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「300年祭は見せ掛けのはりぼてだ」というフレーズが、各国首脳陣が到着する5月30日の朝、市街中心部のあちこちの雨どいに、型抜きステンシルを使って赤いペンキで書かれているのが発見された。私は子どもを幼稚園に送って行く時に見かけたのだが、前夜にはなかった。そして、幼稚園にお迎えに行く時には、もう消されていた。短い命の落書きだったが、これこそ地元住人の感情を代言した名フレーズだった。<br /><br /> 今回の祭典の主役は、なんと言っても軍人と警察官だった。文人は主役になれない。この点、ソ連時代から何も変わってはいない。メインイベントであるネフスキー大通りのパレードは、なんと各国の軍隊の行進だったし、5月27日から31日まで、ネフスキー大通りからワシーリエフ島のネヴァ河沿いの通り、及びVIPが通る予定の道路の両側には、まさに5メートル置きに警官が並び(このため8000人の警官がロシア各地からペテルブルグに集められた!)、勝手に道路を横断しようものなら、すぐに撃たれるのではないか、という恐ろしい雰囲気が漂っていた。事実、ネフスキー大通りの両側に長々とロープが張られていた日もあったし、事前に(故意に)流布されていた噂では、通りの両側の建物の随所にスナイパー(狙撃手)が配置されているから気をつけろ、ということであった。<br /><br />私は、市内のど真ん中、モスクワ駅の前に住んでいる。ネフスキー大通りを渡らないと幼稚園にも行けないし、何の用も足せないから実に迷惑だったが、そのかわり300周年の様子がよく分かった。モスクワ駅前から、浮浪者、売春婦、ジプシーがことごとく消えた。遠く離れた農村へ強制的に連れていかれたらしい。モスクワオリンピックの時と同じだ。各商店、カフェ、レストランなどは、ショーウインドウに300周年のステッカーと、ペテルブルグの紋章を張ることを義務付けられ、幼稚園ですら、3月の時点で、子どものロッカーの扉に今まで貼ってあった子どもの顔写真をはがして、「マヨネーズのプラスチック容器の蓋に、ペテルブルグの風景写真をはめ込んで、その風景に子供の顔をモンタージュして入れること」という通達が来た。どこから?<br /><br />もちろんお上から。普段はプラスチック容器のマヨネーズを買わない私も買うことになり、このような通達が市内全ての幼稚園に出たのであれば、市当局はマヨネーズ業者と組んでいると思われても仕方ないのでは、という考えすら浮かんだ。「お絵かき」の時間にペトロパブロフスク要塞などを描かされたのは言うまでもない。5月27日以降は、市内各所で、汚ならしいがサイズだけはめちゃくちゃ大きいダンプカーが道路に対して90度の角度で停車していた。これは何かと言うと、交通規制なのである。もう少し見た目にも美しいやり方で交通規制できないものか、、、と考える人は、300周年実行委員会の中には一人もいなかったようだ。芸術都市では、そんなことは重要ではないのだ。重要なのは、300周年を利用していかに金もうけをするか、の一言に尽きるのだ。<br /><br /> 一番儲かったのは、建設関係者と、その資材を扱う業者だろう。歴史的建造物や、道路、橋の修理はすさまじかった。日本の3月どころではない。住民の8割が建設業者だったのか、、と思うほど大量の職人が、物凄いスピードで、次々と建物の外壁を修理、塗り替えし(建物の中は頼んでも修理してくれないのに)、一番乗りで去年のうちに修理を終えた橋(夏の庭園からフォンタンカをはさんでペステリ通りにかかる)は、300年祭の前にはもうサビサビで、修理前よりひどい状態になっていた。これと同じで、今キラキラに輝いている市内は、もうしばらくすると、ペンキが剥げ落ち、目も当てられないゴーストタウン状態になるだろうという意見もある。何しろ準備期間が短すぎた。最後の6ヶ月で市内を作りかえた、という感がある。モスクワオリンピックの準備には8年を費やしたと言うが。