2016/05/13 - 2016/05/13
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2016年5月8日から6月10日までの1か月ちょっと、スペインとポルトガルを一人旅しました。もう2年以上経ってしまったけれど、思い出しながら綴っていこうと思います。
スペインは言わずもがなカトリックの国です。イタリアで教会の素晴らしさを知ってしまった私にとって、今回の旅の目的は、1.教会を訪れること、2.美術館で絵を眺めること そして最終目的地をサンチャゴ・デ・コンポステーラにすること でした。特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、神を畏れ、神を敬うことによって、人間達が生み出した様々な創作物・文化を心より愛してやみません。
古来より何百万もの人々が時に命さえかけて目指したコンポステーラの町、そしてその道中(El Camino)は宗教観が異なる者にとっても大変魅力的でした。可能であれば長い巡礼の道を歩いて行きたかったのですが、体力的にバックパッカーは難しい。でも、徐々にコンポステーラに近づくことによって、巡礼者の気分を少しだけでも味わいたいという、無理難題、大変我儘な希望を叶えるために、作成したのが、な~んちゃって、コンポステーラ! 巡礼者の方には合わせる顔がないのですが、以下のようなプランが出来上がりました。
今回の旅はスペインの後、ポルトガルへと続いたのですが、私の頭の中では旅は一旦サンチャゴ・デ・コンポステーラでお終い。そこからまた新たな旅が始まったと思っています。こじつけ、そして自己満足の塊のような旅となりましたが、よろしければお付き合いください。
日程表 スペインの部
5月8日(日) 東京→マドリッド
5月9日(月) マドリッド
5月10日(火) マドリッド(セゴビア)
5月11日(水) マドリッド(アヴィラ)
5月12日(木) マドリッド(エル・エスコリアル)
5月13日(金)★ マドリッド(アルカラ・デ・エナーレス)
5月14日(土) マドリッド→ブルゴス→ビルバオ
5月15日(日) ビルバオ
5月16日(月) ビルバオ(サン・セバスチャン)
5月17日(火) ビルバオ(ヴィトリア)
5月18日(水) ビルバオ→オヴィエド
5月19日(木) オヴィエド
5月20日(金) オヴィエド→レオン
5月21日(土) レオン
5月22日(日) レオン→アストルガ→レオン→サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月23日(月) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月24日(火) サンチャゴ・デ・コンポステーラ
5月25日(水) サンチャゴ・デ・コンポステーラ(→ポルトガル)
後ろ髪を引かれつつも、それを何とか振り切って、国立考古学博物館を後にします。ちょうど博物館の裏手に、RENFEの近郊列車(セルカニアス)の駅レコレトスがあります。今日もプラドの夜間公開に行くつもりだったのですが、まだ夕方には早いし、マドリッド滞在最終日だし、よーしここから列車に乗って、アルカラ・デ・エナーレスに行こう!と、思い立ったのです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「大学のある古い町で、とてものんびりしていて良いよ」と友人には聞いていたのですが、最初のスケジュールにはない、急な思い付き(いつものことです・・・)だったので、何にも調べないうちにアルカラ・デ・エナーレスに到着してしまいました。セルカニアスのC7で、レコレトス駅から45分くらいかかりました。
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アルカラは、アラビア語の「城」の意味で、12世紀に築かれた砦が町名の由来になっているんですって。イスラムからの国土奪還後早いうちに司教座がおかれた町の一つです。コロンブスは1480年代、最初の航海前に、この町で資金提供者であったカトリック両王イサベラとフェルディナンドに謁見しています。
その後15世紀から16世紀にかけて、この町には計画的な大学都市が作られていきます。世界遺産には「世界で最初の大学都市が計画的に作られた街」として登録されていますよ。もっと古い大学都市と言うのは他にいくつもありそうだけれど、計画都市だったことが評価されたんですね。 -
駅からすぐのところに、いきなりムデハル様式の宮殿が現れたので、びっくり。これは何でしょう?
帰ってから調べたら、1882年に建てられたラレド邸Palacete Laredoだということが分かりました。カラヴィスタ産レンガをふんだんに用いた外観に圧倒されました。 -
正確にはネオ・ムデハルと言う建築様式だそうです。19世紀末から20世紀初頭にかけて、イベリア半島で流行した様式です。案外新しいんだ!
