)の代にいたり忍城御三階櫓の建設 城門 土塀の修築などが完成し面目を一新したという
文政六年(一八二三)伊勢の桑名から松平忠堯(ただたか)が移封し忠誠(ただざね)のとき明治維新を迎えた
市では維新後とりこわされていた城郭の面影を再建し永く後世に伝えることになった -
先ほど上った御三階櫓
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忍城
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二の丸東側は遊歩道となっており、冠木門が建てられています。
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市役所脇の径。
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行田の街には「足袋蔵のまち行田」が掲げられています。
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行田市内の国道125号線沿いに並ぶ櫓の上では、昔ながらの遊びに興じる銅人形でできた童たち(全39基)の姿が見えます。
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徳川幕府をささえたのは忍城主
江戸幕府三代将軍徳川家光の両腕となっていたのが、「知恵伊豆」といわれた松平伊豆守信綱と阿部豊後守忠秋である。忍城主はこの二人をはじめ七名が老中となっている。酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋、正能、正武、正喬、正充である。老中は、現代でいえば内閣の主要閣僚であり、信綱、忠秋、正武は相理大臣ともいうべき老中首座に就任している。まさに忍城は「老中の城」であり、城主の老中輩出数、在任期間において、全国の他の藩の追随を
許さない。 -
武蔵野銀行行田支店店舗
登録有形文化財(建造物) -
銀行の前には御高札場跡
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観光情報館ぶらっとぎょうだ
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忍城と国道をはさんで反対側にある忍東照宮。
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拝殿に掲げられた社額
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諏訪神社
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多度社・一目蓮社
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忍城櫓の石垣
城内にあった櫓に使用された石垣。
元禄十五年(一七〇二)に三階櫓一棟、二階櫓二棟が建てられたが、明治六年(一八七三)の廃城により解体された。 -
伝進修館表門
忍藩の藩校であった進修館の表門。明治維新後、城下の民家に一度移築されていたそうです。
さて、次の目的地であるさきたま古墳公園に向かいます。 -
さきたま古墳公園に到着。
車を駐車場に停めて、埼玉県さきたま史跡の博物館に入ります。 -
国宝展示室です。写真はOKです。
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国宝金錯銘鉄剣(こくほうきんさくめいてっけん)です。
100年に一度の大発見と言われた鉄剣は、保管と同時に展示も可能な鉄の酸化を防ぐための特別なケースの中にかざられています。 -
稲荷山古墳第1主体(礫槨)の出土品。剣身の中央に切っ先から柄(つか)に向かって、表面57文字、裏面58文字の計115文字の銘文が刻まれています。古墳時代の刀剣に刻まれた銘文としては最長です。
冒頭の「辛亥年(しんがいのとし)」は西暦471年と考えられ、作刀者の「ヲワケの臣(しん)」の8代の系譜、「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」の職について「ワカタケルの大王(おおきみ)」(雄略天皇か?)の政治の補佐役を務めたことが書かれています。 -
画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)
埼玉古墳群の稲荷山古墳第1主体(礫槨)出土品。鏡の一部に赤色顔料が付着しています。鏡を包んでいた布の痕跡がわずかに残ります。外区には竜や虎、亀、馬車などが神仙を乗せて走っている画像。太陽や月の運行が描かれ、内区には東王父・西王母・伯牙弾琴など4人の神仙とそれらを背中に乗せる竜や虎が描かれれいます。中国の道教思想に基づく画像表現です。
なかなか見ごたえのある国宝展示室です。 -
旧遠藤家です。
江戸時代末期に建てられた民家を幸手市千塚から移築しました。 -
中にも入れますが、家に上がることはできません。
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豪農です。
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広い土間。
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瓦塚古墳
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埼玉県名発祥之碑
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はにわの館
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愛宕山古墳
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丸墓山古墳
丸墓山古墳は、直径105m、日本最大級の円墳として有名です。墳丘の高さは埼玉古墳群で最高、山のようです。
登ってみます。 -
丸墓山古墳の上から見おろすと。
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なかなかのいい眺めです。
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古墳群が一望できます。
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豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、秀吉の備中高松城水攻めにならい忍城を水攻めにします。その際、城がよくみえるこの古墳の上に陣を張りました。
現在駐車場から古墳へと続く道は、その際築かれた堤防の跡といわれています。いわゆる「石田堤」です。 -
稲荷山古墳です。
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で最初に出現した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。 -
稲荷山古墳も登れます。
前方部は1937(昭12)年に土取で壊されてしまいましたが、1997(平9)年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のカタチを見ることができます。 -
今日は暑いので、汗が流れます。
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古墳群を見渡します。
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後円部分に行きます。
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向こうは前方部分です。
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墳頂部の礫槨(れきかく)。
陶板で、発掘調査当時の様子を再現しています。 -
さきたま風土記の丘を整備するために、1968(昭43)年に稲荷山古墳の後円部を発掘調査したところ、頂上から2基の主体部(人を埋葬した施設)が発見されました。
ここからは、表面に57・裏面に58の文字が刻まれた金錯銘鉄剣や甲冑・馬具などの副葬品が出土しました。 -
解説板もあります。
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とても静かです。
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古代蓮の里の展望タワーが見えます。
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将軍山古墳
6世紀後半に築かれた全長90mの前方後円墳です。明治時代に後円部にあった横穴式石室が発掘され、馬具や環頭太刀など豊富な副葬品が出土しました。
崩落した墳丘部分をドームで覆い、古墳の内部に入って複製の石室や遺物の出土状況を見学できるガイダンス施設を建設し、1997(平9)年に将軍山古墳展示館としてオープンしました。 -
将軍山古墳展示館の2階の再現石室では、人が横たわり、副葬品(復原)が並べられたリアルな様子から、埋葬当時の石室を知ることができます。
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騎馬武者
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前方部墳丘断面のようす
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二子山古墳
汗だくになりながら、古墳巡りをしました。 -
ランチは古墳巡りをする前に、元祖 田舎っぺ さきたま古墳店で。
さきたま古墳公園のすぐそばです。 -
埼玉県北部では絶大な人気を誇るうどん店です。
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なす汁もりうどんです。
温かい汁に茄子がたっぷり入っています。 -
讃岐うどんのようなコシではありませんが、なかなか美味しいです。
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汁もそれほどしょっぱくなく、食べやすいです。
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パートを募集していました。
100歳までOKです。
確かに店内で働いていた女性も高齢の方がいました。
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