<br /><br /> 次に儲けたのは、300年祭の予算で行われた様々なイベントに関係した人である。一つ例をあげると、グリエール作曲のペテルブルグ市の歌(モスクワ駅から列車が発車する時に流れるあのメロデイーです)に歌詞をつける賞金コンクールがあり、一般公募された。蓋を開けてみると、賞金を獲得したのは一般人ではなく、ロシア作家同盟の男性で、審査員の一人が「一般人がプロにかなうわけないでしょ」と言ったことが物議をかもした。じゃあなんで一般公募したんだ?  それでも歌詞が素晴らしかったならば市民も納得しただろうが、その歌詞が全文新聞に掲載された折には、『声に出して朗読してみて下さい』と、皮肉たっぷりの注意書きがついていた。<br /><br /> 私の身近なところでは、ペテルブルグをテーマにしたテレビ放映用映画100本分の撮影予算が出た。これもコンクールで、「撮らないか」という話がうちにも来た。何を撮るか考えているうちに、コンクール実行委員たちがコンピューターだのカメラだのの機材を購入して予算を使い果たした、という知らせが届いた。映画は一本も見ていない。手際の悪さも目についた。5月27日のメインイベント、エルミタージュ美術館の24時間営業とネヴァ川上空でのヒロヤマガタのレーザーショーはすごかった。前宣伝が派手で、パリのポンピドウセンターで行われたレーザーショーの様子がマスコミで報道され、こんな素晴らしい物がペテルで見られるのか!と市民が大挙して宮殿橋方面に押し掛けたが、そこで目にしたのは緑色のヒョロヒョロのレーザーが空中をぐるぐる回っているだけ、という図で、ロシア人いわく「あんなのそこら辺のコンサート会場でいつでも見られる」。<br /><br />翌日のニュースではこの大失敗を『風が強くて、レーザーを投影するはずのスモークが散ってしまった』と説明していたが、「ネヴァ川上空に風が吹いてない時なんてないよ。それぐらい計算しとけ」といった声は、日本人留学生の間にも聞かれた。しかもレーザーショーは夜中の1時を超えていたのだが、地下鉄はいつも通り12時過ぎにはクローズしてしまい、大量の市民が宮殿広場近くでビールを飲みながら夜を明かすことになった。しかしそこにはトイレもゴミ箱もなかった。。。あな恐ろしや。<br /><br /> そして行われるはずだったエルミタージュの終日営業はといえば、長蛇の列にもかかわらず、実現しなかった。その理由は、報道によると『レーザーショーのプログラムの中に、エルミタージュの壁面に絵を投影するものがあり、エルミタージュに明かりがこうこうと灯っていては絵が映らないので、エルミタージュの電気を消した』。もちろんショーは、「ピオトロフスキイを出せ(注/エルミタージュの館長の名前です)!このやろー!」という怒号で幕が下りた。<br /><br />しかし立ち直りの早いロシア人は、翌日には「昨日のショーは、31日のショーの予行演習だったのさ」と人生をユーモアで乗り切る術を見せてくれたが、31日のショーは、VIPのためのものとなり、一般の見物客は周辺に近付くことすら許されなかった。『庶民は家に帰ってテレビで生中継でも見てろ』ということらしい。テレビを見ていた私が、『今度のショーは何とかうまくいったな』と思った瞬間、ショーの準備に関わった人の名前がマイクで高らかに紹介されはじめた。音響さんや照明さんのような裏方さんの名前も英雄のように紹介され、そのスタイルは私に、ソ連時代の再来かと思わせた。テレビを一緒に見ていた主人(ロシア人)は、「これは生中継ではないかも」とまで言い出した。「あらかじめ準備してあったきれいな映像を流したのさ」「まさか!」「ソ連時代にはいつも使われた手さ」。<br /><br /> 次に、100周年と200周年はどうやって祝われたのか、古い新聞から少し抜粋してみよう。100周年である1803年には、祝典はこの街を作った偉大なる人物に捧げられ、元老院広場の彼の馬上像の周りには 2万もの部隊が集まり、近衛軍が祝賀行進し、大帝像の前では敬礼として旗を傾けた。