現在はこの建物、アルカラ大学の管理下に置かれていて、16世紀のトレドの 枢機卿で大司教だったフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロスの博物館になっているようです。 -
少し離れたミナレットがこの空間の主役。これがあるとないでは大違い。時間がなかったので通りすがりでしか見られなかったのが残念ですが、中には素敵な庭園もあるんですって。
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駅からエスタシオン通り(文字通り駅前通り)を歩いて、大きなラウンドアバウトを越えた辺りを右手に入ると急に低層階の建物が続く通りになります。このリブレロス通りをずっと行くと、そのまま旧市街のメインストリートになります。
赤い葉をつけた街路樹が印象的でした。これは桜だと聞いたことがありますが、日本には赤い葉の桜があるのかなあ… -
途中にあったサンタ・マリア・ラ・マヨール教会です。扉は閉まってました。
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暫く行くと、この赤い街路樹が切れる辺りに、えっ! ここはボローニャ? と勘違いするようなポルティコ(柱廊)が現れます。ポルティコ付きの商店街としてはスペインで一番長いのだそうですよ。
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通りの名前はマヨール通り(メインストリート)に変わります。ベアタス通りを越してから先は車は進入禁止となるので、安心して歩けるようになりますよ。
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急に雰囲気が一変しましたね。人通りが少ないので閑散として見えますが、多くの人達はポルティコの中を歩いています。見事な柱廊の商店街が続いていますよ。道路も古ぼけた石畳になりましたね。
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3階建てのレンガ造りの建物が両側に長く伸びています。共通するのは鋳鉄製のフェンスのあるバルコニー。一部は出窓に改造されていますね。
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この辺りは、建物の外観は手直しをされてモダンに見えるけれど、ポルティコの柱はかなりの古さを感じさせます。
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ちょっとぉ 大丈夫なのかな? と思われる柱もありましたよ、柱頭が欠けています。地震のない国ならではですかね。
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あまり綺麗に撮れていないけれど、外壁に壁画のある建物ですね。。柱もだいぶ年季が入っています。
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片方の柱廊が途切れたところに、オスピタル・アンテサナがありました。ご存知のように、オスピタルとは病院と言うよりホスピタリティ=貧しい人や病人や巡礼者の世話を行う救護院・無料接待所と言うべき性格の場所が多いのですが、こちらは病院的な色彩が強いように思いました。1483年設立と言いますから、ヨーロッパでも一二を争う古いオスピタルと言うことになります。貧しい人々を助けるためのオスピタルは、その後中世の裕福で信仰心の厚い家族によって次々と創設されていきます。
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オスピタルの正面に掲げられた看板には、「1526年、アルカラ大学の学生だったイエスズ会の創設者イグナチオ・ロヨラはこのオスピタルに住んでいた」と書かれていました。彼は看護師そして調理担当として、ここで働きながら大学に通っていました。彼が使った台所がまだそのまま残されているそうです。
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このオスピタルでは、かつてロドリゴ・デ・セルバンテスと言う外科医も働いていました。そう、偉大な作家ミゲール・デ・セルバンテスの父親です。
こちらがオスピタルの正面。扉の上に1483年設立の文字が見えますね。 -
中には行ってみたのですが、この先には行かずじまいでした。ガイドブックには展示室があると書かれていましたが、この時点でもう5時40分でしたので、閉館していたのかもしれません。全く人気がなかったので、進むことを躊躇してしまいました。
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二重のムデハル様式の庇が特徴である中庭を囲んだ建物があると書かれていましたが、・・・
