2019/02/13 - 2019/02/13
1630位(同エリア4165件中)
杏仁豆腐さん
アンヂェラスが閉店する前に訪問しました。
https://4travel.jp/travelogue/11457783
その後、リスボンで昼食。
浅草寺にお参りする前に、石碑などを見て回りました。
浅草寺境内には、数多くの石碑があります。一つ一つ見て回るのも面白いものです。
浅草は、中国からの観光客と修学旅行や社会科見学の中高生でごった返していました。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 私鉄
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リスボンでランチです。
六区にある洋食屋です。
昭和7年創業。 -
メニュー
池波正太郎ゆかりの店です。 -
老舗洋食屋ですが、値段はリーズナブルです。
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オムライスをいただきました。
ケチャップ味の昔ながらの味わいです。 -
素朴な美味しさです。
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妻はグラタンをいただきました。
熱々の状態でテーブルに運ばれてきました。 -
店内はそれほど混んではいなかったので、ゆっくりと食事ができました。
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浅草寺に向かいます。
境内には石碑や像が並んでいます。
瓜生岩子女子の銅像。 -
岩子は通称。正しくは「岩」という。文政十二年(一八二九)二月十五日、岩代耶麻郡(現福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生まれたが、九歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。十四歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津若松藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引の防止に関心を持つに至る。十七歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力した他、堕胎など、当時のさまざまな悪習を正し、明治二十二年貧民孤児九歳のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
明治三十年四月十九日、福島で没す。享年六十九。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同三十四年四月、篤志家によって浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石に正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。 -
三匠句碑(さんしょうくひ)
ながむとて花にもいたし頚の骨 宗因
花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉
ゆく水や何にとどまるのりの味 其角
碑は、文化六年(一八〇九)の建立。台石には明治二十七年春(一八九四)の移築の由来が記されています。 -
正岡子規の句碑。
「観音で 雨に逢ひけり 花盛」 -
力石
力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。 -
梅の花も咲き始めていました。
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半七塚
捕り物小説の生みの親である岡本綺堂を記念して建立されました。 -
戸田茂睡墓(とだもすいはか)
江戸時代の歌人。はじめ戸田茂睡と称し、のち渡辺氏に改姓した。名は恭光、通称は八兵衛、梨本庵または露寒軒と号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第六子として、寛永六年(一六二九)五月十九日に生まれた。伯父戸田藤右衛門に養われ、後、木戸忠国に仕えて三百石を給されていた。延宝年間の末辞任し浅草寺の近くに居を構え、『梨本集』を編纂し和歌の制の乱れを正し、世に詠歌の派を立てた。宝永三年(一七〇六)四月十四日、年七十八で歿した。『紫の一本』『若紫』『隠家百首』などの著書がある。なお
塵の世と思う心の積もりては
身の隠れかの山となりける
と詠み、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。 -
青蛙神塚
青蛙神(せいあじん)は、中国の妖怪です。 -
蝦蟇仙人が従えている三本足の蟾蜍(ヒキガエル)の霊獣とされています。
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群育撫象
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映画弁士塚
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石井漠「山を登る」記念碑
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胎内くぐりの灯籠
この石灯籠は「胎内くぎりの灯籠」として江戸時代から有名であったもので、」この灯籠の下をくぐることで、子供の虫封じや疱瘡のおまじないとなるとされている。 -
1770年造立の天水桶。
太平洋戦争中の昭和18年、浅草寺本尊の聖観音菩薩像をこの桶に納めて地中に埋め戦禍から守ったそうです。 -
淡島堂
毎年2月8日に針供養会が行われます。
折れたり古くなった裁縫針を持参したり、近くの病院の看護師さんたちが注射針を持参して供養に来るそうです。 -
針供養之塔
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浅草大平和塔
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建設趣意書
思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、 一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
以て瞑せられよ。
昭和三十八年八月十五日
浅草大平和塔維持会 -
戦災供養地蔵尊
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写経供養塔
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橋本薬師堂
当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれました。慶安二年(一六四九)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀にかかる橋のかたわらにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けられました。平成六年、現在の場所に移転。
薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されています。 -
一言不動尊
願い事を一つだけお祈りすると必ず成就すると言われています。1725年建立。 -
銅造阿弥陀如来坐像
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金龍権現と九頭龍権現
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仏頂尊勝陀羅尼碑
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六地蔵石燈籠
影向堂の前に立つ石燈籠です。高さ180 ㎝余りで、六角形の火袋の各面に地蔵像が彫ってあります。しかし、現在では地蔵像も文字もほとんど風化し、火災に遭っていることもあり、判読できません。
もとは雷門の東方の吾妻橋のたもとにありました。そのため、辺りの隅田川べりは「六地蔵河岸」と呼ばれていたそうです。明治23 年(1890)、道路拡幅などの区画整理に伴い現在地に移転するまで、棹石の下半分は土に埋まっていました。現在では、屋根付きの建物内で保護されています。 -
影向堂(ようごうどう)
平成6年(1994)に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕1200年を記念して建立されました。
影向とは、神仏が姿かたちとなって現れることである。浅草寺では、観世音菩薩のお説法やご活躍に不断に協力されている仏さまを「影向衆」と呼び、影向堂に生れ年(干支)ごとの守り本尊八体(影向衆)を祀っています。堂内は内陣と外陣に分かれ、内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、その左右に千手観音、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、大日如来、不動明王、阿弥陀如来を祀ってあります。 -
三峰社
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日限地蔵尊
この地蔵菩薩は慈悲の心で、この娑婆世界だけでなく、地獄や餓鬼道におもむき、衆生を救われる仏さまだそうです。特にこの日限地蔵尊さまは、何かのお願い事に対して、日数を定めて祈願すれば古来より霊験があるとされています。 -
三尊名号供養塔
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西仏板碑
建立者の西仏については明らかではないが、この板碑は彼が妻子の後世安楽を祈って建立したものと推測される。建立の年代も不詳であるが、鎌倉末から室町初期かと思われる。
上部が破損しているが、製作時には三メートル近くあったものとお漏れる。寛保二年(一七四二)暴風雨によって倒れ破損、文化十一年(一八一四)に有志が側柱を立てて支えたという。材質は秩父粘板岩(青石)。
現存の板碑の大きさは高さ二一七・九センチメートル、幅四八・〇センチメートル、厚さ四・七センチメートル。
中世の信仰を知るうえでも貴重な遺品であり、かつ巨大板碑の典型例である。 -
石橋
現存する都内最古とされるこの石橋は、元和4年(1618)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)である。
この石橋は昭和23年(1948)、文部省より重要美術品に認定されている。 -
滝もあります。
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銅造宝篋印塔
宝暦11年(1761)、浅草寺信徒1,000人によって建立され、明治40年(1907)に改修再建されたものです。 -
銅造阿弥陀如来坐像
1693年の建立になる青銅製の阿弥陀如来像で、総高は7.5m。 -
一通り見たので、いよいよ本堂でお参り。
仲見世通りは、観光客でぎっしりでした。
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