パレードの総指揮者は皇帝アレクサンドル。ここから祝賀行進はペトロペトロパブロフスク寺院へと移動し、市民から進呈された100周年記念の大きなメダルがピョートルの墓前に供えられた。メダルには、月桂冠をつけたピョートルの横顔が彫られており、『感謝の念に満ちた子孫より』の文字が見える。『ロシア海軍の祖父』という名で有名な、ピョートル大帝の小ボートの存在も忘れられはしなかった。<br /><br />ネヴァ川の、ちょうどこのピョートル像の正面に、110の大砲を擁する『大天使ガブリエル号』が繋留され、小ボートはその船の甲板に引き上げられた。ボートのわきにはピョートルと同時代を生きた100才になる老人4人が番兵として配置された。そのうちの一人、ピョートル時代には海軍将校だった老人は、大帝のことをよく覚えている。もう一人は、ピョートルがペテルゴフ近郊の沼地を測量に出かけた時に測量竿を持ってお供したという。この老人はその時ツァーリにもらった銀のルーブル硬貨を宝のようにしまっている。ピョートル像も彼の小屋も、夏の庭園の中にある宮殿も旗で飾られ、夜にはかがり火で照らされた。100才になった街全体が多彩に飾り付けられた。<br /><br /> 神への感謝をこめた祈祷式の場所には、大理石の聖イサク寺院が選ばれた。近衛兵の3部隊が宮殿広場からイサク広場まで3列横隊に整列して立っていた。元老院議員たちは金で縫われた晴れの制服に身を包んで元老院からイサク寺院の中へと歩んだ。そのあとをロシアの将官階級、ヨーロッパ強国からの大臣達が続いた。僧侶達は特別高価な袈裟を着けて儀式をとり行った。皇帝アレクサンドルとマリーヤ=フョードロヴナが寺院に到着なさると、神への感謝を捧げる祈祷がはじめられた。歌が長寿の文句にさしかかったころ、要塞と船舶から祝砲が轟き、それは地を揺るがし、水を波立たせた。それに続いた鉄砲とピストルの発砲は、遠くで鳴る雷にも似ていた。。。<br /><br /> 200周年である1903年5月15日には、市当局は地方長官や外国からの賓客を『ポンス酒』でもてなした。これが200周年の祝典の開幕である。夜9時過ぎ、内務大臣フォンプレーベが到着すると、乾杯が始まった。最初の乾杯は、『皇帝ニコライ二世の御健康を祝して』、と告げられると、感極まった「ウラー!」の大合唱。2杯目の乾杯が『皇后様とお世継ぎ様、そして皇帝御一家のために』と告げられると、「ウラー!」の大音響。そのあとプレーベが『サンクトペテルブルグの発展のために』杯を高く持ち上げると、雷鳴のような『ウラー!』。それに続いて市長のレリャノフが長い演説をし、その最後に『御来賓の方々の御健康を祝し、また皆様方の地元の行政の発展を願って』杯を飲み干します、とロシア語で告げると、それは熱狂的に受け入れられ、レリャノフが同じことを今度はフランス語で繰り返すと、またもや感激の叫び声。市長が『内務大臣フォンプレーベの健康を祝して』乾杯を告げると、それはそれは長い間『ウラー!』が鳴り止まなかった。。。<br /><br /> 翌朝5月16日の11時にはトロイツキー橋の跳ね上がった場所に、賓客が集合した。11時きっかりに皇帝、皇后夫妻がオープン馬車に乗って現われると、僧侶達が神への感謝の儀式を始めた。祈祷が終わると、皇帝ニコライは橋の開く部分へ近付き、自らボタンを押され、橋を下ろしはじめた。6分が経過しようかという頃、橋はつながった。橋には青、赤、白の絹のリボンがかかっていた。マリーヤ-フョードロヴナ様とアレクサンドラフョードロヴナ様のお二人が、はさみでテープをカットされ、トロイツキー橋は開通した。11時30分のことだった。そのあと、十字架や聖幡を手にした十字架行進が、この新しい橋を渡った。主教様は橋を渡りながら、聖水をふりかけ、祝福した。。。<br /><br /> さて、400周年を迎える時には、今回の祝典はどのように映るでしょうか。『プーチンと同時代を生きた120歳の老人5人』は何を語ってくれるでしょうか。