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この先、行っても良いのかしら? 住居侵入だったらどうしようと、あと数m足が伸びませんでした。結果、古き良き時代の中庭を見損なってしまいました。
オスピタルの運営母体となっている「慈悲の聖母財団」によると、2011年までは高齢の女性23名がここで療養されていたとのことです。現在はどうなったのでしょうね? -
で、オスピタルのお隣が、現在は博物館となっているセルバンテスの生まれた家です。そう、この町はドン・キホーテを著したセルバンテスの生まれ故郷としても有名でしたね。
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入場は無料ですが、建物への鉄扉は閉まっていました。大変恥ずかしいことに、このスペインの偉大な作家について、殆ど知識を持ち合わせていないため、がっかりはしませんでしたが、「グレゴリオ・プリエートによるエル・キホーテ」という特別展が行われていて、これは見たかったなと言うのが本音です。
中央に掲げられた垂れ幕の中にも風車が沢山描かれていました。
グレゴリオ・プリエートはピカソやミロ、ダリなどと共にスペインを代表する画家で、ラマンチャ地方などにある風車の保存に尽力した人としても知られています。 -
セルバンテスの生家前に置かれたお馴染みドン・キホーテと従者サンチョ・パンサ。ドン・キホーテの出版400年を記念して、2005年に彫刻家Pedro requejo novoaが製作しました。サンチョ・パンサが難しい顔をして腕組みしているのが気になりますなあ・・・ また、ドン・キホーテが無理難題を持ち出したのかな。
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二人の間に腰を掛けて、にっこり笑って写真を撮ってもらうのが定番らしいですよ。
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セルバンテスの生家とその隣のオスピタル・アンテサナ全景です。博物館では入館者が体験できるよう、セルバンテスが生きた16世紀~17世紀にかけての日常生活や活動が再現されています。 また、さまざまな言語でセルバンテスの著作物を紹介するコーナーもあるようです。セルバンテスを読んだことがない人でも楽しめそうです。
やはり、少々やって来るのが遅かったですねえ・・・ -
気を取り直して、もう少しこの古い通りをうろつきましょう。
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ミゲール・デ・セルバンテスの父ロドリゴは、ユダヤ系だったという説がありますが、アルカラ・デ・エナーレスのこの辺りの地区には、ユダヤ人街であったことを示す市役所のプレートが掲げられていました。
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こちらのプレートには、シナゴーガ・マヨールと書かれていました。アルカラ・デ・エナーレスには二つのシナゴーグがありましたが、そのメインの方のシナゴーグの入口です。
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狭い通路を抜けた先には・・・
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小さな居心地の良い広場がありました。シナゴーグの痕跡は何一つ残ってはいませんが、狭い通路が見知らぬ世界への連絡口のような気がして、少しドギマギしました。
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表通りに戻ると、柱に沿って設置されている雨どいの先が龍の頭になっているのを発見! 雨が降ると、ここでは龍が勢いよく水を吐くんですねえ。
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ほらっ! 通りの向かい側にも、龍の雨どいが並んでいますよ!
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少々暗いけれど、カンカン照りの日も雨の日もポルティコは大変便利。それに意外と幅がありますね。イタリアボローニャでは、馬に乗った人が二人連れ立って通れる幅と決められていたけれど、ここでもそうした決まりがあったのかしら?
先人の残した知恵と工夫を今も大切に使っているのを目の当たりにして、羨ましいものを感じました。 -
この辺で通りを戻って、先ほど現れた大きな広場をみてみましょう。
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その名もずばり、セルバンテス広場です。
広場の両側には、夏になると恐らく緑のアーチになるよう刈り込まれた白い幹の木々がずらりと並んでいました。中世の頃からここには市場があって、毎日大勢の人々でごった返す賑やかな町の中心地だったそうです。お祭りの際には闘牛場にも使われたんですって! -
周りの建物が低いので、空がこんなに広くて青い!