ペテルブルグ300年祭によせて

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2003/05/30 - 2003/05/30

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JIC旅行センター

JIC旅行センターさん

「300年祭は見せ掛けのはりぼてだ」というフレーズが、各国首脳陣が到着する5月30日の朝、市街中心部のあちこちの雨どいに、型抜きステンシルを使って赤いペンキで書かれているのが発見された。私は子どもを幼稚園に送って行く時に見かけたのだが、前夜にはなかった。そして、幼稚園にお迎えに行く時には、もう消されていた。短い命の落書きだったが、これこそ地元住人の感情を代言した名フレーズだった。

 今回の祭典の主役は、なんと言っても軍人と警察官だった。文人は主役になれない。この点、ソ連時代から何も変わってはいない。メインイベントであるネフスキー大通りのパレードは、なんと各国の軍隊の行進だったし、5月27日から31日まで、ネフスキー大通りからワシーリエフ島のネヴァ河沿いの通り、及びVIPが通る予定の道路の両側には、まさに5メートル置きに警官が並び(このため8000人の警官がロシア各地からペテルブルグに集められた!)、勝手に道路を横断しようものなら、すぐに撃たれるのではないか、という恐ろしい雰囲気が漂っていた。事実、ネフスキー大通りの両側に長々とロープが張られていた日もあったし、事前に(故意に)流布されていた噂では、通りの両側の建物の随所にスナイパー(狙撃手)が配置されているから気をつけろ、ということであった。

私は、市内のど真ん中、モスクワ駅の前に住んでいる。ネフスキー大通りを渡らないと幼稚園にも行けないし、何の用も足せないから実に迷惑だったが、そのかわり300周年の様子がよく分かった。モスクワ駅前から、浮浪者、売春婦、ジプシーがことごとく消えた。遠く離れた農村へ強制的に連れていかれたらしい。モスクワオリンピックの時と同じだ。各商店、カフェ、レストランなどは、ショーウインドウに300周年のステッカーと、ペテルブルグの紋章を張ることを義務付けられ、幼稚園ですら、3月の時点で、子どものロッカーの扉に今まで貼ってあった子どもの顔写真をはがして、「マヨネーズのプラスチック容器の蓋に、ペテルブルグの風景写真をはめ込んで、その風景に子供の顔をモンタージュして入れること」という通達が来た。どこから?

もちろんお上から。普段はプラスチック容器のマヨネーズを買わない私も買うことになり、このような通達が市内全ての幼稚園に出たのであれば、市当局はマヨネーズ業者と組んでいると思われても仕方ないのでは、という考えすら浮かんだ。「お絵かき」の時間にペトロパブロフスク要塞などを描かされたのは言うまでもない。5月27日以降は、市内各所で、汚ならしいがサイズだけはめちゃくちゃ大きいダンプカーが道路に対して90度の角度で停車していた。これは何かと言うと、交通規制なのである。もう少し見た目にも美しいやり方で交通規制できないものか、、、と考える人は、300周年実行委員会の中には一人もいなかったようだ。芸術都市では、そんなことは重要ではないのだ。重要なのは、300周年を利用していかに金もうけをするか、の一言に尽きるのだ。

 一番儲かったのは、建設関係者と、その資材を扱う業者だろう。歴史的建造物や、道路、橋の修理はすさまじかった。日本の3月どころではない。住民の8割が建設業者だったのか、、と思うほど大量の職人が、物凄いスピードで、次々と建物の外壁を修理、塗り替えし(建物の中は頼んでも修理してくれないのに)、一番乗りで去年のうちに修理を終えた橋(夏の庭園からフォンタンカをはさんでペステリ通りにかかる)は、300年祭の前にはもうサビサビで、修理前よりひどい状態になっていた。これと同じで、今キラキラに輝いている市内は、もうしばらくすると、ペンキが剥げ落ち、目も当てられないゴーストタウン状態になるだろうという意見もある。何しろ準備期間が短すぎた。最後の6ヶ月で市内を作りかえた、という感がある。モスクワオリンピックの準備には8年を費やしたと言うが。

 次に儲けたのは、300年祭の予算で行われた様々なイベントに関係した人である。一つ例をあげると、グリエール作曲のペテルブルグ市の歌(モスクワ駅から列車が発車する時に流れるあのメロデイーです)に歌詞をつける賞金コンクールがあり、一般公募された。蓋を開けてみると、賞金を獲得したのは一般人ではなく、ロシア作家同盟の男性で、審査員の一人が「一般人がプロにかなうわけないでしょ」と言ったことが物議をかもした。じゃあなんで一般公募したんだ? それでも歌詞が素晴らしかったならば市民も納得しただろうが、その歌詞が全文新聞に掲載された折には、『声に出して朗読してみて下さい』と、皮肉たっぷりの注意書きがついていた。

 私の身近なところでは、ペテルブルグをテーマにしたテレビ放映用映画100本分の撮影予算が出た。これもコンクールで、「撮らないか」という話がうちにも来た。何を撮るか考えているうちに、コンクール実行委員たちがコンピューターだのカメラだのの機材を購入して予算を使い果たした、という知らせが届いた。映画は一本も見ていない。手際の悪さも目についた。5月27日のメインイベント、エルミタージュ美術館の24時間営業とネヴァ川上空でのヒロヤマガタのレーザーショーはすごかった。前宣伝が派手で、パリのポンピドウセンターで行われたレーザーショーの様子がマスコミで報道され、こんな素晴らしい物がペテルで見られるのか!と市民が大挙して宮殿橋方面に押し掛けたが、そこで目にしたのは緑色のヒョロヒョロのレーザーが空中をぐるぐる回っているだけ、という図で、ロシア人いわく「あんなのそこら辺のコンサート会場でいつでも見られる」。

翌日のニュースではこの大失敗を『風が強くて、レーザーを投影するはずのスモークが散ってしまった』と説明していたが、「ネヴァ川上空に風が吹いてない時なんてないよ。それぐらい計算しとけ」といった声は、日本人留学生の間にも聞かれた。しかもレーザーショーは夜中の1時を超えていたのだが、地下鉄はいつも通り12時過ぎにはクローズしてしまい、大量の市民が宮殿広場近くでビールを飲みながら夜を明かすことになった。しかしそこにはトイレもゴミ箱もなかった。。。あな恐ろしや。

 そして行われるはずだったエルミタージュの終日営業はといえば、長蛇の列にもかかわらず、実現しなかった。その理由は、報道によると『レーザーショーのプログラムの中に、エルミタージュの壁面に絵を投影するものがあり、エルミタージュに明かりがこうこうと灯っていては絵が映らないので、エルミタージュの電気を消した』。もちろんショーは、「ピオトロフスキイを出せ(注/エルミタージュの館長の名前です)!このやろー!」という怒号で幕が下りた。

しかし立ち直りの早いロシア人は、翌日には「昨日のショーは、31日のショーの予行演習だったのさ」と人生をユーモアで乗り切る術を見せてくれたが、31日のショーは、VIPのためのものとなり、一般の見物客は周辺に近付くことすら許されなかった。『庶民は家に帰ってテレビで生中継でも見てろ』ということらしい。テレビを見ていた私が、『今度のショーは何とかうまくいったな』と思った瞬間、ショーの準備に関わった人の名前がマイクで高らかに紹介されはじめた。音響さんや照明さんのような裏方さんの名前も英雄のように紹介され、そのスタイルは私に、ソ連時代の再来かと思わせた。テレビを一緒に見ていた主人(ロシア人)は、「これは生中継ではないかも」とまで言い出した。「あらかじめ準備してあったきれいな映像を流したのさ」「まさか!」「ソ連時代にはいつも使われた手さ」。

 次に、100周年と200周年はどうやって祝われたのか、古い新聞から少し抜粋してみよう。100周年である1803年には、祝典はこの街を作った偉大なる人物に捧げられ、元老院広場の彼の馬上像の周りには 2万もの部隊が集まり、近衛軍が祝賀行進し、大帝像の前では敬礼として旗を傾けた。パレードの総指揮者は皇帝アレクサンドル。ここから祝賀行進はペトロペトロパブロフスク寺院へと移動し、市民から進呈された100周年記念の大きなメダルがピョートルの墓前に供えられた。メダルには、月桂冠をつけたピョートルの横顔が彫られており、『感謝の念に満ちた子孫より』の文字が見える。『ロシア海軍の祖父』という名で有名な、ピョートル大帝の小ボートの存在も忘れられはしなかった。