白い木々のアーチの内側には、低木の植栽、そして如何にもスペインと言った雰囲気の街路灯がぽつんと立っていました。 -
更に広場を進むと、いらっしゃいましたよ。ミゲール・デ・セルバンテスさん。この町で生まれたセルバンテスは1547年10月9日に、市内の聖マリア教会で洗礼を受けました。毎年10月になると、セルバンテス週間が開催されるのはこの洗礼の日の記録が残っていたからなんですね。
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ちなみに、彼が洗礼を受けた聖マリア教会はスペイン内戦では破壊されてしまいましたが、広場の奥、銅像の背後にありました。現在は正面に見えている高い鐘楼、そして左奥に見えるオイドー礼拝堂のみが残っています。このオイドー礼拝堂には、彼が使った聖水盤が残っているとか。
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広場の中程を大きなファサードが残っている方に曲がってみましょう。
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アルカラ大学で最も古い建物の一つと言われているサン・イルデフォンソ礼拝堂のファサードです。イルデフォンソは7世紀のトレドの司教で、665年12月18日に、聖母マリアが彼の前に直接現れ、聖職者の法衣を授けたという「奇跡」話が伝わっています。
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シンプルなファサードは石灰岩製で、16世紀中頃の建造。見上げたファサードの一番高い所には、青空に映えるコウノトリの巣がありましたよ! 残念ながら、肝心の鳥の姿は見当たりませんでした。
教会の扉は残念ながら固く閉ざされていました。 -
で、その先にあったのがコレヒオ・デ・サン・イルデフォンソ。 アルカラ大学のメインとなるカレッジです。駅前で偶然、フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス枢機卿の博物館を発見しましたが、彼とこのアルカラ大学には深いつながりがあるのです。
アルカラ大学の前身は1293年に設立されましたが、シスネロス枢機卿はこれを1499年にユニバーシティ(正確にいうと、アルカラ大学の前身であるコンプルテンセ大学。現在はマドリッドにある)としました。要は総合大学ですね。そのアルカラ大学で最も有名と言っても過言ではないカレッジがこちら、サン・イルデフォンソです。 -
こちらのアルカラ大学のメインとなる建物、スペインルネサンス建築の傑作と言われています。ファサードの建造は1537年になってから、 Rodrigo Gil de Hontañón(発音難し~!) によって行われました。この建築家はセゴビア大聖堂、サラマンカ大聖堂を設計したことでも知られています。先ほどのサン・イルデフォンソ礼拝堂の壁とは色が違いますが、このファサードで使われている石も石灰岩ですって。
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中央扉前では「絵になる二人」が談笑中。
扉が開いていたので、今度は迷わず中に入っちゃいました。 -
扉を進んでいくと、現れたのがこちらの中庭サント・トマス・デ・ヴィリャヌエヴァのパティオです。ヴィリャヌエヴァはアルカラ大学の初期卒業生で、1658年に列聖されています。
左右対称を破る糸杉がニクイ演出ですねえ。 -
連続するアーチは3階建てで、上階に行くにつれて高さが低くなっています。1階部分と2階部分がドーリア式。3階部分はイオニア式ですねえ。
一番高い場所に、シスネロス枢機卿発見(Francisco de la Dehesaの作品)! -
アーチの中央、そして2階部分のアーチの土台にそれぞれ異なった装飾が施されていました。
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茂みの中央には、ハクチョウのレリーフがある井戸がありました。ハクチョウは、シスネロス枢機卿の家の紋章だそうですよ。
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la Sabiduríaと呼ばれているこの井戸は17世紀の作。いろいろな仕草をしたペアの白鳥が浮き彫りにされています。
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柱の土台の一つに、1662年と彫られていました。改修された年かしら? なんて思いながら回廊を半周。
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3階部分のアーチの上には、ラテン語の碑文が見えていました。クレメンス10世(在位期間1670年~ 1676年)しかわからないけれど、碑文の制作時期が明らかになりますね。
最初のパティオは泥とレンガで作られていましたが、石で改修されたのが17世紀中ごろと聞きましたので、改修記念の碑文かなと勝手に想像。 -
この先に行くと、哲学者のパティオ、聖イルデフォンソの家、カフェテリアがあると書かれていますよ。
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哲学者のパティオは1530年から1535年の間に建てられました。この辺りが哲学科の建物だったというのが名前の由来とされています。
トマス・デ・ヴィリャヌエバのパティオより大きくて、緑が多く、心地よい風に当たりながら瞑想にふけるのにはもってこいの場所でした。 -
最初のパティオに戻って、今度は来た時とは反対側の回廊をぶらつきます。
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La universidad de la sociedad de condueños
これを調べるのに苦労しました。「共同出資者のソサエティの大学」 って一体何だと思います?
1836年にアルカラ(元々の名前はコンプルテンサ)大学がマドリッドに移転すると、アルカラの町の半分以上の建物は空き家となりました。そして1851年には、市はこれらの建物を競売にかけ、購入したアメリカ人富豪らがそれを解体してアメリカに運び出すという事態になったのです。
この時、誰も予想もしなかったことが起きました。何人ものアルカラ市民がグループでお金を出し合い、「共同出資者のソサエティ」を設立して建物を次から次へと購入、それらが国外へと持ち去られるのを防いだのです。素晴らしい!