ネヴァ川の、ちょうどこのピョートル像の正面に、110の大砲を擁する『大天使ガブリエル号』が繋留され、小ボートはその船の甲板に引き上げられた。ボートのわきにはピョートルと同時代を生きた100才になる老人4人が番兵として配置された。そのうちの一人、ピョートル時代には海軍将校だった老人は、大帝のことをよく覚えている。もう一人は、ピョートルがペテルゴフ近郊の沼地を測量に出かけた時に測量竿を持ってお供したという。この老人はその時ツァーリにもらった銀のルーブル硬貨を宝のようにしまっている。ピョートル像も彼の小屋も、夏の庭園の中にある宮殿も旗で飾られ、夜にはかがり火で照らされた。100才になった街全体が多彩に飾り付けられた。

 神への感謝をこめた祈祷式の場所には、大理石の聖イサク寺院が選ばれた。近衛兵の3部隊が宮殿広場からイサク広場まで3列横隊に整列して立っていた。元老院議員たちは金で縫われた晴れの制服に身を包んで元老院からイサク寺院の中へと歩んだ。そのあとをロシアの将官階級、ヨーロッパ強国からの大臣達が続いた。僧侶達は特別高価な袈裟を着けて儀式をとり行った。皇帝アレクサンドルとマリーヤ=フョードロヴナが寺院に到着なさると、神への感謝を捧げる祈祷がはじめられた。歌が長寿の文句にさしかかったころ、要塞と船舶から祝砲が轟き、それは地を揺るがし、水を波立たせた。それに続いた鉄砲とピストルの発砲は、遠くで鳴る雷にも似ていた。。。

 200周年である1903年5月15日には、市当局は地方長官や外国からの賓客を『ポンス酒』でもてなした。これが200周年の祝典の開幕である。夜9時過ぎ、内務大臣フォンプレーベが到着すると、乾杯が始まった。最初の乾杯は、『皇帝ニコライ二世の御健康を祝して』、と告げられると、感極まった「ウラー!」の大合唱。2杯目の乾杯が『皇后様とお世継ぎ様、そして皇帝御一家のために』と告げられると、「ウラー!」の大音響。そのあとプレーベが『サンクトペテルブルグの発展のために』杯を高く持ち上げると、雷鳴のような『ウラー!』。それに続いて市長のレリャノフが長い演説をし、その最後に『御来賓の方々の御健康を祝し、また皆様方の地元の行政の発展を願って』杯を飲み干します、とロシア語で告げると、それは熱狂的に受け入れられ、レリャノフが同じことを今度はフランス語で繰り返すと、またもや感激の叫び声。市長が『内務大臣フォンプレーベの健康を祝して』乾杯を告げると、それはそれは長い間『ウラー!』が鳴り止まなかった。。。

 翌朝5月16日の11時にはトロイツキー橋の跳ね上がった場所に、賓客が集合した。11時きっかりに皇帝、皇后夫妻がオープン馬車に乗って現われると、僧侶達が神への感謝の儀式を始めた。祈祷が終わると、皇帝ニコライは橋の開く部分へ近付き、自らボタンを押され、橋を下ろしはじめた。6分が経過しようかという頃、橋はつながった。橋には青、赤、白の絹のリボンがかかっていた。マリーヤ-フョードロヴナ様とアレクサンドラフョードロヴナ様のお二人が、はさみでテープをカットされ、トロイツキー橋は開通した。11時30分のことだった。そのあと、十字架や聖幡を手にした十字架行進が、この新しい橋を渡った。主教様は橋を渡りながら、聖水をふりかけ、祝福した。。。

 さて、400周年を迎える時には、今回の祝典はどのように映るでしょうか。『プーチンと同時代を生きた120歳の老人5人』は何を語ってくれるでしょうか。

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