プレートはそんな歴史を反映してか、やや誇らしげに飾られていました。
ニューヨーク・シティの郊外にあるメトロポリタン・ミュージアムの分館「ザ・クロイスターズ」をご存知ですか? 私は現地に行って、いくつもの回廊に魅了されましたが、それらの回廊が第二次大戦後の傷ついた欧州で、打ち捨てられていた教会や修道院の回廊(ザ・クロイスターズ)だったと知って衝撃を受けたことがあります。アメリカ人富豪達は回廊を買って、それらをそのまま船で本国へと運んだのです。
ですから、アルカラの人々が市の大切な遺産のために尽力したことが分かり、とても感動を覚えました。 -
先ほどファサードの前を通ったサン・イルデフォンソ礼拝堂に行けるかなと思ったのですが、それらしき通路は見つかりませんでした。礼拝堂には、カラッラ大理石で作られたシスネロス枢機卿の墓碑を始め、多くの大学関係者の墓があるそうです。
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少々殺風景な回廊を歩きます。
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壁にかかっていたシスネロス枢機卿の功績を称えるプレートです。彼は宗教人としてだけではなく、有能な政治家、一時期はスペインの摂政も兼ねていて、宗教改革家、十字軍のプロモーター、大学の創立者、印刷機で印刷した初めての聖書への投資家等々、様々な顔を持っていました。一度決めたら、必ず最後まで貫徹する不屈の精神の持ち主で、それだけに敵も多かったと思われますが、略歴を読むだけでもその不屈の精神が伝わってきます。
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サン・イルデフォンソ・カレッジのファサード前の広場まで戻って参りました。普段はガイドツアーで見学できるようですが、時間が遅いから仕方ありませんね。
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サン・イルデフォンソ・カレッジの左隣に建つ「シスネロス」の名がついた建物です。前述したとおり、アルカラ(コンプルテンセ)大学は1836年にマドリードに移転。ここに新アルカラ大学が再設立されたのは1977年の事なので、建物は新しそうに見えます。中には図書館、ラテンアメリカアートの博物館等がありました。
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サン・イルデフォンソ・カレッジの斜め前に建つこちらの修道院はReligiosas Franciscanas Clarisas De San Diegoと言うフランシスコ会系女子修道院。情報不足でこの時は知る由もなかったのですが、この修道院で尼さん達がこしらえるキャンディ・アーモンドは美味しいと評判です。甘すぎず、後を引いて困る味だとききました。ぜひお試しあれ。
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さて、シスネロスは、単に総合大学を設立しただけではなく、大学の町を作りました。アルカラ・デ・エナーレスが世界遺産に登録された理由は、
世界で最初の計画的な大学都市であること
都市計画がアメリカ大陸やヨーロッパでのモデルとなったこと
とされています。これから、彼が作った、大学町の2本のメインストリート、そのうちの1本リブレロス通り(マヨール通り)は先ほど歩いたので、もう1本のコレヒオス通りを歩いてみることにしましょう。
サン・イルデフォンソ・カレッジの壁面を横目で見ながら進みます。 -
柱や窓枠のレリーフが大変緻密。鉄格子もとてもオシャレです。
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図書館の前を曲がった先にあったサン・ペドロ・イ・サン・パブロ・カレッジのプレートです。こちらの建物も16世紀から17世紀と古い! 主としてシスネロスが入会していたフランシスコ会修道士のための神学と芸術の学び舎として設立されたとのこと。ここから30人の司教、トレドの大司教1人、6人のフランシスコ会の代表者が誕生しました。
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シスネロスの図書館に学生たちが入って行きます。ここものぞいて見れば良かったなあ・・・
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左右に大学の建物が立ち並ぶサン・ペドロ・イ・サン・パブロ通りを行きます。突き当りが、リブレロス通りと平行に走るコレヒオス通りです。
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左側はかつての学生寮。壁がだいぶ傷んでいます。
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馬のマークが目立つ「学生のオステリア」は1929年以来の郷土色豊かなカジュアルレストラン。前身は16世紀創立のサン・ヘロニモ・カレッジでした。スペインのパラドールと言えば、高級ホテルと言うイメージですが、ここはレストランだけのパラドールとしてオープンしたそうです。
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「学生のオステリア」のコレヒオス通りに面した入口。こちらがメイン玄関でした。現在もパラドールのプレートがかかっていました。オステリアって、元々宿屋のことなので、こちらでも宿泊できるのかな? と思ったらのですが、レストランだけ???
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コレヒオス通りの向かい側にはパラドールの本館がありました。こちらは16世紀のトマス・アクィナス修道会の建物をメインで利用していて、勿論ホテルを兼ねた施設です。
宿泊したことのある人に尋ねたら、ここの浴室には日本式の洗い場?があったそうですよ! バスタブの横の空間にもシャワーがついていたんですって。ヨーロッパでは見たことないので、どうにもイメージが湧きません。 -
パラドールのレストラン&カフェ サント・トマス。建物は新しそうに見えますが、石積みの台座はかつての修道院時代のものだそう。
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コレヒオス通りを西へ進みましょう。
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この建物は現在刑事裁判所になっています。壁のプレートによると、やはり16世紀から17世紀にかけて建造されたものだそう。
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煉瓦と石を組み合わせた装飾の外観は、セゴヴィアやアヴィラでも沢山見ましたね。
裁判所には入りたくないけれど、その先にある塔のある建物は、大学の建物だったので、前にいた人達について、お邪魔しちゃいました。マラガ・カレッジです。 -
入口入ると直ぐにある2つ並んでいるパティオのうちの1つです。今はガラス張りになっています。
中央にあるのはこの時点ではなんだか分からなかったのですが、後で調べたら、ライオンの口から水が流れる方式の噴水でした。反対側に廻ってみたら一目瞭然だったようです。ミゲル・デ・アルテアガによって設計されたバロック様式の噴水(1769年)でした。 -
表から見えた尖がり屋根の塔が顔を覗かせていました。
ここからもまだライオンは見えてませんね。 -
入って行って良いのかな? どう見ても学生には見えないし・・・
とためらいながらも前に進みます。 -
こちらは窓越しに見えた奥のパティオ。緑濃い広い庭園が続いていました。
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現在マラガ・カレッジには哲学科が置かれています。緑は疲れた頭には何よりのごちそうですね。
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入口付近に二つ並んだパティオのもう片方まで戻ってきました。こちらは、数本の木が生えているだけで、中央には何もありません。
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その二つ並んだパティオの真ん中、吹き抜けとなっているスペースに出ました。ここが先ほど見えた塔の真下なのかしら? と一瞬思いましたが、違いました。私の前に入った3人連れがここで立ち止まって、その内の1人が上を見上げているので、私も真似をします。
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わぁ~ クーポラには絵が描いてありますよ。それも胎児の絵!!!
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イチオシ
楕円形のクーポラの絵は、哲学科に相応しい人間の原型でした。建物内には「無断進入」を咎める人もいなかったけれど、あまり長居をする気にもなれなくて、ここで教会ではついぞ見ることのない類の絵画を鑑賞できたので、満足して引き上げることにしました。なんのこっちゃ!
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コレヒオス通りから一歩入ったところに、これまた素晴らしいファサードを見っけ! デスカルサス=裸足の トリニティ=三位一体 と言う修道院の建物ですが、グーグルマップにはトリニティ・カレッジと書かれていました。修道院なのかカレッジなのか、両方なのかよくわかりません。総合大学が出来た頃は神学、哲学、人文学等が主要な学科だったようですよ。
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迷わず、コレヒオス通りからトリニダ通りに足を向けます。
左側の建物は、先ほどまでいたマラガ・カレッジです。 -
トリニティ・カレッジです。まあ、なんて素敵な建物でしょう! レンガ造りのバロックです!
1601年に設立された裸足のトリニタリソス修道院は、1839年の大学移転後軍隊に払下げとなり、内部がすっかり模様替えされて軍の指令本部となってしまいます。一時期は入口の両脇に装飾的な大砲が置かれたこともあったとか。 -
1996年になってようやく大学によって原形復旧が試みられ。現在は見事に改修が終わり、「 ベンジャミン・フランクリン 」研究所と北米研究センターの本部となっていると聞きました。この建物アルカラ・デ・エナーレスの栄光と挫折を両方味わった典型例とされているようですよ。
内部を覗いてくればよかったなあ・・・と言っても後の祭り・・・ -
そのまま、トリニダ通りを進みます。糸杉並木の先は哲学科の建物。えっ また哲学科??? 哲学科だらけ・・・
脱線しますが、この建物にも、1枚前の裸足のトリニタリソス修道院の屋根にも、コウノトリの巣があったのにお気づきでしょうか? -
哲学と人文学部 という垂れ幕が下がっているから、どうやら間違いなさそう。
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こちらは哲学と人文学部付属の教会サン・ホセ・デ・カラチョロス教会です。17世紀の創建。明らかなバロックの特徴が随所にみられますね。
この教会の屋根の上にも大きな鳥がいますよ。ひょっとしてコウノトリかしら? 結構大きい!!! -
トリニダ通りからマタコレヒオス通りに戻るために、ガジョ通りを歩いています。この通りは今までの通りとはまるっきり雰囲気が異なり、一般の住宅が立ち並んでいます。いずれも2階建てのこじんまりとした建物で、壁のくっついた長屋になっているのが特徴的ですね。
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コレヒオス通りに戻ったところにあったカルメン・カルサド・カレッジ修道院です。フランシスコ・エスピネル神父によって1563年に設立されました。古さが際立っていますねえ。
ここでもコウノトリ発見ですよ! アルカラ・デ・エナーレスがコウノトリで有名なんてどこにも書いていないのに、町中コウノトリだらけです。ラッキーで済みませんね!!! -
1枚上のカルメン・カルサドとは交差点の対角線に建つ聖アウグスティヌス会 Nuestra Señora de la Consolación(慰めの聖母)修道院です。こちらは17世紀の建造。16世紀に女性の駆け込み寺として造られましたが、1668年から1672年の間にアウグスティヌス女性修道院となりました。中にはスペイン語圏では絶大な人気を誇る守護聖人慈悲の聖母Virgen de las Mercedesが祀られています。
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この建物の後ろに廻っていくと・・・
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いましたよ。今度こそ確かにコウノトリ。巣の中には大きくなった雛の姿も!
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イチオシ
大学巡りかコウノトリ詣でか分からなくなってしまいましたね・・・
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再び町の中心マヨール通りへ。この左側の雨どい「龍の口」、はっきりと撮れていました。
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更に西に進むと、マヨール通りの終点が見えてきました。ポルティコの続く町並みともここでお別れ。
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マヨール通りの終点を左に折れると、サントス・ニーニョス広場の脇に同名の町の大聖堂がありました。Catedral Magistral De Los Santos Niñosです。直訳すると聖なる子供達の教師教会大聖堂??? 「教師教会」と言うのは、聖堂参事会の全員がコンプルテンセ大学「教師=マヒスター」の学位をとった会員で構成される教会のことですって。世界でも珍しい教会なのだそう。
でも聖なる子供達っていったい誰の事でしょう? -
304年、ディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害の時代、アルカラ生まれのフスト7歳とパストール9歳は信仰を放棄することを拒み、ここで断首され殉教したと伝えられています。彼らの霊を慰めるために建てられた礼拝堂が大聖堂の前身です。「聖なる子供達」って、このフストとパストールのことだったんですね。現在の大聖堂は、シスネロス枢機卿によって1497年から1514年にかけて再建されたものです。
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イチオシ
スペインに来て初めて、サンティアゴ巡礼路のシンボル ホタテガイ見っけ!
「サンティアゴへの道 コンプルテンセ」と書かれていました。コンプルテンセは、元アルカラ現マドリッドの大学の名前ですが、元々はローマ時代のアルカラの町の名前「コンプルトゥム」からとっていたんです。 -
改めて、聖フストと聖パストール・アルカラ・デ・エナーレス大聖堂(長い! またの名をマヒストラル=教師教会大聖堂)のファサードです。1528年~1582年の間にに建てられたルネサンス様式の塔は、高さ62.05m。 スペイン内戦 (1936年~1939年 )の間に教会は火災で破壊され、多くの放物宝物を失いましたが、1991年にようやく修復を終えて、大聖堂の称号を獲得しました。
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ファサードにはシンプルですが、フランボワイアン(火焔式)様式が取り入れられてていました。控えめなスグラッフィートも採用されていますね。
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中に入ります。早速聖母がお出迎え。
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主祭壇は柵が邪魔をしていて見通せません。主祭壇にはアルカラの守護聖人聖ディエゴ・デ・アルカラ(アメリカ西海岸の町サン・ディエゴはこの方の名前を取って名付けられました。フランシスコ会の修道僧で、その頃征服したばかりだったカナリーアイランドへ派遣され、宣教師として活躍、この町で亡くなった15世紀の聖人です)の棺が置かれていますが、この遺体は決して腐ることがなく、毎年彼の記念日には一般に公開されているそうです。
主祭壇画は1936年の火災で焼けてしまい、現在は何も残っていません。 -
この扉から下のクリプトに下りると、これまた町の守護聖人「聖なる子供達フントとパストール」の聖遺物を拝むことが出来ます。
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クリプトの階段を下りたところです。天井のヴォールトの細工がとても美しいですね。
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こちらが4世紀に殉教したと言われているフストとパストールの聖遺物が収められた骨壺です。。一目で銀とわかる、鈍い光を放つ骨壺自体は18世紀初頭、スレーニョ兄弟によって作られたものだそうです。
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ん~ これは何でしょう? お祭りに使う神輿の台のように見えます。
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最後にもう一度身廊から主祭壇を眺めます。外観同様内部も装飾の少なさが際立ちます。1936年の火事は数え切れないほどの多くの芸術作品を焼失させましたが、そのおかげ? でゴシック様式の構造がよく分かったように思いました。入場しませんでしたが、教会には付設の宝物館があったので、お宝はそこで見られたのかもしれません。
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狭いファサードが独特ですね。62.05mの塔とのコントラストが面白い。
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「聖なる子供達」広場を挟んで建っているのは、サンタ・ルシアの庵Ermita De Santa Luciaと呼ばれる建造物。現在の建物は17世紀にバロック様式で建てられましたが、その起源はロマネスク様式 - ムデハル様式だった12世紀に遡ります。
今は何に使われているのか、調べてもよくわかりませんでした。 -
今度は、サンタ・ルシアの庵の横の脇道ヴィクトリア通りを進みましょう。暫く行くと見えて来たこちらの建物。派手なファサードが特徴的です。これも歴史的建造物なのでしょうが、現在はアルカラ・デ・エナーレス市の高齢者部門、つまり市役所の高齢者課が入る建物でした。役所には絶対見えませんね。
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最後はヴィクトリア広場に立つこちらのアルカラ大学関連施設、博物館などが入った建物の前で、アルカラ・デ・エナーレス探訪は終わっています。下調べしなかった割には、満足できる街歩きとなりました。時刻は18時47分。正味2時間弱しか滞在しなかったんだなあ・・・
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この後、実は忘れられない続きがあります。駅まで歩くのはしんどいと思い、やってきたバスにレンフェ(スペイン国鉄)の駅に行くことを確かめてからバスに乗車したのですが、なんと、着いたのは一つマドリッド寄りのLa Garena と言う駅でした。反対方向に乗っちゃったんですね。
実はマドリッド市内から行きに乗車する際往復乗車券を購入したのです。セルカニアス(近郊列車)の駅は日本と同じように改札口があり、自動化されているのですが、La Garenaの駅で改札口を通ろうとしたら、帰りの乗車券がシャットアウトを食らいました! 殆ど無人でオート化されている駅で、駅員を探して事情を説明するのにめっちゃ苦労しました。こういう時には日本語の方が通じると思い、身振り手ぶりのオンパレード。今思い出しても笑っちゃいます。
日本だったら、区間内であれば切符は自動改札で通れると思うのですが、スペインではNGでした。
話は更に脱線しますがこの後、2016年の秋、ロシアのモスクワで、事情があって自動改札に拒否された時は、人の後にぴったりついて、まさかの自動改札強行突破をしてしまいました。言葉が通じないところで万事休す となった時に使う、最後の手段でした。よくやるよ…と言われそう。こちらについてはまた改めてロシア編で書きますからね。
黒い実がたくさんついた美しい紫の花の写真で、アルカラ・デ・エナーレス終了です。マドリッド滞在は今日で終了で、明日は北へ向かいます。この続きは、な~んちゃって、コンポステーラへの道 その10 ブルゴスで!
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